魂の還る場所

魂の還る場所

no title

 ---何かあったらすぐに呼んで下さい---。

 …でもそれが、こんな真夜中だったらどうすれば良いんだろう?
 急に泣きたくなって、そして会いたくなった。
 ただそれだけのために、こんな時間に呼べる訳ない。


 澄んだ朝の空気がどこまでも続いて、深い深い青をした空へ続いている。
 真っ白な雲がいくつかそこに居たけど、青の中に白が浮かんでいるのでもなく、白が青をのみこんでいるのでもなく…そんな不思議な。
 太陽の金色が淡く縁取る光景は、宗教画のように広がっていた。
 彼女がいつも「隙間から天使が覗いているみたい」だという。
 それを見ながら、まっすぐ歩いていた。
 まだ朝早い時間では、すれ違う人もいない。
 聞こえるのはすずめの鳴き声と、朝刊を配るバイクの音くらいだ。
 ずんずん…とまっすぐ進んで進んで、ちょっぴり息が上がり始めた気がする頃に門の前に居た。
 自分の目線と同じ高さの格子状の門をくぐり、庭へと向かう。
 …合鍵だって持っているのに、彼女は使おうとはしない。
 何か用事を頼まれたり、待ってて下さいとか待ってるねって約束をしない限りは。
 だからいつも通り、合鍵を使わない。
 そして庭へと回った。
 早起きの草花達は、微かに風に揺れている。
 リビングへ続く3段の石段に彼女は腰を下ろした。
 背中には、大きな窓。カーテンが閉じられているから、まだ起きていないのが判る。
 起きたらまずカーテンを開けて、光を入れる人だから。
「…何時だろ…」
 朝の光は、あたりを大分明るく照らしているけれど。
 初夏の風が彼女にも優しく語り掛けてくる中、がさごそ…と時計を見る。
 取り出した懐中時計は安物だけど、憧れた蓋のついたものだ。
 小さく音を立てて開くと、まだ六時前だった。
「…早過ぎだよねぇ…」
 ちょっぴり苦笑しつつ、膝に頬杖をつく。
 小柄な彼女が更に小さくなってしまった。
 …ぼんやりと眺める。
 深く深く続く青と、どこまでも一緒の白い雲。
 金色に縁取られた雲間では、かくれんぼする天使の笑い声。
 心地よい風と遊ぶ草花たちの名前を、彼女はあまり知らないけれど、それでも構わないと思う。
 きっとみんな、聞こえない声で本当の名前を呼び合っているのだろうから。
「…にゃー…何時に起きるんだろ…」
 うーん…と伸びをして思い切り身体を反らせた時、カーテンを開け放った彼と目が合った。
 カラカラカラ…と窓が開けられ。
「・・・おはよー」
「おはようございます」 
 彼の姿を逆様に見ながら、朝の挨拶をしあう。


 ここから入るか、玄関を回るか。
 変に真剣に考えたら、何だかどっちが良いのか判らなくなってしまった。
 ここから入ったら、出かける時に一緒に出られない…出る時は彼より先に靴を履いて玄関に回るか…。
 玄関を回ったら…ほんの少しの距離とは言え、何となくいやだ。…何となく…。
「さて、どうしよう?」
 訊いてみたら、ちょっと笑いながら
「ここから入れば良いですよ」
と、あっさり結論を出されてしまった。
「なんで?」
 あっさりすぎて、反射的に訊いてしまった。
 それでも素直にリビングへ上がる。
「いや」
 先に奥へと進みながら彼が言うには
「出かける時には、玄関で見送って貰えば良いかと思って」
 …つまりは、そのまま家で待ってて下さい、と言うことだ。
 それについては流石に彼女も解ったのだけれど。
「でも結局、玄関には行ってこなきゃいけないんですけどね」
 と言われた時は「ほえ?」と返してしまった。
 彼の視線が足元に注がれたので、彼女は「そうかそうか」と呟きながら、スリッパを求めて玄関へ向かった。
 家主さんの許可を得て、靴を手に部屋を抜けて。


