全14件 (14件中 1-14件目)
1
平戸城は亀岡と呼ばれる丘陵上にあり、平戸の瀬戸を背にして、入り江の入口から城下町を見下ろしている感じです。平戸城の遠景(オランダ商館より)平戸城のある丘陵部の西側には、まるで天然の外堀のように川が流れており、城内との間には石橋の「幸橋」が架かっていました。幸橋1702年に建造されたもので、オランダ商館の建設に携わった石工の技術が伝わっているそうです。幸橋のある西側を大手と見るのが妥当な気もしますが、縄張りそのものは南へ曲輪が延びる形となっており、元々の大手は南側にあったのかも知れません。丘陵部には三の丸から本丸までの曲輪が配されていましたが、三の丸の跡はグランドや市役所の敷地となっており、二の丸は亀岡神社の境内となっていました。二の丸二の丸には虎口の跡が2つ残っており、幸橋のある西側と大手のある南側に門があったようです。二の丸西側の方啓門跡二の丸南側の二ノ大手門跡いずれも枡形になっていましたが、名前からしても南側が大手のような感じです。平戸城の建物は明治に入ってから取り壊されましたが、現在は櫓や門などが復元されていました。乾櫓ここが天守の代用とされていたようです。地蔵坂櫓地蔵坂櫓からは狭間の切られた土塀が続いており、この土塀は現存するものかも知れません。地蔵坂櫓から続く土塀の先には北虎口門があり、搦め手門ながら現存する唯一の門です。北虎口門櫓門形式ですが、渡櫓の窓が現代風なのが気になります。北虎口門の先から本丸に入って行くのですが、ここに料金所があって、本丸に入るのが有料でした。料金所の先には狸櫓があり、こちろも現存する唯一の櫓です。狸櫓元々は多聞櫓と呼ばれていましたが、櫓に住んでいた狸の伝説に由来しており、狸櫓の方が一般的な呼び名となっています。多聞櫓を修復するにあたって櫓の床を剥したところ、住んでいた狸が藩主の枕元に現れたそうです。このまま櫓に住ませてくれると城をずっと守ると言うので、翌日床を元通りにしたとのことです。なんだか微笑ましい話ですが、こんな伝説の中に松浦氏と平戸城が慕われていたことがわかるように思います。狸櫓の先には櫓門があり、ここが本丸の虎口のようです。あまりに唐突に櫓門があったので、びっくりしました。櫓門の先にはさらに石垣があり、三階建ての天守が目の前に現れました。元々本丸には天守が上げられていなかったようで、後世になって建てられた模擬天守です。史実に基づかない模擬天守ほど恨めしいものはないのですが、さすがにここからは平戸ノ瀬戸が一望できました。入り江の対岸にはオランダ商館があり、水平線の先には同じ松浦氏の領土であった壱岐の島が浮かんでいました。平戸城は肥前の豪族松浦氏の流れを汲む、4代目平戸藩主松浦鎮信(天祥)によって、1702年に築城されました。江戸時代に入ってからの新規築城は珍しいケースだと思いますが、幸橋の建造も同じ時なので、この時に大手口が改変されたのかも知れません。元々は初代の松浦鎮信(法印)が、文禄・慶長の役の後の1599年に、この地に日の岳城を築いたのが始まりとされています。日の岳城は大火で焼失しましたが、豊臣方であった松浦鎮信が江戸幕府に遠慮して自ら火を放ったとも言われています。オランダ商館にある松浦(法印)鎮信像松浦法印鎮信は初代平戸藩主でありますが、平安時代から続く松浦氏としては26代目にあたります。ちなみに松浦の地名の歴史も古く、魏志倭人伝に出てくる末蘆国の地名も松浦だとされています。現在の平戸城を築城した松浦(天祥)鎮信(4代目藩主)は、山鹿素行の弟子でもあり、平戸城は山鹿流の築城だそうです。江戸時代も半ばになってからの軍学師がどれほどのものかはよくわかりませんが、平戸城の縄張りを見る限りでは、平和な時代に築かれた城のような印象がありました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2012/01/12
コメント(2)
