全43件 (43件中 1-43件目)
1
最近、ちょっと気になるワードがSNSに流れてきます。〇〇ママ。教育界のカリスマ・ママ私自身はもう子育てが一段落したので、全く知らない世界の話なのですが。超一流大学医学部に我が子全員を合格”させた”ママとか、超一流米国大学に娘を入れたママとか。素晴らしいお母さま方です。その企画力、行動力、自己プロデュース力、並外れた方々なのでしょう。ただね、すごく気になるのです。お子さんたちは、母親の活動をどう思っているのか、ということが。母親が自分(子ども)たちのプライバシーを切り売りしているわけですよね。どこかへ行くと「〇〇ママの息子さん/娘さんですよね」とか言われたりするんですよね・・・ひょっとしたら何歳になっても。実は全くのレベル違いではあるのですが、私自身がそんな経験をしています。母は某教育システムの教室をしていて、私はその修了生です。なので、生徒の保護者さんたちや事務局員さんたちに私の話をしているらしいのです。といっても、私はそんなに優れた修了生だったわけではなく、塾なしで公立高校、国立大学に合格できた、というくらいのレベルの話。現在に至っては、全然儲からない翻訳者を細々とやっている程度。成功例とはほど遠いです。でもまぁ、小学生時代に算数ができなかった凡庸な子がそのレベルに達することができたということは、多少の教育効果があったということだし、子どもの性格に向いていれば悪くない教育システムではあるので、母が宣伝トークに私を使うことも仕方なく黙認していたのですが。ところがですよ。アラ環になってなお、生徒の保護者さんやら事務局員さんやらに会うと、「あ、先生がお話しされてた修了生の娘さんですね」と言われるわけです。こっぱずかしいったらありゃしない。アラ環なのに、子ども扱い!しかも、18歳で大学進学のために家を出てから最近まで一緒に住むことはなかったので、母の中では「私」という人間が脳内脚色され大変美化されていたっぽいのです。もう恥の極みです。私は〇〇ママさんたちのこともそのお子さんたちのことも全然知らないので、〇〇ママさんたちがどういうふうに我が子たちの個人情報を隠して講演されているのかはわかりません。お子さん自身が自分の能力で有名人になられている場合もあるので、心配はないのかもしれません。でも。我が子の成功をまるで自分の手柄のように自分の金儲けに使うというその大胆な行動を、私は理解できません。だって、ママも優秀かもしれませんが、たまたまお子さん(たち)が優秀で健康で、家庭環境が恵まれていて、ママが自分のやりたいようなやり方を試すことができた、という、幸運が何重にも重なった極レアケースなわけだから、そのような方々のやり方を他人が真似することにどんな意味があるのでしょう?それで良い結果になるようなご家庭は、もともと他人のまねをしなくても成功するご家庭なのです。ちなみに、本当につまらない例ではありますが、うちの子どもたちも世間的にはそこそこな結果となりましたが、それは、子どもたちに多少の能力があって、その能力を伸ばせる環境がたまたま身近にあって、健康と人との出会いに恵まれていただけ。親がしたのはお金の工面のみです。チームスポーツのセオリー勝利は選手の力、敗北は監督の責任これを言い換えれば、成功は子ども自身の力、失敗は親の責任この視点がどこかぽっこり抜けてしまっている〇〇ママ礼賛の風潮、どうもなじめません。まぁ、私がなじめなくても何の問題もないのですが・・・ただのグチですね スミマセン
April 24, 2023
コメント(0)
うちの実母は公文式の教室をやっています。なので、実家に居候している身なので、私もときどき教室で採点の手伝いなどをしています。で、気がついたんですけどね。小学生が英語教材をやっているんですが。「なんで読めるの!?」って。驚きです。SVとかSVCとかSVOくらいの簡単な文章でも、子どもにとったら、アルファベット自体が「初めまして」な文字。ひらがなとカタカナをやっと覚えて漢字は鋭意学習中、くらいなレベルで、アルファベット26文字も覚えているわけです。で、それを覚えただけでは英語は読めないんですよ、単語として発音を覚えないと。ぼんやりとフォニックスという発音ルールはあるものの、ひらがなカタカナのようなはっきりした発音のルールはないのです。大人の皆さま、想像してみて下さい。これから韓国語を覚えましょう、とか、中国語を覚えましょう、とか、もっと極端な例ではアラビア語を読んでみましょう、とか言われたら、読めますか?文字のならびと発音を結びつけることすら難しい・・・(中国語の拼音とか四声なんてお手上げです)アルファベットがわかっても、フランス語、発音できますか?それを、子どもたちは当たり前のようにやっちゃってるわけです。しかもですよ、小学生は、日本語に文法が存在することすら意識していません。主語があって述語があって、修飾語がここにくっついて・・・なんていうの、最近はきちんと学習していないそうですね。それなのに、日本語とは全く異なる語順なんですよ、英語って。大人がやろうとしたら、もはや「はぁ???」の世界です。このような苦行に、好きでも必要もないのに取り組む大人は・・・多分いません。そんな中、ある日、とっても頭が良くて中2レベルの英語教材をやっている小4の男の子が、思うように学習が進まなくてキレてこう言い放ったのです。「もう英語なんて一生使わない!絶対に使わない!!だからもうこんな勉強やめてやる!!」そうよね・・・普通に生活している小4の子どもが英語を使う機会なんてないよね。なだめる言葉が見つかりませんでした。その子、中2レベルの教材をちゃんと解いてるんです。現在形や過去形や進行形といった区別もちゃんと付いてるし、ちゃんと音読もできるんです。でも、確かに、使いもしない道具の使い方をただひたすら勉強することほど辛いことはないよねぇ・・・。いつだったかブログにも書いた気がするのですが、基本的に、小学生のうちの英語の勉強って、「英語を嫌いにさせない」ことに尽きると思っています。どんな科目でもそうですが、嫌いになったら最後、どんなに優秀な頭脳を持っていても花開くことはありません。小学校での英語教育が必修化され、昨年度から小3、4年生では英語活動、小5、6年生では英語学習が取り入れられました。教科書を見る機会があったのですが、本当に大丈夫なのだろうか?という高度な内容・・・。学校の勉強だけであの内容をマスターできるとはとても思えません。とすると、学校活動以外で英語を勉強している子たちが有利になりそうな気がします。それで、本当にいいんだろうか?中学からの英語の授業だけで(正確に言うと”だけ”ではないのですが)英語を習得した私としては、ちょっと複雑な思いです・・・。危うし! 小学校英語 (文春新書) [ 鳥飼 玖美子 ]子どもの英語にどう向き合うか (NHK出版新書) [ 鳥飼玖美子 ]書評はこちらから子供の英語にどう向き合うか(Amazon)
July 1, 2021
コメント(0)
今、日本の国力を崩壊させるような予算案が通ろうとしています。国立大運営費交付金 1割を「重点支援枠」に 政府19年度予算案方針(毎日新聞)政府は2019年度予算案で、国立大学法人運営費交付金のうち教育や研究の評価に応じて傾斜配分する「重点支援枠」を、全体の約1割にあたる1000億円に拡大する方針を固めた。重点支援枠の拡大は大学運営のための「基盤的経費」の縮小につながりかねず、文部科学省も急激な拡大に反対していたが、結果的に財務省に押し切られた形になった。重点支援枠を指定するということは、それ以外の大学の運営費交付金が大幅に減額されることを意味します。するとどうなるかというと、地方の国立大学の経営が成り立たなくなります。現在、すでに地方国立大学では、教員が自分のお金を大学に寄付し、その寄付金から自分の研究室の運営費を支払っている、という事態が起きているそうです。つまり、自腹で研究。大学教員が本来の職責である研究をまともにできない環境。現在、各都道府県に国立大学が設置されていますが、財務省は実質的に地方国立大学をつぶして数を減らそうとしているのではないか、と巷ではささやかれています。ノーベル賞受賞学者の皆さんが、口をそろえて「今のままでは日本の科学技術に未来はない」「もっと国からの投資を」と呼びかけているにもかかわらず、減らされていく研究費。今年ノーベル賞を受賞された本庶先生も「日本で生まれたシーズ(産業のもととなる基礎研究の成果)が外国に奪われていく」と危機感を募らされていたにもかかわらず、研究者への風当たりは強くなる一方です。何の役に立つかもわからない研究に投資はできない、というのが財務省の言い分ですが。以前、このブログに掲載した、朝日新聞の『折々のことば』を再掲します。『国を直接守ることには関わらないが、守るに値する国にするのに役立ちます。 --ロバート・ウィルソン1969年の米議会の公聴会で、素粒子実験の大型加速器建設の予算審議にあたり議員が「国防の役に立つか」と尋ねたところ、核物理学者はこう答えた。(中略)同じ物理学者の佐藤文隆が、京都で本人から聞いた話。朝日新聞 2015年10月9日『折々のことば』より引用現状では、日本政府が「日本という国は守るに値しない国である」と見限ったということでしょうか。資源がないわが国では、売り物になるのは科学技術、つまり、日本は「科学技術立国」を目指す、と、私は学生時代に学校で習ったのですが・・・。オリンピックも万博も、科学技術のシーズを犠牲にして成り立っていると思うと、もろ手を挙げて賛成できません。オリンピック・万博は、科学技術の進歩以上のものをもたらしてくれるのでしょうか・・・?
December 24, 2018
コメント(0)
私の職場は医療関係施設で、主な仕事の一つが”診断書の作成”です。私の属しているグループには4人いますが、その4人のうち、3人はアラフィフで、1人だけ25歳。去年新たに入ってきました。それまで定職に就いたことはなかったようなのですが、いろいろなバイトを経験していて、ある程度の社会常識は見についています。なによりもまじめな子なので、教えられたことを必死で覚えようと努力してくれています。でも、どうも習得にものすごく時間がかかるうえに、慎重すぎてなかなか前に進めないようなのです。なかでも、最近、診断書作成の指導を受けるようになったのですが、主に指導を請け負ってくれているうちのグループのメンバーが、「日本語の基礎から教えてあげないといけない・・・」と、音を上げ始めたのでした。話だけしか聞いていなかったときは、私は「厳しいなあ」くらいにしか受け取っていなかったのですが。この二人のこんな会話を聞いて、これは大変だわ・・・と、指導担当者の苦労が身に染みました。それは。「”これを機に”のキって、キカイのキでいいんですか?」「そうよ。”この機会に”っていう意味だから」「へぇ~、キカイって、あのガシャンガシャンっていう機械ですか?」「・・・えーと。キカイのカイは”会う”の方ね。機会、チャンスのこと」「そうなんですか~。私、本とか読んでこなかったから、知らないことが多くてー」先日は、”以上、以下、未満”の定義が分からずに、講義したそうで。実はそもそも、電子カルテに書いてあること自体を読みこなすことができていないようで。真似が上手な子なので、表面的なことは教えてあげればできるようにはなるのですが、それ以上、自分の頭で考えなければならないことが生じると、お手上げになっているようです。どっぷりゆとり世代で、高校は推薦入学、高卒で、学力があまり関係のない専門学校へ。でも、結局その方向を極めるわけでもなく、現在、とりあえずうちの病院でパートしているのだそうな。一生懸命勉強する、という経験は一度もなかったというバックグラウンド。なるほど、家庭でも学校でも、”勉強する”とか”読書する”という環境は皆無だったのでしょう・・・。まだ20代とはいえ、これから勉強や読書の習慣を身につけるのは本人の相当な覚悟がないと難しいだろうな、と思いました。今の仕事のために、がんばって勉強してごらん、とか、本を読んでみたら?とかいっても、たとえ覚悟して頑張ったとしても、すぐには成果は出てこないでしょう。でも。これって、ひょっとして、私と同じ年代の人でも、そういう人はそういう人なのかな・・・と思い当たりました。ゆとり世代とか若者だからどうこう、ということではなく、世代に関係なく。私が育ってきた家庭環境の方が、かなり偏っていたのかもしれないし。うちのグループのほかの2人も、たまたま高学歴なだけだったのかもしれないし。確かに、同じ職種でも、「診断書はかけません」「あれはできません」「これもできません」と、結局、何の仕事してるん?状態の人が少なくないようなウワサも耳にします。できないなら勉強すればいい、読書量が足りないと思うなら読めばいい。という話が通じるのは、幼いころから、いやいやでも勉強や読書の経験を積んできた人だけであって、大人になってから、「できないなら努力したらいい」はムリなのかもしれない。そう考えら、『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる!』というのは、あながち誇張ではないような・・・というか、かなり真実なんじゃないかという気がしてきました。ただまぁ、この本が謳うような「小さいころからたくさん読書したら東大に入れる」みたいな極端なことはないと思いますけどね。うちの職場は、いわゆる”学力”がものをいう職場。そうじゃない仕事を選べば、もっと彼女の才能が生かせるのではないかと・・・まだ若くて吸収力のある年齢だから、向き不向きをよく考えて将来設計した方がいいような、そんな気がするこのごろです・・・。
August 9, 2015
コメント(0)
新聞の広告欄に、「将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる!」とかいう本のタイトルが書かれていて、「もう遅いわー・・・」とか、ため息が出たりしたわけですが(^^;)私自身、頭の良しあしは別として、”勉強するのは当たり前””読書は日常”という家庭で育ちました。父は大変な読書家で、通勤時間が片道2時間もあったりしたものだから、普通の単行本なら1~2日で読んでしまうほどで、家には大量の本が置いてありました。置き場所に困って、私と弟の子ども部屋の本棚には父の本が並んでいました。家にいる間は、居間の自分の定位置に座って、ずうっと、新聞か本を読んでいるか、NHKを見ているか。父に「勉強しろ」と言われた記憶も、何かで叱られた記憶も皆無なのですが、そんな親の姿を見ていたせいか、本を読むのは当たり前、勉強するのも当たり前。子どもとして、特に息苦しさとか感じたこともないくらい、ごく普通の日常でした。だから、私は50歳を目前とした今でも「勉強するのは当たり前」と思っています。で、そんな感じでずっと在宅で子どもの目の前で翻訳の仕事をしていたものだから、うちの子どもたちも、勉強するのは当たり前、と思っているようです。もちろん、頭の良し悪しは別として。ただ、ムスメに読書習慣を付けてあげることに関してはちょっと失敗したかも。ムスコが生まれてから、ずっと大量の絵本を読み聞かせしてあげたのだけど、小学生の時に「愛読書は理科年表と時刻表」とかいいやがって、「物語を読んでも意味が分からない。だって主人公が自分じゃないから」とか言い放って、中学受験の時の、塾のテストの国語の成績が壊滅的だったこともあって、幼きムスメが絵本の読み聞かせ年齢に達したころには、「読み聞かせなんて意味なし!」と、誤った結論に達してしまい・・・ムスメには、読み聞かせをしてもらったという記憶があまりないという、悲しい結末になってしまいました。これは本当に後悔もので、中学受験時の最後の模試で、国語の偏差値38、というのを目にしたとき、本当に本当に後悔しました。その一方で、大量に読み聞かせをしてあげたムスコは、中学に入ってから友人の影響で、井上ひさしの「吉里吉里人」を皮切りに京極夏彦(難解な漢字をたくさん使った分厚い文庫本のイメージ・・・)を次々と読破していって難しいマニュアルだろうが参考書だろうが、自力でどんどん理解していって、結局、ほぼ自力で大学受験を突破しました。ムスメに、それだけの読解力はない・・・orzごめん、ムスメ。そうはいっても、中学受験に挑戦したおかげで、塾で大量の文章を読まされ、入った中学でも、入学してすぐに”大学入試”を念頭に置いた授業が展開されて、やっぱり大量の難解な文章を読まされ続け、学校に行っているだけで、一定量以上の読書量が確保されています。その上で、ここ数年、「読書が面白くなった!」と、少しずつだけど自主的に本を選んで読むようにもなりました。(部活と大量の宿題で、十分な読書時間を確保することは難しいようですが)私から見てみたら、まだまだ年齢相応の文章を読んで理解する力は足りないように感じますが、それでも、「文章を読む」ことが当たり前になってくれて、大きな成長を感じています。・・・って。今さらこんなことをなぜ書いているのかというと。今、職場にいる若い子が、文書の読解や作成に、基礎的な困難をかかえていることが明らかになってきたからなのです・・・。
August 9, 2015
コメント(0)
