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横浜山手には「フランス山」と呼ばれる丘陵があり、「港の見える丘公園」として整備されています。港の見える丘公園入口ところで「フランス山」の由来ですが、幕末の1863年まで遡ります。1862年の生麦事件など、攘夷派による外国人襲撃が相次いだため、フランスは居留地の自国民保護と居留地防衛のため、山手居留地に海兵隊を駐屯させました。軍隊が撤退した後、1894年にサルダの設計でフランス領事館の新築が開始され、1896年に完成しています。1923年の関東大震災で倒壊した後に再建され、公園には今もその建物の一部が残っています。フランス領事館跡井戸に使われた風車横浜港を見下ろす公園の一角には、「U・W」の旗が翻っていました。U・W旗国際信号では、「ご安航を祈る」の意味があります。港の見える丘の名前の通り、横浜港大黒ふ頭とベイブリッジを眺めることができました。昨今のクルーズ船の大型化に伴い、ベイブリッジを通れない船が増えており、やむなく大黒ふ頭に停泊するクルーズ船もあるようです。(ちなみにレインボーブリッジはベイブリッジよりも低いため、横浜港に入港できない船は、東京港に入港することができません)
2018/02/04
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横浜港の旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック)は「日本丸メモリアルパーク」となり、帆船日本丸が係留されています。1930年1月27日が進水式(お誕生日)で、今年で満88歳の米寿を迎えます。日本丸は商船系の学校の練習船で、1984年の引退までに約183万キロを航海したそうです。旧横浜船渠株式会社第一号船渠(国指定重要文化財)に係留された日本丸(日本丸も昨年9月に国の需要文化財に指定されました)みなとみらい21の背景に埋もれてしまった感がありますが、総トン数2,278トンの船体は、当時の海原では堂々たる姿だったと思います。現在の日本丸は当時のままに保存され、昔の遠洋航海の様子を偲ぶことができました。船首のバウスプリットストックアンカー甲板にアンカー(錨)が置かれているのは初めて見ましたが、アンカー自体の重量が約2.4トンで、1.5トンの錨鎖が10節付いていますから、総重量は17トンになります。(船は錨そのものの重量ではなく、錨鎖の重量で沖に停泊しています)船首楼甲板から見た船橋(ブリッジ)ウッドデッキの甲板甲板磨きのヤシの実でしょうか。下のデッキに降りて行くと、そこは居住区になっていました。練習生の寝室日本丸の定員は136名ですが、練習航海では200名近くが乗り組んでいたそうです。実は船乗りになりたいと真剣に考えていた時期があり、「商船学部航海学科」を目指していたことがあります。(商船学部のある大学は2つしかありませんでしたが)夢をあきらめずに船乗りを目指していたら、日本丸のような練習船で実習航海に出ていたかも知れません。船長室四本線の肩章入りの制服が掛かっています。こちらの部屋は三本線の肩章、一等航海士の部屋でしょうか。船舶と航空機では共通していることが多々あり、「キャプテン」と言えば船舶の船長であり、航空機の機長です。(いずれも四本線の肩章)航空会社によって呼び方は違いますが、副操縦士は「ファーストオフィサー」で、船舶の一等航海士を意味します。(三本線の肩章)日本丸は帆船ですが、完全に帆走するのではなく、エンジンを搭載しています。さらに下の第二甲板には、機関室がありました。ダイハツ製のディーゼルエンジン音声ガイダンスを聞いていると、600馬力だそうです。初代日本丸は1984年に引退しましたが、練習航海で日本丸に乗組んだ練習生は1万名を超えていました。そして今は二代目の日本丸が練習航海に旅立っており、日本の海運を担う人たちを育て続けています。
2018/01/29
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昨年4月に東京から横浜に引っ越してきて、10か月が経ちました。自宅から100mも離れていない場所に城址公園があるのですが、まだ一度も訪れたことがありませんでした。茅ヶ崎城がその城で、現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。北側の城址公園入口まだ雪が残っています。現地の縄張図を見ると、独立した四つの曲輪が配された、典型的な中世城郭です。縄張図東西に延びる縄張となっており、東に行くほど比高が高くなっています。北側の公園入口から入ると、中郭の土塁が現れ、西郭との間には桝形虎口の跡がありました。虎口跡西郭と中郭の間の空堀は特に幅が広かったため、堀底道が通っていたのかも知れません。西郭と中郭の間の空堀(西郭から見たところ)西郭は最も低い位置にあり、かつての三の丸が改変されたのかも知れません。西郭土塁を見ると、北条流の築城術だと思われます。西郭から北側に回り、中郭の土塁の北側を過ぎると、中郭より一段低い場所に北郭の跡が残っていました。中郭の北側土塁北郭後世になって増築された曲輪かも知れません。北郭から一旦戻って土塁を上がると、中郭の曲輪跡が広がっていました。中郭跡掘立建物の礎石跡が発見され、ここが本丸として機能していたかも知れません。中郭と東郭の間の空堀跡を通って南側の斜面に出ると、腰曲輪らしき跡が残っており、その先には堀切のような跡もありました。腰曲輪跡南側の腰曲輪南側には他にも腰曲輪の跡が見られました。堀切跡?発掘調査の結果、南側にも虎口があったようで、虎口の跡とされています。北側と南側に虎口があったことになりますが、どちらが大手なのか判然としませんでした。南に位置する小机城の支城として機能していたならば、南北に虎口があるのは自然な気がします。東郭は最も高い位置にあったようで、再び階段を登った先に曲輪の跡がありました。東郭向こう側に見えるのが中郭の土塁と空堀跡で、ほぼ同じ高さにあります。それにしても港北NTの住宅地の真ん中に、こんなに城郭遺構が残っているとは全く想像していませんでした。(ちなみに横浜市都筑区の旧国名は、相模国ではなく武蔵国です)発掘調査の結果、茅ヶ崎城の築城時期は14世紀末から15世紀前半と考えられ、北条氏以前の室町時代には築城されていたことになります。この頃の武蔵国と相模国は関東管領上杉氏の支配にあり、その頃から小机城とは連携していたとも考えられます。16世紀中頃には小田原北条氏の支配下となり、茅ヶ崎城も小机衆の配下にあったと思われます。
2018/01/28
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「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城と曰う」と、日本書紀に登場するのが水城(みずき)です。水城の遠景水城は土塁と濠で造られた古代城郭で、土塁は長さ約1.2km、高さ約10m、最大幅が約80mありました。土塁跡(断面)東西に延びる土塁の北側には、かつて幅約60m、深さ約4mの外濠が巡らされていたそうです。博多湾側(北側)の土塁と外濠跡反対側の太宰府側(南側)には、土塁の下を通って水濠に給水する「木樋」も発見されました。土塁の東西にはそれぞれ門が設けられ、西門のあった場所からは、大宰府(政庁)と鴻臚館(迎賓館)を結ぶ官道の跡も発見されました。西門跡水城は古代城郭でありながら、築城年、築城目的とも明らかになっています。663年の白村江の戦いで倭国が唐・新羅の連合軍に敗戦すると、唐・新羅連合軍の侵攻に備えるため、九州や瀬戸内海の沿岸各地に朝鮮式山城などの防御設備が造られました。そしてその防衛のために配備されたのが、防人です。白村江の戦いの翌年の664年、大宰府の防衛のために築かれたのが水城で、翌年の665年には、同じく日本書紀に登場する大野城が築城されています。水城から見ると、その大野城のある四王寺山が間近に見渡せます。白村江の戦いでの敗戦と、それに続く唐・新羅連合軍侵攻の脅威は、国家としての「日本」が独立を危ぶまれる最初の危機だったと思います。友好政策によって危機を脱し、その後の日本は中央集権体制を強めていきましたが、この1200年後にも同じような出来事はなかったでしょうか。すなわち黒船の来航から、明治維新への歴史がまさに同じ歴史だと思います。日本城郭協会「続日本100名城」
2018/01/25
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平成18年(2006年)4月6日の「城の日」、日本城郭協会によって「日本100名城」が選定されました。100名城の選定基準は3点あって、日本城郭協会の公式ガイドブックによると、1. 優れた文化財・史跡であること国宝(当時)である姫路城・彦根城・犬山城・松本城・二条城(障壁画)や世界遺産の沖縄のグスクなど2. 著名な歴史の舞台であること楠木正成の千早城や、天下統一の拠点となった安土城・大阪城・江戸城、さらには戊辰戦争の会津若松城など3. 時代・地域の代表であること古代城跡である古代の城柵、中世の居館や戦国山城など問題なく100名城に「当選」した城郭から、惜しくも当落線上から「落選」した城郭など、公式ガイドブックでは、全て実名入りで紹介されていました。(落選した城郭でも「名城」が並んでいるので、いかに厳しい戦いだったがわかります)個々の城郭の選定にあたっては、個人的に不平感もありましたが、「史実に基づかない模擬建造物」を排除する基準には、大いに共感できました。これまでも「ここに城があった」というだけで、時代背景も考えずに安易に模擬天守などを建設してしまう残念なケースは、多々目にしてきました。私も時代錯誤の模擬建造物には大反対で、100名城の3番目の基準でもある「時代・地域の代表」では、到底受け入れられないことでしょう。一方で地道な発掘調査と時代考証に基づき、時代錯誤の模擬天守などではなく、掘立の建物や門を忠実に復元する自治体もあり、こちらは大いに感服致します。(そういった城郭は、「日本100名城」には選ばれなくとも、「続日本100名城」で見事復活当選しています)その「日本100名城」をめぐってみたいとは思ったものの、一番厳しい選定条件があって、当初は夢のような話でした。「1都道府県に最低1城以上(ただし5城以内)」がその選定条件で、100名城すべてを訪れるには、47都道府県すべてを訪れる必要があります。100名城のためだけに時間を使うのはあまりにナンセンスだと思っていて、その時間があれば他の城跡をめぐっていたいところでした。(1年間で1城を訪れたとしても、100年かかる難行です)それでも気が付けば100名城を意識していて、振り返れば100名城のうち90城を訪れていました。いよいよカウントダウンとなった今、以下がこれまで訪れた90城です。(当ブログでご紹介した城跡は、記事にリンクしています)【北海道】根室半島チャシ跡群 、五稜郭、松前城【青森県】弘前城、根城【岩手県】盛岡城【宮城県】多賀城、仙台城【秋田県】久保田城【山形県】山形城【福島県】二本松城、会津若松城、白河小峰城【茨城県】水戸城【栃木県】足利氏館【群馬県】箕輪城、(新田)金山城【埼玉県】鉢形城、川越城【千葉県】佐倉城【東京都】江戸城、八王子城【神奈川県】小田原城【山梨県】武田氏館(躑躅ヶ崎館)、甲府城【長野県】松代城、上田城、小諸城、松本城、高遠城【富山県】高岡城【石川県】金沢城【福井県】丸岡城、一乗谷城【岐阜県】岐阜城【静岡県】山中城、駿府城、掛川城【愛知県】犬山城、名古屋城、岡崎城、長篠城【三重県】伊賀上野城、松阪城【滋賀県】彦根城【京都府】二条城【大阪府】大阪城、千早城【兵庫県】明石城、姫路城、赤穂城【奈良県】高取城【和歌山県】和歌山城【島根県】松江城、月山富田城、津和野城【岡山県】津山城、備中松山城、鬼ノ城、岡山城【広島県】福山城、(吉田)郡山城、広島城【山口県】岩国城、萩城【徳島県】徳島城【香川県】(讃岐)高松城、丸亀城【愛媛県】今治城、湯築城、(伊予)松山城、大洲城、宇和島城【高知県】高知城【福岡県】福岡城、大野城【佐賀県】名護屋城、吉野ヶ里、佐賀城【長崎県】平戸城、島原城【熊本県】熊本城、人吉城【大分県】大分府内城、岡城【宮崎県】飫肥城【鹿児島県】鹿児島城【沖縄県】今帰仁城、中城城、首里城以上90城いまだ未訪問の10城が、以下の城です。【新潟県】新発田城、春日山城【石川県】七尾城【岐阜県】岩村城【滋賀県】小谷城、安土城、観音寺城【兵庫県】竹田城、篠山城【鳥取県】鳥取城意外な城が残った感じがあって、果たして100/100はどこになるのでしょうか。そうこうしているうちに日本城郭協会より、10年後の平成28年(2016年)4月6日に「続日本100名城」が選定されました。こちらは選定前から訪れている城もあるものの、ようやく50/100です。(「続日本100名城」の選定については、「100名城」より秀逸だと思います)個人的には、実戦を経験した城こそが「名城」だと思っています。熊本城や五稜郭を除き、実戦経験がある城は中世の戦国城郭ばかりですが、「続日本100名城」ではそんな城がいくつも選ばれています。城のつくり方図典歴史群像シリーズハンディ版 日本100名城公式ガイドブッ【1000円以上送料無料】
