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マーク・ジェイコブス時代のルイヴィトン、村上隆さんやスティーブン・スプラウスとのコラボはロングセラーになりました。昨年はグッチがドラえもんとコラボ、直営店ウインドーに飾られたドラえもんのピンクドアは目を引きました。ロエベのトトロ、百貨店開店前にお客様の行列ができました。「となりのトトロ」を制作したスタジオジブリのファンなのか、それともロエベのJW・アンダーソンのファンなのか、行列はどっちだったんでしょう。日本にはまだまだ世界でよく知られるアニメ系コンテンツがいっぱいあります。うまく活用してファン層を広げて欲しいですね。
2022.07.26
2011年3月の東北大震災と原発事故は世界の人々にも自国のエレルギー政策を考えさせるきっかけになりました。原発依存度が極めて高いフランスのような国もあれば、原発事故を機にクリーンエネルギーにシフトしたドイツのような国もあります。2012年9月の春夏物パリコレ、シャネルはいつものグランパレの大会場に風力発電ファンのレプリカを数基セット、床には太陽光パネルを貼りつめました。反原発路線のドイツ出身のデザイナーらしいメッセージでしょうし、時代の流れを読むディレクションにさすがだなあと思いました。貴婦人たちにただ綺麗な服を創っているだけではない、だからカール・ラガーフェルドは広くメディアにも愛されました。参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Lagerfeld風力発電ファンのレプリカ床は太陽光パネルを連想させます総勢80人のモデルの先頭を歩くカール・ラガーフェルドシャネル2013年SPRINGのフィナーレ
2022.07.26
通商産業省が繊維産業の政策ビジョンとして大規模なイベントWFF(ワールド・ファッションフェア)と情報発信拠点としての装置FCC(ファッション・コミュニティーセンター)構想を掲げていたとき、役所の検討会の委員に加えられました。将来のためにイベントは必要あるのかなあ、ハコ作ってどうするのかなあ、正直そう思っていました。人材育成が急務じゃないでしょうかと発言したら、「誰が教えるんですか」とお役人から質問されたので、大袈裟に学校と考えるから前に進まない、寺子屋みたいなものでいいじゃないですか、自分でやってみますと答えた意地もあって1986年私塾「月曜会」をCFDオフィスで始めました。月曜会を視察に来た墨田区役所から、人材育成を議論するための会議を墨田区に作りたいと話があり、墨田区ファッション産業人材育成戦略会議が発足。育てる人材像やカリキュラム案、理事長には山中さん(当時は松屋会長)になってもらおうと構想を固めました。それから紆余曲折あったものの、墨田区に財団法人ファッション産業人材育成機構が発足、1994年秋から半年間1クールのIFIビジネススクール夜間講座がスタート。この写真は1996年に始まった夜間講座修了式のもの。中央が山中理事長(このときは東武百貨店社長)、こういう集合は写真珍しいです。この頃、百貨店経営の神様は病でかなり痩せていました。2枚目の写真は山中さんがお元気な頃のものです。写真整理していたら出てきました。懐かしい。
2022.07.25
2011年3月11日東北地方を襲った大地震と津波、そして原発事故による避難勧告。4月20日に予定していた春のファッションプロモーションは自粛か実施か議論しました。アーティスト遠山由美さんが般若心経の解体文字をデザインした赤いアクリル作品をキービジュアルに、全館チャリティーのつもりで実施しようとなりました。ルイヴィトンのマーク・ジェイコブス、靴デザイナーのクリスチャン・ルブタンはじめ世界各国のクリエイターからチャリティーグッズがたくさん届きました。反響は大きく、お客様も被災地の皆さんも全館チャリティーに喜んでくださいました。(遠山由美さんの作品をベースにしたキービジュアル)半年後の2011年10月、長年のライバル三越銀座店との初めてのコラボイベントGINZA FASHION WEEKを開催。自粛ムードで暗くなった銀座を元気にしよう、地方の産地を元気にしようと、両社のロゴ入りショッパーを作り、買い物は松屋でもノベルティーは三越でレシートと交換可能、松屋のウインドーに三越の商品を飾る、あるいはその逆も。とにかく面白い試みを一緒にやってみましょうう、と。