今働いている職場では、同じグループに4人いるんですが、そのうち3人が「ゆとり世代」の子を持つ母で、1人は「ゆとり世代」の子。で、私以外の「ゆとり世代」の母二人が、それぞれ大学3年生と4年生の我が子たちについて、いろいろ悩みを話し合ってました。いわく、「ゆとり教育のせいなのか、この世代の子たちはちょっと叱られただけですぐめげる」と。大学3年生の娘さんを持つスタッフは、1週間の教育実習の半ばで、実習先の厳しい指導にすっかりめげてしまって、実習先に足もむけられない状況になってしまったと。大学4年の娘さんを持つスタッフは、昨年、就職活動をしたのだけれど、実力に見合わない企業にアタックし続けて負け続け、あまりのめげ方に親がハラハラばたばたし続けたと。それでも、結局、それなりの大手に就職が決まったそうなのですが「考え方が甘すぎて、いつ辞めて帰ってくるかわからない」と。そして、うちのグループの「ゆとり世代」の新人さんも、いろいろチャレンジしてきたけれど、ちょっと厳しくされるとすぐにめげてしまい、何かを成し遂げた経験がない、と。先日も、職場で大泣きされましたし(^^;)でも、それって・・・「ゆとり教育」のせいだけなのかな・・・?いや、うちはムスコもムスメも脱「ゆとり」な中高に通った/っているので、ゆとり教育の弊害がどれほどなのかよくわからないのですが。もちろん、二人とも「ゆとり」な小学校時代を送っていて、その様子を見て「これはいけないかもしれない・・・」と親の私も危機感を持ったくらい、いろんな意味でいろいろゆるゆるだったのは経験しているのですが。各方面からのうわさを聞くに、やっぱり、最近の若い人たちはあきらめるのが早かったり、ちょっと厳しくすると辞めてしまったり、そんなケースが多いそうです。でも、自分の若いころを振り返ってみたら・・・あんまり人のこと言えない(^^;;;)世間知らずだったし、厳しくされればトイレで泣いたし、厳しい局面にさらされて、夢を一つ、あきらめて、就職もせずに結婚しちゃったし(^^;;;;;)でも一つだけ、すぐにあきらめちゃう最近の若い子たちと違ったのは、幸いにも、学生時代、研究室で「本物の人たち」と一緒に仕事をした、という経験ができたことかもしれません。一流の人たちが厳しく指導してくれたことで、「本物になる」ための道のりの厳しさを体得することができました。叱ってくれたことがどれだけありがたかったか。叱られる、ということは、自分に不十分な点を指摘してもらっている、ということで、そこを乗り越えれば成長できる、ということでもあるのです。叱られなくなったら、自力で自分が足りないところを探して改善していかなければならないわけですが、人間、自分には甘いから、それはなかなかできません。叱られなくなる、というのはつまり、常に「成長が止まる」という危機にさらされることになるわけです。「ゆとり世代」の子どもたちでも、あえて厳しい世界に飛び込んでいった人たちは、今、その分野の一流として活躍しています。親も、わが子のゆるさを「ゆとり世代」とか「ゆとり教育」のせいにばかりしていないで、子どもをあえて厳しい世界に放り込む勇気を持たないといけないのかもしれません・・・。「一人前」になるためには何が必要なのかを学ばせるために。
December 20, 2014
コメント(0)
誰も信じて疑っていなかった(私はなんで誰も疑わないの?って疑ってましたが)原発の安全神話は、3年前にあっさり崩壊したわけですが。”科学技術立国日本”という神話も、そろそろ化けの皮がはがれ始めているのでしょうかねぇ。STAP細胞の一連の騒動。この話題はマスコミが変な方向に騒ぎすぎ、と思ってあえて触れていなかったんですけど。最近、ようやくマスコミにも取り上げられなくなって、静かになったなぁ、と思っていたら。理研の調査委員長の論文のデータにも切り貼りがあったって・・・もうねぇ。もうかれこれ十数年ほど前に、某薬学系大学に事務員として勤めていたことがありました。そのときに、大学院の学生さんがこんなことをいってたのが忘れられないんですが。「論文のデータはね、カネツするんですよ」って。「カネツって、熱を加えることじゃないですよ~、捏造を加えるって意味の”加捏”」ただの言葉遊びだと思って、もう、冗談がうまいんだから~、座布団一枚っ!って、聞き流していたんですけどね。あれ・・・本当だったのかも・・・?もともとの、小保方氏のNature論文問題が大騒動になっていた頃、マスコミは、カワイイ顔したブリッこの女の子が、うぶな研究者を手玉にとって・・・みたいなスキャンダラスなニュアンスを暗に示しつつ報道していたわけですが。研究関係者の間では、これはそんな単純な問題じゃなくて、もっと根深い問題が起きてるんじゃないかと心底不安になってます。これからの研究を担う若い研究者たちが、ちゃんと育っていないのではないか?という、研究界の足元が実は腐り始めている、という不安。ま、だって育てる立場の大学の先生方が、学生をちゃんと育ててこなかったわけですもん、日本の大学では。それが露呈した、若い研究者を育てる立場であったはずの調査委員長の論文データ”カネツ”問題。この件については書きたいこと、いっぱいあります。でも止めておきます。でもでもひと言。小保方氏が、ぶりっ子だろうと男を手玉に取るのがうまい悪女だろうと、私はそんなことどうでもいいと思ってます。彼女が本当の理系人であるならば、そんなの問題じゃない。科学の世界には昔から、人間としてものすごく問題がある天才・偉人がたくさんいるわけですから。問題は、彼女が、理系人ですらない、ということ。科学は、説の提唱→反駁→論証→反駁→論証・・・という長い繰り返しを経て初めて、一つの説が証明されて認められる、という、非常に人間くさい過程を経るものです。それを、自説の反論に対して「STAP細胞はあります!信じてください!!」ということしかできなかった時点で、彼女は理系の研究者としてアウト。もはや、STAP細胞があるとかないとか、そういう問題をはるかに超えた「もう、研究界が崩壊してるかも・・・?」という大問題を、日本の研究社会は突きつけられています・・・。あやうし、科学技術立国ニッポンの神話。
April 26, 2014
コメント(0)
それにしても、なぜ、あれだけ賢い子が英語はコミュニケーションのツールであるというシンプルな点を理解できなかったのか?ずっと腑に落ちず、その夜、「この世から英語なんてなくなってしまえ」と日々唱えている(?)オットに、このことについて話してみました。そしたら、「それはさぁ、英語を単なる『受験のための学習科目』としか捉えられていなかったからじゃないか?」と。要するに、コミュニケーションの道具ではなく、受験のために得点を取るための道具、という認識しかなかったのではないかと。だから、数学なんかと同じように、ルール(公式や法則=単語や英文法)を覚えて、それを使って問題を正しく解き、正しい答えを導いて点をゲットする、というところにしか意識がなかったのだろうと。だから、単語や熟語、英文法といった詳細な部分にばかり目がいって、それが意味するところの解釈まで到達できなかったではないかというわけです。そんなことって・・・あるんだ。私は、小学生のころから、自分が使っている言葉と違う言葉があって、それを使えば、日本語を理解できいない人ともお話ができる、ということにワクワクしていた人間だったので、英語を「受験のツール」と認識したことがなかったのです。あくまでも、外国の人とコミュニケーションしたいための勉強がたまたま受験にも役立つ、というスタンスで。おそらく、自発的に学習して英語が得意になる人というのは、多かれ少なかれ、もともと、私のような発想の人なのかもしれません。逆に、英語嫌いになってしまう人は、英語=単なるつらいお勉強なのかな。だとすると、中学入学前までは英語に触れずに来たまっさらな状態な子の場合、入学してすぐ、いきなりハードな大学受験のための英語学習が始まってしまう、というムスコの学校のカリキュラムは、大きな危険をはらんでいる、ということなのかもしれません・・・。英語で落ちこぼれないためには、まずは英語学習の動機付けこそが大切なのかもしれません。うちの子どもたちがそこで躓かなかったのは、日々、家で英語と死闘を繰り広げている両親を見て育ったから、というのは大きいかもしれません。英語ができないと、大人になったらあんな大変なことになるぞ、という・・・(ー"ー)それにしても、一つ大きな疑問が。暗記が得意な文系人間の件の息子くんが英語のリスニングと長文読解で苦しんでいるのに、なぜ、暗記が苦手な理系人間のうちのムスコが、リスニングと長文読解だけは、どんなテストを受けてもほぼパーフェクト、だったのか?(ちなみに、英作文と文法問題はボロボロでしたが)ムスコ本人は、「文章の内容が国語みたく込み入ってないから、選択肢の消去法で答えがわかっちゃうよ」と言っていたことがありました。オット曰く、「英語はわかるのか~。日本語での会話の聞き取り解釈は間違ってるのにな」って。おいおい。それにしても、英語が苦手になる原因がそんなところにあるのか、と、一つ大きな勉強になったできごとでした。ひょっとしたら、そういう子、多いのかな・・・?(おわり)
February 28, 2013
コメント(0)
どうも、単語を覚える、とか、文法事項を覚えるとかいう個々の作業は十分にできていたのですが、それを何のために覚えているのか、がわかっていなかったようです。で、単語のスペルと実際の発音が結びつかなくて聞き取れない、といっていたので「普段、リスニングはどれくらいやってる?」と聞いてみたら、「いえ、やってません。単語集とか参考書についているCDは捨てちゃいました」と。ちなみに音読は?と聞いてみたら・・・「全く」え???そ、それは聞き取れないよね・・・。要するに、英語はコミュニケーションのツールであるという点がわかっていなかったようなのです。本人、「そっか、木を見て森を見ず、だったんですね」と言っていましたがまさにその通りで。細かいルール事項はとにかく暗記で頭にたたき込んでいたのに、その使い方を勉強してこなかったのです。ちょっと驚きました。そんなところで躓いてしまっていたのか、と。逆に、そこで躓いていたのに、模試やセンター試験のリスニングで3分の1は得点できていたり、長文読解もそこそこ解いていたり、ってのは、すごいな、と。で、今後の勉強の方針をどうしたものか・・・と考えたのですが。受験を意識した勉強を続けるのか、実用英語を意識した勉強にチェンジすべきなのか、微妙な時期で。ただ、万一、受験勉強の生活が続くことになるようだったら、とりあえず、今持っている大学入試の過去問の中から(十数年分持っているというので)、英語リスニングの部分だけを、聞いて、解答に記載されている英文を見ながら一緒に発音して、一人で音読して、それを自力で日本語に訳して、解答と付き合わせながら、文法事項や単語の意味を確認して、聞き取れなかったのはどこだったのかを解析する、という作業をやってみたらどうだろう?と提案してみました。そして、せっかく学校で使ってきた文法の参考書があるのだからそれを元に、文法事項もしっかり復習してみたら?とも。何に手をつけていいのかわからない、という状況は、少なくともよい方向に解決できるのではないかと思い・・・。春から大学生活を始める場合に備えては、多読や、社会人のための英語学習コースなどを紹介しました。でも・・・。彼が抱えている本当の英語の壁は、中学3年間、英語に真面目に向き合わなかったから、基礎がすっぽり抜けてしまったのではないか?という、大きな不安感のような気がしました。本当は、センター試験や最難関大学の問題に取り組めるくらいなのだから、とっくの昔に基礎は克服してしまっているのです(リスニング以外)。あとちょっと、のところまで十分に来ているから、あとちょっと、を乗り越えるための自信をつければいいだけのような気がして。だから、大学に合格しても、過去問を振り返って、何らかの形で、「やれば上達するじゃん」という実感を得てほしいなぁと思ったんですけど・・・何だか、私は役に立ったんだろうか?と、またしても後悔の念がよぎる思いです・・・。(も一つ続く)
February 28, 2013
コメント(2)
久しぶりにお会いしたその息子くん、本当にりっぱに成長されていて、自分で、私に話を聞きたいと連絡をくれ、自分で私の訪問を迎え入れてくれました。社会性は100点満点。どうやったらこんなにりっぱに育てられるのだろう?それに比べてうちのムスコは・・・(以下略)。でも、数年前お話をしたとき以降の学校の勉強はどうだった?とか、大学入試の首尾はどうだった?とか、いろいろ話を聞いていくうちに、こと英語に関しては芳しくない感じが伝わってきました。もともと、最難関大学を狙って受験勉強に取り組んでいたので、英語ができない、といっても、かなり高いレベルでの悩みではあるのですが、それにしても、高1からは学校指定の単語集を10周繰り返したり、文法の解説書も同じくらい繰り返したりと、相当頑張ってきた様子がうかがえたのにそれに比べて、現状の出来具合があまりにもちぐはぐで、最初、私には、何をアドバイスしてあげたらいいのか、さっぱり見当がつきませんでした。で、2時間くらいいろいろ話し込んだところで、ようやく、問題点が見えてきたのです。彼が一番気にしていたのが、リスニングで点数が稼げない、ということで、次いで、長文読解に時間がかかりすぎてしまう、ということ。つらつらと話を聞いていくうちに、リスニングでも長文読解でも、細かいところにこだわりすぎてしまってざっと意味を把握する、ということができていないようでした。それで、私がふっと「英語って、最終的には『自分の言いたいことを相手に伝えられて』『相手の言うことが理解できる』ようになればいいんだよ」と言ったときに、彼はものすごく驚いたような反応を示しました。「ああー、そうか、そうですよねぇ!」え?(また続く)
February 28, 2013
コメント(0)
数年前、知り合いから「うちの子に英語を教えてくれませんか?」と頼まれたことがあります。ムスコの後輩くんにあたる男の子。私には英語を「教える」スキルはないから、とお断りしたのだけど、「だったら、どうやって勉強したらいいのか話だけでも是非」と強く頼まれて、1回だけその男の子とお話ししました。当時、中2くらいだったかな。とても利発な男の子で、中学生なのに大人としっかり会話ができるし、英語以外の教科に関しては全く問題なく、むしろ、優秀で。特に本をたくさん読むお子さんで、記憶ものもむしろ得意、といった、うちのムスコと比較すると、できすぎていてうらやましいくらい、優秀なお子さんなのですが。英語だけができない。本人も「理系に進めば英語なんか必要ないんじゃないか」と考えていて。中1で英検4級を学校受験するのですが、落ちる人はまずいない、といわれているのに、彼は落ちてしまったのだそうで。それをお母さまが心配しての、私への依頼だったようです。当時、そんな事情を一通り聞いて、ああ、この子は英語をやりたくないだけなんだな、と直感しました。能力の問題ではなく、やる気の問題。なので、英語は文系でも理系でも、社会に出ても必要であること、他の教科と違って、本人の地頭に関係なく、取り組む時間に比例して力がつくこと、なんかを、説明しました。で、そのとき思いました。こんなに優秀な子がやる気をなくすような英語の授業って、何なんだろう・・・と。それ以降、うちのムスコも英語の壁にぶち当たって悩んだり、ムスメが同じ中学に入学して、一緒に入学した超優秀な同級生がやはり英語の導入部でつまづいてしまった、という話を聞いたりして、ずっと考え続けていました。そして、私は冒頭の彼に、的を射たアドバイスをしていたのだろうか?と、常に頭の隅から疑問が離れずにいました。そんなこんなの、つい昨夜。りっぱに高校生に成長し、一通り大学入試を終えたたその息子くんから、直接電話をもらったのです。もう一度、英語の勉強法についてアドバイスをいただけませんか?と。(つづく)
February 28, 2013
コメント(0)
さて、↑のタイトルでブログを書き始めて、一つ思い出したことがありました。でも、長くなりそうだったので、前後編に分けてみました(^^;;;)”とくダネ!”の企画が、中学受験しても、結局、その程度?と視聴者に感じさせるような構成で、ちょっとそれはアンフェアではないか?と思ったときに思い出しました。夢の扉+”(TBS日曜午後6時30分~)”人体の臓器や細胞を3DのCGで超リアルに再現!現役研修医が医学界に革命を起こす!科学も医学も可視化する最先端技術”東京大学医学部附属病院 研修医/サイエンスCGクリエーター瀬尾拡史 さん筑波大学附属駒場中高から東大理IIIに進学し、現在は研修医を勤めながら、表題の通り、医学界に革命を起こす3DのCG技術を開発し、実用化に向かっている、というお話でした。もうね、スーパーマンのように何もかも備えている方でした(ルックスはそうでもないのですが・・・(失礼))。中2のときに、NHKの『驚異の小宇宙~人体』を見てCG技術に興味を持ち、東大医学部に入学してから、大学2年生までに必要な単位を入学してから半年で取ってしまって、残った時間でCG専門学校に通ってCG技術を取得。その後、サイエンスCGという分野を極めるために、専門の学部を備えている米国の大学に留学。東大に嘆願書を出して「自分を留学させなかったら東大は後悔する」と啖呵を切って留学を認めさせたというエピソード付き。帰国後、その技術を実用化して社会貢献し、今では”研修医”という立場でありながら、その道では大先輩の医師からも一目置かれる存在に。研修医としても「東大生には珍しく(?)患者さんとのコミュニケーションをちゃんと取れる人気のお医者さん」と先輩医師のお墨付きで。何かこう。中学入試で難関中合格!とか、難関中から東大理IIIへ!という中受親垂涎のキャリアとか、そんなの、なんてちっぽけなの!?と思わせる、華麗なる経歴の方なのですが、行動力の源が、「人の役に立ちたい」という、ただそれだけ、なところが、すごいな~、と思いました。結局、どんなに華麗な経歴であったとしても、こうしたい!という強い思いと行動力がなければ、すべて張り子の虎にすぎないと、痛感させられた番組でした。ま、こんなにいろいろな能力に恵まれている人はそう滅多にいないと思いますが。中学受験の果てに何があるのか?それを決めるのは、結局、本人なのだ、ということは、親として肝に銘じておかなければいけないことだと痛感した次第。
