17.ザ・タイガース



ザ・タイガース


僕のマリー


タイガース001



GS界で1番の人気を誇るアイドル的バンド。
その人気の基は沢田研二ことジュリーで、多くの女性ファンが魅せられて熱狂をあげていた。

このバンドのルーツは、岸部 修(現:岸部一徳)が結成したインスト・バンドサリーとプレイボーイズからスタートし、その後の'65年に京都の高校生4人でファニーズを結成した。

メンバーは伏見高校の岸部 修、立命館高校の森本太郎、山城高校の人見 豊と高橋克己だった。その後、京都の『田園』専属バンドサンダースのバンド・ボーイをしていた鴨沂高校の沢田研二をボーカリストとしてスカウトし、活動拠点を京都から大阪心斎橋の「ナンバ1番」へ移す。

サンダースは全員ザ・スパイダースのファンであったためにスパイダースの田辺昭知から自分たちの事務所に入るよう勧められていた。
しかし、『ナンバ1番』で共演した寺内タケシとザ・ブルージーンズの内田裕也と運命的な出会いを経て、'66年10月26日に東京の渡辺プロと契約を行う。

11月にメンバー岸部おさみ(Bg)、加橋かつみ(Lg)、森本太郎(Sg)、瞳みのる(Ds)、沢田研二(Vo)の5人が上京する。
レコード・デビューをする直前に新宿『ACB』や池袋『ドラム』などのジャズ喫茶で!日10回近くのライブ(1ステージ40分として、1日400分間人前での演奏を行った。)をこなした。
同年の11月15日人気番組『ザ・ヒット・パレード』に出演し、作曲家のすぎやまこういちからザ・タイガースと命名された。

'67年1月の日劇ウエスタン・カーニバルに初出演を果たし、2月5日「僕のマリー/こっちを向いて」」でレコード・デビューする。
朝のテレビ番組『ヤング720『』で毎朝放映されこの曲に火がつく。

タイガースは、コンサートを行う都度ファンを獲得していくが、同年の11月5日に奈良のあやめ池でのライブで殺到したファンが将棋倒しになり怪我人がでるという不幸な事件が起きる。
その結果すでにNHKで収録済みであった映像の放映中止と更には年末の紅白歌合戦へも出場できなかった。(この年に、ブルー・コメッツが「ブルー・シャトー」でレコード大賞を受賞し紅白歌合戦へ出場した)

その後、更に人気は頂点にまで達していたが、ライバル、グループのファンなどからタイガースは自作できないなどとの批判があった中で森本が、親しみやすいメロディーで創った曲が「青い鳥」である。

'69年3月に加橋かつみが失踪事件を起こした。(実際は、失踪ではなく、後日の事務所側の謝罪報道では、メンバー間の確執や、何でも事務所の言いなりにならざるを得ないのに嫌気がさしたなどの理由で、事務所側にホテルで軟禁されていて後日、ヨーロッパへ脱出することになっていた)

加橋かつみが脱退し、岸部 修の弟で米国留学中の岸部四郎(タンバリン後Sg)が呼び戻され新メンバーになる。

'71年1月24日武道館のステージがラスト・コンサートとなる。

タイガースは、'71年1月24日に解散した。

解散後、沢田研二と岸部 修は他のGSグループとPYGを結成、森本太郎はアルファベッツを結成、岸部四郎は、岩沢兄弟のブレッド&バターのメンバーになった。瞳 みのるは芸能界と決別し、慶応大学に入学した。

タイガースがデビューから解散するまでにリリースした、シングル・レコードは次の11枚。

「僕のマリー/こっちを向いて」'67年2月5日発売、「シーサイド・バウンド/星のプリンス」'67年5月5日発売、「モナリザの微笑/真っ赤なジャケット」'67年8月25日発売、「君だけに愛を/落葉の物語」'67年12月25日発売、「銀河のロマンス/花の首飾り」'68年3月発売、「シーシーシー/白夜の騎士」'68年7月発売、「廃墟の鳩/光ある世界」'68年9月発売、「青い鳥/ジンジン・バンバン」'68年12月発売、「美しき愛の掟/風は知らない」'69年4月発売、「スマイル・フォー・ミー/淋しい雨」'69年7月発売、「嘆き/はだしで」'69年8月発売、「君を許す/ラヴ・ラヴ・ラヴ」'69年11月発売、「都会/怒りの鐘を鳴らせ」'70年3月発売、「素晴らしい明日/散りゆく青春」'70年7月発売、「誓いの明日/出発のほかに何がある」'70年11月発売(全て、ポリドールから発売)


'07年10月06日現在画像up完了


ザ・タイガース レコード・ジャケット集/



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