全24件 (24件中 1-24件目)
1
以前金時山に登った時は、北側の忍柄古道から足柄峠を越え、南側の公時神社へ下りるルートをとったのですが、今回は前回とは逆に公時神社から南側の斜面を登っていきました。スタート地点の公時神社バス停の名前は金時神社となっていますが、公時神社が正式名称です。祭神は坂田金時で、金時山へ登る途中に奥ノ院があり、注連縄の向こうに巨大な岩がありました。ご神体の岩でしょうか。金時山の途中には、このような巨大な岩が他にも多く転がっており、「金太郎蹴落し石」「金太郎宿り石」などの名前がついていました。金太郎蹴落し石金太郎宿り石今にも倒れて来そうな感じで、ここを通る人がつっかえ棒を置いて行くのもわかるような気がします。金時山の登山道は岩がごつごつとしている上、土の部分も霜柱が解けた後にぬかるんで、さらに歩きづらくなっていました。それでも登っていくにつれて、芦ノ湖や仙石原が望めるようになりました。仙石原と芦ノ湖この日は天気も良く、山頂からの眺めも期待が持てそうです。それでも山の天気は変わりやすいので、なるべく早く頂上に行きたいと、ついついペースが上がっていました。関連の記事足柄古道(2009年9月)→こちら
2010/01/31
コメント(0)
東海道のちょうど真ん中、江戸日本橋から数えて27番目、京都三条大橋から数えても27番目の宿場町が袋井宿です。(ずいぶん遠くへ来た感がありますが、まだ半分です)掛川宿から袋井宿の間には松並木が続いており、往時の東海道の雰囲気が残っていました。松並木を支える土塁も残っています。一里塚原野谷川の支流に架かる「天橋」が宿場町の東の入口で、「これより袋井宿」の道標が建っていました。天橋付近の光景は広重の浮世絵にも描かれています。歌川広重「東海道五十三次 袋井」こちらが現在の天橋付近です。広重の浮世絵をモチーフにした「どまん中茶屋」がありました。天橋を渡ると、袋井宿の中心部へと入って行きました。袋井宿の旧東海道東本陣の跡東海道から少し外れた所には観福寺というお寺があり、「へそ寺」とも呼ばれています。793年に建立された古刹で、山号の袋井山は袋井の地名の発祥とされています。関連の記事東海道~掛川宿→こちら
2010/01/30
コメント(0)
再び遠州掛川にやってきました。前回は掛川城が目的で、今回は東海道掛川宿が目的です。(「バカも休み休み」とはこのことでしょうか)今回は日坂宿から東海道を下って掛川宿に向かったのですが、途中の旧東海道には一里塚や常夜燈が残っていました。馬喰橋の一里塚常夜燈江戸時代の掛川宿には城下町特有の「七曲がり」があり、宿場町の中心部へは直線侵入できないようになっていました。現在は七曲がりも碁盤の目に整備されていますが、それでも所々にその名残を見ることができます。七曲の1つ東番所跡七曲りを過ぎると、掛川城の大手付近を直線状に通るようになりました。やがて見覚えのある場所に来たのですが、掛川宿の宿場町と言うよりも、やはり掛川城の城下町と言った感じです。塗籠の海鼠壁が城下町風情を漂わせていました。銀行の支店までがこんな感じです。掛川宿の中心地である本陣付近から見ると、掛川城の天守と太鼓櫓がそびえるように建っていました。掛川城は山内一豊によって築城され、「東海の名城」と呼ばれています。天守は後に復元されたものですが、全て木造で復元されたもので、二の丸には御殿が現存しています。掛川城の記事→こちら掛川城の本丸には立派な天守が復元されていますが、掛川宿の本陣は散々な扱いで、本陣跡はコインパーキングになっていました。掛川宿本陣跡本陣付近の旧東海道掛川城が東海の名城と呼ばれるのとは裏腹に、東海道の掛川宿は面影がほとんど残っていませんでした。尾張名古屋と同じく、遠州掛川も城でもつのでしょうか。関連の記事東海道~日坂宿→こちら東海道~袋井宿→こちら掛川城→こちら
2010/01/29
コメント(0)
金谷宿と日坂宿の間には、箱根峠・鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られる「小夜の中山」があります。牧之原台地に至る金谷坂を登ったかと思ったら、さらにアップダウンの激しい道が続いていました。この東海道屈指の難所であるこの急坂は、歌川広重の浮世絵にも描かれています。広重の浮世絵はデフォルメが多いのですが、小夜の中山は本当にこんな感じです。その小夜の中山を越える旧東海道は、今も旧道の道幅を残しながら続いていました。その旧街道の途中には久延寺という山寺がありますが、掛川城主であった山内一豊が、関ヶ原に向かう徳川家康を接待した場所でもあります。久延寺山門。山内一豊はここに茶室を設けて徳川家康を接待したのですが、その久延寺境内には、曲亭(滝沢)馬琴の「石言遺響」に出てくる「夜泣き石」があります。夜泣き石山賊に殺された妊婦の霊がこの石に乗り移り、夜毎に泣いたことから「夜泣き石」と名付けられました。山内一豊がこの伝説を知っていたのかどうかはわかりませんが、すごい所で接待したものです。この辺りの旧街道は、当時の面影をそのままに、ずっと細い一本道が続いていました。小夜の中山の旧街道途中には江戸日本橋から五十二里目の一里塚が残っていました。小夜の中山の難所を過ぎ、急坂を下った先には日坂宿の宿場町が続いていました。静岡県の旧東海道ではおなじみの標識です。本陣1軒と脇本陣が1軒ずつ、旅籠屋は33軒ほどの小さな宿場町ですが、大井川の川留めの時などは、かなり賑わっていたそうです。扇屋本陣跡日坂宿には今も旧家がいくつも残っており、軒先には昔ながらに屋号の看板が掛っていました。日坂宿最後の問屋役を務めた「藤文屋」旅籠屋「川坂屋」日坂宿の建物は1852年の日坂宿大火で焼失してしまいましたが、川坂屋はその後の江戸時代末期に建てられています。その川坂屋の先には、高札場も復元されていました。ようやく大井川の難所を越えたかと思うと、さらには小夜の中山の難所が待ち構えていたため、昔の旅人たちは息つくひまもなかったのではないでしょうか。関連の記事東海道~金谷宿→こちら東海道~掛川宿→こちら