February 7, 2013
コメント(2)
今年の中学受験シーズンもそろそろ終わりですね。7年前にムスコが、昨年はムスメが中学受験し、そんな世界のことは全然知らなかった私だったのに、今やとても身近な世界に。中受を経験したわが子が、とりあえず大学に進学して、さて、あれ(中受)は何だったのか?と考えることもしばし。そんなこのごろ、今朝の情報番組”とくダネ!”(フジ系列)で興味深い企画をやってました。中学受験の先にあったのは?合格者たちの10年後…その真相を直撃!いや~、皮肉感たっぷりのタイトルで、どんな結果が出てくるのだろう?と思いつつ、見てしまったのですが。これまで”とくダネ”が取材してきた、開成、女子学院、桜蔭合格者20人弱の10年後を、アンケート調査した結果でした。アンケートに答えたのは3分の1ほどだったでしょうか(詳細を覚えてなくてスミマセン)。そのうち、取材に応じたのは、開成、女子学院、桜蔭の合格者お一人ずつ。とても興味深かったのは、女子は着実に自分の目指すキャリアに向かって進んでいるのに対して、男子は、紆余曲折の人生が伺えるような結果になったこと。桜蔭卒の女の子は、中学入学当初の目標通り医師の道を進み、女子学院卒の女の子は、中学入学後に目覚めた道を目指して大学に入り、グローバルに活躍する人材になりたいと大手企業に就職を決めたところ。開成卒の男の子は、充実した日々を過ごしていったん文系大学への道を進み、卒業して大手IT企業に就職したものの、違和感を感じてその会社を辞め、今はアルバイト生活。結局、実家の歯科医院を継ぐために、歯科大学に入学し直すのだそうです。その男の子が、「就職してみて初めて、社会を甘く見ていたことに気づいた」というようなことを言っていたのが印象的でした。その他に、取材には応じなかったものの、お母さまからメールをいただいた、ということで紹介された方は、「大学に入学したものの、その後、目的を失ってしまって燃え尽きた状態になってしまった。中学受験の時が一番輝いていたのかもしれない」と。何となく。よく考えてみれば当たり前の結果だよな、という方向にまとめられた企画でした。最高峰の中学とはいえ、毎年、百人単位で卒業生が排出されるわけで。東大なんか、3000人も合格しては、同数の卒業生を排出してますし。最高峰の学校に入学したからといって、輝かしい将来が約束されているわけではなく、これだけ人数がいれば、ピンからキリまでいろいろな人生があるというのは、当たり前。結局は本人が何をしたいのか、というところで人生は決まっていくのだな、と。ここで紹介されたお子さんたちも、今はよくてもこれから人生の山も谷もあるでしょうし、回り道したように見えて、それは必要な回り道だったのでしょうし、一概に、難関中に合格したらバラ色の人生だった、ということではないのでしょうが、これ!と人生の目標が決まったときに、その道に進む底力と実力を潜在的に持っているのかもしれず。サンプル数が少なくて、中学受験のメリット・デメリットを具体的に検証したわけでもなく、「こんな人生もある」という紹介程度になっていて、だからどうだ、と結論を導き出せる企画ではありませんでした。でも。今の季節だから考えさせられる内容だった気もします。
February 7, 2013
コメント(2)
教育の現場での「暴力」はもちろん、体罰という名の「暴力」も絶対に許されてはならないのですが。では。「罰」はなくていいのか?一連の体罰(暴力)問題がTVなどで語られるとき、ここらへんがごっちゃになっちゃってて、見ていてちょっとハラハラすることがあります。桜宮高校の一件に端を発して、オリンピック級の選手にまで暴力による指導が行われていた、と明らかになったわけですが、これは、あくまでも、子どもの失敗に対して、暴力(体罰)で指導したって全く意味がないということ。前にのだめに思う指導のあり方にも書いたのですが、子どもの失敗を暴力で指導しようとしても、それは能力をつぶすことはあれ、伸ばすことはないわけです。ただし。子どもがやってはいけないことをしたとき。つまり、社会的に非とされているルール違反を犯したとき、それを罰しなくていいのか?ときかれたら、そりゃ、叱らなくちゃいけないです。大人の社会にも、法律(社会のルール)を犯せば刑罰で罰せられるわけですから。それが、ルール違反への抑止力にもなっているわけです。ところが、今、おそらく、子どもを取り巻く社会の中で、子どもやその家族の意識の中で、ここらへんが曖昧になっている恐れがあります。たとえば、教室の中に、授業を妨害する子どもがいるとします。先生は当然、その子を叱ります。何度言っても聞かなければ、相当激しく叱ります。すると、その子は家に帰って・・・「先生が自分にこんなひどいことを言った。」と親に訴え、それを聞いた親は「それは言葉の暴力だ!」と学校にクレーム。体罰が、暴力が、と世間が大騒ぎな今、ことを大きくしたくない学校と先生は親に頭を下げざるを得なくなる。そうなると、先生もややこしいことを招くのもめんどうなので、多少子どもが教室で騒いでいても、注意しなくなる・・・。一方で、悪いことは悪い、と、けじめをつけて厳しく指導できない先生は、生徒から信頼されなくなる。そうなると、とりたてて問題を起こすような性格ではない子どもまで、先生に反感を持ち、指導に従わなくなり、締め付けがきかなくなって、学級崩壊・・・。実はこれ、ムスメが高学年の時に同学年の他クラスで起きたことでした。そういう事態を引き起こす原因をつくるような誤りを犯したのが、そもそもこの学年を受け持った担任の先生方だったので、仕方がないといえば仕方がないのですが。今、大阪市教育委員会も全柔連もJOCも、起きてしまった重大事案をなぁなぁですまそうとして、大きな批判に晒される結果となってしまいました。しかも、みんながお互いに責任のなすり合いをし始めて、誰も大人のけじめを見せていません。それを子どもたちは見ています。そうか、大人ってあんなにぐだぐだなんだ、ということが、子どもたちにもわかってしまいました。これからは、大人は子どもに厳しく当たってはいけないんだ、と勘違いする状況を許してしまいました。大人の権威は幻だ、と世間に知らしめてしまいました。暴力に苦しめられてきた子どもたちがいる一方で、大人をなめてかかって手に負えない子どもがいることも事実です。そういう子どもたちを、今、大人はどう律していくのか?罰があるかもしれない・・・という抑止力が、実はないんだよ、と子どもたちにさらけ出してしまった今、やっちゃいけないことをやったら、厳しい罰が待ってるんだよということを、子どもたちにどう示していくのか?ここらへんをはっきりさせないと、今後、教育現場はどんどん混乱して、けじめのわからない子どもたちが量産されていくことになると思います。
February 5, 2013
コメント(0)
ここのところ、暴力指導に関する報道が後を絶たない状態で、とうとう、日本の国家レベルでスポーツ指導の見直しを、なんてレベルにまで話が広がっちゃったわけですが。そんな報道を見ていて、ふと思い出しました。”のだめ”のことを。スポーツじゃないですけど(^^;;;)のだめって、よく考えてみたら、暴力による指導でつぶされた才能の再生の物語だったんだなぁ、とふと気づいたのです。のだめが、世界に通じる天才的な才能を持っているのに、ピアニストとしてのキャリアのスタートが大幅に遅れた原因は、幼少期にピアノの指導を受けた教師による体罰(暴力)でした。それがトラウマとなって、のだめはピアノに真剣に取り組むことができなくなってしまった。(で、ピアニストとしてのキャリアのスタートが遅れたせいで、後々、のだめは国外でそのハンデに苦しむことになります)でも、そんなのだめを、ピアノに引き戻したのは白馬の王子さま(千秋)でしたが、実は、のだめをプロのピアニストの世界にひきもどした直接的なきっかけをつくったのは、他でもない、音大の暴力講師”ハリセン”でした。ハリセンによる”体罰”でピアノ学科の優秀な生徒を育ててきたハリセンが、のだめの才能を開花させたいと心から願い、誇りを持って(^^;)使ってきたハリセンを封印して、のだめの好物でのだめをおびき寄せるというプライドをかなぐり捨てた努力までして、のだめの指導に徹した結果、のだめがコンクールでパリのコンセルヴァトワールの教授の目にとまるきっかけをつくることになりました。体罰(暴力)を捨てて、心から学生本人の成長を願って寄り添った結果、のだめが世界に羽ばたくきっかけを作ったわけですよね。でも、結局、のだめの才能が伸びていくのに、体罰や千秋の愛や叱咤激励といった外的要因は、実はさほど重要ではなくて、結局、のだめ自身の心の中から湧いてくる「ピアノを演奏したい」という気持ちしか彼女が前へ進むモチベーションにはなりえなかった。子どもたちの才能を伸ばすために指導者ができることは、ただひたすら、本人の意欲が自発的に湧き出てくる手助けをしながら待つこと、そして、湧いてきた意欲に応え、成長を促す負荷を上手く与えること、それに尽きるのだと。それをしようとしていたのが、コンセルヴァトワールのオクレール先生だったわけですね(で、その邪魔をしたのがミルヒー(^^;;;))最終回の終わり方が今ひとつもやもや~~~っとした感じだったのが、ちょっと残念でしたが。この漫画、のだめと千秋の関係にドキドキワクワクしたり、音大生の実態がおもしろかったり(ホントかどうかはわかりませんが(^^;))クラッシックブームの火付け役となったりして、そちらの方ばかりに気を取られていましたが、今、読み直すと、日本の教育現場への問題提起が通奏低音となっているのかも、と何か深いものを感じます・・・。ただ、あくまでも、二ノ宮知子先生にその意図があったかどうかはわかりませんけどね・・・(^^;;;)
February 1, 2013
コメント(2)
なんで、前のエントリーのような不安を漠然と感じるようになったのか・・・つらつら思い返してみるに。ああ、ムスメの小学校最後の1年間の経験が元になっているのか、と思い当たりました。小6の5月に起きたあの事件。ムスメは何も悪くなかったのに、リーダーだからといってみんなの前で見せしめに叱責された、という・・・。しかも、そのリーダー役も、本人は嫌がっていたのに、担任に無理矢理背負わされてしまったといういわく付きで。学校の先生って、長年勤めていくうちに、あんなにも独善的になってしまうものなのか、と思い知らされました。あのとき、ムスメは自分が特に何をしたわけでもないのに、「自分が悪かった」といって泣いていました。体罰こそなかったのですが、言葉の暴力によってムスメは判断力を奪われていました。素直で物わかりのいい子ほど、そうなってしまうのです・・・。そして、私は、リーダー役から逃げようとすることなく責任を全うしようと頑張っていたムスメを、どうやって先生の支配から守っていいのか、わかりませんでした。思い返してみれば、小4の時は、恐怖で子どもたちを支配する担任だったし、小5の時は、生徒が自分の期待通りに動いてくれなかったとへそを曲げていじける担任だったし、小6は↑のような担任で・・・。ムスメが、その先に続く公立中に進学するのを嫌がった、というのは、私が思っていた以上に”当たり前”だったのかもしれません。(ま、だからといって私立だからOKというわけでもありませんが。)ただ、そんな先生ばかりだったかっていったらそんなことはなくて。小3の時の担任の先生は、言葉の勢いはきつかったけど、生徒一人一人の適性を考えてていねいに指導してくれた、本当にいい先生でした。あの先生がいなければ、ムスメは「自分らしさ」を表に出せない子になっていたと思います。そういう先生もいるんですよね・・・。先生にとっても、いろいろな家庭のいろいろな子どもたちをまとめていかなければいけない、というのは、こちらが思っている以上に大変なことなんだろうな、とは思います。時に独善的にならなければならないほど・・・。大変な仕事です、人を導く”教師”という仕事は。でも、事情はどうあれ、大阪の高校での事件のように、生徒の人生を壊すようなことを指導と勘違いしているようであれば、どんなに素晴らしい実績を上げてきたとしても、人を教え導く資格はないといっていいでしょう・・・。
January 12, 2013
コメント(8)
一生懸命が悪いことだとは全く思いません。でも、その一生懸命は、子ども自身の中から湧いてくるものでなければ。その一生懸命を子どもの中から引き出すのが指導者の仕事。脅して力づくで思い通りに動かそうとするなんて、教育じゃない。指導者の力量がないだけです。自分の力量のなさを暴力で補って、さらに足りなくて見せしめに部長を必要以上に殴って、自分の指導力のなさを生徒に転嫁するなんて。大阪の高校生の事件を受けて、情報番組でコメンテーターとして出演されていたある元オリンピック選手の方がこんなようなことをおっしゃっていました。(何かを)好きだから自発的にがんばる子を大人がサポートするという形が好ましいが、日本では、大人に引っ張られて頑張らざるを得ない状況になるケースが多いような気がすると。でも、これは部活だけに限らず、勉強であっても同じことで。学校というのは、子どもが将来、自立して生きていくためのスキルを身につけるところではなかったでしょうか・・・?もちろん、勉強だけしてればいいというものでもなく、勉強と、部活を含めたいろいろな活動にバランスよく取り組んではじめて得られるものなのでは。学校の名誉のため、評判のため、先生の実績のため・・・大人が自分たちの都合のために子どもを振り回して、その子がきちんと自立した大人に成長するとは思えないのです。そこに暴力が介在していないとしても、日本の学校活動の勝利・実績至上主義は、ちょっとおかしな方向に行っていないか?と、不安に思っていたところに起きた、大阪の高校生の不幸な事件でした・・・。一方で、学校や親の名誉のために勉強を強いられて犠牲になっていく子どもたちもいることを、心にとどめておかなければなりません。学校は何のためにあるのか・・・?今一度、大人全員でよく考え直す必要がありそうです。
January 10, 2013
コメント(2)
ムスメの中学の担任の先生、もうすぐ定年という英語の先生なんですが。クラス別の懇談会の席で、中間試験の結果についてお話があったんですが。「小学校の英語教育が始まったので、今年度の入学生の英語には期待していたんですが・・・期待はずれでした」・・・あの小学校の英語の授業に、何を期待されてたのでしょう?っていうか。「逆に、すでに苦手意識を持ってしまっている生徒が増えたような気がします」って。総合学習の二の舞でしょうか(T_T)
June 16, 2012
コメント(4)
まぁ、小学校では中学受験はあんまり歓迎されないもの、と相場は決まっているようですが・・・。小学校の担任の先生の立場になってみれば、そりゃそうだよな~、と思います。6年生は、最高学年として下級生をまとめる学年だし、小学校最後の、わっと盛り上がって終わりたい1年間だし、みんなで団結!とか結束!!とか、いい思い出をいっぱいつくりたい。そういう学年ですからね。それを、塾があるから学校の活動は最小限にしたい、とか、塾で疲れてて学校の勉強に身が入らない子が多くなる、とか。ひどい場合は、塾の宿題が大変だから学校の宿題をやってこない、とか、受験勉強のストレスを学校で発散しちゃう子がいる、とか。学年で盛り上がって、最高の思い出をつくろう~~!っていうのとは対極的な状況になっちゃうわけでそりゃもう、歓迎されないのは当たり前といえば当たり前ですが。でもねぇ・・・受験する子をあからさまに目の敵にして、露骨に子どもに「そんなんなら受験なんてやめたら?」って言っちゃう、ってのも、教育上、どうでしょう・・・?うちのムスメは学校のことについては何も話さないので知らなかったのですが、同級生のお友だちのママさんから今日、そのお友だちが先生にことあるごとにちくちくと嫌みを言われてるらしい、という話を聞いて、びっくりしました。しかも、ごく普通に、というかむしろ真面目に学校活動に取り組んでいるお子さんなのに。ただ、ちょっと字が雑になったり、宿題のやり方が先生の気に入らなかったり、そんなことで、「そんなんなら、受験なんてやめてしまいなさい」と言われてしまうと。そのお子さん、”聞き流す”ということが苦手なお子さんなので、よけいにストレスに感じているようです。内申書が必要な学校を受ける子には、ちょっとしたことで「そんなんじゃ、内申書を書きませんよ」っていったりとかすると・・・。それはないでしょ~・・・。多分、うちのムスメは、へらっと聞き流すことができるので、あまり気にしてないだけだと思うんですが・・・。でも、学校や学年に何の問題があるわけでもないのに、「ボクは絶対に地元中学には行かない」って言い張っているのは、なんとな~く、そういう雰囲気を嫌ってのことなのかな?と思い当たりました。こういう問題って、親はその場を自分の耳目で押さえることができないだけに、どこにどう相談していいのかわからないですよね。幸い、というべきか、うちの地方の受験は3学期が始まる前に終わります。全部終わったら、3学期は小学校最後の思い出をつくるために精一杯がんばれるわけですから・・・先生に受験を応援してほしいとは言いませんが、子どもたちの心を遠ざけてしまうようなことをあえて言うのは、あまり賢いやり方とは思えないんですけどね。なんかもう、ホント、無事に卒業する日まで、がまん、がまん・・・と言い聞かせる毎日です・・・。すべて終わったら、いい思い出になるのかな。
