さすらいの天才不良文学中年

さすらいの天才不良文学中年

病気のデパート(下血騒動記ほか)

MRI初体験奮戦記

 本日と明日は、関ネットワークス「情報の缶詰12月号」に掲載された、おいらの「MRI初体験奮戦記」を2回に分けて、お送りします。


MRI初体験奮戦記(前編)

1.それは右腕の痺れから始まった

 1か月前から右腕が痺れるようになった。

 力が入らない。何より二の腕の部分が痛い。そういえば、半年前にも運転すると腰から下の右脚が痺れることがあった。一過性であったが、今度は右腕の痺れである。同じ右側の部位というのは嫌な感じがする。

 そうこうしているうちに国営放送を見ていたら、痺れは脳梗塞の前兆の場合があるという番組をやっていた。予兆は何事にもあるもので、手足の痺れは脳の異変の前触れだと解説している。

 考えてみれば、母は心臓が弱い。母の脳梗塞は、不整脈が原因で血栓が発生し、それが頚動脈を経由して脳に及び、発症したのではないかと推測されている。おいらも心臓に持病があるので、脳には人一倍気を付けなければならない。

 そこで、先月末の母の看病である。母が入院している先は脳外科であり、広島で一、二を争う優秀な病院である。ここで検査しない手はないだろう。思い切ったが吉日で、おいらも患者として診察をしてもらうことにした。

 早速、院長先生に相談したところ、「脚も腕も右側だから、嫌ですね。それでは調べてみましょう」ということになった。

 これがおいらの生まれて初めてのMRI検査をすることになった経緯である。


花


2.MRIの初体験

 看護士に連れられて、MRI室に通された。

「金属製のものを全てはずして、上半身は下着のシャツ1枚になって欲しい」とMRI技師に云われる。ピップ・エレキバンもダメだそうだ。MRIは強力な磁気なので、金属製のものは全てダメになるのだという。

 ロッカー室に貴重品と金属製のものを全て入れて施錠し、いざMRIの機械とご対面である。

 思った以上にデカイ機械である。塗り壁みたいな背の高い機械の中央下部に穴が開いていて、そこに頭から体を突っ込むようである。あの小さな穴の中に体を入れるのか。不安である。

 まず、台の上に仰向けになって寝て欲しいと云われる。台は意外と上方にあるため、ステップに足をかけて寝転ぶ。台は細長くて、狭い。寝るのに窮屈である。ぴったり寝るには、両腕が邪魔なのである。異常に狭いカプセル・ホテルの中で寝るような感じだ。それでも几帳面に寝る。

 体に特大のテープ状のものが巻かれる。両腕が固定された。これでは簀巻きだ。身動きが全く出来ない。

 そうしているうちに、今度はヘッドホンを着用させられた。これは異常な格好である。ヘッドホンを付けられ、両腕は真っ直ぐのまま簀巻きにさせられた形で、極めて狭い担架の上に乗せられている。その担架がゆっくりとスライドしてMRIの機械の小さな穴の中に吸い込まれていく。

「目をつむってください」と大声で云われるが、ヘッドホンをしているので良く聞こえない。

 体が滑るようにして機械の中に入った。うわぁ、こりゃ、閉所恐怖症の人間だと、気が狂うに違いない(続く)。


MRI初体験奮戦記(後編)

(昨日からの続き)
 突然、カタ・カタ・カタと大きな音がし、一瞬その音が静まったと思ったら、突如、今度は機械そのものがウンウンと巨大な音響で唸り始めた。とてつもなくでかい音だ。直ぐに、ヘッドホンは耳栓の代わりだと気付いた。

 体は簀巻きで、しかも、真っ暗な機械の中と大きな音。まともな人間なら直ちに逃げ出したいと思うはずだ。最初に検査の時間が15分から20分だと聞かされていなかったら、間違いなく発狂している。


薔薇


 そこで、機械の中で本能的に数を数え始めた。数によって時間の経過が分かるからである。

 ゆっくりと深呼吸しながら数を数えた。90まで数えたところで、音が止まった。1つ数えるのに、約2秒見当だから3分経過した訳かと安心していたら、それも束の間、再びカタ・カタ・カタと大きな音がし、一瞬その音が静まったと思ったら、また、機械そのものがウンウンとでかい音で唸り始めた。

 これを都合5回繰り返して、MRI検査は終了した。

 合計時間は20分弱であろうか。穴倉から外に出してもらい、ヘッドホンをはずし、ぐるぐる巻きのテープをはがす。よろよろと担架状のものから脚を下ろし、立ち上がる。大袈裟だが、生きている。嬉しい。