2018/01/23
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12月に沖縄でグスクと世界遺産を巡っている途中、沖縄平和祈念公園とひめゆりの塔に立ち寄りました。ひめゆり学徒隊の慰霊碑実はここを訪れるのは初めてです。慰霊碑の前にある「ひめゆりの塔」沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の女子生徒によって編成された「ひめゆり学徒隊」、そのひめゆり学徒隊が避難していた「伊原第三外科壕」は、今も残っています。この狭いガマ(洞穴)の中に避難していました。そしてごの外科壕の中にアメリカ軍による手榴弾攻撃があり、約80名が命を落としたそうです。ここは修学旅行の定番にもなっているようで、隣接するひめゆり平和祈念資料館からは、笑い声を上げながら出て来る修学旅行生たちの姿がありました。今回は修学旅行コースの1つだったかも知れませんが、いつかはきっと自分たちの意思でここを訪れる日があると信じています。そしてひめゆり学徒隊だけでなく、「鉄血勤王隊」や「通信隊」など、沖縄戦では多くの学徒隊が命を落としていることも忘れてはならないと思います。沖縄平和祈念公園の「全学徒隊の碑」
2018/01/22
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伏見城本丸がある「桃山」の地名は、伏見城の廃城後に付けられた名前です。豊臣秀吉の時代には「桃山」の地名は登場していないので、「安土桃山時代」や「桃山文化」の呼称よりも、「安土伏見時代」や「伏見文化」の方が適切なようにも思います。それでも関西圏で「伏見桃山城」の名前が定着しているのは、やはり「伏見桃山城キャッスルランド」遊園地の影響でしょうか。伏見桃山城キャッスルランドはずっと以前、小学校の遠足で訪れたことがあり、天守が建っていたのを覚えています。キャッスルランドはすでに閉園となり、跡地は運動公園に変わっていましたが、天守などの城郭建築だけは残っていました。模擬大手門大手門横に建つ「伏見桃山城」の城跡碑大手門から中に入ると、キャッスルランドの面影は全くないものの、大天守と小天守はまだ建っていました。洛中洛外図屏風を基に外観復元された模擬天守ながら、5層6階の最上階には花頭窓が置かれ、いかにも桃山時代の天守です。(耐震基準を満たしていないため、中に入ることができません)この模擬天守を設計した人が誰なのかよくわかりませんが、注意して見てみると、ディテールにかなりのこだわりを感じました。天守の前には桝形虎口の石垣があります。(縄張のセオリーからすると、桝形は右折れになるのですが、ここは左折れになっていました)さらには付櫓のような門まで付いていました。それにしても付櫓に櫓門を備えている城郭は、これまで見た覚えがありません。実際に伏見城に天守は建っていたようですが、本丸や二の丸があったのは南側の桃山丘陵一帯で、現在は明治天皇の桃山陵となっているため、立ち入ることはできません。伏見城は1592年に豊臣秀吉の隠居場所として建てられ、指月城と呼ばれていました。1596年の慶長の大地震によって指月城が倒壊すると、桃山丘陵のある木幡山に新たに伏見城が築城されました。1598年に豊臣秀吉が伏見城で死去すると、留守居として徳川家康が入城してきました。1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦では、島津義弘軍の攻撃によって、伏見城は落城しました。よく知られているエピソードですが、この時島津義弘は東軍につく目的で伏見城に入城しようとしていました。しかしながら徳川家康配下の守将鳥居元忠にその情報が伝わっておらず、島津軍は伏見城入城を拒否されたため、やむなく伏見城を攻撃して西軍についた経緯があります。関ヶ原の戦い後の1602年、徳川家康によって伏見城は再建され、1603年には征夷大将軍宣下が伏見城で行われました。しかしながら1615年の一国一城令で、京都は二条城を残したため、伏見城は廃城となっています。廃城後、伏見城の城郭建造物は、各地に移築されました。特に福山城には多くの建造物が移築され、うち伏見櫓と筋鉄門が現存しています。福山城伏見櫓(現存、国指定重要文化財)(2008年8月)解体修理した際に発見された墨書から、伏見城松の丸東櫓を移築したことが判明しました。筋鉄門(現存、国指定重要文化財)伏見城からの移築とされていますが、確証はないようです。
2018/01/19
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京阪伏見桃山駅から続く通りには「大手筋通り」の名前が付いており、この道が伏見城に至る大手筋でした。大手筋に建つ御香宮神社の鳥居御香宮神社の表門は、伏見城の大手門を移築したと伝えられています。表門(移築現存、国指定重要文化財)御香宮境内に入って見ると、伏見城石垣石の残石が置かれていました。伏見城の石垣に使われていたようで、矢穴(ミシン目)も残っています。豊臣秀吉が伏見城を築城するにあたり、御香宮神社は伏見城の鬼門除けとして、本丸の北東に移されました。1605年には徳川家康によって現在の場所に戻され、境内には徳川家康によって造営された本殿が現存しています。本殿(国指定重要文化財)御香宮の土塀脇には史跡案内板があり、見てみると「『黒田節』誕生の地」とありました。黒田長政の家臣である母里太兵衛が、福島正則の屋敷を訪れた際に何杯も酒を飲み干して、約束通りに名槍「日本号」を福島正則から貰い受けたという逸話です。(なぜかこの手のエピソードには、福島正則がちょいちょい絡んできます)黒田長政や黒田節と言えば福岡博多のイメージが強いのですが、実は黒田節の発祥は京都伏見だったようです。実際の福島正則の屋敷は御香宮より北にあったようで、現在も「桃山福島太夫南町」などの地名が残っています。伏見城の大手筋近くには、他に「桃山毛利長門西町」(毛利輝元)、「桃山長岡越中北町」(細川忠興?)、「桃山三河」(徳川家康)など、かつての大名屋敷跡と思われる地名が多く残っていました。戦国時代には争い合っていた武将たちも、豊臣秀吉の統一政権の伏見城下では、屋敷を並べて仲良く住んでいたようです。
2018/01/18
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二条城本丸は周囲を内堀で囲まれ、虎口には櫓門が建っていました。本丸櫓門(現存、国指定重要文化財)本丸櫓門(城内から見たところ)本丸にも庭園があり、明治29年(1896年)に明治天皇の指示によって造られた庭園です。本丸庭園本丸には1626年に伏見城から天守が移築されましたが、1750年の落雷によって焼失してしまいました。以後は再建されておらず、現在は天守台だけが残っています。天守台と内堀天守台には登ることもでき、天守台からは本丸内がよく見渡せました。天守台から見た本丸御殿天守台から見た西門(桝形が残っています)本丸に建つ御殿は、京都御所の北隣にあった桂宮家の御殿の一部が移築されたものです。本丸御殿(国指定重要文化財)14代将軍徳川家茂と和宮親子内親王の婚姻、いわゆる和宮降嫁の時、和宮が江戸に向けて出立したのもこの御殿でした。その本丸御殿の玄関は、なぜか櫓門と反対側にありました。徳川家康が征夷大将軍就任の祝賀を行った二条城は、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を諸大名に諮った場所でもあります。二条城の歴史は、徳川将軍家の栄枯盛衰の歴史だと言えるでしょう。日本城郭協会「日本100名城」ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」
2018/01/17
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慶長の一国一城令や明治の廃城令による破却、自然災害や太平洋戦争の戦災による消失、そして戦後の都市整備を生き抜いてきた城郭は、本当に数少ない存在です。かつては数万もあったとされる中世の戦国城郭については、それこそ戦国時代を生き抜いてきたため、曲輪や土塁・空堀跡の遺構が一部でも見つかればまだいい方です。(それだけに戦国の城跡ハントには駆り立てられるものがあるのですが)近世城郭について言えば、石垣が残っているのも貴重なほどで、櫓や門などの建造物が1つでも残っているならば、希少な存在かと思います。二条城については築城時の建造物が数多く残っており、二の丸から本丸へ至る途中にある門は、いずれも建造時から現存しているものです。北中仕切門(内側)1626年の行幸時に建てられたもので、重要文化財に指定されています。反対側には南仕切門が対で立っており、こちらも現存建造物です。本丸の虎口近くには、二つの門がやはり対で建っていました。鳴子門(内側)城郭ではあまり見ないのですが、四脚門形式です。鳴子門と対になって本丸を防御しているのが桃山門です。桃山門(現存、国指定重要文化財)こちらも城郭では珍しい長屋門形式です。城郭に現存する長屋門を見たのは岩槻城以来でしょうか。さらには土蔵なども現存していました。土蔵(北)(現存、国指定重要文化財)やはり1626年の行幸時から現存する建造物で、城郭で土蔵が残っているのは二条城だけでしょうか。400年前から残る建造物がこれだけ多く現存していると、感覚が麻痺してしまいそうです。
2018/01/16
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二の丸の周囲だけでも多くの建造物が現存しており、これだけでも見ごたえは十分なのですが、二の丸の中はさらに圧巻でした。二の丸の唐門と築地(国指定重要文化財)1626年の行幸時に建てられたもので、唐破風を備えているため、唐門と呼ばれています。唐門日本の城郭建築の中で、御殿が現存するのは川越城・掛川城・高知城と二条城の4城しかありません。そのうち二の丸御殿が現存するのは掛川城と二条城だけですが、二条城の方は別格かも知れません。二の丸御殿「遠侍及び車寄」(国宝)二の丸御殿は、遠侍及び車寄・式台・大広間・蘇鉄之間・黒書院・白書院の6棟がつながっており、いずれの建物も国宝に指定されています。二の丸御殿は中に入って見学することもできますが、内部は撮影が禁止されていました。二の丸御殿は1603年に徳川家康によって造営され、その後1626年の御水尾天皇の行幸に備え、徳川家光によって現在の姿に改造されています。建造物もさることながら、狩野探幽など狩野派の障壁画も当時のままに残っていました。二の丸庭園に回ってみると、外から二の丸御殿を見ることができます。奥から遠侍及び車寄・式台・大広間(いずれも国宝)大広間第15代将軍徳川慶喜が大政奉還を諸大名に諮ったのも、この大広間でした。(内部は人形によってその様子が再現されています)武士による封建制度が終わりを告げ、日本の歴史も中世から近世へと移り変わった瞬間を、リアルに見ているような感じでした。白書院(国宝)二の丸御殿の最も奥にあり、将軍の休息所や寝所となっていた場所です。二の丸御殿に面しているのが二の丸庭園で、作庭の名手として知られる小堀遠州(小堀政一)の作事です。桃山様式の池泉回遊式庭園です。二の丸庭園と大広間ところで二条城の二の丸御殿と言えば、鴬張りの廊下で知られています。現地の解説板にはその仕組みが図入りで書かれていました。外部からの侵入者に備えるためとばかり思っていたのですが、その解説板によると築造当初はその意図はなく、経年劣化によって自然と音が鳴るようになったとのことです。
2018/01/15
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京都に住んでいる頃、何度も前を通りながら、訪れたことがなかったのが二条城です。二条城は二の丸と本丸だけの輪郭式の縄張となっており、二の丸は外堀で囲まれています。二条城外廻絵図東側の外堀二の丸に建てられた隅櫓のうち、東南隅櫓と西南隅櫓が現存しています。東南隅櫓(国指定重要文化財)東南隅櫓(城内から見たところ)二条城に限ったことではありませんが、隅櫓は城外と城内で外観が全く違ってきます。やはり隅櫓は城外から見るのが一番でしょうか。二の丸へ入る門としては、東大手門・北大手門・西門・南門があり、大正時代になって造られた南門以外は、いずれも現存しています。北大手門(国指定重要文化財、城内から見たところ)1603年の築城時からここにある門ですが、現在の姿は築城時のものか、1626年の行幸時に改築されたものかについてはわかっていません。門の先には京都所司代があり、その連絡門として使われていたようです。東大手門(国指定重要文化財)築城時からこの場所にありますが、1626年の行幸時に建てられた後、1662年に改修されて現在の姿になりました。現在は東大手門のみ通行可能となっており、東大手門を入ったすぐ右側には番所がありました。東大手門と番所(城内から見たところ)番所(現存)二条城には9棟の番所がありましたが、現存しているのはこの東大手門の番所だけです。また、番所が現存する城郭は久保田城・江戸城・掛川城・丸亀城しか記憶になく、いずれも日本100名城に選ばれた名城ばかりです。