現場の担当者たちが考えた「織る松屋 編む三越」のキャッチコピーはなかなか秀逸でした。震災から1年後の2012年3月、今度はGINZA FASHION WEEKのバージョンアップ、ジャパンデニムの素晴らしさを世界に向け発信しようと歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAYを開催。広告代理店を入れず両社の社員を総動員。あいにく朝から雨でしたが、開演10分前に雨はあがり、東北のちびっ子と経済産業大臣が登場したラストシーンでは眩しい太陽、とても感動的でした。上空からのフィナーレ写真、どこがランウェイ、どこが客席、どこが歩道かわからない大盛況。PR協力してくれた東京メトロも普段より乗降客が増えて喜んでくれました。テレビ各局はそろって夕方のニュース、主要新聞は翌日朝刊で写真入り報道、まさに「事件」でした。これら3つのイベントをみんなで実現することができ、百貨店にはまだまだできることがある、と確信しました。その思いはいまも変わりません。
2022.07.23
2012年秋、パリ最古の百貨店ボンマルシェの創業160周年記念イベント。有料のエコバッグにもどことなくパリのエスプリを感じます。ウインドー装飾(=4枚目の写真)は女優カトリーヌ・ドヌーブさんがモチーフでした。かつては古ぼけたあまり魅力的ではないお店だったけれど、LVMHグループが買収し10年以上も時間をかけてリニューアル、いまの姿になりました。プランタンやギャラリーラファイエットは観光客でいっぱい、落ち着いて買い物できませんが、こちらはパリ市民のお客様が多く買い物自体をゆっくり楽しめます。ちょっとした什器のデザインやイベント、プロモーションに日本でも使えそうなヒントがあり、流通業で働く者としては視察MUSTのお店。コロナウイルスでも創業170周年記念プロモーションを今年はやるんでしょうか。
2022.07.22
(アレキサンダー・ワン)人気ブランドのデザイナー交代は難しいと改めて思ったのはニューヨークの人気者アレキサンダー・ワンのバレンシアガ後継デザイナー就任でした。2013年秋冬パリコレでの初ショー前夜、現地で業界関係者とディナー時に「明日のバレンシアガはきっと黒と白しか出てこないだろうね」と話していたら、本当に白と黒だけでした。アレキサンダー・ワンだから想定内、これをバレンシアガのファンは喜ぶか否か、マネジメントはどう判断するか。予想通り契約満了の前に退任しました。センスのいいデザイナーですが、この伝統あるブランドには合わなかったということでしょう。現地有力紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューンの記事(=写真)にあるように、鳴り物入りで2012年にスタートしたサンローランのエディ・スリマン、ディオールのラフ・シモンズも、結局はかなり短命で終わりました。ブランドの継承はホントに難しいです。(コレクション発表前にはスリマンVSシモンズの記事もありました)
2022.07.22
いまでこそ百貨店のラグジュアリー婦人靴売り場を大きくするのはどの国でも当たり前になりましたが、最初にドカーンと巨大な売り場を作ったのはニューヨーク五番街Saks Fifth Avenue(サックス)本店。しかも当時の売り場作りの常識を破る上層階でのオープンでした。最初ニュースを聞いたとき、サックスは失敗すると思いましたが、実際に見て感動、この手があったんですね。8階ラグジュアリー婦人靴フロアへの直行エレベーター、これなら上層階のハンデは解消できます。婦人靴拡大路線はあっという間に世界中に広がりました。(8階直通エレベーター、10022はサックスの郵便番号)(C・ルブタン、R・ヴィヴィエ、J・チュウなど勢揃い)
2022.07.22