3.結末や如何に

 10分程したら、院長先生に呼ばれた。

 結果が出たらしい。診察室に入る。K先生が神妙な顔をして、「異常ないようですね」とのたまわれる。

 驚いたのは、たった今検査した自分の脳が先生の前のパソコンの画面に映されていたことである。

 自分の脳との対面。これは、何とも云えない感動である。脳がコンピュータ映像(ただし、白黒)となって、目の前に見えるのだ。クリックすると、頭のてっぺんから首の方向に向かって、輪切りされた脳の断面が鮮明に表示されている。電磁波とはいえ、よくぞここまでクリアに見えるものである。不思議な感じを通り越して奇妙な感覚である。

 K先生は「脳梗塞の痕はありません。綺麗です」と淡々と話してくれる。同時に首のレントゲンも撮っているので、これもパソコン画面に表示された。

 今や、デジタル撮影なのだ。昔のようにレントゲンのネガを1枚1枚蛍光灯を点けた表示板にはさむようなことはしないのだ。医療技術の進歩に感嘆する。

「右腕が痺れるのは、恐らく頚椎の下から2番目と3番目の間の隙間が少し狭くなってヘタッテいるのが原因でしょう。まあ、年相応のヘタリ方ですな」とのたまわれる。結論は、ビタミン12の摂取と湿布にすれば良いでしょうというものであった。脳に異常がないことが分かり、ほっとする。

 そう思いながら、今回のMRI体験は小宇宙を旅行したようなものだと感じる。MRIを受けたことがない方がいらっしゃったら、是非ともこの小宇宙旅行疑似体験をされることをお勧めする。

 それが、今回のおいらのメッセージである。


4.世界の新発見

 ところで、この病院に勤務する技師が血管内のヒラヒラが剥がれる前の状態の撮影に成功し、世界の新発見をしたそうだ(このヒラヒラが血管中を浮遊し、脳梗塞の原因になる)。

 詳細は省くが、発見の経緯は、米国某社製の機械のスイッチを切るのを忘れて帰宅したところ、たまたまその映像が残されていたという。今や、学会でその技師は引っ張りだこといい、脳梗塞原因解明の一助になっているようだ。

 身近にこのような話しが転がっているところがまた面白い。


モルヒネをくれ(前編)

 先月の紀元節の連休後半から、首と右肩を壮絶な痛みが襲った。右腕を引きちぎられるほどの痛みである。

 夜、寝返りをうつだけで目が覚め、一晩中眠れないのである。


国宝


 モルヒネをくれ!

 という気持ちが始めてよく分かった。それほどの痛みである。

 このメチャクチャな痛みは、歯痛以来である。しかし、歯痛は一過性で、歯を抜けば治る。この首と肩の痛みは一刻たりとも和らぐことはない。ひたすら肩に千枚通しを何箇所も突き刺されているほどの痛みが継続するのである。痛みが続くと思うだけで、痛みが増幅する。

 四十肩だと人はいう。おいらは人生僅か五十年を既に超えているので、五十肩かと思ったが、学名は四十肩らしい。えぇい、そんなことはどうでも良い。

 思い当たる節はあった。おいらは昨年、右腰痛の後に右肩痛になったのだ。脳梗塞の前兆かと、MRI検査を受けたところ、頚椎に隙間が出来ており、それが原因ではないかと診断されていたのだ。

 それに、おいらは涅槃のポーズが大好きである。ちょっと横になって、涅槃のポーズでくつろぐ。お釈迦様の気持ちが分かるではないか。

 しかし、好事魔多し。

 脳の病気ではないと安堵し、その後も、首や右肩のケアなど全くしなかったのである。通勤では重いカバンをリュックのように右肩で毎日背負っていたのである。涅槃のポーズも毎日していたのである。

 とうとうそれが臨界点を超えたのだろうか。それとも、四十肩の再発なのだろうか。

 思えば、おいらも四十肩には人並みに40を過ぎて、既になっていた。そのときの記憶では、半年くらい右肩をかばっていたら自然に治っていたように思う。しかし、今度もそうなるという保証はない。ましてや、痛みの度合いが全く違う。

 今回の痛みは横綱級であり、前回は前頭筆頭レベルであった。えぇい、そんなことはどうでも良い。

 この痛みをなくすには、モルヒネしかないのじゃ! モルヒネをくれ!(続く)。


モルヒネをくれ(中編)

