ゆるゆるといこう

ゆるゆるといこう

言の葉通信に投稿したコピー


以下にコピーしました。


娘は二ヶ月半早く30週で産まれた極小低出生体重児なので
自分の子だけ眺めていたら毎日成長しているし
言葉が遅いなんてそれまで考えたことがなく
1歳半健診で指摘されてああそうなの・・と初めて思いました。
未熟児で産まれたので
当然障碍の残る予後のハイリスク(生死の確率も含めて)は
説明されたんですが
実際には大病もせずすくすく育っていてそれで初めてほんとに実際にもしかしたら
障碍あるかもという感覚が突然沸いたような気がしました。
1歳半で言葉が遅いことだけで障碍があるとかないとか
そこまで本格的に心配するのは大げさなのは多分その通りなんだと思います。
でも、もしかして・・と
漠然とはじめて自分の子の可能性として思って聞くと
上手くいえないけどどうもざらざらと違和感覚える励ましとか言葉ばっかりで
もしかしての段階でこれなら本当に障碍がはっきりしてきたら
うちの子に開ける世界は別世界なんだろうなぁ。とか
障碍と聞いてそれまで
ただ漠然と聞き流していたいろんなことが妙に冷たく感じ、
障碍が差別されてる感じって、
言う人は意識しない無意識のレベルの問題だったんだと思うようになりました。

たとえばだけど「言葉が遅いということは障碍じゃないと思う」
それ確かに事実だけど、
でもじゃあうちの子実際に障碍持ってるのはっきりしてきたら
そんなことわざわざ言われたらきっと気持として痛い。
私の感覚では出てこなかったんだけど、
同じように言葉が遅い子のママはいうし。

「今から心配しなくて大丈夫。ほとんどの子が3才にはうるさいくらい喋っているっていうし。」

よその子はよその子でうちの子の先は
一般論や他の子と比べられても仕方ないし、
大体「大丈夫」って何というのか、
大丈夫と括るというのは大丈夫じゃない子が存在してるのが
前提になるわけで、きっともしうちの娘が特殊学級に通学するようになったら
大丈夫には入ってないわけで、
そんなんでわけられ大丈夫といわれたってどうもすっきり喜べない。

あるいは、小さく産まれた事でハイリスクの告知受けたママとかが
「うちの子色んな障碍の可能性もいわれて複雑だったけど
とりあえずそうならなかったけどだからこそ
不幸にして障碍本当になった子の親の気持ち考えたら
言葉思いつけない」
障碍って不幸なの?
同じように言葉が遅いことを心配する親の言葉で
「言葉が遅いってうちの子異常ってことなのかと心配した」
う~ん。確かに当たり前のように
障碍があるかものリスクとか正常異常と表現されてるけど
異常ってそれに入ってしまうと冷たい響きだなあとか・・

親の気持ちとしては当然自分の子に障碍がない方がいいのは当たり前で、
言の葉通信が、最初に届いて開くと目次で特殊学級、養護学校・・・それから・・
娘の将来をそこまで考えるのは重く・・・
やっぱり見たくないとも思ったんですけど。
パラパラ一通り続けて読むうちに
一生懸命な子どもとパパママ達の声生で読んでいたら、
娘がどんな風に成長してもとりあえずなんとかやっていけるのかと思うようになったし、
確かに現実としては自分の子の将来、
障碍があるのは可能性としてはイヤなのだけどだからといって、
こんな風にはなってほしくない子どもの将来として
言の葉通信のお兄ちゃんお姉ちゃんがいるわけじゃない。
私の娘と言の葉通信の娘よりお兄ちゃんお姉ちゃんは
別な子どもだし、娘も、そのほかのどの子もこんながそれぞれの飛躍で幸せになってほしいしで、
どうしても「大丈夫」ってなんなのかなぁととっても思います。