2018/01/14
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ラーメンの激戦区となっている一乗寺・北白川界隈、ここは宮本武蔵の決闘の地でもありました。宮本武蔵の決闘では巌流島があまりにも有名かと思いますが、「一乗寺の決斗」は小説や映画でも取り上げられており、その舞台となったのが「一乗寺下り松」です。一乗寺下り松現在の松は四代目で、その横には「宮本 吉岡 決闘之地」の碑が建っていました。現地の解説板によると、ここは近江から比叡山を経て京に至る交通の要衝で、一乗寺下り松は旅人の目印となっていたそうです。アスファルト舗装道を挟んだ向かい側には、かつての道標が残っていました。宮本武蔵が吉岡一門と決闘するにあたり、戦勝祈願を行った場所が八大神社でした。八大神社鳥居参道はアスファルト舗装されていますが、ここから300mほど行った場所に本殿があります。八大神社にあるイラスト(やはり二刀流です)そう言えば、一乗寺から叡山電鉄で鞍馬に行く途中には、マンガ学部で知られる京都精華大学があります。八大神社の境内には、一乗寺の決闘の時に植えられていた「一乗寺下り松」の古木が祀ってありました。その一乗寺下り松の前に立つのが、二刀流の宮本武蔵像です。子供の頃に剣道を習っていたことがあるのですが、個人的には千葉周作の北辰一刀流(赤胴鈴之助)が好きです。ところで、一乗寺下り松の「宮本 吉岡 決闘之地」碑の横には、もう一つ碑が建っていました。「大楠公戦陣蹟」碑傍らにある碑文を要約すると、足利尊氏と楠木正成がここで対陣し、楠木正成軍が足利尊氏軍を追撃したとあります。「太平記」の世界では、足利尊氏は九州から瀬戸内海を海路で進軍しており、楠木正成の相手は足利尊氏ではなく、陸路で進軍してきた尊氏の弟、足利直義でした。さらにその舞台は京都一乗寺ではなく、兵庫湊川です。宮本武蔵が一乗寺で戦った吉岡一門は、「扶桑第一之兵術」として代々足利将軍家の師範役でした。もしかしたら「一乗寺の決闘よりもずっと前、すでに楠木正成が初代足利尊氏とここで戦っていた」というシャレなのでしょうか。(まさかこれが史実ならば、桜井の訣別とかって、一体何だったんだろうって話です)関連の記事巌流島(2011年4月)→こちら宮本武蔵全一冊合本版【電子書籍】[ 吉川英治 ]
2018/01/13
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大阪梅田で妹夫婦と食事をした後、帰りの飛行機まで時間ができたので、少し寄り道してみることにしました。伊丹空港の最寄り駅である阪急宝塚線蛍池駅から一駅、降りた駅は阪急宝塚線の石橋駅です。昔ながらの古いアーケード商店街を過ぎ、母校のある待兼山を目指しました。阪大坂以前は細いアスファルト道でしたが、きれいな石畳になっていました。30~50万年の日本にはワニが住んでいたようで、日本で最初にワニの化石が発見された場所が待兼山で、「マチカネワニ」と命名されました。阪大坂の途中、かつての医療技術短大の跡地には大阪大学総合学術博物館が出来、ここにマチカネワニの化石が展示されているそうです。残念ながら休館でした。初めて知ったのですが、待兼山からは弥生時代の集落跡が見つかり、待兼山全体が「待兼山遺跡」となっているそうです。中世の火葬墓跡阪大坂を登り切ると、石橋口(裏口)へやって来ました。正門は大阪モノレール柴原駅の近くにあり、理学部や基礎工学部、吹田キャンパスなどへ行くには正門を使うのが便利かと思います。私の在学時は阪急石橋駅から遠い上に、理学部や基礎工学部、吹田キャンパスにも用がなかったので、正門はほとんど使ったことがありません。(吹田キャンパスは行ったこともありません)石橋口から入ると最初に見える建物が、旧浪速高等学校時代の校舎(大阪大学会館)です。当時は「イ号館」と呼ばれていました。イ号館から右に曲がると、私のいた経済学部の校舎があるのですが、当時よく通っていたのが「明道館」です。これでもきれいになった方で、当時は本当にスラム街のような場所でした。そして2階の中央には、今でも探検部の部室がありました。遠征に行っているのでしょうか、扉には「不在」の表示と鍵がかかっていました。入口の横に安全環付のカラビナがぶら下がっていて、アプザイレン(懸垂下降)の練習でもしているのでしょうか。さらに「山猫出没注意」のステッカー、後輩たちも西表には行っているみたいです。インターネットも普及していない時代、この扉の向こう側では限られた情報で行動計画を立て、装備品を並べていたのを思い出します。もちろん遠征では予想外のことが多々起こったりしましたが、その都度仲間で知恵を出し合って乗り切ってきました。そんなことを思い出していると、原点に帰ってきたような思いです。私の在学時はすでにバブルは崩壊していたものの、明道館にはまだまだ熱気があふれていたように思います。冬休みとあってか、学生の姿もまばらだったのですが、何だかおとなしい感じがして、少し寂しい気もしました。時代が違うと言われればそれまでですが。
2018/01/07
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中城城の本丸である一の郭と二の郭の間の城壁にも、グスク特有のアーチ型の門がありました。二の郭の門一の郭城壁から見た二の郭全景二の郭にも拝所があり、「シライ富ノ御イベ」の名前が付いていました。二の郭の先にある三の郭は「新城(みーぐすく)」とも呼ばれ、後になって増築された曲輪です。二の郭の城壁から見た三の郭二の郭から直接三の郭へは行くことができず、西の郭と北の郭の腰曲輪を経由することになります。二の郭から西の郭へ抜ける門搦手の埋門みたいに目立たない門でした。北の郭と三の郭の間には、大手門に大きな虎口がありました。三の郭虎口櫓台のような物見台もあったりして、城内で最大の門だと思います。三の郭に入ってみると、二の郭の城壁が目の前に立ちはだかっていました。これを登って二の郭に入るのは難しそうです。再び北の郭に戻り、裏門から城外に出て振り返ると、三の郭の石垣が見えていました。。アメリカ海軍東インド艦隊のペリーが幕末に中城城を訪れた時、この城壁を賞賛し、アーチ型の門をエジプトのようだと評したそうです。中城城の築城時期は明らかではありませんが、14世紀中頃に先中城按司が築城したとされています。1440年に護佐丸が座喜味城から移封すると、勝連の攻撃に備えて、三の郭と北の郭を増築しました。しかしながら1458年、勝連按司阿麻和利が首里王府軍の総大将として中城城を攻め、築城の名手護佐丸もこの時に滅亡しました。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」日本城郭協会「日本100名城」
2017/12/27
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ユネスコ世界遺産(文化遺産)、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」巡りも、残すところ中城城のみとなりました。この世界遺産碑を見るのは2回目で、実は約10年前に中城城を訪れたことがありました。当時は登城道も整備されていなかったのですが、今回は登城道までの道が整備されている上、正門近くまでカートで運んでもらいました。中城城の正門当時は櫓門が建っていたと思われます。正門の手前にはガマ(洞口)があり、「カンジャーガマ」の名前がありました。カンジャーガマ鍛冶場の意味があるようです。中城城は不思議な縄張になっており、正門に近い方から一の郭・二の郭・三の郭の名前があり、南の郭・西の郭・北の郭が周囲に配されています。正門を大手門とみるならば、一の郭(本丸)が不思議な位置にあります。正門を通ると、まずは西の郭がありました。西の郭見えているのは一の郭の城壁で、いきなり本丸です。それでもすんなりと一の郭にたどり着くことは出来ず、西の郭からさらに南の郭を経由する順路となっていました。南の郭の虎口中城城には8か所の拝所があり、中でも南の郭には拝所が3か所あります。小城ノ御イベ(久高遥拝所)と御富蔵火神(首里遥拝所)雨乞イノ御嶽南の郭から一の郭の間の城壁には、グスク特有のアーチ型の門が置かれています。一の郭の門一の郭の内部一の郭はまさに本丸として機能していたようで、按司が政務を行う正殿が建っていたようです。一の郭の正殿跡一の郭にある拝所 「中森ノ御イベ」一の郭では、一部城壁に上がることができました。一の郭の城壁グスク特有の曲線に城壁には、内側に武者走りが設けられていました。一の郭は中城城の中でも最も高い場所にあり、城壁からは中城湾がよく見渡せました。
2017/12/26
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勝連城の一の曲輪(本丸)では一段と高い石垣が積まれており、これだけでも見ごたえ十分でした。布積み(日本城郭の打込み接ぎ)と相方積み(切込み接ぎ)が混じっており、途中で改修されたのかも知れません。それにしてもグスクの石垣技術の高さにはつくづく感服しますが、隅石の曲線はグスクならではでしょうか。(日本城郭では、隅石を算木積みで積み、角張っているのが特徴です)一の曲輪へ続く石段上に行くほど狭くなっているのが、防御上の工夫です。一の曲輪(本丸)一の曲輪にも御嶽があり、「玉ノミウヂ御嶽」の名前が付いていました。大きな霊石をご神体とする御嶽で、発掘調査では宝物殿の跡が確認されたそうです。また、二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、勝連城の落城の時はここが避難路となったと伝えられています。一の曲輪から振り返ると、勝連城の全景がよく見渡せました。勝連城の築城時期は明らかではありませんが、すでに13世紀にはここにグスクがあったとされています。15世紀の琉球王国の統一の中で、国王に最期まで抵抗した有力按司が「阿麻和利」で、1458年に琉球王によって滅ぼされるまで、勝連城を本拠地としていました。阿麻和利は北谷の農民出身で、幼少の頃は体が弱く、山に捨てられたと言われています。それでも聡明なために出世し、人々から慕われるとと共に、海外貿易によって勝連を発展させてきました。勝連城を訪れてみると、その築城の中に才知を見ることができました。交易と軍事に長けた阿麻和利の才能がわかるような気がします。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」日本城郭協会「続日本100名城」
2017/12/25
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勝連半島の付け根部分、標高100mの独立した丘陵部にある勝連城は、うるまの市内からもその石垣がよく目立ちます。勝連城の全景勝連城は三の曲輪から一の曲輪まで備えた連郭式で、それぞれの曲輪が城壁と石垣で囲まれています。西原御門の石垣三の曲輪へ続く石階段右側に城壁を見ながら横矢が掛かっており、本土の城郭と同じく防御設備が見られます。三の曲輪の城壁この城壁を右に見る格好となり、単なる交易拠点ではなさそうな感じでした。三の曲輪の城門おそらく櫓門が建っていたと思われますが、本土でこのクラスの石垣門を見るためには、勝連城の築城から100年以上は待たなければならないことでしょう。三の曲輪から見た二の曲輪の基壇野面積みと布積み(切込み接ぎ)が見られますが、途中で改修されたのかも知れません。二の曲輪には建物の礎石跡があり、舎殿が置かれていたようです。二の曲輪の全景二の曲輪と一の曲輪の間には、「ウミチムン(火の神)」が祀られ、「ウシヌジガマ」の洞口がありました。「ウミチムン(火の神)」(左)と「ウシヌジガマ」(右)「ウミチムン」は「三個のかまど」の意味があり、琉球古来の信仰である火の神を祀っています。ここからは久高島などの聖地を遙かに拝む場所であったとされています。さらに沖縄でよく見かける洞窟が「ガマ」で、「ウシヌジ」とは「身を隠す」の意味があります。勝連城が落城した時、城主の阿麻和利は「ウシヌジガマ」を抜けて読谷へ逃げ延びたの言われています。太平洋戦争の沖縄戦でも、ひめゆり学徒隊が避難していた場所も、やはりガマでした。琉球の城(グスク)に関して言えば、そもそもの築城目的が戦闘拠点ではなかったと思っています。信仰の拝所である「御嶽(ミタキ)」があり、何よりも交易は海からやって来ます。その海を一望できる場所こそ、グスクならではの築城場所でしょうか。中城湾の方向平安座島の方向
2017/12/24
