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京急蒲田から羽田空港の間に穴守稲荷駅があります。羽田空港まで京急の各駅で行くことはないので、気になりながらも降りたことはありませんでした。京急穴守稲荷駅前にある「鳥居」現在の穴守稲荷神社は、京急の穴守稲荷駅から歩いて5分ほどのところにあります。現在の穴守稲荷神社拝殿穴守稲荷神社の創建は江戸時代の1804年のことで、元々は現在の羽田空港の敷地内にありました。現在の京急空港線も、元は「穴守線」として、穴守稲荷神社の参詣客などを運ぶのが目的で作られた経緯があります。終戦後に羽田飛行場がアメリカ軍に接収されると、拡張のためGHQによって穴守稲荷神社境内の社殿は取り壊されてしまいました。それでも大鳥居だけは、撤去しようとすると死傷者が出たりして、空港の敷地内に残されていたそうです。終戦から50年以上も経った1999年に、ようやく鳥居が移転されました。元々の穴守稲荷があった羽田空港B滑走路(RWY04/22)の方向この日の"Tokyo International Airport"のATISをモニターしていると、磁方位270度の方角からかなり強い風が吹いているようでした。さらにインバウンドは、B滑走路(RWY22)と新しく出来たD滑走路(RWY23)のパラレルアプローチでした。D滑走路が出来る前、こんな日はB滑走路1本で着陸していたため、離着陸ともに大混雑していたのを思い出します。ターミナル管制と滑走路管制をモニターしているだけでも、以前に比べればかなり余裕があるような感じがして、D滑走路の新設で発着回数が増えるのもうなづける気がしました。現在の羽田空港は多摩川の河口付近にありますが、江戸時代の多摩川河口付近には干潟が広がっていたようです。歌川広重「名所江戸百景 はねたのわたし弁天社」描かれているのは玉川弁財天ですが、その向こうに穴守稲荷神社がありました。歌川広重のみならず、200年後にここから国際線が発着するとは、想像もできなかったことでしょう。現在の多摩川河口付近
2015/01/13
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金杉橋から古川沿いに400mほど下流へ行くと、現在の海岸線に行き着きました。視界が開けると、レインボーブリッジの向こうに大井のガントリークレーンが見渡せます。現在の隅田川の河口は判然としませんが、日の出埠頭と月島3号地の間が河口の一つになるでしょうか。対岸の月島ちょうど海上保安庁の巡視船が停泊しており、その手前を水上バスが通り過ぎて行きました。幕末の古地図で見ると、隅田川の河口ははるか上流部にあり、永代橋の先はすぐ海が広がっていたようです。東京港の数ある埠頭や桟橋の中で、日の出埠頭は最も歴史が古いそうです。現在は東京湾クルーズや水上バスの発着場となっています。東京湾クルーズの御座船「安宅丸」水上バスでは浅草行があるようで、日の出→浅草だと約40分、片道780円とありました。倍くらいの料金かと思っていたのに意外と安く、浅草までは船で帰ろうかとも思いました。それでも単に移動手段として考えるならば、電車に比べてずっと割高なので、ここは見送りとなりました。ところで、歌川広重が芝浦の風景を描いていて、おそらく隅田川河口付近の海側から俯瞰したものだと思われます。歌川広重「名所江戸百景 芝うらの風景」描かれている石垣は浜離宮や芝離宮だと思うのですが、広重独特のデフォルメなのか、位置が判然としませんでした。東京ガス本社の敷地には、石垣の跡が残っていました。松平氏の屋敷の護岸だとされていますが、石の積み方からして、江戸時代も前半の方だと思います。オフィスビルの中にいきなり石垣があるのは奇特ですが、広重が描いた石垣の一つかと思うと、なんだか感慨深いものがあります。
2015/01/12
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三連休の真ん中の日、JR山手線を浜松町駅で降りてみました・閑散としたコンコースの寿司屋で軽くつまんで一杯呑んだ後、コンコースから芝離宮を眼下に見つつ、足を向けたのは芝浦方面でした。現在はウォーターフロントエリアとしてオフィスビルが立ち並ぶこのエリアも、江戸時代は静かな漁師町だったようです。かつての東海道、現在の第一京浜(国道15号線)をしばらく行くと、渋谷川を源流とする古川に架かる金杉橋に行き当たりました。品川宿付近の旧東海道は東京湾の海岸線沿いをを通っており、当時の金杉橋も海岸線に近かったことがわかります。幕末の絵地図金杉の地名の由来については諸説あって、金色の杉のような大木が沖合から夜の目印になったとか、金洲崎が金杉になったとか言われています。いずれにいても海岸にまつわるもので、海に近かったことがうかがえます。歌川広重「名所江戸百景 金杉橋芝浦」かつての金崎橋の上流、将監橋との間の河岸には、時代劇などにも登場する金杉河岸がありました。現在の金杉河岸古川の上を首都高の環状線が通っています。金杉橋の下流部は湊町と呼ばれ、幕府御坊主の拝領屋敷が並んでいたようです。金杉橋から古川沿いを海に向かって歩いて行くと、100mほど行ったところにかつての海岸線の名残がありました。現在は東海道本線・山手線・京浜東北線・東海道新幹線と、その上を東京モノレールが通っていますが、明治になって鉄道が開通した時、線路は海の上の築堤を通っていました。この低いガードにも、かつての海岸線の名残を感じます。現在の海岸線はずっと先にあり、首都高の浜崎橋JCTで古川が海に続いていました。すぐ目の前は東京湾です。
2015/01/11
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この季節、京成本線の堀切菖蒲園駅界隈では、いつにない賑わいを見せています。電車で行くまでもないので、自転車で出かけて行きました。「葛飾菖蒲まつり」の期間中、京成バスでは「かつしか菖蒲めぐりバス」が運行されており、「堀切菖蒲園~水元公園~柴又帝釈天~堀切菖蒲園」の循環ルートとなっています。堀切菖蒲園の開園は室町時代との江戸時代とも言われており、200種の花菖蒲が植えられています。ところで葛飾区の「区の花」はハナショウブだそうで、それもわかるような気がします。わが葛飾の花菖蒲は、歌川広重の名所江戸百景にも描かれています。歌川広重「名所江戸百景 堀切の菖蒲園」堀切菖蒲園では、生育の年数ごとに田が分けられており、大切に育てられているのがよくわかります。花菖蒲の季節以外は訪れる人のない堀切菖蒲園ですが、この季節に花を咲かせるまで、数々の苦労があったことだと思います。そういう意味では、真夏の夜空を背景に一発のアートを描き出す、花火師にも似ているように思います。
2014/06/17
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JR京浜東北線の大森駅西口を出ると、すぐ目の前に交通量の多い2車線道路がありました。かつては「薬研坂」の別名があった「八景坂」戦国城郭でも急勾配で切り込んだ空堀を「薬研堀」と呼びますが、そう考えると当時は相当急な勾配だったことかと思います。ところで「○○八景」はポピュラーな呼び方ですが、八景それぞれにテーマがあるようで、「夜雨・晴嵐・暮雪・帰帆・夕照・落雁・秋月・晩鐘」をもって八景とするのがオーソドックスな呼び方だそうです。かつては大森の海岸から房総半島までが一望できたようで、坂の上から眺める「笠島夜雨・鮫洲晴嵐・大森暮雪・羽田帰帆・六号夕照・大井落雁・袖浦秋月・池上晩鐘」の八景をもって、八景坂の名前がついたそうです。大森駅西口の丘陵部には天祖神社があり、かつて源義家(八幡太郎)が奥州征伐に向かう途中、ここで戦勝祈願をしたとされています天祖神社源義家が境内にある松に鎧を掛けたと言われ、その松は「鎧掛松」と呼ばれていたようです。歌川広重の名所江戸百景にも、その鎧掛松が描かれていました。歌川広重「名所江戸百景 八景坂鎧掛松」当時は海岸線がすぐ近くまで来ていたようですが、この絵が描かれた30年ほど後、この海岸で大発見があるとは思ってもみなかったことでしょう。現在となっては鎧掛松もなくなってしまい、かつての風光明媚な光景も今や昔といった風情でした。再びかつての八景坂(現在の池上通り)を登って行くと、坂の上の交差点には「山王口」の名前がありました。山王口付近の池上通り平成13年にビルの建築工事を行った際、長さ16m、幅4mの道路跡が出土したそうです。室町時代の陶器も出土したことから、江戸時代の「池上道」や鎌倉街道とも関連があるとされています。また、道路跡の下からは奈良時代の須恵器も出土しており、この道が古代東海道の「大井宿」へ至る道の可能性もあります。その山王口の坂の上には、山王の名前通りに日枝神社が鎮座していました。「山王社」日枝神社その日枝神社の隣には「成田山 大森不動尊」があり、江戸時代はこちらが日枝神社の別当だったようです。「成田山大森不動尊」の円能寺おそらく不動明王がご本尊なのでしょうが、併設の幼稚園が学級閉鎖のためか、中に入ることはできませんでした。景観こそ変わってしまっていますが、地名だけは変わらずに昔の名残をとどめているものです。山王口の坂を越えると、日本史の教科書ではおなじみの史跡へとやって来ました。
