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自宅滞在期間も残すところあと少し。もうすぐ、実家に戻ります。今、人生で最高に・・・ヒマです。ヒマというか、自由というか。これやってみよう!と思ったことにとりあえず自分の時間を使うことができます。みなさまより少し早めに社会からリタイアしちゃった感じ。振り返ってみると、35年前、大学生から夢を追って大学院生となるも、体調を崩して研究生活を一時中断、結婚して研究生活を再スタートしようと思ったら息子が生まれて、そこから怒濤の家事・育児・パート労働の日々。そこでたまたま翻訳の世界に足をつっこみ、運とご縁で在宅翻訳者となり、二人目が生まれてから1年したら翻訳の仕事が雪崩を打ってやってくるようになり(今考えればなんていい加減に仕事をしていたことか・・・)、家事育児仕事に忙殺されて体調を崩し不眠症になりながらも翻訳の仕事を続けたものの、リーマンショックで潮が引くように仕事が減り、ああもうこんな生活こりごり、と思って仕事が減るままにして母業に重心を移していたら、息子の大学進学と娘の私立中学入学が重なって貯金がなくなり、あわててパートで病院勤めを開始。やりがいもあったけど私には勤め仕事は無理と痛いほどよくわかって7年で退職。細々と在宅翻訳の仕事を続けながら、コロナ禍を迎え、きちんと英語の勉強をし直そうと思って実家に戻って東京で翻訳スクールに通い始め、さぁ中級クラスで頑張るぞ!と張り切っていたら、母が病に倒れ、母の教室の手伝いにすべての時間を取られ、必死で生徒さんたちの面倒を見るも、母、一年の闘病の後に他界。実家の後片付けに目処を付けたところで、免許更新と健診と種々諸々の用事を片付けるために自宅に戻って今に至る・・・。これまで、何かに忙殺される生活だったので、今、何もすることがなくてぼーっと宙に浮いている感じが、今のところは居心地がいいのだけど、ずっとこのままだったらどうしよう?という焦りも感じる今日この頃。まだお金も稼がないといけないし。これまでの人生、ずっと、一つの目標目指して頑張りたい!と思いながら、その時その時の事情に流されながら生きてきて、もうすぐ還暦を迎えるに当たって、ふと「あれ?私の人生って何だったんだろう?」「私、何の目標も達成してないじゃん」と空虚な気持ちになりがちです。子育てもほぼ終わり、期せずして親の介護もあっという間に終わってしまい、すべての時間を自分のために使えるようになったのに、今となってはその余りある時間を何に使っていいのか分からなくなってしまいました。初めての子どもが生まれたとき、「これでもう、私一人の時間は持てなくなったんだな・・・」と悲しみに暮れたことを昨日のことのように覚えているのですが、今となっては、その「一人の時間」をどう使っていいのか分からない。あのときの私に伝えたい。「一人の時間を持て余す日が、すぐに来るよ」と。そして、「子どもたちと一緒に旅する冒険の日々は本当に楽しいよ!」とも。さて、十分に人生を振り返ったところで、前を向くことにしましょう。
March 13, 2024
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怨念?物騒な、とお思いかとも思いますが。他に表現のしようがなくて。最近、実母も義母も年を取り、だんだん記憶も曖昧になってきて、二言目には「私は人生でこんなにツラい目に遭った」という話がでてくるようになりました。戦前戦中の生まれで、本当に大変な時代を生きてきたから本当にいろいろ大変だっただろうとは思います。でも、実母と一緒に暮らして気がついたのですが、「私ばかりが損をした」とか「こんなに他人に馬鹿にされた」とか「こんな大変な目に遭ったのに誰も助けてくれなかった」とか、そんな話が次から次へと出てくる出てくる。若い頃に聞いていた話とは大分違うけどなー、と思いつつ、聞き流したのですけどね。で、思ったのです。若い頃の苦労は報われない、と。若いときの苦労はお金を払ってでもするものだ、とかなんとか言いますが、お金を払ってまでするもんじゃないです、苦労は。しないに越したことはないのですよ。年を取ると苦労の塊が「怨念」となって口から出てくるのです・・・コワいコワい。ところがです。最近、私の口からも苦労の怨念が漏れ出すようになったのです。「ここに引っ越してきてからこんな苦労があった」とか「子育中、いろいろな理不尽と闘った」とか、これまでの来し方の苦労話が口から出てくる出てくる・・・聞かされる方はきっとたまったもんじゃない、と思うのだけど、些細なきっかけでひょいっと出てきてしまうのです。