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神頼みな毎日
君へりんごを
日差しはやわらかで暖かい。風が吹くと、草木の匂いがかすかに香る。しまった、外に移動したのは失敗だったかも……眠くなるや。弟は隣で、芝生の上に座り込んでボールを転がして遊びながら、学校の話や友達と遊んだ事を楽しそうに喋っている。
弟の話に耳を傾けながら、教科書から視線を離し、自分の住むこの町を眺める。レンガ造りの家々が、十分な間隔を取って建ち並んでいる。綺麗に手入れのされた庭があって、木々もあちこちに見られる。緑に溢れていて、清らかな空気と静かな時間がこの町を包んでいる。本の中に描かれているような、魅力的で素敵な町並みが僕は好きだ。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん」
九才も年の離れた小さな弟が芝生から、イスに座っている僕を見上げる。僕と同じ栗色の短く切りそろえた髪が、風に撫でられ小さく揺れている。
「そういえば今日ね、となりのお兄ちゃんがね。普段と違う服着ててね、剣とか持って出かける用意をしてたの」
アレンの事を言っているらしかった。うちの隣の小さな家に住んでいる僕の友達で、彼も僕と同じ十五歳だ。
最近彼女の事があって、しばらくゆっくりと会ってなかったな。にしても……剣? 出かける用意?
「お兄ちゃん、金のりんごって何?」
金のりんごと聞いて、多分僕は、無意識に表情が固くなったのだろう。僕の顔を見て、弟は怪訝な顔をした。
金のりんごとは、この町では有名な童話だ。この近くの山が舞台になっている童話で、世界一険しい山の頂上に、全知の実である、金のりんごが生っていると言う話だ。
それこそ大人なら誰だって知っている。まぁ最近ではそんな話を聞かせることは少なくなってきているから、弟は知らなかったのだろう。
「なんで突然そんなこと聞くんだい?」
「だって、となりのお兄ちゃんにどこ行くの? って聞いたらね。金のりんごを取りにいくんだよって」
何も知らない弟は、無邪気に金のりんごって何? と訊ねてくる。金のりんごって……おとぎ話の中の、あれのことだ。もしかして……。
「金のりんご……本当に金のりんごを取りにいくって言ったのか、アレンは」
「う、うん」
「本当にそういったんだなっ!」
両手で弟の肩を掴み、強くゆする。僕の必死な形相と乱暴な力に、びっくりした様子で弟は小さく何度も頷いた。
とんでもないことを……アレン。君はなんてことを。
幼い時からの友人の後姿が浮かんでは消えた。そしてしばらくして消えたまま戻らなかった。
◇
少年が一人、大きな山を登っている。この辺で一番険しく危険な山で、ごつごつとした大きな岩が集まってできたような、荒く天高い山だった。
岩壁にはところどころに植物が見れるが、申し訳程度に生えているだけで、緑はほとんど皆無、茶色と灰色の人を受け付けない世界が広がっている。
少年は十五歳くらいの見た目で、ちょっと長い黒い髪を土で汚していた。手は血豆だらけで、痛々しい。しかし目は強く上を見ている。
丈夫な皮製の服を着ていて、腰には剣を差している。彼の身長の半分くらいの長さになる剣。それを収めている銀色にふちどられた鞘が時々岩に当たって音を立てた。
彼はこの山岳地帯から少し離れた町の少年だった。そこで平和に、静かに暮らしていた。友人もいたし、身寄りの無い自分に親切にしてくれた人々がいた。そして、大切な人もいる。
必死で崖じみた岩壁にへばりつく彼の脳裏に、大切な人……彼女の顔が浮かぶ。長い髪の綺麗な少女。彼の頭に浮かんでくる彼女は、目を瞑り両手で耳を塞ぎ、口を閉じている。心まで閉ざしてしまった彼女のために、彼は好きな町を出た。
「う、ああ」
そして、岩壁にも区切りが見えた。うめき声を上げながらも、なんとか体を押し上げて、やっと重力の責め苦から開放される。寝転がり、限界を超えた疲労を解く。
