24.グループ・サウンズ(GS)VOL:6

グループ・サウンズ(GS)VOL:6




ズー・ニー・ヴー


白いサンゴ礁 ズー・ニー・ヴー


"ズー・ニー・ヴー"の馴れ初めは、"マックルズ"にいた山本が同級生や他のバンドで活動してメンバーを集め、'68年3月に結成されたバンド。

主な活動場所は、クラブハウスで主としてR&Bの楽曲を専門に演奏していた処をスカウトされプロとして契約を結ぶ。

メンバーは、山本康生(G)、塚谷茂樹(B)、桐谷浩史(O)、大竹 茂(D)、町田義人(V)、上地健一(V)の6人。"ズー・ニー・ヴー"もツイン・ヴォーカル・グループであった。

"ズー・ニー・ヴー"は、シングル・レコードからのデビューではなく、'68年10月にコロンビアより異例のLPレコード「ズー・ニー・ヴーの世界」で鮮烈にデビューした。

'69年11月にコロンビアから「水夫のなげき/雨あがりのサンバ」でシングル・レコードを発売するが、全くヒットしなかった。

"ズー・ニー・ヴー"の曲が大ヒットしたのは第二弾として'69年4月に発売された「涙のオルガン/白いサンゴ礁」である。レコード会社の意に反して、B面であった白いサンゴ礁が大ヒットした。

デビュー自体が、GSの衰退期であるにも拘わらず、パワフルなツイン・ヴォーカルとR&Bスタイルのサウンドで一躍人気グループとなっていく。

その後、キャニオンに移籍し演奏スタイルをウエスト・コースト風に転換しロック・バンドとして活動を行っていく。

解散年月未詳。

"ズー・ニー・ヴー"はデビューから解散までに、次の5枚のシングル・レコードを発売した。

「水夫のなげき/雨あがりのサンバ」'68年11月発売、「涙のオルガン/白いサンゴ礁」'69年4月発売、「可愛いあなただから/九月の出来事」'69年9月発売、「ひとりの悲しみ/未成年」'70年2月発売、「結婚生活/草原の小屋」'71年7月発売 (「水夫のなげき/雨あがりのサンバ」から「ひとりの悲しみ/未成年」までコロンビアより、「結婚生活/草原の小屋」はキャニオンより)

ボーカルの町田義人は、"ズー・ニー・ヴー"に参加する前に、学生フォーク・グループの"キャスル&ゲイツ"(「おはなし」のヒット曲で有名なバンド)に在籍しており、"ズー・ニー・ヴー"解散後は、ソロとして活動を行い「戦士の休息」をヒットさせている。(ジャケットの左端)


フォー・ナイン・エース(4.9.1)


悲しみの果てに 4.9.1


"フォー・ナイン・エース"は'66年の春、上条英男(後に、業界でも有名な敏腕マネージャーに)によって当時流行のリバプールサウンドを目指して結成されたバンド。

バンドの名前の由来は、これも当時の洋画から取り、4.9.1("フォー・ナイン・エース")に。

寺内タケシの事務所とプロ契約(大多数のメンバーが横浜出身)を行い、テリー一派に入り、修行のため仙台にあったジャズ喫茶、宮城グランド・パレスで長期専属バンドとして腕を磨いた。
その後、メンバーを再編を行う。

メンバーは、滝イサオ(LG)、司 薫(SG)、宮城むつを(B)、瀬川ひろし(D)、城 アキラ(V)、沢 健一(V)の6人。後に、田村 純(D)にチェンジ。

'67年1月20日セブンシーズより「星空を君に/二人の泉」でレコード・デビューする。このデビュー曲は日本情緒の或る名曲、だったのだが全くヒットはしなく、第二弾のシングルがヒットしてバンド名が知られるようになった。

'69年にはビクターに移籍し、バンド名を"4.9.A"と改め再デビューするが発売したレコードは殆どヒットしなかった。
GSの衰退と共に、バンドは'70年に解散する。