これはやばい。まだそんな年齢じゃないし。将来はかわいいおばあさんになりたいし。なので思ったのです。ここでいったん、怨念をアウトプット(ーー)して整理して、あわよくば心の中から捨てられないかと・・・聞かされる方はたまったもんじゃない話なので、勝手に思いこんでいる恨み辛みの話なんて読みたくもないという方は、ここから先は読まないで下さいね・・・。今住んでいる土地に引っ越してきてから・・・保育園と闘う保育園の保護者会の役員になると幼稚園の保護者会並に平日のお手伝いが要求される、という理不尽な要求に対して、私が会長を押しつけられた引き受けたタイミングで園側に申し入れをしたところ、要求は受け入れられて手伝いは大幅に減ることになったものの、理事長先生に「今まで役員にはいろいろ優遇してやったのに」という捨て台詞を吐かれた上に、他の保護者の方々から「余計なお世話を・・・なんで波風立てるの?」と暗に言われたのでした・・・理不尽。地域の子供会活動で闘ううちのマンション、建設されたばかりで、地域にとってはいわゆる「よそ者」だったため、町内会長にいじわるされまくる。小学校の校区と闘う要領が悪いので、再び、うっかり「子供会総会」なる組織の会長を引き受けてしまう。役員さんたちはみんな昼間働いていてそれぞれのご家庭に事情がある中で引き受けてくれているのに、こちらも、子どもに関係のない町内会、婦人会、社会福祉協議会・・・ありとあらゆる「校区の住民が関わる地域組織」の行事の手伝いをさせられることに。役員さんたちは平日昼間は働いてるんです、といったら、公民館の館長に「女は外で働かなくてもいい」と言う暴言とともに「子供会は公民館を活動の場として使っちゃダメ」といわれ、ぷちんっ!と頭にきて、公民館を管轄する市に上訴。そっちがそういうなら、こちらも子どもに関係のない活動のお手伝いは引き払う、と交渉し、荷物は置かせてもらえることになり、手伝いも減らすことに成功。なのに、地元密着型の小学校の保護者たちに、「余計なことをして」と盛大に悪口を言われていたらしい。だったら自分たちがずっと役員したらいいじゃん。小学校と闘うムスコの算数のテスト問題で「答えがあっているのに解き方が間違っている」という理不尽な理由から、減点。解き方もおかしいようには見えなくて、ムスコが不服そうにしていたので、先生に「なんでですか?」と聞いてみたら「授業で教えたとおりじゃなかったからです」とのお答えが。ムスメは、本人にそんな気持ちはなかったのに学年をまとめる役割を担わされ、本人が悪かった点は一つもないのに学年全体がたるんでいるという理由から「代表だから」ということで担任に強い口調で叱責され、謝っても許してもらえず、午前中の授業が全部潰れた。さすがに腹が立ったから校長宛に質問状を書いたら慌てて言い訳してきたが、言い訳になっておらず。なぜか生活習慣病の採血検査を学校でやったのだけど、ムスメの時に採血を失敗したらしく、右腕に何度も針を刺されたあげく、失敗して左腕に。腕が上がらない、と泣きながら帰宅。何が起きたのかあわてて学校に電話して調べてもらったら、採血をしていた時間、担任行方不明、別の組の担任と保健の先生、採血コワくてパニクってた子どもの対応、採血の現場を学校側は誰も見ておらず・・・なぜあのとき、教育委員会にまで言い上げなかったのか、今でも悔やまれます。ムスメ、道徳の授業で「水からの伝言」を習う・・・ムスコも習ってたらしいのだけど授業なんて聞いてない人だったから「そんなのもあったかも?」位の記憶だったらしいのだが、ムスメはまじめなので信じてしまいそうだったため、洗脳を必死で解く。学校にクレームを、とも思ったけど、もうなんか事を荒立てるのも疲れたから、申し訳ないけど我が子だけ対応。あとは小学校の不審者対策について校長に質問したときの、校長の「うちの校区には不審者はいません」発言、ムスメ小4のときに、担任が昼間に行われた著名人の講演会に行きたくて、子どもたちだけで自習をさせて講演会に行ってしまった問題、中学受験妨害問題・・・ムスコの中学受験塾と闘う成績上位者からの嫌がらせが続き、オットを連れて塾に乗り込み直談判。(このもうすぐ17年経過しようとしている長きにわたるブログには、こんな話がいっぱい書いてあります♪)・・・私、あまり体は強い方ではない、というかかなり体力ない方なので、母にも「子どもを産めただけでも奇跡」といわれるほどなんですが、二人も産んで育てるなんて、私の体力をはるかにオーバーしている作業だったと思うのです。