肩で息をしながら仰向けに転がる。視界が上を向き山はまだ、上に向かって伸びているのが見えた。一息ついてから、体を起こす。夜になってしまえば自分の命がそれまでだから。先を急がないといけない。
(……ここからは、歩きで上れるな)
人を完全に拒絶する岩の壁から、大きな岩のでこぼこが不親切な階段を作っているものへと上を目指す道が変わった。しかし人がゆくには困難なのは変わりなかった。
空がとても近くに感じた。この山の標高は知らないが、とてつもなく広大で高く、その姿と性質から『死岩山』と呼ばれているのを知っていた。そしてそこにだけある奇跡も、危険も知っている。
山の頂上を目指すために歩き出そうとしたが、この山独特の最大の危険が訪れたことで、アレンの動きが止まった。アレンのいる位置から少し高い位置に、危険が降り立った。その存在感と身を焦がすような恐怖はアレンの全身に重く圧し掛かり、彼の心を強く縛り付けた。
アレンのほんの数十メートル先に、竜がいる。この岩山は、世界で唯一竜の住処なのだ。だからここには、生物は一匹も住んでいない。全部根絶やしにされて不毛の地となっている。
人間がちっぽけな存在であることを完膚なきまでに証明する存在であり、この世界に生きる生き物全ての天敵。牛すら容易に丸呑みするほど体躯が巨大で、恐怖の具現としか思えない強さを誇る。
翼を広げ、岩壁に降り立つ。後ろ足の爪で岩を掴み着地すると、あっさりと岩に亀裂が入って、とてつもない重量感に岩が砕ける。黒い赤色のごつごつとした皮膚に、感情の見えない殺気立った目。蒸気の漏れる口から、するどい牙の列が見える。アレンと竜の位置はそれほど近い。
背に大きな翼と、巨大な胴。前足はなく地面に降りているときは、後ろ足だけで体を支えていた。
竜はアレンとは逆方向に顔を向けていた。アレンのすぐ前で、丸太のような尻尾がうなるように動き、岩石をなぎ払う。いつこっちを向き直ってもおかしくない。
爆音――。竜の声は、そこにいる生命を恐怖に震わせ、まるで何かを刈り取るかのように、鋭く高い。全身に音が真正面からぶつかってきて、それだけで吹っ飛んでしまいそうだった。
竜の挙動から、まだ気付かれていないことに気付くと、アレンはゆっくり後ずさった。竜から目を少しも離さず、ゆっくり足を下げてその場を離れる。自分の内側から聞こえる心臓の鼓動がとても鬱陶しく思え、すぐ隣にいる死の気配に口の中が乾いた。
竜が見えなくなる位置まで下がり、息をつく。汗が頬を伝い地面に落ちた。竜のいる方向とは別の道から上れる場所を見つけ、気配を最大限殺しながら移動することにした。周りに視線を走らせたが、ゆるやかに上に通ずる岩場はこちらにはない。楽に登ろうという考えは捨て、すぐそばの壁のような岩盤を登ることにした。ここさえ上ってしまえば、後は歩いて上れるはずだ、ここさえ乗り切れば、楽さ。そう自分を励まし、岩の取っ掛かりに手足を掛けて少しづつ上を目指す。前進の筋肉が張り詰め、汗がとめどなく流れた。次はどこに足を、どこに手を、と考えながら次の岩に手を掛けようと伸ばした時、足元の岩が崩れて、足場にしていた岩は音を立てて下へと転がり落ちた。アレンの体が空中に放り出される寸前に、なんとか岩のでっぱりを掴み、かろうじて助かった。生きるか死ぬかのギリギリの状況に出会い、背筋を冷や汗が流れ、全身が硬直した。生きていることへの安堵と、死ぬことへの恐怖が入り混じりながら、アレンの心を支配した。
震える足をばたつかせ、なんとかとっかかりを見つけ、上の岩盤に上る。死の恐怖から開放されて、一気に全身に疲労が走り、呼吸を整えるのに時間がかかった。顔をあげた彼は強烈な絶望感に襲われることになった。
目の前に、竜が降り立った。豪風を撒き散らしながら、地面をしっかりと捉え、着地する。ゆっくりと翼を閉じ、アレンのほんの数メートル先で竜が佇んでいる。竜はアレンをじっと見つめていて、その目はなんの感情も見られない、ただひたすら奥まで漆黒が続いていた。