2014/02/26
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現在は国道15号(第一京浜)が踏襲する旧東海道沿いに「蒲田梅屋敷」があったようで、京急の駅名にも「梅屋敷」の名前が残っています。蒲田梅屋敷の跡は「聖蹟蒲田梅屋敷公園」となって、「明治天皇御幸所蒲田梅屋敷公園」の碑が建っていました。元々の蒲田梅屋敷は、山本忠左衛門が開いた売薬所で、「和中散」と呼ばれる道中常備薬の売薬所だったようです。文政年間(1812~1829年)、山本忠左衛門の子の山本久三郎の代になると、売薬所の敷地に梅の木やかきつばたなどが植えられ、東海道の休み茶屋が開かれました。梅屋敷山本家の前にあった里程標「距日本橋三里八丁(約12.6km) 蒲田村 山本屋」と刻まれています。伊藤博文と木戸孝允が梅屋敷で新年会を開いた時、木戸孝允が描いた絵の中にこの里程標が描かれていたそうです。ところで、「梅屋敷」と言えばゴッホも模写した亀戸梅屋敷 (江東区)が有名ですが、蒲田の梅屋敷も名所として知られており、歌川広重も「名所江戸百景」に残しています。歌川広重「名所百景 蒲田の梅園」東海道の旅人のみならず、第12代将軍徳川家慶は鷹狩の休憩所として立ち寄っており、明治天皇も9回行幸したほど、当時は由緒ある屋敷だったようです。現在の梅屋敷公園
2014/02/25
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「芝大門」の地名の由来にもなっているのが増上寺の大門です。増上寺の総門であり、現在の門は昭和になって建てられたものです。大門を通って表参道を行くと、目の前に三解脱門が見えてきました。1611年に徳川家康の助成によって建立され、現在の門は1622年に再建されたものです。空襲によって増上寺の建造物がほとんど焼失する中、江戸時代初期から残る貴重な遺構だと思います。大殿(本堂)空襲で焼失したものを、昭和49年に再建したものです。この日は徳川将軍墓所の公開日だったので、中に入ってみることにしました。霊廟入口にある「鋳抜門」(現存)2代将軍徳川秀忠をはじめ、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6院の将軍の墓所となっています。他に徳川家の菩提寺としては上野寛永寺がありますが、寛永寺の将軍墓所は公開されていません。台徳院(2代将軍徳川秀忠)と崇源院(江姫)の墓所静寛院(和宮墓所)元々将軍墓所のあった場所には、本堂をはるかに凌ぐ規模の霊屋が建っていたおり、その霊屋の中に宝塔があったようですが、この霊屋も空襲で焼失してしまったそうです。第2代将軍徳川秀忠の宝塔があった南御霊屋の跡にはプリンスパークタワー東京が建ち、6代将軍徳川家宣以降の宝塔があった北御霊屋の跡地は、東京プリンスホテルの敷地となっています。北御霊屋の入口にあった「二天門」が現存しており、御成門駅の横に建っていました。戦災で焼失する前までは、南御霊屋の隣に五重塔も建っており、かなりの大伽藍だったと思われます。現在は歌川広重の名所江戸百景で、当時を偲ぶことができます。歌川広重「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」
2013/09/28
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日が暮れるのも忘れて景色に見入ったことから「ひぐらしの里」と呼ばれるようになり、それまでの「新堀」に「日暮里」を当てるようになったのは、江戸時代になってからのことです。諏訪台通りから下りる坂もいくつかあるのですが、最近話題になったところで言えば、「富士見坂」でしょうか。都内でも富士山が見える有数の富士見坂だったのですが、マンションの建設によって見えなくなったそうです。歌川広重も名所江戸百景の中で、富士見坂を描いていました。歌川広重「名所江戸百景 日暮里寺院の林泉」名所江戸百景の中に描かれている寺院の屋根は青雲禅寺のもので、現在も諏訪台通りの下に境内がありました。残念ながら山門が閉まっていて、中に入れませんでした。青雲寺境内には様々な碑があるようで、江戸時代の長編伝奇小説「南総里見八犬伝」の作者であった曲亭馬琴の筆塚・硯塚の碑や、太田道灌の砦に荷物を運ぶ舟人たちが目印にした舟繋ぎの松の碑などがあるようです。山門の間から見た境内谷中七福神の「恵比寿」も青雲寺だそうです。青雲寺の隣にあるのが修性院で、青雲寺・妙隆寺(のちに修性院に合併)と共に、花見寺と呼ばれていました。修性院には谷中七福神の「布袋」が祀られており、「日ぐらしの布袋」とも呼ばれていたそうです。江戸時代の日暮里界隈は、身近で手ごろな行楽地だったのでしょうか。やはり今も昔も、「ひぐらしの里」には夕暮れ時が似合うのかも知れません。夕やけだんだん坂谷中銀座そして知人のお店、千駄木の「吉里」でうなぎ三昧
2013/08/20
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千駄木に用事があったのですが、せっかくなので西日暮里で降りてみました。道灌山にある西日暮里公園道灌山の地名の由来には諸説あって、この付近の土豪であった関道閑が屋敷を構えたとか、太田道灌が出城を造ったとも言われています。かつての道灌山には「舟繋松」があって、荒川を行く舟人にとって、太田道灌の砦に荷物を運ぶための目印となっていたそうです。西日暮里公園江戸時代の道灌山は、大半が秋田藩主佐竹氏の抱屋敷だったそうです。元々この辺りは新堀と呼ばれていましたが、日の暮れるのも忘れるほどの景色から、江戸時代になって「新堀」に「日暮里」の文字が当てられました。歌川広重「名所江戸百景 日暮里諏訪の台」かつては荒川の流れや筑波山、日光の山並みまで見渡せたようです。佐竹氏も筑波山を眺めながら、元々の本拠地であった常陸を思っていたでしょうか。現在の道灌山からの眺め西日暮里公園から谷中の方に向かって行くと、高台の上を諏訪台通りの一本道が通っています。太平洋美術商会明治35年に創設された太平洋画会に始まり、昭和4年に太平洋美術学校となって、高村智恵子もここで学んでいました。諏訪台通り沿いには、その高村智恵子の夫である高村光太郎が卒業した荒川区立第一日暮里小学校があります。校門前にある高村光太郎直筆「正直親切」の碑諏訪台通りを谷中の方に向かって行った先にあるのが諏方(すわ)神社、長野の諏訪大社と違うのは、なぜか「訪」にゴンベンがありません諏方神社鳥居脇には立派な山門があり、案内板を読むと諏方神社の別当寺である浄光寺とのことでした。雪景色が素晴らしいことから、「雪見寺」の呼び名があります。山門が閉まっていたので中には入れませんでしたが、境内には江戸六地蔵の1つである地蔵菩薩や、8代将軍徳川吉宗が鷹狩りの時に立ち寄った時の「将軍腰掛の石」があるそうです。諏方神社の鳥居をくぐって境内に入った先には倉庫があり、源為朝の人形を模した山車が納めてあるそうです。諏方神社の祭神は長野の諏訪大社(上諏訪社)と同じ建御名方命(たけみなかたのみこと)で、1205年に石神井城城主であった豊島泰経によって造営されたと伝えられています。江戸時代に入ってからも、谷中・日暮里の総鎮守として信仰されてきました。歌川広重の名所江戸百景にもあるように、諏訪台は景勝地として知られ、「土器投げ」なども行われたそうです。現在の諏訪台からの眺め諏訪台通りの沿道には寺院が多く、その1つ養福院寺に立ち寄ってみました。山門をくぐると仁王門があり、宝永年間(1704~1711)の建築と伝えられています。他の江戸時代の建築物は戦火で焼失したそうで、現存する貴重な遺構になります。時代は下って幕末、上野戦争で敗走した彰義隊をかくまったとして、諏訪台にある経王寺が新政府軍に包囲され、銃撃戦となりました。経王寺現在も経王寺の山門には当時の銃痕が残っており、こちらも貴重な遺構かも知れません。
2013/08/19
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鮫洲の駅前には行政書士の事務所が並んでいたり、封筒を持った人が歩いてきたりして、そう言えば運転免許更新のはがきに鮫洲免許試験場の名前があるのを思い出しました。(いつも東陽町の江東免許試験場に行くので、京急を鮫洲で降りたのは初めてです)鮫洲付近の旧東海道品川宿の東海道は、鮫洲付近でも海岸線が近くにあったようです歌川広重「名所江戸百景 南品川鮫洲海岸」元なぎさ通りこの辺りが昔の海岸線で、渚があったのでしょうか。旧東海道の道標にある「くらやみ坂」は元々「仙台坂」と呼ばれており、仙台藩伊達陸奥守の下屋敷があったことに由来しています。伊達家下屋敷のあった仙台坂その仙台坂の下にあるのが海晏寺で、本尊の聖観音菩薩は品川沖でかかった鮫の腹から出たとされ、鮫洲の地名の由来になったと言われています海晏寺本堂海晏寺裏手の墓所には鳥居が建っていたりするのですが、幕末の越前福井藩主松平春嶽の墓所がここにあります。さらに仙台坂をはさんだ公園内には、山内容堂の墓所もありました幕末の四賢公のうち、二人の墓所がすぐ近くに並んでいました。品川まで戻って来た時、ちょうど食事にはいい時間だったので、品川駅で降りることにしました。品川と言えば「つばめグリル」、久々にハンブルグステーキを食べてみたくなりました。鉄板に乗ったホイルを開ける瞬間に小さな幸せを感じつつ、普段はビール党の私も、ここではワインを選んだりしています。ただ歩き回るだけの休日でしたが、これでは体重が減らないわけです。