2010/01/28
コメント(0)
島田宿から大井川を渡ると、金谷宿に入って行きます。島田宿も金谷宿も同じ静岡県島田市にあるのですが、大井川を挟んで島田宿は駿河、金谷宿は遠江にあり、金谷宿は遠州最初の宿場町となります。金谷宿の旧街道本陣は大井川に近い東よりにあったようで、現在は書店に変わっていました。金谷宿の佐塚本陣跡(それでも屋号は同じです)金谷宿を通る東海道は短くて、本陣があったかと思うとすぐに上方の入口跡に着きました。江戸時代には「西入口土橋」や「金谷大橋」と呼ばれ、長さ10mの土橋が架かっていたそうです。ようやく大井川の難所を渡り終えたかと思うと、今度は「金谷坂」の急坂が待ち構えています。牧之原台地へと続く金谷坂金谷坂の旧街道では、一部石畳が復元されていました。「平成の道普請」で築かれた石畳です。東海道からは少し外れますが、牧之原台地の上には「牧之原公園」があり、眼下に大井川を眺めることができます。大井川と駿河湾(まだ遠州灘ではなさそうです)大井川の上流部に目を向けると、南アルプスの連山が白く見えていました。再び東海道に戻って金谷坂の石畳を登り切ると、今度は一面の茶畑の中を行くようになりました。ふと「あら?見覚えがあるな…」と思っていたら、このまま諏訪原城へと続いていました。諏訪原城は築城の名手馬場信春によって築城され、武田流築城術の三日月堀などが随所に残っています。(一見の価値がある名城です)諏訪原城の記事(2009年6月)→こちら諏訪原城を訪れた時は全く知らなかったのですが、目の前の細い道が実は旧東海道でした。諏訪原城を通り越してしばらく行くと、今度は菊川へと下る坂道となりました。こちらも石畳が復元されています。やはり「平成の道普請」で復元されたものですが、旧街道で石畳が残っているのは、中仙道の十曲峠、東海道の箱根峠と金谷坂だけだそうです。金谷宿から次の日坂宿までの間はアップダウンの激しい難所が続くため、宿場町の間の菊川に「間の宿」が置かれていました。間の宿「菊川」の旧街道当時は旅籠屋がずらりと並んでいたそうです。1221年に後鳥羽上皇が鎌倉幕府追討の院宣を出した「承久の乱」の時、上皇側について捕らえられた藤原宗行は、鎌倉へ護送される途中で菊川宿に泊まりました。さらには1324年の後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕計画「正中の変」では、後醍醐天皇方について捕らえられた日野俊基が、やはり鎌倉へ護送される途中に菊川宿に泊まっています。鎌倉へ護送される途中で死期を覚った藤原宗行は菊川宿に詩を書き残し、日野俊基は藤原宗行を追悼して歌を書き残しています。「昔は南陽県の菊水下流を汲みて歳を延ぶ今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」(藤原宗行)「いにしへも かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をやしづめん」(日野俊基)同じ無念の思いを残したのが菊川宿とは、何とも言えない運命を感じますが、藤原宗行の110年後、そして日野俊基の9年後、足利尊氏や新田義貞、楠木正成たちの活躍により、鎌倉幕府は滅亡しています。関連の記事東海道~島田宿→こちら東海道~日坂宿→こちら諏訪原城(2009年6月)→こちら
2010/01/27
コメント(0)
島田宿の西側には東海道有数の難所、遠江との国境を流れる大井川があります。現在も「大井川川越遺跡」として、当時の町並みが保存され、旧街道の面影を残しています。大井川は氾濫を繰り返して来ましたが、1604年の慶長の大洪水では川除堤が決壊して島田宿が押し流されてしまいました。その後の治水と灌漑工事によって、1644年までに灌漑用水と大堤が完成したのですが、今もその一部が残っています。大井川大堤江戸時代になって街道が整備された後も、大井川に橋を架けることは禁止され、駕籠・高台・肩車などで川を渡る必要がありました。1696年から大井川の川越は本格的に管理・統制されるようになったのですが、その川越を管理していた場所が「川会所」で、現在も建物が移築・現存しています。川会所右が水深を測って賃銭を決定する「川庄屋」で、左が賃銭の取立てや川越人足の管理をする「年行事」です。さらには当時の川越で使われた蓮台や籠も展示されていました。半高欄蓮台高欄蓮台駕籠一般的には川越人足の肩車で渡っていたそうで、棒につかまって渡る「棒渡し」などもあったそうです。当時の大井川の水深は平均76センチもあったそうで、当時の川越はまさに命がけでした。大井川手前の旧街道この道の向こう側には、大井川の難所が待ち構えています。広重の浮世絵にも、当時の川越の様子が描かれていました。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の意味がわかるような気がします。現在の大井川無事に大井川を渡ると、いよいよ遠州に入って行きます。関連の記事東海道~島田宿→こちら東海道~金谷宿→こちら
2010/01/26
コメント(0)