アレンは目線を合わせたまま、ゆっくり立ち上がる。足に力が入らなくて、上手く立てない。役に立つか分からないが、ゆっくり剣を抜いた。持つ手が震えているのが、嫌なほどよく分かる。刀身が小刻みに左右に揺れて、太陽の光を反射させ、竜は顔をしかめた。
竜の血生臭い呼吸が、アレンの髪をなびかす。この世界で最強の殺傷能力を誇るあの牙や爪は今、自分に向けられているんだという事にアレンは神を呪い、泣き叫びたい気分だった。
アレンの体にかかる竜の呼吸が、徐々に早くなっていく。アレンの心臓の鼓動も、どんどん早くなっていく。信じたくないが、これから始まってしまうんだとアレンは感じた。自分を狩ろうとする生物が動き出すんだと体で感じた。
竜は一気に空気を吸い込み、とんでもない爆音の咆哮を発した。それだけで自分の命が消し飛んでしまいそうな、世界の果てまで届くような少し甲高い竜の声。
アレンは全力で駆け出した。足元のおぼつかない岩場だが、そんなことは関係がないように、アレンはとにかく早く走った。その後ろを、竜も岩を蹴散らしながら、追いかける。竜が後ろ足で地面を蹴るたび、そこは大きくえぐれ、破壊された。
アレンはなんとか逃げ切るために、とにかく必死で辺りを見回した。そして少し高いところにある岩盤の上に目をつけた。あの高さなら、少しは竜が戸惑ってくれるかもしれない。思うが早いか、剣を岩盤の上に放り投げてから、自分も思いっきりジャンプし、その岩盤に手を掛け腕の力だけで一気に体を持ち上げた。腕が無理矢理な行為に悲鳴をあげたが、それを無視しアレンは立ち上がり地面に転がっていた剣を拾った。
腕の痛みに耐えながら、アレンが後ろを振り返ると、視界一杯に竜の牙の列が迫ってくるのが見えた。竜が自分に食いかかっているんだと理解するより先に、反射的に横に飛び退け、今の今まで自分のいた場所で、竜が歯を鳴らしているのが見えた。もし一瞬でも遅かったら――。アレンは恐怖の限界を超えていた。もし少しでも遅れていたら、きっと自分の全身には牙が……。
アレンが高さに目をつけて上った岩場も、竜は軽く飛ぶだけで上れたし、逆に隙の出来たアレンに対して、攻撃できるチャンスを竜に与えただけだった。狩られる者の必死の抵抗も、無駄だと思い知らすような力の差だった。
アレンがもう一度走り出そうとしたとき、彼の視界が揺らいだ。彼が見たのは高速で竜が回転したと思ったら、つづいて何か長く太いものが伸びて自分を叩き伏せた光景だけで、そのあとは完全な闇が訪れた。
その長く太いものが竜の尻尾で、チョロチョロ動き回るアレンを気絶させてから食らおうと作戦を変えた竜の攻撃だとは、おそらくアレンには知りようが無い。
幸運なのは、彼の体が遠くへ吹っ飛んでしまったこと。吹き飛ばされたアレンは岩場と岩場の間に滑り落ちていってしまって、竜にその狭い隙間に落ちていったアレンを追うことはできなかった。
気絶する寸前の闇の中で、彼は少女の顔を思い出す。彼女の体は闇の中に溶けていき、アレンが手を伸ばしても何もつかめなかった。
◇
結局僕は、とにかく皆に報告しないとと思い立ち、町中を走り回った。あちこちの家の扉を叩き、叫びまわった。
アレンが『山』に向かったという話は瞬く間に町中に広がり、大騒ぎになった。ちょうど農作も一区切りがついていて、大人の男も家でくつろいでいたので、広場にはたくさんの男達が集まり、剣を持ち装備を整え捜索隊を結成した。僕のお父さんも捜索隊に志願した。
「お父さん、僕もいく。アレンは僕の友達だ。僕も――」
「駄目だ。お前は……お前は待ってろ。アレンは絶対連れて帰るから」
アレンが向かったのは、死岩山だ。絶対帰るなんて……、奥まで行って帰ってこれる人間などそうはいない。そんな危険な場所にアレンが一人で、金のりんごをとりに行ったのだ。多分、セラのために。
「じゃあ行ってくる。お前は……セラの様子を見ていてやってくれ」
