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これがあなたのターニングポイントになる [ 野口健 ] もうここで書くことは無いと思って放置していたんだけど、 あまりの衝撃に、どうしても整理しなくてはいけなくなって、 そうしたら、ここの他に書くところは思いつかなかったので、 本当に本当に久しぶりに、ここで書くことにする。 『これがあなたのターニングポイントになる』 という本を読んでいる。 私が衝撃を受けたのは、『幼児決断』というキーワードだ。 幼少期の強烈な体験の中で、子どもは生き延びるために決断を下す。 それは、アダルトチルドレンから回復するための井戸掘りの中でも 何度も読んで掘り出して知ってきたことだけど、まだ、あった。 私は、まだ幼稚園の年中組くらいの小さいころに、母にペットを殺されている。 大事に大事に水槽の中で育てていた、小さな魚だ。 それを有無を言わさず、日向の乾いた地面にぶちまけられ、 地面に張り付いた小さな魚を拾うことも出来ず、私は大泣きに泣いた。 (母のために追記するけれど、私が魚だと信じていたソレは実はボウフラだった) AC回復のための井戸掘りの中で、私の中でずっと泣いていた小さな子どもは癒された。 それまで、この事件を思い出すたびに私の中で泣きじゃくっていた子どもは昇華され、 こうして思い出しても悲しくて泣いている私の中の小さな子どもは出てこない。 だから、私はそこで満足していた。 だけど。 まだ、続きがあった。 私はそこで、後の人生に通じる幼児決断をしている。 「大事なものは(大切なものは、好きなものは)、 身近な他人に(特にお母さんに) 絶対に知られてはいけない。 知られると、殺される(壊される。失う)」 さらに、小学校に入る直前ぐらいで、 この決断を強固にする事件が発生する。 私が大事にしていたハンドバックを捨てられる、という事件だ。 小さな赤いハンドバックで、表に確かキャンディキャンデイだったか、 金髪の女の子がプリントされた小さな子供用のものだ。 しばらくそれを使っていなかったために、不要だと判断した母が、 有無を言わさず、焼却炉に放り込んだ。 この事件も、既に井戸掘りの中で昇華しているから、今更嘆くものではないけれど、 焼却炉に放り込まれたハンドバックを探して、狂ったように家中を探し回った挙句、 「いい加減にしなさい!」と怒鳴りつけられた私は、前述の幼児決断を強くする。 「大事なものは、母に捨てられる」 そこから、私は、大事なものは隠さなくてはならない、 という強固な信念を持つ。 中学時代に、大切なものを守るために、カムフラージュする、ということも覚えた。 面白おかしくどうでも良いことを語ることで、本当に大事なものを隠した。 「大事なものを守るために欺くべきは、身内」 という、幼児決断から一歩進んだ信念をここで、私は培う。 初めての彼氏の存在も、隠した。 小説家になりたい、という夢も隠した。 二次元に嵌りこんで描いた漫画も、隠した。 X-JAPANを始め、黒っぽいバンドを好きになったことも、隠した。 本当に大事な友人の存在も、隠した。 隠したとは言っても、中学生を持つ親になった今にして思えば、 ダダ漏れてただろうってたことは容易に想像がつくけれど。 それでも。 私は 「大事なものは(大切なものは、好きなものは)、 身近な他人に(特にお母さんに) 絶対に知られてはいけない。 知られると、殺される(壊される。失う)」 という、幼少期に下した決断を 「大事なものは、母(身近な人)に捨てられる」 とさらに強くし 「大事なものを守るために欺くべきは、身内」 と進めていく。 今も、この考え方は、根本的に私の根底にある。 今も、旦那にさえ好きなもののことを言うのに、すごく抵抗がある。 旦那は私の好きなものを、否定しない。 それを知っていても、言えない。 それを私は『今まで散々、母に否定されてきた心の傷のせい』だと思っていたけど、 『大事なものは隠せ!』という幼児決断の結果だと、知った。 すごい、衝撃だった。 そして、読み進む中で、もう一つ知った。 『とにかく隠せ!』という幼児決断の延長と矛盾するけれど、 私が何より欲しいのは「受け入れてくれる」存在。 『何がほしいんですか? あなたは何がほしいんですか。』 という問いに、強烈にこれしか思い浮かばなかった……。 私は何よりも、「受け入れられる」ことを欲している。 もしかしたら、私は前からこのことを知っていたのかもしれないけど。 ていうか、無意識の中でずっと思っていたんだろうけれど。 ていうか、ずっと信念として持ってたから今の私になってるんだろうけど。 いざ、目の前につきつけられると、すごい衝撃で。 なかなか心の整理がつかない。 どうやってこれと向き合えばいいのか。 これを乗り越えた先に、何かあるはずなんだけど。 今はまだ、混乱状態。
2016.08.21
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【送料無料】ダメ母に苦しめられて価格:1,575円(税込、送料別)1999年の出版なので、古い。中国新聞(←広島地元紙♪)に掲載された記事を基に、編集、出版されたものだとのこと。ダメ母、という言葉は適度に軽くていい。メシが不味いとか、掃除がどうにもうまくないとか、なーんか一日中テレビ見てるよねとか、そんなイメージになる。でも、ここに集められたものは、全て『毒になる親』だ。カルく装ってあるけど、AC問題を語っている書だ。中国新聞のHPの一部には古い連載が残されており、『殴る母』というコーナーがある。古い記事だけれど、コンスタントに読まれている、というような説明書きの一文があるけれど、中国新聞自体が、家族の病んでいるところにスポットを当てることを得意としている、もしくは意識しているのかもしれない。新聞に連載されたのは、色々なタイプの毒になる母親に苦しめられた男たちの声だ。はじめに、の中で列挙されているタイプは期待しすぎる母厳しすぎる母放任しすぎる(かまってくれない)母ヒステリックな母干渉しすぎる母だけれども、「ダメ母」をいくつものタイプに分類しつつ、それに苦しめられてきた男性の声を集めている。また、反響として上がってきた、男だけではなく女(娘)もダメ母には苦しめられてきたのだ、という女性の声や、こんなに一生懸命育てて来たのにこの仕打ちはどういうことだ、という母の声もある。内容には、AC関連書籍を何冊も読んで来た身からすると、全く目新しいものは無く、どこかお決まりのパターンを感じる。一つ一つ、大変なドラマが展開されたはずだろうに、数をこなしたがために、特に興味をひくものは無い。ただ、息子、娘、母親、と主張をそれぞれに収録したのち、まとめとして著者(編者?)が最後に書かれているものは一読の価値がある。息子、娘、母親、と話を聞くと、必ず母親にも原因があったことが分かる。母親自身が何かしら心理的な「問題」を抱えている。そして、そこには父親がカギになっている。男性は概して、鈍い。妻のSOSを汲み取れず、心情面で行き違う。妻は夫に幻滅し、頼りにすることを止めていく。そういったことが原因にあるのだと、指摘する。男たちがそうなってしまったことには、歴史的に仕方がない面も認めている。明治の富国強兵も、戦後の復興も、男たちにかくあるべしと求めたのだ。それを求めたのは、育てた母親たちであることも確かだ。だが、とここでさらに踏み込む。時代は変わったのだ、と。男性が変わるべき時代に来たのだ、と。最後のまとめ部分には、「ダメ母に苦しめられた息子たち」を焦点にしたものにしては、やや飛躍した感じが否めなくは無いが、その通りだと思う。AC関係本はだいたい専門の人たちが書いているのだけど、この本はそういう意味では素人たちの書いたものだろう。それだけに視点が面白いと思った。一番のメインである事例には面白いものは無かったにしても、まとめだけでも十分興味深く読めた。
2011.06.09
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お父さんなんかいなくても、全然大丈夫。離婚の真実、と副題がついています。離婚により父を失った(母子家庭となった)子どものインタビュー集。インタビュー集なので、小学校高学年から、二十歳越くらいの男女で、親が離婚して母子家庭となった人に、それぞれの離婚による影響を語ってもらったもので、色々なケースがある。「全然大丈夫」ってのは、日本語としておかしい。「全然」で始めれば、「ない」と否定形で終わるのが正しい。だから、「全然大丈夫でない」となるのが正しい。というように、日本語の誤りを正したくなるくらい、あまり影響が無かった子どもも、いる。両親が離婚しても父親との交流があり、父親側の親戚と付き合いがあり、経済的にもあまり変わったことが無く・・・・・・という感じだ。あっけらかんと、「関係ないですよ」と笑う子どもも居るのだ。一方で、これはやはり、間違っていない、反語なのだ、と思うケースもある。「全然大丈夫(ではない)」という感じ。父親はDVだの浮気だの借金だのって問題の源で居ないほうがマシなのにずるずるとなかなか関係が切れないままに大変な思いをして、関係が切れても経済的に困窮したり、母親が大変だったりして、子どもの心が酷く傷つくことが繰り返される。母親の再婚によって、さらに大変な思いをする子どもも居る。今更だけど・・・・・・ケースにより、なのね。ウチには、母子家庭の子も遊びに来るし、祖父母父子家庭の子も遊びに来る。けど、なんか、触れちゃいけない話題のような気がして、あえて避けてきたのよね。聞いて欲しいのかな?ってサインを出してくることもあったんだけど、どういうふうに聞いて良いのかわかんなくて、逃げてたの。子どもの方から話を振ってきても、うまく違う話題に変えてきたしね。なんかそういう、腫れ物に触る、みたいなのも変だよなって思ってはいたの。ケース集みたいなものだから、私に答えが出たわけじゃないけど、「人それぞれ」ってことが分かっただけでも、良かったと思う。
2010.01.19
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親子という病香山リカ、というどこかで聞いたような精神科医の本。いや、全然知らないんだけど。著者は、「産んでくれてありがとう」という言葉は真実か、と問いかけながら、家族の姿を探っていく。考えてみれば、私が最初にカウンセリングに通ったとき、「産んでくれてありがとうって、言いたいんです」って言ったような気がする。でも、どうしてもそんなことは言えなくて、辛いんです、と。私は、もうそれは無理だと思っている。それは、私の親との関係で知ったわけではなく、子どもとの関係で、それを子どもに望むのは親のエゴだと知ったからだ。私は、親に「産んでくれてありがとう」とは、言わない。でも、子どもに「生れてきてくれてありがとう」は、何度でも言う。子どもをこの世に産みだす、という親のエゴに付き合ってくれてありがとう、と、私は本気で思うから。「ありがとう」と思う方向が、逆なのだ。また、子どもが男か女かによって、母親の呪縛が変わっていくことも、とてもよく分かる気がした。私には、男女両方の子どもがいるから。新生児の横でこんな本を読んでいる、という現実にはちょっと笑ったが、読み進めていくにつれ、納得できることも多く、面白かった。とはいえ。前半部分は、殆ど記憶になし。あちらこちらからの引用や切り貼りが多くて、記憶に残りづらかった。ただ、これは私が産後間もない読書に向かない時期に読んでいるせいかもしれない。
2009.02.16
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ネグレクトネグレクト、とは・・・・・児童虐待の一つで、養育放棄、とでも言えば良いのだろうか。食事を与える、体を清潔に保つ、衣服を整える、といった基本的な世話をしない形態だ。殴る蹴るというような身体的虐待がとても積極的なもので分かりやすいのに対し、分かりづらく、認識されにくい虐待だ。この本は、2000年にネグレクトにより死亡した真奈ちゃんのケースを扱っている。それぞれ十分な愛情を受けることが出来ぬままに成長した男女が、十代の終わりに真奈ちゃんを授かり、親となる。当初は誕生を待ち望み、惜しみない愛情を注いだはずの彼らが、真奈ちゃんを疎む状態に陥っていく様子が、詳細に描かれている。そして、真奈ちゃんが亡くなり、その後の公判などの様子も。読んでいて怖いのは、この事件が特殊な事例だと思われないところだ。子どもが養育放棄の末に餓死、となると極端な事例に思われるのだが、程度の差というものを度外視するなら、とても共感する部分が多い。私自身、過去の子どもとの関わりを虐待だと認識している。自戒と反省を込めてもいるので、一般的に認識される虐待には入らないとは思うが、それでも、なんとこの親に共感する部分が多かったことか。実際に今、虐待の寸前で踏みとどまっている親にしてみれば、一線を越えたものと、その手前で踏ん張っているものとを混同することは、著しく失礼だと感じられるだろうし、一線を越えた彼らに強い憤りを感じるだろう。でも、既にその渦中を抜け出した私には、共通点ばかりが見える。私が一線を越える前に引き返すことが出来たのは、幾つかの偶然の重なりによる幸運だとも思っているので、それらの「幸運」にめぐり会えなかった彼らが、他人事ではない。虐待による子どもが死亡する事件が報道されると、必ずと言っていいほど尤もらしく語られる非難に、未成熟な子どもが子どもを持つのが間違っているのだ、人間的に大人でない者は子どもを持つべきではない、というのがある。私がひどく違和感を覚える非難だ。彼らほどではないにしろ、私も機能不全家庭で育った。機能不全家庭で育った子どもは、健全な家庭というものを知らない。その子が長じて健全な家庭を営めないことに、何の不思議も無い。自らが家庭を営むことに未熟であることを、どうして知ることが出来るだろう。経済的・社会的に未熟であることと、家庭を営む能力は別な能力なのに。未熟な者は子どもを持つべきではない、という議論は現実的ではない。それよりも、孤軍奮闘している未熟な親をどう支援すべきか、の方が余程大切だろう。難しいのは、機能不全家庭で育って親となった者に、実家の手助けは、必ずしも良好に働かないということだ。自分の親であれ、パートナーの親であれ、良好な関係が下地にあれば、祖父母の手助けもアドバイスもありがたいものだ。私自身、実家の両親と比較的良好な関係に落ち着いている今は、手助けやアドバイスを聞き入れることにそれほど抵抗が無いが、ACに気付く前は、酷く苦痛だった。今思い返しても、母の手助けが無ければもっと酷くなっていただろうと思う一方で、親の余計なおせっかいが無ければ、もっと楽に子どもと関っていただろうとも思う。公的機関の手助けも、私には全く無かった。民生委員の訪問も、保健師の訪問も、無かった。もしあったとしても、迷惑だと感じただろうけれど。公民館で定期的に開かれる子どもの健康相談は、苦痛だった。保健センターの定期健診は、もっと苦痛だった。夫は、この真奈ちゃんの父親ほどではないにしろ、無関心で、私を労わってくれることがなく、逆に毎日のように愚痴を聞かされ、ネットにも繋がっていなかったあの頃、文字通り孤軍奮闘しながら、追い込まれていた。母が唯一の援助者なのに、それが苦痛だという皮肉な状況。どれもこれも、この真奈ちゃんのケースと似通っている。援助は、必要としている人には届きにくい。それは、申請によって支援を受けられる、という行政の仕組みも大きいだろう。本人の不勉強と言うのは、簡単だ。でも、そのエネルギーさえ無い、その接点さえないという現実もありうるのだ。真奈ちゃんの事件が起きたのは、2000年。今から8年前のことだ。私が上の子の育児で追い詰められていったのは、6年前のことだ。一体、それからどれだけ「支援」は変わっただろう。私は色んなことを知り、おそらく今度の育児では前ほど辛い思いはしないだろう。でも、あの頃の私と同じ状況にある母親たちに、支援は届くようになったのだろうか。
2008.12.01
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親業トレーニング久しぶりの再読。ここのところ、親業の実践が出来ていない感覚があったし、しばらく親業関連本を読んでいないこともあって、早く読まなければと焦っていた。それでも、なかなか手が伸びなくて、積読棚に移動させてから長く放置。やっと、読んだ。読みながら、やはり色々と忘れていることを再確認した。手っ取り早く「・・・・・・しなさい!!」を連呼する日常。お決まりの12の型を、駆使している日常。それに、違和感を持たなくなっていた、日常。親業を知る前ほどの強いコントロール欲は無いにしても、上から目線で、子どもを動かそうとしていることに変わりない。『親業トレーニング』は、心理学のあらましについて知っていて、カウンセラーを目指す人向けに、親業の概略を説明する目的の書なので、親業を初めて知る、素人の人には向かないのではないかと思うのだが、既に講座を受講している私には、これが一番読みやすい。読みながら、親業を実践できていなかった自分に思い至り、タロウの行動にどう対応するべきか、頭の中で考えたりした。それは今回の読書の目的だったし、やらなきゃならないことだった。が。中盤以降、ほかの事に思い至った。私が、長く、この本を読めなかった理由、だ。前に、この『親業トレーニング』を読んだとき、途中から、母親と和解したい気持ちがむくむくと湧いてきた。親業を受講してもらえば、和解することが出来るのではないかと思い、親業を受講して欲しい気持ちを、伝えた。しかし、母は忙しいことを理由に断った。それでも、と私はこの『親業トレーニング』を渡して、読んで欲しいと言った。私にしては、ずいぶん食い下がった方だと思う。母は難色を示しながらも、とりあえず『親業トレーニング』を受け取った。それからしばらくの間、この『親業トレーニング』は実家の居間の隅を転がった。そのうち姿が見えなくなり、私が再会したのは半年くらい経過した後のことで、別の部屋の本棚の隅で埃をかぶった状態だった。借り物に対する扱いでもなかったし、大切にされているわけなど無かった。読んでいないことも、一目瞭然だった。私は、何も言わずに、本棚から引き取って帰った。あの時の、何とも言えない敗北感と、悲しい気持ち。あの気持ちが、『親業トレーニング』の背表紙を見るたびに、去来していた。それが、なかなか手が伸びない理由だったのだ。今回、本の半ばまで読み進んだところで、あれが私の「対決」だったのだと気付いた。親業以外の従来の方法がどんなに親子関係を損なうものか、親業関連本では必ず書かれる。当然、この『親業トレーニング』にも書かれている。私がこの本を読むように母に言うということは、従来の方法を信奉する母の子育てを、全面否定することに他ならないことに、あの時の私は気付いていなかった。もちろん、親業関連本は、普通のAC関連本とは異なる。AC関連本は、生き辛さの原因を探ること、そこから抜け出すことに焦点を当てている。だからAC関連本に「ダメ」な方法は書かれていても、「OK」な方法は書かれていない。対する親業関連本は、「ダメ」な方法は導入に過ぎず、「OK」な方法こそが重点だ。でも・・・・・・やはり「ダメ」な方法についても、それなりに書かれてはいるのだ。むしろ、心を傷つけ、関係を損ない、自尊心を削り取る程度の虐待に限定するなら、身体的虐待や性的虐待に頁を割くAC関連本より、余程しっかり書かれているのだ。そして・・・・・・私が受けてきたのは、その程度の虐待。母が、してきたのは、その程度の虐待。前に読んだときには、母と和解したい気持ちが抑えられず、そのことで私は手一杯だった。母が親業の受講に難色を示すことまでは十分予想していたけれど、『親業トレーニング』が母の子育てを全面否定するもので、私の「対決」の方法になるなんて、思いもしなかった。覚悟して臨んだ「対決」では無かった。だから、本棚の隅で埃をかぶっている『親業トレーニング』を見つけたときには、私の本が粗末に扱われていること、親業への無理解が悲しかった。けど、あれが「対決」だったのだと分かった今・・・・・・。母は、子育て方法について顧みるつもりなど、全く無いこと。私と和解するつもりもなければ、そこに問題があることも認めるつもりはないこと。思いを乗せて貸した本への扱いは、私への扱いそのままだったと、認めるしかない。とても・・・・・・辛いことだ。今まで再読しなくて良かった。妊娠初期の不安定な時期に読んでいたら、絶対にヤバかった。でも、産休の母と過ごす時間が増える前に読めてよかった。やっぱり、本って「読むべき時期」ってのがあるのね。
2008.10.01