いよいよ東海道も駿河国最後の宿場町である島田宿まで来ました。問屋場付近の旧東海道常備人足が136人、伝馬は100頭もいたそうです。その問屋場跡には、島田刀匠碑も建っていました。島田刀匠碑島田の刀鍛冶は室町時代からの歴史を持ち、戦国時代には武田氏や徳川氏の高い評価を受けて、多くの刀鍛冶集団が形成されてきました。刀剣のその名を残す名刀も島田から数多くが生み出されています。刀剣もさることながら、島田と言えば「文金高島田」に代表される「島田髷」の発祥の地でもあります。江戸時代の全国的に流行した島田髷も、元は島田宿が発祥でした。そんな名高い歴史を持つ島田宿の旧東海道をさらに西へ進むと、大井神社へとやって来ました。大井神社境内には、東海道の常夜燈が解体復元されています。当時の部材を利用して、1年以上の歳月をかけて復元されたものです。大井神社では「日本三大奇祭」の1つである、「島田の帯祭り」が10月中旬に行われます。元々は3年に1度のお祭りだったのですが、他町村から嫁いできた花嫁が大井神社に参詣した後、帯だけを大井神社に飾って島田宿の人たちに披露したのが始まりです。現在では大名行列の後に続いて、25人の「大奴」が晴着の帯を披露するそうです。境内の大奴像これも島田髷なのでしょうか。大井神社の参道には石垣が積まれていますが、大井川の川越人足が河原から持ち帰った石を積んだものだそうです。てっきり現代になって積まれたものだと思っていたら、ちゃんとした野面積みの石垣でした。(横須賀城の玉石垣みたいですが、横須賀城は天竜川の川原石を野面積みにしたものです)大井神社から少し西へ行った旧東海道沿いには、大善寺があります。大善寺本堂大善寺の鐘は、島田宿に時刻を告げる「時の鐘」として親しまれてきました。大善寺鐘楼大善寺を過ぎたあたりが「上方見付」、島田宿の宿場町もここで終わりです。上方見付跡駿河の宿場町もここで終わり、この先にはいよいよ大井川の川越が待ち構えています。関連の記事東海道~藤枝宿→こちら大井川川越遺跡→こちら東海道~金谷宿→こちら
2010/01/25
コメント(0)
「丸いお城」が武田流築城術の特徴ですが、その顕著な例が田中城かも知れません。本丸から同心円状に曲輪が配されており、珍しい「輪郭式」と呼ばれる縄張りです。しかしながら現在では完全に住宅地と化しており、城郭を比定するのは非常に困難でした。本丸の跡(小学校の敷地になっていました)それでも本丸を中心として道路が同心円状の環状をしており、輪郭式城郭の名残があります。城郭の遺構としては、武田流築城術の特徴である三日月堀の跡もわずかに残っていました。本丸南側の三日月堀の跡本丸東側の三日月堀の跡本丸の周囲には二の丸が置かれていたのですが、二の丸から本丸へ至る虎口のあった場所には、わずかに水堀と土塁の跡がありました。現在は完全に住宅地となっています。江戸時代の田中城では、城郭の外側に下屋敷が置かれていたのですが、現在は建物が移築されて現存しています。本丸にあった櫓(移築現存)郷蔵茶室と泉水庭園こちらも下屋敷にあったようで、外堀の役目を果たした六間川の水を引き入れていたようです。田中城は元々今川氏の築城でしたが、今川義元亡き後は武田信玄の遠江攻略の拠点となりました。田中城の築城主は馬場信春であり、諏訪原城・小山城と共に、遠江浜松城に拠点を置く徳川家康に対する攻略ラインを形成していました。設楽が原(長篠)の戦い以降は徳川家康の支配下となり、以後代々徳川氏の譜代が入城しています。徳川家康が最期に鯛の天ぷらを食べて体調を崩しましたが、その天ぷらを食べた場所が田中城でした。関連の記事東海道~藤枝宿→こちら
2010/01/24
コメント(2)
東海道の岡部宿から続く松並木を抜けると、江戸から数えて22番目の宿場町である藤枝宿へと入っていきます。藤枝宿へ続く松並木藤枝宿の東の入口である東木戸跡東木戸の近くには成田山新護寺がありますが、鎌倉時代には「左車山休息寺」という変わった名前で呼ばれていました。鎌倉時代に後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王が、6代将軍になるため京都から鎌倉に向かう途中、乗っていた車の左車輪が壊れたため、修理のためにここに立ち寄りました。元々は照光院という名前でしたが、以後は左車山休息寺と名付けられ、今も左車の地名が残っています。戦国時代の戦火で焼失して廃寺同様でしたが、成田山の分身を勧進して、今は静岡県唯一の成田山となっています。藤枝宿の旧街道は商店街となっていましたが、道沿いに置かれた常夜燈がわずかに旧街道の面影を残していました。復元された鬼島建場の常夜燈蓮正寺境内に残る秋葉灯篭宿場の西の方に宿場町の中心があったのですが、問屋場の跡は交番になっていました。今はすっかり変わってしまいましたが、広重の浮世絵に描かれたのが、この問屋場です。本陣付近には、駿河記にも書かれた神明神社や、日蓮が植えたとされる「久遠の松」がある大慶寺があります。「昔蓮華池畔岩田山の宮社をここに奉還す」との記述がある神明神社大慶寺山門1253年に、日蓮が京都の比叡山に遊学に行く途中でここに立ち寄りました。そしてその時に松を植えて「久遠の松」と名付けたのですが、その松は樹齢700年を越えて今も残っています。久遠の松藤枝宿は田中城の城下町でもあったのですが、街道の東の入口には「従是西田中領」の石標が建っています。田中城は旧街道の南にあるのですが、輪郭式の珍しい縄張りを持つ城郭です。関連の記事東海道~岡部宿→こちら田中城→こちら
2010/01/23
コメント(0)