オットは一年の半分くらいは出張で家にいないし、子どもに関することにはまるっきり無関心だし、まぁいわゆるワンオペ状態だったのに、当時、夜の睡眠時間を極限まで減らさなければいけないほど仕事を抱えておりました。そんな中、子どもたちに良い経験を、と、旅行を企画し、準備をし、本物を見せてあげたいからといろんなところを連れまわり、塾や習い事の送り迎えもし、中学以降はずっとお弁当だったので毎日お弁当をつくり、ムスコの反抗期と対峙し、ふと気付くと家計が赤字になっていて仕方がないからパートに出て帳尻を合わせ・・・そして、これだけいろんな理不尽と闘ってきました。人の半分くらいしかないヨレヨレの体力で、本当によくやったと思うんですよ、私。自分で自分を褒めてあげたい。褒めていいですかね・・・。今、子どもたちの手が離れて、仕事もかなり減ってしまって、ふと子育てに費やした30年近くのことを振り返って思うのです。自分のキャリアを築きたかったと。本当は自分のやりたいことをもっとやりたかったと。本職も勉強が中途半端、パートに出ても体力の限界を迎えて辞めざるを得ず。この土地の水になじめずこんな風に闘いを繰り返していたのでまともな人間関係も築くことができず、人間関係に疲れてしまってこれ以上人間関係を築こうとも思うことができず。その上、コロナでひとりぼっち。何をやっていたんだろう、私。からっぽだよ・・・そんなとき、森見登美彦の「熱帯」の冒頭部分を読んでほっこり笑ってしまったのでした。(書けない小説家は)しかし書けないときには社会的には無に等しい。路傍の石ころ未満である。なんと潔し。まぁいいか、森見先生に言われてみたら、路傍の石ころ未満になってみるのも悪くないかも。「どうやら私は小説家として終わったようだ」という森見先生に対して奥さんが「そんなに悲観しなくても・・・・・・。果報は寝て待てと言うでしょう?」そうね、石ころになって果報を待ってみるのも悪くないかも ← イマココというわけで、怨念を捨て去るところまではまだ遠そうですが、ごろごろしながら人生のものの見方を修正中です・・・。自分で自分を褒めて励ましながら。かわいいおばあさんになるのだから。
September 26, 2021
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その昔、大学院生だった頃、指導教官と私の意識の齟齬から、私は研究者の道を断念しました。今振り返ってみると、そういうことだったのか…と理解できるところもあったり、もっと賢ければやりようがあったかも、と思ったりするのですが、当時私は若くて非力でバカだったからなー。私が所属していた研究分野には、その分野を切り開かれた大変優秀な東大の教授を筆頭にヒエラルキーが構築された社会が形成されていました。筆頭の教授の下に、その分野を率いる有力な教授たち、その下に、大変優秀な助教授(当時)、助手、研究員がずらりと連なり、研究者を目指すならそのグループの中で優秀な成果を出して認めてもらって上を目指すのが常道、というような”社会”でした。私の指導教官はその分野の主流の教授でした。だから、素直についていけば何らかの形で研究者の道が開けたのだろうとは思うのですが、問題がありました。私はその分野に何の興味もなかったのです・・・。その研究室には教授と助手がいて、私は助手の先生が研究していた分野に携わりたくて、わざわざ大学院に行ったのですが、私は教授の下につくことになってしまいました。運命ってそんなもんです。私が助手の先生の研究分野に興味を示し行動するたびに、教授に邪魔された・・・ように若くて愚かだった私は感じました(^^;)そのうち、私も優秀で実力のある研究者が集う”ヒエラルキー”の中に巻き込まれ、研究者になるためにはこの人たちのようにならなくては認められないんだと、バカで非力な私は自分に絶望しました。でもがんばらないと将来がないと思ってがんばりました。頑張り続けました。そしたら、全身を蕁麻疹がおそい、微熱が下がらない状態が長期にわたって続きました。原因不明の体調不良から回復することができず、博士課程前期から後期に進学するときに1~2か月ほどの療養期間を取りたいと申し出るも、却下され。追い詰められた私は、進学をあきらめました。で、当時付き合っていた現オットのところに転がり込んで、結婚、という、今となっては、よく親が許したな、と思う展開となりました。ところがですよ。進学をあきらめる、と決めたとたんに、ぱーっと青空が開けたのです。この"社会"のヒエラルキーの上を目指さなければ、上の人たちから認められなければ、という必死の思い込みから解放されたとたん、気づいたんです。