"フォー・ナイン・エース"はデビューから解散までに、次の5枚のシングル・レコードを発売した。

「星空を君に/二人の泉」'67年1月20日発売、「星に告げよう/涙もかれて」'67年5月1日発売、「ウォーキン・ザ・バルコニー/傷だらけの叫び」'67年7月1日発売、「悲しみの果てに/ノー・ベイビー・ナウ」'68年3月10日発売、「淋しいジェニー/アイシテ・アイシテ・オクレ」'69年6月5日発売(「星空を君に/二人の泉」から「悲しみの果てに/ノー・ベイビー・ナウ」まで、セブンシーズより、「淋しいジェニー/アイシテ・アイシテ・オクレ」のみビクターより)

ボーカルの城 アキラはバンド解散後に、ジョー山中と改名して再デビューし数々のヒット曲がある。


ザ・レインジャーズ


レインジャーズ001


"レインジャーズ"の前身は、古賀民也が率いたバンド"ブルー・ナイツ"で、新たに2人を参加させ結成された、世界最古のガレージ・パンク・バンド。

メンバーは、古賀民也(LG)、津村雅美(SG)、峰 あきら(B)、仲谷 武(O)、森本知明(D)、宮城ひろし(V)の6人。後に、仲谷と森本が'68年に脱退し、森下春雄(D)が参加する。

'67年10月10日クラウンより「星空の恋人/レッツ・ゴー・レインジャーズ」でレコード・デビューする。

このバンドのリード・ギターの古賀のは、名手と云われるほどカッティングが鋭かった。ボーカルの宮城も当時としては過激なボーカリストとして名を轟かせた。

しかし、レコードは殆どヒットせず、後にビート・シンガーの一人、泉 アキの専属バック・バンドとして活動を行う。
メンバーの脱退・交代を繰り返し、ジャズ喫茶だけの活動となりGSの衰退と共に解散する。

"レインジャーズ"はデビューから解散までに、次の5枚のシングル・レコードを発売した。

「星空の恋人/レッツ・ゴー・レインジャーズ」'67年10月10日発売、「赤く赤くハートが/サリーの瞳」'67年11月10日発売、「君知るや/恋するたそがれ」'68年5月1日発売、「ミセス・ロビンソン/サウンド・オヴ・サイレンス」'68年7月10日発売、「星空は乙女の祈り/恋の足音」'68年10月1日発売(全て、クラウンより)


ジ・エドワーズ


エドワーズ001


"エドワーズ"は初期の"ザ・ビートルズ"をイメージして、"寺内たけしバーニズ"を脱退した興石秀之が中心となり'67年6月に結成された英国調のバンド。

メンバーは、興石秀之(SG)、榊原さとし(LG)、早川 昇(BG)、麻紀タケシ(O)、酒井康男(D)の5人。

結成後、半年間の猛特訓の後に、グループサウンズの貴公子をキャッチフレーズにマスコミに発表する。

'68年2月1日キャピトルより「クライ・クライ・クライ/恋の日記」でレコード・デビューする。

レコーディング当日、メインでヴォーーカルを取る予定の興石が、風邪のため急遽オルガンの麻紀タケシが務め音入れを行った。
宣伝費を膨大に懸け、売れっ子の作詞・作曲家が創った名曲ではあるが、全くヒットしなかった。

しかし、、"エドワーズ"は日本で初めて、ワイアレス・ギターを使用したバンドとして功績は高く評価されている。

不思議なのは、興石は寺内タケシを師と仰いでいたが、寺内色は全くなかった。何故? ←銀座ケネディーハウスで逢った時に聴いてみたいと思っているが、未だ実現していない。

GSの衰退と共に解散する。

"エドワーズ"はデビューから解散までに、次の2枚のシングル・レコードを発売した。

「クライ・クライ・クライ/恋の日記」'68年2月1日キャピトルより発売、「虹の砂浜/恋の終わり」'68年6月10日エクスプレスより発売




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