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Gough(1853-1890)
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【Vincent van Gough(1853-1890)】
1890年、37歳で死んだフィンセント・ファン・ゴッホはもっとも画歴の短い画家の一人である。制作した期間はわずか10年にすぎず、しかも、はじめの4年間は素描だけしか描いていない。
しかし、彼は驚くべき量の作品を制作し、900点に近い素描と800点以上の油絵を残している。制作は爆発的に行われ、ときには何週間もたてつづけに、毎日1作づつ油絵を仕上げたことさえある。
【
わらを束ねる農婦
】1885年
1885年4月のテオにあてた手紙で、ファン・ゴッホはこう書いている。「農民の生活を描くのは容易ならぬことだ。絵を見る者に厳粛な思いをかきたてるような絵を描こうとつとめないならば、自分を責めねばならない。」この絵の人物には、そうしたファン・ゴッホの気持がよくあらわれている。わらを束ねようとしている女は、どっしりとした尻、年を経た樹のようにたくましい腕、辛い苦しい姿勢が強調されている。「昔の巨匠たちの絵にでてくる人物は<生きて働いて>いない。・・・働く農民を描くことは…近代美術の核心である。」と彼は述べている。
【
じゃがいものある静物
】1885年9月
いったん画家になる決心をすると、ファン・ゴッホはひたむきにその道をつきすすんだ。自分の技術とスタイルを完成するために、あらゆる修練を積んだ。彼は、細部の習作を描いたり、静物の素描や油絵の訓練に没頭し、ついに上のじゃがいも籠を描いた絵のように、驚くほどリアルな作品を制作するようになった。質感、色調、形状を捉えるファン・ゴッホの手腕は、命を持たない対象が、どこか生き物のようにさえ見える。「このじゃがいもは、まだ目のみえない仔犬たちのように、じゃれあっている。」とかいた美術批評家さえある。
【
じゃがいもを食べる人びと
】1885年4月~5月
「じゃがいものある静物」のような作品を5年間描きつづけたのち、ファン・ゴッホは初期の傑作この「じゃがいもを食べる人びと」を制作した。それまで彼が身につけた技術と経験の集大成ともいうべき作品である。馬小屋同然の部屋の中で、夕餉にゆでたじゃがいもをつっつくことしかできない貧しい人々の生活が、暗い土色のなかに浮かび上がっている。労働でふしくれだち荒れた手、粗野な顔立ち、少女の目にやどるやさしさ、、オレンジ色に輝くランプ。こうした細部によって、きびしくはあるがまったく人間的な現実が描かれている。風景や静物や肖像を描くようになっても、人生の気高い姿を描こうとする彼の態度は変わらなかった。
【
フィンセントの部屋から見たハパリの風景
】1887年
スーラの点描主義の影響をうけて、当時の彼はこういう短いタッチを使うようになっていた。赤い鎧戸、蒼い屋根、薄黄色の建物、灰緑の空といった色あいを見ると、彼がオランダ時代の暗いパレットに永遠に別れを告げ、後年の輝かしい色彩に向かって踏み出したことがわかる。
【
タンギー爺さん
】1887年
フィンセントが描いた画商タンギー爺さんの肖像。タンギーは濃い青と褐色で描かれ、大胆な背景の前に座っている。この背景の大半はフィンセントが日本の絵を模写したものである。
【
カフェ・ル・ブランタンの女
】1887年
印象派がよく使う伝統的な主題のひとつ、ひとりでカフェにいる女がとりあげられている、モデルはカフェ・ル・タンブランの店主、イタリア女のラ・セガトリだと思われている。このカフェの装飾のために、ファン・ゴッホは日本風の絵を何枚も描き、ここで自分が収集した日本の版画の展覧会を開いたりした。
【
日本趣味雲竜内掛の花魁
】1887年
十九世紀末のヨーロッパ美術に日本画、とりわけ浮世絵が及ぼした影響は、まさしく決定的であったといっていいであろう。マネ、ドガ、モネ、ゴーギャン、ロートレックなどの作品を見ればそれぞれの資質に応じたその影響のあとが見てとれるが、ゴッホも浮世絵によってもっとも強く魅惑された画家のひとりである。この絵の真ん中に描かれているのは渓斎英泉(1790~1848)の浮世絵の模写であり、バックの風景も、おそらくだれかの浮世絵を模したものであろう。かれは、これ以外にも、広重の「雨の大橋」や「梅の花」などの模写も残している。1988年の2月にアルルに着いて雪に覆われたアルルをみたゴッホは、「まるで浮世絵のようだ」と言うのだが、やがて、ゴッホ固有のものと浮世絵とが、生き生きと合体するのである。