なんてつまらないことにこだわっていたんだろう・・・"社会"の外では、神とあがめられていたような教授のことを知っている人なんて、だ~れもいない。私が認められてもられなくても、世界は微動だにしない。世界はなんて広かったんだろう、と。何かに行き詰まった時、「視座を変える」ということを学びました。これを人は時々「逃避」と表現したりしますが、逃避上等。劉邦は、逃げて逃げて逃げまくった結果、漢帝国をつくり上げました(^^;)今、職場の上司たちの間で、いじめのような事態が起きています。正確にいうとそれはいじめではなく、「傍から見るといじめのように見える」事態なんですが、まぁ、上下関係のある社会にいたらそういうことって起きるモノなんだろうなーとは思うのですが。上の者の要求と下の者の能力が一致していなきゃ、上の者が不満を募らせるのももっともだけど、そういう下の者をうまく使う能力が上の者にない、というのも現実で。で、その下の立場にある人に言ってあげたい。人の使い方が下手な奴の下で働いている必要はないんだよ、外にはあなたを必要としている世界がいくらでも広がっているんだよ、と。言いませんが・・・実際には。地方の中規模の集団の中で働いていると、自分の居場所はここしかない、と思ってしまうものなのかもしれません。私はいつでも逃げられるように準備中(^^;)。
July 24, 2018
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私の大学時代の指導教官は京大出身で、私が卒業後、京大の研究室に助教授として戻っていました。その先生にも私が置かれていた状況を相談していたのですが、そのついでに、東大の○○先生の研究室に見学に行ったら、ぜひ来てほしいといわれたんだけど、どう思います?と聞いたら。「なんであいつのところに行くんだ!そんなところに行くんだったらうちに来い!」と言われました・・・。私は大学4年生の半年間しかその分野の研究に携わっていなかったので知らなかったんですが。この二人、同分野のライバルだったようでした。研究界というのは意外に狭く、同分野なのに私がこっちの先生からあっちの先生に移ったとなれば、あらぬうわさも飛び交うだろうし、だいたい、自分の恩師を敵に回すことになるわけで。そんなの、やりにくいったらありゃしない。研究テーマに魅力があるというよりも、どうせやりたいテーマに取り組めないんだったら、東大の方が実家から通える、とか、学歴ロンダリングと言われようが東大博士号の肩書が手に入るとか、そんなよこしまな考えで、東大もいいかな~と思ってただけ。研究テーマ自体は恩師のもとに戻ってまで取り組みたかったようなものだったわけではありませんでした(当時は)。当時の私は若くてバカだったので、いろいろ考えすぎていた感が無きにしも非ずだったのですが結局諸事情の板挟みになって、魅力ある東大進学のお話にも乗ることはできませんでした。結局、紆余曲折の末、当時付き合っていたオットと結婚し、研究者への道は断念、という、なんだかよくわからない顛末になったのでした。今考えてみたら、卒論研究のテーマも結構面白い分野だったし、あのとき、何も考えないでどこかに進学していたら、ひょっとしたら今も研究者としてキャリアを積んでいたかもしれない・・・。そしたら私はもっと、プロフェッショナルになっていたのではないだろうか・・・。そしたら、こんな片田舎の病院で、ぶーぶーと不満を垂れながらパートのおばちゃんをやってることもなかったんじゃないだろうか・・・。これまでずっと抱き続けてきた心のもやもやが具体的な形になってばーっと噴き出してきて、とても切ない気持ちになったのですが。ふと気づいたのです。もしあのとき、すべてを捨ててオットと結婚していなかったら。ムスコともムスメとも出会えなかった。私の誇りであるムスコとムスメに。だいたい、どの道を選んだとしても、私のキャパの範囲内の場所にしか到達しなかっただろうし、その中では最良の選択を私はしたんじゃないか、と。あの時の選択は必然だったんだと、なんか、今までずっと抱えていたもやもやがすっと晴れて、ストンと腑に落ちました。自分が人生の一大転機を迎えた年齢に我が子が近づき、もう一人の子の大学進学を考えるこのタイミングで、自分の人生を振り返る機会を与えられたのは、きっと天啓であり天恵だったのでしょう・・・。今、この一日一日を大切に過ごさなければ・・・・・過去を振り返って「もし」と嘆くよりも、現状への不満ばかりをつのらせるよりも、驕りを捨てて前へ進もう・・・と。