November 15, 2011
コメント(7)
ちょっと冷静に、ちょっとだけ科学的に考えてみればそんなことないよ、ということがわかるはずなのに、どういうわけか日本の教育界に広まってしまうエセ科学ってのが、いろいろあるんですけどね・・・。その中でも、脳科学に関する情報っていうのは子どもの脳の成長と結びつけやすいので、エセ科学に結びつきやすいようです。今、脳科学者が書いたエッセイを読んでるんですけど、ああそいえば、この間もちょっとアヤシイことを言ってた先生がいたよなぁ、と思い出しました。夏休み中に、市内にある私立中高一貫校3校合同の学校説明会というのがあって、ムスメと一緒に参加しました。中堅校2校は校長先生と広報担当の先生で臨む態勢だったのに、うちのムスコの学校は教科担当の先生ただ一人で、おいおい!とつっこみたくなったとか、そんな話は置いておいて。3校のうち、偏差値的には下位に位置するものの、入学後に生徒を鍛えます!というのがウリの学校の校長先生が若いうちに脳を鍛えないと手遅れになってしまう、だから、我が校でお子さんをしっかり鍛えさせて下さい、というような筋の話を、脳科学の話を交えてされたんですが。ええもう、私にとっては「その話はこういう場ではしない方がいいのでは~~~(汗)」というハラハラもんの話だったんですけど。その話の中で、オオカミに育てられた少女の話をされました・・・。インドの山奥で発見された2人の少女、アマラ(8歳)とカマラ(1歳半)の話です。二人ともオオカミに育てられたらしく、言葉を話せず、二足歩行ができず、動物の生肉を食べ、夜目が光る、という特徴が見られた、カマラは発見後すぐに死亡、アマラは17歳まで生きたが、単語を羅列する程度の言語しか習得できなかった、という話。そこで、人間らしさというものを身につけるには”臨界年齢”があり、その年齢を過ぎてしまうと人間らしさも言語も身につけることはできない、という結論に達したという、話です。ところが、この話はその後すぐに検証が行われ、ほとんどインチキだった、と、結論されている話なのです・・・(^^;)日本では、その検証部分の紹介があまり注目されなかったようで、主に教育界を中心に、”臨界年齢”のたとえ話としてこの話が広まってしまったそうな。でも、この話がインチキっぽい、ってのは私でも気が付くことで(インチキらしい、という話も知ってましたが)。っていうか、それとこの中高一貫校の教育方針との関係も、よくわからなかったんですが・・・。学校のPRとして来た場で、校長先生自らが、不勉強をさらすような話をされるのは、非常にマイナス印象でした・・・。面白い入試制度や教育方針で、ちょっといいかな?と思ってたんですが(^^;)でも、子どもってのはそういうショッキングな話は強く記憶に残っちゃうんですよね~・・・。帰りの車の中で、ムスメに「あの、オオカミに育てられた女の子の話って・・・ほんとう?」と聞かれて、返事に困りました。下手に返事をして、学校の名誉を傷つけるわけにもいかず・・・(通学してらっしゃる知り合いもいるので)「う~ん、まぁ、そういう女の子たちがいたことは本当らしいけど、オオカミに育てられたってのは作り話らしいっていう話を聞いたことはある・・・」と、ごにょごにょ答えました。するとムスメ「な~んだ」って(^^;)ちなみに。今、読んでいる本の中に、脳の神経細胞は、若い人も高齢者もそう変わりなく成長するもので、違うのは、体を動かす”元気”と”やる気”を持てるかどうかだというようなことが書いてありました。臨界年齢が存在する能力もあるにはあるそうですが(絶対音感とか)あと、能力の向き不向きも遺伝的に決定されている部分がないことはないそうですが(誰でもオリンピック選手になれるわけではないことからもわかるように)基本、脳を成長させるのはやる気ようです。この本のご紹介は改めて・・・。
September 6, 2011
コメント(2)
この間、ムスメが、「ねぇねぇ、おかあさん、『わーれはうーみのこ~』っていう歌、知ってる?」とたずねてきました。知ってるけど?なんで、そんな古い歌知ってるの?と聞き返してみたら。「音楽の教科書に載ってる」って。へぇぇ~~~。で、音楽の教科書を見せてもらったら、ありました。『われは海の子』尋常小学読本唱歌・・・だそうです・・・ふるっ!で、はたと不思議に思ったのですが、私はどうしてこの歌を知っているのだろう・・・?アラフォー(というのもそろそろずうずうしい年齢だけど)の皆さま、学校で習いました??実は、私は個人的に思い当たる節があって・・・。うちの父が、幼き私に『われは海の子』の替え歌を教えてくれたのです。「わ~れは の~みの子、し~~~らみの子~~~♪」って(爆)。で、ついでにぱらぱらっと音楽の教科書を眺めてみたら。おおお、『箱根八里』が載っている!!知ってますか?『箱根八里』??”箱根八里の半次郎(氷川きよし)”じゃないですよ。はっこねっのやっまはっっ、てっんかっのけんっっ♪(箱根の山は天下の剣函谷關も ものならず・・・)っていう歌。滝廉太郎の作曲です。こちらは明治34年初出の中学唱歌だったそうで・・・実は私、この歌、小学生のときから好きだったんですよ・・・多分小学校で習ったのだと思うのですが(^^;)でも、最近、歌詞がうろ覚えだと言うことに気が付いて、本当に最近、歌詞をググってしまったんです・・・。なんだ、教科書に載ってるじゃん。って、ちょっとびっくり。でも。首都圏にお住いとか、箱根に行ったことがあるような人じゃないと、歌詞が何を意味してるんだか、ちんぷんかんぷんでしょうねぇ・・・特に最近の子どもは(別に最近の子どもじゃなくても(^^;;;))っていうか、私、小学校で歌詞の意味も教えてもらった気がするんですが・・・同い年くらいの皆さま、記憶にあります???そして、ムスメ、国語の教科書の音読が毎日の宿題なのですが、先日、突然、こんなのを読み始めてびっくりしました。「はるはあけぼの、やうやう・・・?しろくなりゆくやまぎは??」違うよ、春はあけぼの、ようよう白くなりゆく山ぎわ、少しあかりて・・・だってばさ。って、なんで小6の国語の教科書に枕草子???そしてつい最近暗唱し始めたのが、これ。独立とは,自分にて自分の身を支配し,他に依りすがる心なきを云う。自から物事の理非を弁別して処置を誤ることなき者は,他人の智恵に依らざる独立なり。自から心身を労して私立の活計を為す者は,他人の財に依らざる独立なり。人々この独立の心なくして,唯他人の力に依りすがらんとのみせば,全国の人は皆依りすがる人のみにて,これを引受る者はなかるべし。『学問のすすめ』の一節だそうです。教科書に載っていたわけではないようなんですが。暗唱して、音読集会でみんなで音読したとか。意味わかる?ってきいたら、「う~~~ん・・・わかんない」だそうで。いいことが書いてあるので、是非、高校を卒業するまでに中身も理解して下さいね~~~。それにしても。うーん・・・6年生でこんなのやったかなぁ~~~?あ、「少年老い易く 学成り難し・・・」ってのは、暗唱した記憶があります。校長先生の趣味だったという記憶しか残ってないんですが・・・。この年齢で覚えたことって、大人になってもけっこう、頭の隅に残っていたりして、○十年後に聞くと、心地よい感じがするから不思議です。それにしても、学校の教科書、日本の古典を取り入れようという意気込みが感じられる、しぶ~~~いチョイスに、ちょっと驚きでした。
July 13, 2011
コメント(6)
そんな授業参観を受けたあと、ベネッセからこんな報告が出ました。<小学校教員を対象とした「第2回小学校英語に関する基本調査(教員調査)」>小学校の外国語活動、必修化前に約 8 割の学校が週1時間実施 ~いっぽうで教材開発や準備の時間不足に課題意識、6 割の教員が負担感~そりゃ、負担でしょ。英語が嫌いだから小学校の先生になった、って人も絶対にいるだろうし(<偏見?)4 年前と比べ、英語活動の中心となる指導者は「外国語指導助手(ALT、AET)」(2006年60.1%→2010年 25.6%)から「学級担任」(28.2%→66.6%)に変わった。最初、言っていたことと現実が、全然違うぢゃん。やるならちゃんと導入しないと。形だけ導入してあとは現場任せなんて、ゆとり教育の二の舞・・・。ゆとり教育を導入した元文科省官僚の某氏が、「日本の先生方は本当に優秀な方々ばかりだから、(英語を)教えられるはずです」みたいなことを言っていたのを思い出した・・・ムカムカする。って、ムカムカしてたら、3年前、ブログに同じ事を書いていたこと、思い出しました。小学校の英語必修化・・・必要あるのかな?でもって、当時心配したとーーーーり、物事は進んでいますね。日本の優秀な先生方は本気で困ってますよ・・・(ー"ー)どうせやるなら、もっと本気で英語を導入しないと。ただの無駄で無害ならば問題ないけど(<なくはないか(^^;))、間違った英語をじゃぱにーずいんぐりっしゅで教えるって・・・有害以外の何者でもないです。やめてほしい。これじゃ始まる前から、ゆとり教育の二の舞になることが目に見えています・・・。
February 16, 2011
コメント(6)
ムスメの小学校で授業参観がありました。英語の授業だったんですが。んーーーーーーーー(ー"ー)ストレスのたまる授業でした。なんか、ムスメの小学校は英語教育のモデル校だったらしく、2011年度の必修化に先立って今年度から英語の授業を週1回受けていたらしいです(<知らなかった・・・)それが。英語を使ったゲームみたいのをやっていたのですが、女の子と男の子のイラストに、自分が色を塗った洋服(Tシャツとかズボンとかスカートとか)を貼り付けて、参観日で来ていた保護者の人たちのところへ行って、その洋服の説明を英語でして、うまくできたらシールを貼ってもらう。そんなゲームだったんですが。"a"がない・・・"the"もない・・・。This is blue T-shirt.とか、This is green cap.とか。き、気持ち悪いんですけど。This is a blue T-shirt.でしょ。This is a green cap.でしょ~~~!違うの?今の英語圏の英語は違うの~??これは英語学習者にとっては有名な本ですが↓日本人の英語 マーク・ピーターセンこの本の冒頭に、英語を母国語とする人たちの「冠詞」の感覚について説明されています。I ate chiken last night. (だったかな?)と、I ate a chiken last night.この二文、たった一文字"a"だけの違いですが、英語を母国語とする人たちの頭の中に浮かぶ映像が全く異なるんだそうです。前者は「私は昨晩、鶏肉を食べました」。ああ、夕食が鶏肉だったのね、というごく当たり前のなごやかな光景ですが。後者は「私は昨晩、(生きている)ニワトリを丸ごと一匹食べました」になり、頭の中に浮かぶ映像は闇夜に紛れてこっそりニワトリ小屋に忍び込み、逃げるニワトリをひっつかまえて、血を口から滴らせながら、ニワトリにかぶりつく・・・。・・・ホラーです・・・ピーターセン先生曰く、日本人にとって冠詞は名詞の前に付くお飾りのようなものだけど、英語を母国語とする人たちにとっては、冠詞がまずあって、その後ろに名詞というアクセサリーが付いている、というもんなんだそうです。英語でまず大事なのは、物の数。その物が何なのかは二の次。そういう感覚だそうで。だから、代名詞も単数と複数で細かく分かれていたりするわけです。私も、仕事がら、a とすべきところを the にしてしまったために大きな誤解が生じたり、文章の意味がつながらなくなったり、単数形と複数形を間違えたせいで文章が理解不能になったり、特許出願書類の翻訳でtheの訳を間違えたために特許庁から「ここ、矛盾してるけど?」と拒絶が出たり、という冷や汗ものの場数を踏んでいるので、冠詞がない!!!というのは、私にとって、大事件。だから、"a"のない英語の授業、めちゃくちゃ、気持ち悪かったです。おそらく、冠詞を導入することになると、文法的な説明が必要になるので、そこは小学生では学習しなくていい、だから冠詞は省く、ということになったのだと推測しますが、冠詞なんて、「門前の小僧習わぬ経を読む」のとおり、正しい英文を聞き慣れていくうちに、あるとき、「あれ、ないとおかしいぞ?」という感覚が身に付くものであって、最初から本物を聞いていないと、あとで冠詞をくっつけましょう~って、そんな無用な遠回りを子どもに強いるなんて、ありえん・・・。ALTの先生も、補助の日本人の先生もいるのに、なぜ、冠詞のない文章を子どもたちに言わせているのか、さっぱりわかりませんでした。しかも、ALTの先生の発言はほとんどなく、ほとんどが担任の先生が日本語で授業を主導。その結果、子どもたちは見事なじゃぱにーずいんぐりっしゅになっておりました。うちのムスメが以前、「ボク、発音がいいってほめられた~」と言っていて、ん??と思っていたのですが。ムスメは公文の英語をちょこっとやっていたのと、私がしつこく発音をなおしたので、確かに、ちょっとはマシな感じですが、それでもきれいとは言い難い発音で。でも、確かに、小学校の他の子たちと比べると、発音、きれいでした。でも、このまま英語との接点が学校の英語の授業だけになったら、ムスメの発音もいずれ、じゃぱにーずいんぐりっしゅになっちゃうでしょう。しかも、子どもたちも授業自体に完全に興味を失っている感じで、発言を求められてもはずかしがっちゃってもじもじしてばかり。授業終了後、お母さん方も、「何あれ??子どもたち、みんな何にも言わないなんて!!」と、怒りを爆発させておりました・・・。私は、もっとALTの先生のきれいな英語を聞きたかったよ・・・(長文なのにさらに続く)
February 16, 2011
コメント(2)
年末に放送された司馬遼太郎原作のスペシャル大河『坂の上の雲』。この小説(ドラマ)の主人公となったのが、近代俳句の祖、正岡子規と、日本の近代陸・海軍の祖、秋山好古・真之兄弟でした。ご縁があって、ムスメの学年の子どもたちが小学校の総合学習で、坂の上の雲とこの3人の登場人物について詳しく調べて新聞などにまとめたのですが、私もその手伝いで、この3人のことをいろいろ知りました。正岡子規は全国規模でそこそこ有名ですし、なかなか面白い人なのですが、近代陸・海軍の礎を築いたというきなくさ~~~く堅苦しいイメージで地元ですらあまり知られていないといわれる(^^;;;)秋山兄弟。実はとっても変人なんですよ~~~~。調べていくうちに、なんかどんどんファンになっていってしまいました。特にお兄さんの好古さんは、陸軍大将にまでなった人なのに、変人エピソードが満載で。大の医者嫌いで、腸チフスにかかっても医者にかからず自力で治したのだけど、その後遺症でハゲてしまった、とか、大の風呂嫌いで、約1年半続いた日露戦争の間、風呂に入ったのは3回だけだった、とか、着物の趣味があったのに、自分が着るものには一切頓着しなくて、襟が垢で真っ黒になった着物をいつまでも着ていた、とか、陸軍大将になっても。「家などは建てない。借家で沢山だ」と風雨のもれるボロ家に住み続けた、とか。風呂嫌いと着物を着たきり、というくだりを知ったころなど、うちの反抗期ムスコが、昨年末、1ヶ月以上風呂に入らず、制服のまま寝起きしてワイシャツも襟袖が真っ黒になるまで着替えなかったので「この子、だいじょぶ・・・?」と真剣に悩んでいた時期だったのですが、好古のエピソードを知って、「な~んだ、うちのムスコは大人物♪」と、納得したりして<<<勘違い!閑話休題。で。そんな好古さんのこんな言葉が、朝日新聞(1月30日)青Beの”磯田道史のこの人、その言葉”というコラムに載っていました。ローマの滅びたるは中堅なくして貧富の懸隔甚だしかりしが故なり。露帝国も然り。ローマ帝国もロシア帝国も、貧富の差が激しく、(国を支える)中堅がいなかったために滅びたという意味だそうです。この好古さん、陸軍大将にまでのぼりつめた御仁なのに、退役後は郷里の愛媛松山で中学(旧制中学;現在の高校)の校長になりました。陸軍大将までやった人が、中学の校長になるというのは当時は異例中の異例だったそうです。でも、なぜ彼がその職を選んだかというと、日本の強みは格差が少なく「中堅」がしっかりしているから。「中学教育は国の中堅人物を養成するもの」だから、自分はその職に従事するということだったとか。中等階級なくては国は亡ぶこと、歴史の示す処アメリカ流に社会の格差を広げる政策をとった現代の変人元総理と、その流れを継いだ後継者たちは、この言葉をどうとらえるでしょう・・・?そして新しい政権は、その流れを断ち切ることができるのでしょうか??近代日本の黎明期、真実を見抜く眼力のある人たちがたくさん輩出された時代でもありました。