ニューヨークコレクション視察時、マンハッタンのイエローキャブに乗ると座席前のタブレットからニューヨーク市ポートオーソリティ(交通局に相当)局長が導入が決まった新しいイエローキャブの紹介映像が自動的に流れていました。局長はいかに素晴らしい車種かを説明するんですが、それはGMでもフォードでもクライスラーでもなく、日本の日産自動車製でした。出張に同行した部下のファッションコーディネーターに「日産がコンペでビッグスリーに勝ったなんて知ってた?」と聞いたら「知らなかったです」。新たな日米経済摩擦を気にしてか、日産はPRにとても慎重だったのでしょう。映画やテレビドラマで頻繁に登場するイエローキャブ、ものすごい宣伝になります。ニューヨークのアイコンのような車なのに米国ビッグスリーをおさえ日本車がコンペに勝利するとは。でも日本ではあまり知られていないんだったら日本で広めようじゃないか、と。コーディネーターは日産自動車に知り合いがいるというので、「これを銀座で走らせてみよう。交渉してよ」となりました。まだニューヨークで新型イエローキャブとして走る前、日産メキシコ工場からわざわざ3台日本に送ってもらい、松屋銀座店で展示し、報道陣には銀座の街を乗ってもらいました。天井がガラス張り、車イスを簡単に引き上げられ、とっても気持ちいい車、日本の誇りです。新型イエローキャブが来る、当然松屋の店内はニューヨークプロモーションを仕掛けました。2013年秋のことでした。
2022.07.22
CFDが代々木体育館の敷地内に建てた特設テント、定員850人と記入して渋谷区に建築申請していましたが、実際には1500人以上の観客は当たり前、ブランドによっては2000人以上動員したところも。観客が多過ぎてテントの壁面が丸く膨れ上がったり、ショーの最中に観客の重量で床が抜けたり、鉄骨に巻き付けた照明用の電気コードから火花が降ってきたり、毎回ヒヤヒヤしながらの開催でした。NHKニュースで東京コレクションのことが報道されたら、大勢の立ち見客が映ってしまい、「NHKニュースで放送されたからには無視するわけにははいかない」と消防署に定員オーバーを叱られたこともありました。シーズンを重ねるたびに消防署の指導は厳しくなり、市役所からは騒音測定車も出動、ハードルが高くなるごとに設備経費がアップして困りました。撮影場所を取り合いしたカメラマンたちが最終日テントの入口に全員集合、記念撮影したことが懐かしい。
2022.07.22
新型コロナウイルスの影響でファッションショーでなくデジタル映像配信のブランドが増えました。が、徐々にショーを開催するブランドがヨーロッパで増え、今度こそ東京コレクションも定員数などの規制が緩和されて実施できるかなと想像しておりました。まさかの新規感染者数が都内で3万人、この調子で感染者が急増したら来月末のRakuten Fashion Week TOKYOは規制継続でしょうね。マスク着用、ソーシャルディスタンス、定員厳守、残念ですが前シーズンのまま。
2022.07.21
シャネル日本法人社長だったリシャール・コラスさんの配慮で、シャネルとは化粧品しか取引がなかった百貨店なのにパリコレで最前列の席を用意してくださり、毎回カール・ラガーフェルドの手がけるシャネルを拝見することができました。会場には世界各国のお得意様も全身シャネルで集まり、記者、バイヤーも含めて3千人くらいの大観客、華やかでした。カールはフィナーレで出演全モデルに続いて長〜いランウェイを歩いてくれるので、いつもこんなアップ写真を撮れました。パリでシャネル、ミラノでフェンディ、ディレクションの異なるビッグブランド両方をどうやってマネージできたんでしょう。ある意味天才です。(パリコレフィナーレにて)(ウインドーのカール)
2022.07.21
仕事柄これまでたくさんのファッションショーや面白いプレゼンを観てきました。あまりの美しさに背中がゾクゾク、あるいは感動のあまりショー終了後しばらく席を立てなかったコレクションもありました。会場に入った瞬間、大勢のモデルが新作を着てズラリ並んでいたモンクレール、これも記憶に残る迫力のプレゼンでした。
2022.07.21
フランスのハイエンド婦人靴ブランドROGER VIVIER(ロジェヴィヴィエ)導入交渉のためイタリア半島東部マルケ州にある親会社TODS本社に出張したとき、経営者ディエゴ・デラヴァレさんの従業員に対する愛を感じました。まるで美術館のような本社の一画に写真の幼稚園があり、昼休みは母親とお子さんが一緒に社員食堂でゆっくり無料ランチ(レストラン並みの食事と環境)できます。村には別途小学校も開いて、地域社会に貢献。素晴らしい。(中庭に幼稚園)(美術館のような本社エントランス)(創業時に祖父が使っていた靴職人の道具一式)( Roger Vivierコレクション)
2022.07.21
2021年度毎日ファッション大賞にトモコイズミ(小泉智貴デザイナー、写真下)が決まった直後、東京オリンピック開会式で国歌斉唱するミーシャの衣裳はトモコイズミでした。あまりのタイミング!