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新凍りついた瞳(め)児童虐待を扱ったマンガ。『凍りついた瞳』、『続 凍りついた瞳』、とも以前読んだことがあったが、知らないうちに「新」が出て、しかも古本市場に出るほど年数が経っていたらしい。『続 凍りついた瞳』は、虐待を生き抜いた子供が成長した後の回顧、というような形を取っているが、この『新』ではまた元に戻り、児童虐待に関わる現場からの視点で描かれている。あとがきで、漫画化を担当したささやななえ氏が書いているけれど、マンガというのは、出来るだけ文字での説明を避けるものだ。出来るだけ避ける、というのは適当ではないかもしれないが、視覚的に捉えやすいようにするのが漫画化でもあるので、文字の羅列は「駄作」の基準のひとつでもある。なのに、も・の・す・ご・く、説明文が多い。マンガにはあり得ないほど、多い。なので、気軽にマンガを読むつもりで居ると、すごく疲れる。内容が重く、目を離せないのだけれど、なかなか進まない。1時間かかって1冊読み終わらないなんて、マンガじゃちょっと考えられない。(ま、私はマンガを読むのはかなりトロくさい方なんですがね)最初の『SOS・SOS・・・・・・』は、虐待事例として最も思いもので、女児が虐待の末、死亡する。直接の死因は頭部を打ったことによる事故だが、食を断たれて目を覆う程にやせ細って亡くなっている。住民たちからの通報も相次いで、児童相談所も動いていたが、救われなかった。何故、救うことが出来なかったのか。そこに、組織として入り込む余地は無かったのか。まず、問題はそう提起される。続く、『サウナの家』。虐待家庭から救出された男児が、児童養護施設で生活する様を描く。他の書籍でも以前に読んだことだが、日本の児童養護施設は戦後すぐ、戦災孤児の救護を目的として作られて以降、大きな制度変更が無い。以前に読んだ本でも、そのことは問題として取り上げられていたが、どんなに子どもにとって大変なことなのか、驚いた。更に『母子再生』・・・・・だったかな?ちょと題、うろ覚え。家庭で受け入れられなかった女児が、一般家庭での養育に支えられる話。ボラのようなものらしいのだが、養育里親とはちょっと違う・・・・・・みたい。今、NHKの連ドラでやっている『瞳』は養育里親だから、高校生くらいになったら利用できなくなる制度だったと思うんだけど、この話で語られるのは、大人に近い子どもも受け入れている。里親制度って、今後もっと活用されるものだろうと思ってたけど、実際のトコ、大変だと思うのよね。これも・・・・・・なかなか増えてないみたい。最後に、児童虐待に関わる医師の話。虐待に対して、どう関わっていくべきか。また、どのようにその認識を広めていくかの啓蒙活動。そういったものを、取り扱っている。2003年の作なので、多少の法的な制度変更はあったはずだ。痛ましい事件が相次いで報道されることもあって、一般レベルの意識も、ずいぶん虐待に向けられるようになったと思う。児童相談所に寄せられる虐待の通告も、単に虐待の増加だけでなく、一般レベルでの意識変化も多いのではないかと言われている。でも。まだまだ、現場は変わっていかなくてはいけない。虐待に寄せられるニーズに、制度が追いついていない。それは・・・・・・すごく感じる。だってね。虐待に立ち向かう部署の人の、熱意だけでなんとかなってるようじゃ、ダメよ。熱意とかって、最低限必要なものだと思うんだけどさ。それは、全く否定しないけれどもさ。2話目の児童養護施設の中で、児童養護施設に勤務する女性保育士が登場するんだけど、子どものことを考えて結婚を躊躇するってあるのね。確か、似たようなことをTVでも見たことがあるの。女性が働こうと思うと、究極のところでは「仕事か、家庭か」を選択しなくちゃならない。一般の仕事なら、それでも折り合いをつけやすいから、私みたいにヌルく働くことも出来るわけだけどさ。個人としての幸せも、追求できるようでなくちゃ、仕事としておかしくない?まあ・・・・・・好きでその道を選んだんでしょ、って言っちゃ身もふたも無いけど。そういう、酷いしわ寄せみたいなのがあっちゃ、働ける人は限られるもの。変だと思うのよね。子どもに関わる法律とかって、知れば知るほど、「???」って気になる。私も、保育って面から関わりたいと思ってるわけだけど・・・・・・これからどんどん変わっていって欲しいと思う。変わられたら、ついていけるんか?と一抹の不安もありつつ。
2008.09.11
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ここのところ仕事で脳ミソを使い果たしていて、活字が読めない。マンガばかり読んでいる気がする。内田春菊のマンガ。ACの考え方を日本に輸入(?)した、齋藤学先生の監修。齋藤先生の紹介に、今はアダルトチルドレンの名前を使っていない、って書いてあるのに、作品名が「アダルトチルドレン刑事」ってのが、笑える。齋藤先生、それでいーんですか???内田春菊、という人はACの要素を強く持っている人だ。ACの要素を強く持っている、というか、どう考えても機能不全家庭でしょ、って家庭で育った人だ。自伝的小説もいくつかあるが、育った家庭に身体的虐待や精神的虐待、性的虐待まであったことが赤裸々に描かれている。ACにつき物の「生き辛さ」そのものの記述にはなかなか出会わないが、生き辛さ以外の面では、色々ACを思わされるところが多い。内田春菊の作品の全てを読んだわけではないけれど、「生き辛さ」を描かないのかだと思っていたから、「AC刑事」という掲題には、驚いた。主人公は、女性刑事。彼女にはキョーレツな個性の母親が居て、生活を監視されている。守秘義務のある捜査情報も喋らされ、入浴も見張られている。手紙は当然のように開封され、人間関係にも口を出す。主人公は母親を心で疎みながら、離れられない。捜査で親子関係の不和を感じるたび、自分の親子関係に投影し、心を酷く揺さぶられる。パニックの発作があり、薬が手放せない。父親はひどく影がうすく、生存しているのに、母親の愚痴の中にしか登場しない。なんか・・・・・・私みたいだ。まあ、私はもっとカルイもんだったけど。下着のヌレ具合なんてチェックされてない・・・・・ことも無いな。たぶん。手紙を開封されたことは無くても、必ず見せるように要求されたし。最近はともかく、それまでのことを考えると、母親の愚痴を通して父を知った状態で、父の影も薄い。小説やニュースで、子どもが関わる事件に行き当たると、自分を重ねて心が揺れる。内田春菊らしい淡白な絵と話の運びのおかげで、淡々と読めるけど、結構、辛いところもある。私は、主人公に自分を重ねすぎるのかも知れない。ああでも。分かりやすい虐待を、この主人公は何も受けていない。酷い折檻を受けているわけでも、育児放棄されたわけでもない。ただ、良い子であることを求められてきただけだ。たぶんこれは、今の日本の一般的な基準では虐待に入らない。それでも、この主人公はACだ。ACの言葉は、題に掲げられているだけで作中には登場しないけど、それでも彼女は、ACの特徴をたくさん示している。彼女の母親は、美人だという理由で家庭に押し込められたらしいが、望まぬ専業主婦生活に押し込められた母親の鬱積は娘に向けられる。娘は、それを受け止める。。。。虐待らしい虐待を受けていなくても、ACになる。齋藤先生の著書ではよくある話だ。日本では、まだ痛ましい児童虐待ばかりが虐待だと認知されるだけだ。それらは確かに、生命の危機と隣り合わせの虐待ばかりで、早急になんとかされなくてはならないと思うのだけれど。でも、そういう衝撃的な虐待の影には、ヌルイ虐待も沢山あって、それらの虐待はなかなか焦点を当てられないことが、私は不満なのよね。確かに、インパクトとしては前の『子供達をせめないで』の方が強いんだけど、このマンガは、その「ヌルイ虐待」に絞ったもので・・・・・・こういうの、ありがたいなって思う。
2008.09.09
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子供達をせめないで(1)子供達をせめないで(2)新井理恵の漫画。新井理恵って「×(ペケ)」以外、あんまり有名ではない気がするけど、実は4コマ以外も結構書いてるんだよねー。で、これは、大学時代だったか、友人に1巻だけ貸してもらって読んで、以下続刊気になりつつ、題名も覚えてなかったので探せなかったやつ。昨日、ブックオフで見つけました。105円、という時の流れを感じさせる値札がついてました(笑児童虐待を扱ったものと、言ってよいのかと思う。主人公は、睦月という名の男子高校生。父親の登場するシーンはなく、母親は彼を嫌悪している。年の離れた兄は、日常的に彼に暴力をふるうことを繰り返している。彼は家庭に居場所がなく、多数の女性を渡り歩く生活をしている。華々しい女性との付き合い方に隠されているが、その根底には生き辛さが隠れている。その彼が心を許したのは、小学4年生の菜摘という女児。偶然出会った少女は、彼にとって運命的な相手だったけれど、その父親は睦月の通う高校の教師だったために、話が難しくなっていく。まあ、新井理恵なんで、いろいろとカゲキなんですが(笑特に性関係がカゲキなんですがー(笑ガッコでフツーにえっちするの止めてほしいんですがー(笑けど、ずっしん、響くのよね、これ。昨日買ったばかりなのに、何回も読み返している。性も、大切なことなのよね。性欲とか快楽とかってのも、確かに一面なんだけどさ。性の低年齢化の原因の一つには、幼少時の愛情不足が考えられているでしょう?あれ、この作品においてはとてもストレートに描かれている。抱いてほしいのは心なのに、抱かれるのは体だけ。でも、体だけでも抱いてほしい、というのも偽りない心情なわけで。主人公はへらへら笑っているのが地顔みたいな設定だけど、この作品の中ではすごくよく泣くのよね。泣きながら心情を吐露するわけ。まあ、新井理恵の登場人物はよく泣くんで、フツーなんですが。けどね、あたしもカウンセリング受けた最初の頃は、泣きながらしか喋れなかったのよ。ぼろっぼろに泣いて、何言ってんだかわかんなかったと思う。けどね、それってものすごーく我慢してきたから、なんだよね。たぶん、今の私なら、泣かずに同じことを淡々と喋れる。何の感情も覚えないとは言わないけど、激情に流されはしない程度には昇華したから。でも、泣きながら話したことはちゃんと記憶に残っているから、号泣しながら心の中をぶちまけちゃう主人公のことを、半ば感情移入しながら読んじゃうのよね。何を書きたいんだか、わかんなくなってきた……。けど、まだ、頭の中をマンガのシーンがぐるぐる回ってる。たぶん、まだ何回も読み返すだろうな。気になってたマンガのエンドが読めて、良かった。
2008.09.06
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「アダルト・チルドレン」実践篇以前に読んだ『家族収容所』と同じ信田さよ子の著。私、カウンセリングを受けたときに斉藤先生のことしか聞かなかったから、ACといえば齋藤先生のもんだと思ってたけど、この人も第一人者として有名なのね。ぜーんぜん知らなかったけど。女性だから、とか、男性だから、とか言う区分けはあんまりしたくないんだけど、斉藤センセイの著書と比べると、女性だなあ、という気がする。ACとか心理学の専門分野における考えの違いは当然あると思うんだけど、それだけじゃなくて、とっても辛辣なのよね。で、それが的を得ているだけに、「キッツー!!!」って思う。「同じ女性として、どーなのよこれは!!!」とか、「まーったく男ってのはこれだからオメデタイのよねっ!!!」とか、そんな呆れ言葉が行間から漂い出てる気がして、笑っちゃう。で、私もそのうちの一人だと気付いて失笑しちゃう。情けないことに。ただ、小説ではないから、話がやたら飛ぶ。やたら飛ぶから、ついていくのが大変。ここのところ、読みやすいものを狙って読んでいたから、余計に大変。そんな感じで、この著書が主なターゲットを著者と同世代の、中年以降の男女だと気付いたときには、もう大半を読み終えていた。気付くのが遅すぎて、「????」と読み飛ばしたところが沢山ある。そのせいもあって、イマイチ記憶に残っていない。一呼吸おいたら、また読み返さなくちゃならない本の仲間入りだと思う。その中でも、印象に残ったものを少しだけメモしておく。ACはあくまで、自己認識のものだということ。アダルトチルドレン、という言葉が誤用も含めてかなり一般的になりつつあるけれど、ACが自己認識のものだということは、意外に落ちてしまう。だから、他人に指摘されるものではないし、診断されるものでもない。これは齋藤先生の著書でも何度も出会った論だけれど、そのことの重要性を再認識させられた感じ。それから、私もつい安易に使いがちなのだけれど、「トラウマ」と言う言葉の怖さ。この言葉は発展途上の言葉であって、安易に使ってよい言葉ではないこと。何らかの大きな出来事に対して受けたものを、トラウマというのは正しいかも知れない。児童虐待において使われるなら、父子姦淫のような酷い虐待が一度だけあった、というようなことであるなら、それはトラウマと言えよう。けれど、精神的虐待のような、些少なものが積み重なったものはトラウマと言えるのか。一つ一つの言葉によるものよりも、傷つくような関係だったことが問題ではないのか。そのような場合、「私は母によってトラウマを受けた」と言うのは、間違いではないか。ここで、「私は母によってトラウマを受けた」と母に詰め寄る危険性も、著者は書く。そう詰め寄られた母が、どう行動するか、だ。支配関係が問題なのに、加害者だと言われれば、そのトラウマを治すべく、母はより強い支配を行うようになるのではないか、と。本当に必要なのは、より強い支配ではなく、支配を止めることなのに、と。これは私自身、思い当たるところが強い。私も、母にそう詰め寄ったことがあり、そのことで却って傷ついたから……。また、インナーチャイルドの癒しについても、著者は疑問を投じる。それは無意味ではないのか、と。それよりも、インナーペアレンツを克服することが重要なのではないか、と。インナーチャイルドを癒すことへの疑問提示は、少し反感を覚える。私自身、ACに気付いた頃、私の心の中に居る「たすくちゃん」が大泣きしていたから。その子を楽にしてやらなくては、先に進めなかったから。でも、インナーペアレンツの克服については、納得した。不適切な親子関係で自分の中に作られた親のイメージを克服していく、重要性。大切なのは、今の親を切り捨て、今の親を超えることではなくて、自分の中に作られた、親の虚像を克服することなのじゃないか。大人になれば、親は強大でも何でも無いはずなのに、未だにそれに縛られる。そらは、過去の強大なイメージに縛られてのことだと、私も思うから……納得。ま、大変だけど(笑あと、笑いながらもものすごく笑っちゃったのが、日本の男はオメデタイって話。まーったく、その通りよねえって思う。私が夫との関係に倦み、悩んだ経過そのままよ。男の人って、どうしてそれが分からないんだろう。どうしてそれが許されるって思うんだろう。どうして他人同士が寄り集まる家庭で、努力が要らないなんて思うんだろう。全身で安らぎたいってのは、分かる。そこまでは、分かる。だけど、それが他の家族である妻子を傷つけて良いって免罪符になる理由が分からない。なんで、妻子は夫の安らぎのために努力をしなくちゃならないのに、夫は妻子の安らぎのために努力をしなくて良いって思えるんだろう?それをオメデタイといわずに、何と言うんだろう。まーったく、その通り。ホント、夫にこれを読ませたいと思った。本ってものを読まない夫なので、まずムリだけど。妊婦の身で言うか?ってつっこまれそうだけど、これから先、何年も何十年も続くだろう家庭生活を思うと気が滅入るのよね。このさきずっと生涯を終えるまで、私の伴侶はこの人だと思うと絶望的な気分。積極的に離婚を思い立つほどの嫌悪感は無いけれど、生涯連れ添わねばならないのかと思うと、イヤだと思う。確かに、成り行きに流されるように結婚したんだけど……あまり考えずに結婚した私が悪いって言っちゃ、そこまでなんだけど。それでも、結婚したときには幸せで、この人と一生って思えたのよ。それが、少しずつ少しずつ、幻滅したり、傷ついたり、絶望したり。言っても伝わらない、訴えても報われない、示しても振り向かれない、そんなアレコレが蓄積していくのに、夫に嫌悪感を抱かないなんて、ムリ。正直、この状態で生涯を添い遂げるのはムリだと思ってる。どっかで見切りをつけるなり、見直しするなり、必要だと思ってる。けど、仕切り直しが利くなら、仕切りなおしたいとも思ってる。それを夫に伝えるには、離婚届とセットじゃないとだめなのかしら?そんな、背水の陣で臨まなきゃ、だめなのかしら?オメデタイ男に伝えたいなんて、それこそオメデタイ話なのかしら?ああでも。最近、ツワリのせいでかなり低迷中でして。シゴトに出ると割と普通なのですが、無意識にムリをしているのか、帰宅後&週末はボロ雑巾のようにへばっております。なので、家事らしいことはアイロンかけが唯一で、あとは夫がやってくれてる。子どもの相手もかなりしてくれていて、子どもが夫を頼りにしているのが分かる。私にも、態度や言葉で気遣いを見せてくれることも、多々あって。ちょっと、幸せだなあ、と思うことが増えています。今のままなら、いいのにな。
2008.07.07
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リストカットシンドローム自らリストカットの経験を持ち、リストカットを主とする自傷行為を行う人たちの、集い場をネット上に運営する人の著。著、というか……その「自傷らーの館」で知り合ったリストカットをする人たちの症例に、多少の見解を添えたもの、と言う感じ。リストカットする人たちへのヒアリングによって大部が構成されており、基本は彼らの口述そのままを文章にしたもの。何人分のヒアリングがされていただろうか。どれも結構、壮絶なリストカットを経験している人たちだ。過去にも書いたことがあるけれど、私はリストカットはやらない。やらない、というより、出来ない。自傷したことが無いとは言わないけれども、リストカットは出来ない。私と彼らの違いはなんだろう?この本の中で紹介される人たちの例の多くは、最初のリストカットを死ぬためにしている。自殺願望、だ。それが、リストカットしても死なないことに気付き、「生きるために」リストカットするように、依存していく。私にも、自殺願望が無かったとは言えない。今は無いけれど……カッターを首筋に当てたことも、ある。でも、リストカットはしていない。思い出せる私の自傷行為のどれも、死にはしないものばかりだ。たぶん……私の自殺願望は然程に強くなかったのだろう。それとも、めぐり合わせのようなものだろうか。今は情報が氾濫していて、リストカットの方法を知りたいと思えば、いつでもネット上でその方法を知ることが出来る。私がネット上で好きに動けるようになったのはつい最近のことだから、一番自傷が酷かった時期と重なっていない。あの当時に、リストカットの方法を知っていれば、したろうか?どちらにしても、私はもう一番酷い時期を脱してしまったし、「焼く」のが私に合った自傷方法に定着したから、今後も縁は無いだろう。でもこの本の中で、時々挟まれる著者の言葉には、過去の傷が疼く。著者はリストカットを止められない人たちの殆どは、両親との関係に問題がある、と書く。紹介されるケースのどれも、同じように両親との関係がよろしくない。直接的に殴る親もあれば、言葉で殴る親もあり、過干渉・過保護、逆に他の兄弟姉妹に注意が集中して意識されない、等、それぞれに細かな事情は違うけれども、親と良好な関係の人は居ない。難しいな、と思う。「子ども」の側である私は、そのどれも納得する。親が悪いんじゃないのって。でも、「親」の側にも立っちゃう私は、簡単には納得できない。勉強しろって言われ続けてきた私には、勉強を強いられることが暴力だと認識される。でも、一方では全然「勉強しろ」って言われないことが苦痛な子どもも居るわけで。画一化できるものじゃないのは分かるんだけどさ。基準みたいなのが無いのって難しいよね。AC関連本、という意味では掘り下げがイマイチで、不満。でも、リストカッターや自傷癖のある人を特別視しないでほしい、って感じで、初心者向けの本としては良かったと思う。続刊らしきものもあるようなので、縁があったら読んでみたい。リストカットシンドローム(2)
2008.06.17
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それでも少年を罰しますか久しぶりに本を読んだ。最近、ツワリのせいか軽い頭痛が取れず、集中力に欠ける。よって……試験勉強は出来ず。言い訳ではないけれど、つい、本に手が伸びた。さて、この本。神戸で起きた、酒鬼薔薇聖斗と名乗る少年Aによる、連続児童殺傷事件の、少年の弁護団長を務めた人の著書だ。1998年の著、というわけで少し古い。私は以前、少年Aの両親の手記を本にしたものを読んだことがある。少年の両親は、何故こんなことになったのか皆目見当が付かない、と慌て、驚き、戸惑う、普通の親の姿が正直に書かれたものだ。だが、その手記の中の両親の戸惑いよりも、正直、私に残ったのは、「この母親は異常だ」という印象だった。その本の中には、少年Aの育児日記のようなものも掲載されており、生後2ヶ月の乳児がトイレで排便した、と喜ぶ母の気持ちや、断乳への意気込みなども書かれている。子どもを育てたことのある人なら、分かるだろうけれど、生後2ヶ月って、やっと新生児じゃなくなったくらいの、まだ首もグラグラ、社会的笑顔だって無い。そんな子どもをトイレトレ、なんて異常だ。少年Aの両親の手記が、自分たちの異常性に気付かず戸惑う姿を描いたものなら、この『それでも少年を罰しますか』は、その異常性を真っ向から指弾する書だと思う。少年Aの残虐性は、確かに際立ったものではあるけれども、それは両親によって作られたものだ、と。怖いのは、その両親が自覚が無いこと。少年に残虐性を植え付けようとしたわけでは決してなく、むしろ、両親は少年を愛し、少年のことを考えたからこそ、厳しくしつけた。にもかかわらず、両親の愛は少年には届かず、少年は愛情に飢えた。アダルトチルドレンについて、多少なりとも知っている人ならば、諾、と思うだろう。精神的虐待をずっと受けてきた結果が、少年A。この書は、神戸児童連続殺害事件をひとつの題材に扱って、頁の大半をこの事件に割いてはいるが、その事件についてのみ語っているわけではない。むしろ、この神戸の事件は導入に過ぎない。著者は語る。神戸の事件ほどの残虐性、凶悪性は無いにしても、少年犯罪は愛された経験の著しく少ない者が起こしている、と。その少年たちに対して、刑の厳罰化を以って臨むことの愚も。今まで私は、AC関連本としては心理面に重点を置いたものばかり読んできた。だから、法律の面からACを見る、というのは新鮮な視点で面白かった。児童虐待防止法やDV予防法の施行によって、家庭内の虐待・暴力について、世間一般の意識は高くなって来ているだろうが、それとACの回復、支援はあまり繋がっていないのかも知れない。児童虐待防止法によって、児童虐待の被害に遭う子どもは、以前よりも発見されやすく、救出されやすく、支援されやすくなっただろう。それは一つの成果だ。けれど、既に成人に近い程に成長した被虐待児、または、既に成人に達した被虐待児たちが起こす犯罪については、厳罰化が求められる一方だ。確かに、凶悪犯罪と言われるものがあまりにも多くなっていて、厳罰化が求められるのも当然といえなくは無いのだが……この著書では、それはあまりにも安易に過ぎる、と警告を発している。この著書の出版から、すでに長い年月が経った。少年法の改正(?)は成ったのか。私が保育士試験対策で覚えた、少年法は改正後のものなのか。先日、秋葉原で起きた通り魔事件にも、この手のニオイを感じる。容疑者の彼は既に成人だから、また話は別だ。成人には成人の、責任能力が求められる。望む望まざるに関わらず、成人になるとはそういうことだ。けれど、もし、少年による同規模の通り魔事件が起きたとしたら?その事件が凶悪であればあるどほど、少年法の厳罰化を求める声は高くなるだろう。それは予想に難くないんだけど、それって正しいんだろうか?