2013/07/31
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北品川から旧東海道を南下しつつ、京急の駅でいうと1駅、新馬場のあたりまでやって来ました。京急の線路を挟んで旧東海道の反対側、第一京浜(国道15号沿い)には品川神社があり、まずは参拝してみました。品川神社品川神社の創建は1187年で、源頼朝が安房の洲崎明神(洲崎神社)を祀ったのが始まりとされています。品川神社拝殿この辺りは「洲崎」の地名がありますが、安房の洲崎とは関係がなさそうでした。品川神社の境内裏手に板垣退助の墓所があるようなのですが、うっかりして墓参を忘れてしまいました。なぜか庖丁塚に参詣。品川神社に参詣した後は、再び京急の線路を越えて、品川宿の旧東海道へと戻って行きました。旧街道の時代は海岸線がすぐ近くにあって、東海道も海岸沿いを通っていたようです。歌川広重「名所江戸百景 品川すさき」当時は「品川洲崎」と呼ばれる岬になっていたようで、岬にある「洲崎弁天」が描かれています。その洲崎弁天は利田(かがた)神社となって、現在も残っていました。当時の海岸線からは想像できないほど内陸にある利田神社でしたが、境内の隅にある鯨塚が当時を物語っていました。1798年に品川沖に迷い込んで、漁師によって引き揚げられた鯨の供養塚です。体長が6尺8寸(約2m)の大鯨は江戸中の評判となり、第11代将軍徳川家斉も浜離宮で上覧するほどの騒ぎだったようです。現在の海岸線(京浜運河の奥部)
2013/07/29
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京急を北品川駅で降りたのは初めてですが、品川駅からは1駅の距離にあり、しかも品川駅の北ではなく南になります。北品川と言えば北品川商店街、品川宿の旧東海道の入口となります。旧東海道の北品川商店街の西側、JRの線路を挟んだところにあるのが御殿山です。御殿山ガーデン歌川広重「名所江戸百景 品川御殿山」広重の構図には浅瀬のような場所が描かれていますが、現在は東海道新幹線、東海道本線、山手線、京浜東北線、横須賀線が通っています。高級住宅地として知られる御殿山には、現在も在外公館があったりします。ミャンマー大使館幕末開港後の1861年、幕府は各国の公使館をこの御殿山に建設する計画を立てていました。しかしながら1863年、横浜から移転して建設中のイギリス公使館が長州藩士によって焼き討ちされる事件が起こっています。この事件の首謀者は松下村塾のツートップ高杉晋作と久坂玄瑞で、実行部隊には同じく吉田松陰の門下生で高杉晋作の舎弟であった伊藤俊輔(のちの博文)や、志道聞多(のちの初代外務大臣井上馨)などがいました。伊藤博文と並んで高杉晋作の愛弟子であった山縣狂介(のちの有朋)は加わっていなかったようですが、イギリス公使館を焼き討ちにした人物が後に内閣総理大臣や外務大臣を務めるわけですから、この時代の変化の早さをうかがえる事件だったと思います。向かって左から高杉晋作・松陰先生・久坂玄瑞(2011年11月萩往還にて)左から山縣狂介(有朋)・木戸孝允(桂小五郎)・伊藤俊輔(博文)
2013/07/28
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台東区の名所江戸百景めぐりの中で、どうも判然としなかった場所があります。歌川広重「名所江戸百景 蓑輪金杉三河しま」「蓑輪」は日比谷線の三ノ輪で現在も地名が残っており、「金杉」の地名は残っていないものの金杉通りの名前があり、さらに「三河しま」は常磐線の駅名にある三河島のことだと思われます。三ノ輪方面から見た三河島方面ということになりますが、現在の行政区分では台東区から荒川区にかけての広範囲ということになります。歌川広重の構図を見る限りでは、鶴が舞い降りるほどの長閑な田園風景が広がっている感じですが、幕末の江戸時代の地図で見ても、三ノ輪から三河島にかけては田園が広がっていたようです。グーグルアースで見た1858年の三ノ輪界隈吉原と山谷堀も描かれています三ノ輪駅付近国道4号線(旧日光街道)に金杉通りが合流し、さらに国際通りや明治通りが交差する複雑な道路です。金杉通りは国道4号線と並走するような格好になっていますが、昔は「奥州街道裏道」とも呼ばれていたようです。金杉通りと国道4号線の合流点吉原の日本堤を通って三ノ輪から隅田川に続く山谷堀も、その跡がわずかに残っていました。三ノ輪付近の山谷堀その山谷堀沿いにあるのが浄閑寺、別名「投込寺」とも呼ばれています。浄閑寺1855年の安政の大地震の時、吉原の遊女が多く投げ込まれたことに由来するそうです。寛保3年(1743年)から大正15年(1926年)までの、遊女や子供の過去帳が残っているようで、新吉原の総霊塔が建てられています。華やかなし文化の中心地であった吉原でしたが、悲しく暗い過去の一面もしっかりと刻まれていました。
2013/07/14
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浅草の国際通りを三ノ輪方面に向かって行くと、鷲(おおとり)神社の門が見えてきました。祭神は鷲大明神(天日鷲命)で、古くから開運の守護神として信仰されてきました。門中には月星紋が見られるのですが、妙見菩薩や千葉氏と関係があるのか、鷲神社の案内板を読む限りではよくわかりませんでした。(月星紋は千葉氏の家紋であり、妙見本宮千葉神社も月星紋です)鷲神社拝殿日本武尊が東征した時、戦勝祈願と戦勝の御礼に参詣したのが鷲神社で、後になって日本武尊も祀られているそうです。その参詣の日が十一月の酉の日であったことから、毎年十一月の酉の日が例大祭となって、「酉の市」が開催されるようになりました。江戸時代には「酉の祭(まち)」と呼ばれ、熊手が縁起物とされていました。歌川広重「名所江戸百景 浅草田浦酉の町詣」ここでも「酉の町」と書かれています。歌川広重の名所江戸百景は吉原の遊郭からの眺めだと思いますが、ここは広重流のデフォルメでしょうか、どう見てもビルの4,5階くらいの高さがあるように思います。歌川広重のみならず、樋口一葉や正岡子規も酉の市のにぎわいを残していたようで、鷲神社の境内には碑が建っていました。樋口一葉の碑雑閙や熊手押あふ酉の市 正岡子規
2013/07/13
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江戸時代の浅草猿若町は、町全体が芝居関係で占められ、芝居小屋だけでなく芝居茶屋や土産物店、さらには役者の住宅や大道具・小道具屋なども建ち並ぶ、まさに芝居の町でありました。現在の地名では浅草6丁目となります。老中水野忠邦の天保の改革により、1842年に中村座・市村座・森田座の江戸三座を始め、芝居小屋がここに集められたのが、猿若町の始まりでした。勘亭流で書かれた旧浅草猿若町の看板猿若町の地名も、猿若勘三郎(初代中村勘三郎)に由来しています。引き幕をあしらった猿若町会館現在の猿若町界隈は、かつての賑いが想像できないほど、閑静な雰囲気に変わっていました。市村座の跡(碑だけが建っていました)森田座の跡歌川広重「名所江戸百景 猿わか町よるの景」もしも文化・文政の頃の江戸市中にタイムトラベルできるなら、とりあえず浅草界隈に行ってみるのが無難かも知れません。現在の猿若町界隈
2013/07/12
