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2月3日は節分。この日、豆撒きをし、恵方巻を食する、そんな慣習に何の疑問を持つことなく、過ごしてきた。そしてふと、「何故、この日、"福は内、鬼は外"なのか?」と、自問してみると、恥ずかしながら、その由縁さえも分かっていない、いや忘れてしまっている、自分に気付くのである。
そのきっかけは、季節を表現する和菓子であった。それは、とあるブログに、"きんとん"で赤鬼を表現した和菓子の写真を見てのこと。そしてまた、その数日後、お茶の稽古で、豆撒き用の枡が表現された和菓子を見てのこと。そこで、「なぜ節分に豆撒きを?」と、遠い子供の時分、当然、親に尋ねたであろうことを、既に当時の親の年齢を越えた今、自身に問うたわけである。
しかし、そんな何気ない慣習に、「はて?」と、目を向けさせてくれたのも、季節感を敏感に表現する茶の湯の世界に身を置くようになってのことだろう。お茶の稽古において、節分の和菓子について話を切り出すうち、京都の吉田神社と壬生寺(みぶでら)が節分祭で有名であることを師匠より聞かされる。因みに、吉田神社は京の都の表鬼門にあたり、壬生寺は裏鬼門にあたるらしい。
壬生寺と言えば、新撰組ゆかりの寺であり、壬生狂言でも知られるところである。そして、その狂言が節分祭(節分会)にも行われるという。また、もう一つの吉田神社においては、河道屋(かわみちや)の年越し蕎麦が名物であることを聞かされる。と、そこで初めて、節分ゆえに蕎麦であることを意識させられたわけである。
そして、立春、立夏、立秋、立冬は、二十四節気の一つ。その言葉は、たまに耳にするものだが、1年を12の"中気"と12の"節気"に分類し、それぞれに季節を表す名前をつけたもの。その中で、4つの季節の始まりにあたるのが、立春、立夏、立秋、立冬ということになるわけである。
そこで、1年の始まりを立春とすると、節分は謂わば、大晦日でもあり、それゆえに年越し蕎麦ということになるわけである。それゆえに、12月31日が、西暦の上での大晦日であっても、2月3日は季節の変わり目としての大晦日とでも言えようか。そういう理解無しに、「うどんは無いですか?」などと、"のれん"をくぐって尋ねようものなら、軽蔑されること請け合いである。
以上、節分や立春について真面目に語るのも、いかに日常生活の中で、それら本来の意味が埋れてしまっていたか、象徴するようなものである。思い出せば、『茶摘み』に歌われる八十八夜も、その起算日は立春。さらには二百十日や二百二十日など、天候が荒れるとされるその日も、その起算日は立春。春一番にしても、立春の後で、初めて吹く南寄りの強い風。それらのことに、立春が、新しい季節の始まりであることに、あらためて気付かされたのである。
さて、その立春の前日、いわば1年最後の季節の締めでもある節分。そこで行われる豆撒きとは、その年の邪気を祓うというもので、その起源は平安時代にまだ遡るというので驚かされる。悪い鬼は追い払い、新しい年には福だけを迎え入れよう、そんな気持ちがそこに込められていたわけである。
そして、節分に纏わる、もう一つの恵方巻。実は、私が、それを意識するのも、ほんの5年ほど前のことだが、どうもコンビニの販促で全国的に認知度が高まったというのが、実際のようである。以来、理屈抜きに、包装に書かれた通りの方角を向いてガブリついていたものであるが、そちらも福を巻き込むとか、そういう意味が込められていたようである。
今年の節分は、予め、豆撒きも恵方巻も準備をしていなかった。その夜、残業で遅くなった仕事帰り、慌てて、近所のスーパーやコンビニに足を運び、6軒目にして漸く、恵方巻にありついた次第である。しかし、豆撒き用の大豆はどこも売り切れで手に入らず、已む無くピーナッツを買ってきて、それを枡に入れると、遅れて帰宅した家内を待ったのであった。(そんなことだったとは、実は家内も知らない。)
思えば、我が故郷、鹿児島では殻付き落花生を使って、豆撒きしたもので、遙か昔の事が懐かしく思い出される。そして、あらためて節分の意味を探り、その原点を振り返ることが出来たのは、嬉しいことである。来年こそは、これまでとは違った意識で、この日を迎えられるのでは、そうありたいと思う。
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