2008.06.10
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副題に、「チャイルド・マルトリートメントの恐怖」と書いてある。チャイルド・マルトリートメントってなんぢゃ?と検索してみたんですが、この著書とこの著者でしかHITしない。どうも、まだまだ市民権を得た言葉では無いようだ。チャイルド・マルトリートメント、という言葉について、著者は、プロローグの中で「大人の子どもに対する不適切な取り扱い」と書いている。虐待、というには些細だけれども、子どもを傷つける行動、と考えていいだろう。以前に読んだ『子どもに手を上げたくなるとき』の中で、著者が子どもを叩くことを「子たたき」と書いたことに似ている。確かに、「虐待」という言葉を使われると、どうにも、極端な例をイメージしがちだ。『I’tと呼ばれた子』などは、間違いなく「虐待」だろうけれども、私が受けてきたもの、私が私の子どもにしたものを、虐待、と呼ぶのは大げさだ。でも、私は『子どもに手を上げたくなるとき』で「子たたき」と書いていることに、抵抗があった。虐待の被害者・加害者の意識が芽生えた頃でもあったので、オブラートに包んで物事の本質を誤魔化すだけではないのか、と思った。が、この『知らずに子どもを傷つける親たち』を読むと、「子たたき」でも「チャイルド・マルトリートメント」でも良い、という気がする。むしろ「虐待」という言葉のきつさのために、質・量で軽微なものが見逃されるなら、それは却って問題なのではないか、と思った。とはいえ、この著者。結構、毒舌。毒舌、というか辛らつ。アダルトチルドレン、という言葉についてもキッツイ付言があるし、学校教育のあり方についても「一体、学生時代に何があったんだ!?」と気になる。なので、アダルトチルドレンの自覚があって、まだ回復が進んでいない人には、とてもじゃないけれど薦められない。きっとザクザク傷つくはずだ。その毒舌に目を瞑ると、とても納得できることが多く書かれているし、とても分かりやすい書だと思う。この本では第一章で、まず4つの例が提示される。1.過干渉の果てのDV 過干渉の母親に育てられた高学歴の息子が、嫁・息子に対して暴力をふるう。2.厳しいしつけが生んだ暴力 「子どもは叩いてしつける」が信条の母親に育てられた息子が、非行に走る。3.援助交際する女の子 いい子であることを求め続けられた娘が、登校拒否の後、援助交際に。4.浮気グセとカルト宗教 浮気癖の治らない兄と、カルト宗教に嵌った妹。何れも実在のケースではなく、実在したケースを編集して作られた、分かりやすい「問題のある家族」の例だ。でも、それぞれ問題のある家族の例として扱われ、検証される。上記1~4の例は、それぞれ第二章「親が子どもにしてはいけないこと」で書かれる、1.子どものペット化現象2.「しつけ」という名の虐待3.子どもに夢を託してはいけない 4.小さなネグレクトに該当する。私は「子どもに夢を託してはいけない」に書かれたようなことを散々されてきたので、かなり身近な例として読んだ。この著者は斎藤先生の著書からの引き合いが多いこともあって、私が読んできた本と重なることもずいぶんたくさん書かれていて、今更、目新しく読むことも無いけれども、58ページに書かれた、「日本では、子どもの評価が、そのまま母親に対する評価となっています」には、とても重みを感じた。私がこの本を読んで、自分の子どもへの行動について考えたのは、「『しつけ』という名の虐待」と「小さなネグレクト」だ。人間関係で受けたストレスは人間関係で発散するしかない(171ページ)、と書かれているように、体罰を伴うしつけは、親のストレスの発散である。これは、私にもとても身に覚えがあることだ。親は、自分が幼少期に厳しいしつけによって受けたストレスを、「自分を虐待した親に対してではなく、かわいいはずの自分の子どもに対して行う 92頁」のだ。それは、幼少期に積んだ歪んだ経験の、学習効果ではないという。幼少期の歪んだ経験の学習効果によって虐待が起きる、というのは色んなところで書かれていることなのだが、私自身の感覚として、疑問を感じることが強かった。確かに、それはそれで原因の一つではあるとは思うのだけれど、主たる原因かと言われると、激しく疑問を感じる、という感じ。この著者は、学習効果による虐待を完全に否定している。それは極端だろう、という気はするけれど、癒されずに蓄積されたストレスの発散が主原因であることが最大の原因、というのはとても納得する。著者のこの論は、『虐待』という他者の本によるところが大きいのようなので、この『虐待』も読んでみたいと思う。また、「小さなネグレクト」について。スーパーでお菓子を買ってほしいと泣き叫ぶ子に、「もう知らない!」と母親が背を向けて帰宅する仕草をみせる、そんなありふれたことも、「小さなネグレクト」であると指摘する。これは、私も時に使ってしまう手だ。屋外に放り出された恐怖を覚えているから、屋外に放置したことは無い。でも、私は同じことをしているのだ。子どもに与える恐怖は大きく、著者は強く非難している。ただ。敢えて異論を挟む。母親には、余裕が無いのだ。福知山線の事故の際に、一分の遅れに目くじらを立てる日本人はおかしい、というような報道を見たことがあるけれど、それは時刻表に限ったことではない。子育ては、時間に追われていると難しいくらい、専門家でなくとも分かる。分かっていても、それが許される社会ではない。「なぜ待たないのか!」と母親だけを責めても、意味が無いことだ。良いことか悪いことか、という議論は別にして、親の権威で子を従わせるのは、とても効率的な方法だ。他の方法が分からない、という技術的な問題もあろうけれども、余裕が無い社会で、親にだけ余裕を持て、というのは非現実的だ。子どもを害する親の行動について書かれた書であるので、親の余裕を許さない社会については別議論でもあるし、書かれていなくても不思議はないが、ハッキリ言って不満だ。でも。社会についてまで書かれていないこと、時々、不必要に辛らつであることを除くと、とても良い本だったと思う。これも公民館で借りた本なので手元に残らないのが残念だ。
2008.02.25
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家族収容所しばらく前に、「読んでいる」と書いたけれども、あの翌日には読みあがっていたにも関わらず、なかなかメモを書けなかった。ココへUPすることが出来なかった、という意味ではなく、メモ下書き自体を作成することが出来なかった。あの記事で、前彼からのDVについて書いたけれども、殆ど、この本について気になったことはあの記事で書きつくしたような形だ。要するに、私は夫からではないとはいえ、DV被害者であるために、DVに関する記事に目が行ってしまって、他の印象が薄いのだ。本の説明を読んでみたり、目次を見たりすると、ああ、あったあった、そんな話があった、と思い出せるのだけれど、どれもこれも印象が薄い。一応、納得しながら読んだ気がするのだけれど、どれもこれも、DVに関する記述の印象が強かったせいで、吹き飛んでしまったようだ。今、メモを書くために、再度思い出そうとしているのだけれども、やはり思い出せない。いや、逆に今は、DVに関する印象が強い部分を排除して思い出そうとするせいか、何も思い出せない・・・・・・という気がする。家族収容所。著者は何を考えてこの本を書いたのか、分からない。イマイチ、結論が見えないのだ。今、家庭内において女性はこんなに虐げられているのだ!と声高に叫んで、女性の解放を求める書なのかと思っていたのだが、どうも違う。「家族と言う名の収容所」において、出来るだけ穏便に生活する方法が、最後の項で書かれているせいかもしれない。何が何でも、現状から飛び出すべきだ、という感じではないのだ。たぶん、もう一度読み返さないと分からない本だと思う。次に読み返すときには、DV以外のところも印象に残ると思うのだが。にしても。これは、公民館で借りた本。本は買って読め、という信条の私にしては珍しく、手元に無い。子どもに自分で本を選ぶ、という経験をさせたいがために、定期的に公民館に本を借りに行くのだが、その「お付き合い」で私も本を借りる。この本も、その「お付き合い」の本。どうしても買うとなると、安価な古本、文庫本になるので、ハードカバーを読めるというのはありがたいのだけれども……私には合わないなあ、と思う。あと、縁があったのか、著者本人のブログを見つけることが出来たので、ここへリンクを書いておく。信田さよ子ブログ
2008.02.22
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少女たちはなぜHを急ぐのかH=セックス、という定義づけでお読みくださいませ。なぜ積読リストに入っていたかも、謎。時々、こーゆー謎の積読があるのよねえ。まあ、面白かったけど。************************************************データを扱う本として、2003年は古いかもしれない。なにせ、ガングロやヤマンバ、日サロが健在。あ~、居たねえ、そーゆーコ……(遠い目昨今見ないってことは、絶滅したんだろうか?彼女たちは今どうしてるんだか。ガングロにしてもヤマンバにしても、まともな大人になっていることを祈るッ!そんなことは置いといて、この本は以前に読んだ『さらば悲しみの性』を思い浮かべる。『さらば……』の方はかれこれ20年くらい前の、産婦人科医の書。なので、流行語などの表面的なものは大きく違うし、『さらば……』は産婦人科医の著なので医学的視点も強い。さらに、『さらば……』が年頃の子どもたち本人に向けた書であるのに対し、その傾向を持つ子どもの親の楽観的視点を戒める書、だと思った。『さらば……』が、安易な性に流れる子ども本人へ向けた書であるなら、『少女たちは……』は、安易な性へ流れていく年頃の子を持つ親への書、だろう。安易なセックスを正面から戒めることよりも、少女たちが安易なセックスを行う風潮はどこからやってきたのか。少女たちに安易なセックスを行わせないためにはどうすればいいのか。少女たちの「証言」を織り交ぜながら、検証していく、と言う形。が。読んでいて、思う。前提に大きく横たわるのは、『シンデレラ・コンプレックス』だと思った。『少女たちはなぜ……』では、シンデレラコンプレックスの名は出されない。でも、『シンデレラ・コンプレックス』を読んだ私は、この本と併せて読むと、恐ろしさを感じる。少女たちの、貞操観念が薄らいでいる。これは、マスコミによるところが大きいと思う。少女マンガでも、すぐにベッドインしてしまうし、ティーン向けファッション雑誌でも性に関する特集はある。中学生でもネット環境が整備されている昨今、性に関する情報の氾濫は目を覆うものがある。楽天ブロガーなら分かるだろうけれど、土日の足跡を辿ると、かなりの確率でアラレもない姿態の画像が大きく貼られたブログに跳んでしまう。これが書籍なら、間違いなく成人用の棚に並んでいるだろうと思うのに、ネット世界ではその区別が全く無い。中学生ブロガーが足跡を辿って、この世界に入っていくのかと思うと、吐き気を覚える。(ついでに、削除されても繰り返し同じページを作成する、彼にも吐き気を覚える)別に、ややこしくID管理されたページに飛ばなくたって、性的サイトは飛んでいけるのだ。これで興味を覚えるな、というのは無理だ。男性が、興味を覚える。それに対して、女性は拒否できるのか。『シンデレラ・コンプレックス』に囚われた女性には、難しい、と思う。男性に好かれることが、女性の価値基準の大きなものだから。シンデレラ・コンプレックスの時代は、表面上は女性が自立しようとする時代だった。自立し、男性と対等に渡り合う力を身につけなくてはならない、という時代。その一方、内面には「女性らしさ」という名の依存心を抱えていて、その矛盾が女性たちを苦しめていた。この『少女たちは……』は、少なくともその矛盾から解放されている。男性に好かれること、彼氏に大切にされること、それも、客観的に見て高いレベルの彼氏に大切にされること、が女性の価値基準の大きなものだ、と依存心が丸出しになっている。私たち、親になった者は思う。女性の体は、育む性だ。安易な性交渉がどれだけリスキーなものか、私たちは身に染みて知っている。安易な性交渉で、病気にかかってしまうこともある。その病気は、当座のものだけでなく、将来の不妊にも繋がる。だから、気をつけなくては、と。でも、それは親になった今だから思えることだ、とも思う。中学生や高校生のときから、10年後や20年後、不妊で悩むことを恐れて、性交渉を控えるとは、思えないのよね。それよりは、当座の問題だと思う。長い将来の話より、目前のことをもっと教えるべきなんじゃないかしら。NOを言ったときの男の反応は、男の器を見定める基準のひとつだってこと。NOを言ってみるのも、テクニックの一つとして必要だってこと。男に依存しなくても、自分を一人の人間として捕らえられること。色んなことを考えてみたりはするわけだけど。なんか、この本、ちょっと物足りなかった。う~ん、中途半端な読書メモ^ ^;;さらば、悲しみの性新版
2007.12.18
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公立中学校で2年生を担任した、1年の記録。1年間の日記に加筆修正を加えた、というもの。奇しくもこの日記が書かれた年は、酒鬼薔薇事件のあった年でもあり、男子中学生が学校で女教師を刺殺するという事件のあった年でもある。近年、中高生の凶悪事件は枚挙に暇無くなってしまった感があるけれども、凶悪事件はこの2つの事件を継起に噴出してきたように思われる。一つの時代の区切りを象徴するかのような事件でもある。その2つの事件が起こった年の、普通の公立中学校の1年を担任の目を通して書かれたのが、この著書だ。私は初めて知ったのだけれども、この著者は教育界では有名な人のようだ。著作はこの本だけではないし、雑誌へ寄稿することもあれば、テレビ出演もある。この本の中でも、マスコミへどのように対応したか、というような記述が何度かある。もしかしたら、どこかで顔を見たことがある人かもしれない。そういう意味では「有名人」の部類に入る人であろうし、全く普通の先生とは違うだろう。出身も、開成中学高校から東大へというから、普通と言うには抵抗がある。そういう、「普通でない人」が勤める「普通の公立中学」の「普通の1年」を書かれている。だから、というわけではないけれども、教職にある方の中では、非常に子どものことを真剣に考えられている方なのだと思う。子どものこと・学校のことを、真剣に考え、憂慮され、行動を起こし、矢面に立つ。これは並大抵のことでは無いとは思う。それが出来る著者は、学校社会においては傑物なのだと思う。でも、私は気に入らない。途中なんども不快感を覚えた。まず、「怒鳴る」という表現がとても多い。解説の中に「怒鳴るのは信頼関係が構築されていないと出来ない」と書かれており、解説を読んでしまうと幾分マシな印象になるものの、理不尽さを感じる。私の個人的体験に根ざす、怒鳴られるということへの恐れが、この言葉を否定的に感じるのだとは分かるけれども、何とも嫌な気持ちがする。怒鳴らねば出来ぬ、と悲嘆を込めて書かれているのだろうけれども、そんな関係が果たして信頼関係と言えるのだろうか。また、「させる」「してやる」的表現もとても多い。常に、視点が上位者、神に近い視点なのだ。そして、それが当然なのだと理論的に書かれている。価値観の相違としか言いようが無いのだけれども、どうにも嫌な気持ちがして仕方が無い。それに、生徒を叱咤する言葉が、私の古傷をえぐる。端的に言い換えると、著者の言葉はこうだ。「キミはこんなにダメだな人間だ。とても普通とはいえない。 特別扱いの屈辱に耐えるか、奮起するか、選べ」当然のことながら、生徒は涙を浮かべながら、奮起を誓う。それで良いのか!???????? と、言いたい。問いたい。これらのことが全て、親業を受講し、自分の過去を顧み、保育士を受験し、というようなことを続けてきた私には、到底受け入れられない。ただ、この著者に納得させられるところもあった。学校、というのは教育の場だ。保育や家庭というような、安らぎの場所とは別の所であるべきなのかもしれない。教育、というのは上から下へ、ある程度高圧的なのは仕方ないことかも知れない。その教育の場で、平安を求めなくてはならなくなった現状をこそ、憂うべきかもしれない。また、学校、というのは一つの組織だ。一人の教員の力量で云々できるところは、小さい。それを、一人ひとりの教員の力量頼みで何とかしようとしてきた部分は、とても大きい。幸か不幸か、教員と言うのはなかなかハードルの高い仕事でもあるので、一人ひとりが志も力量もそれなりにある人たちが揃ってしまったため、全体として何とか運営できるという、幸運な結果が導き出されているだけのことだろう。現場と、安易な論を並べるマスコミ、それに踊らされる保護者、管理者である文部科学省や教育委員会や校長たち管理職、この間の意識の隔絶も、いまさらと言う感じではあるけれども、とても納得。本来、一致団結してよりよい教育を目指してゆかねばならぬ関係であるのに、なかなかこれらの連携が取れないのだ。私は父が教員でもあるので、薄々感じていたことではあるけれど、この矛盾はどうにもならぬものなのかと嘆息してしまう。この溝は、迷走を続ける日本の教育体制と無縁ではないだろう。ともあれ。近年、日本の教育体制はめまぐるしく変わっている。「ゆとり教育」を打ち出していたものを、一転、「脱・ゆとり」へ。指導要領も迷走を続けている。この本が書かれてから、もう数年が経過している。日本の教育を語るには古い本になったかもしれない。
2007.12.06