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少し前にNHKの「歴史秘話ヒストリア」で吉原のことを採り上げていましたが、単なる遊郭ではなく、文化や教養の中心地でもあったようです。吉原で馴染みになるためには、段階を経て何度も足を運ぶ必要があり、むしろ客の方が選別されていたとのことでした。また、吉原では武士や町人の身分は関係なく、逆に武士などは蔑まれていたと聞きます。むしろ遊女の身分の方が高かったようで、中でも最も位の高かったのが花魁でした。最初に幕府公認の遊郭が出来たのは1617年のことで、場所は現在の日本橋人形町にあり、葭が生い茂っていたことから「葭原」と呼ばれていましたが、後に縁起のいい「吉原」に改名されました。(吉原の名前は東海道吉原宿に由来するとの説もあります)明暦の大火後の1656年に浅草千束村に移転され、日本橋の「元吉原」に対し「新吉原」と呼ばれるようになりました。(一般的に「吉原」と言えば移転した後の「新吉原」の方です)現在も交差点には「吉原大門」の地名が残り、交差点脇には「見返り柳」の跡がありました。京都の島原遊郭の入口にあった柳を模して、山谷堀の土手には柳が植えられていたようです。見返り柳の碑この辺りで遊郭を振り返ったことから「見返り柳」と名付けられ、「きぬぎぬの うしろ髪ひく 柳かな 見返れば意見か柳顔をうち」の川柳もあるそうです。かつての新吉原の周囲は堀で囲まれており、山谷堀と日本堤に入口があったようですが、現在となってはその面影もありませんでした。かつては遊郭のあった千束4丁目付近現在も柳並木がありました。そちら方面のお店も並んでいました。歌川広重「名所江戸百景 廓中東雲」昭和31年になって吉原遊郭の歴史は閉じましたが、吉原弁財天には吉原を惜しんで建てられた「吉原名残碑」があって、当時を偲んでいました。
2013/07/11
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山谷堀南側の隅田川沿いに待乳山(まつちやま)聖天があり、正式名称は待乳山本龍院と言って浅草寺の支院の1つだそうです。待乳山聖天境内入口脇には、「池波正太郎生誕の地」の碑がありました。池波正太郎は1923(大正12)年に生まれ、生家は旧東京市浅草区聖天町61番地にあったのですが、関東大震災で焼失してしまったそうです。待乳山聖天では、大根を手に持った人をよく見かけ、拝殿にも二股大根の紋章が見られました。なぜ大根なのか、由来はよくわかりませんでした。待乳山聖天は標高9.8mの場所にあり、国土地理院の1/25,000地形図にも三角点が載っています。ここだけが隆起したように小高い丘になっているのですが、待乳山聖天の解説によると、推古天皇の595年に突然ここだけが盛り上がり、金の龍が舞い降りたとのことです。(浅草寺の山号「金龍山」もここに由来しているのかも知れません)待乳山聖天の本殿東側は、モノレールで登り降りするほどの急斜面です。さらに待乳山聖天の案内によると、江戸時代は東都随一の眺望があったようで、遠くは筑波や国府台なども見渡せたそうです。現在の待乳山からの眺望待乳山は数々の浮世絵や詩歌の題材ともなったようですが、歌川広重も名所江戸百景の中で、隅田川対岸から見た待乳山の遠景を構図にしています。歌川広重 「名所江戸百景 真土山山谷堀夜景」当時は「真土山」と呼んでいたのでしょうか。
2013/07/10
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江戸時代には音無川(現在の石神井用水)から隅田川に流れる水路があったようで、箕輪(現在の三ノ輪)から分岐して隅田川までの水路は「山谷堀」と呼ばれていました。かつての日本堤から隅田川近くまでの約700mの間は、現在は山谷堀公園として整備されています。山谷堀は江戸初期には開削されていたようですが、日本堤に吉原があったことから、吉原への通路ともなっていました。吉原へ通う猪牙舟は山谷舟とも呼ばれ、吉原へ通うことを「山谷通い」とも言っていたそうです。歌川広重「名所江戸百景 吉原日本堤」山谷堀を通ることも、当時のぜいたくな遊びだったようです。
2013/07/09
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江戸時代には神田川と隅田川が城下町の外堀の役目を果たしていたことを思うと、隅田川に合流する神田川の河口付近、日本橋馬喰町界隈は城下町の北東の端にあったことになります。 ところで馬喰町の地名の由来ですが、中央区のHPによると「天正年間(1573~1591年)博労頭高木源兵衛・富田半七らが住んでいたという記事がありますが、それが町名の由来であるのか明らかではありません」とのこと。奥州街道・日光街道の街道沿いにあり、神田川の浅草御門(浅草見付)や隅田川に架かる両国橋(成田街道・千葉街道)にも近い交通の要衝であることから、伝馬町のようにてっきり馬と関係があるのかと思っていました。さすがに「博労町」では具合が悪いかと思いますが、それでも歌川広重の名所江戸百景では「馬喰町初音の馬場」となっており、馬場があったこともうかがえます。歌川広重「名所江戸百景 馬喰町初音の馬場」柳の木があるので川沿いのようにも見えますが、果たしてどの辺りなのか、今となっては特定できませんでした。 (火の見櫓が描かれているので、消防署まで探してみましたが、全くの徒労でした)現在の馬喰町休日とあって人も車もなく、まるで別世界のようでした。現在の馬喰町や横山町と言えば繊維問屋が並び、坂善やエトワール海渡などの本店もあったりして、まさに「糸ヘン」の街並みです。横山町繊維問屋街の入口馬喰町や横山町界隈にはあまり馴染みがなく、自転車で巡っていても同じところをグルグル回っている感じでした。(個人的には隅田川を再び渡った「食ヘン」や「さんずいヘン」、両国・錦糸町そして我が小岩の方に馴染みがあるので)
2012/11/06
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自転車に乗って浅草方面へ向かった後、向きを変えて今度は日本橋方面へと向かって行きました。隅田川と日本橋川に囲まれた界隈は「日本橋○○町」の地名が残り、馬喰町・人形町・浜町・小伝馬町は駅名ともなっています。小伝馬町は日比谷線の駅名だけでなく、牢屋敷があったことでも知られており、「小伝馬町があるならば、大伝馬町もあったのね」と、大よりも小の方が幅を利かせています。大伝馬町にしても小伝馬町にしても、その地名からしてまさに伝馬と関係があって、小伝馬町で江戸市中の伝馬を担当し、大伝馬町では五街道向けの伝馬を担当していたようです。五街道の起点である日本橋に近い大伝馬町では、徳川家康に道中伝馬役を命ぜられた馬込勘解由が屋敷を構えており、小伝馬町には名主である宮辺又四郎が伝馬役を務めていました。由緒としては大伝馬町の方が上で、江戸時代では現在と逆だったのかも知れません。そしてその江戸時代、歌川広重から見た大伝馬町はどんなものだったでしょうか。(上)歌川広重「名所江戸百景」より「大てんま町木綿店」(下)歌川広重「名所江戸百景」より「大伝馬町ごふく店」東海道五十三次の宿場町めぐりでもそうですが、歌川広重の見た江戸時代が現在ではどうなっているのか、その場所を探して比較して見てみるのは興味深い探索です。(実に2年ぶりの江戸百景めぐり、随分とご無沙汰な企画です)広重の時代の日本橋大伝馬町では木綿店が4店舗あったそうですが、江戸時代の古地図を見ても、その場所が特定できませんでした。現在のような問屋街ではなく、大名の江戸屋敷や旗本の屋敷が並んでいるだけです。それでも広重が描いた「丸に大」の暖簾にヒントがあって、まさに大丸の江戸店、現在の八重洲ではなく日本橋大伝馬町にありました。その大丸江戸店の場所ですが、今となっては残っておらず、「何となくこの辺りかな」といったところです。関連の記事東海道五十三次~日本橋→こちら伝馬町牢屋敷→こちら
2012/11/05
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佃煮と言えば江戸前が有名で、佃島(現在の東京都中央区佃)が発祥かと思っていましたが、大阪が発祥とする説もあるようです。元々佃島は、徳川家康が関東に移封されてきた際に、摂津国佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民33人が江戸に移住してきたことに始まります。1645年に東京湾を埋め立てて島を造り、摂津国佃村にちなんで「佃島」と命名したのが由来となっています。佃煮については、その佃島に住む漁民が作り始めたとされ、保存性が高いためにお土産として全国に広がったと言われています。一方で佃島に移住する前から、大阪の佃村で佃煮が作られていたとする説もあり、大阪が佃煮の発祥とも言われているようです。いずれにしても佃島の発祥は大阪なので、本当の起源は大阪にあると言えるかも知れません。発祥はともかく、あの醤油と砂糖で煮詰めた甘辛さは、ご飯によく合います。特にイカナゴと昆布の佃煮だけでご飯が食べられそうです。歌川広重「名所江戸百景 永代橋佃島」現在の永代橋から見た佃島広重だけでなく、北斎も富嶽三十六景で佃島を描いていました。葛飾北斎「富嶽三十六景 武陽 佃嶌」
2010/11/10
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台北ではあまり体を動かしていなかったので、少しは体を動かそうと、自転車に乗って出かけていきました。特に行くあてもなく自転車に乗り、着いた先は浅草でした。浅草寺雷門日本の観光地代表のような提灯は、松下幸之助が浅草寺にお参りしたところ、病気が治ったことから松下幸之助によって寄進されました。Panasonicとなった今も、提灯の下には「松下電器」と書かれています。雷門と呼ばれるようになったのは江戸時代からだそうですが、左右にある風神と雷神の像から「風雷神門」が正式な呼び方のようです。歌川広重の錦絵にも浅草寺の雷門が描かれていました。歌川広重「名所江戸百景 浅草金龍山」提灯に「橋」の文字が見えるのですが、何と書かれていたのでしょうか。当時は仲見世通りもなく、五重塔も現在とは違って、門から見て右側にあったようです。