 連休明けに直ちに整形外科に駆け込んだ。


仏像


「先生、我慢できません。モルヒネを打ってください」
と頼み込んだのだが、先生は涼しい顔をして、「レントゲンを撮りましょう」ときた。

 2枚のレントゲンが目の前に並び、「首が原因です。頚椎ヘルニアですね」と、この先生にべもない。

 おいらは、このときまで、肩が原因で首も痛いと思っていたのだが、首が原因で肩まで痛くなっていたのだ。広島のMRI検査をした先生は既にそれを見抜いていたのだと瞬時に理解した。

 しかし、そんなことはどうでも良い。おいらが欲しいのはモルヒネじゃ。モルヒネをくれ!

 と、思ったら、直ぐに注射である。これは痛い。

 ところが、これが痛くないのである。正確に述べると、あまりの首と肩の痛さに、注射の痛みなど痛みの内の入らないのである。痛みとは、相対的なものだと今回初めて理解したのである。

 知らない間に注射は終わっており、「神経の痛みをブロックさせる注射です」ときた。続けて、「首の骨を矯正しましょう」とのたまわれる。

 別室に通され、首の骨を伸ばすリハビリと相成った。

 え、これって、おいらがロンドンのマダムタッソー蝋人形館で見た中世の拷問の機械ではないのか。

 おいらが母のリハビリでリハビリセンターを訪ねるときに、絶対にしたくないと思ったのがこの首吊り機械であった。何故なら、おいらの美学に反するのである。考えてもみよ、誰があの首吊りにダンディズムを感じるだろうか。

 それにもかかわらず、理学療法士はおいらの目をみて、「ハイ、こちらです」とまさしくその機械を指差したのである。

 しかし、今やモルヒネしか頼りのない身、そんなことはどうでも良い。この痛みを無くしてくれ!

 おいらは問答無用で首吊り族の住人になったのである(続く)。


モルヒネをくれ(後編)

 驚いたことに、この首吊り族の住人は多いのである。

 順番に並ぶのである。

 この病院には首吊り拷問機が三台も設置してあるのだが、いつも満員である。頚椎ヘルニアの患者は多いのだ。


室生寺釈迦如来


 例えば、広島カープ大阪出張所(世間では「阪神タイガース」と呼ぶ)の赤星は、昨年首痛でペナントレースを棒に振った。

 さて、ここまでで、理解したことは、

1.要するに、現代人は首を酷使しており、それを曲がった状態のままにしている。畢竟、頚椎にズレが生じ、それが首の神経に触れ、激痛となる。

 おいらの場合は、歴年に渡り、首を右側や後方に曲げすぎていたらしく、このため、その反対方向である左側や前方に曲げると痛みが和らぐようである(なお、野球選手は、盗塁などの衝撃で首を痛めるようだ)。

2.寝るのは苦しい。次に座るのが苦しい。楽なのは、立つことである。立っていると、体のバランスを無意識の内に取れるので、苦痛を感じにくい。

 したがって、電車では立って、首を少し前に突き出す姿勢が好ましい。また、「首の筋肉を鍛えるための運動法」を先生から伝授して貰うことになった。これは有効である。

3.問題は、寝るときの姿勢である。これは、「枕」対策に尽きる。

 実は、枕は、せんべい座布団が一番と判明した。嫁が公共放送を見ていたら、頚椎を痛めた人の番組をやっていたので、報告してくれたのである。

 その番組では、首が原因による頭痛患者が取り上げられていたようだ。頭をせんべい座布団に乗せ、痛みがなくなるまで、バスタオルを乗せていくのである。つまり、自分にあった枕を、自分で作るのである。

 おいらは、座布団にバスタオル1枚がベストと分かり、現在ではその方法によって、夜は眠れるようにまでなった。

4.これを治す民間療法としては、温泉、水泳、サウナ、鍼(はり)、カイロプラティック、ぶら下り健康棒などがあるようだが、皆、詳しく聞いてみると、悉く無責任な発言ばかりである。

 他人の痛みなど、誰も自分の痛みではない。

 結局、近代医学で解決するには、「MRIで神経を調べ、頚椎が神経にどう接触しているかという原因を解明する」のが、先決のようだ。その後、頚椎と神経の接触を医学的に無くす方法を考えるということらしい。