お父さんはそう言うと弟と僕の頭を撫でて、おかあさんと抱きしめあってから、十数人の捜索隊の中へと入っていった。
捜索隊が町を出た。無事に戻ってきて欲しいと願いながらその背中を見送って、僕はアレンとセラの家に向かった。彼らの家に入るのは、何ヶ月ぶりだろう。あんなことがあってからは、どんな顔して会えばいいのか分からなくて、近づけなかった。
僕の家の横に建つ、赤いレンガ造りの小さな家。この家が彼ら二人の、アレンとセラの家だ。身寄りのない二人はとても仲が良くて、セラも学校にお世話になっている身からアレンの家に住むようになった。
本当にセラと二人で住むなんて、大丈夫なのか。と聞いた僕に、胸を張って大丈夫さ、セラは俺の妹だぜ? と笑いながら答えたアレンの姿が昨日のように思い出される。もちろん血が繋がっているわけではないけど、本当の兄妹のように仲が良かったのをよく覚えている。
セラは小柄な子で、内気だったからよくいじめられていた。だけどアレンがいつも、セラをいじめた子を殴り倒していたな。僕もよく参加した。
アレンといるときのセラは、いつも笑顔だった。よく三人で色んなところへ出かけた。セラはどこへ行くにも、アレンにべったりだったっけ。
「セラ? 僕だけど、入るよ」
ドアを軽くノックして、開ける。呼びかけても無駄なのだ。数ヶ月前、彼女の奇病は最悪までに悪化したのだから。
家の中は陰湿な空気で満ちていた。アレンは几帳面な性格で、掃除も丁寧のこなす奴だったのに、少し散らかり気味の部屋が僕を出迎えた。どうやら僕の想像以上にアレンは苦しみ壊れかけていたのかも知れない。そんな小汚い部屋の中央に置かれた木のイスに、少女――。セラが一人座っている。両目に包帯が巻かれていて、白いワンピースを着ていた。まるで生気を感じない部屋だった。時間の止まった世界に迷い込んだような、生物のいないような無機質な空間。
僕が入ってきても気がつかない。まるで動かない。人形のようだった。色白く、綺麗な顔立ちをしていた。クリーム色の髪も長くて綺麗だ。そういえば初めて会ったころは、短い髪だったっけ。
「セラ、大変なんだ。アレンがね。山に……」
ゆっくり呟いてから、無駄だと。分かるはずもないと思い出して口を閉じた。数ヶ月前からそうなのだ。
彼女は、耳が聞こえないし、口がきけない。そして目も見えない。彼女にかかっている奇病は、彼女から音を奪い、彼女から光を奪い、彼女から感情を伝える術を奪ったし、受け取る術も奪った。そしてそれは彼女を発狂に近い形に追い込み、感情や心さえもなにもかも奪っていった。今の彼女は、感情の無い人形と同じものになっている。
まったく解明されていない奇病に突然発病してしまったセラの荒れ具合は、見ていられなかった。そして、発病してからは、みるみるうちに生気を失い、今では生ける屍のようだ。
町のみんなは、もっと大きな街の病院に移して養生しようと言った、アレンは聞かなかった。ずっと彼女の傍にいると、断固としてセラを放さなかった。
彼女とアレンは、ずっと二人で生活してきたのだ。回りの助けを借りながら、アレンは彼女の傍に居続けた。
だけど彼の言葉は彼女に届かないし、彼の姿は彼女には見えない。彼女の心を知ることもできない。それでも彼は彼女の横に居続けた。
最後にあった時、僕が大丈夫かと心配した。アレンは、だってセラは俺の妹だぜ? 大丈夫に決まってるだろ。と微笑んだ。
そして――ついにアレンはおとぎ話の金のりんごの力を求めた。そこにどれほどの決意や感情が込められていたか、僕には想像もつかない。
◇
アレンは夢を見ていた。セラがまだ奇病にかかっていない時の頃の、セラに笑顔が溢れていたときの夢。
そういえば親友とも最近会ってないな。そんな事をアレンは思った。昔は三人でよく遊んだ。
セラにせがまれて、三人で川に遊びに行った時、あいつ流れに足を取られて流されたんだよな。セラは大泣きしてたし、俺も死んでたらどうしようとか、不安で仕方なかった。それなのに、下流で、大きな石の上で服を乾かしついでに日向ぼっこしてるあいつを見たとき、セラと一緒に大笑いしたっけ。