February 1, 2010
コメント(2)
ムスメのお友達のお母さんたちといい付き合いをさせていただいているのですが、なにしろ自分が選ぶ人間関係ではないので、お話していて「?」と思うことが多いこのごろ。よそ様の子育てを批判するするつもりはさらさらないのですが、なんだかとても対照的なママさんがお二人いて、会話を通じて、「私はどうして、子どもたちに勉強してほしいと思っているんだろう?」と、ふと思いました。お一人のママさんは、自分が若いとき、勉強したかったのに、「女の子は勉強なんてしなくていい」と言われて勉強させてもらえなかった。だから、我が娘にはぜひ勉強して将来の選択肢を広げてほしいと、手取り足取り娘さんの勉強の面倒を見ているママさん。娘さんが小学生の時には、夏休みを通じて1冊の本を読み込み、じっくり感想文を書かせるということを毎年繰り返し、漢字の練習も、単に繰り返し書かせるだけでなく熟語、文章などいろいろなアプローチで練習させ、英語も小学生のときからラジオ英語をきちんと聞かせてきたとおっしゃる。公文も4年生のときに一日何十枚もこなして、1年間で6年生教材まで終了しましたと。6年生の1年間だけ進学塾に通い、中学入試に合格。今はうちのムスコと同じ学校に通っています。勉強の経過がわかるように、ノートや作文などを保存してあり、なにくれとなく、「うちの子はこういう勉強をしてきたのよ。」と、ご教授くださるのですが・・・現在は、親が呼び出しを受けるほど成績が低迷していると・・・。作文を書いても、すらすらと心のこもっていない作り話を書き、漢字テストは、何度家で練習させても合格点をとることができず、英語はまったく文法がわかっておらず、数学もまるでふるわず、とお悩みのご様子。謙遜されているとは思うのですが、真剣に悩んでいらっしゃる様子を見ていたら、なんだかフシギになってきました。それを文字通り受け取るなら、その勉強法は本当に正しかったのか?と思う私はイジワル(^^;;;)?もう一人のママさんも、自分が若いとき、勉強したかったのに、「女の子は勉強なんてしなくていい」と言われて勉強させてもらえなかった、ってところまでは同じなのですが。だから、自分の娘にも期待しない、とおっしゃる。自分もそんなにがんばらずとも何とかなったから、と。何をさせても続けさせるのにものすごい母のパワーがいるし、意に沿わないことをさせようとしてもものすごい抵抗にあうし、何かができないと、くよくようじうじと文句を言い続けるし、とにかく、宿題のドリル1ページをさせるにも、母に相当のパワーがいるらしく、「そんなパワーを我が娘にかけるくらいなら、いっそこのままでいい。だって、高校だって内申点が足りなくてもどこかに入れそうだし、無理して大学にいく必要もないもの」あきらめているわけではないと思うのだけど、そこまで言わなくても、いいところがいっぱいある女の子ちゃんだからママさんも我が娘のいいところをゆっくり伸ばす方向に働きかけてあげたらいいのに・・・と、思わないこともなく。このお二人、お人柄もいいし、取り立てて問題があるママさんでは決してないし、私が上から目線でどうこう言う資格など決してないのですが、なんかあまりにも対照的で(笑)。ただ、後者のママさんが、「勉強なんてできなくてもどうにかなるからいいのよーーー」といっているのを聞いて、私は反論できませんでした。反論して相手を納得させられるほどのものはないなぁ・・・と思いましたでも、私は自分の子どもたちに勉強を好きになってほしいとは思ってます。勉強というか、できないことができるようになる努力、というべきか。学校の勉強だけじゃなくて、習い事でも何でも。優秀な成績である必要は全くないけれど、勉強は好きになってほしいと。だって、自立した人生を送ろうとしたら、人生、常になんらかの勉強を続ければなりませんから。勉強は、努力を続ければ何がしかの実りを得られる、という体験を一番簡単に経験できる方法だから。それに、できなかったことが、自分の力でできるようになるって、とても楽しい体験ですよね。他にもいろいろ理由はあるけれど、勉強なんか必死にしなくても、とおっしゃる人を納得させられるような一言は思いつきません。そうですか、価値観が違うんですね、ってくらいで。みなさんはなぜ、お子さんに勉強してほしいと思ってますか??そもそも、勉強は必要だと思いますか??
January 30, 2009
コメント(8)
子供会主催で公民館で子育て講演会をやるから来てくれる?と、ムスメのお友達のお母さんから声をかけられました。なんでも、学校の生徒指導担当の先生を呼んでお話しする機会を設けるから、学校の不審者対策の話なんかもしてくれると思うからー、ということだったので、仕事の締め切りが差し迫ってたけれど、公民館は近所だし、顔を出すね、とお約束しました。うちのマンションには、学校の不審者対策については不満いっぱいのママさんたちがあと2人いたのですが、お二人ともご都合がつかず。そのうち一人は、「質問したいことがあったら、書いてまとめて先生に渡すので、ぜひ書いて」と依頼があったらしく、不審者対応についての疑問点を文書にまとめて提出していました。で、当日。仕事で不規則な生活がたたったせいか、ここのところ午前中は体調が絶不調でなかなか布団から出られず、やっと布団から這い出した状態で、公民館に向かったわけですが。当日行われたのは、若干35歳の生徒指導担当の先生の、「子育て感」に関するお話のみ。それも、家庭でのしつけこそ教育の基本、最近の親は甘すぎるのではないか、挙句の果てに、中学受験が盛んなこの地域ですが、夜遅くまで勉強させてよいものでしょうか?みたいな、ステレオタイプな話が延々と・・・。35歳に指摘されずとも、ここに参加してくるようなお母さん方には周知のこと。中学受験は、小学校での教育がもっとしっかりしていれば、こんなに盛んにはならんでしょう。先生はお人柄のよさそうな感じのよい方でしたし、生徒をちゃんと見てくださってるな、という安心感はあったものの、いや、私、山積みの仕事をほうっておいて、重い体を引きずりながら、そんな話を聞きに来たんじゃないんですけど・・・(怒)と、だんだん腹が立ってきたのですが。子ども会側の司会進行も、先生と保護者とが話をする時間を設けない、話の後に質疑応答の時間も設けない。最後まで不審者のふの字も防犯のぼの字も出ずにそのまま、会は終わってしまいました。で、私直感しました。あー、何か裏で口裏合わせがあったんだなー、と。私たちを誘ってくれた、ムスメのお友達のママさんも唖然・・・彼女は何も知らなかったようです。「こんな流れになるなんて思ってなかった・・・質問状も渡してるのに・・・」と、私に謝ってくれたのですが、いや、あなたが謝ることじゃないよー、学校側が絶対に悪いよ、と逆に私のほうが申し訳ない気持ちでした。このままじゃぁ気がすまない!一言言わなければ!と、先生のお話について1つ質問が、ときっかけを作って先生に近寄り、ところで先生、防犯対策の件ですが?と口火を切ったが最後、私の口は止まらなくなりました。そして、「先生、同じ市内の小学校と比べても、本校の防犯対策、甘すぎますよ」と、はっきりずばっと、口が滑って(^^;)いってしまいました。先生は、とても丁寧に「わかりました、検討してみます」と言ってはいましたが・・・私の脳裏にデジャブな光景が浮かびました。あの、校長先生の真摯な返答とその返答に裏腹な無視・無理解。ここまできて、私はよーやく、すべてがすとんとふに落ちました。うちの校区には、不審者がいないのねーーーこの間、学校のすぐ裏の店舗に白昼堂々刃物を持った強盗が入って、その犯人は通りをはさんで店の向かいの町に住んでる人だった、なーんて事件があっても、不審者は存在しないんですねーーーー!今までは、何か事情があってこちらと学校の話がすれ違ってしまってるのかと思ってましたが、ここにきてわかりました。学校がおかしい!もうこうなったら、わからずやの子供に物事を言い含めるように、あせらず気長にじっくりと、学校に働きかけますよ、私は!!
November 14, 2008
コメント(4)
(またまた前のエントリーから続く)そもそも、1年間に35時間で、有効な英語教育ができると思っているのが大きな間違い(日本人はなぜ英語が話せないのか)。大人が仕事に必要で、背水の陣で英会話学校に通っても、効果が出るまでどれだけの時間とお金がかかることか・・・そして、その効果の薄いことか(^^;;;)。小5、6の二年間の貴重な70時間、もっと他に有効に使う道はいくらでもあると思うのです。私が敬愛する(?)外資系銀行元支店長で、世界を股にかけて活躍しているカリスマディーラー(でも、今は負けが込んでいるそうですが・・・)藤巻健史氏が、以前、新聞のコラムに「英語より大事なこと」と題して、こんなことを書いてらっしゃいます。『国際経験が豊かな知人に聞いて、なるほどと思ったことがある。「ビジネスで一番頼りになる部下は、英語が出来て仕事も出来る人。次に頼りになるのは英語は出来ないが仕事は出来る人。まー仕様がないかなーと思うのは、英語も仕事も出来ない人。最悪なのは仕事が出来ないのに英語だけ出来る人」最悪の理由は「自信過剰で、仕事の話をぶち壊してくるヤツが多いから」だそうだ。』限られた授業時間数しかないのだったら、中途半端に英語を導入するくらいなら、学ぶべきもっと大切なことが小学生のうちにはあるはず・・・そしてもし本当に本気で国を挙げて日本人の英語力を向上させたいのであれば、お金も時間もかけないようなプランでは百害あって・・・だと思うんですが。以上(^^;;;)相変わらずの長文、すみませんでした~・・・。
April 9, 2008
コメント(10)
(前のエントリーの続き)でも私は、小学校の先生を批判するつもりはさらさらありません(理由は後述しますね)。ただただ、英語を教えるのが、本当に英語教授経験のない担任の先生でいいの?という疑問を感じているのです。ムスメの小学校でのこと。ムスメの小学校は「英語教育重点校」に指定されています。だから、他の小学校よりも多めにALTの先生による授業がありました(重点校、っていったって、それだけなんですけど(^^;;;))。さて、そんな小学校でムスメのクラスの懇談会がありました。10人ほど参加した保護者の中に、お一人、英語を母国語とするお父さんがいらっしゃいました。日本語を聞く方はなんとか理解できるようですが、話す方はできないようでした。クラス最後の懇談会だったので、保護者一人一人が1年間の感想を述べることになったのですが、そのお父さんは「英語でいいですか?」と確認を取られました。その場では、先生を含めて異議を唱える方はいらっしゃいませんでした。そこで、二言ほど、英語でお子さんについての感想を述べられました。ゆっくりときれいな発音で、「○○は一年間でとても成長しました。算数がよくできるようになりました」という内容でした。が・・・その場がしーんとしたあとで、先生がこうおっしゃったのです。「あの・・・実はこの学校は『英語教育重点校』に指定されているので、こういうことを言うのは心苦しいんですが・・・今、なんておっしゃったのかさっぱりわかりませんでした。どなたか、通訳していただけませんか・・・?」・・・?あれ?最初、誰も何も言わなかったよねぇ・・・?その場がしーんと静まりかえってしまったので、差し出がましいと思いつつ、理解しちゃったから知らんぷりできないよねー、と、私が通訳を買って出ました・・・(でも、たった二言ですからねぇ)でも、その後で、先生からムスメの連絡帳にわざわざお礼の言葉をいただき、先生、本当に本当に困ってたんだ・・・ということがわかりました。全員が全員、そういう先生ばかりではないでしょうし、優秀な先生がいらっしゃる学校もあることでしょう。でも、大半の先生の心の内は、こんなもんなんじゃないでしょうか・・・英語と聞いただけで、「困った・・・」と。ムスコとムスメがお世話になった小学校合計3校を見てきて、つくづく感じているのですが、度重なる教育制度の改変で、先生方はすっかり疲れ切っています。先生の年齢が上がるほど、そういう傾向が見られる気がします。そして、それを「やる気がない先生は去れ!」と単純に批判することは私にはできません。国の方針転換に振り回され、本当に大変なんだと思います。その上、この期に及んで英語の勉強をしろと。英語活動導入について、以前、文科省の上の方がこう断言してました。「日本の先生方は本当に優秀な方々ばかりだから、(英語を)教えられるはずです」と。その根拠はどこに?っていうか、現場の声も聞かないで「できるはず」の精神論で国策を推し進めていこうとする体質は、旧日本軍と変わらなくない???(まだ長くなったので、もひとつ続く)
April 9, 2008
コメント(2)
あれは忘れもしない、先週の金曜日の朝。ゆっくり布団に入っていたら、こんなニュースが耳に飛び込んできました。小5、6年生で英語活動必修化年間35時間、合計70時間を費やすえええーーー!!!っと飛び起きたら、めまいを起こしたんですよ。そーだわ、あのニュースのせいだわっっ!・・・という話はさておき。頭がもうろうとしていて、ニュースを詳しく聞けなかったのですが、あとで、ものぐさ父さんのブログで、そのニュースの内容を確認することができました。小学校の英語活動の概要発表英語の早期教育については諸手をあげて賛成というわけではありませんが、小さい頃から英語に親しむことにはやぶさかではありません。最近は、小学生のうちから英語を始めたムスコ(あくまでも、自発的に)を見ていて、少し先取りして高学年くらいから勉強させておくことは悪いことじゃないと思うようにもなりました。ただし今の小学校の現状で、英語を必修化するのには大反対!です。なぜなら、国の英語必修化プランには、十分な人的予算が付いていないからです。お金をかけないで見返りを期待しようなんてものぐさ父さんもブログに書かれていましたが、英語を教えたことがない現役の小学校教師が英語も教えることになります。ところが、小学校の先生は、英語を教えたことがない、どころじゃなくて、おそらく、学生時代以来、英語に触れる機会すらなかった方々。ほとんどの先生方が「私には英語は関係ないわ」と思ってきたのではないかと思います。でも、新たに英語専科の先生を導入する、という話は、とんと聞こえてきません。実は、小学校の先生の英語レベルについて、えっ?と思うような経験を何度かしています。(長くなっちゃったので続く・・・)
April 9, 2008
コメント(4)
知り合いのつてで、大学を卒業する学生さんが書いた英語の論文の添削を頼まれました。でも、その英文を見て・・・すみませんが、もう一度英文に書き直していただくか、日本語で書いたものをつけてご依頼いただけませんか?とお返しするハメになってしまいました。なぜなら・・・英文として成り立ってないのです。文章の中に、動詞がない・・・とか(汗)でも、もっと根本的な問題がありました。この論文を通して、自分が何を訴えたいのか、まるきり見えてこないのです。おそらく、日本語でもきちんと文章を書けないのではないか。そういう印象でした。つたない英文でも、たとえ動詞が抜けていたとしても、論理展開の筋を通そうという努力の跡だけでも見られれば、何が言いたいのかがわかるので添削のしようもあるのですが、なんとなーく、「先生に書けと言われたから書きました」という雰囲気がありあり・・・話の筋がよくわからないので、添削できないのです。依頼してくれた人に、「この学生さんが、特別、こういう出来の学生さんなんですよねぇ」と聞いてみたら、意外な答えが。「こういう(動詞が抜けた)英文を書く学生が増えてるんですよ・・・」と。日本語の文章についても、私が感じたとおり、まともに書けない人が増えてきていると。一応、入学試験を突破してふるい分けされ、4年間大学で学んだ人たち・・・のはずなのに。『日本人は何年間も学校で英語を習っているのに、読み書きはできても話すことができない』というかけ声のもと、英語の教育改革が行われてきました。そして、会話重視の教育方針をとってきた結果・・・話すどころか、読み書きすらできない学生が大量生産されている・・・ということなんですかねぇ。それよりも危機感を感じるのは、日本語ですら、まともな論理展開のある文章が書けないという方。母国語での思考もおぼつかない・・・ってことで。母国語すらできず・・・では、日本でなら何とかなぁなぁで暮らせても、海外では絶対に通用しない。どうなってるんだろう?学校の教育って・・・?・・・って、他人事のように言っている余裕は自分にもないことに気づく。大丈夫か?うちの子供たち・・・??