 しかし、それが検査できる病院は限られている。

 したがって、おいらは、現在、対処療法(痛み止めを飲む。重いものは持たない。涅槃のポーズは厳禁)と首の筋肉を鍛えるための運動法によって、少しは痛みが和らいでいるのだが、根本の問題が解決されている訳ではない。

 この騙し騙しの状態で毎日を過ごしており、人間は痛みとの共生に慣れるものであると感心しているのだが、誰か、早くおいらを助けてくれぇ!(この項終り)


おいらの下血騒動記(第1回)

 先月(2月)21日と22日のブログを「諸般の事情により」お休みした。

 実は、広島から帰浜した2月19日(火)の深夜、おいらが下血したのである。それで急遽20日(水)から三日間入院したのである。

 つい先日、頚椎ヘルニア(首と肩痛)のことを書いたばかりである。とうとう、おいらも病気自慢をする年齢になってしまった。トホホ。これでは、病気の総合デパートではないか。


夕顔1


 さて、下血騒動である。

 前兆が全くなかった訳ではない。今年の正月の大腸検査で潜血反応が出たのである。最近の大腸検査は、2日に分けて、2回行うのである。その結果は、初日がマイナス、二日目がプラスであった。こりゃ、まずいわ。病院から、即、精密検査を受けなさいとの指示が出ていた。

 行きつけの主治医に相談したところ、おいらの親父がガンで亡くなっているので、直ぐに検査を受けた方が良いでしょうということになった。しかも、バリウムではなく、最初から腸カメラにした方が良いという。

 止むなく、その精密検査を3月に予約していたばかりである。

 考えてみれば、腸の検査は7年前にバリウム検査で憩室炎(腸の内側にできるポリープと違い、腸の外に向かって盲腸のような孔状のものが出来る症状)と診断されてはいたが、これまで、特に、治療の必要はないと云われていた。

 あれから時間も相当経っている。陽性反応なら、大腸ガンの可能性がないとも云えない。いやだが、検査をするしかないと覚悟を決めたばかりである。

 さて、今回の帰省で広島から横浜に到着したのは、新幹線最終便の午後11時28分。新横浜駅からタクシーに乗車して、帰宅したのが、午前0時前。それから、入浴して疲れを取り、お腹が少し緩い(ゆるい)と思ったので、トイレに入った。午前1時ごろである。

 驚いた。便器が真紅なのだ。鮮血である。典型的な下血だ。しかも、大量の下血である。夕方、病院で食した真っ赤な苺の色素が原因かとまず考えた。苺は着色されており、食べると手が真っ赤になっていたからである。

 しかし、そんなことで便器が赤色に染まる訳がない。この事態は、尋常ではない。家内に話そうかと思ったが、この現場を見ると卒倒するに違いない。取り敢えずは、落ち着くまでおいらの胸にしまっておこう。

 そのまま、何事もなかったようにベッドに入ると、少しして、またお腹が緩む。再びトイレに向かい、今度は平常だろうと下を覗くと先ほど同様真紅である。しかも、便器の上部まで鮮血が飛び散っている。こりゃ、あかんわ。

 ところが、不思議なことに、痛みは全くないのである(続く)。


おいらの下血騒動記(第2回)

 人間は、こういう全く予期しない出来事が発生した場合は、思考が停止するものらしい。

 実際、おいらも痛みが全くないので、取り敢えず様子見にしようと考えたのであるが、頭をよぎったのは、鮮血のため、胃からの出血ではないということであった。胃からの出血は、胃酸によって血の色が黒く変色する。それに反して、腸からの出血はそのままの色である。それに、貧血になるかもしれないなということくらいである。これは、つまり、大丈夫だろうであり、冷静に物事を考えられないのである。

 早い話しが、無知であるのと、高をくくっているのである。始末に悪い。


秋の花3


 ところが、朝方4時ごろ、三度目のトイレに行きたくなり、目が覚める。真っ赤である。少し恐ろしくなる。しかし、寝惚けているので、すぐにそのまま休む。朝6時、四度目のトイレに駆け込む。今回は、色が少し薄くなってきたようだ。

 しかし、下血に変わりがある訳ではない。

 妻が何時もどおり、朝飯を用意してくれた。こんがりと焼き上げたベーグルと、ミディアムに炒めたベーコンである。おいらの好物であるが、流石に食欲がない。ベーグル半分とベーコンを二ひら食すのみである。

 取り敢えず出社し、大手町某診療所の主治医に見て貰おうと考える。昨日まで広島に帰省していたので、仕事が相当たまっているのだ。

 午前9時に出社し、会社で五度目のトイレに入る。やはり、下血している。 11時に再びトイレに入る。昨夜から六度目のトイレである。おっと、下血が収まっているではないか。やっと、正常になったかという感じである。

