119.オックス



オックス


オックス

オックスは元祖失神バンドの異名をとり、話題性においてはGS界において燦然と輝くバンドである。

'67年にザ・キングスを脱退した福井利夫と岩田裕二が中心になり結成したバンドで結成後、大阪のジャズ喫茶ナンバ一番でインスト中心に活動をスタートさせる。

※ザ・キングスについては、改めて書きますが'69年9月に京都と滋賀出身の5人で結成し、'67年9月に日本グラモフォンより「アイ・ラブ・ユー」でレコード・デビューしている。

福井利夫と岩田裕二は、このレコードがリリースする前に脱退し帰阪。ザ・キングスのレコジャケにはこの二人も写っている。

大阪のサパー・クラブ経営者の清水芳夫と福井利夫そして岩田裕二の3人で新バンド結成の相談をし直ぐさまメンバ探し(大阪、京都、神戸のジャズ喫茶)に。

最初に見つけたのは、京都の田園に出演していたザ・マッコイズのリード・ギターの杉山則夫で、この時に推薦されたのがドラムを叩いていた岡田志郎(サイド・ギターなら弾けたので)。

次に、大阪のダンスホールの富士に出演していた、ザ・ハタリーズのオルガン奏者の赤松 愛。

そして、マンガ・トリオのバック・バンドを担当していた木村幸弘とバックボーンでヴォーカルを担当していた野口ヒデト。

しかし、赤松 愛と野口ヒデトは、福井利夫等々の説得に直ぐには快諾しなかった。

しかたがないので、京都で活動していたザ・サンダースでヴォーカルを担当していた、栗山 純をスカウトした。

暫くして、赤松 愛から電話が入りバンドに参加したいと。11月10日にはじめて6人で音出しの練習がスタート。

12月1日(12月27日まで)にはじめてナンバ1番のステージを。この時に、バンド名を、オックス(下着のメーカーから引用)に

日ごとに、オックスの人気は高まり、その噂を聞きつけた野口ヒデトもそのステージ見に来る。そして、この時に半ば強引に口説かれ、12月28日に木村幸弘とバック・ボーンを脱退し、翌月から正式メンバーに。

翌'68年1月元旦から10日まで、ナンバ1番のステージで演奏し、ここではじめて、栗山 純と野口ヒデトは「テル・ミー」を一緒に転げながら唄うとしう演出(後に、『失神』と云われた原型)をした。

しかし、1月9日にリード・ギターの杉山則夫は家業を継ぐために脱退。急場凌ぎで加入した、栗山 純も1月20日に脱退

1月下旬から2月に来日した、ザ・スプートニクスの関西公演のオープニング・アクスに抜擢され、京都、神戸、姫路、大阪と各地で巡演。

ここで、オックスは一計を案じる。弾いている楽器を壊したり、アンプをなぎ倒したりするなど過激なステージを展開する。この、過激なパフォーマンスを聞きつけた観客で最終公演のザ・スプートニクスの大阪サンケイホールの会場にはオックスのファンが9割も押し寄せた。

大阪での人気を聞きつけたGAP(現、ホリプロ)にスカウトされ上京し、プロとしてデビューする。

メンバーは、福井利夫(Bg)、岩田裕二(Ds)、岡田志郎(Lg)、赤松 愛(O)、野口ヒデト(Vo)の5人。赤松が脱退した後にグランプリズで活動していた田浦ユキ(O9が'69年5月から加入

3月17日に大阪梅田の花馬車で行なわれた大阪でのサヨナラ公演には、上京するオックスと別れを惜しむ数百人の女性がつめかけた。この夜、オックスのメンバーは新幹線に乗り東京の目黒区青葉台の合宿所に。

東京での初ステージは、川崎のダンス・ホールのフロリダ。テレビの初出演は、東京12チャンネルのジャポップス・トップ10。このテレビ出演後、東京12チャンネル開局以来というはじめて、オックスへの問い合わせの電話が殺到し回線がパンク。

ジャズ喫茶への初出演は、銀座ACB。この時の観客は3人。店のスタッフは店内で缶ケリをしていたという逸話も。 その直ぐ後に、ザ・ジャガーズが公演後の移動中に自動車事故でメンバーが怪我をして出演できなくなったその穴埋めを。この時に、ジャガーズのファンが殆ど、オックスのファンに転向してしまうほど観客を魅了するステージを展開。

当時のステージでは、かなりやんちゃで、ステージ上で喧嘩(赤松 愛が中心)したり楽器を壊したりいやはや滅茶苦茶だった。

'68年5月5日にビクターより「ガール・フレンド/花の指環」でレコード・デビューする。赤松 愛の中性的な魅力と野口ヒデト、岡田志郎のアイドル性があったことで一躍、タイガース、テンプターズに次いで人気のあるバンドとして活動を行う。

だが一方、ステージ上で過激なパフォーマンスなどにより教育委員会などからエレキ追放の標的になったバンドであり、赤松 愛がオルガンの演奏中に失神し同時にエキサイトした観客も失神するという現象が社会問題となり大きく世論からバッシングを受けたバンドでもあった。

しかし、社会から批判を浴びれば浴びるほど、人気はさらに高まっていき、その後のレコードも爆発的にヒットする。

人気絶頂の、'69年4月に赤松 愛が脱退する。(「芸能界に飽きた。ジョン・レノンの弟子になる」と名言を残し去った)

この後、新メンバーが加入するが、歌謡曲路線に入りバンドの人気は急降下していく。

過激派バンドと称されたものの、GSの衰退と共に'71年5月に解散する。

オックスはデビューから解散までに、次の9枚のシングル・レコードをリリースした。

「ガール・フレンド/花の指環」'68年5月5日発売、「ダンシング・セブンティーン/僕のハートをどうぞ」'68年9月5日発売、「スワンの涙/オックス・クライ」'68年12月10日発売、「僕は燃えている/夜明けのオックス」'69年3月25日発売、「ロザリオは永遠に/真夏のフラメンコ」'69年6月25日発売、「神にそむいて/夜明けの光」'69年10月10日発売、「許してくれ/ジャスト・ア・リトル・ラブ」'70年2月5日発売、「僕をあげます/花の時間」'70年5月5日発売、「もうどうにもならない/ふりむきもしないで」'70年12月5日発売(全て、ビクターより発売)


『ロック画報』の09号に野口ヒデトの当時のインタビュー(オックスに参加する以前のザ・バックボーン時代の話もあり)が掲載されていますが、その中に、

『赤松 愛の脱退は何が原因だったのか』と質問され、

それに対して野口ヒデトは、次のように言っています。

オックスをつぶしたいという人間がいて、裏で愛ちゃんをそそのかしたんじゃないでしょうか。独立したほうがいいとか。やめさせようと画策している大人がいるらしいというのは事前に耳に入っていましたから。

確か(69年)5月5日に土浦市民会館で公演があって、前日にホテルに入ったんですよ。その時に愛ちゃんが『忘れ物をしたんで帰る』って戻ったんですよ。

そしたら、次の日に来なかったんですよ。

その日に文化放送かなんかで脱退のニュースが流れたらしいんですけど、後になって『あれはハメられたんだ。だから速報が流れたんだ』と思いましたね。

この日は満員のはずなのに7割くらいでしたから。でも、その2ヶ月くらいまえに国際劇場の楽屋でみんなで手をとりあって『がんばろう』っていってたんですよ。

愛ちゃも、一緒に。

タイガースをもう少しで追い抜けるかっていう時だったんですよ。

以下、割愛

オックス レコード・ジャケット集





'08年8月14日現在画像up作業中



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