2022.07.21
実行委員長としていまもお手伝いしている日本ファッションウイーク推進機構が主催する東京コレクション(正式名称 Rakuten Fashion Week TOKYO)、初めて公的交通機関(京急電鉄)の車両を会場に開催されたファッションショーは楽しかった。kolor(カラー。阿部潤一デザイナー)の2022年春夏コレクション。
2022.07.21
自分がニューヨークで活動していた頃、ファッションショーの会場で必ず遭遇したベテランジャーナリストたち。(上)ニューヨークタイムズ記者バーナディン・モリスさん、(中)元WWD編集長、ニューヨークタイムズ日曜版記者ジューン・ウィアーさん、(下)映画にもなったフリーランスジャーナリストのビル・カニンガムさん。3人とも既に鬼籍、デザイナーたちに大変尊敬されていたジャーナリストでした。モリスさんとウィアーさんは晩年Parsonsで後進の指導を、カニンガムさんは亡くなるまでカメラを担いでパリコレにも取材に来ていました。(Bernadine Morris)(June Weir)(Bill Cunningham)
2022.07.21
2006年からこちらのブログにアップした写真はのべ1500枚ほどあります。写真を整理し、保存のためにも写真だけ順次こちらにアップします。Parsons School of Design現在ニューヨークで活躍しているデザイナーの半数以上はこのパーソンズデザイン学校の出身。ニューヨーク州立ファッション工科大学(FIT)が「ファッションの総合大学」に対して、私立パーソンズは「デザインの総合大学」。ファッションデザイン、グラフィックデザイン、インテリアデザイン、写真、環境デザインなどの学部があります。ニューヨークに出張するたび、7番街(通称ファッションアベニュー)西40丁目にあるこのファッションデザイン学部の校舎で何度も講義(=写真)しました。
2022.07.21
5年間の休止期間はありましたが、このブログはこれまで220万以上のヒット数、多くの方々に読んでいただきました。ビジネススクールやファッション専門学校の教え子を対象に始めたものですが、いつの間にかメディア関係者や経営者の方々にも広がりました。また、このブログの一部に加筆した書籍まで出版させていただきました。これまでのご声援に感謝申し上げます。しばらく充電期間をいただいてリセットしたいと思いますので、本日分が最後となります。これまでお付き合いくださり、心より御礼を申し上げます。* * *10月、気温が下がって秋らしくなるといつも思い出します。オヤジが倒れた日のこと、そしてその30年後の京大検査入院のことを。今日はとっても内輪の話ですみません。私がぼんやり大学受験を考えはじめのは高校3年生の夏休み明けでした。それまではサッカーがすべて。朝から夕方までボールを蹴っていました。疲れきってろくに勉強したこともないんですから、受験しても恐らく失敗して浪人だろうなあ、と想像していました。その頃、車を運転して帰宅したオヤジが腹痛を訴えて救急搬送、自分の中で大きな変化がありました。翌日、家業テーラーのお客様でもある総合病院の外科部長から「見ておきなさい」と切除したオヤジの十二指腸を見せられました。広げて見せたくれた十二指腸は大きい穴がいくつもあり、複数の穴はストレスが原因との解説でした。このとき、オヤジが死んだら浪人なんてできなくなる、やったことがなかった猛勉強をここから開始。2カ月半は寝る間も惜しんで受験勉強、どうにか大学3つ合格しました。担任の先生もこの結果には驚いていました。当時オヤジはテーラーを地元で開き、同業の仲間と別の紳士服事業を県内他都市に開き、百貨店の名古屋店と大阪店ではイージーオーダー納入業者として走り回っていました。弟子に任せたらいいのに、お客様の型紙制作とカッティングは必ず自らの手で行う。大半のお客様はお隣の愛知県、ご自宅に伺って最終フィッティングですから休む間もなく働きっぱなしでした。無理がたたって急性十二指腸潰瘍と腹膜炎併発の手術、このとき受けた輸血が原因でB型肝炎、のちにC型、肝硬変、肝臓癌と悪化、入退院を繰り返しました。三人の子供を大学卒業させるまではと病と闘いながら仕事も頑張ってくれました。近年、予防接種などが原因でC型肝炎になった人を救済するテレビCMが頻繫に流れていますが、当時はそんな救済策はありません。「運が悪かった」と諦めるだけでした。