 洗面所で手を洗ってから、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら戻ってくると、彼はキッチンに立っていた。
 彼の身体には小さい気がするキッチンで、ケトルに水を入れたりしている。
 いつもなら彼女はリビングのソファへ向かい、クッションを抱えながら胡坐をかいたりするのだけれど、そのままパタパタとスリッパを鳴らしながら彼の後ろに近づいて、そのまま背中に抱きついた。
 …どうしました?なんて訊かない。
 何も言わずに、回された彼女の手を、大きな手で包むように優しく叩く。
「久々にフレンチトーストつくりましょうか」
 しがみついたまま「んー…」と声だけ返してから
「ほいじゃあお茶は私がいれませう」
と、ひょこっと顔を見上げた。


 最初にフレンチトーストを作ったのは彼女の方だったのだけれど、気が付くと彼が作った方がおいしかったので、作らなくても良いやと思ってしまった。
 だから代わりに紅茶を淹れる。
 今日はシナモンミルクティーにしよう。
 お湯は沸いてるから、ちょっと手抜きで…ロイヤルじゃないけど、代わりにスペシャルなミルクティーを淹れよう。
 ジンジャー・シナモン・ミルクティーだー。
 …とご機嫌な様子で淹れる。
 このキッチンに2人で居るのはちょっぴり窮屈な気もするけど…まぁ良いやって言いながら。
 その隣では、自然に浮かぶ微笑を隠そうともせず、たまごとミルクを溶き混ぜた中にパンを浸していく姿がある。
 紅茶もパンももっとおいしくなるように時間の魔法が必要だから、待つ間に食器を用意した。
 フライパンをあたためて、その横でミルクをあたためる。
 暫くすると、じゅっ…と言う音が響き、おいしい匂いが広がり始めた。
 大き目のカップからも、湯気と芳香が立ち上った。
 彼女の特製スペシャルミルクティーには、最後に少しのはちみつが仲間入りして、リビングのローテーブルへと運ばれた。
 ソファーを背もたれにしてラグに座るか、ソファーに胡坐をかいてクッションを抱きしめるのが彼女のお気に入りだから。
 ナイフとフォークと、メープルシロップも用意できたところで、最後にもう一度。じゅぅぅぅぅ…と聞こえたのは、バターのひとかけらがフライパンに飛び込んだからだ。おなかが鳴りそうな音と匂いに
 手を合わせて「いただきます♪」と言った時には、彼女の好きなあの空はすっかり明るくなっていた。
 青と白が溶け合ったみたいに、薄い薄い水色になって。
 きっと天使達が連れ去ってしまったのだ。
 彼女に残った、ちょっぴりの何かを。


