35.エレキの神様 寺内タケシVOL:2



エレキの神様 寺内タケシVOL:2



エレキの神様寺内タケシの第4弾 ブルージーンズの結成から渡辺プロへ金銭譲渡

ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの弾く「ハイウェイー・スター」はテリーの「運命」をコピーして出来上がった曲。しかし、天才リッチーでもこの「運命」をコピー出来なかったほどテリーの早弾きは凄い
テリー・ピック


本文に入る前に学習です。ブルージーンズのバンド名は、寺内がいつも履いていたジーンズから取ったものです。

マウンテン・プレイボーイズを半強制的にやめさせられた寺内は、プロダクションの東京ハワイアンズ(ハワイアン音楽中心の営業)と交渉し、機材を揃えるのに必要な資金の供給の確約を取り、最高のバンドを創るためにメンバー集めに奔走します。そして、'62年にブルージーンズが結成されました。
第1期ブルージーンズのメンバーは、寺内タケシ(EG)、鈴木八郎(P)、冬梅邦光(Ts)、堀 直昭(Ds)、有馬 修(Bs)、ほりまさゆき(Vo)の6人です。

このメンバーの変遷については最終日にでもご紹介する事にします。

しかし、東京ハワイアンズが膨大な資金を提供してバンドを創ったブルージーンズですが、音楽のジャンルの違いと経営状態の悪化から渡辺プロに金銭譲渡をしました。
移籍後、寺内はメンバーと有楽町の日劇で一ヶ月の特訓(日本で最初のビジュアル・バンドを目指して)に入ります。この時、招聘したのが映画「ウエストサイド・ストーリ」の振り付け師です。この特訓のスケジュールは、朝9時に特訓開始→昼食→特訓開始→3時に5分間休憩→夕食→9時迄特訓。この甲斐があり、ブルージーンズはステージ上で演奏しながら飛んだり跳ねたり、ひっくり返ったり、滑ったりし身体上、擦り傷、打撲、アザだらけで演奏したそうです。
渡辺プロがブルージーンズを売り出す為に、テレビの「ザ・ヒット・パレード」や「ザ・リクエストショー」のレギュラーに登用し、その成果が'63年1月の日劇ウエスタンカーニバルで大ブレークするのです。
そんな過激な演奏をしている矢先に事故(ステージから転落、骨折など)が起こってしまいました。

これを機会と捉えた寺内は一大決心します。管楽器なしでメンバーを再編成して、エレキ・バンドを創ろうと。
当時としては、管楽器奏者のいないバンドは存在していなかったが、プロダクションの大反対を押し切り進めました。唯一、応援してくれたのが、同プロの松下製作部長でした。
そして、手がけたのが楽器の電気化です。エレキ・ベースはフェンダーの6弦ベースを取り寄せ、ピアノは、自分で設計図を書き日本楽器(現:ヤマハ)の大学の先輩の処に持ち込んで協力を仰いで、日本で最初の電気ピアノ(エレクトーンの原型)を創ってしまいました。そして、ドラムの音とボーカルの歌もPAを取り入れて音を拾い電気化が完成しました。寺内の執念と努力の結晶により、日本で最初のエレキ(電気)・バンドができたのです。
忘れる処でした。ギター・アンプにエコー・マシーンを自ら開発し、日本で最初に取り付けたのも寺内です。さすが、電気屋の御曹司です。

因みに、電気ピアノのアイデアは学生時代に寺内が、朝日新聞に投書(論文と設計図を添付)して記事になり掲載されています。この記事を読んだ日本楽器の社長川上源一郎より日本楽器への入社を嘆願されたのですが、寺内は丁重に断り一緒に電気関係の研究をしていた大学の先輩を推薦したのです。

そして、渡辺プロに移籍早々、会社からの要望により問題児をボーカル・メンバーに加えます。その問題児4人が内田裕也、桜井五郎、藤本好一、渚 一郎です。この4人にほりを加えてブルージーン・バップスと呼ぶようになります。
この第二期ブルージーンズのメンバーは、寺内タケシ(LG)、加瀬邦彦(第2G)、市山正美(SG)、有馬 修(BG)、堀 直昭(Ds)、鈴木八郎(O)とブルージーンズ・バップスの11名。

加瀬邦彦(その後、ザ・ワイルド・ワンズ)の参加については、面白い出来事があります。寺内は、当時スパイダースにいた加瀬(慶応大学在学中)の将来性を買って一緒にやらないかとモーションを掛けていました。しかし、スパイダースのリーダーの田辺は加瀬の脱退を承諾してくれません。そこで、加瀬は一計を講じて、浅草のジャズ喫茶「新世界」のステージで演奏中にアンプとギターを持って「お世話になりましたー」とトンズらし、車でブルージーンズが出演している「新宿ACB」に駆けつけそのままステージ上に上がり演奏しメンバーに入ってしました。