March 22, 2008
コメント(8)
「マイナスイオン水」話であきれていたところ・・・ムスメがスイミングスクールからもらってきたお手紙の中にこんなことが書いてありました。「お父さん、お母さんへ耳寄りなお話です。いつまでも元気でいられる『健康寿命』を・・・マイナス水素イオンを摂取して、体内に若々しさと健康を取り入れませんか?(詳しくはフロントまで)」・・・なんだ??マイナス水素イオンって?????水素原子は+1の電荷を持つ原子核のまわりを-1の電荷をもつ電子が一個回っているだけだから、電子が一個取れてH+つまり、水素のプラスイオンにはなるけれど・・・水素をマイナスイオンにするには、どっかから電子をいっこもって来て水素原子にくっつけなければならず・・・それって、イメージとしてはプラスチックに磁石をつけようとするに等しいこと。(イメージですよ、あくまで)あり得ない(汗)なんかこう・・・やたら、「イオン」という言葉ににマイナスをつければ健康的!みたいなイメージが広がっちゃってる感じが否めないんですが。なんでそんなことになっちゃったんだろ?と考えて、ふと新聞を見たら、こんな話が。40年ぶり小中授業増 理数09年から 指導要領改訂案 (朝日新聞)なんと、今、中学ではイオンも周期表も習ってないのかー。教育の梶を切る日本のリーダーたちがイオンなんてどーでもいーよねーなんていう意識でいるから、イオン商法がまかり通っちゃうような世の中になっちゃったワケね。科学技術立国が聞いてあきれるよ・・・。
February 17, 2008
コメント(7)
この間、父のことをきっかけに実家に戻ったとき、本当に久しぶりに、母、弟、私の3人でじっくり時間を過ごしました。なにしろ、弟は親が元気なときには実家によりつかなかったもんだから、私も会ったのは久しぶり。夜、なんとなく思い出話になったとき、何がきっかけだったか、母が弟に向かって「あんた、中学では先生に徹底的にやられてたもんねー」という話になりました。弟は、性格がうちのムスコとよく似ています。気持ち悪いくらい。理数系の学力がダントツに秀でているのだけど、文系がぜんぜんダメで、学力がすごくアンバランス。性格がマジメで言うことは立派なのだけど行動が伴わない。言うだけ言って、相手にやり返されるとすぐ泣く。精神年齢が幼い・・・。もう二十数年も前のことだから、先生たちにはそういう傾向の子もいる、という認識がなかったのでしょう。生意気なくせに弱虫、というレッテルを貼られ、そんなヤツが勉強できるはずがない、と思われ、学力も正当に評価してもらえなかったようです。小学校の時からそういう傾向があって、先生に小馬鹿にされていたらしいのですが、その情報が持ち上がりで中学にも伝わり、先入観が消えないままの中学校生活だったようです。一度、弟の胸にはっきりと蹴られたアザが残っていたことがありました。母がそれを見つけて問いただすと、友だちとケンカをしてやられたというのです。母は早速担任の先生にそのことを報告すると、先生はしらっとこう言ったそうです。「そのケンカは私の監視の元でやらせました」と。体も大きく体力のある、成績のよい男子生徒とのケンカだったそうです。担任の先生にとっては、正義の味方に生意気なヤツ(弟)をこらしめてもらった、という感覚だったようです。今だったら、マスコミ沙汰・・・。そんな中学生活だったのですが、小学校と違って、中学でそれだと高校受験の時に困ったことが起きます。内申点がもらえないのです。今でもその名残が残っているようですが、当時、都立高校でトップクラスを狙おうとしたら、試験本番の成績がいくらよくても内申がないと合格しませんでした。なのに、弟が受けると宣言したのは、学区でトップの高校でした。母によると、大半の先生たちから非難轟々だったようです。ある先生などは、隣のクラスの担任なのに、面談で学校に来ていた母に「○○にはムリですよ、何を考えてるんですか」と、わざわざ忠告に来てくれたとか(<余計なお世話じゃ、と母は思ったそうですが)。ところが、中3のときの担任の先生だけが、弟のことを理解してくれたのでした。体に障害のある、定年間近の先生だったそうです。自分が虐げられてきた経験があるだけに、弟の気持ちをよく汲んでくれたそうです。こういう傾向の子もいるけど、悪い子じゃぁないんだ、と。内申点は相変わらずのままで、普通だったら担任から志望校変更を告げられるところ、この先生は弟にそのまま、志望校に挑戦させてくれたそうです。そして、弟は試験の当日点でほぼ満点を取り、ギリギリラインで合格しました。弟を蹴った生徒は、内申も十二分で、通っていた塾の模試でも合格確実ラインをとっていたのに、不合格だったそうです。「僕は内申がなかったから必死だったけどさ、あいつらは内申がよかったからその上にあぐらかいてたんだよな」と弟。その高校は、自由放任(?)を校風とする、変わり者が集まる学校でした。友だちの間では「変わってるね」がほめ言葉で、弟の性格にはぴったり。実に充実した3年間を送ったようです。(充実しすぎて、大学受験でかなり苦戦しましたが)。実は、弟は父の後輩でもあり、私の後輩でもあります(まさに変わり者の巣窟・・・)「まぁ、ドラマみたいな中学時代だったんだねぇ・・・」と、感心する私に、弟はひと言。「いやー、それがぜんぜん覚えてないんだ、一つも」恐れ入りました・・・。うちのムスコが中学受験をする、と言いだしたとき、私がそれに賛同したのは、弟のこんな経験を、当時、雰囲気として感じていたからかもしれません。勉強だけしかできない生徒に、中学の先生はことさら冷たくあたる、と。恐いのは、弟を差別した先生の中には、他の生徒や保護者の評判がとてもよい人たちが少なからずいたということ。昨年、先生からのイジメによる自殺が立て続けに起きましたが、きっとこういう構図があったんでしょうね・・・。
February 1, 2007
コメント(0)
前の話の続きです。いかに英語の学習時間が足りないか、具体的な話は本を読んでいただいた方が誤解がないと思いますが、私も英語に携わるものとして常日頃から実感してますが、とにかく、圧倒的に足りないです。よく、「日本人は中高6年間(大学も入れれば10年間)も英語を学習しているのに、話せるようにならない」と言われますが、これはとんでもない大間違いです。6年間のうち、何時間、英語学習にあてているでしょう?中身が足りなさすぎるのです。週1回、英会話教室に通ったとしても、かなり長期間続けないと焼け石に水程度だそうです。そして、英語教育カリキュラムの順番のほうですが。一般に日本では、昔から文法規則(be動詞(単複のbe動詞の変化)、一般動詞(同じく)・・・など)を一定の決まった順番で教えられていますが、世界的に英語を第2言語として習得する人たちは、教えられた文法規則を教えられた順番に習得するわけではないのだそうです。ここで笑ってしまったのが、三単現sのはなし。三単現sというのは、実は英語学習のかなり遅い時期に習得されるもので、英語ビギナーがいきなり覚えられるものではないのだそうです。さらに、代名詞(he/she/it)では三単現sをつけると習得した人でも、それが一般名詞になると、とたんにsが落ちるのだそうで(笑)。はい、うちの息子に全く同じ現象が起きました(苦笑)。そういう人でも、十分な英語接触時間を経過すると、自然に文法的な間違いが直っていくのだそうです。つまりいいかえると、「文法的に間違った英語を使う段階」を経ないと、「文法的に正しい英語」が身に付かないのだそうです。言語習得には、一見ムダに見える時間が必要なのだと。だから、いくら熱心に文法学習をしても、ある程度の長時間をかけて、間違いを繰り返さない限り、英語が話せるようにはならない。いいかえると、日本の学校でどんなに学校英語の成績がよかったとしても、「話せる」ようにはならないのだそうです。・・・ありゃまぁ・・・です。日本にいながらにして英語を習得した方は、たいへんな努力家、ということになると思います。どうやって習得したのか、わが子たちのために私の方がおうかがいしたい・・・。え?私?私は努力家ではないので、ちょっとずるしてます(爆)。・・・まだ ご紹介した本を読み終わってないのですが、ここまで読んでみて、なんだ~、日本の学校で英語教育を受ける限り、英語を話せるようになるわけがないんだ、と、納得。中学で学校英語を習い始めた子供たちが混乱し始めるのもムリからぬことなのです。いま、「文法中心の学習では話せるようにならない」というところまで読み終わって、次は「では会話中心ではどうなのか?」というところにさしかかります。筆者の論調から行くと、会話中心の学習をするにせよ、日本の学校での英語への接触時間は短すぎて話にならん、という結論なのだとは思います。また続きをご報告する・・・かもしれません。
July 14, 2006
コメント(3)
ムスコの英語ドロップアウト騒ぎで、あらためて日本の英語教育のカリキュラムに興味を持った私。ムスコがうっかりしてしまうミスが、実は英語ビギナーにありがちなミスだったと知って、さらに、ブログでも「中1で英語が・・・」とおっしゃる方が少なからずいらっしゃることに気づいて、中学で子供たちが英語につまづくことが多いのは、子ども自身の努力不足以外の原因が何かあるんじゃなかろうか・・・?そう思っていたところに、大変おもしろい本を見つけました。英語を学ぶ人・教える人のために~「話せる」のメカニズムまだ途中までしか読んでないのですが、今までの日本での英語教育の常識をひっくり返すようなことがあって、しかも、それが現実に起きている現象と見事ぴったり一致していて、目から鱗の連続でした。興味のある方は一読を・・・とお勧めしたいところなのですが、ちょっとかための本なので、読みにくいかもしれません。著者は「第2言語習得研究」と呼ばれる分野を専門とする大学の先生です。人は第2言語(日本人の多くにとっては英語ですね)を学ぶときに、どのような発達過程を経て、第2言語を習得するのか、学術的な調査研究の結果に基づいてそのプロセスが説明されています。そして、文科省のプロジェクト「『英語が使える日本人』育成のための行動計画」が掲げる目標を達成するには、二つの大きな誤りを犯しているといいます。授業時間数が圧倒的に足りない なので、日本の教育カリキュラムで学校英語ができるようになるには、塾にたよらざるを得ないと。さらにショッキングだったのは、伝統的な日本の英語教育カリキュラムの教える順番は間違っているというのです。だから、学校英語にたよる限り、塾で足りない学習時間を補っても、受験に役立つ能力は身に付いても話せるようにならないのだそうです。長くなりますので、くわしい話は、つづく、ということで・・・
July 14, 2006
コメント(2)
この間ご紹介した本。勉強できる子のママがしていることといっしょに、実はこんな本も買いました。数学に感動する頭をつくる 栗田哲也 著 (ディスカバー)(楽天さんではお取り扱いがなかったので、タイトルのみで。興味のある方、amazonで検索してみてください)この本は、国際数学オリンピックのメダリストを多数育てた英才教室講師が、算数や数学ができる子たちに共通する特徴を分析して、「数学(算数)ができる」ということはどういうことなのかを、わかりやすく説明しています。「数学力」というものはこの世には存在しない。あるとすれば、発想力、推理力、構想力、記憶力、洞察力・・・などなどの様々な能力が組み合わさって生まれる数感(音感の数学バージョン)。だから、数学ができる頭を育てるには、それぞれの力を適切なタイミングで能力開発してやる必要がある(でも、だから一朝一夕では数学ができるようになんてなりっこない)。でも、実はこの本の著者、ちょっとへそ曲がりかも(失礼!)。冒頭でいきなり「中学受験のための勉強」を否定しています。「中学入試なんてなければ、日本の子どもの論理的能力、洞察力は伸びている」 なんて断言。しかも、「数学がすごくできる人たちの人生を見ていると、あまり幸福ではない人たちもたくさんいます。・・・(中略)・・・それでも数学を子どもさんにやらせたいですか?」 と、まさに教育熱心でまじめな親に対して挑戦的。でも、読んでいくうちに、「中学受験のための勉強の盲点を指摘しているのであって、中学入試自体を否定しているワケじゃない」ことがわかります。さらに、和田秀樹著の本を読んでからこちらを読んだので、一見「対照的な本だなぁ~」と思ったのだけど、最後まで読んでみて、この二人の言わんとしていることが同じであることに気づきました。どちらの本も、「頭のよい人の考え方」を凡人にもわかりやすく説明しています。頭のよいといわれている人が自然にしている考え方を凡人もまねすれば、多少、頭のよい人に近づくことができる、ってな感じ。「数学に感動する~」を読んでみて、「数学ができる」魔法使いのような人たちの頭の中がちょっと理解できたような気になりました。ついでに、数感を育てるための提案がたくさん書いてあるので、これなら私も数学が得意になれるかも、なんてちらっと思ったりもしたのですが、その提案を実践するのはかなりしんどそうだ・・・もう自分を改造するのは間に合いそうにないので、算数好きの息子と数字オンチの娘の数感を育てる方向で参考にしようと思いました(^^;;;)一つ、意外な発見が。両書の著者、和田秀樹氏も栗田哲也氏も「公文式」を推奨していること。とかく、「公文式は考える力の成長を阻む」とか言われて進学塾の先生なんかには評判が悪いのですが、中学受験を推奨する和田氏と、思考力を問われる数学教育を実践している栗田氏が公文式を推奨しているのは、ものすごく意外でした。でも、お二方とも無条件に公文式を奨励しているわけではありませんが。公文式とのおつきあいの仕方を考えあぐねていた私。ちょっぴり進む方向が見えたような気がしました。栗田哲也著の本親と子の算数アドベンチャー子どもに教えたくなる算数
September 21, 2005
コメント(10)