日本史の教科書などでは「平戸のオランダ商館を出島に移して、貿易港を長崎のみとした」とあるので、これまで平戸と出島はすぐ近くにあると思っていました。実は出島のある長崎市から平戸市までは道のりで約100kmもあり、さらには平戸が島になっていることも初めて知りました。それでも平戸大橋を渡るとすぐに平戸市内に入り、海岸沿いには瀟洒なオランダ商館が復元されていました。1639年に築造された倉庫を復元したものです。オランダ商館から見た平戸大橋平戸は入り江の奥まった場所にあり、オランダ商館から見た入り江の向かい側には、平戸城の天守と櫓がこちらを見下ろしていました。そもそも平戸に来たのはこちらがメインでした。平戸にオランダ商館が建てられたのは1609年のことで、オランダ東インド会社の日本における拠点となりました。「東インド会社遣日使節紀行」に描かれたオランダ商館図1649年にアムステルダムで刊行された中の描写に、彩色を施したものです。1640年に幕府の命令によって取り壊され、1641年に長崎の出島に移されていますが、平戸の時代は往来も出入りも自由だったようです。当時の室内の復元ところで当時の日本でなじみの深いオランダ人に、ヤン=ヨーステンがいます。1600年にオランダ船のリーフデ号で日本に漂着した後、江戸のヤン=ヨーステンの居宅があった場所は、その名前に由来して「八重洲」となっています。オランダ商館内にあるリーフデ号の模型また、同じリーフデ号にはイギリス人船員であるウィリアム・アダムスがおり、後の三浦按針です。京急線の按針塚の駅名からも、三浦按針は横須賀と関わりが深いのかと思っていたら、晩年は平戸に住んでいたようで、平戸には三浦按針の居宅跡と墓所がありました。徳川家康に重用された三浦按針でしたが、徳川家康亡き後は追いやられるように平戸に移り、不遇な晩年を過ごしたようです。ところでオランダ商館は出島に移る時に取り壊されましたが、現在でも遺構が一部残っていました。オランダ井戸オランダ商館は壁で囲まれていたようで、「オランダ塀」も残っていました。海産物店に残るオランダ塀平戸にオランダ商館が置かれた同じ頃、オランダ東インド会社は台湾にも進出していました。オランダが台湾での本拠地にしていたのがFort Zeelandia(安平古堡)です。わずかに残るオランダ塀に、ちょうど一年前に訪れたFort Zeelandiaの城壁を思い出しました。台湾からオランダ人を追放し、民族の英雄とされるのが「国姓爺」の鄭成功ですが、鄭成功はここ平戸で生まれています。台湾と平戸がオランダでつながるとは、感慨深い気もしました。関連の記事出島(長崎・長崎市)→こちらFort Zeelamdia(台湾・台南市)→こちら
2012/01/10
コメント(2)
日本100名城の中で、島原城を訪れるのはいつのことかと思っていたら、存外早く訪れることができました。雲仙岳が見下ろす島原半島の東側、有明海に面したところに島原城があります。総石垣造りの近世城郭で、現在は本丸と二の丸の外堀と石垣が残っていました。西の櫓の石垣熊本城のように扇の勾配を持った見事な高石垣です。熊本城と同じく火山灰の土壌にあっては、加藤清正流の石垣を参考にしたのでしょうか。屏風折れになった本丸石垣石垣を見る限りでは堅固な印象ですが、島原の乱では攻め寄せる一揆軍に対して、籠城戦で応じたそうです。本丸と二の丸の間にも堀が巡らされており、それぞれ独立した城郭のような感じでした。二の丸の曲輪跡山頂部分は雲に覆われていますが、雪を戴く普賢岳を望むことができました。本丸と二の丸は大きく分断され、曲輪の間には石造りの土橋が架かっていました。本丸と二の丸の間の堀(二の丸から見たところ)水堀になっていたのかも知れませんが、ここに攻め込まれると本丸と二の丸が完全に孤立する格好になってしまいそうです。建物は明治になって取り壊され、現在本丸にある天守や櫓は後世になって復興されたものです。本丸の復興天守層塔型の天守です。島原城には大小合わせて50近くの櫓が建っていたそうですが、明治になってから取り壊され、現在は隅櫓がいくつか復興されていました。丑寅櫓巽櫓櫓と櫓の間を歩いていると、現在も有明海を間近に望むことができました。島原城は江戸時代に入った1618年に築城が開始され、1624年に完成しました。築城主は大和五条から移封となった松倉重政で、検地による石高は4万石とされています。4万石にしては立派な大城郭ですが、領民はかなりの労役を強いられたことと思います。そして1637年、松倉氏の圧政に苦しむ領民が蜂起し、16歳の天草四郎時貞を総大将とする島原の乱が勃発しました。本丸にある天草四郎像最終的に島原の乱は幕府討伐軍によって鎮圧されましたが、島原城主であった松倉勝家は過酷な年貢取り立てで一揆の原因を作ったとして、改易の上斬首に処せられています。武士の名誉である切腹ではなかったのですが、江戸時代において斬首に処せられた大名は、後にも先にも松倉勝家だけだそうです。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2012/01/08