セラが、いじめられてた時。俺とあいつでそいつら殴り飛ばしてたら、逆に大喧嘩に、セラが泣き出しちゃって、結局なぜか俺らが謝ったよな。
セラは、本が好きだったな。自分が読むのも、俺が読み聞かせるのも。挿絵が気に入って、ずっとその本のそのページを開いて、一日中眺めていたっけ。
アレンの夢はどんどん加速していく。色鮮やかだったり、断片的だったり、さまざまな思い出がめぐる。
セラを、歌好きにしたのはなんだったっけ? あぁそうだ。学校で童話の勉強をして、歌があるってあいつが調べてきたんだった。妙にセラが気に入って、毎日毎日口ずさんでいた。どんな歌だっけ、最近聞いてないな。
セラに――。セラが――。セラを――。次々と色んな光景が浮かんでは消えて、そして光が強くなる。
段々闇が晴れて、アレンが意識を取り戻した。あの強烈な竜の一発を食らった割に、アレンの復活は意外と早かった。体を起こして辺りを見回すと、さっきのところから随分と下まで落ちたことが分かる。全身が軋み、あちこちが出血していたが、生きているし動けることはたしかだった。
なぜ助かったか、どうして自分はやられたかアレンはしばらく考え込んだが全く分からなかった。結局忘れることにして、痛む体を無視し再度上を目指すことにした。
どうやら闇雲に逃げた末、今まで上ってきた場所とは違うところに迷い込んだらしい。どの壁も異様な高さで、しかも上が鼠返しのように反り返っていて、とてもじゃないが上れない。辺りを見回すが、どうもここは孤立した場所のようで、どこからも上れないし降りれない。彼は変な場所に落ちたことになる。
やっと見つけた道は、岩盤がずれてできたような岩のでっぱった道だった。螺旋階段のように岩壁に沿ってゆるやかに上へと伸びている。その細い道を岩の壁にはりつくようにして、アレンは慎重に足を進め、上を目指すことにした。道は彼の体分の横幅はあるが、足を踏み外せば落ちて死ぬのだから決して十分な幅とはいえない。
「っと……」
足元の岩が、抜け落ちた。慌てて崩れた部分から飛びのき、細い道にうつ伏せに捕まる。アレンはため息をついた。
立ち上がろうとするアレンの耳に、空気を裂く音が聞こえる。大きな翼が躍動し、空気を捉え自身を支える音。音の正体にアレンは慌てて立ち上がり、早歩きで細い道を進んだ。
激しく甲高い声。竜だ――。アレンに気付き、下から翼をうならせアレンと同じ目線を維持しながら威嚇の声を上げている。鼓膜を強く刺激し、空気を唸らせるような悲鳴にも似た咆哮。
アレンは剣を抜こうと、腰に手を当てて、初めて剣がないことに気づく。それどころか鞘もない。役に立つとは思えないが、無いとなると困る。
アレンは殆ど全力で走っていた。恐怖で足が震えて、何度か踏み外しそうになる。全身に汗を浮かべ、
竜がはばたくたび、強風がアレンの足を掬う。そのたびアレンはどっと汗をかき、心から恐怖にざわめく。はばたいている間は、竜も岩壁に近づけないのだが、翼を動かすだけでアレンは危機におちる。
軽く竜は後ろに下がり、猛烈な勢いでアレンに突進してきた。後ろ足の太く鋭い爪を立て、アレンに蹴りを入れるように突っ込んできたが、かろうじてアレンは走る速度を上げることで、避けることができた。竜が側面の岩壁に着地すると、たやすくその場が崩れ落ちる。たった今、アレンのいた道も音を音を立てて崩れた。
轟音と爆風が響き、竜が壁を蹴り飛ばし離れ、翼を振りながらアレンに狙いを定め――。走っているアレンの少し後ろの岩壁に着地する。細い道に竜がとどまれるわけがなく、側面の岩を後ろ足の爪で捕らえ、崩れる前にまた飛び立ち、またアレンを追いかけてすぐ後ろの壁に着地する。
竜がアレンを狙らって、その部分に着地するまでに、アレンは少しだけ前に進んでいる。その少しのズレが彼の命を保っていた。呼吸がどんどん激しくなっていき、もはや生きた心地など完全に忘れ、とにかく彼は走った。そのあとを赤く巨大な竜が追う。