 しかし、これまで相当出血しているので、貧血になっているはずではあるが、だるくない。痛みも依然全くない。

 それよりも問題は首と肩の痛みだと思うのだが(先日のブログ参照。切実である)、これだけの出血だ。大腸ガンまたは直腸ガンではないだろうか。素人判断は、厳に戒めるべきだが、そう思い始めると、首や肩の痛みなどガンの前では吹っ飛んでしまう話しである。

 おいらの主治医は一体何と云うのだろう。取り敢えずは、出血を止める方法と、食事はどういうものにしたら良いのかを聞いてみよう。大手町の診療所に急ぐしかない。まさか、即入院などとは、云わないだろうなぁ(続く)。


おいらの下血騒動記(第3回)

 大手町の某診療所は、風邪の患者でごった返している。


秋の花1


 主治医の先生と話しをする。

 事態は深刻のようだ。「出血を止める方法と、食事はどういうものにしたら良いのかを聞いてみよう」などという雰囲気ではない。直ちに入院設備のある病院で検査入院しなさいという。

 紹介状も今すぐ書くという。

 どこの病院にするかで、いくつかのやりとりをし、入院するのなら自宅のそばが良いということで、横浜の某病院に決定する。

 先生がのたまわれるには、下血と吐血は痛みがないのだという。困ったことに本人の自覚がないので、そのまま簡単に失血死することがあるという。

 えぇ?! 聞いてないよぅ!

 だけど、先生、本当に痛くも痒くもないのですよ。自覚症状は、ゼロ!

 そうは云っても、命に影響する話しなのだ。直ちに横浜に帰ろうかとも思ったが、やり残した仕事があるので、取り敢えず会社に戻った。この後に及んで仕事も何もないだろうというのは、プロではない。おいらは会社を不在になっても良いようにテキパキと段取りをする。

 その間、家内に、病院に予約を入れさせていたのだが、詳しく聞くと、病院ではC先生が待機しており、おいらは即入院となっているらしい。

 ヒエ~!!

 退社し、横浜に向かった。電車とタクシーを乗り継いで、午後2時半に病院に辿り着いた。病院に入ると即拘束され、ベッドに寝かされたと同時に、点滴が開始された。

 C先生によると、輸血の下準備だという。おいおい、輸血かよ~。しかも、 大腸検査を明日実施、その前にCTスキャン検査をこれから実施しますというのだ。

 ここまで来るとおいらも流石に観念する。ジタバタしてもしょうがないのである。

 え~い、こうなったら好きにしてくれ!!(続く)


おいらの下血騒動記(第4回)

 点滴と同時に血液も採取された。心電図も取られている。


花


 少しうとうとすると、突然、心電図の機械がワーワー云い始めた。血圧が下がったためのようだ。血圧は上が100、下が60位なのだが、突然下が40台に下がったりするのである。それでウオーニングが鳴るらしい。下が40というのは確かに低い。しかし、あれだけ下血したのだ。血圧が下がるのも無理はない。

 ベッドで寝ていると、看護士さんがやって来て、造影剤を点滴で入れますという。造影剤が血管を廻り、それがCTに白く映るので、悪性腫瘍などを発見しやすいというのだ。しかし、造影剤には副作用があり、体がほてったり(熱感)、ひどい例だと、嘔吐やジンマシンが出るという。

 そのため、同意書にハンコを押して欲しいという。造影剤を注射しないとCTの意味がない。四の五の云わず、直ぐサインする。

 おいらは点滴をしたまま車椅子に乗せられ、検査室に連れていかれる。CT検査の機械の上に寝かされた。MRIと違って、こちらは開放的だ。

 検査技師と「この機械なら、閉所恐怖症でなくても受検が可能ですね」と軽口を叩く。実は、おいらもあのMRIだけはコリゴリである。これだと安心して、検査が受けられる。しかも、時間が短い。あっという間に終了である。

 続けてレントゲン撮影。これも簡単に終わる。

 再び車椅子に乗せられ、今度は集中治療室に移送された。今日はここで寝ることになるという。ベッドに寝かされると、心電図の配線をされ、血中酸素濃度を右手の人差し指で測り(これも配線)、それに点滴が体に繋がっている。いわば、コードで体中がぐるぐる巻きである。