コメント(4)
幕末の日本で名を馳せた外国人の1人が、「グラバー商会」の創始者であるトーマス・グラバーでしょうか。まだ海外渡航が禁止されていた江戸時代の1865年に薩摩藩士のイギリス留学を斡旋したり、薩長同盟後の長州藩に武器を供給したりと、かなりのリスクを冒して雄藩に肩入れをしています。(坂本龍馬の亀山社中とも深いつながりがあったようです)先見の明があったのかも知れませんが、明治維新後も三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎と親交が深く、高島炭鉱の経営を行ったり、キリンビールの設立に加わったりして、近代日本の誕生に大きく関わっていた人です。そのトーマス・グラバーの居宅は南山手の旧居留地にあり、現在はグラバー園として他の洋風建築とともに整備されています。グラバー園に至る石畳の坂途中に大浦天主堂があります。ちなみに坂の入口付近にはANAホテルがありますが、元は「ナガサキ・ホテル」としてフレデリック・リンガーによって建設されたものです。グラバー邸1863年築の日本で最古の洋風木造建築です。グラバー園には、グラバー邸の他にも国際都市らしい洋風建築物が保存されていました。ロバート・ウォーカーのウォーカー邸元々は大浦天主堂のすぐ隣に建てられたもので、ロバート・ウォーカーは日本の清涼飲料のパイオニアとされています。リンガー園は旧居留地の丘陵上にありますが、最も高い所にあるのが「旧三菱第2ドックハウス」です。明治29年築のもので、船が長崎造船所に入っている間、乗組員の宿泊施設として建てられました。リンガー園からは長崎造船所を含む長崎市内がよく見渡せました。三菱重工長崎造船所で戦艦武蔵が建造される時、武蔵の建造を秘密にするため、リンガー邸の敷地は三菱重工によって買い取られたそうです。グラバー園から見た長崎市内
2012/01/04
コメント(4)
鎖国政策下の日本を象徴する場所が出島かも知れません。江戸時代で、ここが唯一の外国との窓口でしたその名の通り、出島は海に突き出した孤島だったのですが、現在は陸地の中に埋もれてしまった感がありました。鎖国下の日本で唯一の対外窓口であった出島は、1634年から築造が開始された人工島です。道路脇に残る出島の岸壁当初の目的は、オランダ人ではなく、ポルトガル人を管理することだったようです。ポルトガル人が国外追放となると、平戸からオランダの東インド会社の商館が移ってきて、以後はオランダ人の居住地となりました。オランダ商館面積約4,000坪の出島から自由に出入りすることはできなかったようで、ほぼ軟禁に近かったのではないでしょうか。(シーボルトを除く)
2011/12/26
コメント(6)
長崎は坂の多いことで知られていますが、中でも有名なのがオランダ坂でしょうか。ところで元々「オランダ坂」の名称は特定の坂を指すのではなく、東山手の旧居留地一帯の坂の総称だったそうです。現在では、旧英国領事館のあるオランダ通りから、活水女子大に到る坂が「オランダ坂」となっています。旧英国領事館当時は居留地を歩く西洋人を「オランダさん」と呼んでいたようで、東洋以外=オランダだったようです。オランダ坂にある旧居留地の碑居留地に置かれていた境界碑(グラバー園)オランダ坂の先には旧居留地の洋風建築などが並んでいましたが、普通に車が走っていたりして、ごく普通の石畳の坂道といった印象でした。
2011/12/24
コメント(0)