それに、まだ先の話とはいえ、
言の葉通信で気がついたのは、
もしどうもあれうちの子?と感じるなら、
早めに就学を考えた方が選択肢がいっぱいあるから有利なのか・・
とかそういうことって頭の隅に置いておいても
いざというとき役に立つ情報なわけだし、
心配しなくていいのに気にしない方がいいのにとか
言われるよりは全然心配したほうがいいじゃないと思いました。
心配って悲観と絶望というんじゃなくて
今出来ることがあるならしてあげたい親心なわけだし、
だいたい実際に言葉の遅い子の中にはどうも問題があるから
後れている子も含まれているのに
根拠もなく心配しなくて良いって無責任に感じるんですが、
でも今の言葉の遅い子の親へのアドバイスの主流は
「わざわざ不安あおらない方がいい」のようです。
そんなに最近の親って信用されてないというか
極端な心配だけしか目に入らなくなるとか
そんな華奢というのか情け無い人おおいんでしょうかね・・
親としてするべき正しい心配ってあると思うんですけど・・・。
そして良く言われて一見正しく聞こえるけど
「よそのと比べてどうするの言葉の成長はどの子もみんな個性で一人一人違ってあたりまえでしょう」という言われ方。
言葉が遅いということはただの客観的事実で、
成長の早い遅いは実際に存在しているわけで、でも、
言葉が遅いことを心配する、気にかけるのは、
ただ成長の早い、遅いを競って比べてるんじゃなくて
言葉が遅い子のなかには将来的に集団生活当たり前に
幼稚園小学校と特別な配慮があるほうが伸びたりついていける子ども達かもしれない
可能性が含まれるから心配するわけで、
だいたい将来的に取り越し苦労というか過度な心配しすぎだったらその時は心配したけどちゃんと成長してたらそれで喜べばいいわけで、
とりあえず心配して損はないししなくてあとで後悔するより全然いいと思うんですが・・・それにしても、
言葉が遅いということ、自分の子にはそれが事実なのに、
何で上手く語れないんでしょう。私は基本的にオープンに親ばかでなんでも聞かれなくても誰にでも喋る性格なのに、
娘の言葉の遅いこと、自治体でやってる成長が気がかりな子どものための遊び教室に連れていって居ることは
喋ることがいつでもどこでも誰にでもは、出来ません。
仲のいい友達なんかに少し話して反応が変な人
(たとえば妙に大げさにそんな、今から遅いとか早いとか誰が決めるわけとか言った友達が居た)
などには自分でも今の気持上手く解らないし
親の私がまだ娘のことも上手く評価しきれないのに、
そんなの答えようがない感じのことばかり言われても
面倒なので喋れないし、
同じように言葉の遅い子育てたママ友達も
「うちの子今は喋るようになったし大丈夫だよ、小さい内の落ち着きのないのだってみんなそうだし、
うちの子なんか今でも落ち着きなくて心配よ」とか・・。
きっと励ましてくれてる気持はわかるけどなんだかなぁと思う。
しかも娘の場合、言葉は確かに2才としてはのんびりしてるけど
話の雰囲気を掴むのは一見上手くてぱっとみたらかわいい子で。。でも、妙にわかっているようで全然わかってないギャップが、
まわりと極端にひらいていかないといいなぁと思う漠然とした心配
上手く説明できないし理解されません。
言葉は多分、確かに遅いけど、喋らない心配はないなと思えます、
でも、なんていうかほんとにどうもこの子ちょっと違うかも・・となるとしても、
多分、幼稚園の就学段階ではなくもっと先の課題なんだと思う。
★でも、確かにまわりの言うように過剰に心配してるのも本当かもしないんですが実は、
私も弟も、自分たちではどこがどう違うのか全然解らないんだけど
常に個性的な人だ変わった人だと言われ続けて中高年に至り、
とりあえずはともかく気質が律儀で真面目なので
人を極端に困らせることもなくそこそこ自立した大人の自分は築きはしたけど
今幸せかと聞かれたらう~んって感じで答えられません。
「みんな同じで個性があるだけ」
そう簡単に多くの人がいうけれど、「みんな同じ」には枠があるというかすべての人が入ってないんですよね。
同じ同じと言う人ほど実際私の何かで驚くというか
私は同じと想像してる枠外なんだなあと度々思います。
多分きっと私と弟って高機能自閉症とかアスペルガー症候群と定義されるボーダー、
言葉は良くないけど普通と普通じゃないのすれすれかなあと思ったりします。
そうして変わってると延々言われて生きてきた実感からも、
みんな同じ障碍も個性と一緒に言われることは正直、不気味です。
人の個性を生かすというのは、同じとか同質だとか考えるんじゃなくて、
一緒にしないことに思うんですよね。
植物に例えたら、サボテンと苔とを同じ植物だからといっても
育つ土壌環境も管理も違うわけで、
一緒と言われても困るだけというのか・・・
人の個性というのも本当はそのくらい多様な筈ですが、
世の中は、どうも人に一律みんな同じ同じ、どういえばいいか、
明るい光と少しの水があればどこども育つ雑草であることを
他人に求める感じで生きにくいそんな感じがします。
雑草だけでは森は育たなくて、森がなければ雨は降らないし、
やがては砂漠生きる環境として貧弱過ぎますよね。
私自身が変わってると延々いわれはしてるけど、
どうにか人の関係に恵まれたから今までやってきた実感として、
もし、自分の娘の個性度が特異過ぎたら親として思うことは、
多くの子どもが当たり前に身に付くことそれでは厳しくて、
その子の理解できる配慮をはやいうちから受けられたら
人生の質が違うだろうということ。
でも、だからって、それは普通の枠に入れたいとかそういうんじゃないし、
その逆のなんでもうちの子の個性なんだからわかって、
理解してのそういう両極端じゃない本当のところの娘のためって、
客観的に娘の姿を理解することが一番だし、
色々心配してるうちに、幼稚園、
そして義務教育その先で社会人としてやっていけるといいかなと思ってます。
それが希望だけど、その当たり前のルートでは生きにくい子の場合
どうしたらいいのかの情報頭の隅のメモにあって
損はない今の気持としてはそんな感じです。
今の娘は、2才前半で、言葉そのものは半分宇宙語でぱらぱら日本語混ざるようになり、
「具合悪い」とか結構ランクの高度そうな言葉も混ざっているし。言葉を喋る喋らないの心配は遅くてもそう心配してはいないけど
心配というのは、買い物連れていくと、自分の好奇心でうろうろ、居なくなるのが多く、でもしっかり戻っては来るけど、
この前なんてちゃっかり試食品のトマトともらった爪楊枝持ってレジで精算し終わった私のところへ戻ってきました。
きっと今の娘見た目も小さくてあかちゃん臭いのでかわいいからマネキン販売のひとからもらってきたんだと思うんだけど、
そういうちゃっかりとか誰でも構って構ってと見境ないのとか
年齢が上がって人との関係がある程度わからないで
そのままだとうざい子とでもいうのか、どうなの・・と思われるのと微妙だなあという感じです。
とにかく誰にでも構って欲しくて仕方なくて親より
他の人ってところがあるし・・・・。
親になる前ってスーパーなどで、子どもだけでうろうろしてるのみても、
親は何してるとか思っていたけど、
一緒に黙ってついて歩けるというのって子どもの課題としては
結構高いランクなんだなあと知りました。
なんでも、躾け躾け親の教育どうなっているのとか言われても
困っちゃう子どもの個性とか理解力って、
親にならないとなかなか実感できないのを娘から学んでます。
そのほかだと、絵本の読み聞かせとかなんてほんと、
興味は絵本をめくるのと、言葉で知ってるものやキャラクター探しだけで話を聞くなんて???
寝かしつけで絵本なんて優雅さ、
世間には定着したイメージですが、
実際は何でも楽しい状態で、
わくわく目がさえるだけの娘は、無理みたいです。
そんなふうに言葉の遅い子の親になって初めて知った、
いろんな子どもの本当のところって沢山ありますが、
しょっちゅういわれるけど、
それってなぁと思うのをひとつあげろと言われたら、
「沢山、話しかけましょう、話しかける程子どもの言葉は伸びます。」でしょうかね。
乳児ほんとの赤ちゃんに語りかけるのとまたちょっと違うランクアップした話しかけ、
一方的じゃない感じというのは、
子どもが理解していると感じるのが先で
それにあわせて相互で話しかけが成立しているというか、
「全く聞いていない子にどうやって話しかけろと?」と
言われるたびそういうの聞くたび思います。
「話しかける作業」って一方通行じゃできないというかんじが、
実際に言葉の伸びがのんびりな子を持つとか知らないと
なかなかわかってもらえないんだなぁと知ったことです。

