『箱男』



箱男とは文字通り、箱をすっぽりとかぶって生活をする人間のことである。
この本の冒頭で、ご丁寧なことに箱の作り方が解説されており、お望みとあらば、その日からでも箱男になることができる。
ここでのポイントはできるだけどこにでもありふれたダンボールで『箱』を製作することである。
そう、だれからも注目されないように。

箱男で電車男だとあまりにベタなんだけど、電車男はブログから生まれてきている。
ブログでは、本名を使う人はいないことはないと思うけど、ほとんどの人は偽名で参加する。
そこに匿名性が生み出される。
この箱男のひとつの大きな特徴も匿名性である。
ただし、ネット上の匿名性と箱男の匿名性には大きな違いがある。
ネットの参加者はリアルな社会での素性は明かされないものの、社会の内側に存在する。
箱男のは『社会』の外に出て得た匿名性だ。
だからネットの参加者にはアイデンティティがあるが、箱男にはない。
(正確には対自的なアイデンティティがないというべきか)

この箱男の匿名性は、「見る・見られる」の関係を崩壊させる。
そう、箱をかぶることでまるで透明人間になってしまったかのように社会から無視される。
見ていることを気づかれずに覗く快感。
日常で例えばすれ違いざまに相手の目をじっと見たならば、見られた相手はあからさまに不快感を示すだろう。
でも、箱男は相手に気づかれることなく一方的に覗くことができる。
それだけに、相手が箱男に気づいたとき、覗くという行為が箱男にとって唯一の攻撃手段ともなる。
まるで覗き窓から突き出された空気銃で撃たれたかのようなダメージを相手に与えることさえできる。

一方、即自的に考えてみたときに、箱の中ではすべてのことが可能となる。
本物は偽者となり、ぼくは父親になる。
裸のぼくと裸の彼女は至近距離で抱き合い、そうかと思えば彼女は扉の向こうで裸のぼくを視姦する。
郵便ポストの中で、幾重にも箱男の『落書』が終わることなく書き続けられてゆく。
この即自的な世界は、対自的、すなわち社会的にはまったく意味を持たない。
死すら匿名性を帯びてくる。

この物語のもうひとつの大きな特徴として、この物語は箱男の記録という形をとっていることだ。
つまり、ここに描かれている世界は箱男の即自的な世界なのだ。
だからいろいろなことが同時多発的に勃発し存在する。
匿名性の強い『箱』に埋没させたい人間のさまざまな欲望や本章が描かれてゆく。
ところが描かれることによって『落書』は実在へと昇華する。
あるいは箱男的には落ちていく。
それゆえに箱の中では未来の出来事も過去形で語られる。
ここに即自的にせよ、箱男の人間としてのすべての尊厳がこめられる。

安部はこの物語の中で問いかける。
だれが『箱男』でないのだろうか?
だれもが箱男なのではないのだろうか。
いや、だれもが本物と偽者の箱男を内在させているのではなかろうか。
そのギャップに苦しむとき、本物は偽者に撃ち殺される。
あるいはその逆もありえる。
そうなれれば、もしかしたら幸せなのかもしれない。
むしろ、足元の闇に飛び込む勇気が持てずに、対自と即自のダブルバインドに苦しむほうがよっぽど辛いだろう。。

追記

それはそうと、ぼくは安部公房の小説を読むとそのラディカルさゆえに村上春樹を思い出す。
『壁』を読んだときは村上春樹は安部公房の弟子かと思ったくらいだ。
しかし、今はちょっと考えが変わってきている。
村上春樹の小説の根底に流れている思想は、『海辺のカフカ』で「関係こそすべて」といっているように、実存主義の影響を大きく受けている。
それに対して安部公房は浅田彰が指摘するよう、アフォリズムの要素が強い。
とはいっても、カフカほど広大ではない。
カフカは即自的な世界観を対自的な世界に押し付ける。
そこに『絶対的な』システムが登場人物の意思に関係なく存在する。
一方、安部のシステムはもっとこじんまりとしている。
こじんまりとしているだけに、より身近な問題として自分に照らし合わせて解釈することが可能である。
そう考えると、安部公房の小説は村上春樹とカフカの両方の要素を備えた物語だということができる。
とくにこの『箱男』ではそれが顕著に現れている。
実存する『箱』と、ラディカルに進行する『箱の中』の世界。
この相反する二つの世界観が箱という媒介によって見事に同時に存在するものとして描かれていると思う。


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