 その間、お茶はおろか水を飲んでもダメとC先生から指示されている。ただし、水分は点滴で補給されているので、水を飲まなくても良いようにしてあるらしい。

 では、これまでの間、おいらは何を一番心配していたか。

 実は、下血だけなら、原因が分かればそれを退治すれば良い。それに止血剤を飲めば、下血も止まるだろう。大腸ガンであったとしても、初期のものなら切れば良い。悲壮感はまるでない。

 むしろ、仕事のことを考えていた。今週は広島から帰ったばかりであるため、予定を目一杯入れている。休むとなると、その調整が大変である。幸い、勤務先が全てを理解してくれ、検査に全力を注いでくれとのお達しである。かたじけない。これで体のことだけを考えれば良い。

 と、同時に、変な話しではあるが、「死は突然やって来るものだ」と実感していた。素人判断で大したことはないと高をくくっているが、もし、ややこしい病気なら死んでいてもおかしくはない。妙に人生を悟ったのである。

 世の中は地獄の上の花見かな

 さて、午後7時過ぎ、C先生がやって来られ、CTの検査結果が出ましたので説明しましょうとのたまわれる。CTの結果はパソコンのモニター上で、白黒の写真であった。白く光っているところが何箇所かある。そこが怪しく、どうやら憩室炎ではないかとのとのC先生の見立てである。

 しかし、場所が直腸とS字結腸の近くでもあるので、ちょっと嫌な気分にもなる。ま、明日のカメラで直接見てもらうしかなかろう。

 C先生は明日の検査後も様子を見た方が良いので、二晩の入院を勧められる。観念するしかない。はい。

 家族も帰宅したので、今夜は集中治療室で一夜を過ごす。斎戒沐浴(続く)。


おいらの下血騒動記(第5回)

 下から腸カメラを入れるのである。


花


 7年前の検査ではバリウムの注入検査であった。前日からお腹を空っぽにし、当日の午前中で検査が終了したとの記憶があるが、内視鏡検査の場合は1日仕事になるという。

 朝9時からひまし油のような下剤(ニフレック)を11時までに、2リットル、30分間に500ミリリットルずつ、ただひたすら飲み続けるのだ。

 これが飲みづらい。若干の塩分とレモン味ではあるが、まずいという一語に尽きる。

 しかも、睡眠不足である。集中治療室というのは、一晩中電気が消えないのだ。それに昨日の深夜、隣のベッドに急患が搬送されて来た。この女性、お腹が痛いらしく、一晩中「苦しい」と凄みのある低音で痛みを訴えている。

 それなのに、おいらは下剤を飲み続けなければならないのである。看護士さんが「冷蔵庫で冷やしていますが、時間が経つとまずく感じるので、氷を入れましょう」と飲みやすくしてくれる。かたじけない。

 と、飲み始めて40分、突然、腸が動き始めて慌ててトイレに駆け込む。

 血が少し混じっている。C先生から下血していれば、連絡してくださいとのことであったので、看護士さんに話しをする。アクティブな出血でなければ気にしなくても良いといわれる。一安心。

 2回目のトイレが20分後。その後、10分から15分おきにトイレに駆け込む。下血はない。実は、下剤を飲んで、腸を綺麗にする過程で下血することがあるという。難儀やなぁ。

 その間も下剤を飲み続けるので、お腹がゴロゴロである。結局、トイレに立つこと、都合10回。完全に透明になった。どうやら腸が綺麗になったようだ。下剤の効果はてきめんである。

 そうこうしていたら、一般病棟のベッドが空きましたので、そちらに移送するとのことである。

 午後2時、ベッドに寝たまま病室に移動する。看護士さんがベッドを頭の方から押してくれ、おいらは寝たままなので、天井が動いていくという、貴重な体験である(続く)。


おいらの下血騒動記(第6回)

 午後3時、遂に検査である。


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 病棟から検査室に行く。点滴は午前中で終了したので、もう車椅子に乗らなくても良い。家内が一緒に付いて来る。

 検査室の控え室に入ると、看護士さんがテキパキ指示を出してくれる。病衣を着ているのだが、検査直前にステテコのようなものに履き替えるのである。このステテコは、後ろの部分が開くようになっているのであるが、穴が開いたままではないので、恥ずかしい感じがしない。

 検査室に入り、体を横にする。首が痛いと考えている余裕などない。検査室は比較的狭い感じである。眼鏡をはずしているからそう思えるのかも知れない。眼の手術のときは広い部屋だったという印象があるので、相対的なものだろう。C先生と内視鏡の技師と看護士さんの三人が同室である。