ここのところ、娘がピアノに空手に公文・・・なんて欲張って習い事を始めて、息子も塾通いが本格化したせいか、楽天で習い事やら塾やらの話題を提供してくださっているブログにお邪魔することが多くなりました。すると・・・みなさん、子どもさんの習い事にマジメで本格的で、いい加減ハハの私はびっくらこっくらの連続。うちの子供たちの話を日記にしちゃっていいのか?なんて、時々真剣に悩むくらい。で、そもそもお稽古ごとってなんのためにさせてるんだろう?って考えるようになりました。まぁ、うちの娘も息子もまず第1に「自分がやりたいといった」からだったんですが(じゃなかったら、ずぼらな私は自分からは何も始めなかったと思う・・・)。でも、やる気で始めた習い事でも、子どもの「やる気」なんてそうそう長く続かないし、山もあれば谷もあるし、結局は、日々の練習(勉強)という地味な作業をさせるのに親がぶち切れる毎日が続いたりします。どこまで子どものお尻をたたいてやらせたらいいのか?どのレベルで親は満足すべきなのか・・・?楽天ブログのすごい親御さんたちを見習って、我が子にもそこまでさせようとすると、私の場合、ストレスたまりまくりで児童虐待にまで発展しかねないし・・・。そんな私のうつうつとした疑問にちょっぴり光を与えてくれる新聞のコラムがありました。朝日新聞関西版の日曜日の紙面に掲載されている「朝日21関西スクエア・にっぽんの知恵」というコラム。先週と今週の日曜日、2回連続で「おけいこ」について取り上げてました。音楽教育法「スズキメソード」の開発者・鈴木慎一氏の姪の鈴木裕子さんと林原美術館長・熊倉功夫さん、そして座長の武庫川女子大教授・高田公理さんの座談会を記者がコラムにまとめたもの。全文を読んでいただければ、きっと、ほぉ~って「目から鱗」を感じていただけるのでしょうが、ネット上に公開されていないので、残念ながらみなさんに読んでいただくことができません。で、長いコラムなのですが、すご~くかいつまんで抜粋。スズキメソードの中心にある「おけいこ」に対する基本姿勢「楽器のプロを育てるのが目的ではなく、人間として生きていく力を育てるために音楽を教える」や、「子どもにお稽古を続けさせるには、親自身もいっしょに楽しむことが大切」などもとても参考になったのですが、最後の締めにならぶ、諸氏の言葉と、記事をまとめた記者のひとことが印象的。鈴木さん「教えることに夢中で、育てることが忘れられている」熊倉さん「お稽古ごとでは何かができるまで一年の人、十年かかる人がともに許される。育つのを待つのも大切」高田さん「ただ知識や情報をため込むのではなく、それを血肉化し、腑に落ちるまで続け、やがて自分が変わったなあと実感できるようになる。そこにお稽古ごとの値打ちがある」そして記者のまとめ「すぐに結果を出すことが求められる時代に、時間をかけて技能だけでなく人格を磨く。そんなお稽古ごとが見直されてもいいのではないだろうか」そういえば、そうだ・・・私自身、子どもの頃ピアノを習っていたのですが、当時は箸にも棒にもかからないレベルにしかならなかったのに、最近、練習を再開したら、なんだかいろいろ弾けるようになって楽しくなった。十年どころか苦節三十数年・・・人格が磨かれたかどうかはわからないけど、ピアノを弾いてたらイライラしなくなったし、なにより、無条件に「楽しい」。そうか、私、自分はお稽古ごとに失敗したと思っていたけど、こんなんでもいいんだな。せっかくのご縁で一度始めた習い事。すぐにやめちゃうのはもったいないから、時間をかけて、じっくりゆっくり続けさせればいいんだな。そう思ったら、なんだか気が楽になりました。というわけで、これからも、たいしたレベルではない我が子の習い事(&塾)日記が時々現れますが、ご容赦くださいませ。
September 15, 2005
コメント(8)
東京に帰って、大学時代の友人たちと久しぶりに再開しました。理学部で仲のよかった友達数人が集まったのですが、大学の助手、国の機関の研究員、一流企業の花形研究開発部の研究員。私も大学の内情をちょっと知っていたりして、「日本の大学の教育は・・・」という話になりました。そのとき、大学の助手をやっている友人が強調していたのが、「最近の学生は失敗することができない」失敗を極端に恐れて、やったことがないことにはすぐに「できません」というのだそうです。学生実験で、「自分で考えて○○を完成させなさい」という指示は、もはや機能しない。「教えてもらっていないことはできません」で終わってしまうといいます。電気回路製作の実習で、部品と基盤を渡して回路を作らせようとしても、できない。仕方がないので、部品を2つだけにして「考えてくっつけてごらん」といっても、「わからないからできません」どうしようもないので、「これとこれを基盤のこことここに付けなさい」と指示しなければならないと。その話に呼応した、企業で開発に携わっている友人の話。「うちの部に某一流大学の卒業生が配属になったんだけどね、しばらくしたら会社に出てこなくなっちゃったの。仕方がないから上司が家まで行って事情を聞いてみたら『会社では、やり方を教えてもらっていないことまで「やれ」と言われるけど、僕にはやり方を教えてもらっていないことはできません。』って言ってね。会社辞めちゃった」大学の助手をしている友人は、「学生には口を酸っぱくして『失敗できるうちはいくら失敗してもかまわないんだよ』っていってるんだけどね~。だって、人間って失敗しないと学習しないもの。でも、失敗を怖がっちゃって、挑戦できないのよね」「最近、機械のトラブルが原因の事故が続いてるけど、上の世代が定年退職していったら、事故はどんどん増えると思うよ」と、不気味な予言をしていました。でも、話を聞いていたら、それは当然だとも思われ・・・。大学の教育に携わっていたことのある父にこの話をしたら、「賢いヤツってのはねぇ、記憶力がいいんだよね。だから、ともすると、『自分の記憶にないことはできません』っていうことを言い出すんだ」といってました。息子の中学受験のための勉強を顧みて、ふと、不安を感じました。中学にしろ、高校、大学にしろ、受験のための勉強とは常に「記憶」の勝負。「必ず正解を出す」ことを要求され、そのための訓練をずっと受け続けます。でも、だからこそ「失敗」を恐れる子供たちが増えているのではないか?折しも、失敗を繰り返した末に偉業を成し遂げた青年の自伝プラネタリウムを作りました。と、前例を認めようとしない日本の官僚が、かつて日本がリードを取っていた「ヒトゲノム解読計画構想」をぶっつぶして日本を完全敗北に追い込んだ過程を丹念に追ったノンフィクションゲノム敗北を同時に読んでいるところ。息子の希望や息子を取り巻く環境を考えて選んだ「中学受験」の道ですが、受験のための勉強と、本来の意味での勉強は、多少違っている、という点を、子供たちに伝えなければ、と痛切に思っているところです。(でも、漢字と社会は覚えなくちゃダメ!といっている、ハハ心の矛盾・・・)
August 23, 2005
コメント(8)
以前、教育関係者から漏れ聞こえてきた裏話として週休二日制と学力低下なんていう日記を書いたことがあったのですが、それがそのものずばり、「日経バイオビジネス」という専門誌に特集されていました。いろんなうわさ話は聞いてきたけど、ことを騒ぎ立てておもしろがる週刊誌のたぐいではなく、専門誌が関係者の証言をもとにしてこうはっきりとこの問題を取り上げたのは、ショック でした。この雑誌、私が仕事柄、購読しているものです。バイオの世界では大学との産官学共同研究開発が盛んに行われていて、大学の動向についても敏感に特集が組まれています。その雑誌が、「2002年度の学習指導要領改訂」以降に高校に入学して学習してきた子供たちが、来年度、大学に入ってくることについて、大学側は対策を立てる必要があると、きっぱり明言しました。その根拠となる証言には、大学受験予備校の講師、理科教育に実績のある高校の教師、高校の生物の教科書の執筆経験のある大学教授、そして、すでにこの問題に本格的に取り組みはじめている大学の言葉が引用されています。事態はそこまで来てるのね・・・と感じずにはいられませんでした。雑誌の性格上、主に「理科教育」(特に生物関係)の観点から、学力低下の問題が書かれていますが、予備校関係者曰く「決して頭が悪いというわけではないのに、当然知っているべき事項を知らない」(・・・これは、「日本の最高学府」といわれる大学で助手をしている知り合いからも聞いたことがあります・・・詳しくはまた後ほど・・・)高校の先生曰く「(学習内容の)『なぜ』の部分を削減したので、思考できない」(「自ら考える力」をつけるのが指導要領改訂の目的じゃかなったっけ??)大学の先生曰く「理科は地道に知識を積み上げて先に進む学問。しかしその態度が身に付いていない学生が年々増えている」(断片的な知識があっても、それらを結びつけて考えることができないんだそう・・・論理力の欠如・・・)記事は、『大学側は「補習授業」などというレベルではなく、授業のカリキュラム自体を組み直す必要に迫られている』と結んでいます。さらに、『2010年度には、ゆとり教育を受けてきた若者が新入社員となることを考えると、企業側も対策を立てる時期に来ている』と、予言しています・・・。日本は、「技術立国」だったですよねぇ・・・その根幹を成すはずの人材が育成できない「学習指導要領」って、いったい何なんだ・・・???で、ここで問題。この問題は、中高一貫の私立校へ進学することによって解消するのか??答はそう楽観的でもないようなのです。いわゆる御三家などといわれる私立校からの進学者が多数を占める某「日本の最高学府」といわれる大学でも、学力低下が起きているのだと、その大学で助手をしている知り合いから聞いたことがあります。「なんで~?!」理由を聞いて納得しました。国立大学の入試問題は、あくまでも「学習指導要領」の範囲を超えては行けないのだそうです。だから、どんな有名進学校の学生であっても、国立大学の入試に向けて受験勉強をすると、「学習指導要領」の範囲内でしか勉強しないことになるのだとか。つまり、上述の某大学でも「入学してくる学生の『素質』は落ちていないのだけど、大学で必要な量の知識がそろっていない」状態の学生が多くなっているのだそうです。どんなに素質があっても、知識がそろっていないと先には進めません。勢い、「大学の4年間では自分で研究できるレベルには到達できない」という現象が起きるのだそうです。・・・まぁ、ホリエもんさんのようにすごく賢い人は、そんなの関係なしにビジネスの世界に羽ばたいていかれるのでしょうが、日本のお家芸である「技術」の分野では、人材の育成が遅れているわけです。・・・っていうか、日本の技術を支えてきた「能力は中くらいだけど教育によって力をつけていた」という層の若者は、下手をすると、つぶされちゃうわけです・・・私立の中高一貫校に進学したとしても、ね。じゃぁ、誰が日本の「技術力」を支えるの・・・???それに、ここでは話の筋が違うので詳しくは触れませんが、文系の分野、たとえば法律関係の分野なんかでも日本は国際競争力がないのだそうです。いわゆる先進国では小学生の高学年くらいになると、かなり高度なディベートやディスカッションの訓練が始まり、論理的な思考能力が鍛えられるのだそうです。そこへいくと、日本人はそういう教育を受けていない・・・だからとても不利なんだそうです。日本政府は、子供たちを一体どうしたいっていうのだろう・・・?・・・っていうか、このまま日本に住んでいていいんだろうか??でも、やたらに不安がってても仕方がないので、冒頭の記事の前向きな提案にしたがって、子どもには親として備えられるだけの『対策』をしてあげよう、と思うことにします。
July 15, 2005
コメント(4)
ご近所の中学生のお母さんと立ち話をしました。公立中学の様子が聞きたくて「中学、どう?」と話を振ってみると、「勉強の仕方がわからないっていうのよ~。親が教えた方がいいものなのかしらねぇ~?塾じゃぁ勉強の仕方までは教えてもらえないのかしら」と、逆に聞かれてしまいました。私は即答しました。「そりゃぁ、親が関わってあげないとダメよ。」小学校では勉強の仕方や習慣を身につけさせてくれてない。これはもう、うちの息子を見ているだけでも明らか。「勉強が好き」と公言してはばからないうちの息子でさえ、小5で塾に通い始めてから1年間は、「勉強の仕方」を教え、「習慣」をつけるだけのために費やしました。塾だって、授業についてくる子は引っ張ってくれるけど、ついてこれない子まで引っ張り上げてくれるほどの力があるところはそうそうない。うちの息子の塾だって、国語の成績が落ちた時に相談に行ったら「それはおうちでの勉強のさせ方が悪い」と一蹴されました。塾は利用するものであって頼るものではない、と実感した一件。+++さて・・・知り合いの教育関係者と話をしていて、恐ろしいことを聞きました。学力低下問題で世の中大騒ぎになっているけど、さらに大きく学力が低下した世代ができあがりつつあるのだそうな。それは、「学校の週休二日制導入後世代」だとか。その世代が今年度から高校に入ってきているのだそうです。何が違うのかというと、どうも、学習意欲自体がなくなってきているらしいのです。ゆとり教育で学習内容がばっさり減らされた世代でもあります。この世代は、学力低下を補うために土曜日に補講をやりましょう、なんていっても生徒が集まらない。休みの日になんでそんなめんどくさい~、ってことなのでしょう。義務教育時代はそれが当たり前で過ごしてきたわけだから、当然といえば当然。びっくりしたのは、親の態度も変化してきているということ。高校で学外活動(科学館を見学したり、体験授業をしたり)をしようとすると、「高校は大学への通過点にすぎないのだから、よけいなことはしないでくれ」という親が多いと。でも、知り合いの教育関係者曰く、「勉強もしてなければ、経験の幅も狭くて、そんな状態で大学に来て、何ができるっていうんだろう??」私「でもさぁ、小学校から勉強の仕方を教えてきてないんだもん。高校生になってからどうにかしようと思っても、ムリだよね~」そのと~り!と言ってました。そんな世の中の動きをよそに、我が息子、土曜日も日曜日も塾に行ってます。なんかそれも違うよなぁ、と思ってたけど、こんなご時世で土日も嫌がらずに塾に行っているのは立派かもなぁ、と見直しました。塾でがんばってる小学生のみなさ~ん、イマドキの若者としてはりっぱですよ~!!