丸ビルの1階で甲冑展が行われていると聞いて、さっそく見に行って来ました。各戦国武将の本拠地のブロックごとに、甲冑がずらりと並んでいたのですが、これだけの甲冑が揃うと壮観と言うより他はありません。(甲冑はもちろんレプリカです)錚々たる面々がキラ星のごとく並んでいたのですが、おそらくこれだけの武将が集まったのは、関ヶ原の戦いや小田原攻めの時もなかったことだと思います。東北勢伊達政宗と直江兼続がこうやって並ぶことはなかったことでしょう。それでも伊達政宗と片倉小十郎は主従で並んでいました関東勢鹿角前立て兜の人の本拠地は「江戸」となっていましたが、この人は江戸城ではなく大多喜城です。それにしても本当の関東勢である佐竹義重・里見義堯・北条氏康の面々がいないのは寂しい限りです。中部甲信越勢この辺りは泥試合の様相があります。この方は特別枠で織田信長近畿勢豊臣秀吉にしても藤堂高虎にしても、この人たちは本当に戦闘する気があったのでしょうか。中国四国勢近畿勢に比べると、まだ実用的な感じがします。九州勢やはりここが最も実用的ではないでしょうか。この中からあえて個人的なベスト3を選ぶとしたら、こうなると思います。第1位本多忠勝第2位井伊直政第3位榊原康政甲冑というより単に人物的なものかも知れませんが、この3人の親分はあのタヌキおやじです。よく文句1つ言わずにがんばったものです。最近の戦国武将ブームもあってか、ものすごい人だかりだったのですが、年配の男性か若い女性ばかりだったような気がします。※この甲冑展は1/17に終了しております。
2010/01/22
コメント(2)
岡部宿の五智如来像の横に岡部宿の案内所があり、何か情報はないものかと入ってみることにしました。最初はガイドの方と宿場町についての話をしていたのですが、その中で岡部は岡部氏の本拠地だったとのことです。「あの岡部氏ですか?あの桶狭間で今川義元の首級を取り返した岡部元信の・・・あの高天神城の・・・」と言うと、「高天神にもいましたね・・・って城も好きなんですか?」という話になりました。「どちらかというと城の方がメインでして・・・」そこからは周辺各地の城跡の場所を教えてもらい、予定を変更して訪れたのが朝日山城です。(藤枝宿に行くつもりだったのですが)朝日山城の跡には朝日稲荷神社が建っており、山頂部に曲輪が並んでいるようです。朝日山城全体図山麓の大手口にある鳥居頂上部に続く道を登っていくと、山腹には巨大な竪堀がありました。木々に隠れて見づらいのですが、幅は20m、深さは5m以上ありそうです。朝日山城の縄張りはシンプルで、山頂部の斜面に沿って曲輪が並ぶ連郭式になっていました。三の丸の跡さらに登った二の丸の跡には、神社の社殿が建っていました。二の丸から一段高くなった場所に本丸があり、ここにも神社の社殿が建っています。背後に土塁の跡があります。社殿裏手にも曲輪が広がっており、土塁の跡も残っていました。神社を下りて南側の山麓部に行くと、「展望台」と書かれた削平地がありました。ここが曲輪だったのかどうかはわかりませんが、物見台の跡だったのかも知れません。さすがに見晴らしがよく、岡部宿が一望できました。南側の東海道方面北側第二東名高速の建設中です朝日山城は室町時代に岡部氏によって築かれ、以後は岡部氏の本拠地となりました。平野部に居館があったようで、朝日山城は詰城だったのかも知れません。戦国初期の山城といった感じですが、詰城としては規模が大きい城郭だと思います。関連の記事東海道~岡部宿→こちら
2010/01/21
コメント(2)
丸子宿から宇津ノ谷峠の要衝を越えると、旧東海道も平坦となって岡部宿に入っていきます。奈良時代に官道が整備された頃の東海道は、焼津から日本坂を抜けて駿府に至る海沿いのルートをたどっていました。その後源頼朝によって宇津ノ谷を越えるルートが整備され、岡部宿が設立されています。江戸時代の岡部宿には本陣が2軒と脇本陣が2軒あったのですが、旅籠屋は大小合わせて27軒しかなく、割と小さな宿場町でした。それでも旅籠屋の1つである「柏屋」は、今も旧街道の面影を留めて今に残っています。旅籠屋の「柏屋」歴史資料館となっていますが、建物は江戸時代の1836年に建てられたもので、登録文化財に指定されています。その柏屋の2軒先にあるのが「内野本陣」ですが、今も人が住んでいるようなので、中を見るわけにはいきませんでした。内野本陣跡本陣の隣に「岡部宿公園」という公園があったのですが、これが何なのかはよくわかりませんでした。特に何があるわけでもないのですが、本陣のすぐ隣だからという理由で造られたのでしょうか。2車線の車道となっている旧東海道ですが、途中から狭い道幅に分かれて、旧街道の道幅を今に残していました。静岡県内の旧東海道ではおなじみの看板です。1車線の旧街道が再び2車線の道路と合流したところには、「五智如来像」が建っています。元々は丸子宿の誓願寺にあったのですが、誓願寺の移転と共にここに移されたものです。1705年に田中城の城主となった内藤豊前守式信には、口の不自由な姫がいました。それを悩んでいた内藤式信でしたが、徳川家の奥方に相談すると、「誓願寺の阿弥陀さまにお参りするといい」と教えられ、お参りを続けた満願の日に姫は口をきけるようになったそうです。そして内藤氏の家老であった脇田正明により、この五智如来像がこの地に寄進されました。五智如来像からは2車線の道路が続きますが、道路脇には東海道の象徴である松並木が今も残っていました。このまま藤枝宿まで行くつもりだったのですが、五智如来像の隣にある観光案内所のガイドさんの話を聞いて、急遽予定変更を変更することになりました。(岡部の地名の由来を聞いたことから始まった話です)関連の記事東海道~丸子宿→こちら田中城→こちら
2010/01/20
コメント(0)