学生時代、帰省した日にも救急車が我が家に。痛いおなかを押さえながら「おまえはいったい何になりたいんや」と訊くので「マーチャンダイザーになりたい」と答えたら、「それはどういう仕事なんだ」。そんなやりとりをするうちに救急車が到着でした。ロンドンのサビルローに修行に出し、将来テーラーを継いで欲しいというオヤジの願い、でも私はニューヨークに渡ってマーチャンダイジングを習得する道しか考えていませんでした。オヤジの弟子のご縁で晩年は京都大学の先生に肝臓癌の定期検査をしてもらうことになりました。当時から京大は免疫療法でも有名だったので、オヤジに京都行きを勧めました。季節はちょうど気温が下がり始めたいま頃、結果的に生涯ラストになった定期健診でした。珍しく入院が長引くことになり、京大病院の真ん前の旅館にオフクロを宿泊させ、我々兄弟は順番に京都に様子を見にいきました。そして1月下旬、オヤジは肺炎に。院内感染でしょう。見舞いに行ったら、呼吸用の管を入れられ意識がもうろうとする中、力を振り絞って書いた「にいちゃん、ありがとう」のメモを渡されました。字が綺麗なオヤジでしたが、まるで幼稚園児が書いたような字、これが絶筆です。私が京都から東京駅に着いたところで訃報、逝く瞬間は傍にいてやれませんでした。でも悔いは全くありません、絶筆をもらったんですから。テーラー廃業したあとも、オヤジは生地をなるべくカットしないパターンで重量感のない着やすい服の研究を続け、自らパターンを引いて自ら縫ったジャケットを我々に送ってきては「どうやった?」と感想を聞いて喜んでいました。私に代わって一度家業を継いだのちデザイナーアパレルで生産管理をしていた弟に何かを伝えたかったのかもしれません。オヤジと弟はメンズブランドのパターン改良研究を廃業後も保存していた大きなカッティングテーブルでやっていましたから。縫製は自転車の運転みたいなもの、しばらく乗らなくても操作を忘れることはないけれど、パタンメーキングは自動車の運転と同じ、しばらく乗らないと腕が鈍る。オヤジから何度も聞いたセリフ。だからでしょうか、その職人魂から引退後もずっとパターンを引いて研究していました。衣食住どんなジャンルでも研究熱心なベテランは年を重ねても進化する、死ぬまで研究するテーマがあってオヤジは幸せでした。子供の頃、オヤジはとても厳しく怖かった。うちの若い職人たちを叱り飛ばす、あるいは鉄拳シーンを何度も見ました。勉強しない私にも容赦なくゲンコツ。さらに、最悪の教育パパ、「勉強しろ」としか言わなかったので正直言って煙たい親でした。勉強せずサッカーに没頭したのもオヤジへの反発かな、と。大学卒業後の進路では意見が分かれ、私は長男でありながら「分家」にされ、渡米前に親戚縁者を集めて分家の儀式もありました。だから、オヤジの告別式では弟が家族を代表して参列者の皆様にご挨拶しました。発病後も仕事を続けるオヤジを弟は傍で助けたので、オヤジは命を縮めずにすみました。わがファミリーにはありがたい弟です。亡くなってからオヤジの生き方を理解できるようになりました。われわれのために精一杯働いてくれたオヤジのおかげでいまの自分がある、といまではしっかり自覚しています。紺屋の息子が洋服屋になりたいと修行に行き、のちに東京洋服専門学校(テーラーの後継者の多くが学んだ学校)でパタンメーキングの勉強、終了後はそこで講師。そして徴兵されて激戦のインパール作戦。終戦後数年はビルマ(ミャンマー)の収容所で暮らしました。祖父の手元にはなぜか戦死通知が届いたそうですが、祖父は息子の無事を信じて洋服地を大量に買い込み、いつ帰還してもすぐテーラーが開業できるよう蔵に積んでいたそうです。私はマーチャンダイジングのプロを目指して渡米、8年間ニューヨークで取材活動をして帰国、いろんな仕事をさせていただきました。カエルの子はカエル、ずっとファッションに関わる領域でキャリアを積むことができました。マーチャンダイジングの基本を日本の業界に広めたい、と人材育成にも情熱を傾けました。教え子はいつの間にか数千人、でもどこまで私の指導が浸透したかはわかりません。彼らがマーチャンダイジングの基本に忠実に仕事をしてくれたらなあと願っております。これからもショーや展示会の視察は続けます(写真は本日お邪魔したANREALAGEの展示会)。マーチャンダイジングの指導はライフワーク、ずっと続けます。が、もうブログにアップすることはありません。長い間、ありがとうございました。