 内視鏡を入れていく。最初に直腸、それからS字結腸にカメラが入る。これが難儀である。S字結腸は日光イロハ坂のようなものなのだろう、カメラがなかなか前に進まない。

 それに腸はぜん動運動をするのである。それに対し、カメラは所詮ファイバー繊維である。簡単に曲がるものでもない。だから、腸が動くと痛い。それにお尻にものが入っているというのは、やはり気持ちが悪いのである。

 腸カメラから見た画像がモニターに映っているはずなのだが、眼鏡をはずしているので、はっきりとは見えない。しかし、C先生達の会話から、ガンではないことが分かる。

 話題は、憩室とポリープである。どうやらポリープを採取しているようだ。C先生達の会話が緊迫していないので、安心していられる。

 しかし、この状態が何時まで続くのだ。お尻からカメラを入れられる図というのは、云ってみれば、焼き鳥の串刺しのようなものではないか。

 その間、考えることは、やはり、早く終わってくれぇ、そればかりである。

 この艱難辛苦の検査、かかった時間は1時間と少々であったろうか(続く)。


おいらの下血騒動記(第7回)

 4時半に病室に戻る。検査が終わると、水を飲んでも良いのである。早速、お茶とミネラルウオーターを飲む。旨い。


花


 既に検査の直前から点滴ははずされている。心電図もない。ほっとして、ベッドで横になるとそのままぐっすりと寝込んでしまった。やはり、睡眠不足と検査が終わったので、緊張の線が切れたのだろう。

 寝ながら考えた。眼鏡をはずしていたからモニターの画面ははっきりとは見えなかったが、ガンではなかったようだ。ポリープは何箇所かあったので、3箇所切除して病理検査に回すようだ。下血の場所は特定できなかったようだが、至る所に憩室の穴が開いており、典型的な憩室炎のようだ。詳しい話しは後で聞ける。取り敢えずは、死なないで済むようだ…

 眼が覚めたら、午後6時半、夕食の時間である。「軟食全粥」と表示がしてある。

 お粥である。あっさり系の食事で、おかずはチキンソテー。相変わらず、病院食は塩気を薄くしている。江戸むらさきが食べたくなる。それでもお腹が空いているから美味しくいただいた。完食。

 午後7時20分。C先生のお話しである。家族全員で聞く。

1.出血の原因は特定出来ないが、憩室が原因と思われる。
2.ポリープが複数あり、3個を採取した。理学検査に回すので、結果は来週以降に分かる。
3.大腸ガンは認められない。
4.今後は繊維質の多い、和食中心の食事とすること

 と、以上であった。C先生、本当に有難うございました。

 翌日、無事退院。うへえ、6万円の請求だ。でもあれだけのことをしてもらったのだ。以外に安いのかも。貰った薬は、止血剤を5日分のみ。

<番外編>
 翌々週、病理検査の発表である。

 結論から述べると、ポリープは、タイプ3(スリー)のモデラートであった。タイプ3は良性でもないが、悪性でもないらしい。薬の服用も不要とのことであり、繊維質の多い、和食中心の食事とすることで体質改善をすればよいとのお話しであった。

 また、毎年検査をした方がよく、1年後に必ず再検査しなさいとのことであった。はい、とその場で来年の予約を約束したおいらである。

 なお、C先生のお薦めは、「病気にならない生き方」(新谷弘実、サンマーク出版、05年7月)を読むことであった。この著者は、今から約40年前、世界で初めて、大腸内視鏡を使うことによって開腹手術することなくポリープを切除することに成功した医師である。

 この本の先生の食事療法は、なるほどと思わせることが多い。一言で述べれば、和食中心の食事とすることである。はい、そうします(この項終り)。


「モルヒネをくれ」事件、後日談(その1)

 あれほど、狂うほど、おいらが人類の滅亡とまで思った「モルヒネをくれ」事件の後日談である。


カリートの道


 頚椎ヘルニアであった。2月10日(日)発症。この日以降、地獄の苦しみの連続である(写真はアル・パチーノ)。

 2月14日(木)から広島帰省。この間も毎日激痛に悩まされた。この経緯は、おいらの「モルヒネをくれ」をご参照あれ(フリーページ「病気のデパート『おいらの下血騒動記』ほか」所収)。

 しかも、2月19日(火)横浜に戻ったその日のうちに下血、翌日から三日間、入院という目まぐるしい日々であった。この経緯も、「おいらの下血騒動記」をご参照あれ(フリーページ「病気のデパート『おいらの下血騒動記』ほか」所収)。