(粟津規雄 文芸評論家)
【
カーネーションを持った女
】1887年頃
まだ無名の画家ゴッホが放浪と貧困と模索に疲れ果ててパリに着いたのは1886年早春、三十三歳歳を迎える直前であった。パリに着いたゴッホは、まず印象派の人々と作品を知った。それはオランダ時代の暗いパレットと永遠の分れを告げたことに見られるほど、大きな衝撃であり、開眼であった。ししてロートレックやゴーガンなどの、印象派を乗り越えようとしている、まだ無名に近いが、生きの良い仲間を知った。さらに彼ら同様、否、彼ら以上に、日本の浮世絵に魅せられた。ゴッホがパリ時代に描いた見事な二点の女性像の一つがこの、カーネーションを持った女である。その明るい多色と大きな筆さばき、バックを大胆に装飾化した画面構成。浮世絵の役者絵から受けた感銘を、彼自身の筆の中に、もう一度確かめているようである。パリに疲れ、パリに思いを残しながらアルルへ去るほんの二ヶ月ほど前である。
(嘉門安雄 ブリジストン美術館)
【
レストランの室内
】1887年
ファン・ゴッホはパリにきて知った新しい技法を自分のものにするため、それらを意識的に模倣した作品をいろいろ描いている。点描主義の練習として制作したこの絵の壁と床にはっきりした純色の点が用いられている。
【
日本趣味・花咲く木
】1887年
この日本の木版画の模写は、平坦な色面と強い輪郭、それに平面的な遠近法の練習のために描いたもののようである。
【
モンマルトの風車
】1887年
パリに出てからオランダ時代の暗い色調をパレットから追放して新しい技法を磨いたゴッホが、祖国オランダの風車を思わせるようなモンマルトの風車と踏みぐわを持った人物は初期の作品に登場すオランダの農夫を思わせる作品である。
【
鉄道の貨車と電柱と起重機のある風景
】アルルにて 1888年6月
ファン・ゴッホの素描。「素描とは何か?それは、感じていることと自分で表現できることとの間に立ちはだかる、見えない鉄の壁をみずから突き破ることである。」と、彼はある手紙で述べている。
【
種まく人
】1888年6月
アルルにおけるファン・ゴッホの生活と芸術は,南フランスの明るい陽光にあふれるものとなった。故国オランダの灰色の風景、パリのくすんだ色彩しか知らなかっただけに、ファン・ゴッホは色彩豊かな田園風景に狂喜した。アルルの太陽の下での創造によって、ファン・ゴッホは芸術における巨人となったが、それが終わったとき、彼には1年の生命しか残されていなかった。
【
種まく人
】部分 1888年6月
ファン・ゴッホの芸術に強い影響を与えたアルルの太陽、「種まく人」(左)からとったこの太陽は、個々のタッチのあとをはっきりとどめた厚塗りによって、ファン・ゴッホは輝く色彩を空にあふれさせている。
【
ひまわり
】1888年8月
ファン・ゴッホのもっとも有名な作品ひとつ『ひまわり』は、彼がアルルに来てはじめて知った暖かい色彩感がよくあらわれている。かれは自分の部屋に飾るために、こういうひまわりの習作を数多く描いたが、どの作品にも光と色彩と単純さを求める彼の情熱があふれている。
【
郵便配達夫ルーラン
】1888年8月
アルルの町の人は北方から来た気性の激しいファン・ゴッホの肖像画のモデルには、なかなかなってくれなかった。が、なかには郵便配達夫ジョゼル・ルーランのように好意的な人もあった。だぶだぶの制服を着てポーズするルーランの表情を見ると、彼が愛想のよい人物であることが分かるようだ。
【
夜のカフェのテラス
】1888年9月
アルルでのファン・ゴッホは昼間やけつくような陽ざしの南国の夜を楽しむように、帽子にくくりつけたろうそくの灯りをたよりに南国の夏の夜の歓楽を描いた一点である。人びとを誘い込むようなカフェの角灯の輝き、紺青の空にランプのようにまたたく星、その下で飲んだり、おしゃべりをしたり、散歩したりする人びとの姿が描かれている。
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【
アルルのはね橋