March 26, 2016
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私は若いころ、研究者になるつもりでした。大学4年生のとき、私がやりたい研究テーマは他の大学にある、と思い立って、他大学の大学院を受験。合格して、希望の研究テーマに取り組める研究室に入りました。ところが、入った途端に、その研究室が2年後に解散することが決まりました。教授が他の研究所に移ることになったからです。教授についていけば、研究の道は続けられたのですが、私が取り組みたかったテーマの研究をしていたのは助手の先生で、教授ではありませんでした。助手には学生に学位を取らせるための指導をする権限はなく、教授についていけば、自分の希望とは違う研究テーマに取り組むことになる。私はジレンマに陥ってしまい、思考がストップ状態に。そんな時。同じ研究室の同期の学生が、いろいろな選択肢を検討したいと助手の先生に頼んで、助手の先生の知り合いの研究室に見学に行くことになりました。それが、前述の東大の先生の研究室でした。私は、その先生がどんな研究をしているかも何も知らなかったのですが、東大の中を見る機会なんてなかなかないので、その同期の子のお供として私もついていくことにしました。とはいえ、地方大学の学生二人。東大の先生からしてみたら、知り合いに頼まれたから仕方なく見学はさせてあげるけど…、くらいな感じで、私たちは望まれている学生、というわけではありませんでした。さて、その先生の研究室を訪問し、先生もとりあえず実験装置の説明など淡々としてくださったわけですが。そのとき、私はふと、何気なくある質問をしたのです。そしたら。その先生の声のトーンががらりと変わり、一転、非常に熱意をもって私たちに接してくれるようになったのでした・・・。その質問は、その先生が一番心血を注いだ、研究の核心に当たる部分への質問で、私がその点に触れたことで、私たちへの関心が高まったようだったのでした。なぜ、私がそんな質問をすることができたのか。当たり前です。大学時代に私も同じ分野のテーマの研究をしていたのですから。そして、私が質問したポイントは、私自身が大学の予算の関係で克服できなかった重要ポイントだったのです。でも、あちらはそんなこと知らないから、この学生は研究の核心を理解している!と誤解してくださったのでしょう。後日、「やる気があるならぜひうちに来てほしい」という前向きなお誘いをいただいたと、助手の先生から言われました。その後、その研究室に進学したのは、私ではなく、私と一緒に行った同期の学生の方でした。私にはその研究室に行けない事情がありました。
March 26, 2016
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ムスメも4月から高2になります。はやいもので。そこで、今年の夏までにしておきたいのがオープンキャンパス巡り。とはいえ、ムスメ本人には、何をしたいのかも、どの大学に行きたいのかも全く展望が見えていない状態。だいたい、高2ごろに考えているとおりになんてならないのが大学受験。センター試験の結果が出た後で、考えてもいなかったような大学を受験することになったりするのが世の常で。なので、とりあえず、実力や希望は度外視して、今しか内部を見ることができない大学に行ってみるのもいいのではないかと、候補に挙がったのが東大。だって、実家に帰省がてらいけるもんね。というわけで、東大のHPを検索して、去年のオープンキャンパスの様子などをつらつらとみていたら、理学部のオープンキャンパスの様子のビデオがアップされていたので、何気なく見ていたら。理学部の全体像について講演している先生のお名前に見覚えが・・・。講演の内容を聞き進めていくうちに、その先生の研究内容などに話がおよび、・・・うん、その研究内容、私はよく理解できるよ、だって私、大学の卒論研究がそんなテーマだったもん・・・ということに思い当り。あー!!!と思いだしたのでした。話を非常に短く要約すると。やる気があるなら、大学院の博士後期課程からうちの研究室にきてもいいよ、と、言ってくださった先生だったのでした。人間の記憶っていい加減なもんだなー。そんな大事なことがすっぽり記憶から抜け落ちてるなんて。こうして、ムスメのオープンキャンパス考をきっかけに、私の人生の一大分岐点についての記憶がよみがえってきたのでした。
March 26, 2016
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