June 25, 2005
コメント(7)
「子どもに過剰な期待をかけてないか?」・・・そんなことを考えさせられるインタビュー記事に出会いました。それは、「おかあさんといっしょ」の体操のお兄さんだった佐藤弘道さんのインタビュー記事。「子どもはぜんぜん悪くない。」著者インタビュー「子どもはぜんぜん悪くない。」ずっと、どんな内容の本だろう?って気になっていたのですが、拝見する機会がありませんでした。でも、息子が赤ちゃんのときから今年の3月まで毎日毎日TVで拝見していた方。ちょっと興味があって、このインタビューを読んでみました。「おかあさんといっしょ」での子どもたちとの関わりのエピソードや、ご自分のお子さんたちの話など、読んでいてほほえましかったのですが、2箇所、う~ん・・・と考えさせられる部分がありました。それは、『今のお母さんたちを見ていると、子育てに対してすごく必死になっているという印象を受けます。その結果、子どもの行動を先回りし過ぎているような気がしますね。』という部分と、『僕の中では、「スポーツは危険を伴うもの、運動は身体にいいもの」という分類なんですね。だから、子どもの場合は「スポーツ」ではなく、まずは「運動遊び」。』と前置きした上で、今の子供たちは「運動」の段階を飛び越えて、いきなり「スポーツ」を始めてしまう傾向があると主張される部分。あぁぁぁ~。思い当たるふしぶしの数々・・・。私に抜けているところが多いので、うちの子供たちには、生活面で私が先回りして・・・っていうことはあまりなかったと思うのですが、こと、息子の塾の勉強に関しては、手をかけすぎたかもしれない・・・と思う点が多々あり。親が先回りして手をかけすぎるから、子どもが「指示待ち人間」になってしまう。確かに。。。(でも、子どもの自主性を待っていたら入試に間に合わない~~!!っていう焦りもあるが~!!)2つめの、スポーツと運動の話は、スポーツだけでなくて他にも当てはまると思いました。いわゆる、英才教育全般に。スイミングを始めれば「競技スイマーに」、ピアノを始めれば「将来ピアニストを目指せるほどに」、塾に通い始めれば「より高い偏差値」、そして「よりよい中・高・大学へ」親は年端もいかぬ子に、高く高く望みをかけてしまいます。でも、ひろみちおにいさんはこう言っています。『子どもは楽しくないと身体を動かしませんから。そして、「運動」の楽しさが分かってきたら、だんだんサッカーや野球などの「スポーツ」に興味が出てくる。そういう順序になると思っています。』アメリカが一概によい、というつもりはないのですが、アメリカの一流のプロスポーツプレーヤーは、どんなスポーツでもこなせる、という話をよく聞きます。それは、小さい頃からいろいろなスポーツに慣れ親しんでいて、身体能力自体が高いからだそうです。日本のように小学生から「英才教育でこれ一本」みたいなことはしないと。日本の英才教育熱になんとなく違和感をもっていた私は、なるほど、日本の英才教育はスポーツに限らず全般的に「スポーツ」の前段階の「運動の楽しさ」をすっとばしてるんだ、と納得しました。一つの分野で一流たれ・・・この親の思いは、ともすると、子どもが小さいうちは「それをする楽しみ」を奪ってしまってるんじゃないだろうか?で、ふと思いました。中学受験のための勉強はどうなんだろう??って。今は「順位や偏差値が伸びていくこと」を目標に、そして、それを喜びとして勉強をがんばってるけど、そして、親もそれが子どもにとっての喜びだと信じて子どもの応援を続けてるけど、それって、「学問を学ぶ楽しみ」につながってるんだろうか・・・?今、この時期にそんなことで悩んでも仕方がないのですが、それなりのレベルの中学に入ることで、「学問を学ぶ楽しみ」を発見できる環境を手に入れられると信じて息子の受験勉強をサポートしてますが、そういう環境を手に入れるために、小学生がダブルスクールのような生活をしなければならない、と思ったら、ちょっと切なくなってしまいました。息子にも娘にも、人生を充実させ楽しむためのツールとして学問や習い事を身につけさせてあげたい・・・小学生までは、いろいろなことに挑戦して、その挑戦が「楽しかった」という思い出をつくってあげたい・・・そう思うのですが、「楽しむことができる」レベルってのはどこなのか?その判断が難しくて、ついつい期待をかけすぎてしまうんですね・・・。ついつい視野が狭くなりがちな私。子どもをつぶさないよう、気を付けなければ、と、つくづく思いました。
June 16, 2005
コメント(6)
昨日、歯医者さんの待合室である女性週刊誌を何気なく眺めていると、「有名私立『入ったけれど もう、ついていけない・・・』」という記事が目にとまりました。ああ、またか・・・と思いつつ、ちょっと興味をそそられて読んでみました。すると、表題通り(予想通り)、「中学(小学)受験が過熱気味だが、私立に入ったからといって、すべて上手くいくわけではない」という例が、いくつか書いてありました。○○さんは、本人の意志で中学を受験したにもかかわらず、入学後、学校の校風についていけずに登校拒否を起こし、高校からは公立に転入、とか、××くんは、クラスメートが家柄や両親の職業、贅沢な暮らしぶりを自慢しあって、少しでも劣る子をバカにする雰囲気に飽き飽きして公立校に編入した、とか、私立校は問題が起きたら切り捨てればよい、という体質で、問題解決には動いてくれない、とか・・・。読んでいて、一瞬、うちの息子はだいじょうぶなんだろうか?と不安な気持ちになったのですが、後から、「そんなの、あってあたりまえじゃん」と考え直しました。あぶないあぶない、この手の記事のワナにはまるところだった・・・。その記事にあげられていたのはほんの数例。狭き門とはいえ、全国に私立中高一貫校は2000校(だったか?)くらいはあるそうで、そこに入学する子供の数だって膨大。その中には、入ってみたら学校との相性があわない、と気づく子供だって、当然いるはず。高校受験、大学受験、ひいては就職先だって、「入ってみたら、期待と違っていた」なんてーのはよくあること。結婚だってそんな話がごろごろしてる・・・(爆)それを、ことさらに「お受験だけ」に話を絞り、あたかも「昨今の中学受験ブームは間違っている」的な印象に記事を仕立て上げるのはアンフェアだな、と思いました(ま、女性週刊誌なんて、そういうのをあおり立てるのをおもしろがってるフシもあり・・・)。でも、一つだけなるほどと思う部分が。「親のメンツで学校を選択をしたり、入学後も『何がなんでも卒業を』と子供の選択権を取り上げてはいけない」という点。親が、「学校が嫌ならやめてもいいんだよ」という気持ちのゆとりを持つことで、子供も困難を自分で克服しようとする力を身につける、と。それはそうだ、と思いました。で、高校時代の友人2人を思い出しました。私が通った公立高に、さるカトリック系のお嬢様中高一貫校の中学から来た人が2人いました。一人は同じ小学校出身だったので、少し親しかったりしました。彼女は、私の時代ではまだ珍しかった中学受験をかいくぐり、見事、その女子中高一貫校に入学。でも、「ごきげんよう」とあいさつする、おっとりとした校風になじめなかったとか。こんな学校、通ってられない!と、2人で意気投合し公立高に進学してきたようです。さて、この2人、その後どうなったかといいますと、彼女は英語が大好きで、国際教育で有名な某私大に進学。その後は詳しく聞いていないのですが、希望通り、海外で生活している、という風のうわさを聞きました。もう一人の方は、高校在学中から才媛の誉れ高く、軽々と東大に現役合格。某旧財閥系の商社に総合職として就職するも、そこでも力をもてあまして、さっさと退社して渡米。あちらで起業して、能力主義の米国でのびのびとシゴトを満喫しています。数年前には結婚もした、とか。中高一貫校を中途退学して公立高へ・・・なんて、惨めな末路のような印象ですが、そうじゃない人はそうじゃない。この元気な2人が、親のメンツでかの女子校に通い続けていたら、そっちの方が悲劇だったかもしれません。だいたい、公立高だって、進学校なら成績が悪けりゃ退学させられます(そういう同級生もいました・・・)。中学の段階なら、私立中→公立中の選択はできても、公立中→私立中の選択は難しいし。要は、入学後も「子供の意志がどちらを向いているのか」を大切にしてあげること、それにつきるような気がしました。さてさて、最近、新聞で面白いコラムを見つけました。学校選択の一助になるかもしれませんので、ご紹介します。朝日新聞be on Saturday 2005年5月21日版の「フジマキに聞け」というコラム。卒業式で泣いた母子著者がエリート教育の是非についてたずねられ、回答として、このようなまとめのひと言を書いています。『エリート教育については、肯定も否定もしない。子供の資質ややる気次第で選択できればいいと思う。肝心なのは、子供が卒業後も愛着の持てるような学校を選ぶことだ。』目の前に迫る受験と偏差値ばかりに目をとられているこのごろ。ちょっとだけ、卒業後の子供の姿を想像してみるのもいいかもしれません。さて、実質上、受験校の選択肢のない我が息子。A中への志望理由は「鉄道の線路が近くにあるんだ~♪JRも私鉄も♪」・・・理由の是非はどうあれ、こいつは大丈夫だな・・・
May 31, 2005
コメント(8)
もう世間では一段落してしまったOECD学力調査の結果に、もう少ししがみついてみます・・・。今回の調査で、科学大国であるアメリカが何位だったかご存じですか?実は29ヵ国中24位という成績でした。(この結果についてのアメリカの反応が、PISA結果に対するアメリカの反応で解説されています)。いずれにしろ、24位というのは日本と比べものにならない順位。なぜ、国民の学力がこのレベルなのに、アメリカは世界に冠たる科学大国なのか。答えは簡単です。アメリカは、完成した科学的な頭脳を「輸入」しているからです。ちょっと古いデータしか見あたらなかったので申し訳ないのですが、以下のようなデータがあります。1999年の理工系における博士号取得者の割合米国民 54.9%アジア系以外の留学生 21.4%アジア系の留学生 23.6%National Science Foundation "Science and Engeering Indicators 2002"よりまた、トウモロコシ畑のハイテク都市からというHPに、日本語に訳されたアメリカの大学の教育スタッフの出生地割合という表がのっています。この表から、1997年の段階で、工学系の大学スタッフの36.3%が外国人であることがわかります(理工系全体でも20%)。主に、中国、インドからの留学生、研究者がアメリカに流入しているという話です。何で見たのか忘れてしまったのですが、1,2年前に、博士号取得者の総数に占める留学生の割合が50%を超えた、という記事を見た覚えもあります(裏付けするデータを探したのですが見あたらなかったので、不確かな情報です・・・)。つまり、アメリカの科学水準は「外国人(移民)によって支えられて」いるわけです。私が解説するまでもないことなのですが、アメリカは、多民族国家で貧富の差も大きく、裕福な家庭が集まる地域と、そうでない貧困地域に完全に分かれています。教育に競争性を導入し、完全に自由化した結果、学校も、裕福な家庭が集まる地域ではよりレベルの高い教育が行われ、貧困層ではまともな教育が成り立たない、という、困難を抱えるようになったそうです。だから、トップクラスの学生は高水準の教育を受けられるけど、それは少数。大半の子供たちは質の高い教育を受けられないでいます。その状態でテストを行い、点数を平均した結果が、学力調査の順位が下位、ということになっています。そこで、自国民を1から教育するよりは、国の科学水準を支える頭脳を海外から「買って」来た方が手っ取り早い、という作戦に出ているわけです。日本の高校や大学にもアメリカの大学の「ヘッドハンター」が来ているという話も知りました。まあ、世界の富の何分の1かがアメリカに集中しているといわれていますから、「買い集める」力は十分にあるのでしょう。歴史的に詳しいことは↑の「トウモロコシ畑のハイテク都市から」に解説されていますので、興味のある方は読んでみてください。ここからは非常に偏った私見なのですが・・・。私が学生だった頃(二十?年前・・・)、Look Americaといわんばかりに日本はアメリカに追いつき追い越そうとしていました。アメリカの真似さえすれば、日本も豊かな国になる、と、いろいろな手法をまねしようとしてきました。(よく「欧米では」とヨーロッパもアメリカも一緒くたにしたような言い方がされますが、本当は「米では」であって、「欧」の方を本当に見ていたとは思えません・・・。)その1つが、ゆとり教育だったのではないでしょうか?アメリカのように、週休2日、夏休みも長くとって、放課後は宿題もなし、そんな「ゆとりある暮らし」を子供たちにさせれば、日本の子供たちも優秀になる。お役人さん方は、そんな幻を信じて疑わなかったような気がしてなりません。しかして、その実態は・・・。アメリカの高い科学水準は「輸入された」頭脳によって成り立っているのであって、決して、アメリカ式の教育が育てたものではなかったのでした。アメリカ式の教育の結果、「大学生が分数計算ができない」「基礎的な単語の意味を知らない」という現状が、アメリカではすでに十数年前に起きていたといわれています(アメリカの大学では、そういう学生はばしばし振り落とされます)。日本の対局を行って、OECDの学力調査で高い評価を得た国があります。その1例がオーストラリアです。日本式の「基本をたたき込むスタイル」を、かの国独自のシステムに導入した結果、最近では「自前の」頭脳で科学水準を上げつつあります。(もちろん、アジア諸国からの留学生を積極的に迎えている、という背景もあるにはあります)。一見、のんびりした国に見えて、スポーツの分野では世界レベルの選手を輩出しているのは知られるところです。日本のプロ野球もオーストラリアのアマチュアチームに負けましたよね。実はオーストラリアで野球は、「そんなスポーツは知らない」という人がほとんど。全然人気のないスポーツなのですよ~。ま、スポーツは別の話ですが、「自律を促す」「自分で考える」という従来からの教育方針に、基礎をしっかり身につけさせる日本の教育方式をいつの間にか採り入れていたようで、その結果として、二十?年前は「大学に行く人は変人」なんて言われるほど、大学へ進学する人は少なかったといわれるコアラとカンガルーの国が、上位入りを果たしました。日本の政府は、教育を自由化して競争させる、というアメリカ式を目指しているように見受けられます。でも、国民全体の教育レベルを上げるには、実は日本の昔からの公立による一斉教育システムのほうがあっています。一つ工夫しなければならないのは、激しい詰め込み教育に戻らないようにする点でしょうか。けじめをつける、基礎力がつくまで繰り返す、自分の頭で考える習慣をつける、この点さえしっかり守られていれば、日本の以前の教育システムがそう悪いものであるとは思えません。この3点が総崩れになっているのが、今の公立学校なのではないでしょうか?以前、高校の同窓生のメーリングリストで、「日本の子供たちが重大犯罪を起こしているのはなぜか」という話になったことがあります。そのときに、南米のある国に住んでいる人がこんなコメントをしていました「日本が大変だって言うけど、政情が不安定で治安も荒れているこの国だけど、一般市民は酒を飲んで楽しそうに暮らしているよ」そんなもんかな、と思いました。日本が大変といいつつも、まだ、希望を捨てるほどの状態ではないのかもしれません。でも、だからこそ、「政情が不安定で治安も悪い国」になる前に、日本という国に危機感を持って、国民がいろいろ考えることが大切なのかもしれない、とも思いました。またまた、長文失礼しました。これからは、通常モードに戻りま~す。
December 11, 2004
コメント(13)
「日本語力」低下 「留学生以下」お寒い大学生というニュース、ご存じですか?ショッキングなタイトルなのですが、マスコミが必要以上に煽っているのかと思いきや、実は大学関係者の間では、「さもありなん」くらいのニュースのようで。で、中学受験のちょっと先の将来、大学の現状から日本の教育事情についてちょっと考えてみました。私のまわりには、世間ではあまりお目にかからないであろう「大学の教員」をやっている知り合いが結構います(私も研究者を目指していたような時代もあったので・・・(遠い目)わりと早いうちに才能がないことがわかったので、さっさと見切りをつけたのですが(爆))で、彼らが異口同音に言うのが、「最近の学生はレベルが落ちた」です。そんなことは、昔から言い古されていること。私が大学生の時でさえ、「最近の学生は・・・」といわれたものでございます。何百年も前の古文書にも「最近の若者は・・・」と書かれていたというくらいですから、そんなもんよ、と思ってました。しかし、最近の日本の大学生のレベルの低下は、そんなもんじゃないのだそうです。いわく、「大学教育が成り立たないレベル」だそうな。ある知り合いの話では、「最近の学生は、自分のできる範囲内でしかやろうとしない」のだそうです。わからないことを調べよう、とか、できないからやってみよう、という気持ちが全体的に下がっているのだそうです。わからないことは自分で調べるのではなく、教えてもらって当然、中には“四則計算”という言葉を講義で使ったら「そんな難しい言葉は使わないでください」と堂々と申し入れてくる学生もいたとか(ちなみに、息子に聞いたら「知ってるよ」と言ってました・・・)もっとすごい話も聞いたけど、ネット上ではとても言えない・・・。だから、大学で、学習方法・・・つまりお勉強の仕方から教えなければならないと言います。いわゆる偏差値的に上位ではない大学だけがそういう悩みをかかえていると思いきや、いわゆる一流の国立大学でもそういう現象が起きているのだそうです。ある某有名国立大学で教員をしている知り合いの話では、学生の能力自体が下がったわけではなく、高校までに履修してきた内容が、大学で必要とされる基礎知識のレベルをはるかに下回っているため、高校と大学の間に大きなギャップが生まれているのだそうです。さすがに能力は高い学生さんが集まってくるので、勉強させればできるようになるのだそうですが、とにかくそのギャップを埋めるために、今では大学が高校レベルの内容を教えてあげなければならない状態で、その結果、4年間では「学問的におもしろい」レベルに達することなく、卒業を迎えてしまうのだそうです。でも、はたと疑問が浮かびました。一流大学といえば、入学者の大半が有名私立高校出身だったりするわけで、公立校の教育がどうこうという問題だけではなさそう。いったいどういうことなのか?ある知り合いに聞いたところ、大学の入試問題は、どんな一流大学といえども文科省が定める「学習指導要領」から著しく逸脱してはならない、のだそうな。で、有名私立校の学生といえども、学習指導要領の範囲内でしか受験勉強をしない。でも、その学習指導要領の範囲というのはどんどん削減されていっています。だから、どんなに一生懸命勉強しても、大学入試を目指した勉強をする限り、大学で必要な知識がそろわない、というわけです。・・・しかし、ってことは、日本の教育自体が、有能な子供たちでさえもダメにしているってこと?大学生のレベルが落ちた、と大学生を笑うのは簡単です。でも、その背景を作っているのは大人たち。教育システム自体の問題です。折しも<三位一体改革>義務教育費、来年度4250億円削減などという政府・与党案が発表されたばかり。地方分権を促すという利点はあるとはいうものの、公立校の教員の給与がまず削減される、という話も聞きます。日本という国は子供たちをどう育てたいのだろう・・・?最近、ある外国人の目を通して日本の教育システムを見るという経験をしました。大学生の話とこの体験とある方のブログに書いてあったご意見を合わせてみたら、日本の教育システムで決定的に欠落している肝心なことが見えてきたような気がしました。でも、長くなりますので、その話はまた今度。今日はまじめに書いてみましたσ(#。。#)娘の病気でホリデーしている間、そんなことを考えてたです・・・そういえば、さっき仕事するとかっていってなかったか?<ぢぶん??
November 25, 2004
コメント(8)
全43件 (43件中 1-43件目)
1