雑談です。内田を向かい入れた或る日、ジャズ喫茶で演奏中に事件が起こりました。ブルージーンズが演奏している時に観客の中に騒ぐグループがいてステージ上で喧嘩が始まってしまうのです。この時の事を寺内はこう語っています。
僕はキレた「お前ら、うるせーゾ。バカヤロー!」と騒いでる観客に向かって叫んだら、このグループは「何だと、このヤロー、応援しているのに、うるせー!とはよー」僕は「うるせーから、ウルセーっていってんだ、このタコ」でステージ上と客席で大声でバトルをしている時に「てめーら、寺内さんの言っている事がわからねェーのか。うるせーんだから、もっと黙って聴けよ。他の客も迷惑してるんだよ」と立ち上がっりグループに突進していった大男がブルージーンズの追っかけをしていた安岡力也だった。
そして、力也が殴りかかり、僕と内田がステージから飛び降り、グラスやビール瓶の割れる音がしたと思った瞬間に喧嘩は終わっていた」と。
そりゃそうですよね。寺内は空手三段で、内田、安岡には腕力では敵わないでしょうから。

そして、時代は空前のエレキ・ブームの到来となります。'65年がエレキ元年なのです。世界中の若者がエレキを持ってテケテケテケ~!このテケテケテケ~のエレキ・ブーム以降は明日に続きます。
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エレキの神様寺内タケシの第5弾 空前のエレキ・ブームから寺内脱退後のブルージーンズまで

ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの弾く「ハイウェイー・スター」はテリーの「運命」をコピーして出来上がった曲。しかし、天才リッチーでもこの「運命」をコピー出来なかったほどテリーの早弾きは凄い
テリー・ピック


本文に入る前に、学習です。テケテケテケ~!の空前のエレキ・ブームは仕掛けられたモノで、仕掛け人は、寺内と渡辺プロのスタッフたちにより。

それを具現化したのが、'64年に新宿厚生年金会館で開催されたブルージーンズの初コンサートでした。オープニング・アクトにアニマルズとベンチャーズを招聘しました。

会場は超満員となり仕掛け人たちは微笑んだと云われています。そして、翌年、オープニング・アクトにアストロノウツとベンチャーズを招聘し、ザ・スパイダースと4バンド競演をして空前のエレキ・ブームの幕が上がりました。この時点で、ブルージーンズは、日本でエレキ・ブームの火付け役と同時に日本のエレキ・バンドの頂点に立ちました。
エレキの熱病に冒された、若者たちはエレキを抱えテケテケテケ~。北海道から九州まで、テケテケテケ~とエレキ・ウィルスは拡まりました。ワクチンはありません。
「勝ち抜きエレキ合戦」、「テスコ・エレキ・トーナメント」、「世界に飛び出せニュー・エレキ・サウンド」、「エキサイト・ショー」等のテレビ番組が放映され、全国各地ではエレキ・コンテストやエレキ大会と凄まじい勢いでエレキに侵され日本列島がエレキに痺れたのです。

ここからの、ブルージーンズは破竹の勢いで秒単位のスケジュールをこなしていきます。ここで当時の殺人的スケジュールの一部を書き出してみます。
コンサート、テレビの出演:「シャボン玉ホリディー」、「ザ・ヒット・パレード」など多数、ラジオ番組レギュラー多数、加山雄三の「エレキの若大将」等の映画出演多数、レコーディング、一日に5本多い時で10本のブッキングがあり、一ヶ月のジャズ喫茶などのステージが90回というような内容です。正に神業です。この殺人的過密スケジュールを一手に引き受けた伝説的な人が、敏腕の村上マネージャーなんです。この村上は「エレキの若大将」でクラブの乱闘シーン(京南大学のヤング・ビーツVS赤田が率いた不良グループバンドのシャークス)で喧嘩を止めに入ったマネージャー役としてスクリーンにも登場しています。

ここで、雑談です、寺内は、ブルーファイアーのリーダー三根信宏(ディック・ミネの三男)をブルージーンズにヘッド・ハントします。三根が尊敬している寺内からの誘いを受けたのですが、ブルージーンズでの担当がベースと聞かされ辞退し、ウエスタン・キャラバンから独立した井上宗孝らとシャープ・ファイブに参加しました。寺内の本心は、ギターの名手にピック・ベースを弾かせたかったようです。この時三根がベーシストになっていたら、七色の音を奏でる三根カラー(美音色)のギターは聴けなかったかもしれませんね。改めて、シャープ・ファイブで書きますが、「ゴールデン・ギター」は素敵なエレキ・インストです。