2010/11/08
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隅田川に架かる蔵前橋の少し下流、江戸時代に浅草御蔵が置かれていた川岸には、「首尾の松」と呼ばれた松が生えていました。首尾の松の枝は、隅田川の川面にさしかかるように枝垂れていたそうです。歌川広重「名所江戸百景 浅草川首尾の松御蔵河岸」この松が「首尾の松」と呼ばれる由来は、諸説あるようです。1.寛永年間に隅田川が氾濫した時、当時謹慎中であった老中阿部忠秋が、徳川家光の面前で人馬もろとも川の中に飛び込みました。そして見事に対岸に渡りきったため、家光が賞して勘気を解いたことから、そこにある松を「首尾の松」と呼ぶようになったとの説が1つ。2.吉原を行き来する通行人が、船で隅田川を上り下りする途中でこの松に立ち寄り、「首尾」を語ったことから、「首尾の松」と呼ばれるようになったとの説。3.江戸時代にはこの辺りで海苔を採るために「ひび」を立てていましたが、「ひび」が訛って「首尾」となり、ここに生えていた松を「首尾の松」と呼ぶようになったとする説。1の阿部忠秋については、この手の話が多いので、あまり信憑性はないように思います。2についても、「わざわざ船から下りて話すことでも…」と思うので、存外3番目の説が正しいのかも知れません。(最も面白くもなんともない説ですが)現在はその首尾の松も枯れてしまい、7代目の首尾の松が蔵前橋の脇に植えられています。
2010/08/10
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日本橋川に架かる橋としては、五街道の起点でもあった日本橋が最も有名ですが、その隣に架けられているのが江戸橋です。江戸橋それでも首都高速では江戸橋ジャンクションの名前が使われ、地下鉄の日本橋駅も元々は江戸橋駅と名付けられていました。現在の地名も日本橋が使われていますが、旧地名では日本橋江戸橋の地名も残っていたようです。歌川広重「名所江戸百景 日本橋江戸橋」手前に描かれている欄干は日本橋のもので、日本橋川の向こうに小さく描かれているのが江戸橋です。日本橋から見た江戸橋(現在)ちなみに江戸橋は明治4年に駅逓司と郵便役所が置かれた場所で、郵便発祥の地とされています。こちらも局名は江戸橋ではなく、日本橋でした。関連の記事東海道~日本橋(2009年8月)→こちら
2010/08/08
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JR王子駅の西側には急斜面の丘陵部があり、山頂部は飛鳥山公園の敷地となっています。王子駅から飛鳥山に至る明治通りには、都営荒川線も併走しながら坂を登っていました。飛鳥山は江戸時代から桜の名所として知られてきました。1720年に8代将軍徳川吉宗が、享保の改革の一環として公共の花見の場所を造るべく、1,270本の山桜を植えたことに始まります。飛鳥山公園には、その徳川吉宗の公園整備を記念して建てられた「飛鳥山碑」が立っています。碑文は幕府の儒臣である成島道筑によって作られたものです。異体字や古字が使われている上に、文字が斜めになったりしていて、非常に難解な文章なので、「飛鳥山何と読んだか拝むなり」と川柳にも歌われたそうです。(今となっては、文字があるのかどうかも判読できない状態ですが)その桜の名所については、歌川広重の名所江戸百景にも描かれています。歌川広重「名所江戸百景 飛鳥山北の眺望」江戸の中でも数少ない花見スポットだったので、当時はお花見が一大イベントだったと思われます。ちょうど飛鳥山の北側が開けていたので、同じ場所から眺めてみました。とても筑波山までは見えそうにありません。飛鳥山公園には「北区郷土資料館」・「紙の博物館」・「渋沢資料館」の「3つの博物館」があります。私は北区郷土資料館しか入っていませんが、地層の剥離標本や縄文・弥生時代の出土品など、興味深い展示物が並んでいました。紙の資料館は、王子で創業した日本初の製紙会社、王子製紙の所蔵品を展示してあるそうです。渋沢資料館には、飛鳥山にあった渋沢栄一の邸宅「曖依村荘(あいいそんそう)」に関する資料が展示されています。現在も旧渋沢庭園と共に、晩香炉・青淵文庫の建物が残っています。
2010/08/03
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東京都の北部を東西に流れる石神井川は、東京都の西部小平市を水源として、隅田川に合流しています。北区王子付近の石神井川は、「音無川」や「滝野川」とも呼ばれており、「滝野川」の名称は現在の地名にも残っています。また、王子付近は武蔵野台地の東端にあるため、かつては音無渓谷として、渓谷美あふれる名所でした。歌川広重「名所江戸百景 王子音無川堰禄」江戸時代の音無川には、弁天の滝・不動の滝・王子の大滝などの、滝も流れ落ちるほどの急流だったようです。歌川広重「名所江戸百景 王子不動之滝」滝野川の別名も、滝のように流れが激しかったことに由来しています。歌川広重「名所江戸百景 王子滝野川」現在の音無川は親水公園として整備され、かつての渓谷美をわずかながら留めていました。本流の石神井川の方はコンクリートで護岸されており、かつての渓谷の優美は想像すらできませんでした。金剛寺付近の石神井川
2010/08/02
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王子の狐火伝説で、関東各地の狐たちが大晦日に榎の木で装束を改め、参詣のために向かった先が王子稲荷神社です。王子稲荷神社併設の幼稚園の中に参道があります。王子稲荷神社の創建年代はわかりませんが、すでに平安時代には「岸稲荷」として祀られていました。源頼義が奥州追討の時に王子稲荷神社を深く信仰し、関東稲荷の総元締として崇敬したとされています。拝殿拝殿の脇を通ってさらに奥へ登ると、薄暗い山腹の木々の間に、「狐の穴」が祀られていました。どういう言い伝えなのかはよくわかりません。戦国時代になると、小田原北条氏も王子稲荷神社を深く信仰しており、朱印状も与えられました。江戸時代に入ってからは、徳川家康によって将軍家の祈願所とされ、徳川将軍の崇敬を集めたそうです。歌川広重「名所江戸百景 王子稲荷の杜」筑波山が描かれているのですが、どこから描いたものなのかわかりませんでした。おそらくこんな感じだと思うのですが・・・関連の記事王子装束稲荷神社→こちら
2010/08/01
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かつて王子のあたり一帯は一面の田畑で、その中に榎の木が立っていました。毎年大晦日の夜になると、関東各地から集まってきた狐たちが、この榎の木の下で衣装を改め、王子稲荷神社に参詣したという言い伝えがあります。榎の木は装束榎と呼ばれ、地元の人たちは狐たちが灯す狐火によって、翌年の田畑の吉凶を占ったと言われています。やがて装束榎や王子の狐火の言い伝えと共に、王子稲荷神社の名前も江戸中に知れわたるようになりました。歌川広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」風景画ばかりを描いてきた歌川広重が、伝説を描いた構図は初めて見ました。その装束榎は道路拡張に伴って切り倒されたのですが、装束榎を記念して建てられたのが王子装束稲荷神社です。王子装束榎神社は、王子駅から少し離れた街中にありました。装束榎や狐火は、全く別世界の出来事のようです。現在は装束榎の碑と御神木が、神社の隅に立っていました。御神木の榎奈良で育った私からすれば、たとえ言い伝えにせよ、こうも史跡をないがしろに出来るものなのか、それこそ不思議に思います。
2010/07/31
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毎年7月の最終土曜日に行われる隅田川花火大会、その歴史を辿ってみると、1733(享保18)年に両国の川開きで行われた花火に始まります。途中何度か中断はあったものの、おそらく日本で最も古い花火大会ではないでしょうか。(「隅田川花火大会」と呼ばれるようになったのは1978(昭和53)年からで、中断される1961(昭和36)年までは、「両国川開き」と呼ばれていました)両国川開きが始まった当初、打ち上げは「鍵屋」が行っていたそうです。その後鍵屋から分家した「玉屋」も加わって、「玉屋」と「鍵屋」が打ち上げの腕を競っていました。歌川広重「名所江戸百景 両国花火」玉屋と鍵屋は別々の場所から打ち上げ、江戸っ子たちは良い方の名前を掛け声にしていました。総じて玉屋の方に軍配が上がったようで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にも詠まれたほどです。両国の回向院の隣には花火資料館があり、そんな隅田川花火大会の歴史をうかがうことができます。花火資料館(夏場以外は閉館していることが多いのでご注意)大正時代と現代の打ち上げ筒3号玉から2尺玉までの花火の原寸大模型ところで真夏の夜空を彩る花火の色は、「炎色反応」によって描き出されます。高校の化学で「リアカー無きK村、馬力借りようと、努力するもくれない」と覚えていたのが、まさに花火を作りだす色でした。それでも一発に賭ける芸術は、科学だけで導き出せるものでもないように思います。