2021.10.22
英語でCLASSIFICATION、日本語にすると「分類」あるいは「区分」。マーチャンダイジングの基本を教える際に必ず「分類に始まり、分類で終わる」と言ってきました。米国式マーチャンダイジングを真っ先に日本に導入した伊勢丹では、かつてマーチャンダイジングの基本項目を書いた名刺入れに入る大きさのカードをバイヤーは常に携帯していましたが、そこには「区分」とあったと聞いています。伊勢丹専務の山中さんが松屋の社長に就任された際、このマーチャンダイジングのカードを松屋のバイヤーにも持たせ、松屋から東武百貨店社長に移られたときも同様のカードを配布なさったと聞いています。品揃えや商品展開方法で迷ったときはこのカードを見て基本に戻るよう、各社のバイヤーたちは山中さんから指導されたはずです。私も長年マーチャンダイジングの基本を学校や企業で教えてきました。単発セミナーではなく、長期間マーチャンダイジングの基本を私から教わった教え子はファッション流通業界に数千人います。皆さんに説いてきたのは、「ファッションビジネスに奇策はない」、「基本に忠実に仕事をしてください」、そして「自分たちの手で機会ロスを減らしましょう」、「プロパー消化率を上げましょう」でした。ときには深夜まで働いて企画チームが苦労して作り上げた商品を、バイヤーやビジネスチームはしっかり受け止め、お客様の目に魅力的に映るよう工夫すればクリエーションに共感してくださる方は増えるはず、それには整理整頓分類の徹底を、と口酸っぱく言い続けてきました。商品分類のモノサシと定数定量のモノサシの両方を使ってそれぞれの売り場に相応しい商品展開、陳列を心がけましょうとも。新型コロナウイルス感染の騒ぎが始まって1年半以上、営業時間の短縮、営業フロアの制限、入店客数の制限や館の営業中止もありました。しかし新規感染者の減少によって制限が解除され、今月から百貨店、駅ビルやファッション系商業施設はほぼ通常営業に戻りました。秋本番、気温が下がり始めるタイミングでの通常営業復活は本当にありがたいことです。数ヶ月間外出ショッピングできなかったお客様、徐々に売り場に足を向けてくださるようになり、久しぶりに街に活気が戻りつつあります。もちろん、またまた新規感染者が急増して営業自粛命令が出る可能性はあるでしょうが、しばらくは秋物ショッピングを楽しめる状況が続けばなあと期待してしまいます。1年半小売店は思い切ったプロモーションを打てず、集客イベントは基本的に見送りでしたが、これもやっと解禁です。このままの市場環境がクリスマス商戦まで続けば、大きく落ちた売上をそこそこ回復させることだって可能ではないでしょうか。先日、六本木ヒルズ森タワーに向かうエスカレーターでドンペリニヨンのプロモーションビジュアル(写真上)に目がとまりました。決して安くはないドンペリニヨンの2006年ヴィンテージロゼと世界の歌姫レディガガ、なんとも目立つプロモーションですが、限定ギフトボトルの売上は順調に伸びているそうです。高価なシャンパンと、派手な衣裳が毎回話題になるスーパースターのコラボ、消費を我慢してきた人々が反応してくれて好調な滑り出し、自粛ムードを吹き飛ばすプロモーションではありませんか。自粛から解放された今月、小売現場ではどうしても気になることがあります。いろんな原因はあるのでしょうが、とにかく服を販売する売り場が乱れています。コロナウイルスの影響で海外からのデリバリーや国内生産に影響があるのも原因の1つかも知れませんが、整理整頓分類がほとんどできていない売り場、軒先のマネキンが意味不明コーディネーションというショップ、どこの商業施設でも多いのが非常に気になりますね。待ちに待った自粛からの解放、気温も下がり始め、これまでのピンチを挽回する大きなチャンス到来だというのに、これでは売り場の前でお客様の足をとめられません。ショッピングモードのお客様を魅了するハンガーラックやマネキンの陳列方法、あらためて整理整頓分類の基本を念頭に、通路側からお客様目線で自分たちの担当売り場を点検して欲しいですね。教え子の皆さん、「基本に忠実に仕事をしてください」。
2021.10.19