丸子宿の中心部を過ぎると、旧東海道は山あいを行くようになり、いよいよ宇津ノ谷峠の要衝へと差し掛かります。宇津ノ谷の旧東海道は昔の道幅をとどめており、峠の旧街道の風情が残っていました。この辺りでは今でも「伊勢屋」などの屋号で呼んでいるそうですが、その中に「お羽織屋」の屋号を持つお店があります。お羽織屋元々は「石川屋」という屋号だったのですが、ある出来事をきっかけに「お羽織屋」の屋号を名乗るようになりました。1590年の北条氏の小田原城攻めの時、東海道を東上していた豊臣秀吉は、石川屋の軒下に吊るされた馬の沓に目を止め、使い古された自分の馬の沓と取り替えようとしました。しかしながら石川屋の主人は、四脚の馬に対して三脚分の沓しか差し出そうとしませんでした。「馬の脚は四本なのに、どういうわけか」と尋ねる豊臣秀吉に対し、石川屋の主人はこう応えました。「申し上げます。差し上げた三脚分の馬の沓は、道中安全をお祈り申し上げたつもりでございます。残る1脚分でお戦のご勝利を祈るつもりでございます。」それを聞いた豊臣秀吉は、機嫌よく小田原に向けて出発して行ったそうです。しかしながらこれだけだと、なぜ豊臣秀吉が機嫌よく出発していったのか理解に苦しむところです。石川屋の主人は「四」が「死」を意味するので縁起が悪いので機転を利かし、豊臣秀吉も鋭敏にそれを察知したからだそうです。それから半年ほど経って、小田原城攻めの帰りに豊臣秀吉は再び石川屋に立ち寄りました。そして約束通り勝利で帰って来た豊臣秀吉は、褒美として自分の着ていた陣羽織を石川屋に与えました。それからは「お羽織屋」を名乗るようになったのですが、その豊臣秀吉着用の陣羽織は今も残っており、石川屋では陣羽織を見せてもらうことが出来ます。豊臣秀吉が着用していた陣羽織店のおばあさんが長時間丁寧にエピソードを語ってくれましたが、話の最中も展示してある陣羽織が気になって仕方がありませんでした。実は豊臣秀吉の陣羽織がここあることは以前から知っていたのですが、それでも実際に陣羽織を目の前にすると新鮮な感動がありました。この陣羽織を見ようと訪れた人は数多く、徳川家康もその1人でした。徳川家康も感動して、記念に茶碗を置いていったそうです。徳川家康が贈った茶碗他にも大勢の大名がここを訪れ、その芳名録を見ると錚々たる名前が並んでいました。宇津ノ谷の要衝にある旧街道の片隅ですが、ここを実際に訪れた人の顔ぶれを思うだけで、自分もここを訪れていることの不思議さを感じます。旧街道に残された数々の足跡には、街道めぐりの醍醐味があるような気がしました。関連の記事東海道~丸子宿(その1)→こちら
2010/01/19
コメント(2)
府中宿から安倍川を渡ると、丸子宿へと入って行きます。丸子宿の江戸方見付跡丸子宿は江戸から数えて20番目の宿場町ですが、東海道五十三次の中でも最も規模の小さい宿場町でした。丸子宿の旧街道本陣1軒・脇本陣2軒と、旅籠屋は大小合せても24軒ほどの小さな宿場町です。現在の本陣跡には、その碑だけが建っていました。本陣付近の旧東海道丸子宿は「とろろ汁」で有名ですが、丸子川の橋の手前には歌川広重の浮世絵にも登場する「丁子屋」が今も残っています。「東海道五十三次 丸子」に描かれた丁子屋こちらが現在の丁子屋です。丁子屋は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも登場しています。安倍川を肩車で渡った弥次さんと喜多さんが、にわか雨に降られて丸子の茶店に駆け込んだものの、店では夫婦喧嘩の最中で名物のとろろ汁を食べられなかった話があります。丁子屋の隣には、その十返舎一九の碑が建っていました。「けんくハする 夫婦は口をとがらして 鳶とろろにすべりこそすれ」丁子屋を過ぎて丸子川を渡ると、旧東海道は山麓に沿って通るような形になりました。丸子城もその山の上にあるのですが、丸子城の麓にあるのが誓願寺です。誓願寺山門建久年間(1190~1199)に源頼朝によって建立された古刹ですが、戦国時代の天文年間(1533~1555)に、丸子城の戦火に巻き込まれて焼失してしまいました。それを惜しんだ武田信玄は、1568年に誓願寺を再建しています。誓願寺本堂1614年には豊臣家の重臣で、「賎ヶ岳七本槍」の1人でもある片桐且元が誓願寺に滞在していました。駿府城の徳川家康に対し、方広寺鐘銘事件の申し開きのために片桐且元は誓願寺に滞在していたのですが、結局片桐且元の申し開きは通ることなく、大阪冬の陣へと続いていきました。境内の片隅には、その片桐且元の墓所がひっそりと置かれていました。片桐且元の墓所誓願寺を過ぎて旧東海道を西へ向かうと、宇津ノ谷峠の要衝へと差し掛りますが、ここにも豊臣秀吉に縁の深い場所がありました。関連の記事東海道~府中宿→こちら東海道~丸子宿(その2)→こちら丸子城→こちら決定版東海道五十三次ガイド
2010/01/18
コメント(0)
旧東海道の丸子宿を見下ろす山の上にあるのが丸子城です。あの山の上に城郭があるのですが、明らかに稜線上に削平地や堀切が見えています。(蒲原城以来久々の戦国山城なので、少し気負い気味でした…)とにかく山上の城郭を目指して登城道を登って行ったのですが、ひたすら急な斜面がずっと続いていました。それでも斜面の途中には、竪堀と思われるものがありました。ずっと下まで続いていたのですが、山ひだにしては出来過ぎのような気がします。ようやく斜面がなだらかとなって、稜線上をたどるようになると、目の前に土塁が見えてきました。土塁跡?この上に曲輪があるような気がします。果たして土塁の上には曲輪の跡があったのですが、どうやら搦め手方向に登城道がついていたようで、いきなり本丸に出ました。本丸の土塁本丸に縄張り図があったのですが、地形を活かしながらもシンプルな印象を受けました。(武田氏の築城ような感じがします)さらに本丸の周囲を探索してみると、周囲には空堀がめぐらされていました。