2010/07/30
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江戸城南側の桜田門から西側の半蔵門の間、江戸城の南西側には桜田濠が江戸城を囲んでいます。江戸城本丸周辺の内堀は高石垣で囲まれているのに対し、桜田濠は低い土塁で囲まれています。歌川広重「名所江戸百景 外桜田弁慶堀糀町」現在の桜田濠(桜田門付近)桜田濠沿いには井伊氏や三宅氏の屋敷があり、今も「三宅坂」の地名が残っています。三宅坂を上って桜田門から半蔵門へ行くにしたがって、土塁の高さも段々と高くなっています。歌川広重「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭りねり込」堀の向こう側に半蔵門が描かれていますが、同じ桜田濠でも土塁の高さが全然違います。江戸城は江戸時代とあまり変わっていないので、名所江戸百景の中でも、一番場所が特定しやすい所でした。現在の桜田濠(半蔵門付近)関連の記事江戸城内堀めぐり3(2008年10月)→こちら
2010/07/28
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越後屋と言えば、時代劇では悪代官と並んでワルの代名詞のように登場してきます。それでも三井高利の越後屋は消費者の味方であり、「現金掛け値なし」や「切り売り」など、当時としては画期的な商売方法を展開していました。(当時は掛け売りや反物売りが当たり前の商慣習でした)三井越後屋(江戸東京博物館にて)三井高利の越後屋は三井両替店(後の三井銀行)、さらには三井財閥へと発展して行きました。歌川広重「名所江戸百景 する賀てふ」井桁に「三」のマークが、三井越後屋です。そしてこちらが現在の三井越後屋三越日本橋本店です。
2010/07/26
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都営新宿線岩本町周辺の神田には、上野の不忍池よりも大きな「桜が池」と呼ばれる池があったそうです。池のほとりにある茶店には「お玉」という娘がおり、お玉が桜が池に身を投げたことから、「お玉が池」とも呼ばれるようになりました。お玉が池は徐々に埋め立てられて姿を消してしまい、現在お玉が池の跡には「お玉稲荷大明神」が祀られています。そのお玉が池の西側、現在の昭和通りを挟んだところに神田紺屋町があり、その名の通り染物業者が多く住んでいました。歌川広重「名所江戸百景 神田紺屋町」今となっては想像もつきませんが、当時は藍染川と呼ばれる川が流れ、晒しに使われていたそうです。それでもやはり、お玉が池と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、千葉周作の道場「玄武館」です。千葉周作は北辰一刀流の開祖であり、道場である玄武館は三大道場の1つに数えられていました。玄武館からは多くの門下生を輩出しており、新撰組の山南敬助や坂本竜馬も千葉道場の門下生でした。(「赤胴鈴之助」も千葉周作の門下生という設定です)なんとか千葉道場の跡を探し当てたのですが、現在は空き地となっていて、残念ながら名門道場の面影を見ることはできませんでした。
2010/07/25
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江戸城外堀のあった「外堀通り」が、日本橋川を渡るところに架けられているのが「一石(いっこく)橋」です。橋の北詰に後藤庄三郎、橋の南詰には後藤縫殿助が住んでおり、その両後藤氏の援助によって架けられたため、「五斗(ごとう)」+「五斗(ごとう)」=「一石」が由来とも言われています。また江戸城外堀が日本橋川から分岐する場所にあったため、外堀の常磐橋・呉服橋・鍛冶橋、日本橋川の一石橋・日本橋・江戸橋、道三堀の銭瓶橋・道三橋の八つの橋が見渡せたことから、「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれていました。歌川広重「名所江戸百景 八つ見の橋」川がクロスするように描かれていますが、江戸城の外堀・道三堀と日本橋川だと思います。現在の一石橋現在の一石橋は1922(大正11)年に造られたもので、日本橋川の上を外堀通りが通っています。関連の記事江戸城外堀めぐり(その1)雉橋門~鍛冶橋門→こちら
2010/07/24
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深川にある富岡八幡宮は、東京都最大の八幡神社で、鎌倉の鶴岡八幡宮の直系分社でもあります。富岡八幡宮の参道この日は骨董市が開かれており、境内一面にも骨董屋が所狭しと並んでいました。富岡八幡宮は、1627(寛永4)年に当時永代島と呼ばれていた現在地に創建されました。なお、南砂にある富賀岡八幡宮が元宮とも言われており、富賀岡八幡宮は「元八幡」とも呼ばれています。八幡宮は源氏の氏神でもあることから、江戸時代には将軍家の保護を受けてきました。また「深川の八幡さま」として親しまれ、紅葉の名所としても知られていたようです。歌川広重「名所江戸百景 深川八幡山ひらき」近くに住んでいた伊能忠敬も、測量に出かける前に富岡八幡宮で、必ず安全の祈願をしていました。ちなみに富岡八幡宮は江戸勧進相撲の発祥でもあり、境内では本場所も行われていたようです。境内に建つ大関力士碑富岡八幡宮の東側には、京都の蓮華王院(三十三間堂)にならって、「江戸三十三間堂」が建てられていました。歌川広重「名所江戸百景 深川三十三間堂」京都の三十三間堂通し矢の流行を受けて、1642(寛永19)年に建立されました。その後江戸三十三間堂は1698年に火事で焼失、1701年に再建されましたが、明治に入った1872年に取り壊されています。現在は道路脇にその跡を示す碑が、ひっそりと建っていました。それでも「数矢」の地名が残っており、三十三間堂と通し矢の名残があります。関連の記事富賀岡八幡宮(江東区南砂)→こちら
2010/07/22
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東西線の駅名にもある江東区木場は、その名の通り材木の集積場で、隅田川の河口に広がる集積場には、各地から集められた材木が水面に浮かんでいたようです。歌川広重「名所江戸百景 深川木場」今となっては信じられないほどの風流ですが、木場の貯木場は1969(昭和44)年まで続いていました。1933(昭和8)年の木場の風景現在の貯木場は新木場に移り、木場の貯木場跡は完全に埋め立てられて、木場公園と現代美術館の敷地が広がっています。
2010/07/21
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七夕と言えば7月7日ですが、元々は3月3日の桃の節句や5月5日の端午の節句などと同じ、五節句の1つに数えられています。しかしながら七夕の7月7日は旧暦に当たるため、現在の七夕祭りは月遅れの8月7日に行うことが大半のようです。(仙台の七夕祭りなど)最近では商店街の夏のイベントとして行われることも多くなってきました。江戸川区小岩のフラワー通り商店街旧暦の7月7日を特別な日とすることは、中国から伝わってきたものです。日本でも既に日本書紀に「多那婆多」の名があり、7月7日には宮中の節句の行事が行われてきました。現在の七夕祭りと言えば、笹竹に五色の飾りをつけるのが一般的ですが、これは江戸時代になって始まったようです。歌川広重「名所江戸百景 市中繁栄七夕祭り」これは日本独特の風習だそうです。七夕と言えば、やはり織姫と牽牛(牛郎織女)の言い伝えでしょうか。こちらもやはり中国から伝わってきた説話ですが、1年に1度七夕の日に天の川を渡って出会う話は、日本では珍しく星にまつわる言い伝えです。(ギリシャ神話では星にまつわる話が多いのですが…)ところで織女星はこと座の1等星ベガで、牽牛星がわし座の1等星アルタイルと、はくちょう座の1等星デネブと共に「夏の大三角形」を形成しています。その夏の大三角形を横切って天の川が流れているのですが、現在ではなかなか目にすることもできないかも知れません。(以前8月の初旬に西表島を訪れた時、最初は雲か何かだと思っていたのが天の川だとわかり、大変感動したのを覚えています)夏の夜になると銀河系の中心部が天の川として見えるのよく知られていますが、ならば銀河系の反対側も天の川とし見えるのでしょうか。中心部の見える夏の天の川ほどではないにしても、円盤型の銀河系の反対側も「冬の天の川」として見ることができます。季節は正反対ですが、オリオン座のすぐ左上に冬の天の川を見ることができます。ベテルギュース(オリオン座)・シリウス(おおいぬ座)・プロキオン(こいぬ座)の「冬の大三角形」を横切るように冬の天の川が流れています。冬の大三角形とは言いますが、実は冬には「大六角形」と呼ばれる1等星の集まりがあり、冬の大三角形も大六角形の一部に過ぎません。空気も澄んでいて、冬こそ夜空の見どころが多いのですが、やはり天の川は夏にロマンがあるようです。