】1888年
「ぼくは今日十五号を一枚持ち帰った、それは小さな馬車が通っている跳ね橋の絵で、青い空の上にそのプロフィールがうつっている――空と同じように青い川、緑草が見えるオレンジ色の土手、キャラコと色とりどりのボンネを着た洗濯女の一群」。と、アルルにやってきた翌3月の中旬に弟、テオにこのように手紙で伝えている。ゴッホはこの主題がずいぶん気に入っていたようだ。彼はアルル時代の「夜のカフェ」について「ぼくはこの赤と緑で人間のおそろしい情念を表現しょうと思った」と語っているが、この作品においてもそういう色彩感は、はっきりと見てとることが出来る。静寂のなかで、洗濯女たちのたてる水音がきこえてくるようだが、このような世界は、そのまま、ゴッホの心の姿にほかならないのである。(粟津規雄 文芸評論家)
【
椅子とハパイプ
(『ファン・ゴッホの椅子』とも呼ばれる)】1888年12月~1889年1月
南フランスのファン・ゴッホは絶望的なまでに孤独であった。彼の『アルルの寝室』(1888年10月)にも描かれているように、彼は強い期待の年を込めて、二つの枕、二脚の椅子、さらには壁の絵までも二枚づつ描かれているように、全ての品物を二つづつ揃えた。1888年10月末のゴーガンの到着とともに、ファン。ゴッホの孤独な日々は終わるはずだった。しかし二人の画家の強烈な個性は絶えず衝突して緊張と争いを生み、ついにゴーガンはここを去らざるをえなかった。
この絵と右の絵は、まるで二人の男の肖像画のようにも見える。
陽の光を浴びたファン・ゴッホの椅子は、こしらえも素朴で単純である。シートの上の火のついていないパイプと煙草も、フィンセントのさびしさをひしひしと感じさせる。
【
ゴーガンの椅子
】1888年12月~1889年1月
ローソクの光に照らされたゴーガンの椅子は、肘掛もあり脚も曲線的で凝ったつくりである。二冊の本のそばにあるローソクも、力強くいきいきとして、ファン・ゴッホの椅子から感じるさびしさとは、対照的である。これら2枚の習作は、ゴーガンの滞在中に着手され、彼が去ったあとで完成されたものである。
【
アルルのゴッホの部屋
】1889年
これが画家の暮らしだろうか。貧しいとはいっても、どこにも人間の生活臭がない。ゴッホは夜明けとともに絵に没頭し、夜は本をむさぼぼり読んだ。それだけではない。全集になって出版されるほどの膨大な量の手紙を書き残している。そんな人間の住まいならば、日々、刻まれてゆく残滓が床にちらばっていてもいいはずだ。こんな壁のなかで、周囲の白い眼を意識しながら、どのように生きていたのか。まるで広角レンズで覗くように、ゴッホはこの小さな棲み家を見つめている。余計なものをいっさい省いた画家の眼の清潔さというか、正確さといおうか。ゴッホの室内は、生活の場として人々の前にさらされた舞台のようだ。主役不在の空しさが前面にただよう。旅のいきずりならともかくも、仮にも人の住むネグラというものが、こんなにもよそよそしくていいものだろうか。画家はこの絵を描いた翌年、みずから37歳の命を絶った。(野見山暁治 画家)
【
耳に包帯をした画家の自画像
】アルルにて1889年1月
明るく暖かい日の光と孤独を求めてパリから南フランスのアルルにやってきたゴッホは、彼にとって日本そのものであるこの地で「南フランスのアトリエ」をつくろうと夢みてきた。彼が日本に居ると想像していた芸術家たちが、そこにおり、その芸術家との共同生活が目的だった。ゴッホはポール・ゴーギャンを説得して1888年の10月の末にアルルに招いた。ゴーギャンとともに生活し仕事をした緊張の日々は、12月24日の衝突で、その頂点に達した。その晩、幻聴にさいなまされていたゴッホは片方の耳を切り落とした。ゴーギャンはゴッホの弟テオを呼びだしたあと、パリへ去っていった。
この絵の頭の右の部分には佐藤虎清の版画が描かれている。これはゴッホが持って来た浮世絵のコレクションの中の一枚である。一連の日本美術のスタイルの上での特質を引き合いに出すことによって、ゴッホは自分自身を、大地と一体になり、自然にかかわっているかざりけのない日本の芸術家の一人であるかのごとくふるまっているのである。(ウイリアム・ブラッドフォード。ロンドン、コートールド・インステイチュート・ギャラリー研究員)
【
子守をするルーラン婦人
】1889年1月