長崎市内を流れる中島川には、江戸時代に造られたアーチ型の石橋が数多く見られます。中でも有名なのが「眼鏡橋」で、錦帯橋(山口)、日本橋(東京)と並んで「日本三名橋」の1つに数えられています。江戸時代の1634年に架けられたもので、国の重要文化財に指定されています。中島川に架かる石橋の数々は寺の檀家によって架けられたもので、眼鏡橋も興福寺の檀家によって架けられたものです。1648年の洪水で損壊したものの修復され、以後は数々の洪水にも耐えてきました。しかしながら、1982年の長崎大水害では眼鏡橋も半壊し、他の石橋も損壊の被害を受けました。「長崎は今日も雨だった」の歌が自粛されたほどの被害だったそうです。
2011/12/22
コメント(0)
長崎に来て最初に訪れた場所が大浦天主堂でした。 旧居留地の南山手、グラバー園へと続く坂の途中にあります。 幕末の1865年に完成、現存する日本で最古の教会で、国宝に指定されています。日米修好通商条約を始めとする欧米五カ国との修好通商条約が締結されると、フランスとの条約に基づいて、フランス人の礼拝堂として現在の大浦天主堂が建設されました。大浦天主堂の建物が現存しているのは驚きですが、もっと驚きなのは、大浦天主堂が完成した1ヶ月後に長崎のキリスト教徒(隠れキリシタン)がプティジャン神父を訪ねて来たことです。約250年もの間、密かにキリスト教の信仰が守られていたことは、何代にも渡って信仰が受け継がれていたことになり、奇跡に近いかも知れません。信仰を後世に伝える中で、幼少の子供などは、周りにキリシタンであることを話してしまったこともあったかと思います。この「信徒発見」のニュースはローマ教皇まで伝わり、当時のローマ教皇ビウス9世は「東洋の奇跡」として感激したそうです。フランシスコ=サビエルが日本にキリスト教を伝えて以来、長崎では途絶えることなく続いていたことになります。
2011/12/20
コメント(0)
何か言葉を発するにつけ「ワワワワー」と聞こえてきそうな雰囲気ですが、長崎にやってきました。(ちなみに天気の方は曇り時々晴といったところです)横浜中華街・神戸南京町と並んで、日本の三大中華街とされるのが、長崎の「新地中華街」です。横浜や神戸だけでなく、他と比べても小さなチャイナタウンですが、どの中華街よりもきれいな印象がありました。長崎には唐人屋敷や南蛮寺などもあって、さすがは古くからの国際都市です。それでも「ちゃんぽん」がメニューに並んでいるのは、長崎ならではでしょうか。ちゃんぽんの発祥も長崎の中華料理店「四海楼」で、今もきれいな建物で営業しています。台湾の老街もそうでしたが、中華街には必ずと言っていいほど寺院があります。長崎にも中華街の近くに孔子廟がありました。台湾にいる頃はどこでも当たり前のように見ていた寺院の門ですが、両端が反り上がった屋根はとても懐かしい気がします。門から中に入っても「あ~、こんな感じ」と懐かしかったのですが、台湾の寺院と違うのは、中に入るのに拝観料を払ったことです。孔子廟をお参りする人は少なく、果物のお供え物が並んでいたり、半月型のものを投げている人もいませんでした。同じ福建省の華僑でも所によってちがうようです。
2011/12/18
コメント(0)
豊臣秀吉の朝鮮出兵で知られる文禄・慶長の役では、文禄の役で約16万人、慶長の役で約14万人が動員されました。このために築城された肥前名護屋城には、全国各地の戦国大名が詰めかけて来たため、城のある波戸岬全体が陣屋で埋め尽くされていたことでしょう。名護屋城北側の海に近い場所には、小早川隆景・加藤清正・福島正則・上杉景勝・直江兼続・織田信秀・九鬼嘉隆・島津義弘などの、そうそうたる面々が陣屋を置いていました。そのすぐ隣には、来島通之・藤堂高虎・伊達政宗・寺沢広高・黒田長政・真田昌幸などの陣屋がありました。以上の兵力だけでも陸海軍併せて相当な戦力で、日本国内なら敵なしかと思います。小西行長・大友義統・結城秀康・真田信幸・仙石秀久・前田利家・大谷吉継・石田三成などの陣屋があった方向この時兵站の奉行を担当した石田三成の陣屋は、意外にも名護屋城から遠く離れた一番西の端にあったようです。(後に武断派と文治派の対立や関ヶ原の戦いの遠因ともなったのが、この出兵だったのですが)名護屋城の背後にあたる南側には、徳川家康・本多忠勝・大久保忠世の徳川軍と、加藤嘉明・宗義智・脇坂安治などが陣屋を置いていました。宗義智は対馬から来たことになるので、行ったり来たりだったことでしょう。