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忙しいパパのための子育てハッピーアドバイス大好評になっているこのシリーズから、「パパのための」と銘打ったものが出ました。明橋センセイの著書は好きなので、パパじゃないけど読んでみました(笑大人の私、泣くまいと必死。私の中の子ども、大泣き。で、ございました。絶賛です。大人の私は、ありがたくて泣けてきました。いや、まあ、車中だったのでガマンしましたけど。ハナコが生まれて2年近く、私は精神的に不安定でした。実際、当時ネット上でうつ診断をしたところ、重度のうつという結果が出ていました。いくつものサイトを試したのですが、どれも結果は似たり寄ったり。「何やってるんだ、イマスグ病院へ行け!」的結果が出たこともあります。今回も、本書の中ほどにある「産後うつ診断チェックシート」のようなものを、当時を思い出してチェックしてみると、ほぼ全てにチェックマークが入りました。(ちなみに、今の気分でチェックすると一つも該当しません)タロウも、煽りを食って不安定になっていました。ハナコは、私を求めてばかりで、息をつく間もありませんでした。休業中の仮専業主婦の身だったので、家事も私に圧し掛かってきていましたし、我が家に関する全てのことが、私にかかっているような気がしていました。当時を思い返してみると、不満と不安ばかりが心中を吹き荒れていて、その殆どは、タロウへの暴力と、ダーリンへの八つ当たりになって現れました。はっきり言って、私はダーリンの対応に不満でした。ダーリンは本を読まない人なので、読んでくれたかどうかは激しく謎ですが当時この本があったなら、私はもっとダーリンに分かってもらえたかもしれない、もっと適切な対処をしてもらえたかもしれない、と思います。でも、今はもう、過去になってしまったことなので、感謝することが出来ます。何も分からないながらも、一生懸命対応してくれたこと、私に愛想を尽かさないでいてくれたこと、出来る範囲が限られる中で、手助けをたくさんしてくれていたこと。分からないなら、本でもネットでも調べれば良いのに、と思うことも出来るし、黙ってないで、ちゃんと言ってくれたら良かったのに、と思うことも出来るし、私のして欲しいこととずれたことばかりしてくれてさ、と思うことも出来るけど、今はもう過去なので、一生懸命支えようとしてくれていたことや、出来ることを少しでもしようとしてくれたことだけで、十分です。何より、DV寸前の行為を繰り返していたのに、愛想を尽かさないでいてくれたこと。それは本当に、ありがたいことだと思います。そんなことを思いながら、読んでいるとね。ダーリンって、かなり理想の旦那さんなんです。家のことも、色々やってくれます。平日は子どもとの時間が取れないとはいえ、休日はよく相手をしています。休日のお風呂は、「お父さんじゃないとイヤ」と子どもに言われたりします。休日の昼食に焼き飯を作ると、「お母さんのは不味い!お父さんのが良い!」と言われます。タロウも父親が大好きで、先日の遠足は「お父さんと行く!」と言って譲りませんでした。ハナコも大好きで、帰宅した物音がすると玄関に飛んでいきます。私がダーリンとハグしていると、本気で妬き、「ずるい!」と言って嘆きます。二人とも、技能的なことは私ではダメと思っているらしく、父親に対する信頼は絶大です。地域行事などに支障が無い限り、私が一人で出かけることも、子連れでダーリン一人を残して出かけることも、普通に受け入れてくれます。私を制約しないでいてくれること、とてもありがたいです。この本を読みながら考えてみると、ダーリンは書かれていることのほぼ全てをクリアです。体力は無いし、白いアスパラみたいに貧弱だし、食事マナーは極悪だし、セックスの相性もイマイチっぽいけど、理想の父親、理想のパートナーだと思いました。てなことを考えながら、涙無く読むのは大人の私には辛かったのですが。一方で、私の中の子どもにとっても、涙無く読むのは辛い本でした。ダーリンと見事な好対照で、実父は書かれて「タブー」のほぼ全てを犯しています。ええ、確かに、世間様で虐待と言われるほどの暴力は受けてません。日常的に暴力がある家庭でもありませんでした。少なくとも記憶に残っている限り、私が叩かれたのは生意気盛りの思春期に一度きり。母に手を上げている所も、妹に手を上げている所も、記憶にありません。でもね、「小さい子どもは言っても分からないんだから、叩いて躾けるべき」、と公言しちゃう人が、記憶に残らない程幼い頃の私にどんな対応をしたかなんて、深く考えなくても分かるじゃないですか。孫がビシバシ叩かれているのに、子が叩かれてないわけ無いじゃないですか。タブーの中では、それだけが推測ですけど、ほぼ間違いないです。それに、母親への対応もタブーそのもの。母を受け入れることも、母と話をすることも無く、膂力を必要としない家のことは一切ノータッチで通してきた、父。(膂力を必要とすることはやってましたけどね)仕事が忙しい、とは言いませんでしたよ。教員だから、学校のことで大変、とは言ってましたけどね。疲れてるのに誰も労わってくれないとか、さんざ言ってますしね。母に労わりの言葉をかけてるトコなんて見たこと無い。ラクしてるとか、養ってるとか、言ってるとこは見たことあるけど。ダメダメじゃん(苦笑と、大人の私が苦笑するのと裏腹に、私の中の子どもは号泣。なんて感じで、大人の私と、子どもの私の読後感がかけ離れちゃって(笑絶賛できるし、すぐ読み終わる本なのに、疲れました。。。。ところで、一箇所だけ激しく気になったところが。134ページにあることば。要するに、子ども時代から、大人の役割をせざるをえなくなります。いわゆるアダルトチルドレンです。明橋センセイが、アダルトチルドレンについて誤認してるとは思いづらいんだけど、これをACに関する知識が無い人が読むと、どう認識するだろう?それでなくても、アダルトチルドレンって言葉はよく誤用されてる。子ども心を忘れない大人、とか。図体はデカいのに精神の成長が遅れてる、歳のいった迷惑な大人子ども、とか。まあ、そんな感じ。むしろ、ACの自覚が無い人や、心理学系に興味が無い人にとっては、そう認識されてるのが標準ってくらい、よく誤用されてるみたいなんだけどさ。そういう、アダルトチルドレンについての認識が足りない人がこれを読んだら、どう思うんだろう?「背伸びしてるガキンチョ」って思わないだろうか?それはまあ、確かにACの一面ではあるんだけど……。なんか、納得行かない……。あ、ちなみに。アダルトチルドレンに関する説明は、Wikipediaへ。結構、分かりやすくまとめられてると思う。
2007.11.21
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〈私〉はなぜカウンセリングを受けたのか東ちづる、って人の本。広島県出身タレントさんなので、名前くらいは知ってるけど、そもそもTV見ない、芸能ネタに興味ない、という私はそれ以上のことは何も知らない。でもこの本はアダルトチルドレン関連本なので、前から興味があった。その期待は、裏切られなかった。とても良くて、期待以上。アダルトチルドレンに関する本を読んできて思うんだけど、日本と欧米に圧倒的差がある。今でこそ、色々なところでアダルトチルドレンについて語られるようになったけれど、日本は輸入してその考え方を知ったのであって、日本で派生した考え方ではない。つまり、アダルトチルドレン関連本には欧米を基本とする考え方が非常に強い。AC関連本で回復について語られるとき、必ず対決について触れられる。親と対決するのは、対決によって和解することを目的とするというよりも、親に対する諦めを持ち、過去の自分自身を越えることを目的とするようだ。ケンカ別れになるかもしれないが、それはアナタにとても意味のあることなのだ、と。この考え方に異論があるわけではない。ただ、国土の狭い日本では難しいと思う。広大な国土のアメリカでは、州を越えてしまうとずいぶん距離があるはずだ。対決して、ケンカ分かれに終わった。でも、車で30分そこらに住んでいるのでは、知らぬフリも出来ない。車で30分とは言わなくても、北海道から沖縄までだって、飛行機でスグだ。顔を合わせれば、いつのまにか、ナアナアのままに、以前の関係に戻っていく。距離を別にしても、「訣別」、ということが日本では難しいのだ。地縁、血縁、たくさんの「縁」が張り巡らされている。盆正月は日本全国が帰省ラッシュに覆われる。「年に1・2回は実家に帰省する」というのは日本ではかなり一般的だ。さらに、戦前ほどではないにしても、儒教の考え方はまだ色濃く残っている。連絡も関係も断つ、というのは「絶縁」に近いことで、一種の悲壮感を伴う。対決するにはそれなりの心構えが必要なことに異論は無いにしても、いちいち「絶縁」を覚悟しなくてはならないとしたら、それはあまりにも高いハードルだ。私自身、何度か対決を試みた。が、その都度挫折してきた。心構えが、覚悟が足りなかったのだ、不退転で望むべきだったのだ、と言われてしまえば返す言葉もない。でも。でも、だよ?日本はまだまだジジババを戦力にしない子育ては大変だ。出来ない、とは言わない。だけど、とても大変だ。共働きの支援体制も、整っていない。専業主婦の支援体制も、十分でない。凶悪化していく社会は、サービス充実の追随を許さない。企業風土は少子化対策に向かっていかない。長引いた不況は、家庭から「サービスを買う」経済力を奪う。ACの克服を目的に、両親と対決し、ケンカ分かれになった時、ACという視点からのストレスはずっと軽減されるかもしれない。親と訣別し、親離れして、自己の人生を生きていくのはすばらしいことだ。でも、そのために陥る過酷な環境も、別に存在するのだ。時間との戦い、家計との戦い、眼窩の消えない隈、荒れる肌、慢性睡眠不足、フル回転。私は、親と対決し、訣別しなさい、というのは日本では難しいと思う。少なくとも、一般的に「しつけ」と言われる程度の虐待で傷つけられた子どもに、そこまで求めるのは酷なのではないかと思う。AC関連本を読んできて疑問を感じていた私には、この本は、理想のカタチに近かった。散々、親子で「対決」を繰り返しながら、解決できなかったことを、カウンセラーの力を借りた、三者面談で解決していく。まさに、和解。確かに、「ちょっとそれは…」というところもある。著者が終始「母は……」という視点であることが気になるし、そんなに親を気にしなくても良いのに、とまだるこしく感じることもある。私は、ACの克服は「親からの見えない束縛から自由になること」だと思っている。だから、終始「母は……」と言い続け、母親のAC克服を全面に出している著者の姿は、とてもACを克服したとは言えない。親はどうでもいいから、アナタはどうなのよ!!といいたいキモチを何度も飲み込んだ。でも、この本に納められているカウンセリングのなかで、母娘の関係は劇的に変わる。東ちづるさんは兎も角、母親が劇的に変わり、母娘関係も変わったのだ。これは本当に、大きなことだと思う。そして。その変化には、カウンセリングが欠かせなかった。カウンセリングの様子が書かれているのだけれど、私は、今になって、私のカウンセラーと私が合わなかったことを知った。確かに、最初の2・3回は胸の中に長年溜めてきた思いを開放することが出来たけれど、それ以降、全く世間話以上の話が出来なかったのだ。私がカウンセリングを受けたカウンセラーも、私と同じように精神的虐待を受けた人で、「いい子である悲劇」を身をもって知っている人だった。私は、カウンセラーのその傷口を意識しすぎた。私が彼女と共通するような傷を晒すと、大きく同意して自分の考えを語った。これが相性の問題なのか、私が彼女に母を重ねたせいなのか、彼女の力量不足なのか、それは、専門的なことだし、もうずいぶん前のことになってしまったので、分からない。カウンセリングを受けたのはじめてのことなので、こんなものだと思っていたし、友人にも夫にも喋れなかったことを喋ったのは確かなので、疑問も抱かなかった。でもやっぱり、「合わなかった」としか思えない。45分の時間中、40分まで関係ないことしか喋れないなんて、変だ。もっと早くに疑問を抱けば良かった、と思った。「カウンセリングなのに話せない」「カウンセリングだから話さなくちゃいけない」、そんなふうに考えて随分辛い思いをしたというのに。私のカウンセリングがうまくいかなかったのは、私が悪いせいだと感覚的に思っていたのだけれど、そうではないと知って、とても心が軽くなった。
2007.11.02
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しばらく前にNHKスペシャルで同名のものを放送していたが、これはその番組の内容と、その制作に係る経緯等をまとめて書籍化したもの。ちなみに、私はその放送を見ていない。この『ワーキングプア』は、書籍なので当然映像を伴わない。肉声も効果音も伴わない書籍と言う媒体は、冷酷に現実を伝えるに相応しい。読み進むにつれ、背筋が冷えていった。この『ワーキングプア』の中でも製作陣の殆どが、「貧困は個人の自助努力が足りないせいだ」との認識を持っていたと書いているが、私が持つ貧困に対する意識も、その程度のものだった。私が過去に付き合ってきた「フリーター」達の姿は、私のその認識の裏づけになることはあっても、否定するものではなかった。刹那的・享楽的で、当座の女と酒とドラッグがあれば良い、みたいな人たち。若者の「ワーキングプア」に焦点を当てた章で最初に思ったのは、彼らのことだった。あたしはその当時19か20で、彼らは三十路を少し超えた所だった。当時のあたしには、アウトロー的生き方を実践していた彼らにあこがれたけれど、あたし自身が三十路の関を越してみて考えると、彼らのその姿は異様だ。10年前はまだまだ不況の只中だ。まだまだお子様だったあたしは、その違いを考えることもしなかったけど、親の脛をかじる学生のあたしと、自活する彼らの間には、明らかな断絶があったはずだ。彼らは刹那的・享楽的で自助努力なんて鼻先で笑い飛ばすアウトローだったけど、一面では腕の確かなプロでもあったし、努力家でもあったことを、今になって思い出した。「フリーターは自助努力が足らない」という私のイメージは彼らに負う所が大きいが、彼らが教えてくれた技能や、その技能を維持するためのトレーニング姿を、あたしは彼らと一緒に鼻先で笑い飛ばしていたのだと思う。本人たちが笑い飛ばした努力を他人が笑い飛ばす罪悪に、10年経ってやっと思い至った。彼らは今、どうしているだろうか……。閑話休題。以前から気になっていたのは、憲法第25条との矛盾だ。日本国憲法第25条では、以下の通り規定されている。すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない日本では、この憲法に則り、社会福祉基盤が作られている。生活が立ち行かなくなれば、生活保護を受けることも出来る。必要な社会福祉サービスは揃っているはずなのだ。理論上は、ホームレスが生まれるはずは無いし、貧困もあり得ない。しかし、それが蔓延しつつある、という現状は背筋を凍りつかせる。生活保護を受けるのは、それなりに厳しいハードルがある。資産があるならば、その資産の処分が先にたつ。車や持ち家、土地があればそれらを処分しなくてはならない。父祖伝来の……なんて言って土地にしがみつくのは、今時ナンセンスよね、思っていたけれど、失うのは土地だけでは無いことを、知った。資産と伴に失うのは、矜持だったり、思い出だったり、拠り所だったりするわけだ。それらを失わないために、「健康で文化的な最低限度の生活」以下の生活を余儀なくされる。しかも、それは他人事だと思っていられるには、余りに発端が身近すぎる。勤務先の倒産。離婚。死別。介護者を抱える。実際、私の身にだって起こりうる。両親は老親になりつつあり、いつ介護が必要な身になってもおかしくない。両親の手助けが無ければ、子どもを抱えてのフルタイム共働きは難しい。あたしがパートの身分になったところでダーリンの会社が倒産でもしたら、たちまち生活に行き詰るだろう。生活に行き詰ったところで、皺寄せは子どもに向かっていく。本人が望むだけの教育・生活を与えられることが難しくなっていく。それはフリーターやニート、若者のワーキングプアに繋がる。ワーキングプアの生活で老後の備えが出来なかった人たちは、死ぬまでワーキングプアであり続けるしかない。そこには、本人の勤勉な努力とは無関係の、非常な資本主義社会の姿がある。資本主義が悪い、とは言わない。資本主義は市場の理論であって、経済の理論だ。だから、それが全てであってはならない。それは、産業革命以降、社会保障が成立していく流れの否定だと思う。産業革命の後、イギリスでは安価な労働力が大量に流入した。生産の効率化で、男性社会であった労働社会に機械と女性が入ることになった。それは労働単価の下落を招き、女性のみならず、子どもまでが労働力に組み込まれた。男が一人働いても家族を養えないなら、女房も働く。親が二人働いても家族が生活できないなら、子どもも働く。これは一見、正常な話だ。でも、その「子ども」が5歳の幼児まで含まれるとなると、それは異常だ。現代の福祉は、そこからスタートしてきたはずだ。でも、『ワーキングプア』を読みながら思い出したのは、この産業革命の後の無節操な資本主義社会だった。今、日本でも同じことが起きているのではないか。安定した雇用を確保することは、今の企業には難しいことだ。パートや派遣、外国人労働者をうまく使っていくことが、常識になりつつある。そうしなければ、企業収益が維持できない。だけど……それは、とても怖いことなのだと知った。この本は怖すぎる。あまりにも衝撃的で、考えなくてはならないことが多い。この本の感想を書くのは、とても難しい。とりとめのない話になりそうなので、この辺りで止めておく。
2007.08.22
