江戸東京ぶらり旅

江戸東京ぶらり旅

なぜ「江戸」と呼ぶのか

東京の昔,どうして「江戸」って言うの


 1156年頃, 江戸重継 (しげつぐ)が城を築きました。だから江戸城。

 そして室町の頃, 太田道灌 が再築。道潅山と言えば日暮里あたりの小高い丘を指しますね。

 それから130年余の後の1590年,豊臣秀吉の命令で, 徳川家康 が江戸城に移り住み,ビフォー・アフターの大改造。江戸湾の海の水が間近に迫る葦の原,点々と見える漁村風景。城といってもあばらや同然。さて,ここをどうしてやろう・・・。これが東京の原点でした。

=坂下門=
坂下門


 関ヶ原の戦いで実力を示した家康。目の上のたんこぶ秀吉もいない,もう気兼ねすることなど何もなくなった家康。それに家康は今や蝦夷を征伐する将軍中の将軍,征夷大将軍,ベネチアを共和制から民主制にかえたナポレオンのごとき,全国の武士の代表だ。総理大臣どころではない権力者。郵政改革ところじゃない,家康に反対するなんて,お家取りつぶし,改易,年俸もなくなってしまう。家康は有能な 藤堂高虎 に江戸の設計を担当させたのですね。そして資材の調達や工事を全国の有力武士,つまり大名にやらせることにしたのですよ。たとえば,大名の年俸が1000石に対して人足一人を提供,だから10万石なら100人を提供する,という具合に。

=辰巳櫓=
辰巳櫓.JPG


 江戸城の石垣はどうしよう。加藤清正や福島正則などの外様大名にやらせたのですね。日本を代表する江戸城を皆さんの手で築きましょうと,家康はただでやらせた。100人が,やっと運べるような大きな石を,一つの藩だけで1000個も2000個も調達させ。彼らは伊豆の山奥の火山岩やら熊本にある岩石などを切り出して海上輸送。いや,大変だこと。今でも残っている江戸城あとの石垣の石はこうして運ばれ組み立てられた石垣だ。おかげでどの大名も懐具合が悪化。何しろ家康の顔色をうかがってのただ働き,手弁当。これじゃかなわないよ。

 江戸城が完成したのは1636年,三代将軍家光のときですから,長かったというか,短かったというか,おまけにこの間に参勤交代なんていう人質政策も始まって,この行列,見栄の張り合いにもたんまり金がかかる。兵隊を集め,金でなんとか幕府を転覆させ,自分が将軍に,なんていう夢は起こすに起こせない。なんたって金を使い果たしてないからね。

=百人番所=
百人番所


 でも藤堂高虎って天才ですね。家康一族のための江戸城を中心に,内堀,そして「の」の字で繋がる外堀。譜代大名,外様大名,親衛隊の旗本・御家人,町人の住む場所を区別し,身内に近いものをお城の近くに住まわせ,徐々に外側へという配置。江戸城から五街道が延び,北からの侵入を神田川で食い止め,いざというときは街道を利用するという準備万端の設計。










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