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名護湾を見下ろす標高107mの山頂部に名護城(ナングスク)があります。名護城の城跡は神社の境内になっているらしく、両脇に石灯篭が並ぶ500段ほどの階段を、延々と登って行きました。そしてその長い階段の先にあったのが、普通に神社の拝殿です。名護神社拝殿琉球信仰の御嶽(うたー)ではなく、まぎれもなく神道の神社です。それでも屋根は沖縄赤瓦で、不思議なものを見ている気がしました。これまで登ってきた階段を振り返ると、名護湾が一望できました。今回のグスク巡りで共通していることは、必ず海の見える場所にあるということです。このことから、グスクは交易の拠点でもあったと確信しました。拝殿の先に道がついており、さらにその先に行ってみることにしました。さらに石段が山頂部に続いており、途中には曲輪と思われる削平地があります。「グスク=石垣」と考えていると、うっかり見落としてしまいそうした。斜面に沿って曲輪の跡がいくつかあり、こちらには琉球の信仰である拝所などもありました。(撮影はしていません)そして石段を登り切った先には、本丸と思われる削平地があります。名護城には、グスク特有の琉球石灰岩の石垣が全くありません。土塁で造られた単郭城郭には、本土でいう鎌倉時代の中世城郭のような印象すらあります。本丸の背後には日本城郭の堀切の跡はあったものの、戦闘拠点としては全く手薄な感じがしました。このことからも、本来のグスクの目的は本土と違い、単なる戦闘拠点ではなかったように思います。名護城の築城は14世紀の初めとされ、まさに鎌倉時代の築城です。築城主は北山城(今帰仁城)の名護按司で、中山尚巴志が琉球を統一してからは、名護按司が首里に引き揚げたため、以後は名護の住民がそれぞれ暮らしていました。以来、名護の人たちの信仰の地となっていましたが、昭和3年に現在の神社が建立されたそうです。
2017/12/23
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泡盛の銘柄の由来ともなっているのが、読谷の残波岬です。座喜味城から見た残波岬「残波」の製造元である比嘉酒造は、ちょうど座喜味城と残波岬の間にあります。残波岬は断崖絶壁上にあって、打ち寄せる荒波が泡盛「残波」のロゴにもなっています。ところで那覇空港から北向き(RWY36)に離陸する時、右手に見える嘉手納の滑走路の延長線上を通過するまでは、高度1000ft(約300m)の高度制限があります。(もう亡くなってしまいましたが、知人の元日本航空キャプテン殿は、「高度1000ftだよ。離陸したらすぐに推力を絞らないといけないので大変。」と話していました)その飛行制限があるため、那覇空港を離陸した後、右の眼下に残波岬の断崖をよく見ることができます。そしてひと際よく目立つのが、白亜の残波岬灯台です。遅ればせながら、本年も宜しくお願いします。わざわざ訪れないような城跡や史跡ばかりをご紹介していますが、各地に足を運ばれた時、「そう言えば」と何かの時に思い出して頂き、見聞の一助になれば幸いです。残波プレミアム 30度/1800ml【沖縄】【泡盛】
2017/12/22
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加藤清正や藤堂高虎など、16世紀の戦国時代には築城の名手、特に石垣造りの名手がいました。それから遡ること約1世紀、琉球にも護佐丸という築城の名手がおり、その護佐丸によって築城されたのが座喜味城です。座喜味城の城跡碑座喜味城は二の郭と主郭の2つの曲輪を持つ縄張となっており、それぞれの曲輪が城壁で囲まれていました。石積みも布積み(日本城郭では「切込み接ぎ」)が見られ、築城技術の高さがうかがえます。二の郭の門琉球の城(グスク)の特徴でもあるアーチ型の門で、琉球の城の中でも最も古いアーチ門とされています。二の郭の城壁(内側から見たところ)座喜味城は結婚式の撮影スポットともなっているようで、この日も二の郭で新郎新婦の撮影が行われていました。主郭から見た二の郭の全景主郭は一段高い場所にあり、アーチ門には石段が付いていました。主郭のアーチ門主郭全景(内側から見たところ)主郭の城壁は、一部登って見学することもできました。曲線の城壁とそこから望む太平洋が、グスクの特権でしょうか。座喜味城は15世紀の初め、築城の名手として知られる護佐丸によって築城されたと言われています。中山王である尚巴志が、1416年に北山の今帰仁城を攻略した時、護佐丸も中山の連合軍として今帰仁城攻略戦に参戦していました。護佐丸が戦後処理のために今帰仁城(北山)に留まっている時、築城されたのが座喜味城です。特に座喜味城のアーチ門は、現存の他のグスクには見られない技法であることから、現存する最古のアーチ門だと言われています。太平洋戦争では、城内に日本軍の高射砲陣地が置かれ、戦後もアメリカ軍のレーダー基地が置かれていました。沖縄返還後に復元事業が始まり、1982年に復元事業が完了しています。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/12/21
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今帰仁城の主郭(本丸)も石垣の城壁で囲まれており、14世紀中頃(1300年代)にはすでに石積みになっていたそうです。野面積みの石垣ですが、日本城郭でこれだけの石垣が造られるのには、あと200年ほど待たなければなりません。主郭には「里主所火の神」が祀られていて、尚氏による琉球三山統一後に建てられたものです。里主所火の神尚氏の中山から派遣された監守が、1665年に首里に引き揚げた後も崇めれてていて、現在も参詣者が絶えないそうです。主郭は本丸と同様の機能があったようで、建物の跡が残っていました。建物跡礎石も石垣で造られているのがお見事です。城壁で囲まれた主郭のさらに奥には門があり、その先にも曲輪が連なっているようです。主郭の先には「志慶真(しげま)」と呼ばれる曲輪があり、建物の礎石跡も残っていました。志慶真の曲輪跡本丸からは一段低い場所にあり、城主に使える人たちが生活していたとされています。志慶真から見た主郭城壁今帰仁城の主郭から降りてくると、周辺にはいくつかの集落跡がありました。ムラ跡主郭を中心として、城壁で囲まれた城下町が形成されていたのかも知れません。その意味では、大陸の城郭都市の影響が大きいのかと思います。14世紀の琉球は、北部地域を北山・中部地域を中山・南部地域を南山が支配した「三山鼎立の時代」で、中国の史書にもその三王の名前が登場します。今帰仁城を拠点とする北山王は沖縄本島の北部を中心に支配下とし、中国と貿易をしていました。しかしながら1416年に中山(首里城)の尚巴志によって滅ぼされ、中山が監守を今帰仁に設置して以降、監守の居城として今帰仁城を利用していました。1609年には薩摩軍による琉球侵攻にあい、城は炎上したとされています。監守が住まなくなって以後は拝所となりましたが、精神的拠り所として広く県内から参拝者が訪れているそうです。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、今帰仁城も世界遺産(文化遺産)に登録されました。日本城郭協会「日本100名城」(90/100)
2017/12/20
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今帰仁城の石段には1月下旬になると寒緋桜が咲き、毎年「今帰仁グスク桜まつり」が行われるそうです。その石段の先には曲輪の跡があり。「大庭(うーみゃ)」と名付けられていました。首里城の御庭(うなー)と同様の機能があったとされ、発掘調査では大庭を取り囲むようにして、正殿・南殿・北殿の礎石跡が見つかっています。そして今帰仁城の大庭にも、琉球のグスクには必ずと言っていいほど存在する御嶽(みたき)がありました。ソイツギ(城内下之御嶽)跡大庭のから一段高くなった所には、「内原(うーちばる)」と呼ばれる曲輪の跡があり、ここからは太平洋が一望できました。見えているのは伊平屋島でしょうか。御嶽の存在もさることながら、グスクの特徴として、海が見渡せる場所にあることが挙げられます。このことからも、戦闘拠点というよりも、むしろ交易の拠点であったり、神聖な場所であったことがうかがえます。内原から見た大隅(うーしみ)の曲輪跡内原は女官が暮らしていたとされ、最も神聖な御嶽である「テンチジアマチジ(城内上の御嶽)」がありました。斎場御嶽と同じく、かつては男子禁制だったようです。内原からさらに高い場所にあるのが主郭で、いよいよ今帰仁城の本丸に入って行きます。
2017/12/19
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今帰仁(なきじん)は、ぜひ訪れてみたい城の1つでした。これまで画像でしか見たことのなかった城壁が目の前にあります。大隅(曲輪の名前)の城壁この高石垣と曲線美は、琉球のグスクならではでしょうか。平郎門グスク特有のアーチ型ではありませんが、ここが大手門のようです。平郎門を抜けると、左右に見通しの良い平地があり、かつては城壁で囲まれていたようです。カーザフの城壁もっと高い城壁があったのかも知れませんが、日本城郭の縄張のセオリーからすると、大手周辺があまりに手薄な気がします。平郎門からは、直線の長い石段が続いていました。この石段は1960年代になって造られたもので、本来あった旧道は発掘調査によって見つかったものです。旧道跡
2017/12/18
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沖縄本島の最南端、喜屋武岬近くにあるのが具志川城です。東シナ海に臨む城跡(ぐすくあと)には、サンゴで出来た琉球石灰岩の城壁が残っていました。首里城と違って、ここではサンゴ石の野面積みです。城壁には門があったのかも知れませんが、崩落していてよくわかりませんでした。虎口跡具志川城は三方を海に囲まれており、虎口を抜けると主郭の先に太平洋が広がっていました。虎口跡から見た主郭柵で囲まれた井戸のような場所は「ひーふちみー(火吹き穴)」と呼ばれ、海につながっています。「ひーふちみー」は、荷物の上げ下ろしや有事の際の避難に使われたとされたようです。主郭虎口(内側から見たところ)海に面した石垣には、見張りのための階段と武者走りの跡がありました。階段跡武者走り跡本土の城(しろ)について言えば、戦闘拠点としての役割が主だったと思います。琉球の城(ぐすく)では、交易の拠点としての役割が主で、海に対する物見は重要な機能だったのかも知れません。具志川城西側の太平洋南側断崖絶壁で囲まれています。東側その向こうが喜屋武岬です。具志川城の築城時期は明らかではありませんが、出土した遺物からは13世紀から15世紀に使用されていたとされています。また、築城主は久米島から逃れてきた按司とされています。首里城のような相方積みや布積みではありませんが、少なくとも本土では石垣すら登場しない時期、琉球では野面積みの石垣が存在していたことになります。
2017/12/17
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琉球の城(グスク)が軍事拠点ではなく、聖域であったとされる理由の根拠に御嶽(うたき)の存在があります。御嶽は琉球神道の神が存在する場所とされ、その琉球王国最高の聖地であるのが「斎場御嶽(せーふぁうたき)」です。斎場御嶽碑琉球王朝の時代は男子禁制で、琉球国王も女装して入ったそうです。中に入ると必ず小さな教室のような部屋に入り、ビデオで様々な注意事項を与えられるようになっていました。琉球神道に限らず、聖域に入るにあたっては、これくらいのことは当然かと思います。御門口(うじょうぐち)ここで一礼して出入りする人が多いのが印象的でしたが、先のビデオでは膝をついて拝礼していました。御門口から続く石畳ふと大学の探検部時代に訪れた西表島を思い出しました。西表島の山中にはもちろん石畳などはなく、道ともわからないような踏み跡をたどって、延々と亜熱帯林を抜けて行きました。石畳を抜けた先には、最初の拝所である大庫理(うふぐーい)があります。手前の台座のような石畳が、祈りを捧げる場所です。ところでこの日の沖縄は気温が20度を超えており、12月なのに上着はもちろんのこと、薄着の長袖でも暑いくらいでした。それでも斎場御嶽の大庫理では、ふと涼風が吹き渡るのが不思議です。大庫理の先にあるのが「寄満(ゆいんち)」で、琉球王朝では台所を意味しますが、世界中から交易品が集まる場所だったと解釈されています。沖縄ではこのようなガマ(鍾乳洞の洞口)が数多く見られます。「ひめゆり学徒」が最後に避難していた場所も、このようなガマでした。斎場御嶽の最奥部にあるのが、聖地の中でもさらに気高い拝所である「三庫理(さんぐーい)」です。三庫理前にある岩三庫理の手前には、「シキヨダユル」と「アマダユル」の壷があります。鍾乳石から滴る聖水を受ける壷です。探検部時代、鍾乳洞の中で石筍から水滴が落ちるのを数多く見てきましたが、露天でみるのは初めてです。三庫理にあるチョウノハナの香炉三庫理三庫理の空間を抜けると視界の先に太平洋が広がり、「神の島」である久高島を見ることができました。琉球を創ったアマミキヨが天から降りて最初に創った島とされています。私の両親ともにカトリック教徒であり、私自身もカトリック教徒です。宗教は違えども、琉球神道の聖地である斎場御嶽を訪れると、なにか通じるものを感じました。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2017/12/16