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マンガです。「続」とあるだけに、本編もあります。【古本】続 凍りついた瞳 被虐待児からの手紙/ささやななえ 椎名篤子『凍りついた瞳』(本編)も、話題作だったらしく、児童虐待に関するものとしては、よく引き合いに出されて居たりします。ちなみに、『凍りついた瞳』(本編)の方は、児童虐待に係っている人たち、医師やカウンセラーなどの視点で描かれたもので、児童虐待がどういう性質のものなのか知るには良いと思う。一方、『続』の方は、児童虐待を生き抜いた人たちの手記を漫画化したもの。ずいぶん前から持っていたのだけど、久しぶりに読んだ。この『続・凍りついた瞳』では、身体的虐待や性的虐待、育児放棄を生き抜いて親になった人たちが、子育ての中で虐待の連鎖に気づき、なんとか連鎖を食い止めようと、必死でもがく姿が描かれる。それは、過去のあたしの姿と、重なる。あたしは今、めったなことでは子どもを叩かない。「親業」というコミュニケーション手段を得たことや、子どもが成長して言葉での説明が通じやすくなったことも、叩くという必然性が無くなって来たことと無関係ではないと思うけれど、「怒り」の感情が湧きあがることが、以前に比べると極端に少なくなったと思う。「怒り」という感情が湧きあがることが無い生活が普通になってくると、あの、毎日怒りをあらわにせずにいられなかった生活は何だったんだろう、と思う。本当に、あの頃のことは夢の世界のように現実味が薄れつつある。でも、あれは紛れも無く現実の、過去の私の生活。半分忘れかけた、あの苦しかった日々が、この漫画には描かれている。子どもを叩きたくないと思っても、他の育て方を知らず。叩くまいと思っても、自分の手を鎮める方法を知らず。流されまいと思っても、自分の感情の奔流を押し留める方法を知らず。結果、どうしても叩かずには居られない生活。この漫画では、結構簡単にみんな虐待を止めていく。ひどい虐待を受けたことが、子どもを叩いてしまう原因であることに気づき、理解あるパートナーの支えを得て、虐待の連鎖を止めていく。だけど、そんな簡単なもんじゃないんだよね。。。パートナーの理解があれば、ラクだと確かに思うけれど、パートナーの理解だけで超えられるものでもない。あたしはココでたくさんのことを吐き出して、棚卸しをして、それで、あたしの中に抑圧されて溜まっていた「怒り」がなくしていった。でも、棚卸しの間、心の傷口はパックリと開いたままになっていて、棚卸しを始める前よりもつらい状態に陥ったことも、何度もある。心の棚卸しは、そんなに生易しいものではないことを、あたしは知っている。あの頃、抑えても抑えても、ふとした拍子に噴出してきた、怒り。あたしはなんとたくさんの怒りを、心の内に持っていたのだろう、と思う。そしてそれらの「怒り」が、元々は悲しみであったり、苦しみであったり、裏切られた期待であったり、切なさであったり、恋しさであったりしたことを思うと、これまであたしは、なんてたくさんのことを耐えてきたんだろう、と思う。あたしは、この『続・凍りついた瞳』を読みながら、あたしが超えてきた道を思った。あまりに簡単に止められていく虐待の連鎖には、正直なところ違和感もあったけれど、あたしが覚えておきたいことを、しっかり思い出させてくれた、有難い本だった。『凍りついた瞳』とセットで、とてもオススメ。あ、でも。心に傷がある人にはオススメしない。絶対、フラバくるよ。それと。この時期、レビューをUPするなんて、アンタ勉強はどーしたのよ、ってコトには触れないでください……。明日から頑張ります。ええ、明日から……。
2007.06.27
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『あなたがあなたであるために 自分らしく生きるためのアスペルガー症候群ガイド』アスペルガー症候群の中高生本人を対象に書かれた本。アスペルガー症候群(以下AS)、リンク先のみらいさんの影響で、しばらく前から興味はあったんだけど、いざ本を探すとなると難しいのね。子どものASについての本は、結構あるのよ。担任の子どもがアスペルガー、みたいなのを想定した本とかね。だけど、なんかイマイチ、ピンと来ない。というか、専門用語があったりして、小難しく、読む気にならない。実際に自分の子どもや受け持ちの子どもがASであれば、読み漁るだろうけど、ちょっとそこまでのパワーは今のところ、持ち合わせてない。そんな感じで、なかなか思う本に出合えなくて、探してたんだけど。コレは、良かったな、と思う。中高生の当事者を対象にしているので、とても丁寧に、分かりやすく書かれている。文章が分かりやすく、平易であることも良いけれど、ネガティブな印象を払拭してくれるような配慮に富んでいる。ASは確かに少数派ではあるし、そのために大変なこともあるけれど、尊重されるべき大切な個性なのだ、というように。ASが持つ特徴も丁寧に色々と書かれているけれど、ひとつとしてネガティブな印象を受けるものが無い。というより、ASではない人間からすると、ASって実はすごいんじゃないか、って思えてくる。っていうより、「AS、すげー!!!」としか思えなくなってくる(笑ただし、中高生の当事者あてに書かれたものであるために、意識的に専門的な難しい説明は省かれているし、サポートする側(親・保育者・教育者)がとるべき手段についても省略されている。つまり、アスペルガーに身近に関わる人についての書としては、入門書としては非常に良いとしても、十分であるとは言い難い。これからしばらく、意識的に読書量落としていくつもりだから、詳しい本を読むことは出来ないけれど、最初に読んだ本がコレでよかったと思う。
2007.06.12
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『シンデレラ・コンプレックス』を久しぶりに読みかえしている。この本を最初に読んだときに受けたものすごい衝撃のことは、今でも覚えている。この本を読んだことで、少なからず依存心から脱却できた部分もあって、この本との出会いは、私の転機のひとつだとも言える。今、再読すると、私の中の依存心がかなり薄れてきたことを感じる。この本を読んでから今までが、季節的に動きやすくなる時期ともリンクしているし、子どもの成長著しく、夫の手助け無しでの外出が苦ではなくなる時期ともリンクしている。つまり、環境的に動けるようになる条件が揃ったことともリンクしているから、単純に依存心だけの問題とは言えない部分もあるのだけれど、変化は大きい。この本をはじめて読んだときには、私一人で子ども二人を連れての外出は、近所のスーパーが限度だと思っていた。今は、どこへでも行ける気がしている。ゴールデンウィークにも、ダーリンとケンカして旅行が頓挫しかけ、私一人で子連れ一泊旅行をするつもり満々だった。彼氏が出来たり、結婚したり、子どもが出来たり、そういう節目ごとに、私は依存心を強め、友人と距離をとり、フェードアウトしていった。切れていった私の交友関係も、少しずつ回復している。確かに、私は家庭の生育暦の問題で、交友関係を築きにくい素地を持っていた。私の友達関係にクチバシをつっこみたがる過干渉の親をもっていたせいで、私の領域を守るために、友達関係を出来るだけ希薄にすることも必要だった。だから、私は友達との信頼関係を築くことがとても苦手だ。でも、それとは別次元で、男を得て、男に対する依存心が働いたことも、友達関係が希薄になっていく要因のひとつであったことも、確かなのだ。今、私は少しずつだけれども、失った友人関係を取り戻そうとしている。10年前、15年前の友人たちと、少しずつ近寄り始めている。新しい友人も、出来始めている。そのことは、私の世界を少しずつではあるけれど、広げてくれている。少しずつ、私はまた、自分の足で立ち始めたのだと思う。私の中にある潜在的な不安や不満にダーリンが気づかないことも、不満には感じなくなった。いろいろなことを「○○シテクレナイ」と始終不満に思っていた私は、もう居ない。この差は、とてもとても大きく、なんと自由なんだろう、と思う。でも、やはり、不安になることもある。私はこれから正社員を辞めて、パートになろうとしている。これは「経済的に自立した一人前の大人」であることの、放棄でもある。パートの給与だけでは、私一人だって食べていくことは難しい。経済的な強者と弱者、の構図が出来上がるのではないか。妻が被扶養であることに、抵抗が無い人もあるだろう。扶養される専業主婦であっても、単なる役割分担だと割り切れる人もいるだろう。世の中には、そういうのが違和感無く受け入れられる人が居ることも知っている。だから、単なる考え方の違いなんだと思うんだけど、残念ながら私はその考え方を、アタマで理解することは出来ても、実感として理解することが出来ない。私は過去の産休・育休の専業主婦疑似体験の間に、それをイヤというほど味わった。私は、夫に扶養される、ということを「服従」だと受け取ってしまう。「養っていただいている」立場だと思ってしまうし、夫と対等の立場だと、認識することが出来ない。『シンデレラ・コンプレックス』は、著者が「経済的に自立していない、扶養される妻の依存心」を発端に書いたものなので、経済的に自立していないこと(=専業主婦)に対して、非常に辛辣でもある。専業主婦タタキが目的ではないから、直接こき下すとか言うわけではないし、キャリアを持つ女性もシンデレラ・コンプレックスと無縁では無いと書かれているけれど、それでも専業主婦に対して厳しい目が向けられていることは確かだ。私は今、正社員で働いているから、夫の給与とあまり差が無い。でも、今後パート労働者になると、その差は大きくなる。私は、扶養される立場になる。扶養される、ということが、自分自身に対する責任の放棄になりうる。少なくとも、私の場合は、過去そうだった。かれこれ10年前。小学生の頃から自分に誓った大学院進学を諦めて、一般企業へ就職。初めて給与を受け取ったときの、なんともいえない充足感。自分の足で立つことが出来た、というあの喜び。私の望む仕事でもなんでも無かったけれど、私を働き続けさせたのは、あの、独り立ちしているという実感に他ならない。私は、今まで認めたくなかったことを、書く。私は、夫より「デキル」自信がある。残念ながら、夫は「切れ者」では無い。私は夫に対して、切れ者であることを求めていないから、それは全く問題ないことではあるんだけれども、夫より遥かに「切れ者」である私が低賃金労働者になり、私より遥かにニブイ夫が責任も収入も地位も得ることは、ひどい不公平感を感じる。ああ、でも。今までアタマの片隅で漠然と思いながら、形にしたことがない思い。なんとなく怖くて目をそらしていた、自信。これが書けるようになった分、私は依存心から抜け出せたのだろう。なんと、なんと、気持ち良いことだろう。
2007.05.29
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出版されたのはいつだったか忘れたけど、当時ずいぶん話題になった本だと記憶してる。浄土真宗大谷派門主の著。え、大谷派で良いんだよね……ね?ね? >アヤシイ気にはなりつつ、なかなか手が伸びていなかったのだけど、(つか、単に文庫化されないだろーかと待っていた)図書館で出会うことができたので、やっと読んでみた。題になった、「朝には紅顔ありて」ってのは、浄土真宗中興の祖、蓮如上人の書かれた、「白骨の章」って御文章の中の言葉。朝にはには紅顔ありて、夕べには白骨となれり、って。白骨の章ってのは、葬式だろーが、法事だろーが、何かあると必ず読むものなので、浄土真宗なら誰でも知ってる。これぞ、真髄、みたいに大切にされてる文章なのね。で、こーゆー題をつけてるくらいだから、すごく丁寧に、浄土真宗の教義に則って、社会事象について書かれる。それも話し言葉だから、すごく感じが良い。だけどねえ。説教くさくて、今のあたしに読める本じゃない(ヲイなんかねー、今のあたし。ホント、脳ミソが戦闘状態になっちゃってるらしくって。癒し系というか、ありがたいおハナシは受け付けないのよ。ほんっと、駄目。こーゆーのは、もうちょと心にゆとりがあるときに、ゆったりした気分で読まなきゃ駄目ね。逆にイラつきます(笑落ち着いたら、読み返せるかな?
2007.05.15
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母親から子どもに対して行われる暴力について、男性特有の、とても理論的で緻密な視点で書かれた本。直接的に数字を扱っていないにもかかわらず、とても冷静に書かれている。今まであたしが読んできた本は、感情の部分に関わるものが多かったので、ものすごく新鮮な感じを受けた。『母という暴力』、については最初違和感があったけれど、「母という暴力」と「母の暴力」は厳密に分けられており、この本の中で語られているのは「母という暴力」について。確かに、日本の児童虐待は母によって行われることが多いけれども、それが「母の暴力」によるものなのか「母という暴力」によるものなのかでは、意味合いが全く違うのではないかと思う。たとえば、子どもが皿を落として割った時に行われる暴力。日本の場合は、父親より母親の方が圧倒的に子どもに関わる時間が長いために、「子どもが皿を割る」という現場に居合わせる確率も、母親の方が圧倒的に高い。そのために父親よりも母親が折檻する確率の方が高くなる。これは、「母という暴力」ではなく「母の暴力」だと言う。そうではなく、「母」という存在の根源に関わる暴力を見ていく。良妻賢母思想や男尊女卑思想を基とする、母親のありかたに関わるもの。乳房・子宮という母親の根源に関わるもの。女性の社会進出と、時代の変遷により生じてきた、それらの思想と現実の乖離。著者は、根源的に女性は暴力と無縁ではいられないという。この言葉、ちょっと極論っぽいけど、すごく説得力がある。あたしは既に二児の母だから、二回も「子どもを生む」という暴力を働いている。子どもを生む、それ自体が一つの暴力であることを、あたしは否定できない。それは、この本を読むまでもなく、以前から感じていたことなんだけどさ。そんなことを考えてるあたしは、この本、すごく納得した。まあ、出産前だったら怒ってただろうけれど(笑「女性は生む機械って発言した某大臣といっしょだろー、プチッ」って感じで(笑既に母親になっちゃってる立場だからこそ、読めたものかもしれない。とても細かく、冷静に書かれている。人が人を育てる過程で発生するのが児童虐待なのだから、人が感情を持っている以上、感情を置き去りにした理論は空しい。でも、感情にばかり焦点を当てるのではなく、一歩離れた、冷静な視野で原因と現状をみていくのは必要なことだ。ところで、この本。商品リンクは「増補版」なんだけど、あたしが読んだのは「増補版」では無いのよね~。気になるわ、「増補版」。
2007.04.12
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東京都三鷹市で、子育て支援に関わっている人の著書。この本の中で、何度も「三鷹は進んでいる」というようなことが書かれる。他の自治体から「三鷹の真似は出来ない」という声も上がるらしい。それくらい、三鷹市は子育て支援に関わる体制が充実しているらしい。著者は、家庭相談センターで親子のサポートをしている。この本は特に難しいことを書いてあるわけじゃなくて、三鷹市の体制の中で著者が実践してきたことを、淡々と書かれている。まあ……実際のトコ、難しいことを簡単に書いてあるんだと思うんだけど(笑何件かの虐待例とその原因、センターの取った対応、回復の過程を書かれている。個々のケースの原因についても書かれているけれど、その下敷きになる、現代社会が持つ子育ての難しさについても要点を突いて書かれている。とても丁寧な、女性らしい言葉で書かれているので優しい印象が強く残るが、書いてある内容は的確で、鋭い。後半には、著者と連携して子育て支援を行っている、医師や保育園園長などの言葉もあり、センターをとりまく支援体制の充実もうかがわせる。先に読んだ、『児童虐待』と重なる所もあるけれど、『児童虐待』が体制の不備や社会の問題をついた問題提起の書であるとするなら、『親子再生』は限られた体制と社会の中で如何に支援してきたかの実践集という感じ。子育て支援について先進にある三鷹市の、その先頭を走ってきた著者だからこそ書ける、経験に基づく、子育て支援のあり方の一つの方向を指し示す本だと思う。こんな本を読んでいると、自分のしたいことが見えてくる気がする。あたしは、今、保育士を目指してる。でも、それは子どもに関わる仕事をしたいって言うより、子どもに関わる仕事を通して親を支えたいって思いの方が強い。あたしのACを気付かせてくれた、ハナコ。あたしがACに気付くまで虐待に耐えてくれた、タロウ。そんなあたしを見守ってくれた、ダーリン。実生活で必要な援助を惜しみなくしてくれた、両親。だけど、それだけ恵まれていながら、あたしはすごく孤独で、苦しかった。子どもを虐待から守るって、ただ子どもを親から隔離するとかじゃダメなんだよね。緊急避難的にそういうのが必要なこともあるけれど、それじゃ全然解決にならない。親を支援することが、親が幸せであることが、回り道かもしれないけど、子どもの虐待を無くして行くことなんだよね。あたしは、そういうことしたいなあって思ってる。あたしが一番辛かったとき、欲しかったのはそういう手助けだからさ。ま、何にしても、とりあえず保育士。とりあえず、保育士資格取得だわ~ッ!**********************ところで。願掛けじゃないけど、保育士試験まで小説断ちをしようと思う。今回読んだみたいな本は、テキストの知識をつなげていくためにも、自分の意識を資格取得に向けておくためにも必要なので、止めないけど。でも、ちょっとペースは落とそうかな。でなきゃ、勉強の時間を確保できないし。っつってんのに、気になる本の文庫版がいっぱい出てるのよ~ッ!激ムカツクっ!!