空堀の向こう側には独立した曲輪があり、そのさらに向こう側にも空堀がめぐらされています。物見櫓が建っていたのでしょうか。空堀をよく見ると、三日月堀でした。やはり武田流築城術…本丸から稜線をたどると、連郭式に曲輪が連なっており、それぞれ堀切で区切られていました。本丸と二の丸の間の堀切二の丸の曲輪二の丸の背後にも空堀がめぐらされ、本丸からずっと続いているようでした。二の丸の空堀(木々に隠れてわかりづらいですが、はっきりと空堀がありました)二の丸からも尾根に沿って曲輪が並んでおり、やはり曲輪と曲輪の間は堀切で区切られていました。三の丸の曲輪北曲輪縄張り図には「今川氏の本丸」とありますが、他の曲輪よりも高い位置にありました。北曲輪の土塁縄張りはとてもシンプルな感じですが、地形を上手く利用した築城となっています。空堀などの防御設備も厳重で、なかなか堅固な城郭だと思いました。丸子城の築城年代はよくわかりませんが、今川方の斉藤氏によって築城され、その後は今川氏第7代の当主である今川氏親の本拠地となっていたようです。ちなみに今川氏親は相続争いの末に当主となったのですが、その相続争いを援護したのが伊勢新九郎長氏(北条早雲)です。その後は今川氏の本拠地である駿府城の支城として機能していましたが、今川義元が桶狭間の戦いで討死した後、1568年に武田信玄が駿河に侵攻し、丸子城も武田氏の拠点となりました。(この時に城郭も改変されて、武田流になったのかも知れません)武田信玄は山県昌景を城主にして駿河進出の足がかりとしていましたが、高天神城の攻防戦で徳川家康に敗れると、丸子城も徳川氏の支配下となりました。駿河の領有をめぐっては、武田・徳川の間で激しい攻防戦が展開されましたが、丸子城も例外ではなかったようです。関連の記事東海道~丸子宿→こちら高天神城(2009年6月)→こちら
2010/01/17
コメント(0)
旧東海道の府中宿をさらに西へ進むと、静岡市街地の西側を流れる安倍川へとやって来ました。歌川広重「東海道五十三次 府中安倍川」現在の安倍川はこんな感じです。同じアングルで撮ったつもりですが。。。江戸時代の東海道には架橋が禁止されていた川がいくつかあり、大きな川では大井川と安倍川がその代表例です。いずれも川越人夫によって、川を渡してもらう必要がありました。安倍川の両岸には、その川越人夫の監督所である「川会所」が置かれていました。川会所跡毎日役人がここに詰めて、川越人夫の指示や渡し賃の取扱、さらには警備監督を行っていました。(皮肉なことに、現在の川会所の跡には交番が建っています)その安倍川の脇には、「義夫の碑」が建っています。1738年に紀州(和歌山)の旅人が、安倍川の渡し賃があまりに高いので、人夫を雇わずに自分で渡ろうとしました。しかしながら、川を渡ろうと着物を脱いだときに、うっかり財布を落としてしまいました。その旅人の財布をたまたま川越人夫の喜兵衛が拾ったのですが、その人夫は旅人の後を追って次の丸子宿の方へと向かって行きました。ようやく宇津ノ谷峠で財布を探しに戻って来た旅人に出会い、無事に財布は旅人の手に帰ったのですが、礼金を渡そうとする旅人に対し、川越人夫の喜兵衛は「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前だ」と受け取ろうとしなかったそうです。(この後で丸子宿の宇津ノ谷峠を越えましたが、すごい難所です)喜兵衛がどうしても礼金受け取らないので、旅人は仕方なく駿府町奉行に礼金を渡すことにしました。奉行所からの呼び出しでも喜兵衛は礼金を受け取ろうとしないため、町奉行は礼金を旅人に返し、喜兵衛には褒美としてお金を渡したとのことです。そして昭和4年にその美談を称えて、和歌山県と静岡県の学童有志により。「義夫の碑」が建てられました。その碑にはこう書かれています難に臨まずんば 忠臣の志を知らず財(たから)に臨まずんば 義士の心を知らず意味はよくわかりませんが、道徳の教科書に出そうないい話があったものです。ところで安倍川と言えば、やはり「安倍川餅」でしょうか。安部川の上流で金が採れることもあり、ある人が「きな粉」を「金な粉」と洒落て徳川家康に献上したところ、家康は大喜びして「安倍川餅」と名付けたそうです。今も安倍川の近くには、あべかわ餅のお店が並んでしました文化元年(1804年)創業の「石部屋」関連の記事東海道~府中宿(その1)→こちら東海道~丸子宿→こちら
2010/01/16
コメント(0)
東海道五十三次のうち、江戸から数えて19番目の宿場町が府中宿です。「府中」と聞いてもピンと来ない感じですが、まさに静岡市の中心部に府中宿がありました。東海道が通る国はいくつもありますが、唯一「府中」を名乗っているのは、徳川家康のお膝元である駿府ならではでしょうか。華陽院門前町付近の旧街道「華陽院」はお寺の名前なのですが、徳川家康にゆかりの深い人の名前でもあります。またの名を「源応尼」と言いますが、松平清康の正室で、徳川家康には祖母にあたる人です。その華陽院は旧東海道沿いの住宅地の中にありました。華陽院幼くして父を亡くし、さらには母と生き別れた上に、今川義元の人質として駿府で暮らしていた徳川家康にとって、岡崎城から駿府に招かれた源応尼が唯一の肉親であり、唯一の理解者だったことでしょう。徳川家康が大御所として駿府城に引退した後、祖母のために盛大な法要を営んで、ここを菩提寺としました。それまでは知源院と呼ばれていましたが、祖母の法名をとって華陽院と名を改めています。境内にある源応尼(華陽院)の墓所華陽院の門前町からしばらく行くと、伝馬町の界隈へ続いていきます。