 もくもくと一所懸命フレンチトーストを食べて…食べながら話せないので…ミルクティーを飲んで
「ごちそうさまでしたっ!」
 両手を合わせて1拍おくと、彼女はおもむろに立ち上がって洗い物を始めた。習慣的に、ひどい汚れじゃない限りは即行で片付けてしまわないと気が済まないのだ。時間を置くと自分は絶対動かなくなると解っているから。
 彼の方は新聞を読んでいる。カーテンを開けた時には既にネクタイと背広を着たら出掛けられるだろうというところまで着替えていたので、のんびり出来るようだった。
 かしゃかしゃと触れ合いながら水を浴びる食器達のざわめきを聞きながら、彼は何時に起きたんだろう?と思ってしまった。会社への距離や始業時間から考えて8時過ぎに家を出れば良いはずだから、もっと寝てても良かったんじゃないかなぁ?…と思うのと、水切りに食器達が整列し終わるのは同時だった。
 振り返ると気配を察したのか、彼は立ち上がる。
 そして並んで歯みがきしてしまったのも、習慣が同じだったからだ。
 いつもと同じスタンスで居ても、共通するものが幾つかあって、それを見つけられたらシアワセだったりする。見落としがちなことでも気付けたらシアワセなのと同じで、何か「あ、いっしょ!」って思うことが集まっていくと、余計にシアワセになれるのだ。
 ほんの些細なことでも、気付くことが出来たら。
 歯みがきが済みリビングに戻って、再び新聞を広げた彼にくっついてみる。
 ソファ越しの背中にのしかかるように…おんぶおばけになって、新聞に目を向ける。
 見えたのは、小さな数字の羅列だった。株価なんて見たって何も解らないし、特に話しかけることも無いので、彼の隣に回りこんだ。
 彼に背中を預けて、庭を見る格好で座る。
 少し開けた窓から風が吹き込み、カーテンが微かに揺れる。
 ぼんやりと見ていた。
 カーテンを。
 草木を。
 空を。
 …ずっとずっと遠くを。
 風があまりに心地よく、彼女の頬にも触れたから。
 ずっとずっと遠い場所にある記憶を見ていた…。
「…どうしたんですか?」
「…えっ?」
 不意に掛けられた声にびっくりしてしまう。
 一瞬では「いま」が分からなくて、ちょっと視線を彷徨わせたけれど、覗き込む彼の瞳にぶつかって、ようやく感覚を取り戻した。
「やー、何か遠くを見ちゃった」
 照れ隠しなのか誤魔化しなのか解らないけれど…心配をかけたくないという思いが無意識に発動したらしく、こめかみをぽりぽりと掻きながら笑みを浮かべてしまう。
 その瞬間に彼女の視界は角度を変え、彼の顔が真上に見えた。
 どうやら、彼の手が彼女の額を押して、そのまま自分の膝へ招いたらしい。
 突然のことに、彼女は思わず「にゃにゃっ?」と声を上げつつも起き上がろうとしたのだけれど、結局腹筋を鍛える運動を繰り返す羽目になった。
「・・・のぉっ!」
 どう考えても、自分はおもちゃにされている。
 ずーっとずーっとこうなのだ。
 この人は自分を見ると、こうして遊ぶ人だった。
 …ずっとずっと、むかしから。
 何度目かやっと起き上がった時、ふと目に入った時計が8時前を指していた。
「あ、ほら、そろそろ行かないと」
 こういう場合いつもなら彼の方が気付くのだけれど、今日は彼女の方が先だったから、ちょっと嬉しい。
 「勝った!」…というか、何と言うか。…些細なことだけれど、ちょっとは成長できたかな?と言うか…。
 ちょっとは近づけたかな?…と思える瞬間を探しているのかもしれない。
「あぁ、本当だ。行かないと」
 …でも改めて言われるとちょっと切ない気持ちになるのは勝手なのだろうか?
 休んじゃえ休んじゃえ!って気持ちはかけらもない。…とは言えないのだけれど…。それでも言ってしまえば自分勝手な我がままだし、実行されたら自己嫌悪に陥ることも確実なのだ。休もうとしたら、慌てて追い出すかもしれない。
 ネクタイと上着を着けて、鞄も手にした彼の後から玄関に向かう。
 どうして自分が歩くとスリッパはぱたぱた…と言うのだろう?音を立てて歩くつもりは全然無いのに、何故か消えない。それを不思議に思っていると伝えたら、きっと笑われるんだろうな…ということは流石に察知しているので言わない。
「それじゃあ、行ってきます」
 靴を履いてから、きちんと目を見て微笑んだ。
「ほいほい、行ってらっしゃい」
 ひらひらと手を振って、お見送りする。
 何でもないことのように。
 …何かがよぎっても。
「気をつけて…」
 言いかけた彼女の頭が引き寄せられる。
 それは力なんて全然入れてなかったけれど、簡単に。
 彼が胸に抱え込む。
「終わったら、まっすぐ帰ってきます。
 此処に」
 そしてもう一度「行って来ます」と告げて、彼は出かけていく。
「うん、行ってらっしゃい」 
 開けた扉の向こうに、青空が見えた。 
 初夏の、水色の空。


 「行ってきます」も「行ってらっしゃい」も、約束の言葉。
 そして呪文。
 此処に戻ってくるって。
 だから、一人じゃないって思う。


 そう、此処に居るから。 


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