ゴッホはアルルでルーランという郵便配達夫と知り合ったが、ルーランはゴッホが心を許したわずかな友人のひとりとなった。彼はルーランばかりでなく、ルーラン夫人や三人の子供もくりかえし描いているが、そこにはひとつの「家族」の肖像を作り上げようという動機があったようだ。前に手を組んでゆったりと腰をおろしたポーズはいかにもゴッホ好みのものだ。黄と赤と緑の鮮やかな対照には、ゴッホのいう「この土地の色彩の音楽」が鳴っている。だが、背景の扱い方やタッチなどには、ゴーギャン的な「抽象」の強い影響があらわにあらわれている。そういう影響とゴッホ固有のものとの結びつきが、この安らぎにあふれた画面に絵画としての強い緊張を与えている。(粟津則雄 文芸評論家)
【
パイプをくわえ耳を包帯した自画像
】アルルにて 1889年2月
この絵はアルルで自分の耳を切ったあとの療養中に描いたもの。鋭い目の青みがかった色が、目の線と同じ高さにある血のように赤い水平線によって強調されている。あるがままの自分を直視することがどれほど苦痛にみちたものであっても、彼は、自分の姿を何かに憑かれ、かりたてられた人間として描くことができたのである。
【
病院の庭の石段
】サン=レミにて 1889年5月
新しい土地にいったときはいつでも、毎日身ぢかに見る景色を記録するのが、ファン・ゴッホの習慣であった。自分から希望してサン=レミの精神病院に入院したときも、構内の景色をさまざまなスケッチや油絵に描いた。この繊細な水彩画もそのひとつである。
【
アルピーユ山の眺望
】1890年4月
アルピーユというのは、アルルの北東に広がる石灰岩質の山塊群である。一番高い山塊でも386メートルというから、小さな丘陵でしかない。この山のあちら側には、イタリアとのあいだにアルプスがあり、おそらくは、ゴッホにとって開かれた希望が存在したのだろう。作品は1890年4月に制作されている。例の「耳の悲劇」事件後アルルの病院に入り、1889年5月から翌年5月まで、ゴッホはアルルに近いサン=レミの療養所にいる。その最後の時期の作品であり、オーヴェールに移って自殺するわずか数ヶ月前の作品である。サン=レミの療養所では、ゴッホは、発作、そのあとの無気力、沈静、そして制作という生活を繰り返している。それにもかかわらず、この時期に約150点の作品が残され、アルル時代に匹敵する彼の制作の頂点をみせている。時には蒼ざめたとしかいいようのない作品も描かれたが、しかし、他方では、彼の魂の激動、震えが、そのままに大地に刻印されたかのような強い作品がつぎつぎと生み出された時期でもある。制作することによって彼は醒め、制作の過労がふたたび彼を発作へと駆りたてたのかもしれない。しかし、自らの心を対象にあたえること、対象に合体することに、制作の最高の陶酔があるとすれば、この時期のゴッホはすべてを表現しつくしていた。(中山公男 美術史家)
【
糸杉と星のある道
】サン=レミにて 1890年5月
サン=レミの精神病院に入院していたころ、ファン・ゴッホはしばしば近くの田園を歩きまわり、風景を描いた。サン=レミ時代の最後の作品の一つであり、南フランスの思い出として、ファン・ゴッホが好きだった絵である。
【
ガッシェ博士の庭
】1890年
アルルの精神病院やサン-レミの療養所など断続的に入院を繰り返した後、1890年いったん2年ぶりにパリに帰ったが、やはり病状が思わしくないのでオーヴェール・シュール・オアズに住む美術好きの医師ガッシェの看護を受けるためにこの地に移り住んだ。「オーヴェールの協会」や蒼いバックの「自画像」「医師ガッシェ像」など、ゴッホ最晩年の優作はこの時期に描かれたものである。それらは画家の生命そのものが凝って結晶したような異常なまで強烈な迫力と美しさをたたえて衆目をあびている。この「ガッシェ博士の庭」はやはりこの頃の作で、ゴッホが医師に贈ったものである。うねり狂った糸杉のすそに、神経質に描かれたアロエの茂み、マリーゴールドが金色の花をつけている。隣家の赤い屋根越しに村の家並みが見える。輝く色彩の効果はもとより、決然とした素描力や機知のある構図、すべて絵を仕上げるための配慮になんら病的なマイナスは見出せない。少なくとも絵を描いているときのゴッホは、狂人ではなかったと、私には思えるのだ。(久保守 画家)
【
ラブー嬢
】1890年6月頃