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識名園は琉球王朝の庭園であり、中国からの使節である「冊封使」などを接待した場所でもありました。識名園入口日本庭園は数多く見てきましたが、琉球庭園とはどのようなものか、非常に興味があります。中に入って見ると、まずは番屋が現れました。一瞬、台南市の徳記洋行の旧倉庫「安平樹屋」を思い出してしまいました。番屋の先にある通用門ガジュマルなどの亜熱帯植物が雑然と生い茂っている感じですが、これにも意味があるようです。視界を遮ることにより、外界から切り離された空間を演出しているそうです。沖縄の県花「デイゴ」かつての正門一見すると本土の薬医門形式ですが、琉球瓦の屋根に、本土にはない石積みがあります。正門から続く石畳の通路ガジュマルのトンネルを通っていると、まるで別世界にいるようです。樹林帯を抜けて視界が開けた時、目の前に現れたのは、日本庭園でもよく見る「池泉回遊式庭園」でした。それでもよく見ると、琉球と中華が入り混じっています。石橋中国の使者である「冊封使」を接待した庭園とあって、中華のテイストにあふれています。六角堂こちらも和風ではなく、中華風でしょうか。池の水源となっているのが「育徳泉」で、こちらはグスクと同じく琉球石灰岩の石積みで造られていました。育徳泉育徳泉からは、やはり琉球石灰岩の石畳が続いていました。そして石畳の先には、本土の大名庭園でもよく見かける御殿があります。御殿琉球瓦の書院造です琉球では御殿と書いて、「うどぅん」と読みます。識名園の創建時期は明らかではありませんが、18世紀の終わり頃の第二尚氏王朝の時代だとされています。中国と琉球の文化が混じった様式には、中国皇帝からの使者をもてなす目的であったことがよく見てとれました。「勧耕台」と呼ばれる展望台沖縄の高台にしては珍しく、ここからは海を見ることができません。これも中国大陸を意識していたとされています。太平洋戦争の沖縄戦で破壊されたものの、1975年から20年をかけて復元されました。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
2017/12/15
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「玉陵」と書いて、「たまうどぅん」と読むそうです。(むしろ「たまうどぅん」と読んで、「玉陵」と書くのかも知れません)玉陵碑首里城の西隣にある玉陵は琉球国王の墓所で、ガジュマルの樹々の間を抜けた先に番所と玉陵があります。かつては東の御番所と西の御番所が置かれ、発掘調査の結果、現在は東の御番所が復元されています。玉陵の前門琉球石灰岩による総石垣造りで、相方積みの石積みが見事です。玉陵は1501年に尚真王が父の尚円王の遺骨を改葬するために築いたもので、以後は第二尚氏王統の陵墓となりました。玉陵は東室・中室・西室の3室に分かれています。左から東室・中室・西室(国指定重要文化財)琉球の葬制は風葬で、遺体は中室に安置された後、王と王妃の遺骨は東室、その他の限られた王族の遺骨が西室に葬られました。太平洋戦争の沖縄戦では大きな被害を受けましたが、戦後になって復元され、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました
2017/12/14
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琉球の聖地である「御嶽(みたき)」、各地のグスクでは必ずと言っていいほど目にしてきました。首里城にある数々の御嶽の中でも、守礼門と観会門の間にある「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」は、琉球国王が外出する時に、安全祈願を行った場所です。園比屋武御嶽石門(国指定重要文化財)石門は神社で言うところの拝殿にあたりますが、御嶽では本殿はなく、その後ろに広がる森が信仰対象となります。日本様式と中国様式の合わさった琉球石灰岩の石門は、尚真王の時代の1519年に創建され、竹富島(八重山諸島)の西塘によって造られました。1933年(昭和8年)に国宝に指定されましたが、太平洋戦争の沖縄戦で大破し、1957年の解体修理を経て、1986年に復元が完成しています。そして2000年11月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されました。「園比屋武御嶽石門」の揮毫は、平山郁夫先生によるものです。ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2017/12/13
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奉神門から先が正殿のある「御庭(うなー)」となり、ここからが有料エリアとなります。奉神門毎朝8:30になると、奉神門では御開城の儀式が行われます。今回早起きして首里城に来たのも、この儀式を見るためでした。銅鑼が鳴らされ、門番の方の「うけーじょー(御開城)」の発声を合図に門が開くと、修学旅行生達も一般観光客の人達も城(ぐすく)めぐりの私も、皆ぞろぞろと中へ入って行きました。奉神門の先には「御庭(うなー)」があって、その奥に正殿があります。正殿御庭は様々な儀式が行われた広場で、色違いの「磚(せん)」と呼ばれる敷瓦が敷いてあります。これは儀式の際に、位の順に並ぶための目印でもありました。かつての儀式の復元模型正殿の創建は発掘調査の結果、14世紀末頃と見られています。その後は何度か焼失と再建を繰り返し、18世紀初めに再建された正殿も、沖縄戦で焼失してしまいました。現在の正殿は、沖縄戦まで残っていた正殿をモデルにして、平成4年に復元されました。復元された正殿には、中に入って見学することもできます。正殿内部は1階と2階に分かれていて、1階は主に国王自ら政治や儀式を執り行う場所で、2階は常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した場所でした。2階にある「御差床(うさすか)」は国王の玉座で、様々な儀式や祝宴が行われたところです。御差床(うさすか)「中山世土」の扁額は清の康煕帝によるもので、「琉球は中山が代々土地を治める」の意味です。御差床の向かいには、「唐破豊(からはふ)」の部屋がありました。日本城郭の建築物では「唐破風」と書きますが、首里城ではなぜか「唐破豊」と書くようです。御差床は1階にもありましたが、2階の御差床に比べると、質素な感じがしました・1階の御差床こちらは日常的に使われていたのかも知れません。首里城では、国王が日常の執務を行った「御書院」の広間があり、南殿に隣接しています。御書院の間意外なことに、純和風です。御書院からは、「鎖之間(さすのま)」と庭園を眺めることができ、御書院・鎖之間・庭園で国の名勝に指定されています。鎖之間琉球瓦に障子張りの組み合わせが奇特な感じです。庭園こちらは蘇鉄と松の組み合わせが妙です。首里城は1429年の尚巴志による琉球王国統一後、1879年まで琉球国王の居城でありました。実際の築城時期はもっと古く、14世紀半ばだと言われています。1469年の政変で第一尚氏王統から第二尚氏王統へ政権が移り、1609年には薩摩藩の支配下に置かれたりしましたが、琉球王国の形態は450年間も続いています。ところで幕末の黒船来航と言えば、浦賀沖の出現が有名かと思います。実はその1ヶ月半前にペリーは黒船を率いて琉球に来航し、上陸までしていました。この時は首里城を訪れて国王に面会したそうです。後の太平洋戦争では城郭が殆ど滅失し、戦後は琉球大学のキャンパスとなっていましたが、1972年から復元整備が進められ、1992年に正殿・北殿・南殿等の内郭の復元整備が終わりました。そして2000年12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」がユネスコの世界遺産に登録されました。日本城郭協会「日本100名城」ユネスコ世界遺産(文化遺産)「琉球王国のグスク及び関連遺産群」
2017/12/12
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首里城に限らず、琉球の城(ぐすく)の見どころは石積みにあると思います。城壁がなだらかな曲線を描き、隅石の角が上に伸びる「角がしら」もグスクの特徴の一つです。観会門から久慶門に続く城壁淑順門の城壁「角がしら」が見られます。首里城について言えば、遅くとも15世紀半ば(1400年代の半ば)には、現在の城壁が造られたとされています。観会門と瑞泉門の間にある城壁四角く整形した石を積む「布積み」と呼ばれる技法ですが、日本城郭でいうと石積みの間に隙間のない「切込み接ぎ」と呼ばれる技法で、江戸時代に入った17世紀(1600年代)以降に見られる積み方です。右掖門の城壁石を六角形の加工した「相方積み」と呼ばれる技法で、本土では「亀甲積み」と呼ばれる技法です。首里城に石垣が積まれた時代、本土では石垣すら登場しておらず、また布積みや相方積みと同じ「切込み接ぎ」の技法となると、さらに150年後の話になります。久慶門の城壁上が相方積みで、下の方に布積みが見られます。漏刻門の城壁左側が相方積みで、右側が布積みになっています。琉球石灰岩は加工しやすいのもありますが、本土より150年も技術が早いのは、やはり大陸の影響でしょうか。
2017/12/11
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守礼門から正殿に至るルートはもう1つあって、久慶門から入るルートがそのルートになります。(首里城の見学コースとしては帰路になるため、最後に久慶門を出る格好になります)久慶門かつては通用門としての役割があり、主に女性が利用していたそうです。久慶門(城内から見たところ)久慶門から右掖門へ至る間には「寄内ノ御嶽」があります。寄内ノ御嶽御嶽(うたき)は聖地や拝所のことで、信仰や祭祀の場所です。首里城に限らず、琉球の城(グスク)では随所に見ることができ、首里城では「寄内ノ御嶽」と呼ばれる場所が2か所ありましたが、いずれも場所は確認できていません。右掖門が「寄内御門」とも呼ばれていたことから、北東城郭の内側が「寄内」と考えられています。その右掖門の入口までは、これまでと違って長い坂道が続いていました。右掖門坂の途中で城壁の石積みは変わっており、布積み(手前)から相方積み(奥)に代わっています。日本城郭でいうならば最も進化した「切込み接ぎ」になるのでしょうが、ここまでの技術は五稜郭など一部の城郭でしか見たことがありません。右掖門(城内から見たところ)右掖門の先にある淑順門が、国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門です。淑順門現在の見学ルートでは正殿のある「御庭(うなー)」からの出口になっていますが、かつてはここが「御庭」への入口でした。
2017/12/10
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亜熱帯の情緒あふれる12月の沖縄。アジアモンスーンに吹かれながら夜の国際通りを歩いていると、南国テイストの中にノスタルジーを感じてしまいました。(街並みは那覇と全く違うのに、在台時代の台北市街地を思い出してしまいます)オリオンビールと沖縄料理に島唄のライブと、なかなか名残惜しい夜でしたが、次の日は早起きなので早めに切り上げました。そして翌朝一番で向かった先が首里城です。(朝一番にも理由があります)首里城第一の門である「守礼門」首里城の守礼門は、札幌時計台・高知はりまや橋と並んで「日本三大がっかり」の1つに数えられています。日本城郭で言うと大手門にあたるため、櫓門のような大きさを想像していたならば、がっかりなのかも知れません。(個人的には首里城は二回目でもあり、がっかり感はありませんでした)守礼門の扁額には「守礼之邦」すなわち「琉球は礼節を守る国」だと書かれています。元々の守礼門は16世紀に建立され、国宝にも指定されていましたが、沖縄戦によって破壊されました。現在の守礼門は昭和33年に復元されたものです。守礼門から正殿に入るルートは二通りあって、観会門・瑞泉門・漏刻門から広福門を通るルートと、久慶門・右掖門・淑順門を通るルートがあります。(首里城の見学コースとしては、観会門~広福門が行きのコースで、淑順門~久慶門が帰りのコースとなっています)第二の門「観会門」城(ぐすく)特有のアーチ型の門で、門の両脇にはシーサーが置かれています。「観会」は歓迎の意味で、かつての中国からの使者である「冊封使」などを歓迎する意味もあったそうです。元来の門もやはり沖縄戦で焼失してしまい、現在の門は昭和49年に復元されました。観会門の先には、泡盛の名前でも知られる「瑞泉門」があります。第三の門「瑞泉門」「瑞泉」とは「めでたい泉」の意味で、瑞泉門の手前にある湧水が名前の由来になっています。龍の口から湧水が流れる「龍樋」瑞泉門も沖縄戦で焼失し、平成4年に復元されました。最後の漏刻門を抜けると、正殿のある内郭へと入って行きます。漏刻門「漏刻」は水時計の意味で、かつては櫓門に水槽を置き、漏れる水の量で時間を測ったそうです。内郭に入ってみると、今度は日時計である「日影台」が置かれていました。日影台水時計に日時計と、昔の琉球では時間にうるさかったのでしょうか。(「なんくるないさー」とはいかなかったようです)さらには「万国津梁の鐘」が供屋の中に置かれていました。現在の鐘は復元ですが、元々は1458年に鋳造され、首里城の正殿に掛けられていました。当時の正確な場所がわからないため、とりあえずここに置かれているようです。「万国津梁」とは「世界の架け橋」の意味で、鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれています。しかしながら、この鐘が何に使われていたのか、今もって不明とのことでした。内郭には朱塗りの「広福門」があり、ここから先が「下之御庭(しちゃぬうなー)」、すなわち正殿のある「御庭(うなー)」の前広場となります。広福門
