戸口に露の降りるまで

戸口に露の降りるまで

短編「花」


              彼岸花  
9月も半ば過ぎになって、ようやく涼しい風が感じられるようになった。文子は先週の話が心に引っかかり、気が重かった。
 文子は通所リハビリと言われる介護保険制度の施設で働いている。
ヘルパーと呼ばれる職種だ。ホームヘルパー2級の資格は、母親が痴呆症だと言われた5年前にとっていた。兄夫婦が母を見てくれるのが、ありがたいには違いないが、どこか引け目にもなり、かといって、世話に通うには遠い。そんな苛立ちから、介護の職場にパートで入ったのであった。
利用者の水田さんの娘さんが自殺された。
水田さんは夫婦で週2回文子の勤める施設に通ってこられる。夫の昭夫さんは痴呆症だ。おとなしく座っておられるが、家ではうろうろされたり大きな声を出されたりするらしい。妻の頼子さんは70歳台だが,難病のために車椅子生活でトイレの介助なども必要だ。少しでも介護者の負担を軽くしたいと、立ち上がりの訓練をされている。そんな夫婦を娘さん二人で介護されていた。いつも家にいて世話をされていたお姉さんのほうが、旅行先で投身自殺をされたという。二人とも独身だった。
職場のミーティングで、水田さんには娘さんの自殺は伏せることになったといわれた。二人はショートスティで他所の施設に行っておられる。文子は思い出していた。先々週の金曜日妻の頼子さんは
「来週は娘が旅行に行くからここはお休みします。たまには、あの子も気分転換しないとたまりませんからね」と話しておられた。
「ショックが強すぎるので絶対に一生嘘を突きとおす」
それが妹さんの意向だという。

いったいなぜ自殺されたのだろう。水田さんを迎えに行くといつもニコニコと挨拶をされたしっかりした感じの娘さんだったのにと文子は理解できなかった。介護で先行きに展望も未来も見えないと思われたのだろうか。単に疲れての発作的な行動だったのだろうか。文子には何も分らない。ただ、ほんとに知らせなくていいのだろうか。母親が子どもの死の真実を知らないでいいのだろうかと先週から考えている。残った妹さんが決めたことだ。他人である自分達が口出しをすることではないとは分っている。でも頼子さんは旅先で交通事故に遭って死んだと聞かされて納得されるのだろうか。もしどこかから、後で真実を知ることがあったらそのほうが無残なことではないのか。それに自殺した娘さんは頼子さんたちに伝えたいことがあったのではないか。文子はいろいろ考えてしまう。文子自身は自殺を考えたことはない。思春期の頃自殺をしたいと思いつめている友人の枕もとで、「あなたが望むなら一緒に死んであげる」と真剣に話したことはある。親のことは考えなかった。自分の命は自分のものであった。
昭夫さんと頼子さんはお葬式にも自宅に帰れなかった。どう考えても介護できないから、旅行のためのショートステイに引き続いて葬儀のあれこれが終わるまで1週間延長された。どんな気持ちで過ごしておられるのだろうと文子は胸が痛んだ。
「これからは仕事をもっておられる妹さんが介護をされます。朝夕はTのヘルパーさんが送迎のためのお世話をされます。昭夫さんはもう一つ分っておられないようで、お変わりないようです。頼子さんは、表面は落ち着いておられるようです。賢い方なので、くれぐれも、気取られるような言動はしないように」
朝のミーティングで、主任の話があった。今日から水田さん夫婦が2週間ぶりに来所される。今日の仕事分担が発表された。文子が水田さんも乗られる送迎車の添乗係になった。内心、うっかり口を滑らせたらと不安も感じたが、自分なら上手くやれるとも思う。言葉を口にするのは自信があった。
送迎車は街中を出て、天神の森を迂回し、山間部に入っていく。竹林が美しい。夏が過ぎたこの時季の竹の葉が最も清清しくて文子は好きだ。このすがすがしい気分で水田さんに会おう。私の逡巡は私の内にあって、頼子さんにとっては、埒外なことなのだ。私は「明るい文子さん」でよいのだと文子は思う。
「おはようございまあす」と文子は大きな明るい声をはりあげ、軒先で待っている水田さん夫婦に挨拶をする。変わらない笑顔。ただ傍らにはジャージを着たヘルパーさんがニコニコと立っている。
荷物を積み、車椅子を固定し、出発する。
「このたびはご愁傷様です。大変でしたね」
「はい」
窓の外に真っ赤な彼岸花が咲いている。
「家にもって帰ると、家が火事になると、母に叱られたものです。あの子にもそう教えたものです」車椅子に丸く座っている頼子さんの目に涙が光っているのを文子は見た。
ただ黙って彼岸花の群れを一緒に見つめ続けた。




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