文禄・慶長の役では、約160名の戦国武将の陣屋が造られ、うち23の陣屋跡が特別史跡に指定されています。実際に各武将が陣屋を置いていた場所にも行ってみました。小早川隆景・加藤清正・福島正則の陣屋跡朝鮮出兵の加藤清正と言えば虎退治の話が通名ですが、加藤清正が最も奥地まで進軍しており、現在の中国・北朝鮮国境である豆満江を越えていたと言われています。名護屋城築城だけでも大普請だったと思うのですが、先陣まで努めるとは超人としか言いようがありません。九鬼嘉隆・細川忠興の陣屋付近音に聞こえた九鬼水軍でしたが、李舜臣の朝鮮水軍の前には苦戦を強いられました。朝鮮軍から「鬼石曼子」(グイシーマンヅ)と呼ばれた島津義弘の陣屋付近雑木林の中に入って行くと、石垣の跡が残っていました・朝鮮水軍の李舜臣が戦死したのも、小西行長の救援に向かった島津義弘の水軍との戦いの中です。上杉景勝・直江兼続の陣屋付近「この人たちまで来ていたのか」と言った感じですが、6,000人を率いて出兵し、実際に朝鮮半島まで渡海しています。北条氏盛・佐竹義宣・生駒親正の陣屋付近北条氏盛は北条氏直の養子とは言え、つい数年前の祖父の北条氏政の時代には、佐竹義宣や佐竹義重と関東で干戈を交えていた間です。つい最近の敵同士も、ここでは陣屋もほとんど隣同士のような感じでした。この戦国武将たちが、5年後に関ヶ原で東西に分かれて戦うようになるとは、思ってもみなかったことでしょう。肥前名護屋城には資料館があり、名護屋城や文禄・慶長の役に関する資料などが展示してあり、朝鮮半島との交易の歴史なども紹介されています。豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して発行した朱印状(原本)出陣の順番が示されており、先手は加藤主計頭(清正)、小西摂津守(行長)と書かれています。さらには先陣は二日交代とあるようにも見え、先陣争いを禁じているようにも思えます。(実際は加藤清正と小西行長の先陣争いで幕を開けたのですが)三番手は黒田甲斐守(長政)で、次に毛利壱岐守、嶋津又七郎(義弘?)とあります。以下仮名混じりで、攻撃目標などが記されていました。豊臣秀吉が鎌倉公方の後裔である足利国朝に宛てた書状高麗国を平定して、自らも渡海して知行割を行うとあります。倭国軍(水軍)の安宅船の模型日本史の教科書ではおなじみ、李舜臣率いる朝鮮水軍の亀甲船李舜臣はこの戦いで戦死しますが、韓国では英雄として扱われてると、韓国の人に聞いたことがあります。ちなみに名護屋城資料館では、日本の資料と共に韓国の歴史教科書も置いてあり、それぞれの見地から解説されていました。豊臣秀吉の朝鮮出兵は、最終的には豊臣秀吉の死をもって撤兵・終結しました。失敗とも言える戦いでしたが、プラグマティストである豊臣秀吉を思うと、この出兵は自然のことだったのかも知れません。66国の天下を統一して土地の争いがなくなった後ですが、まだまだコメが貨幣として流通する経済にあります。コメに代わる貨幣経済も流通せず、茶器などに価値を見出そうにも受け入れられず、とは言え与える貨幣(=コメ=土地)もなくなった中で、偽政者が求めるものは何だったのでしょうか。
2011/07/05
コメント(2)
全国各地の戦国武将が集結した例としては、小田原の役や関ヶ原の戦い・大阪夏の陣だど、あまり例がないかと思います。しかも各武将がお互いに干戈を交えることなく集結した場所としては、佐賀県唐津市にある名護屋城くらいでしょうか。1592年からの文禄・慶長の役において、豊臣秀吉が朝鮮半島への拠点として築いたのが名護屋城です。総石垣造りで、石垣も随所に残っていました。大手門付近の石垣玄界灘に臨む波戸岬に突如として現れた大城郭は、総面積が17万平米と桁違いの規模があります。名護屋城復元模型にわか造りにしてはあまりに立派な城郭で、総石垣造りの上に五層の天守まで建っていたようです。名護屋城の縄張りは本丸を中心に、二の丸と三の丸の曲輪が相対するように配されており、その周りにも腰曲輪が巡らされているようです。名護屋城縄張り図この大城郭の縄張り設計は、築城の名手としても名高い加藤清正です。