竜は暴風を撒き散らしながら、少し空に帰って再度彼めがけて飛んでくる。――彼の走っている少し手前に着地するようだ。もし止まって避けても、道は破壊されてしまう。そうすれば……。
彼の心は死ぬ恐怖より、ここで道が絶えてしまう絶望感で一杯になった。もう金のりんごには手が届かない。
竜は翼を振り下げ、アレンと竜の距離は一瞬で縮まった。
◇
大昔の話。
この世界に住まう生き物達は、飢えや死ぬ恐怖のない天界で暮らしていました。
しかしある時、数多くの木の実の中で知恵の実である金のりんごだけは食べてはいけないと言う神様の決まりを、破ってしまった人間たちがいたのです。
彼らは神の怒りを買い、下界に落とされました。
こうして飢えと恐怖に満ちた下界に追放されてしまった彼らは嘆きました。自分達の愚かさを。
下界は、飢えと危険で満ち溢れていて、力のない彼らが生きていくことは困難でした。しかし彼らには知恵の実から授かった力があります。彼らは知恵を使い、非力な自分達を守る術を考えて生きていきました。
もとから下界に住んでいた人たちとも、りんごの力で自由に意思を伝え合い協力して下界に天界のような安楽の地を作りました。
そして、彼らは自分達の食べたりんごの種をある山に植えます。
自分達の過ちを悔いて世界でもっとも険しくもっとも雄大な、人を拒む山の山頂に植えました。
それを見ていた神はそこに竜を放ち、知恵の木の守護を命じました。
今も竜は、山に立ち入る全ての生命を滅ぼし知恵の実を守っています。
「終わり」
そういって、本を閉じた。
僕はアレンの家で見つけた絵本をセラに読み聞かせていた。絵本を手に取った時、懐かしさとよく分からない感情がこみ上げて、心の中で入り混じった。
本を力一杯握り締める。この本の伝説を求め、アレンは……。そう思うと無駄だとしても、彼女に伝えたかった。
絵本の置いてあった机の周りには、分厚い学書が置いてある。全てこの絵本の考察について書かれたものだった。他にも机の上には、この辺の地学本。竜の生態系と生息図。机の上はメモ用紙や文具と本で乱雑としていた。壁に貼られた地図に描かれた死と不毛の山と言う文字と地形に赤い印がついていた。
彼はりんごの力が欲しかった。先人が非力な自分を守ること使った知恵の力ではない。
『自由に意思を伝え合う力』――ただそれが欲しかったんだ。
◇
諦めかけた彼の目に飛び込んできた亀裂は、ちょうど竜の着地地点だった。もはやそこしか道は無かった。
覚悟を決めた彼が亀裂に飛び込むのと、強烈な力で岩を竜の爪がえぐるのは、殆ど同時だった。衝撃でアレンの体は、亀裂の奥へと吹っ飛ばされた。亀裂は奥深くまで続いていたようで、アレンは体中を岩の壁に叩きつけながら転げ落ちていく。辛うじて気絶しないですんだが、彼の全身はずたずたになった。 衝撃の勢いが失せて、岩の地面をしばらく転がったあと、やっと彼の体が止まった。アレンの体は、岩の上に無造作に転がったまま、動かなかった。指先すら動かしたくない、全然力が入らない。人形にでもなってしまったようだった。アレンはそう感じた。
(痛みは思ったほどないけど、動けない……ここまで来たのに……あと少しで頂上なのに)
遠く外では、竜の雄たけびが聞こえる。岩を削るような音も。自分を殺そうと動物が動いている音を聞くのは、不思議な感覚だった。
亀裂の外は竜が破壊したから、引き返すことはできない。ここからは、どうやって上を目指す? どうすればいいんだ。焦りが冷静な思考を妨げる。 状況だけでも確認しようとなんとか上体を起こした彼は、辺りを見回して息を呑んだ。
亀裂の奥は、空洞になっていた。広い大きな空洞で、一番上に見える天井部分がなく、そこから光が差し込んでいる。
光は空洞の真ん中を照らしている。そこだけ柔らかい土色で、一本の木が生えている。光に照らされてか、実っている果実は金色に輝いていた。鈴のように綺麗に光り輝く木の実。