2017/12/09
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高取城のある高取から関西空港への帰り道、やはり素通りできないのが橿原神宮でした。一の鳥居神橋と二の鳥居神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、九州高千穂から東に向かった「神武天皇東征」で、畝傍山の東南の麓に創建した橿原宮が橿原神宮の始まりです。南神門外拝殿祭神は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)で、現在の社殿は1890年に明治天皇によって創建されました。外拝殿から見た内拝殿と廻廊内拝殿の奥に本殿(国指定重要文化財)があります。古事記と日本書紀にある「神武天皇東征記」では、二つの鳥が登場します。一つはサッカー日本代表のエンブレムともなっている八咫烏(ヤタガラス)で、神武天皇の道案内を務めた鳥です。そしてもう一つが金の鵄(トビ)で、長髄彦との戦いの最中に神武天皇の弓先に止まり、勝利に導いた鳥です。私の母校である奈良県立畝傍高校では、その神武天皇の東征記に由来して「金鵄」が校章となっています。(旧制畝傍中学から続く校章も、現在では合併により変わっているようですが)たとえ公立高校であっても、神話の鳥が校章になる土地柄が大和の国であり、ここが「くにのまほろば」です。「大和平野のあさぼらけ」ならぬ、大和平野の夕間暮れ葛城山に沈む夕陽と深田池です。2012年、奈良県大会の準決勝で智辯学園に勝利した時の伝説の校歌決勝では天理高校に敗れ、優勝はなりませんでした。
2017/11/25
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大阪と奈良の府県境、二上山南側を通る旧竹内街道(南阪奈道路)を通って、大阪から奈良へと入って行きました。竹内峠のトンネルを抜けた時、眼下に懐かしい大和平野南部が広がっていて、大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)の姿も目に入ってきました。竹内峠を越えた後、飛鳥を抜けて吉野方面へと向かい、目指した先は「日本三大山城」の1つに数えられる高取城です。縄張図壷阪寺からは高取城の登城口まで、林道のような細い道を行き、対向車とすれ違うのもやっとな感じでした。登城口から山道のような登城道を行くと、山中に突如として石垣が現れました。壷坂口門の石垣壷坂口門壷坂口中門跡ほぼ吉野に近い山中にあったためか、高取城の石垣はよく残っており、かつての城郭の姿が偲ばれます三の丸の石垣また、明治に入るまで建造物が現存しており、これも離れた山中にあったお蔭かも知れません。大手門虎口跡二の丸と本丸へ入る唯一の門で、桝形もよく残っていて、かつては櫓門が建っていたと思われます。二の丸虎口「十三間多門」の名前があり、多聞櫓が建っていたようです。二の丸の虎口を抜けると、二の丸の曲輪の先に櫓台の石垣が現れました。本丸に付属する曲輪の櫓台で、かつては太鼓櫓が建っていました。櫓台の横には虎口があり、こちらは「十五間多門」の名前が付いています。その名の通り、十五間の多聞櫓が建っていたと思われます。太鼓櫓の櫓台(本丸側から見たところ)太鼓櫓の建つ曲輪は、本丸よりは一段低い場所にあり、独立した曲輪のように見えるのですが、特に名前は付いていませんでした。「名無し曲輪」(本丸から見たところ)その名無し曲輪からは、本丸の石垣を見上げる格好になります。本丸石垣これまで高取城で見てきた石垣と違い、隅石が算木積みに進化しています。豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が高取城を築城したのは、大和を平定して大和郡山城に入った時です。この同じ時に築城された和歌山城では、藤堂高虎が普請奉行を務めていました。高取城でも藤堂高虎の手が加えられたこともあったかも知れません。突然現れた算木積みの隅石に、ふとそんなことを想像したりしました。本丸虎口本丸かつての高取城の本丸には天守が現存していましたが、明治に入って廃城となった時に取り壊されてしまいました。天守台(外側から見たところ)本丸天守台(内側から見たところ)明治に入っても建造物が残っており、しかも後の戦災を免れたとあっては、現在では間違いなく国宝になっていたことでしょう。この山中にあったために建造物が残ったとも言えますが、建造物が取り壊された理由は皮肉としか言いようがありません。あまりに山の中で管理が大変だというのが理由だそうです。なお、奈良産業大学によって、高取城のかつての建造物がCG復元されています→こちら日本城郭協会「日本100名城」
2017/11/24
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和歌山城の本丸には戦前まで天守を始めとして、いくつかの建物が残っていましたが、空襲により焼失してしまいました。現在は昭和33年に外観復元された天守が建っています。本丸虎口から見た天守天守と続櫓(復元)乾櫓と楠門(復元)天守と附属建物は鉄筋コンクリートによる復元ですが、天守曲輪の虎口にある楠門(二の門)だけは、木造によって復元されています。楠門(二の門)その楠門を通って、天守曲輪に入ってみました。二の門櫓(内側から見たところ)乾櫓(内側から見たところ)天守と表玄関天守曲輪の内部は少し窮屈な感じで、徳川御三家の居城にしては小ぢんまりとした感がありました。裏阪(搦手口)から見た天守空襲で焼失するまでは、「南海の鎮」とも呼ばれた堂々たる天守が建っていたことでしょう。和歌山城の築城は1585年のことで、豊臣秀吉の命により、弟の豊臣秀長によって築城されました。この時の普請奉行が、加藤清正と並ぶ築城の名手である藤堂高虎です。豊臣秀長は大和郡山城を居城としていたため、桑山繁晴が城代となり、豊臣秀長亡き後も城代として城郭の整備を行いました。1600年の関ヶ原の戦い後に浅野幸長が37万6千石で入封し、この時に大規模な改修が行われました。浅野幸長の時に天守が建てられましたが、この時の天守は1847年の火災によって焼失しています。そして1619年には徳川家康の十男である徳川頼宣が55万5千石で入部し、徳川御三家の1つである紀州徳川家の初代となりました。徳川頼宣の時にも改修が行われ、現在残る和歌山城の姿になっています。日本城郭協会「日本100名城」
2017/11/23
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和歌山城の石垣を見ていると、石積み技術の進化の歴史を見ている気がします。豊臣秀長(秀吉の弟)時代の「野面積み」から、浅野幸長時代の「打込み接ぎ」、そして徳川頼宣時代の「切込み接ぎ」へと、その進化の歴史がよくわかります。西之丸庭園を後にして本丸の北側に出ると、本丸北側の石垣は打込み接ぎの石積みになっていました。本丸北側の石垣浅野幸長の時代に築かれたものだと思います。本丸南側の石垣が特に顕著で、石垣の積み方が変わっていくのがよくわかります。野面積み(手前)から打込み接ぎ(奥)に変化しています。本丸東側の石垣野面積みの隅石が見られる城跡は、そう多くはないと思います。
2017/11/22
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岡中門から一旦引き返して本丸の北側に回ってみると、二の丸の跡が残っていました。和歌山城の二の丸には、表・中奥・大奥の三つの御殿があり、紀州藩の政務を行うとともに、藩主の生活の場所でもありました。かつて大奥御殿のあった場所には、発掘調査により穴藏状遺構が発見されました。江戸城の大奥にも「石室」と呼ばれる施設があり、和歌山城でも非常の際に大奥の調度などを収納する場所であったと考えられています。穴藏状遺構石積み石は「和泉砂岩」で、和歌山市沖にある友ヶ島の採石場から運ばれたものだと思われます。二の丸の西隣には西之丸の曲輪があり、曲輪の間の水堀には廊下橋が復元されています。御廊下橋西之丸は紀州藩初代の徳川頼宣の隠居所として造られたもので、かつての「紅葉谷庭園」が「西之丸庭園」として公開されています。かつては数寄屋や能舞台などもあり、風流で優雅な場所だったことがうかがえます。西之丸から見た廊下橋西之丸庭園から見た天守
2017/11/21
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大手門から旧丸の内の周囲を一周して、再び大手門に戻ってきました。大手門気を取り直して改めて見たのですが、やはりとても56万石の大手門とは思えません。大手門の先は桝形になっているわけでもなく、直線的に曲輪が続いていました。近世城郭では桝形があるのが一般的で、さらには石段や坂があったり、ダミーの虎口があったりするものですが、あまりに物騒な縄張です。それでも本丸に近づいて行くと桝形の跡があり、「一中門」の跡だそうです。一中門の桝形跡おそらく櫓門があったのでしょうが、石積みも最新型の「切込み接ぎ」になっており、江戸時代の徳川頼宣の時代のものだと思われます。本丸の南東側、岡口門から入った先にはさらに桝形があり、「岡中門」の名前が付いていました。岡中門の桝形石垣何があったのかはよくわかりませんが、画像左上の方の石積みは切込み接ぎ、下の方は野面積み、右の方は打込み接ぎになっています。そして岡中門の桝形横には、櫓台と思われる高石垣がありました。石積みも見事な切込み接ぎで、これだけの高石垣を積めるのは、一部普請を行った藤堂高虎によるものでしょうか。それでも石垣をよく見ると、藤堂高虎よりも加藤清正流に近い気もしました。ちなみに紀州徳川家初代の徳川頼宣の夫人は、加藤清正の五女にあたります徳川頼宣が近世和歌山城を築城するにあたっては、加藤清正流築城術の影響が全くないとも言い切れないところです。
2017/11/20
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紀州和歌山は、尾州名古屋・常州水戸と共に「徳川御三家」の1つに数えられ、「暴れん坊将軍」の第八代徳川吉宗を輩出した土地でもあります。現在の和歌山城跡は本丸と二の丸が公園として整備されています。現地の縄張図。(下が北になっています)まずは周囲を回ってみようと、大手門から歩き始めました。大手門56万石の大手門にしてはあまりに質素で、櫓門どころか大名屋敷のような門が建っていました。しかも桝形ではなく直線的に城内に入れるので、警備上の心配をしたほどでした。大手口の北側水堀跡南東側の岡口門に回ってみると、こちらは櫓門形式になっていました。岡口門(現存、国指定重要文化財)岡口門から不明門までは、幹線道路沿いに堀跡が残っていました。現在は堀跡も公園整備されていて、堀底を歩くこともできるのですが、南側の石垣に不思議なものを見ている気がしました。御三家の城にあるまじき、野面積みの櫓台です。石積みでも初期の技術で、数万石の城ならいざ知らず、56万石の城とはとても思えません。しかも途中から積み方が変わっていました。画像で見ると微妙ですが、明らかに野面積みから打込み接ぎに変わっています。おそらく豊臣秀長(秀吉の弟)や浅野長政時代の遺構だと思われ、それはそれで貴重な遺構かも知れません。岡口門から南側の堀跡を通って不明門に行くと、さらに不思議なものがありました。不明門の高石垣いきなり切込み接ぎの高石垣は奇特ですが、現地の解説板によると、豊臣秀長が和歌山城を築城するにあたり、藤堂高虎が普請奉行となっていたそうです。なるほど、築城の名手藤堂高虎ならではの高石垣だとしても、「何でここだけ?」といった疑問は残ります。「不明門」の名前からして搦手口だと思われますが、和歌山城でも死人や犯罪者を通す不浄門だったようです。(ちなみに江戸城では「平河門」の横に不浄門があり、生きて不浄門を通ったのは絵島と浅野内匠頭だけでした)不明門の桝形櫓門があったのでしょうが、石積みは切込み接ぎから打込み接ぎへと、時代が戻っています。南側の不明門を後にして、西側の追廻門へ回ってみました。追廻門(現存)「追廻門」の名前の通り、ここが搦手門だったと思われます。追廻門は裏鬼門の方角にあり、魔除のために朱色に塗られています。追廻門の桝形内部石積みは比較的新しく、徳川頼宣の時代のものです。追廻門の北側には「砂の丸」の曲輪跡がありました。周囲を比較的新しい技術の石垣で囲まれており、これも徳川頼宣の時代に拡張されたものだと思われます。砂の丸からは、「鶴の門」と呼ばれる門があり、丸の内に直結していました。石垣に囲まれた堀のような地形は「鶴の渓」と呼ばれています。ここはまた古い野面積みの石積みが見られ、徳川頼宣以前の遺構だと思われます。和歌山城の丸の内を一周して再び大手門に戻ると、いよいよ城内に入って行きました。