言葉の遅い子の親だってほとんどが普通には赤ちゃんと
対話することはやってきていると思うし、でも、
それに釣られてコミニュケーション能力がもともと弱い子は伸びないんで
そういう場合の語りかけは、
専門家に習わないと解るわけない部分あると思うし、
沢山話しかけましょうと言われるそれとは違うと思うんですよね。
勿論子どもに話しかけるの苦手な親とかだっているでしょうし、
そういう場合だったら、
それもやっぱり沢山話しかけましょうなんて、
それだけ言われてももともと方法がわからないわけだから、
困るだろうし、
子ども、親どちらに問題があっても
「沢山話しかけましょう」はそれだけ言われたって
全然役に立たないお説教に感じます。
などと、いちいち言われることを凄く真面目にとって
更に何言ってるわけ私の言い分はこうなんだけど・・とか
延々囚われてしまうところが言葉を言葉通りにしかとらない
高機能自閉症なのかもなあと
親になって私自身の気質の問題とも直面させられました。
多分私が高機能自閉症の仲間だから「沢山話しかけましょう」
なんてそんなあまりに漠然と抽象的でそれって何?とかいちいち、
いちいち即気になるのかもしれません。
私の問題子どもの問題子どもの成長と共に毎日揺れながら子育てしてる感じです。



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