ゴッホは1890年6月、弟テオにこう手紙を書き送った。「先週、私は16歳ぐらいの女の子を描いた。青をバックに、青い服を着た少女像で、彼女は私が滞在している土地の娘さんだ。私はこの子に一枚あげたが、君のためにもう一枚、少し手を加えたのを制作した。」これは彼が死ぬ間際の十週間住んでいたオーベールの地主ギュシタープ・ラブーの娘、アデリン・ラブーを描いた二枚の肖像がについて述べた彼の言葉である。この第二の肖像画でゴッホは、皮膚の滑らかさを思わせるような過去の肖像がの描き方を棄てている。彼はこれにかわって、荒々しく破格な絵の具の質感によって皮膚に粗野だが生き生きとした実在感を与えた。赤、黄、だいだい、青、緑と無数の色が、この少女の顔に用いられている。おなじような色が彼女の髪の毛にも使われているが、そこでは黄色が主調をなしている部分が、その金髪の美しさを強調している。
【
オーヴェールの平原
】1890年6月の半ば頃
ゴッホはこの「オーヴェールの平原」を描いてまもなくこの世を去った。かれが弟のテオにあてた手紙によれば、この絵は、1890年6月の半ばごろに描かれた作品である。それから一月余り後の7月27日、彼は、自分自身をピストルで撃ち、7月30日に息を引き取った。37歳と4ヶ月の生涯であった。ゴッホが人生の最後を過ごしたのは、パリから北へ50キロほどのところにあるオーヴェール=シュール=オワーズという静かな田舎町であった。この作品に描かれた風景もオーヴェールの麦畑である。彼は5月に南フランスのサン・レミから移ってきた。彼の病める心が、オーヴェールの田園に身をおくことによって、すくなくとも一時期は平静を取り戻したようである。この風景画には比較的穏やかな心が現れている。ゴッホは6月20日付けのテオあての手紙に中で、「本当にできるだけ早くこちらに来るとよいと思う。ここの自然はまったく素晴らしい。」と記している。ゴッホの心の空洞は、美しい田園風景によっても決して埋められることはなかった。弟夫妻に、熱心にオーヴェールへ来るように書き送ったのも、唯一の理解者であったテオに会って人の温かさに触れたいという、切実な思いを伝えたかったからである。この広々とした風景画にも、彼の深い孤独が表現されている。(阿部信雄 ブリジストン美術館)
【
オヴァール付近の平野
】1890年7月
ファン・ゴッホは北フランスへ行ってからもたくみな風景画を描きつづけた。大パノラマともいえるこの絵を見ると、前景の丈の高い草が、長い切りつけるようなタッチであらわされているのに対して、遠景の畑や樹木や雲ははっきりと形が捉えられている。彼は緻密な画家であり続けたことを伺うことができる。
【
自画像(1)
】アントワープにて 1885年11月~1886年2月
この初期の習作の暗い土色の色調は、オランダの画家たちの影響をうかがわせている。
【
自画像(2)
】パリにて 1887年
【
自画像(3)
】パリにて 1887年
【
自画像(4)
】パリにて 1887年9月~12月
【
自画像(5)
】パリにて 1888年1月~2月
【
自画像(6)
】アルルにて 1888年9月
南フランスのアルルの色調に触れて、日本の画家を思い出したファン・ゴッホは、仏教の僧侶のような自画像を描いた。
【
自画像(7)
】サン=レミ、あるいはオヴェールにて 1889年~1890年
狂気の発作に襲われてからのちの彼は、自分の姿をさだかならぬ背景からあらわれる、幻影のように描いている。
【
自画像(8)
】サン=レミ、あるいはオヴェールにて 1889年末~1890年
彼の最後の自画像は、すさまじい意志の力によって抑制された病める精神を描いた、力にあふれる習作である。
【
自画像((8(の部分)(8)
】サン=レミ、あるいはオヴェールにて 1889年末~1890年
自殺の数ヶ月前に描かれたファン・ゴッホの最後の自画像は、彼の無慈悲なまでの誠実さを感じさせるようだ。繰り返し襲ってくる狂気の瞬間に堪えながらも、彼は断固として自分を観察し、恐怖と必死になって戦う悩める魂を描いた。その顔は毅然としているし、唇は固く結ばれ、見開いた目は決意にみちている。
1
2
引用文献:巨匠の世界「ファン・ゴッホ」タイムライフブックス
日本経済新聞「美の美」(別刷)
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