「金のりんごだ……」
腕はなんとか力が入るが、足は完全に動くことを放棄していた。折れているかも知れない。手だけで体をなんとか木のところまで近づける。自分の体を引きずるように動くたび、何かが自分の中から漏れ出しているような感覚がする。
(大丈夫。体は思ったより無事だ。腕とか岩にぶつけたところが痛いだけだ)
少しづつ体を引きづりながら、木に近づいていく。永遠とも取れるほど、その時間は長かった。必死で木の根元にたどり着き、手で触れてみる。暖かくて、柔らかかった。なんとか木の実に手を触れ、ひとつをもぎ取った。
腕から力が抜け、木の下にうつぶせに寝転がる。手の中には金のりんご。頭の中に広がるのは、少女の笑顔。
彼はゆっくりそれを口元に持っていった。かじると、みずみずしい音を立てた。りんごの中にある不思議な何かが体のなかに、浸透していく。
今まで気付かなかった疲れが、体中に広がった。戻れるんだ……安堵に目を閉じる。
「セラ、大丈夫。兄ちゃん、今から帰るから。帰ったらいくらでも話そう」
彼は、二度と閉じた目を開けなかった。木の下でうつ伏せで寝て、片手にはりんご。
背中には凄まじい血と肉片を作り出した爪あとがある。丈夫な皮作りの服は無残に破けていて、血で皮膚と服との境目がはっきりしない。爪あとはどこまでも深く体をえぐっていて、アレンから感覚を奪い取っていた。
彼は永遠に木の下で眠り続ける、幸せな夢を見ながら。
彼は、夢を見る。
青空の下の草原で、セラがくるくると回って、目に包帯なんか巻いてなくて、呼ぶと笑顔で振り返ってくれる。彼女は楽しそうに歌を歌い、澄み切った青空に目を輝かせる。
二人で笑いながら、一生このまま歩いてく。ずっと一緒に……。
「セラ、今帰るよ」
彼の手が握るりんごを、光が照らしていた。
◇
アレンとセラの家で、僕はセラの正面に置かれたイスに座っている。ただゆっくり時間が過ぎていって、気付けば窓の外は夕暮れになっていた。
ふと部屋の中にノックの音が響いた。ドアを開けると、悲しげな表情で立っているお父さんがいた。
結局、捜索隊はアレンを連れて帰ることができなかったらしい。竜が出現する危険性が大きかったけど、絶壁の岩壁まで近寄って出来うる限り辺りを捜索したらしい、が……アレンは発見できなかったらしい。お父さんは、何度もすまないと謝った。お父さんのせいじゃないよ。
「セラのことは明日考えよう、とりあえず今日は帰ろう」
「僕はもう少しここにいる、もう少しだけ」
僕がそう言うと、お父さんはゆっくり頷いて帰っていった。
彼女の正面のイスに座って、名きっとアレンもこうして彼女の前に座っていたのだろうかと考えていた。
「セラ」
彼女の名を呼んでみた、もちろん反応しない。たぶん、アレンは何度もこの行動を繰り返して、少しづつ決心していったのだろう。
日が暮れて、窓の外が赤く照らされた頃。彼女がゆっくり動いた。両手でゆっくり包帯をずらして、閉じられたままの目が現れる。立ち上がって、見えない目で、どこかを見ていた。しばらくじっと何かに聞き入っていた。聞こえない耳で。
彼女が聞いてるのは、僕の言葉じゃないとすぐ分かった。彼女が見ているのは、僕じゃないともすぐ理解した。――アレンだ。
――今、帰るよ。
遠くか、頭の中か。アレンの声が聞こえた気がした。セラはしきりに頷いて、嬉しそうな笑顔を見せていた。閉じたままの瞳から、涙が流れ落ちている。
すごいなお前は、金のりんごを本当に手にいれやがった。アレンすごいよ、しかも金のりんごはどんなに距離あっても相手の顔が見えなくても、思いは伝えられるんだ。僕にも伝わった。
きっと誰もこの話は信じないだろうけど、声が聞こえた僕とセラには分かる、アレンは帰ってくるんだ……。
それまでこの家で待とう、セラの嬉しそうな笑顔と一緒に出迎えてやるさ。
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