こんな多忙の寺内に更に、日劇ウエスタン・カーニバルの音楽監督の依頼が舞い込んできます。そして、承諾し就任し、ウエスタン・カーニバルがエレキ一色に変貌を遂げます。
寺内の噂は瞬く間に海外に知れ渡り、「ビルボード」、「キャッシーボックス」、「メロディー・メーカー」等の海外の雑誌で紹介されついに、日本の寺内とブルージーンズに全米の音楽番組のNo.1のエド・サリバン・ショーから出演依頼が入ります。しかし、過密スケジュールの中での渡米は無理でした。
時期を同じくしてアメリカの音楽雑誌の「ミュージック・ブレーカ」が世界の三大ギター・リストの一人(他は、チェット・アトキンスとレス・ポール)として寺内を選出しました。この記事を知った日本楽器の川上社長から寺内モデルのギターを造ろうと話が舞い込んできました。日本人の手の大きさに合ったギター創りを日本楽器が行なうと。
そして、日本楽器が開発し製造したギターが「ヤマハSG7」です。このギターの初の披露は「エレキの若大将」の中でブルージーンズが演奏時に使用したモノです。

'66年には、更にスケジュールが過密状態になります。年末のレコード大賞→新春特別番組(シャボン玉ホリディー・スペシャル、かくし芸大会等々)→ジャズ喫茶→浅草国際劇場→都内各地の公会堂での新春公演→1月の日劇ウエスタン・カーニバルのバンド出演と音楽監督と睡眠時間がないという、ハード・スケジュールをこなします。

しかし、このハード・ワークの反動が出ました。過密スケジュールの中で日本のエレキ界をリードしてきた寺内も病魔には勝てませんでした。突然、倒れます!当初の診断では「結核性リンパ腺炎」で明日をも知れない命として緊急入院!衝撃的なニュースとして大々的に報道されました。(後日、誤診と判明し、過密スケジュールの中での過労と診断結果が出て音楽関係者を安心させました)

寺内タケシとブルージーンズは、'64年12月から'66年7月までの短期間で、LP盤14枚、シングル盤9枚、コンパクト盤17枚をリリースしています。
又、'65年11月にリリースされた植木 等の「遺憾に存じます」のバック演奏も行い、年末の紅白歌合戦に出場もしています。

病気療養中に、渡辺プロとの長年の確執問題や、ブルージーンズとしての音楽性の問題や寺内自信で会社を起こしたい等の思惑が噴出し、ブルージーンズを脱退、渡辺プロと円満に決別し、寺内企画の設立、更に新バンドの結成(バニーズ)と退院後に精力的に動きだしていきました。そして、バニーズの結成と時を同じくして空前のGSブームが日本列島に巻き起こります。

因みに、寺内が脱退したブルージーンズは、加瀬邦彦も同年の5月に脱退(理由は簡単で6月のビートルズ公演を客席から見るため=ビートルズのオープニング・アクトをブルージーンズが務めて見れないので、その後ザ・ワイルド・ワンズを結成)、寺内の抜けた穴を安達 勝が参加し、工藤文雄とブルージーンズとしてビートルズのオープニング・アクトを務めました。
メンバーは、工藤文雄(Ds)、鈴木八郎(O)、石橋志郎(BG)、岡本和夫(EG)、安達 勝(EG)、内田裕也(Vo)、桜井五郎(Vo)の7人。
その後、リーダーが桜井に変わり桜井五郎とブルージーンズで、エド・サリバン・ショーに出演し、帰国後、桜井が脱退(ボーイズ結成)後を追うように内田も脱退(フラワーズ結成)しブルージーンズは空中分解しました。しかし、ブルージーンズの名を残すために岡本を中心に'67年9月に結成されたのが、田川ジョージとブルージーンズです。11月にクラウンより「マミー/愛して」、'68年5月「ワンモア・フリーズ/星のデイト」をリリースしますが全くヒットはしませんでした。
メンバーは、岡本和夫(LG)、和田いずみ(SG)、朝倉 功(BG)、星 竜二(Ds)、西村ヒロオ(O)、田川譲二(Vo)の6人。

ザ・バニーズ時代は既に、フリー・ページにアップしてあります。↓
寺内タケシとザ・バニーズ

そして、バニーズでの活動に見切りをつけ(音楽性の違いにより荻野達也にリーダーを譲り)、'69年再びエレキを灯すべくブルージーンズの復活!
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エレキの神様寺内タケシの第6弾 GSの衰退からブルージーンズの復活まで

ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアの弾く「ハイウェイー・スター」はテリーの「運命」をコピーして出来上がった曲。しかし、天才リッチーでもこの「運命」をコピー出来なかったほどテリーの早弾きは凄い
テリー・ピック