私がこのブログを書き始めたのは、ちょうどホリエモン事件があった頃でした。渦中の堀江さんがブログで自分の思いを発信しているのを見て、業界内に数千人いる教え子たちに「補習」をするつもりで私もブログを始めました。売り場で見たこと、感じたこと、業界ニュースに対する自分の思い、お世話になった諸先輩や友人の活動などを綴りました。2011年の東北大震災の後、復帰したばかりの松屋銀座で被災地支援チャリティーを行ったとき、私のブログをたまたまご覧になった避難所暮らしの女性から感謝メッセージが届きました。メッセージを読みながら涙が溢れました。同じく松屋の社員からは「この会社で働いていることに誇りを感じます」とイベントを主導した私に熱いメッセージ、これにも泣けてきました。準備期間がほとんどない中、イベントを強行して良かった、まだまだ百貨店にはできることがあるとこのときは実感しました。しかし、この被災地支援イベントと、次の銀座ファッションウイークや歩行者天国のショー(競合店との合同イベント)で目立ち過ぎたのか、2年後松屋は政府の要請を受け私を官民投資ファンドの経営者に出すことになりました。フリーランスの長い私がお堅い政府系の仕事、あまりに勝手が違います。公的ファンドの反対勢力も存在しますから、用心のためブログは中断、過去にアップしたブログの文章は全て削除、5年間の在籍中はSNS発信できませんでした。2年前その投資ファンドを退任、再び民間人としてファッションビジネスの世界に戻りました。自由の身になったのです。退任直後からブログを再開、主に国内外の売り場視察で感じたこと、売り場が示唆している将来のビジネスの姿などを中心に書きました。5年間ファッションビジネスから遠ざかっている間、ますます「服は売れない」世の中になっていました。名ばかりのファミリーセール(本当は社員の家族向けではない)、百貨店の店外セール催事の連発、アウトレットへの積極的出店、当然ながらアパレルのプロパー消化率は下がり、在庫はどんどん膨れ上がり、廃棄処分で環境は悪くなる、そして多くの企業の収益はかなり悪化しました。このままではアパレルメーカーは消滅する、それに依存する小売店も苦境に陥る、特に地方店は売り場が成り立たなくなる。そんな話を流通セミナーでしていたら、警鐘を鳴らす本を書いてはどうですか、と高名な経済学の大学教授に勧められ、業界に復帰してからの1年間でアップしたブログを年初より整理加筆し始めました。ところが、同じタイミングで新型コロナウイルス感染が日本に飛び火、欧米でも日本でもレストランや小売店は通常営業ができなくなりました。日本では自粛要請、欧米では休業命令、当然破綻する企業が出現し、ほぼ毎週のように閉店、ブランド解散、倒産のニュースが続きました。その度に加筆し、コロナ後について考えるようになりました。ほぼ原稿がまとまった時点で繊研新聞社に出版のお願いに行きました。私は大学卒業後すぐニューヨークに渡り、7年余繊研新聞の初代ニューヨーク通信員として米国デザイナーや米国市場の動向を取材しました。今日の私があるのも当時ニューヨークで身につけたことがベースになっています。今回は原点に戻ってファッションビジネスを考え直す本に仕上げたつもり、であれば自分の原点のメディアから出版したいな、と考えました。幸い、繊研新聞出版部の協力を得られ、9月1日に発売となりました。約1年分のブログの中から記事を選んで加筆したのですが、結構分厚い本になりました。ファッションビジネスはいま赤信号状態、なので表紙は真っ赤に塗りつぶしました。タイトル「売り場は明日をささやく」は、売り場を注意深く見て分析すれば明日の業界、市場が見えてくるという意味です。コロナ後のビジネス、これまで以上に独自性、希少性がなければお客様はショッピングしてくださいません。企業はそこをどういう仕組みで工夫し消費者に訴求するのか。密集を避け、他人が試着した服は触れたくない消費者心理、従来の小売店とは違うビジネスモデルが登場するでしょうね。でも単純に「これからはオンラインだ!」ではないと思います。長い期間隔離を余儀なくされた反動から、消費者の一部にはコミュニティーへの参画意識が芽生えるでしょうし、企業はそれをどう提供できるのか、今後の課題の一つと思います。コロナ後、同じ景色は戻ってきません。これからどういう戦略を立てるのか、ぜひ拙著を参考にしていただきたいです。「もっと魅力的な商品を作ろう」、まさにクリエーションが問われるのはここからではないでしょうか。
2020.08.31
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