2010/07/16
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現在は完全に埋立られて首都高速が通っている京橋川ですが、江戸時代の古地図を見ると、江戸城外堀から分流するように開削されているのがわかります。鍛冶橋門の南側から分流し、東西方向へ流れているのが京橋川です。京橋川にはいくつか橋が架かっていたのですが、やはり京橋が最も有名かも知れません。江戸の古地図で京橋川と外堀との合流点を見ると、小さな橋が架かっているのですが、これが比丘尼橋です。歌川広重「名所江戸百景 びくに橋雪中」外堀沿いの道を描いたものだと思われますが、右側に江戸城の外堀が描かれています。ちなみに左側に「山くじら」の看板が描かれていますが、「山くじら」とはイノシシのことです。(江戸市中でイノシシ料理があったとは、意外な感じがします)こちらが現在の比丘尼橋付近です。銀座1丁目の外堀通りですが、京橋川は首都高速に変わり、江戸城外堀は外堀通りに変わっています。関連の記事京橋→こちら江戸城外堀めぐり2(鍛冶橋門~赤坂見附)→こちら
2010/06/22
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地下鉄銀座線の地名にもある京橋は、江戸城外堀の鍛冶橋御門付近から分流していた京橋川に架かる橋の1つでした。歌川広重「名所江戸百景 京橋竹がし」京橋川は人工的に開削された川で、徳川家康が関東に入封した慶長年間(1596年~1615年)に、江戸城外堀と共に最初の天下普請で開削されたと言われています。昭和38年~40年の間に京橋川は埋め立てられ、京橋川の跡には首都高速が通っています。京橋川の京橋跡京橋川に架かる京橋の歴史も古く、日本橋と同じ1603年頃に架けられました。京橋の由来は、「京橋川に架する橋にして、日本橋、江戸橋に対して名付けたるものなり」ともありますが、日本橋から京都へ向かう東海道で一番最初に渡ることに由来しているとも言われています。江戸時代には幾度か架け替えが行われましたが、1875(明治8)年に石造のアーチ橋に架け替えられました。井上安治「京橋」昭和に入ってから京橋川の埋め立てられたことで、京橋も撤去されてしまいましたが、現在は首都高速のガード下に石造りの親柱が残っています。関連の記事江戸城外堀(その2)鍛冶橋門~赤坂見附→こちら
2010/06/21
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毎年6月になると堀切菖蒲園の「菖蒲まつり」が開催されるのですが、前回訪れた時は少し早すぎたので、再度訪問しました。すっかり見ごろになっていました。一口に花菖蒲と言っても、種類も様々あるようです。堀切菖蒲園には200種類・6,000株の花菖蒲が植えられており、それぞれに産地と名前が付けられています。堀切菖蒲園のある綾瀬川沿いには低湿地が広がり、特に花菖蒲の栽培に適しているとされて来ました。堀切菖蒲園の発祥には諸説あり、室町時代に地頭の久保寺胤夫が家臣に命じて奥州郡山の安積沼の種子を自邸に植えたのが始まりとも言われ、江戸時代の前期に小高伊左衛門が各地の花菖蒲を収集して自庭に植えたのが始まりとも言われています。いずれにしても、江戸時代には相模や土佐など、各地から収集された花菖蒲が植えられ、花菖蒲の名所となりました。歌川広重「名所江戸百景 堀切花菖蒲」戦前までは堀切園の他にも、武蔵園・吉野園・小高園などの菖蒲園が残っていましたが、宅地開発により埋め立てられ、堀切園だけが「堀切菖蒲園」として残っています。現在は葛飾区の管理にあり、入場は無料です。
2010/06/19
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「橋場の渡し」のあった白鬚橋の上流に架かっているが水神大橋で、橋が架かる以前は「水神の渡し」の渡船がありました。この付近の隅田川の河畔には、「水神の森」と呼ばれる森が広がっていたようです。歌川広重「名所江戸百景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」「真崎」の地名は、石浜城(石浜神社)で「真崎稲荷」の名前があったように、隅田川の西岸の地名だと思います。さらに「関屋」の地名は京成本線の駅名にも残っています。それにしても、描かれている山は筑波山だと思いますが、すいぶんと大きい気がします。そしてこちらが現在の「真崎辺より水神の森」です。「水神の森」は石浜城の対岸(隅田川東岸)に広がっており、川岸にあった隅田川神社(水神社)の鎮守の森でもありました。現在の隅田川神社木母寺と同じ東白鬚公園内にあります。鎮守の森とまではいきませんが、境内には少しばかり木々が生い茂っていました。水神の森の名残でしょうか。隅田川神社の由緒はよくわかりませんが、昔から「水神さん」として親しまれ、隅田川一帯の守り神として信仰されてきました。歌川広重もここの場所が気に入っていたのか、「名所江戸百景」では水神の森を構図にもう1枚描いています。歌川広重「名所江戸百景 水神の森真崎」(描かれている山は筑波山だと思いますが、さらに大きくなっています)かつてはこの辺りで隅田川が荒川から分流し、水神の森が往来する船の目印になっていました。さらにその昔は、ここから入江が始まって海に続いていたことから、「江の口」と呼ばれて「江戸」の語源となったとも言われています。隅田川神社境内にある道標。山東京伝の筆によるもので、意外なところに貴重な遺構が残っていました。関連の記事石浜城(石浜神社)→こちら白鬚橋(橋場の渡し)→こちら木母寺→こちら
2010/06/18
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石浜城の隅田川対岸、白鬚橋の少し上流の隅田川沿いに東白鬚公園があり、東白鬚公園の一角に木母(もくぼ)寺があります。歌川広重「名所江戸百景 木母寺内川御前栽畑」江戸時代は隅田川から内川が分流し、その川沿いにあったようです。隅田川対岸から見た木母寺木母寺の歴史は古く、謡曲「隅田川」に登場する梅若丸を供養するため、976年に梅若塚と念仏堂が建てられたのが始まりとされています。その念仏堂は鉄筋コンクリートとガラスで保護された建物の中にありました。念仏堂(念仏堂の隣に梅若塚があります)念仏堂の内部元々は梅若寺と呼ばれており、太田道灌が梅若塚を改修し、梅若寺を建立したと言われています。江戸時代に入ってから、「梅」の字をばらして「木母」となり、将軍などが訪れる隅田川御殿が建っていました。境内には様々な石碑が並んでおり、それぞれに由緒がありました。「天下之糸平」の碑貿易商の田中平八が建てたもので、親交のあった伊藤博文の書によるものです。三遊塚三遊亭円朝が、初代の三遊亭円生を追悼するため、明治22年に建てたもので、題字は山岡鉄舟の書です。大正時代になって東京府(当時)によって旧跡に指定された梅若塚ですが、太平洋戦争の空襲で本堂は焼失し、さらには団地建設のために現在地へ移転しました。敷地はアスファルトとなり、本堂は鉄筋コンクリートに変わっていますが、今も残る数々の石碑だけは昔と変わっていないようです。
2010/06/17
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江戸時代の隅田川には、上流から千住大橋・吾妻橋・両国橋・新大橋・永代橋の5つしか橋が架けられていませんでした。現在隅田川に掛かる橋の多くは、関東大震災後に復興として架橋されたもので、白鬚橋もそんな橋の1つです。江戸時代の白鬚橋には「橋場の渡し」や「白鬚の渡し」と呼ばれる渡船があり、隅田川の渡船の中では最も古い渡しだと言われています。歌川広重「名所江戸百景 墨田河橋場の渡かわら竈」筑波山が描かれていることから、上流に向いた構図だと思われます。それにしても「かわら竈」で何を炊いていたのでしょうか。白鬚橋から見た現在の隅田川(上流方向)橋場の渡し(「白鬚の渡し」)は、在原業平の伊勢物語で主人公が渡った場所とされています。それならば「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌は、実は白鬚橋だったということになるかも知れません。白鬚橋の遠景そうなると、「言問橋」や「墨田区業平」は根本的に覆される気もするのですが…