2007.04.11
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児童相談所の現場の立場から書かれた、提言。しばらく前に、これを読まれたレビューを読んで、とっても気になってたんだけど、なかなか巡り会えず、やっと念願かなって読めた本。スゴイよ、コレ。あたし、今、保育士資格をとろうと思って勉強してるわけだけど、その中に「児童福祉」って教科があってね。児童虐待を含む、子どもを取り巻く福祉の対応についてのものがあるの。で、それで一通りアタマに入れたツモリだったんだけどさ。呆気に取られちゃったわよ。2000年に成立した、「児童虐待防止法」ってのがあるけど、それより前にも児童福祉に関する法律ってのはたくさんあってね。まあ、それでは対応しきれないから、2000年にこの法律が制定されたワケだけど、現場から見て、これではとっても間に合ってませんって現状を曝け出されちゃってる。確かにね、「児童福祉」を勉強してるときの印象でも、「要するに、子どもに関することで困ったことがあれば、何でもとりあえず児童相談所に相談しとけ♪ってことなのね」、って感じになるくらい、児童相談所ってたくさん出てくるの。子どもが虐待によって酷い怪我を負ったり、亡くなったりしたニュースがあると、その度に「児童相談所は何してたんだ!」みたいな、タタキに近い現象が起きるじゃない?ンなことに対応するのが、児童相談所だろ!ちゃんとやれよ!みたいにさ。だけどね、この本を読んじゃうと、すごく納得する。どだい、ムリな話なのよ。児童相談所って、元々、児童虐待にだけ対応してる機関じゃないわけ。発育に関する子育て相談みたいなこともしてるし、不登校や非行問題、その他もろもろ、子どもに関することは何でもやってる所なのね。それだけでも、ものすごいボリュームだと思う。それなのに、深刻な児童虐待が珍しくない社会になっちゃって、児童相談所の機能はイッパイイッパイなのよ。勿論、何か事件があるたびに「児童相談所は何してんたんだ!」って非難が起きるのは、殊勝に受け止めるべき当然のものだとは書いてある。でも、「すいません、以後心して頑張ります」って言ってられる範囲を超えてる、ってことを、社会はもっとしっかり考えていく必要がある。司法や警察との連携にも問題があって、虐待の酷い事例でのジレンマもたくさんある。司法や警察の協力を得て、子どもを保護することが出来ても、児童相談所の数が限られていることもあって、通学が出来なくなったり、友だちなどから離れて生活することになってしまう。子どもを保護したら保護したで、それはまた大変なことなのだ。なんにしても、まだまだ日本の児童福祉は貧困。(児童福祉に限定したことじゃないかもしれないけどさ)それでも、少しずつでも、前進していかなくてはいけないことなんだよね。現状を嘆いているだけじゃ、どうしようもないんだもん。あ。でも、記憶力ついていかないんで、保育士資格取得するまではあんまり変わらないでください……。なんて思っちゃうあたしは、酷いカモ。
2007.03.15
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親業・ゴードン博士自立心を育てるしつけ久しぶりの親業関連本。しばらく前に、『子どもへのまなざし』を読んでから、ずいぶん引っ張られちゃって、ちょっと不安定になってた。『子どもへのまなざし』、総合してみるととても良い本なんだけど、あたしが幼児期の子どもを持つ親である以上、幼児期について書かれている箇所には注力して読んでしまうのは当然のことで、その幼児期の対応について書かれている内容が、合わなかったのよね。たぶん、読み方が「木を見て森を見ず」的なものになってるんだと思うんだけどさ。それは、自分でも分かってるんだけどさ。『子どもへのまなざし』で、幼少期の子どもの欲求は全て叶えてあげましょう、なんてことを書かれているわけね。自分の欲求を叶えてもらった子どもは、愛情を感じて育ちます、ってさ。それはそれで、とても説得力があったわけだから、あたしもタロウやハナコの欲求に応えようと努力してきたのよね。だけど、それが辛かったのも、事実。久しぶりに親業の本を読んで、その答えが見付かった。子どもの全ての欲求に応える、というのは「親が敗者型」なわけよ。そりゃー、辛いわさ。受け容れられないわさ。多分ね、『子どもへのまなざし』で書かれていたのはもっと概念的なことで、親業で語られているのはとても具体的なことで、見てるものが違うんだろうけれど、専門家でもないあたしがそれを同次元のものとして捕らえてしまうのは仕方が無いよね。子どもの欲求を全て叶えること。これは、理想だよね。実態として、親と子どもの欲求は対立するもの。そのとき、親が子どもの欲求を受け容れることに何の抵抗も無ければ良いけれど、すべてにおいて子どもの欲求を受け容れるってワケには行かない。寒い日に薄着で外へ飛び出しちゃう子ども。ンなことはどーでも良いから遊びたいって言ったって、そのままにしておけば風邪をひいちゃう。お菓子を食べたいってダダをこねる子ども。その欲求を受け容れれば、晩ご飯をロクに食べなくなる。親と子どもの欲求は、いつだって対立するのだ。それを、親が子どもを受け容れることで、子どもに愛情が伝わる、というのは間違い。親は子どもに対しても、自分に対しても、否定的な気持ちになるし、子どもはそれを敏感に感じ取る。愛されてるなんて思うわけが無い。子どもの要求を全て受け容れるべき、というのは、正しくない。あたしは、それを忘れていて、混乱してた。だから、タロウやハナコが何か主張するたびに受け容れなくちゃって思って、子どもの欲求を受け容れるたびに不快感を覚えたし、不快感を覚える自分を「ちっちぇーヤツ」って思ったりした。違う、違う、違う。親が勝って子どもが負ける、勝者型も、子どもが勝って親が負ける、敗者型も、どっちもリスキーなのよ。勝負なし型が出来るのよ、親業は。それをすっかり忘れちゃってた。あー、自分で、最近ちょっとヤバイから、親業の本読まなくちゃ、なんて思ってただけのことはあったわ。ちゃんと答えがあったのよね。さて。しつけに関してだけど。すごーく、小さいことから積み重ねて書かれてる。これは、親業提唱者でもある、トマス・ゴードンが学者でもあって、学者の持つ緻密さが発揮されていると言っても良い。しつけ、に伴う権威について、この本では以下の通り分類されている。著者が英語圏の人なので、英語の「権威」の辞書的意味から発展している。●E型権威専門知識の頭文字 彼は会社法の権威である●J型権威 職場の頭文字 地位や肩書による権威 ●C型権威 約束(コミットメント)の頭文字 個人の約束 ●P型権威 パワーの頭文字 コントロールする。支配する。強制するしつけ、に関してはこの権威が混同されることが多く、注意が必要。例えば、学校で教師が生徒に対して持つ「権威」は、J型権威だ。生徒は教師の指示に従い、指導にしたがう。但し、その職業として持っている権威を、P型権威と混同してはならない。にもかかわらず、しばしば混同されていて、生徒は教師に屈服させられる。同じことが親子間でも起きているのだということを、肝に銘じる必要がある。親が子どもに対して持っている権威は、主にJ型。親、という職業に対してのものだ。主に、というのは子どもが持たぬ知識を持っているという意味では「E型」でもあり、約束事に縛られると言う天では「C型」でもありうるからだ。でも、P型は、違う。そのことを、覚えておく必要がある。とても丁寧に、具体的に、仔細に書かれているので、『親業』と重なるところもあるけれども、オススメ。『親業』をもっと専門的に書かれている感じかしら。ブックオフに並ばないかなあ、コレ。もっておきたい本なんだけどなあ。
2007.03.08
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持ってるだけはずいぶん前から持っていて、何度か読みさしては途中で辛くなって止めて、を繰り返していた本。母親として、ずいぶん息が詰まっている状態のところにやって来た本なので、この本によって余計に追い詰められた部分もあって、かなりイタイ記憶とセットになっている本でもある。にも関わらず、保育士になりたいと思ったときに最初に浮かんできたのは、この本の一節でもあったりして、あたしにとってはなかなか複雑な本。随分前に、親業トレーニングという本のことを書いたとき、あめふりんさんから、プロ向けの本だ、というようなコメントをいただいて、ちょっと視点を変えて読んでみた。なるほど、これはお母さん向けというより、保育士などの子どもに関わるプロ向けの人のための本といった方が良い感じ。講演をもとに編集された本なので、言葉遣いも柔らかく丁寧で、内容も温かいし、沢山の大切なことが書かれているけれど、追い込まれやすい精神状態にある人が読むと、理想との乖離に苦しむ可能性がある。(というか、とっても追い込まれたヨ……笑)得る所はとても多いので、お母さんたちにもお勧めだとは思うけれども、第一の対象が、プロだということをしっかり念頭においておく必要があると思う。あたしが何度か読みさしてとまりながらも、保育士を目指そうとして最初に浮かんだのが、この本の乳児期に関する記述。乳児期は人生の基礎作りの時期であって、本当に大切な時期だということ。家作りで言えば、中学・高校・大学と上がるにつれ人目にはとまりやすくなるけれど、一番大切な基礎工事がしっかり出来ていないと、とんでもない家が出来てしまう。その基礎工事に当るのが乳児期で、この時期にしっかり基礎工事が出来ていないと、後々、本当に辛い思いをすることになる。これは本当に、ガツンと効いた。あたし自身、中学から大学に至までの一番辛い時期を支えられたのが、幼稚園時代の教育にあったりもして、実感もこもっていた。この一言が、保育士を目指そうと思いついたあたしの背を押した、と言ってもいい。乳児期だけでなく、幼児期、児童期についても丁寧に書かれている。語り言葉がとても丁寧なこともあって、優しい印象で、読みながらとても読みやすくあたたかい気持ちになる。紹介しようと、たくさんの抜書きをつくっていたのだけれど、抜書きを羅列しても意味の通りにくいものになるし、量も多いのでやめておきます。以前に読んだときには、まだまだ母を糾弾したい気持が強くて、母の子育てのあら捜しもしてしまったし、それに伴うフラッシュバックみたいなものもあったし、育児で悩んでいた時でもあったから、自分自身の子育てにあてはめて、本当に辛い気持に追いやられてしまった。この本で、どうしてこんなに辛い気持ちになるのだろうと、自分の狭量に嫌気がさして、余計に凹んでみたりもした。なので、今回は保育者向けに書かれたものだというイメージで読んでいくことに注力。意識的に、良くない子育てをされてしまった子どもとしての視点も、小さい子どもを抱えた母親としての視点も除外するように努めて、何とか読み終えることが出来たと言う感じ。気を抜くと、すぐにグサリグサリと刺さってくるものがあって、とても辛くなってしまったのだけれどもね。でも、とても得るものが多くて、良い本だと思う。続巻もあるらしく、こっちはもっとプロ向けだということなので、これもまた、読んでみたいなあと思う。が、ACな人には薦めません。イタすぎ(笑AC克服目的の本ではないから、読んでも辛いだけよ、たぶん。
2007.02.06
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シンデレラ・コンプレックスしばらく前に読んだ、『母と娘という関係』の著者のもの。母と娘という関係『母と娘という関係』でも書いた通り、コレット・ダウリング、という人はこの著書により非常に有名になった。コレット・ダウリング、という名前を知らない人でも、「シンデレラ・コンプレックス」という言葉は聞いたことがあるだろう。私自身もコレット・ダウリングという名前も聞いたことが無かったし、シンデレラ・コンプレックスの詳細を知っているわけでも無かったけれど、女性の精神的特長を表す言葉として、何度も聞いたことがあった。でも、私が思っていた内容とは大きく違っていた。シンデレラ物語のように苦境から救い出してくれる王子様を待つ夢見る少女でありたがる、そんな大人になりきれない、「夢見る夢子ちゃん」のことだと思っていた。それはそれで、確かに「シンデレラ・コンプレックス」の一面ではあったのだけれど、そんな簡単なものではなくて、もっと奥の深い、女性の依存心に関わる問題だった。著者自身は、結婚生活が破綻した後、シングルマザーとなって一家の生計を支える。しかし数年間のシングルマザー生活の後、恋に落ちて新しい男性と同棲生活に入る。同棲生活に入ったとたん、著者は彼に依存してしまって、仕事が出来なくなる。多少の物を書いて誤魔化す程度には仕事をしていたけれども、生活がかかったものでもなくて、専業主婦のような生活になっていく。彼は著者が専業主婦であることを望んでいなかったため、何故、女一人の時には出来たことが、男と一緒になると出来なくなるのか?と、著者は「専業主婦」を手がかりに、女性の依存心について考え始める。話の導入が「専業主婦の依存心」にあるので、専業主婦の方にはキツイかもしれない。専業主婦の立場に安穏としていた自分を反省するように書かれているので、辛辣な言葉もあり、「専業主婦タタキ」のように読み取れてしまうかもしれない。でも、この依存心は専業主婦だけのものではなく、キャリア・ウーマンも例外ではない。女性は誰かの……主に男性の……影に隠れようとする。表舞台で目立つことよりも縁の下の力持ちでありたがる、女。運転席よりも助手席を選びたがる、女。難しいことは夫に任せて愚痴を言いながらも反対しない、女。自分の昇進などの成功を好機だととらえられない、女。何かあるごとに尻込みして誰かの承認をうけたがる、女。読めば読むほど、自分が典型的シンデレラ・コンプレックスに当てはまることが分かる。夫が飲酒でもしないかぎり、運転席は夫のもの。(ブレーキが荒い、と心の中で文句)PC技能は私のほうが格段に上だというのに、家のPCは夫任せ。(こんなことも出来ないの、と心の中で悪態)今晩のメニューは決められるけれど、外食のお店は決められない。(エスコートひとつ出来ないの、と心の中で不満)生活がかからないから、収入は多くなくていいし、パートにでも……という安易な考え。(だってそれは男の仕事でしょう、と決め付ける)要するに、何をするにも誰かエスコートしてほしいと思っている。でも、誰かがエスコートしてくれると、それが完全では無いから不満。「しょうがないわね、男なんて」とこき下ろして、何の努力もせずに、救い出してくれる男を待つ。まるで、シンデレラのように。自分の人生というドライブの運転手を求めている、私。AC自覚以前の私よりも格段にマシにはなったけれど、今もまだ、沢山の依存心が私の中に残っている。この本を読んで何かしようとすると、イチからジュウまでシンデレラ・コンプレックスに絡むようで、混乱しながらも面白い。ちょっとした、異文化体験みたいな感じ。イタイ本でもあるけれど、とってもオススメ。この本ですごく納得したことが、二つ。一つ目は、女友達と何かしようとするととても気疲れすること。男とデートすると店もコースも決めてくれて、家(もしくはベッド)まで送ってくれる。私はただ、「イイワヨ」と言うだけ。女が相手だと、誰もが主導権を握りたがらないし、間に当たり障りの無い世間話が挟まるから、喫茶店一軒選ぶのも大変。誰かが「ここに行こう」と言えば片付く問題が、なかなか片付かない。でも、誰もそれをしたくない。もう一つは、母の世界観が非常に狭く、浅いこと。男は学生時代に非常に優秀であると、それなりのキャリアに繋がっていく。女は学生時代に非常に優秀であっても、ごく自然に専業主婦になる。そして、家庭という非常に狭い世界に入っていく。家庭に入ってしまった女性の発達は、20歳そこいらのまま止まってしまう。私は以前から、還暦を過ぎた人であればもっと人間的に成長していて良いはずだから、私は母の見識を正当に評価していないのではないか、と思っていた。それにしては母の言動はあまりにも幼稚で、首を捻らざるを得ず、違和感がある。この本は、私のこの疑問に一つの答えをくれた。
2007.01.17
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保育園は、いまえー……一昨日の日記で、えらく滔々と述べ立ててますが、基本的にこの本のウケウリです(笑とてもいい本。保育園の成り立ち、問題点、課題、今後の展望、日米の比較など、著者の実体験を織り交ぜながら、とても丁寧に書かれている。保育士テキストで一通りは頭に入れていたツモリだったんだけれども、なかなか理解できなかったところが繋がった感じ。ただし、初版が1997年、つまり10年前。数字や実情を扱う本としては、致命的に古い。しかも、ここ数年は少子化と子育て支援について注目されていて、ものすごい勢いで制度が変わっている。だから、この本が出版されてから改善されたことも、たくさんあるだろうと言うことを、念頭に置いておく必要がある。ただ、少子化・子育ての面で急速に制度が変わりつつあるとはいえ、この本で取り上げられた問題点は、依然として残っていると思う。例えば、タロウやハナコが通う保育園は、朝7時半から夕方6時半までの保育を、月曜から土曜まで行っている。前にお世話になっていた保育園は、朝7時から夕方6時だったので、保育園によって多少の違いはあるだろうと思う。夕方の6時半(6時)以降も延長保育があるが、それも今の園が7時半まで、前の園が8時までしかない。延長保育がある保育園は良いほうで、公立保育園ではかなりの確率で延長が無い。つまり、とても一般的な働き方をしている人のニーズには合致している。朝8時前に子どもを預けて出勤、9時前に会社に着いて仕事。5時に仕事が終わって、6時頃には保育園に着く。土曜日の出勤もたまにあるけれど、日曜日はお休み。が。働き方が多様化している今、このモデルケースに合致しない人も多い。販売業の人たちは、出勤が遅く夜も遅い。看護士さんたちには夜勤がある。土日出勤がある代わりに、平日がお休み。モデルケースに近い就業をしている人でも、残業や出張が無い人は少ない。こういう人たちは、どうしているのか?そこに、認可外保育園(託児所)のニーズがある。ただし、認可外保育所は経営者や働く人の意気込みによって大きく左右され、保護者から認可保育所より良い評価を受けるような所もあれば、沢山の問題を抱えている所もある。どんなに問題があっても、少なくとも家に子どもを放置しておくよりはマシなわけで、親としては預かってくれるだけでもありがたい、と言いたいことも言えずにいる人も居る。母親が働くことで最初の障壁が、この保育の問題。父親の収入が安定していて、経済的に母親が働く必要が少なければ、子どもを質の悪い保育所に高額の費用を払って働くことに抵抗があるのは当然で、母親は働くことを諦めてしまう。でも、昔の日本にはあった地域の繋がりが今の社会では失われているから、専業主婦の母親は密室育児に陥りやすく、酷いストレスを抱えてしまう。専業主婦だから子育てがラクだ、というのは幻想に過ぎない。共働き家庭以外の家庭を支える拠点として、ここにも保育園のニーズがある。保育園のシステムがこんなにも長く変わらない理由に、安易な逃避の場所を作ることになるのでは、という議論があるようだ。長時間保育が可能になれば、親は子育てを「外注」するようになり、育児放棄に近い状態になるのではないか。子育ては親がするのが本当だから、ある程度規制をかけて、安易な逃避が出来なくなるようにしておく必要があるのではないか、と。そもそも長時間労働がおかしいのだから、それに伴う長時間保育もおかしい。と、切って捨てることは簡単だけれども、実際に長時間労働の実態があり、それは容易には変わりそうに無いという現状では、二重保育や弊害がある保育で乗り切る以外に手が無い。確かに、遅くまで預かる保育所や宿泊保育に対応するところも出来たけれど、それはごく一部に限られているから、地域的にも限定されて、利用に高いハードルがある。まだまだ、保育にかかる問題は山積されたままだ。この本が書かれて10年、まだまだ過渡期のままだ。色々な疑問が解消され、色々な問題が見えてきた本。とってもオススメ。
2007.01.12
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母と娘という関係コレット・ダウリング、という人の著書。「シンデレラ・コンプレックス」という言葉を知ってる人は多いと思うけど、実は、その『シンデレラ・コンプレックス』を書いたのも、この人。はい、わたくし、全然知りませんでしたことよ。シンデレラ・コンプレックス著者は、精神障害のある夫との結婚生活が夫の死により破綻した後、何年かを独身で過ごした後、新しいパートナーを得て同棲生活に入る。その中で得た葛藤を元に、『シンデレラ・コンプレックス』を書き、名声を得る。そして、著者は講演や著作に引っ張りだこの生活に入っていくのだが、その影で長女が過食嘔吐を繰り返していたことを、知らずにいた。長女は幼いときから優秀な上に、外見もよく、著者の自慢の娘だったのだが、15歳の時から過食嘔吐を繰り返していた。長女を除く家族全員が、都会に引っ越した後も長女ひとり、イナカの一軒家で暮らし、かなりスゴイ生活を送ったようだ。そして、名門大学を中途退学し、入りなおした別の大学も退学し、完全にドロップアウトの生活になってしまう。その娘のありようをキッカケに、著者は母娘の関係を考え直していく。まず、母娘関係を考え直すきっかけになったのが、長女の過食嘔吐であったので、著者が長女の異変に気付くまでの経緯を語った後、長い過食嘔吐に関する説明がある。これが、チンプンカンプン(笑あたし、大食いで早食いで酒飲みだけれども、過食とか拒食とかっていう、摂食障害になったことが無いので、イマイチよく分からない。その上、痩せ型体質で体重が気になったこともないし、体重と外見を関連させて考えたこともあんまりないので、なんつーか……理解不能な領域の話でした(笑が、その後の親子関係については、実感を込めて、とてもよく分かる話だった。母親が子ども……特に、長女……に、自分が諦めた夢を重ねて、「パーフェクト・ウーマン」であってほしいと願う構図。男社会でバリバリと働く、才色兼備の「完璧な女」を娘に望む一方で、男に依存し、家庭に納まっている「母親」としての自分の生き方を否定されまいと、家庭においても「完璧な女=良妻賢母」であることも、求める。この二つは、なかなか両立することが難しい。基本的に、以前読んだ『アダルトチルドレン・マザー』と同じような印象。『アダルトチルドレン・マザー』の方がぐっと実体験に焦点をあてて、フランクな感じに書かれているので読みやすくはあるけれども、『母と娘という関係』は、心理学的な論拠をしっかり提示していたりして、もっと論理的というか、「正しく」書かれている感じ。どちらも、気持ち的にとても「イタイ」本なんだけど、とてもオススメ。アダルトチルドレン・マザー
2006.12.25
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最近ハマったもの。彼氏彼女の事情というマンガ。連載中から気になってたんだけど、5・6巻位で止めてました。で、突然思い出したように気になり、古本屋へGO!全21巻、揃いましたぜ(ふふ基本的には恋愛学園ドラマです。主人公は、二人。ヒロインは、他人に認められることが快感、という一種異常な性格の持ち主。単なる好みで「良い子」になったらしく、家庭内ではズボラ。が、機能不全家庭で良い子をしてきた子どもと同じように、家庭以外の社会(友人・学校)での人間関係が構築できて居ない。家庭内に問題があってACになったわけでは無いのが、違和感がありつつも救い。彼女が学校や友人に溶け込んでいく過程での葛藤には、とても共感する。が。ンな浅いもんじゃ、終わられません(笑続々とAC予備軍が登場します。まず、もう1人の主人公、有馬総一郎。彼は3歳まで母子家庭で虐待を受けて育ち、ネグレクトによる餓死寸前の所を、実父の兄弟に救い出される。重い過去のために、「良い子」であることを自らに課し、心を開かない。後半は彼の克服のドラマなんだけど、これがもう、壮絶!読む手が止まらないったら(笑おかげで我が家の晩ご飯は、連日、鍋、でした。手がかからないから(爆脇役もザラリとAC予備軍。両親とソリが合わずに、父親の転勤を機に独立した、浅葉。幼い時に母親を亡くして父子家庭に育った、芝姫。過保護・過干渉型家庭に育った、十波。名家の娘であるために自分を縛らざるをえない、井沢。当然、有馬の実父・義父とも、傾向アリ。彼らの一人一人に焦点をあてたストーリーがあるので、読んでてクラクラ来まくり☆ミま、ハッピーエンドですが(バラスナヨめっさオススメ。アダルトチルドレンなんて言葉は全然出てこないし、詳しく語られることもないし、フィクションなので宮沢みたいに違和感のある設定もあるけれども、ACの特徴をとても押さえた作品になってる。後半、有馬編で負の連鎖についてもキッチリ押さえられてる。ACってどんなものか、とてもよく伝わる気がする。が。前半は笑えます。人の居るトコで読むとかなりアヤシイので注意!ちなみに、アニメ化もされてます。ガイナックスが、しました。GAINAXといえば、エヴァ。GAINAXってAC好き???とちょっと考えたりもします(笑アニメ版も、面白かった……と、記憶しております。