伝馬町の旧東海道伝馬町は上伝馬町と下伝馬町に分かれ、この付近に本陣が置かれていたのですが、今となってはわずかに碑が建っているだけでした。下伝馬町本陣跡上伝馬町本陣跡(歩道上に駐輪された自転車の中に埋もれていました)徳川家康とはゆかりの深い駿府ですが、幕末に徳川幕府の運命を決定付けたのも駿府だと言えることでしょう。府中宿の伝馬町にある松崎屋源兵衛の邸宅跡ですが、1868年3月9日に東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)が、ここで会見しました。ここで合意された内容は、徳川慶喜の処遇、江戸城の無血開城、そして徳川幕府の武器・弾薬の引渡しです。その5日後には西郷隆盛と勝海舟が会見し、世界史にも類を見ない無血の政権交代が決定されました。伝馬町からの旧東海道は複雑に折れ曲がって。呉服町へと続いて行きました。呉服町の旧東海道徳川家康のお膝元である駿府城のすぐ近くを通るのですが、さすがに直進進入はできないようになっていました。府中宿の絵図それでも旧街道から少し足を伸ばすと、すぐに駿府城の外堀がありました。駿府城の虎口「城代橋」駿府城は三重の堀を巡らせた輪郭式の城郭ですが、その最も外側の堀が今も残っています。駿府城の記事(2007年9月)→こちら駿府城大手門跡枡形虎口になっており、渡櫓があったことだと思います。(ついつい足が城内に向きそうになってしまいます。。。)旧東海道は駿府城の大手門の前でさらに折れ曲がり、その角には町奉行と高札場が置かれていました。町奉行跡(旧静岡市役所)高札場のあった場所は四辻の普通の交差点になっていますが、当時は駿府城に背を向けるように直角に曲がっていました。高札場のあった場所は「札之辻」と呼ばれていましたが、今は交差点の片隅に碑が建っているだけでした。関連の記事東海道~江尻宿→こちら東海道~府中宿(その2)→こちら東海道~丸子宿→こちら駿府城(2007年9月)→こちら
2010/01/15
コメント(0)
急斜面が太平洋に迫る東海道の由比宿付近では、東名高速・国道1号線・東海道本線・旧東海道が、身を寄り添うようにして狭い海岸線を通っています。中でも東名高速は最も海岸に近い所を通っており、由比PAのすぐ目の前には太平洋が広がっています。駿河湾越しに富士山を望む正面には太平洋の水平線が広がっており、東名の下り線を走るときは、ちょっと車を止めてみるといいかも知れません。サッタ峠天気も良く、おそらく絶景が見えることと思います。台風が接近した時などは、高波が高速道路上にまで押し寄せるため、通行止めになることもしばしばです。関連の記事東海道~由比宿(その1)→こちら東海道~由比宿(その2)→こちら
2010/01/14
コメント(0)
柴又帝釈天裏手の江戸川には、都内で唯一残る渡し舟「矢切の渡し」があります。元々は江戸時代の1631年に、地元住民専用の渡し舟として始まったのですが、今となってはもっぱら観光用として往復する人が大半のようです。柴又の渡船場この辺りで江戸川に架かる橋は、上流の新葛飾橋(国道6号線)か下流の市川大橋(国道14号線)しかなく、それぞれ柴又からは約3Kmの距離にあります。柴又から対岸に渡るには便利なのですが、対岸には何もないので、渡し舟を生活用に使う人はほとんどいないかも知れません。料金は「大人100円、小人50円」となっており、混雑していない時は自転車も乗船可能です。自転車を乗せてもらって国府台から市川大橋を回って行こうかと思ったのですが、超満員だったので乗せてもらえませんでした。関連の記事柴又帝釈天→こちら寅さん記念館→こちら国府台城→こちら
2010/01/12
コメント(2)
柴又の江戸川沿いには「寅さん記念館」があり、今も寅さんファンが数多く訪れています。映画で使われた「とらや」のセット今にも寅さんがふと帰って来るような気がします。とらやの模型映像も数多くあり、山田監督との台本の読み合せのシーンなど、貴重な映像も数多くありました。台本の読み合せでも寅さんファミリーは、やっぱり寅さんファミリーです。いつも笑いが絶えないのが印象的でした。その寅さんファンミリーの知られざる家系図など。「男はつらいよ」の台本さらには歴代マドンナ。そう言えばリリーさんが、「私は小岩だから歩いて帰るわ…」と言っていたのを覚えています。(柴又から小岩までは結構ありますよ…)今でも帝釈天や江戸川の土手にいると、ふと寅さんが帰ってきそうな感じがします。今の世の中を寅さんはどう見ているのでしょうか。「しけた面してんじゃね~よ」なんて…関連の記事柴又帝釈天→こちら
2010/01/11
コメント(2)
「男はつらいよ」でおなじみの柴又帝釈天ですが、経栄山題経寺というのが正式名称です。自宅が柴又街道沿いにあるので、そのまま柴又方面に真っ直ぐ行くと参道の入口なのですが、参道は混雑していたので、回り道をして山門に向かいました。「男はつらいよ」でもよく登場する山門「仁天門」仁天門から見た参道お正月の初詣の時ほどではないにしても、ちょうど「庚申」の縁日なので境内も人がいっぱいでした。本堂鐘楼源公(佐藤蛾次郎)が撞いていた鐘です。「柴又帝釈天」の題経寺は江戸時代の1629年に開基されましたが、日蓮が刻んだとされる「板本尊」は行方不明となっていました。1779年に第9代の日敬が、改修中の本堂の梁の上に板本尊を発見したのですが、この日が「庚申」であったことから、2ヶ月に1回の「庚申」の日が帝釈天の縁日とされています。板本尊を発見した日敬は、板本尊を背負って天明の大飢饉に苦しむ江戸の市中を回ったのですが、不思議なご利益があったことから柴又帝釈天の信仰が広がっていきました。昭和になってから、柴又帝釈天の名前を広めたのは、やはり寅さんでしょうか。帝釈天の裏手には江戸川が流れ、寅さんがたたずんでいた土手が広がっています。私も江戸川の土手沿いの景色が好きなのですが、ここに座ると心が落ち着くのも、やはり寅さんの影響でしょうか。「ま~、いいってことよ…」(寅さん記念館の映像)関連の記事国府台城→こちら