島原の乱の後に石垣は破却されましたが、残る石垣を見る限りでは、反りのある清正流の石積みではありませんでした。単に大陸への出兵拠点とするならば、これだけの城郭を築く必要はないように思いますが、各国から集まった戦国大名に対し、天下人としての威厳を誇示する意図があったのでしょうか。島原の乱の後に石垣の隅石が破却されましたが、現在残る石垣と曲輪の跡を見ただけでも、当時の威容がわかるような気がします。大手口の石垣東出丸の曲輪跡水手曲輪の跡三の丸虎口の櫓台跡三の丸の曲輪跡三の丸から本丸への虎口跡本丸大手虎口本丸搦手小口本丸には天守の他にも御殿が建っていたようで、礎石の跡が残っていました。本丸御殿は300畳の広さがあり、ここで豊臣秀吉が各武将と謁見していたようです。戦国時代を代表する名だたる武将たちがここを訪れたことでしょう。本丸天守台跡確かに豊臣秀吉がここにいたのですが、目の前に広がる玄界灘を見ながら、豊臣秀吉は何を思っていたのでしょうか。文禄・慶長の役では、名護屋城の周囲に各武将の陣屋が置かれていました。そうそうたる面々が綺羅星のごとく並んでいますが、波戸岬全体が全国の戦国武将で埋め尽くされたことでしょう。名護屋城の後は、その陣屋の跡も尋ねてみました。
2011/07/04
コメント(0)
玄界灘に臨む唐津は、その名の通り古くから大陸との交通の拠点とされており、魏志倭人伝にある「末盧国」も、唐津の元々の呼び名である「松浦」だとされています。最近では九州電力の玄海発電所で有名となっていますが、それよりも前に九州のテレビ番組で唐津の特集をやっており、意外と近いことがわかったので、足を運んでみることにしました。その唐津湾の湾上に突き出すような縄張りをもつのが唐津城で、江戸時代に入ってから築城された近世城郭です。本丸以外は市街化されていますが、二の丸付近には石垣の一部が残っていました。本丸の石垣本丸の枡形虎口虎口には櫓門があったようで、礎石の跡が残っていました。別の門には櫓門がありましたが、建物は現存しておらず、復元されたものです。築城時から天守台があるものの、天守が建っていた記録は残っていません。昭和になってから、5層5階建ての模擬天守が天守台に建設されました。ちょうど天守台の石垣を修復中で、裏込め石などの石垣の構造を見ることができました。石垣の内部を見る機会はほとんどないので、これは貴重かも知れません。本丸からは玄界灘が一望でき、「三保ノ松原」・「天橋立」と並んで日本三大松原と呼ばれる「虹の松原」を望むことができました。まだ梅雨明け前なのでよくわかりませんが、逆さに眺めると虹のように見えると言われています。(先日のテレビ番組では、本当の由来は「二里の松原」が変化したものだと言っていました)唐津城は1602年に築城が開始され、江戸時代に入った1608年に完成しました。築城主は1585年に唐津に入封した寺沢広高ですが、関ヶ原の戦いでは徳川方に付いたため、関ヶ原の戦い以後に12万3千石に加増され、唐津藩の初代藩主となっています。唐津城の築城にあたっては、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の後に廃城となっていた肥前名護屋城の資材を利用したそうです。また九州各国の大名も普請の手伝いをしたため、現在も「薩摩堀」「肥後堀」などの名前が残っているそうです。唐津藩は寺沢堅高が跡を継ぎましたが、寺沢堅高の時に島原の乱が起き、その責任を取って寺沢堅高が自害したため、唐津藩主としての寺沢氏は2代で終わってしまいました。その後は徳川氏譜代が代々藩主となっていましたが、その中には水野忠邦がおり、後に老中となって天保の改革を行っています。
2011/07/03
コメント(0)