2006.12.22
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人生の悲劇は「よい子」に始まる加藤諦三、という人の本。もしかしてこの人有名なの?ぜんっぜん知らなかったんだけど、結構著作があるみたい。著者は父親からの虐待経験者。良い子であり続けることを求められた、精神的虐待の中で育った人。とはいえ、本の中に「虐待」という文字は全く無い。精神的虐待の被害者であるあたしが読むと虐待だと思えるけれど、「それって虐待と違うのかな」という程度にぼかされている。著者は父親の希望を忠実に実行する良い子であることを求められ、その精神的虐待の中で成長し、神経症になる。この本を書いた時点では神経症は過去のことになっているようで、心理学的な学術論文を散りばめながら「良い子」であることの悲劇を書かれている。が。なんつーか……イマイチ、心に響いてこない。あたしは母親の希望を忠実に実行する良い子であることを求められる、というよく似た精神的虐待を受けてきたから、納得する箇所も多かったんだけどね。それでも、イマイチ、心に響いてこなかった。あたしが回復しちゃったから響いてこなかったのかな、って最初は思ったんだけど、どうも違う。昔、あたしがここで書いた「命令形の人」シリーズ。あれ、あたしのスタンスには珍しく理論武装したシリーズだったんだけど、あれに非常に似た感じを受けるのよね。まあ、著者は専門家なので次元はまったく違うんだけど。学術論文を散りばめて、理論武装して、そしてやっと書いている、って感じ。理詰め談判っていうのかしら。でも、その理論武装のために却って読者(あたし)に響いてこない……。二回・三回と読んだら違うのかもしれない。ポイント的に響くものはあったしね。しばらく期間を置いて、再読予定。
2006.12.13
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親の心がしっかり伝わっていますか親業関連本。ブックオフで105円。黄ばんでます。そーとー古そうな文庫本です。やっぱり、親業の本を読んでると調子がいい。子どもに対峙しているときの「忍耐力」が違う、と自分で思う。親業の本を読んでいる、というただそれだけが、あたしに「親業実践」を意識させるのだと思う。タロウが攻撃的なとき、あたしの需要領域はぐっと狭くなる。タロウがバシっとあたしを叩く。それが、許せない。もう、何を考えるスキも無く、条件反射的に叩きかえしてしまう。それが、普段のあたし。それが、叩かないでいられる。タロウがあたしを叩いたのは、何かのサインじゃないのか。タロウは、何か口に出来ない感情を持っていて、そのことを伝えきれなくて悔しくて、あたしを叩くんじゃないのか。そうやって、一呼吸、踏みとどまることが出来る。タロウがあたしを叩いたとき、「何かとても嫌な気持ちになることがあったみたいね」とか、「お母さんに対してとても怒ってるみたいね」とか、「お母さんが悪いと思ってるのね」とか、言うことが出来る。それを、イヤミみたいな感じじゃなく、年寄りが小さい子どもが遊ぶ姿を微笑みながら見ているみたいに、それで良いんだよって、にっこりサラリと言うことが出来る。口先だけで返してしまうこともあるけれど、「お母さん、分かってよ!」とタロウが言うと、本腰を入れる気になる。親業関連本を読んでいる、というただそれだけのことが、「叩くタロウを許せない」という非受容領域を、「何か嫌な思いをしているのだな」と受容領域に変えることが出来る。叩いたり泣かせたりすると、それだけで自己嫌悪に陥って、螺旋階段を回るみたいにどんどん調子が悪くなって行っちゃうから、あたしにとってこの差はとてもとても大きい。親業関連本を読む、というのはあたしにとって必要なことみたい。が。飽きた。だってさー、書いてあること一緒なんだもん。今回読んだ、「親の心がしっかり伝わっていますか」と、トップにも挙げてる、「子どもに愛が伝わっていますか」と、「親業に学ぶ子どもの接し方」って、言い回しが違うだけなんだよ~。全部、どっかで読んだなぁってことばっかなんだよ~~~。トマスゴードン版まで合わせて、流石に食傷気味(笑 タロウに対する非受容領域が明らかに広がるから頑張って読むけど、でなきゃ、とうに放り出してるって(笑はーーーーーーー。なんか違う本、無いの?親業関連本で。ブックオフにある本で。
2006.12.08
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さらば、悲しみの性新版すごーく古い本です。たぶん、あたしが小学生の頃の本じゃなかろうか。中学1年で著者の講演を聞いたときには、既に出版されていて、かなり話題の本になったはずだから。中学一年といえば、かれこれ20年近く前のことになる。避妊がどうのこうの、なんて話をされたって、こっちはまだ胸もペッタンコ、初潮もまだ、なんて年頃。「避妊って何?」状態だったんだけど、あの講演はちゃんと覚えてる。話が上手い先生でね、話に引き込まれた。この本を書かれた当時は、広島の総合病院の勤務と書かれているけれど、今は独立してクリニックを開かれています。あたしがタロウを妊娠したとき、最初に受診したいと思った先生が著者だったんだけど、残念ながら、出産には対応してない小さなクリニック。「えー、講演の時にはあんなに出産のことを言われてたのにィ」と不満だったの。出産ってすばらしいのよ、なんてことを言われてたから、この先生のところで出産することが出来たら、幸せだなあって思ってたしね。ものすごぉく、残念だった。さて、「さらば、悲しみの性」。気にはなりつつ、そんな感じで十年越しの初読。すごい本でした。性に目覚めた思春期に、一度は読むべき本よ、コレ。低容量ピルが解禁されたのは最近のことなので、そういう面では情報として古いところもあるのは致し方ない。他にも医学的に古い情報になってしまったものは、ありうると思う。だけどね、「悲しみの性」「喜びの性」の根本は変っていない。性について無知な男と、性について無知な女が睦み合う。これってとても怖いことなんだよね。あたしも性についてとても無知な人でね。荒れてた時代を思い返すと、本当に怖いなって思う。あたしは幸いにして、望まない妊娠の経験は無いけれど、それは全く持って「ラッキー」の範囲でしかなくてね。あの時はそういう風にしか出来なかったと分かっているんだけど、それでも思い返すととても怖いことだと思う。著者はね、この本の中で何度も女性がNOを言うことを提言してる。傷付くのは、女性なのだからと。喜びの性、つまり嬉しい妊娠でも、内診ってあるんだよね。専用の台に上がって、引っくり返ったカエルみたいな格好で「中」を見られるわけ。セックスの陶酔の中ではなく、シラフでこの格好、かなり恥ずかしい。相手は医者、プロなんだからって言っても、「ご開帳」の状態で座ってるのは、ものすごく屈辱的なものでね……何度経験しても、慣れない。お互いの合意の下でのセックスの結果なんだから、お互いに責任をって言う男性がいる、という関連でこの内診を書かれる。内診台や手術台の上で脚を開くのは、男性ではなく女性。腹の中を探られ、かき回され、腹の中の命を掻き出されるのも女性。これが、お互いに同じだけ責任を持つということだろうか、と。圧倒的に女性が傷付くのだ、と。女性はもっと自分の体を大切に。女性はもっとNOを。著者はそう何度も書いている。今のあたしもそう思う。だけど……それに納得できないあたしもいる。あたしの中の、あたしが喚く。自分を傷つけるために性を選んだ女性はどうすればいいんですか、先生。あたしは自分を傷つけたくて仕方が無かったんです。性は母の一番嫌がることだったんです。母の一番嫌がることで、自分を傷つけたかった。男性と二人きりになって、NOを言うことの怖さを知ってるんですか。腕力ではかなわないことが分かってるのに。男性、特に特定のパートナーには従うものだと洗脳されているのに、そう育てられてきたのに、それを出来ないのはとても悪いことだと言われてきたのに、その既成概念に抗うことがどんなに怖いことか、知らないんですか。あたしも将来、タロウやハナコに教えなくちゃいけない時期が来る。そのときが来たら、あたしはこの本をタロウやハナコに読ませたいと思う。情報として古いものは確かにあるけれど、本質は変らないから。性の喜びも、性の重みも、怖さも、知識として知っておく必要はある。一通り経験しなくちゃ分からないこともあるけれど、知識として持っておくことは、とても大切なことだと思うから。それだけでも、きっとあたしが母親から受けた性教育よりはきっと随分マシだと思うから。
2006.11.27
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子どもに手を上げたくなるときしばらく前に読んだ「アダルトチルドレン・マザー」と同じ著者の、「アダルトチルドレン・マザー」より先に書かれた本。文庫版によせて、と最初に1995年の日付が入っているので、それより先にハードカバーで出版されたみたい。つまり、10年ほど前の本です。「アダルトチルドレン・マザー」を読んでしまうと、踏み込みに一歩、物足りなさを感じるけれど、子どもを叩いたことのある母親にはものすごい共感を呼び起こすと思う。まー、すごいです。素手で叩くだけじゃなくて、殴る、蹴る、突き飛ばす、放り投げる、そんなお母さんたちがゾクゾク出てきます。うーん……誇張なんだよね、コレ?あたしもタロウを散々叩いたけど、ここまではやってないぞ(笑この叩く(他含む)行為を、この本では「子いじめ」「子たたき」って書かれてる。虐待ってものすごく重く感じるから、敢えて避けてあるわけね。今でこそ「元虐待母で~す♪」「元被虐待児で~す♪」てな感じだけど、それはもう開き直りに近くて、虐待の可能性を考えただけでトンデモナイって思ったもの。この本から10年経って、虐待に対して随分意識が変ってきた今でも、コレ。10年前のイメージってものすごく違ってたと思うんだ。虐待って言葉を敢えて避けて、「子たたき」くらいでぼかしておくのは賢明かもしれない。元虐待母&元被虐待児の自覚があるあたしには物足らないけどね(笑最初に著者の「子たたき」経験が語られます。これがまあ、スゴイ。あたしなんかメじゃないわねって思わず安心したくなるくらい、スゴイ。だけど、じゃあなぜ「子たたき」は起きるのか。この本では徹底的に、母親は悪くないって書かれてる。まず、「育てにくい子ども」が圧倒的多数だということ。えー、そうなん??ってコレにはあたし、あんまり同意できないんだけれどもね。なんていうか、いじめられッ子を指して、「いじめられる方に原因がある」って言ってるのと同じ感じで、子どもが悪いって書かれてる。叩きたいキモチにならない子どもが居るとしたら、それは非常に稀有なことに、母親がスゴイんじゃなくて、たまたま「育てやすい子ども」という大当たりを引いただけのことだ、と。いや、それは違うよ~!って思いっきりツッコミ入れちゃいます(笑それは愛情が足りないとか、そんなことじゃないってのは同感だけど、やっぱりさ、表現方法を知らないとかそんなことじゃないかと思う。って、これはまあ、親業を知ったから言えることなんだけど(苦笑親業を知ってからのあたしは、格段に「子たたき」から遠くなったからね。今でも全くしないわけじゃないけれど、毎日ペースだったのが、1ヶ月に2・3回ペースになったってのはすごいことだと思う。だから、子どもが悪い、ってことには非常に反感を覚える。だけどね、父親が悪いってのは非常に共感しちゃう。だってね、いくら本を読んだって、知識を得たって、育児の現場ってさ、>「叱らない育児」も「三歳神話」も「児童心理学」も「フェミニズム」も、>この子の癇癪が治まるまでちょっと待っててね、という感じ。って感じなんだもの、まさに。ンな高尚な理念よりも、コイツを何とかしてくれ!なんてさ(笑ほんっと、涙が出るくらい切実なのよ。なのに、父親は無関心なんだよね。>母親の孤独、児童虐待、子たたき、女性の就労などの問題の裏には、>がっちりとでき上がった男性社会が怪物のようにそびえ、>この惨状をしっかり支えている。>この支え手の大部分は、高度成長以来、日本の生産労働者の過半数を>占めるにいたった賃金労働者、なかでもふたことめには「仕事、仕事」と言いながら、>すきあらば家庭から逃げ出そうとする民間企業のサラリーマンたちであろう。本当にその通りだと思う。男たちは、卑怯だとさえ思う。オカネを稼いでくる、妻子を路頭に迷わせない、というのは大変なことだと思う。でもね、激務に就いてるわけじゃないあたしが言うのは説得力に欠けるかもしれないけど、シゴトってね、育児+家事に比べればはるかにラクだと思う。家事ってね、本当にきりがなくてその割に見えるものが少ないんだよね。育児にいたっては、家事以上に大変だと思う。少なくともさ、シゴトだと激務でも激務でなくても「終わり」がある。それから、言葉の通じる大人との繋がりだし、困ったチャンが居るにしても、常識くらい持ってるのが社会人。怪獣のように騒ぎまくり、次の行動予測がつかず、暴虐無人な子どもとは違う。さらに、売上だったり達成度だったり給料だったり、何らかの数字が見える形になって帰ってくる。これは、大きなやりがいになってくる。あはははは☆ミ男性バッシングになると留まる所なく続きそうだから、止めておくけどね。この本はスゴイです。もう、恨み辛みを詰め込みましたァ!!って感じ。「子たたき」現在進行形のお母さんたちには、とても読んでほしい。「あなただけじゃないよ」って言われるのはとてもありがたいことだから。あたし、タロウ虐待中にこの本に出会いたかったって思うもの。それぐらい、孤独だったし辛かったからね。伴侶が居るのに孤独って、一人のときとは違う重みがあるもの。これはね、耐え難い重みです。お父さんにも、読んで欲しい。こうやって男性社会は女性を追い込んでいるんだよって。男性社会からの盾になるか、悪い意味での代表になるかは、ちょっとの差なのかもしれないけれどね。
2006.08.17
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10年くらい前の本です。しばらく前から日本の家族における「父親不在」が声高に言われてるけど、この本も父親にかなり限定して書かれていて、「父親不在」の危機感が強い本。部分部分では「そりゃ、違うよ!」ってこともあるけれど、かなり「ウンウン、そーなのよ!」と思いながら読んだ。で、どういう部分が「違うよ!」って思っちゃったのかというと、端的言って「親業」と外れる部分なのね。「親業」って徹頭徹尾、子供の心によりそうやり方な訳なんだけど、斉藤先生、ドカンと雷を落とす必要性についても書かれているので、ちょっと違和感。まあ、ウチの子供はやっと4歳になったトコなので、斎藤先生が書かれてる雷が必要な時期まであと10年近くあるわけだから、現段階で雷が必要かどうかについては考えないことにした。アレコレ考えるとまた育児本のマニュアル地獄にはまり込んでいくから、あたしの子育ては「親業」で行くって決めて、それ以上は単なる読書に留めてる。いいことも、役に立つことも書いてあるなって読みながら思うんだけどね。だけど……ちょっと考えたのが、「親業」の限界。親業って所詮、輸入物なのよね。斉藤先生の言われる、「父親の雷」が必要かどうかは別として、キリスト教的基盤を持たないあたしたちの家庭に難しいところが出てくるかもしれない。それは可能性の一つとして、頭の中においておく必要があるなって思った。さて、『「家族」は怖い』ですけれども。日本の父親の難しいところ、沢山かかれてました。結婚して父親になると、長男になってしまう父親って、居る。ホカでもない、ダーリンもその気配が濃厚なんだよね。ダーリンは明らかに姑とあたしを重ねて見てる。(それが無自覚・無意識ってーのがタチ悪い)どうやってそういう風になっていくか、とてもよく分かった。女性はね、子供を産むと母親になるんだって。それが、男性は「長男」になっちゃう。甘える対象を探してるわけなんだよね。日本の父親って、難しいんだよね。最近のニュースでも父親が育児に参加できていない、ってのがあったよね。子供に関わる時間、30分とかってさ。その根底には、やっぱり会社ってーのがあるわけだよね。シゴトで時間を取られちゃうから、家庭に割く時間が無い。だけどさ、本当に激務の人ってのも少なからず居るだろうけれど、大半は何となく忙しいんだろうなって。皆が頑張ってるのに一人、さっさと帰宅することは出来ない、なんてね。会社ってコミュニティを形成しちゃってて、そこの維持に熱中しちゃうんだって。なるほど、って思った。この本、終盤になるほどあたしにとって重くなってきた。あたし、自分の育った家庭が「父親不在」だとは思ってなかった。7時過ぎには帰ってきたし、土日だって休みのことが多かったし。だけどさ……典型的「父親不在」の家庭だったんだよね。子育ては母親に一任されてて、殆ど口を出さなかったみたいなんだ。一緒に過ごした時間があっても、質を伴ってなかったんだね。父親の不在について読みながら、カウンセラーに父親の影が薄いと指摘されたことを思い出してた。母親の光が強かったから、相対的に父親の影は薄かっただろう。それは否定しないけれど、父親は子育てに口も出さないで、あたしを母親から守ることもしなかったんだ。バカみたい。最後に、「父親を再定義」するについて。一番ビックリした言葉。>生物学的に言えば、精子の必要はあっても父親など不必要ですから、>男は必死で女性と遊び、セックスし、子どもが出来れば、>哺育と保育に参加して妻の機嫌を取り結び、子どもとも遊んで父親と思ってもらうことで、>ようやく父親という存在が認知されるのです。ごもっとも!相当頑張んなくちゃ、「父親」になれないワケだ!母親って卵子だけで良いってわけには行かないものなあ。そしてね、ダーリンのことを考えたわけです。あたしはまあ、稼ぎとしてはサブの立場なので、そこそこの稼ぎで良いやって思ってたけど、ダーリンは「妻子を食わしていく」って重みを感じてるんだよね。ダーリンの会社は専業主婦の奥様をもつ人ばっかりみたいだから、雰囲気的にそういうのって通じるだろうし。「妻子を食わしていく」ってすごい重みだよね。まあ、実際のトコ、ウチは共働きなのでそんなに肩肘張って考えてもらう必要は無いんだけど。まあ……頑張ってね~、と。なんか良く分からない読書メモになっちまいました(汗でもね、すごく良くってドキドキしながら読んだのよ。かなりオススメです♪
2006.08.07
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二冊目の河合本。文庫化されたのはここ数年の話のようだけど、もともとの出版は1976年。つまり、あたしと1歳しか違わない妙齢の(?)本です。30年前の本かあ……。かなり内容的に古いんだろうなあ……。そんなことを考えながら読み始めた本でした。が!ンなことは全然無くて、今現在に通用してます。河合氏本人は、ユング派の心理療法士らしくて、ユングに関する記述がとても多いです。大学時代、一般教養でフロイトだのユングだのってそれなりの興味を持って聞いた覚えはありますが、既に忘却の波にさらわれ、はるかかなた、地平線の果てまでさらっても当時の記憶はなかなか戻らず、かなり苦労して読みました(汗前に読んだ本が、とてもフランクで分かりやすい本だったので、とてもギャップに苦しんだけれど、かなりの学術本なのかしら。論文の提示が次から次にとあって、とても素人相手の本とは思えない。ある程度の知識が既にあって、ユングだのフロイトだのってのを知ってる人を対象にしてるみたい。あんまり「優しくない」本です。だけど、内容はとても面白い。何故、思春期頃のこどもが一度荒れなくちゃいけないのか。そこに母性がどう関わってくるのか。西洋と東洋(日本)の自己や自我に関する考え方の違いはどこなのか。日本が何故こんなに不思議な社会構造になっちゃったのか。イチイチ、「なるほど~~~~!!!(へえボタン連打)」でした。最後の浦島太郎に関する考察も、マザーグースに関する考察も、とても面白く読めました。ちょっと難しかったので、記憶を掘り起こしてくるまではかなりの苦読だったけど、読み進むにつれて面白くて仕方がなくなって来ました。前半は殆ど記憶に残って無いので、しばらくして再読するつもり。
2006.07.26
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初めての(?)河合本。(?)とつくのは、大学時代に卒論のネタ集めに1冊読んだはずなんだけど、さーっぱり記憶に無いから(笑リンク先のにっくさんのトコで読んで気になってたんだけど、なかなか文庫版を見つけることが出来なくてのびのびになってました。非常に、フランクで分かりやすい本。肩から力が抜ける気がしました。3年前に出会いたかった~、と思ったけど、果たして3年前に読んでこの本のありがたみが分かったかどうかは微妙。今だからこそ、すんなりと読むことが出来たのかもしれない。子育て中のお母さんたちには良く分かってもらえるかもしれないけど、本当に子育て情報って氾濫してるのよ。早寝早起きをすることはとても大切、朝起きたらお天道様の光をしっかり浴びましょう。それが心身の健康にとっても良いですよ~。ってなことは、どこででも読めるわけ。深夜のコンビニで親子連れを見るけど、言語道断だよね、ってな強い調子で書かれててさ。だけどね、それを文字通りにとって規則正しい生活を毎日送るのは大変なのよ。週末ともなれば、行楽なんてイベントも発生するしね。そして、規則正しい生活を送れないことが親のストレスになるわけ。規則正しい生活をしつけてやれないなんて、母親失格だわ、なんて。これがね、食べることについても、遊ぶことについても、本当に瑣末なことにまで指示されてるわけよ。しかも、情報源Aと情報源Bでは違うことが書かれてて矛盾してる。書いた人が違うんだから、当然なんだけど、母親は混乱しちゃう。だけど、それを相談する相手も居ないワケ。夫は仕事で遅いし、そもそも子供のことは喋るペットくらいにしか思ってない。保健センターだのなんだのってのは四角四面にマニュアル的。実家の親たちは古臭い経験談を持ち出して来て、エラソーなことを言うだけ。ママ友が唯一の相談相手みたいになっちゃうけど、そこはそれ、謙遜だの比較だのって色々難しい。勢い、育児本やネットにはまっていくワケだけど、混乱し始めてから読むと、余計に瑣末な矛盾が気になって混乱しちゃう。これが、タロウ出産からハナコ生後半年くらいまでの、あたし。全然楽しくなくて、当然。苦痛で当然。しかも、世の中見回せば「小さい子が居て、大変ね」って。ああ、子育てって苦行なんだわって思いました。たぶん、あの混乱の最中にこの本を読んでいたら、瑣末事に囚われているあたしには不満で仕方なくて、途中で放り出しちゃってたと思う。瑣末事が気にならなくなってきた今だから、読めた本かもしれない。だけど、それでももっと早く巡りあいたかったなあ、この本。関西弁まじりの語り口調で書かれていて、それもまた、良し。Q&A形式なんだけど、質問の答えにバシっとはまるように答えてるわけでもなくて、厳密には答えになって無いんじゃないのってことも中にはあるけれど、それよりも大きな視点で大切なことが書かれてる。大丈夫だよ、って肩を撫でられたような気がする本でした。お父さんにも読んで欲しい本。ところどころ、手厳しい批判がありますよ♪
2006.07.19
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家族依存症(いぞんしょう)久しぶりの、AC関連本。日本のアダルトチルドレンに関する研究の権威、斉藤学先生の本です。なんだけどね。全然、染みてこなかったのよ。ACをカウンセラーに指摘されて最初に読んだ本が、齋藤先生の「アダルトチルドレンと家族」で、本当にのめりこむように読んだから、ちょっと意外。今こうやってレビューを書こうとしても、全然思い出せないの。何が書いてあったのか、思い出せない。読んでる時に、「センセ、それは違うよ!」と思ってたのは、何となく記憶にあるんだけど、何について「違う」って思ったのかも思い出せない。なんだったんだろ。しばらくして、読み直してみようかな、とは思う。けど・・・・・・なんで、何も感じなかったんだろう?なんで、何も思い出せないんだろう?