2017/11/19
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下赤坂城や上赤坂城のさらに背後にあって、楠木正成がまさに「詰の城」としたのが、千早城です。現在の千早城跡は千早神社の境内となっており、表参道は金剛山への登山道ともなっています。登城口千早神社の参道入口であり、金剛山への登山道入口でもあります。登城道入口の左右には二つの石柱が建っており、右には「審強弱之勢於機先」とあり、左側には「決成敗之機於呼吸」とありました。これは楠木正成の崇拝者である徳川光圀によるもので、湊川神社に建立された徳川光圀の「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑の裏面から引用されたものです。ところで、千早城を訪れるのは10年ぶり2回目のことです。登城道入口の縄張図を見て、すっかり忘れていたことを思い出しました。登城道入口から四の丸の曲輪まで、約600段の急な石段を登ることになります。これはまだ緩やかな方です。急な石段かつ段差がまちまちなので、リズムが全く合いませんでした。10年前に比べて相当きつくなった気がするのですが、石段が増えたわけでもないのでしょう。、そしてようやく見覚えのある削平地にたどり着きました。四の丸の曲輪跡四の丸から先は、三の丸へと続いています。四の丸の先にある鳥居四の丸と三の丸の間にある堀切跡(?)三の丸の曲輪跡には社務所のような建物があって、千早城址の碑が建っていました。三の丸三の丸にある千早城址碑三の丸から石段を登った先にはさらに削平地があって、千早神社の本殿にたどり着きました。千早城の二の丸跡でもあります。千早神社は本丸に八幡大菩薩を祀ったのが始まりで、現在は楠木正成・正行父子と、楠木正成の久子夫人が祀られています。二の丸の拝殿二の丸拝殿の後ろにあるピークが本丸なのですが、千早神社の神域で立ち入り禁止となっています。二の丸から先、金剛山に続く登山道も、千早城本丸のピークをトラバースしていました。本丸南側の斜面には、腰曲輪跡のような削平地が見られました。東屋の建つ登山道休憩所ですが、曲輪の跡だと思われます。これも腰曲輪のように見えますが、後世になって改変されたのかも知れません。金剛山登山道の右に腰曲輪を見ながら、反対の左側に目を向けると、本丸らしきピークが垣間見えました。本丸の土塁だと思われます。本丸の背後には鞍部があり、堀切の跡だと思われます。さらには五輪塔が密かに建っており、楠木正儀(楠木正成の三男)の墓所とありました。1680年に建立されたもので、湊川で敗れた楠木正成の首塚とも言われています。1333年、鎌倉幕府軍に下赤坂城と上赤坂城を落とされた後も、楠木正成は千早城に籠もって鎌倉幕府軍と戦っていました。 鎌倉幕府軍5万の兵力を前に楠木党はたった1,000人で籠城戦を行い、なんと100日以上も戦い抜いています。 上赤坂城は水の手を断たれて落城したため、千早城では城内に大木をくり抜いた水がめを300も置き、食糧も十分に蓄えられておりました。 そして上赤坂城・下赤坂城での籠城戦と同じく、千早城の籠城戦でも楠木正成は得意のゲリラ戦法と奇策で応戦していました。 その1つが「わら人形の奇策」で、甲冑を着せて弓矢や槍を持たせたわら人形を、20~30ほど城外に立たせるという作戦です。 これを目掛けて殺到した鎌倉幕府軍に対して、城内から大量の岩を投げ落とすという奇策でありました。 本格的な籠城戦を初めて行ったのは、この楠木正成だったと思いますが、戦国時代より200年も前に籠城戦の原型がここにあったように思います。この千早城での楠木党の善戦と後醍醐天皇の隠岐脱出が転機となり、足利尊氏の六波羅探題襲撃や新田義貞の鎌倉攻めなど、倒幕の流れが一気に進んで行きました。 太平記には、「誰を憑(たの)み、何を待つともなきに、城中にこらへて防ぎ戦ひける楠木が心の程こそ、不敵なれ」とあり、全く同感の思いです。 善戦の理由は、「鎌倉幕府の悪政を正す」という楠木党の意気込みもあったでしょうが、やはり楠木正成の戦略・戦術と人望、そして金剛山の西麓に築いた巨大な城塞ネットワークと民衆の力だと思います。日本城郭協会「日本100名城」
2017/11/07
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大阪府千早赤阪村にある二つの赤坂城、すなわち下赤坂城と上赤坂城のうち、どちらが古典「太平記」に出て来る「赤坂城」なのでしょうか。そんなことを考えつつも、下赤坂城から上赤坂城にやってきました。上赤坂城登城口ここで車を降り、登山装備で歩き始めました。現地にある上赤坂城縄張図本丸直下までは一本道が続き、途中には木戸が設けられていたようです。一の木戸跡稜線上にある登城道では、一の木戸からずっと切通が続いていました。「城阪」と呼ばれる登城道楠木正成時代の遺構だと思うのですが、さすがに鎌倉幕府の大軍も一列縦隊で進まざるを得なかったことでしょう。二の木戸跡切り立った尾根上の登城道から西側の斜面を見ると、竪堀のような跡も見られました。竪堀かどうかはわかりませんが、西側の谷に続いているのがポイントだと思います。さらには横矢が掛かった場所もあり、石を切り出したような跡も残っていました。古典太平記にある鎌倉幕府軍との籠城戦の中で、上から石を落として戦った記述と符合するように思うのですが、それは考えすぎでしょうか。三の木戸跡三の木戸から先は斜面もなだらかになり、曲輪や堀切の跡が見られるようになりました。堀切上の「そろばん橋」「茶碗原」の曲輪跡そろばん橋からは南へと向きを変え、いよいよ本丸のピークへと続いていました。四の木戸跡これが最後の木戸です。本丸手前の堀切跡本丸直下では、本丸ピークをトラバースしながら道が続いており、金剛山方面との分岐点にもなっています。ハイキングコースの道標みたいな感じですが、ここまでもあまり人が通った跡はなく、実は楠木正成の時代からこの道はあったのではないかと思います。(現代においては、わざわざここを抜けて金剛山に行く理由がわかりません)金剛山の先は大和の吉野であり、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が挙兵した場所でした。さらに道標にある「奉建塔」は上赤坂城の出城があったとされ、楠木正成の居館跡の近くにあることから、この道を使って倒幕のネットワークを作っていたとも考えられます。もはや推理ゲームでしかないのですが、この道を楠木正成も歩いたと思うと、一歩一歩確かめるように本丸へと歩いていきました。本丸直下本丸から眺めると、南西側に河内平野を望むことができます。さらに眼下には腰曲輪の跡も見られました。この辺りは戦国時代になって改変された遺構だと思います。本丸には「楠木城址(上赤坂城)」と書かれた城址碑が建っています。城址碑下赤坂城の城址碑は単に「赤坂城」となっていたので、もしかしたら古典太平記の「赤坂城」とは違うのでしょうか。上赤坂城に限ったことではありませんが、遺構はなくとも地名が歴史を物語っているケースは多々あります。例えば戦国城跡を探している時、地元の人に「城山」や「館山」の地名を聞くと、すぐ教えてくれたこともありました。上赤坂城について言えば、「糞谷」の地名が残っているそうです。すなわち、楠木正成が鎌倉幕府軍と戦った時の、ゲリラ戦とも符合します。さらには、下赤坂城の南端から上赤坂城の南西側にかけて、不自然な帯状で「東阪(あずまざか)」の字があります。これは鎌倉幕府軍、すなわち東国武士が赤坂城を包囲した名残ではないでしょうか。下赤坂城と上赤坂城に限らず、千早赤阪村にはいくつもの城跡ネットワークがあったようで、赤坂城塞群と呼ばれています。しかもこの城塞群の配置が、東阪の地名と一致します。おそらくこの城塞群が古典太平記の「赤坂城」で、上赤坂城がその本城だったのかも知れません。封建制度の鎌倉幕府軍に対し、楠木正成の頼みは河内の民衆でした。民衆にも識字率の高まる中において、河内はその文字によって情報が伝わっていたでしょうか。この城跡ネットワークはすなわち情報ネットワークであり、ネット社会の先駆けだったかも知れません。
2017/11/06
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千早赤阪村には上赤坂城と下赤坂城の2つの赤坂城があり、いずれも楠木正成が築城した楠木七城の1つに数えられています。古典太平記の記述の中では、楠木正成が「赤坂城」で鎌倉幕府軍と籠城戦を繰り広げたとなっていて、上赤坂城と下赤坂城の区別はありません。下赤坂城跡は千早赤阪中学校の校舎裏手にあり、現在は城址碑だけが建っていました。土塁のようなものがありますが、現存する遺構ではないと思います。城址碑城の名前は「下赤坂城」ではなく「赤坂城」となっており、果たしてここが太平記の赤坂城なのでしょうか。現在は城郭の遺構らしきものは全く残っておらず、「赤阪の棚田」の展望地だけが広がっています。「日本の棚田百選」にも選ばれた赤阪の棚田1331年、鎌倉幕府を打倒すべく、後醍醐天皇が笠置山で挙兵しました。後醍醐天皇に呼応して挙兵したのが、大和吉野の護良親王と、河内赤坂の楠木正成です。古典太平記の記述では、赤坂城はにわか造りの城だったとされています。この時楠木正成は、鎌倉幕府軍を迎え撃つべく、領民500人と共にこの城に籠城していました。一方の鎌倉幕府軍は数万の大軍で赤坂城を包囲、さすがの東国武士もこぼしたと言われています。「こんなにわか造りの城は、片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。一日くらい持ちこたえてもらわぬと、恩賞にあずかれまいぞ」と。鎌倉幕府軍の数については諸説あり、「太平記」では30万人とされています。実際には数万人だったとも言われていますが、「城攻め三倍の法則」からすれば、500人の楠木党に対しては数千人でも多いほどでしょうか。恩賞を求めて赤坂城の斜面を登る幕府軍に対し、楠木正成がとった戦法は、いわゆるゲリラ戦法でした。赤坂城に籠る楠木正成と河内の領民たちは、弓矢と刀で斬り込む鎌倉幕府軍のその上から、石や大木さらには熱湯まで浴びせかけました。幕府軍もその度に損失を出し、撤退を余儀なくされています。楠木党と鎌倉幕府軍の攻防戦は20日も続きましたが、急ごしらえの赤坂城にあって兵糧も尽きたため、楠木正成は赤坂城に自ら火を放ちました。楠木正成が自害したと思って、幕府軍は楠木正成の遺体を探しましたが、それらしき遺体を発見することはできませんでした。そして翌年、赤坂城を奪還すべく再びこの地に姿を現したのが、楠木正成です。私本太平記(三)【電子書籍】[ 吉川英治 ]
2017/11/05
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大阪府で唯一の村、千早赤阪村にやって来ました。里山風情の残る長閑なこの場所は、「倒幕運動」の舞台の一つでもあります。倒幕運動と言えば徳川江戸幕府の倒幕の印象が強くありますが、北条執権の鎌倉幕府でも倒幕運動が起こりました。その鎌倉幕府倒幕の立役者の一人、「楠公」(大楠公)、楠木正成が本拠地とした場所が千早赤阪村です。「道の駅ちはやあかさか」のある場所は、その「楠公誕生地」とされています。楠公誕生地向こう側にある建物は、村立郷土資料館です。楠木正成の出生地については諸説ありますが、ここが楠公誕生地と伝えられています。同じ敷地にある「くすのきホール」を建設した時、発掘調査で二重の堀が確認されたことから、「太平記」にも記述がある楠木正成の居館があった可能性は高いと思います。大久保利通の勧めで建立された誕生地の碑至誠一貫の碑何だか見覚えのある騎馬像がイラストに描かれています。「道の駅ちはやあかさか」から田んぼの畦道を進んでいくと、「楠公産湯の井戸」がありました。畦道脇にある道標楠公産湯の井戸関連の記事下赤坂城(河内国)→こちら上赤坂城(河内国)→こちら千早城(河内国)→こちら桜井駅跡(楠公父子訣別の地)(2017年6月)→こちら湊川神社(2017年6月)→こちら