戦国時代の九州北部を駆け上がった龍造寺隆信、その雄者の本拠地は佐賀にありました。現在の佐賀市内には龍造寺氏の戦国城郭はなく、同じく下克上の代名詞のような鍋島氏によって築城された、近世城郭としての佐賀城があります。佐賀城の跡地は佐賀県庁や放送局などの敷地となっており、本丸付近に石垣の跡を見ることができました。本丸の石垣建物の大半は明治7年の佐賀の乱により焼失してしまいましたが、本丸虎口にある櫓門「鯱の門」と続櫓が現存していました。1838年に建てられたもので、江戸城の桜田門に匹敵するほどの櫓門です。櫓門の扉には佐賀の乱の時の銃痕が今もリアルに残っていました。本丸の枡形虎口本丸には五層の天守が建っていたようで、天守台も残っていました。1609年に破風のない五層の天守が建てられましたが、1726年の火災で本丸ともに焼失したそうです。本丸御殿も木造で復元され、佐賀城本丸歴史館の建物となっていました。内部も復元されているようですが、まだ開館前で入ることができませんでした。佐賀城は別名「沈み城」とも呼ばれ、非常の際には水をせき止めて湖水化させ、本丸部分だけが浮き上がるような設計になっていました。城跡の内外にはその水堀の跡も残っていました。外堀跡内堀跡天守台から見た二の丸まるで水城のような感じだったのでしょうか。佐賀城は1608年に鍋島直茂の長男で初代佐賀藩主の鍋島勝茂によって築城が開始され、1611年に完成しました。元々は龍造寺氏の村中城があった場所ですが、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍との戦いで討死した後、鍋島直茂が村中城の改修を計画していたようです。以後は代々鍋島氏が佐賀藩主を努め、幕末を迎えたのですが、明治に入った1874年に江藤新平による佐賀の乱が起き、佐賀城も反乱軍に占拠されて建物の大半を焼失しました。それでも残った石垣から見えてくる城郭には、肥前36万石に相応しい威容を感じました。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/07/02
コメント(0)
佐賀で大規模な環壕集落が発見されたのは、ちょうど平成になったばかりの頃のこと。「邪馬台国の発見か?」と大々的に報道されていたのを覚えています。個人的には「邪馬台国=九州北部」だと思っているのですが、邪馬台国は九州にあったとしても、いわゆるヤマト王権と邪馬台国は別だと考えており、「邪馬台国=ヤマト政権」ではないと思います。魏志倭人伝などの中国の文献でしか存在がわからないため、遺跡が発掘されない限り邪馬台国論争は結論が出ないことでしょう。福岡市の南部を大々的に発掘すれば手掛かりになるのでしょうが、今となってはそれも不可能かと思います。吉野ケ里は弥生時代の大規模な環壕集落で、国家としての行政機能を備えており、「ムラ」から「クニ」へと発展したものです。紀元前5世紀頃の弥生時代前期に「ムラ」が出来始めて以来、紀元3世紀の弥生時代後期の「クニ」まで、約8百年かけて出来上がった都市の姿が甦っていました。環壕集落の入口逆茂木などは発掘調査を元に復元されたものです。吉野ケ里は環濠と土塁で囲まれた複数の場所で成り立っていたようですが、「南内郭」と呼ばれる場所に支配者が住み、ここが政治の中心地だったようです。南内郭の入口入口付近の櫓台から見た南内郭の遠景行政の中心地とは言え、住居は竪穴式だったようです。裁定を取り仕切る「大人」の住居南内郭には王とその家族の住居があり、さらに独立した区画内にありました。王とその家族の住居群南内郭とは別に、「ムラ」と呼ばれる場所もあり、こちらにも同じような規模の竪穴式の住居が並んでいました。南内郭や「ムラ」とは独立的に「倉と市」もあったようです。交易の中心地であったとされる「市」支配者の住む南内郭と市の間には厳重に囲まれた曲輪があり、ここに倉があったようです。ところで吉野ケ里は日本城郭協会の日本100名城に選ばれていますが、何を持って「城」とするか、実は「城」の定義は明確になっていません個人的には堀や土塁などの防御施設を備え、戦闘拠点として機能した建造物が「城」だと思っています。吉野ケ里を城とするのは疑問に思っていたのですが、実際に訪れてみると、立派に城郭都市として機能していたことがわかりました。吉野ケ里の出土品である甕棺墓からは、武具が刺さったままの人骨が多数発見され、このクニが他の勢力と戦闘を行なっていたことがわかります。後漢書東夷列伝にある「倭国大いに乱れ」を裏付けているように思いました。倭国の大乱の中から邪馬台国が統一国家として登場するのですが、吉野ケ里は倭国のクニの一つだったかも知れません。(財)日本城郭協会「日本100名城」
2011/07/01
コメント(2)
全14件 (14件中 1-14件目)
1