2006.07.18
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文庫版はコチラ→生きながら火に焼かれて3年位前、出版されて大反響になった本です。興味はあったのですけれど、やっと文庫化したので読むことが出来ました。(やっぱさ、ハードカバーは通勤電車に向かないっしょ?)シスヨルダンという、アラブ圏に生まれた女性(=著者、スアド)の証言録。彼女が生まれた村では、女性に人権というものは全く認められず、人生の一切に対して楽しむ権利も、知る権利も、選ぶ権利も認められていない。それどころか、殴る蹴るの酷い肉体的虐待に晒されて生きているのだ。彼女が、掲題の「生きながら火に焼かれる」という惨事に見舞われるのは、婚前交渉をもったため。彼女が生まれた国では、結婚前の女性は男性と話してはならない。いや、話してはならないだけでなく、「話したとされてはならない」のだ。実際に話したかどうかは重要ではなく、話していたと噂が立つだけでもいけない。それは「娼婦」として軽蔑される行為だからだ。彼女は非常に厳格にその因習を守っていたけれども、結婚を申し込んできた(と思われる)男性と婚前交渉を持ってしまう。たった3度の性交渉で、彼女は妊娠。どんなに固く秘密を守っても、せり出す腹は隠せない。彼女は「娼婦」だと決定される。家族に「娼婦」が居ることは大変な不名誉で、破滅を意味する。そのため、家族が「娼婦」を殺害するのだ。それが「名誉の殺人」。彼女は義理の兄によって、火あぶりにされる。幸い彼女は一命をとりとめ、「名誉の殺人」の証言者となる。はっきりいって、理解できない。こんな世界が、存在するのか!??あまりにも女性を軽視されている。文中でも何度も母親が生まれたばかりの女児を殺害したことが書かれる。女児は全く、生きる権利すらないのだ。そしてそれは、罪の意識すら持たれないほど「普通のこと」なのだ。理解できない、などといってはいけないのは分かる。この世界には異文化があるのだ。「女には全く価値が無い」という文化があるのだ。それが尊重されていい物か悪いものかはまた別問題であるけれど。この文庫本には、日本の読者に向けたメッセージが特別につけられている。とてもすばらしいメッセージ。一言一句残らず、ここで紹介してしまいたいくらい、すばらしいメッセージ。読んでいたのが電車の中でなければ、私は声を放って泣いていただろうと思う。是非、読んで欲しい。アダルトチルドレンの自覚がある人には、共感する所も多いと思う。(彼女が受けてきたのは、性的虐待以外の全ての虐待でもあり、 ACの理解がある人ならこの本の中に何箇所でもACの特徴を読み取れると思う)ACの自覚がある人には、最後の特別のメッセージは強い光になって届くと思う。文庫化される前に読んでしまった人にも、最後のメッセージを読んで欲しい。日本人に対して、過分とも言える謝辞がついています。絶対、感動します♪
2006.06.20
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ダ・ヴィンチ・コードに取り掛かる前に再読してみました。AC関連本ではかなり有名なこの本。あたし、最初にこの本を読む時にはものすごく抵抗があったのよね。だってさ、「毒になる親」だよ?「アダルトチルドレン」なんて横文字になっちゃって、何を意味してるんだか良くわかんないコトバにぼかされてるけど、「毒になる親」って、表題だけで「キッツー!!!」って感じじゃない?しかも、あのド紫!よりによってこんなキッツイ色にするか!??まあ、それはそれとして(笑この本、あたしもとってもオススメ。文庫版なので廉価だしね。さすがあちらこちらで絶賛されるだけのことは、あります。著者が日本人ではないので、文化的に合わないところもある気はするけれど、それでもACについて知ってもらうには、一番って気がする。久しぶりに、読み返してみました。びっくりしたぁ!初めて読んだときには辛くてたまらなかったのに、フツーに読めるんだもの!フラッシュバックっていうのかな?前回読んだときには色んな事象が頭の中を駆け抜けて、本当に辛かった。3・4頁ごとに1回はそんなのがやってくる。あたしは性的虐待は受けてないから、性的虐待の項に突入したとたんソレが無くなって、本当にホッとしたのが印象的だったもの。一番キツイ項を読んでるのに、一番ホッとしてるのがおかしくてさ。その矛盾に気付いて笑ったくらい、初回は辛くて仕方がない読書だったのよ!それが、今回は本当に辛くないの!フラッシュバックなんか、殆ど来なかった!!もう、信じられないくらい、楽な読書だったのよ!!!「はじめに」のところで、チェック項目がつらつらと並べられていて、過去のことは事実だから、かなりの確率でチェックが入るんだけど、現在のことについてはちょっとしかチェックが入らないの。前回読んだときには、過去も現在も殆どチェックが入ってたのにさ!もう、ビックリったらないよぉ!流石に本文の現在の共依存チェックについては、結構チェックが入ったけどね。でもやっぱり前回とはちょっと違った。「母はあたしの行動如何で幸せを感じる」みたいな項目って、チェックが入る。あたしの行動で母が幸せになったり不幸になったりするのは、殆ど「事実」として仕方のないものだからさ、チェックが入る。だけど、「母があたしの行動で不幸になると、あたしが悲しい」かっつーと、今のあたしはNOなんだよね。「母は不幸になるだろうけど、まあ好きにしてヨ」って感じ。ねえ、成長したでしょう!もう、自分で嬉しくて仕方がないですよ!!あたしねえ、ここで色々書いてきたけど、それで成長できたって思ってないわけじゃないけど、こんなにも変われたって思ったの、初めてだったからさ。とっても嬉しい♪またしばらく間をおいて、再読してみたいと思っています(*^ ^*)
2006.03.23
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ペルザー家虐待の連鎖“It”(それ)と呼ばれた子(少年期)、というシリーズ本があります。(楽天では少年期しか出てこなかったので、リンクは少年期。 シリーズで、この前後もあります)全米史上最悪、といわれた虐待を生き抜いた、デイヴ・ペルザーが自叙伝的に書かれた本です。もう、とてもマトモには読めないすごい本です。あたしがこの本に出会ったのは、タロウ出産後すぐくらいだから、かれこれ3年くらい前になるかと思う。本屋で、「高校生の間でクチコミで広がってる」って紹介があって、活字離れを指摘されて久しい高校生の間で?口コミで大ヒット??正直、「はあ~~~~~!???」って感じで手にとったの。そしたら、壮絶なタタカイの記録でさ。圧倒されちゃったのよ。で、「Itと呼ばれた子」の著者、デイヴ・ペルザーには、4人の男兄弟があって、その中の一人が今回の著者。先に「Itと呼ばれた子」を読むと分かるんだけど、この著者は、デイヴへの加害者でもある。あたしは、加害者、ってことにひかれた。あたしは自分の事を、被虐待児だと思ってる。思ってる、というか、そう思うことにしたwだけど、あたしの妹二人はあたしほど苦しんでるみたいに見えない。あたしたちは同じ家族だったのだから、当然妹たちも「機能不全家庭」に育ったはずなのにね。下の妹は実家を嫌って鉄砲玉になっちゃったから、あたしと同じように苦しんでる所があったのかもしれないけど、上の妹は母とも実家とも、そつなく良い距離感でつきあってる。自己主張も、ちゃんとしてる。なんで、同じ家庭で育ってこんなに違いが出るんだろうって、とっても不思議だったの。だから、ペルザー家の兄弟の場合、どうだったんだろうって、手にとってみたんだけど……。スミマセン、あさはかでしたorzあたしは、精神的虐待を受けてきたって思ってるけど、はっきり言って、それ以外の虐待は全く受けてない。小さい頃に叩かれたことくらいはあるだろうけれど、記憶にも残ってないし、大して痛くなかったんだと思う。育児放棄なんてこともされてないし、性的虐待も受けてない。ペルザー兄弟、ぜんっぜん、規模が違いましたorz当然っちゃ、当然だよね。彼らは性的虐待以外の全てを受けてたんだもの。著者(リチャード)は、「Itと呼ばれた子」の著者(=デイヴ)が家を出て行くまで、積極的に虐待に参加していた。そう仕向けたのはほかならぬ母親だけれども、リチャードはデイヴへの虐待に必死だった。そして、デイヴが救出されてから後、母親の虐待の的となる。虐待自体は、デイヴのほうが壮絶だけれども、リチャードはデイヴのように救出されることもなく、延々と虐待を受けることになるのだ。生命の危機を何度も感じさせるような、母親。リチャードは、この試練はデイヴへの虐待に加担した罪だと認識する。ACには、試練を「自分のせいだ」と考える傾向があるというけれど、(それはあたし自身も持っている傾向だけれど)リチャードもこの傾向を強く持っている。この傾向を持っていると、逃げ場が無い。そうそう。この本を読みながら、思い出したことが、一つ。「Itと呼ばれた子」の1巻があまりにも衝撃的たっだんだけど、その本をあたしは母親に貸したのね。その感想、なんだったと思う?「私はあなたたちに手伝いをさせなかったわねえ……」耳、疑いましたよ。そういう感想になるか!????てーか、この奴隷以下の扱いを「手伝い」って枠に括るか!????あたしは母親の神経を疑った。確かにあたしは家事がとってもニガテ。それは母があたしに勉強ばっかりさせて、人生の勉強をさせなかったせいだと思うから、それはそれで当たらずとも遠からず、なんだけれど、この壮絶な虐待告白本を読んだ感想が、そう来るか!???この奴隷以下の扱いを、「手伝い」って枠に入れちゃえる、母。あたしが母親に別個の人格を認めてもらえなかったこと。この二つが、カチリとはまりあうような気がして、納得したんだった。この本、オススメかどうかって言うと、かなりビミョー。典型的虐待のケースを読みたいのであれば、「Itと呼ばれた子」ともども、とってもオススメ。ものすごい衝撃を受けると思います。虐待って、この人たちみたいなケースもあるし、あたしみたいに精神的虐待しか受けてないケースもある。これに程度をつけること自体、ナンセンスだとは思うけれど、敢えてピンキリをつけるなら、この兄弟は間違いなくピンかキリかの極端な事例に入るし、あたしは反対側の端っこにいる。だから、この人たちを基準に虐待を語られるとするなら、それは虐待の定義をあたしたちから遠ざけることになると思う。だから、彼らみたいな極端な事例がクローズアップされるのも、虐待への認知って視点を持って言うなら、どうなんだろって思う。ただね、事例じたいは極端でも、やっぱりACがもつ心の軌跡は一緒みたい。共感する所も、やっぱり多いです。
2006.03.06
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アダルトチルドレン・マザーアダルトチルドレン・マザー 橘由子にっくさんご紹介の本を探して古本屋を漁っていて、偶然見つけたAC本。1998年に文庫化された本なので、ちょっと古いです。とても理解できる、共感できる本でした。あたしが言いたい事を代弁してくれる感じ。「そうっ! そうっ!! そうなのよっ!!!」って頷きながら読んでいました。執筆当時、既に作者は40歳を超えていて、作者の母親はちょうど思春期に戦争を経験している世代。あたしやあたしの両親と、ちょうど一回りくらい上の世代ですね。だから、世代的な特徴を語られると「むーん」と考え込む所もあるけれど。あたしがこれまで漠然と考えていたこと。あたしの母親があたしにやってきたことには、社会的にそうしなくちゃ居られないような土壌があったのではないか。そうせざるを得ないような、背景があったのではないか。この本は、あたしの疑問に答えてくれました。世の中は高度成長期。モーレツに頑張ることが良いことにされていた時代。男性は仕事に忙しく飛び回る。取り残された、母親と子供。そうだよね、母親だって頑張りたいよね。なのに、目標にするものがないって辛いよね。子供を目標にしちゃうよね。悲しいことに、理解できてしまいました。母たちもまた社会の被害者であったか、と。あたしたちアダルトチルドレンは、事件の被害者。だけど、事件の加害者は社会の被害者であることが殆ど。あたしの母も、社会の被害者だった。社会の被害者としての母。加害者としての意識が無い母。あたしは今も、母にあたしの苦しみを分かって欲しいと願う気持ちがある。分かってくれるような母ではないことは、あたしは十分分かっているつもりだけど、それでも分かって欲しいって思ってきた。だけど、母たちが被害者であったことを知ると……正直、気の毒な気持ちでいっぱいになる。還暦を過ぎて、人生の大半をつぎ込んできた子育てが、間違ってきたもので殆ど意味を成していないどころか、むしろ害悪の部分ばかりだったと知ったら……知らない方が、良いのかもしれない、と思う。
2006.02.14
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「親になれない」児童虐待のルポ。古本屋で漁ったので、かなり古い。でも、内容としてはそんなに古くないんだよね。「よくある」とは言わないけど、「たまには聞く」程度の内容。親が(またはそれに代わる養育者が)虐待して、コドモを死なせてしまったり、酷い怪我を負わせてしまったり。あるいは、性的関係を強要したり、親としての最低限の義務を怠ったり。あたし自身は「しつけ」の名目で叩くことも虐待の内に入ると思っているけれど、「コドモなんか叩いて育てるもんだ!」派の人でもきっと虐待だと思うに違いない。誰もが虐待だと断ずる事例ばかりが並べられていく。一気に読んでしまいました。ルポ、なのでその記事に対する評価はされていない。淡々と事実を述べられていくに過ぎないのだけれど。どうしても、あたしなりの視点ってのが出てくるよね。それは読者として、仕方ないことだよね。あたしは既に親になってしまった立場なので、親の気持ち、非常に気になっちゃう。親もとても辛かっただろうと思ってしまう。勿論、親だけが辛いなんてことは思いません。一番辛いのは、間違いなくコドモだと思うから。この本では虐待のうちに「精神的虐待」があることを書いてはあるけれど、記事としては取り上げられていない。ここで書かれているのは、誰でも虐待だと言わずにはいられないようなしつけの範疇を超えた身体的虐待、性的虐待、育児放棄に留まる。だから精神的虐待がホカの虐待の温床になってる気がしているあたしにはちょっと不満。本当に、精神的暴力って日常茶飯事。毎日どっかで必ず目にするようなこと。それくらい、横行してるの。あたしが過剰反応気味だってことを差引いても、それくらいこの国は精神的虐待に鈍感な国なの。そうやって育てられてきた被虐待児が、虐待しない親になるって、ものすごく、ものすごく大変なことなの。精神的虐待が、ホカの虐待に付随するものだけでなく、単体で認められるようになる時代が、この国に来るのかしら。
2005.11.16
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「アダルトチルドレンの心理学―何故あなたは大人になりきれないのか?-」 荒木創造(白水文芸社)読みあがりました。読後感。古本屋価格、700円、返せ……。無駄なモノ買ってしまった……。あたし自身がACな自覚があって、何とか克服しようと思いながら読んでるからか、「要するにシツケがなってないんだよ!」って言われているようで……かなり本気でムカついた。なんだかなー。いやきっと、そのうちいいことが出てくるに違いない!って思いながら、放り投げたい衝動を抑えながら読んだのに……貴重な時間を返しやがれ!いや、良い事も書いてあったよ。何のためにカウンセリングが必要なのか、とかさ。だけど……全然掲題と合ってないし。はー……。
2005.09.18
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やっと読み終わった。「毒になる親-一生苦しむ子供-」講談社+α文庫古本屋で210円也。2週間かかった。根を入れて読むだけの時間がとれないことも、頁が進まない一因ではあるのだけど、それ以上に、苦読。意味は分かるのよ。とっても読みやすい本なのよ。洋物嫌いのあたしが、抵抗無く読めるくらいには読みやすいのよ。とってもとぉっても、読みやすいのよ。だけど、イチイチ重くて……。←グサっ←ザクっ←ドスっって感じで……。自分の親を毒になる親だって認めるのは結構辛い。幼子でない今も、親は絶対的善人だと定義しておきたいあたし。守ってくれるはずの親自身が害毒だったなんて思いたくも無いあたし。親側に悪意が無く、むしろ善意だったことは知っているあたし。何度も話題提起しては言い逃れをされ、逆ギレ・糾弾され、その都度傷付いてきたあたし。あたしはもう、自分にとって避けて通れない問題だってことは知っている。いつか対決する必要があることも知っている。それはもう、この本を読む前から分かってたこと。あたしがココを始めたのは、カウンセリングを受けられなくなったから。それは単に時間的制約のせいだったのだけど、あたし自身にカウンセリングがまだまだ必要だってことは良く分かっていたし、残念ながら担当カウンセラーがあたしに合わなくなってきていることも分かっていた。でもあたしの中に在る諸々は一度きちんと向き合って整理しておくべき事項で、整理していくのに、オーディエンスがあるということはとても重要だったけれど、実生活に近すぎるダーリンをカウンセラー代わりにするのは危険だった。あたしにとっては「口から発する言葉」以上に「文字になった言葉」は重要で、「あたし自身」について語るのは口よりも文字が適していた。文字であたし自身を語れて、ダーリン以外のオーディエンスがいる場所。そして出来ればオーディエンスは生身のあたしとつながりの無い人。ココはそういう意味であたしにとって最適だった。だから、ココに色々書き込むことで自分自身を整理してきた。いつか「トラウマサバイバー」になれたら、めでたくここを閉鎖したいって思ってはいるけど、それは今じゃないとも思っている。だけど……自分が掲げた当初の目的に反して、あたしはここに一人の知己を連れ込んだ。シゴトへの考え方や息の合う同僚なのに、致命的にお酒に対する嗜好が違っている、人間関係構築能力が著しく欠損しているあたしにとっては唯一に近い、大切な友人……だったのだけど……。あたしは彼にさえちゃんと伝えることができなかったみたい。有態に言ってちょっと幻滅……あたし自身にも彼にも。そんなわけで、井戸の底までめりこんで移転もしくは閉鎖検討中……。あーもー、止め止めっ!!あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道を行く。あたしはあたしの道をいく。おっしゃーっ!!!
2005.09.08
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