2010/01/10
コメント(0)
「川崎大師に初詣に行ってみるか…」と軽い気持ちで行ってみたものの、とんでもなく人が多いので圧倒されそうになりました。参道は人また人であふれかえっていました。ようやく山門に到着。入場制限を行っているようで、進んでは止まりの繰り返しとなりました。ようやく大山門に到着。本堂ははるか彼方に途中で気持ちがなえそうになったのですが、がんばって本堂を目指して少しずつ進んで行きました。ようやく本堂が近づいてきました。大山門を通ってから本堂まで30分近くかかっていたように思います。参拝を済ませて振り返ると、卒倒しそうなくらいに人があふれていました。苦労して参拝しただけに、ご利益があるといいのですが…関連の記事東海道~川崎宿→こちら
2010/01/04
コメント(2)
昨シーズンから広島カープの本拠地となった「MAZDA Zoom Zoom スタジアム広島」を初めて訪れました。本拠地を訪れることは聖地巡礼のような気がしますが、まさに今年の初詣に相応しい場所かも知れません。広島駅からマツダスタジアムまでは、山陽本線の線路沿いを800mほど歩くことになりますが、旧広島市民球場があまりにも便利な場所にあったため、駅から徒歩10分の距離は随分と不便な感じがしました。そんなことを思っていると、球場に向かう途中にはカープの歴史や選手たちの写真パネルが並んでおり、1つ1つ見ているうちに球場に着いてしまいました。1975年の赤ヘル軍団「赤ヘル」の生みの親ジョー・ルーツ監督が真ん中に写っています。そしてカープの中で忘れてはならないのが、この人。32歳でこの世を去った、「炎のストッパー」津田恒美投手です。さらには現役の選手たちのパネルも並んでおり、恥ずかしくなるほど素晴らしい賛辞でプロフィールが紹介されていました。タカギベーカリーが懐かしい…最後の前田健太で選手のパネルが終わったころ、マツダスタジアムの全景が見えてきました。広島でTVのCMを観ていると、「ボールパーク」と呼ばれています。スタジアム正面。今年こそAクラス入りを、あわよくば優勝を祈願して一礼です。さすがにカープの本拠地だけあって、この一帯はうれしいくらいにカープ一色に染まっていました。マンホールもこの通りです。さらには書店の一角もカープグッズでいっぱいでした。ところでマツダがネーミングライツを持っているのですが、マツダスタジアムの正式名称は「広島市民球場」です。ならば旧広島市民球場は、というと…跡地をどうするかまだ決まっていないようで、壊されずに残っていました。「旧広島市民球場」の看板が掛けられていましたが、やはりカープの歴史を飾った球場なので、カープファンにとっては恐れ多いことなのでしょうか。
2010/01/03
コメント(2)
広島城は別名「鯉城」と呼ばれ、わが広島東洋カープの名前もこの鯉城の広島城に因んで名付けられました。戦前までは天守などの建物が残っていたのですが、原爆により全て破壊されてしまい、現在は二の丸の門と櫓などが外観復元されています。復元された二の丸の「表御門」と「平櫓」二の丸の「太鼓櫓」下見板張りで統一された外観は、いかにも西国大名の城郭といった風情があります。二の丸表御門二の丸の曲輪毛利輝元の時代に築造された当時の曲輪で、本丸からは独立した馬出のような縄張りになっています。本丸には廣島護国神社があり、初詣の参拝客で賑わっていました。宮島の厳島神社よりも初詣客が多く、広島では参拝客が最も多いそうです。原爆によって当時の建物は全て消失してしまいましたが、石垣だけは原爆の爆風にも耐えて残っています。爆心地に近い本丸南側の石垣。原爆により黒く焦げた跡があります。太平洋戦争時は本丸に中国軍管区の司令部が置かれ、地下の通信室からは世界最初の原爆投下の第一報が打電されました。軍管区司令部跡。司令部に広島城の詳細な地図が残っていたため、その図を元に天守も外観復元されました。大天守昔は小天守閣との連立天守閣でしたが、大天守閣だけが復元されています。本丸の石垣は野面積みに近い打込み接ぎで積まれ、いかにも西日本の城郭といった印象でした。広島城は1591年に毛利輝元によって築城されました。毛利輝元は豊臣秀吉の聚楽第や大阪城を参考にし、太田川河口のデルタ地帯を城下町に選んでいます。関ヶ原の戦い後、毛利輝元は長門・周防2国に大幅減封され、萩城(長門)に移りましたが、毛利輝元に代わって入城したのが福島正則でした。福島正則と言えば、広島城を無断改修して改易となった事件が有名です。福島正則は洪水で破損した城郭を勝手に修復したとの理由から、1619年に幕府によって領地を没収されてしまいました。その福島正則が修復した石垣が現在も本丸の隅に残っています。本丸北東の石垣。写真右側と左側では明らかに石垣の積み方が違っています。右側は毛利輝元が築いた石垣で、左側が福島正則が築いた石垣です。福島正則が築いた方はあまりにきれいな打込み接ぎで、さすがにばれると思うのですが…それでも外堀や外郭を整備を進め、広島城を完成させたのは福島正則です。当時は、広島市民球場の前を通る相生通りに外堀がありましたが、現在の広島市の中心部も城内にあったことになります。関連の記事西国海道~広島宿(その1)→こちら西国海道~広島宿(その1)→こちら(財)日本城郭協会「日本100名城」
2010/01/02
コメント(2)
全24件 (24件中 1-24件目)
1