2010/06/15
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火除けの神様として知られる秋葉神社、静岡県浜松市の秋葉山を総本宮とする神社です。旧東海道の宿場町をめぐっていると、駿河・遠江・三河では秋葉灯篭が今も残っており、その信仰の深さを感じました。東海道御油宿の秋葉灯篭秋葉神社は全国に点在していますが、墨田区向島にある秋葉神社は、江戸時代より紅葉の名所として知られてきました。(ちなみに台東区にある秋葉神社は、「秋葉原」の由来となっています)歌川広重「名所江戸百景 諸地秋葉の境内」現在の秋葉神社周辺はすっかり住宅地になっており、紅葉の名所だと言われてもなかなかピンと来ません。それでも境内に並ぶ石灯籠の寄進者を見ると、かなりの格式を誇った神社だったことがわかります。甲府城・大和郡山城城主であった柳沢吉里(柳沢吉保の子)の夫人源頼子や、前橋城城主酒井忠挙、沼田城城主本多正永など、徳川譜代の名前がずらりと並んでいます。江戸時代には「秋葉の森」として知られた秋葉神社でしたが、境内の木々がわずかに歴史を物語っていました。
2010/06/14
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今も江戸城外堀が残る市谷見付の跡ですが、堀の外側の高台には市谷亀岡八幡宮があります。歌川広重「名所江戸百景 市ヶ谷八幡」江戸城外堀と市谷見付が描かれていますが、現在の光景と比べても、当時の面影が残っています。現在の江戸城外堀と市谷見付市谷亀岡八幡宮は、江戸城の西の守護として、太田道灌によって勧進されました。鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀し、鶴岡に対して亀岡と名付けられました。神社には軍配団扇が保存されていますが、「団扇一本右者太田道灌所持之品図左之通」とあって、太田道灌ゆかりの軍配団扇とされています。また、境内には江戸時代の1804年に造られた銅鳥居も現存していました。新宿区内では唯一現存する銅鳥居だそうです。関連の記事江戸城外堀めぐり3(赤坂見附~牛込見附)→こちら
2010/06/13
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江戸城外堀の役目を果たした神田川には、江戸時代の上水道であった神田上水の水道「掛樋」が渡されていました。今の総武線の水道橋駅~御茶ノ水駅間に神田上水の掛樋が通っており、水道橋駅の駅名の由来ともなっています。神田川と水道橋駅水道橋駅と言えば、「闘魂こめて」の発車メロディーがシーズンオフでも鳴っています。(カープファンのみならず、ジャイアンツファン以外にとっては何とも耳障りなメロディーです)そんなカープファンの心境を思ってか、歌川広重はこんな一枚を残してくれました歌川広重「名所江戸百景 水道橋駿河台」東京ドームのお膝元で、鯉のぼりです。(ちなみに現在は「神田駿河台」の地名となって残っていますが、駿府出身の江戸幕府役人が住んでいたことに由来しています)関連の記事神田上水(2009年7月)→こちら小石川後楽園(2009年7月)→こちら江戸城外堀めぐり4(牛込見附~四谷見附)→こちら
2010/06/11
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小名木川の西側は隅田川と合流しますが、その河口付近に架かっているのが深川万年橋です。建造された年代は明らかではありませんが、1680年には「元番所のはし」として登場しているので、少なくとも江戸時代の前期には架けられていたようです。また万年橋の北側には船番所が置かれ、小名木川を通行する船の取り締まりを行っていました。この番所は寛永年間(1661年~1673年)に中川口に移されたため、万年橋は「元番所のはし」と呼ばれるようになっています。江戸時代の万年橋は、船の通行を妨げないように高く架けられていました。虹のようなアーチ型の橋だったようで、葛飾北斎の「富嶽三十六景」や歌川広重の「名所江戸百景」にも登場しています。葛飾北斎「富嶽三十六景 深川萬年橋下」歌川広重「名所江戸百景 深川萬年橋」(スッポンでしょうか)現在の万年橋から隅田川の河口に目を向けると、清洲橋を眺めることができます。清洲橋はドイツのケルン市に架かる吊橋をモデルにしており、ここからの眺めは「ケルンの眺め」と呼ばれ、一番美しい眺めと言われています。関連の記事中川船番所→こちら小名木川五本松→こちら
2010/05/23
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人工河川として開削された小名木川ですが、水運業者が下総との物流に利用したのはもちろん、江戸町民も船を浮かべて遊ぶほどの風情あふれる場所だったようです。特に小名木川の河畔に生える松は「五本松」と呼ばれ、小名木川沿いの地名にもなっていました。歌川広重「名所江戸百景 小奈木川五本松」名所江戸図会「小名木川 五本松」五本松のうち一本は、丹波国の大名である九鬼氏の屋敷から道を越えて張り出していました。松尾芭蕉もここに船を浮かべて遊んでいたようで、名所江戸図会の中には芭蕉の句が書かれています。「川上と この川下や 月のとも」五本松は明治になって枯れてしまいましたが、小名木橋のたもとには五本松が復元されています。そしてこちらが現在の小名木川です。コンクリートで護岸はされていますが、埋立されずに残っているのが何よりです。関連の記事中川船番所→こちら
2010/05/22
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江東区内を東西に流れる小名木川は、旧中川と隅田川を結ぶ一直線の人口河川です。1590年の小田原攻めの後、関東に入封した徳川家康が小名木四郎兵衛に命じて開削させたと言われています。江戸時代には行徳(千葉県市川市)の塩や近郊の野菜など、江戸と下総方面を結ぶ水運の幹線として機能し、東側の河口である中川との合流点には、船番所が置かれていました。歌川広重「名所江戸百景 中川口」小名木川の東側の河口、旧中川との合流点です。現在の中川船番所跡船番所の建物は小名木川沿いにあり、川岸には番小屋が置かれていました。夜間の入船・出船や女性の通行・鉄砲などの武器の取締の他に、小名木川を通行する船の積荷の取調を行っていました。浦賀番所と並んで江戸の東側の窓口として機能していましたが、明治に入った1869年に全国の関所が廃止されたことに伴って、中川番所も廃止となっています。
2010/05/21
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上野は徳川色の強い場所で、寛永寺や上野東照宮など、徳川家とゆかりの深い場所が点在しています。中でも徳川将軍の霊廟のある寛永寺は、現在の上野恩賜公園一帯に伽藍が建ち並ぶほどの広さを誇っていました。上野恩賜公園のすぐ横にある不忍池も、寛永寺の境内の一部のような感じがします。寛永寺の清水観音堂1631年に建立され、京都の清水寺と同じ懸造になっています。清水堂の舞台からは、不忍池が一望できたようです。歌川広重「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」1625年に天海が寛永寺を建立した時、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえた弁天島を造りました。弁天島に浮かぶ弁天堂また清水堂と弁天堂の間の池のほとりには、丸い輪の形をした枝を持つ松があり、「月の松」と呼ばれていました。歌川広重「名所江戸百景 上野山内月の松」「月の松」はすでになく、不忍池の風景も、時代ともに変わっているようです。関連の記事寛永寺(2009年7月)→こちら上野東照宮(2009年7月)→こちら
2010/05/19
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1657年に発生した明暦の大火の後、防災都市へ向けて江戸の都市改造が行われました。大名や武士の屋敷は江戸城の外へと移転し、隅田川には架かる橋も増えて、市街地も隅田川の東側へと移っていきました。延焼を防ぐために道路の拡張も進められ、上野や両国には「広小路」と呼ばれる道路が設置されました。現在の銀座線にも「上野広小路」の名前が残っていますが、当時は「下谷広小路」と呼ばれていました。歌川広重「名所江戸百景 下谷広小路」描かれているお店は松坂屋で、こちらが現在の下谷広小路です。やはり当時は「上野」が武士の町で、下谷が町人の町だったのでしょうか。関連の記事本妙寺(2009年7月)→こちら
2010/05/18
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