本文に入る前に、学習です。復活した「寺内タケシとブルージーンズ」をテリー・ファンは「おっさん・バンド」と呼んでいました。

'69年に入ると、数百と存在し隆盛を誇っていたGSの崩壊(メンバーの脱退、バンド解散、ムード歌謡転向、R&B、ハード・ロックへの転進等)が始まります。
寺内は音楽シーンに異変が起こってきたのに危惧し即行動を起こします。エレキの新しい可能性を追求(原 信男とシャープ&フラット、宮間利之とニューハード等のオーケストラやジャズ・バンドと共演し他流試合を行なう)し、エレキの灯を絶対に消さないと決意。そして、栄光のブルージーンズが復活するのです。

寺内がブルージーンズの復活に際して発信したメッセージがあるのでここに書き記します。(原文のまま)

私はグループ・サウンズのギタリストとして「エレキはまじめな楽器でり、決して不良少年を育てる楽器ではない、無限の可能性を秘めた万能の楽器である」ということを主張し続けてきました。そして大編成のオーケストラと他流試合を行なうこと8ヶ月、エレキギターがソロ楽器として、堂々とシンフォニー・オーケストを従えて演奏できるということを証明しました。このことはLP「寺内タケシ・エレキギターのすべて」のヒットにより、皆さまにも十分ご承認いただけたものと思います。
しかし、私も含めて現在のグループ・サウンズ界では、プロの実力を持ったメンバーが非常に少なく、またグループ・サウンズというものが、見せるということに気を奪われて、実力の養成がおろそかになっている現状から、今こそグループ・サウンズの危機であり、これを打破しなければいけないと痛感しました。
そして、ここに遅まきまがら「寺内タケシとブルージーンズ」は復活を決意したのであります。寺内タケシとブルージーンズは演奏を主体としたエレキ・コンボであります。
一般にエレキ・バンドといえば、グループ・サウンズと同種のもののように考えられがちですが、決して同じものではありません。
グループ・サウンズとはボーカルを主体とした、いわゆるロカビリーの延長であり、エレキ・バンドとは音楽的ジャンルが異なるのです。私はこのエレキ・バンドをエレキ・コンボと称しています。
寺内タケシとブルージーンズは、卓越したテクニックとコンビネーションから、どんな大編成のオーケストラにもまさる音色・音質・音域・音量を発揮するエレキ・コンボとして、すでに完成されたものであります。そして、エレキ・ギターをソロ楽器、伴奏楽器に使い分けるバンドとして、今までの音楽史の中でも革命的なものであります。
エレキ・ギターを手にして20余年、ギター一筋に生きてきた私でありますが、このエレキ・ギターのソロ楽器・伴奏楽器としての限界は、まだ解決されていません。しかし、その糸口はすでにほぐれているのです。
タライが電気洗濯機に、紙芝居がテレビに、ホーキが電気掃除機に発達したと同様に、待望のエレクトロニクス・ギター(電気ギター)の出現により、エレキ・ギターの無限の可能性はますます増大していくことでありましょう。
私は、その日を楽しみにブルージーンズとともにその開発に励んでいく覚悟であります。今後とも「寺内タケシとブルージーンズ」をご指導、ご叱声下さいますよう心からお願い申し上げます。
昭和44年5月 寺内タケシ

そして寺内が人選した最強のメンバーを結集して「寺内タケシとブルージーンズ」が不死鳥のように蘇りました。
メンバーは、寺内タケシ(LG)、相田幹夫(SG)、石橋志郎(BG)、ジョー水木(Ds)、ルイ高橋(Vo)の5人。

しかし、ブルージーンズが復活したことで事件が起こります。田川譲二とブルージーンズ(このバンドの事は昨日の日記参照)から。だからこの時点で、ブージーンズというバンドは日本に2つ存在したのです。
しかし、ブルージーンズといえば寺内タケシ、寺内タケシといえばエレキと誰しもが思っていました。世論を巻き込んで(ブルージーンズの商標権)芸能ニュースでこの事件は大きく報道されたので憶えている方も多いと思います。紆余曲折の中、最終的に田川が折れて、本家の寺内にブルージーンズのバンド名を返上し事なきを得ました。

そして、翌'70年に自分で復活に際して宣言した、エレキの無限の可能性の証明のため、フォークやニュー・ミュージック中心の音楽シーンにエレキの神髄で挑戦すべく、メンバーの強化を図り、志村幸夫(RG)、山根 裕(O)を参加させ7人で、日本全国、北海道から九州の津々浦々まで精力的に演奏活動を行ないました。

テリー005


エレキの神様 寺内タケシVOL:3


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