2017/11/04
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小牧山城の大手口から山頂の本丸へ、さらには山麓の東側から北側へと回って来て、なかなか見どころの多い城郭だと思いました。遺構もさることながら、織田信長が築城し、徳川家康が豊臣秀吉との戦いで陣を置いた小牧山は、歴史のターニングポイントでもあったように思います。小牧山城は1563年、織田信長が清須城から本拠地を移すために築いた城です。小牧山城天守から見た清須城の方向織田信長が清須から本拠地を移すにあたり、小牧山が本命だったのですが、辺鄙な場所だったので家臣団の反発を予想していたと言います。そこで小牧山よりさらに辺鄙な場所への移転を持ち出したところ、当然ながら家臣団は反発しました。そこで「ならば小牧山ではどうか」と言ったところ、「小牧山の方がまだまし」と家臣団も賛成したと言います。(織田信長らしからぬエピソードだとは思いますが)ところで織田信長は、元来の那古野城→清須城→小牧山城→岐阜城→安土城と、生涯で4度も本拠地を変えています。(本能寺の変がなければ、安土城の次は大阪だったとされています)小牧山城天守から見た金華山(岐阜城(稲葉山城))本拠地を変えることはもちろん、旧国名でいうと尾張→美濃→近江→(摂津)と変わるのは、当時の戦国大名としては異例のことだったと思います。現代風に考えるならば、本社を移転することすら一大事なのに、さらには日本から海外各地を転々とするようなものでしょうか。個人的にどの時代の日本史でも「コメの歴史」、すなわち稲作に依存した歴史だと考えると、あらゆることが腑に落ちてくると思っています。古来よりコメそのものが給料であり税金であり、流通貨幣でもありました。(日本史で登場するあらゆるヒエラルキーも、ここで納得できるかと思います)大名の財力も「石高」すなわち「いくらコメを作れるか」で決まっており、コメを作り出す父祖伝来の地を守ることは当然のことかと思います。戦国大名も常に合戦をしていたわけでなく、配下の兵も普段は農業に従事しているため、合戦もやむなく農閑期に行われていました。その農業経済を最初に商工業経済へと移したのが、織田信長だったではないでしょうか。農業経済から脱却することで、農閑期以外にも軍を持つことができ、いつでも合戦ができる常備軍を持つことができました。そう考えると、いち早く「コメの経済」から脱却すべく、小牧山城の城下町に計画的な商工業都市を造ったのも納得できる話です。(後の岐阜や安土の商工業城下町、楽市・楽座につながる原型がここにあったと思います)話を小牧山城に戻すと、織田信長が岐阜城へ移ってしまったため、廃城となっていました。そして1584年、織田信雄・徳川家康連合軍VS豊臣秀吉軍の「小牧・長久手の戦い」で、この小牧山城に目を付けて陣を置いたのが徳川家康です。そして徳川家康と豊臣秀吉が唯一合戦を行った舞台でもあります。徳川家康が局地戦で勝利したものの、織田信雄の単独和睦により、「判定負け」といったところでしょうか。小牧山天守から見た長久手方面日本城郭協会「続日本100名城」
2017/10/30
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本丸の天守を降りた後は、小牧山の東側から北側へと回ってみました。大手や城下町とは反対側になる場所ですが、発掘調査の結果武家屋敷が置かれていたことが判明しました。特に東側の山麓は広く削平されており、空堀を隔てて曲輪の跡が残っています。東側の帯曲輪小牧山城を築城した織田信長の居館もここにあったとされています。織田信長居館跡なるほどよく見れば、この辺りの曲輪だけ方形になっていました。東側の土塁織田信長の時代にこの土塁はなかったとされ、小牧・長久手の戦いの時に徳川家康が築いたものと思われます。搦手口も南側の大手や城下町と正反対の北側にありました。水堀の外堀が築かれ、土塁の傾斜も急な感じがします。搦手方向の土塁搦手虎口跡小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉軍は小牧山の北にある犬山城に陣取ったため、徳川家康は搦手に敵を受けていたことになります。
2017/10/29
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名鉄岐阜から各務原線に乗って終点犬山で降りた後、さらに犬山からは名鉄小牧線で名古屋市内を目指しました。名鉄小牧線の小牧駅を最寄りとするのが小牧山で、かつては小牧山城が築かれていました。犬山城天守から見た小牧山小牧山とは言え標高は85.6mしかなく、山というよりは丘といった感じです。岐阜城から見た小牧山それでも濃尾平野でさらに独立峰となれば、築城するには高度以上の価値がある地形です。実際に戦国時代の1584年、豊臣秀吉軍VS織田信勝・徳川家康連合軍の「小牧・長久手の戦い」で、徳川家康はまずこの小牧山に陣地を敷きました。小牧山城縄張図搦手にあった案内板ですが、小牧山城の縄張がよくわかりました。小牧城跡は小牧山公園として整備されており、小牧駅に最も近い南東側には、小牧・長久手の時に徳川家康が築いた空堀と土塁が残っています。南側の空堀南側の土塁城郭には築城主の性格が出ると思っていますが、小牧山城の縄張を見る限り、用心深さと慎重さを感じました。かつての大手口に回ってみると、土塁も一層高くなっている気がします。大手付近の土塁甲州武田氏が滅亡した後、徳川家康は旧武田氏の家臣を召し抱え、軍制も武田流に変更したとされています。築城でも武田流の築城術を真似たならば、大手口には丸馬出くらいはあったかも知れません。大手口の登城道大手から斜面を登っていくと、腰曲輪と土塁が何重にも張り巡らされていました。腰曲輪跡現在遊具が置かれている広場は、「桜の馬場」の名前が付いていたようです。桜の馬場の腰曲輪跡桜の馬場に続く土塁山麓から頂上の本丸まで、腰曲輪と土塁が交互に続く感じです。本丸直下の腰曲輪本丸には石垣が残っており、発掘調査の結果、織田信長の築城時に築かれたものと判明しました。石積みの技術としては初期の古い技術で、野面積みもさることながら、石垣も高く積めなかったようです。発掘調査で出土した裏込石山頂の本丸には、天守の形をした「小牧歴史館」が建っています。小牧歴史館史実に基づかない鉄筋コンクリート造りの模擬天守ですが、個人の私財によって建てられたものです。天守の最上階に登って南側の大手方向を見渡すと、かつての城下町を望むことができました。織田信長が整備した小牧山城の城下町は、商工業都市として発展し、その後の楽市楽座の原型があったとされています。
2017/10/28
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国宝5天守の中でも、犬山城の天守は最も古い天守とされています。(現地解説板より)確かに望楼型の古いタイプの天守ではあります。天守が現存する城郭は、犬山城も含めて12城しかありません。(その他は弘前城・丸岡城・松本城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城で、犬山城を含めて松本城・彦根城・姫路城。松江城の5天守が国宝に指定されています)天守から見た本丸天守以外の建造物は明治の廃城令で取り壊されたため、現存するものではありません。天守内部上段の間破風(はふ)唐破風を城内から見るのも、現存天守ならではかも知れません。長良川今度は犬山城から岐阜城のある金華山を眺めてみました。岐阜城(稲葉山城)のある金華山犬山城の築城は1537年のことで、織田信長の叔父にあたる織田信康によって築城されました。1584年の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉が12万の大軍を率いて犬山城に入城し、小牧山に陣を置く徳川家康と対峙しています。犬山城天守から見た小牧山城それにしても手前の「あゆ釜めし」の看板の方が気になります。江戸時代に入った1617年に成瀬正成が城主になってからは、明治になるまで代々成瀬氏が城主を務めました。廃藩置県になっても成瀬氏の個人所有となっており、平成16年まで成瀬氏が城主でした。日本城郭協会「日本100名城」
2017/10/27
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大垣から名古屋へ戻る時、JR東海道線で真っすぐ帰るのが普通かと思います。今回はJR岐阜駅でわざわざ名鉄に乗り換え、さらには名鉄各務原線という、我ながら奇特なルートを利用しました。向かった先は各務原線の終点、犬山です。岐阜城天守から見た犬山城名鉄を犬山駅で降り、犬山城へ向かう途中には、かつての城下町を偲ばせる街並みが残っていました。寺内町の街並み城下町の東に寺院が配され、城下町の防御の役目も果たしていたようです。大手町の街並み三の丸の大手門があった場所ここからが丸の内、城内となります。三の丸から本丸へ続く道を行くと、針綱神社と三光稲荷神社の鳥居が見えてきました。三光稲荷神社の参道本丸は丘陵部にあるため、神社の階段も登城道になります。神社の裏手には、戦国城郭を思わせるような空堀の跡も残っていました。空堀跡矢来門跡本丸虎口には「本丸門」が建っていますが、犬山城の櫓や門は明治6年の廃城令によって取り壊されたため、後世になって復興されたものです。本丸門当時は「鉄門」と呼ばれる門が建っていました。櫓や門は残っていないものの、犬山城には貴重な天守が残っています。現存12天守の1つであり、国宝5天守の1つでもあります。
2017/10/26
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「全国水の郷100選」に選ばれ、「水の都」と呼ばれるのが岐阜県大垣市です。かつての大垣城も随所に水路を巡らせ、水城のような様相だったと思います。大垣城縄張図現在も大垣市内にはいくつもの水路が流れており、かつての城下が偲ばれました。大垣城の北側、龍ノ口門付近の水門川この水門川が外堀の役目を果たしていました。現在の大垣城は、二の丸と本丸の跡が大垣公園として整備されています。二の丸跡この日は「十万石まつり」が行われ、大垣駅からの大通りではパレードが行われていました。二の丸跡に建つ常葉神社歴代大垣藩主を祀った神社で、この日は法被姿の人たちが祈願を行っていました。戦前まで大垣城の本丸には天守や櫓が残っていましたが、太平洋戦争の空襲によって消失しています。本丸城郭図丑寅櫓の隅櫓空襲で焼失しましたが、鉄筋コンクリートで再建されました。丑寅櫓に続く東門元々は外堀の柳口にあった門を移築したものです。丑寅(北東)の他に、戌亥(北西)にも隅櫓が建っていました。戌亥櫓戌亥櫓の脇には水の手門の跡が残っていました。水の手門跡戌亥櫓から丑寅櫓に続く本丸北側の土塀土塀の前面道路も、かつての水堀だったと思われます。本丸へは西門を通って入りました。それらしい造りの櫓門ですが、縄張図を見る限りここに門はなかったはずです。本丸に入ると、石垣が残っていました。辰巳櫓の櫓台でしょうか。東埋門跡天守(外観復元)大垣市のすぐ西隣りは関ヶ原町で、伊吹山や鈴鹿山脈のその先は畿内です。京都や奈良に住んでいる時、伊吹山や関ヶ原は一つの心理的な境界で、その先の大垣は遠国のような感じがしていました。今回は東から大垣に来たのですが、なじみの土地に近づきつつも、遠くへ来た感があるのが不思議です。現地の解説板によると、大垣城は竹腰尚綱が1500年(明応9年)に創建したとも、宮川安定が1535年(天文4年)に築城したとも言われています。(いずれにしても、初めて聞く名前です)1583年には池田恒興が豊臣秀吉の命によって15万石で入城し、池田恒興が小牧・長久手の戦いで戦死すると、その子池田輝政が入城しています。(池田恒興・輝政など、ようやく知った名前が出てきました)その後1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の石田三成が大垣城を本拠地としました。しかしながら西軍は関ヶ原へと撤退したため、大垣城は取り残される格好となり、東軍の前に落城しています。1635年には戸田氏鉄が大垣藩10万石で入城し、以後明治維新まで戸田氏の居城となりました。二の丸にある戸田氏鉄像戸田氏と言えば田原城の戸田康光、今川義元の人質として駿府に送られる竹千代(のちの徳川家康)を、裏切って織田信秀(信長の父)の下へ送った人物です。よく調べると、戸田氏鉄は同じ戸田氏でも嫡流ではなく、支流だそうです。それでも戸田康光の裏切りにより、幼少の徳川家康は兄貴分の織田信長と懇意になりました。今川義元が桶狭間の戦いで討死した後の歴史を振り返った時、徳川家康にしてみれば大手柄だったかも知れません。日本城郭協会「続日本100名城」
2017/10/25
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