 何が云いたいか。

 実は、首と肩の痛みは広島に帰ってからも衰えを知らず、毎日ロキソニン(鎮痛剤)を飲まないと激痛で寸時も休まらなかったのである。

 母の介護をしていても、母なのか、おいらなのか、どちらが要介護者かが分からないほどである。

 そこで、おいらの母の入院しているリハビリ病棟のS先生に頚椎ヘルニアのことを話したところ、S先生自らにおいらの体を矯正していただいたのである。

 S先生は只者ではない。仕事のプロである。

 しかも、眼光鋭く、ずばりと物事の本質を見抜く。それだけ聞くと何だか中国の仙人みたいだが、性格は陽性で、少しおっちょこちょいの気があり、人柄はすこぶる良く、家庭では立派なお父さんである。

 そのS先生がおいらを見るに見かねて、広島の最終日、すなわち、2月19日(火)の午後、おいらの体の矯正をされたのである(続く)。


「モルヒネをくれ」事件、後日談(その2)

 昨日からの続きである。


パラソル


 S先生によれば、人間の体は日頃満遍なく筋肉を使っているのではなく、特定の筋肉のみを使っているのだという。例えば、肉体労働をした後は、その筋肉をほぐして(元に戻して)寝なければならないのだという。

 しかし、普通は仕事が終われば、そのまま酒を飲んで寝てしまう。だから、偏った筋肉の酷使となり、年を取るとガタが来るようになるというのである。

 サラリーマンも同様で、おいらの場合も何時の間にか体が曲がってしまったらしい。そこで、首ではなく、背骨から下、特に腰の辺りの矯正をしてもらったのである。

 これが実に首に良かったのだと思う。翌日から痛みが徐々に引いていったのだ。

 要するに、体はつながっているのである。首を治すのには、腰。眼からうろこだが、今後は、体を動かすのは全身のバランスを考えながらとしたい。

 ただし、この矯正、相当、腰から下に力を入れることになったのである。おいらは勝手に思っているのだが、このときに腸の憩室から出血したのではないかと思うのだ。実際、それ以外に腸に負担をかける運動は一切していないからである。それほど、ハードな矯正であったということだ(ただし、この矯正方法を非難しているのではないので、念のため)。

 さて、現在はこの頚椎ヘルニア、どうなっているか。お陰で小康状態なのである。ほとんど痛みを考えなくても済むようになった。

 現在の痛みを和らげるコツは、右腕を休ませる(ほとんど使わない)ことと、暖めることである。

 温めると痛みが減る。風呂は効果抜群。しかし、四六時中、風呂に入る分けにはいかない。そこで、百均で買って来た使い捨てカイロ(貼るタイプ)の登場である。下着のシャツの首と肩の近くに朝貼るのである。そうすると一日中肩が温められるので、痛みを感じなくて済む。

 それにしても、痛みをとる直接の効果があったと思うのは、S先生による体の矯正である。その日を境に、痛みが激減したのである。

 S先生、本当にありがとうございました。この場を借りて再度お礼申し上げます(この項終り)。


  結膜炎

 先週水曜日の夜、気の合う友人と痛飲した。


パンジー


 深夜に帰宅し、翌朝目覚めると、何故か左眼が開かない。

まことに年を取っての深酒は厳禁と、目をこすりながら洗顔したのだが、どうも様子がおかしい。

 鏡を見ておどろいた。

 墓場鬼太郎である。目が腫れているのだ。しかも、両目である。むくんでいると表現しても良いか。特に左眼の腫れがひどい。

 昔、若い頃だが、飲み過ぎて目が腫れていたことを思い出した。全く調子に乗って「マッコリ」なんぞ飲むものではない。

 しかし、昼過ぎには腫れもひくだろう。そう思ったのだが、ひかないのである。

 しかも、悪いことに風邪もひいたようだ。少々熱があるし、おいらの弱点である鼻風邪だ。

 ま、安静にするに如くはないと、大人しくしていたのだが、一向に目は良くならない。

 どうやらこれは酒の飲み過ぎではない。

 ものもらいだと勝手に自己診断して、眼科の門を叩いた(なお、岡山では「ものもらい」とは云わない。「メバチコ」と呼ぶそうである。おいらの敬愛する岡山出身のS氏から教わった)。

 さて、眼科に出向いて再びビックリ。

 ウイルス性(または細菌性)の結膜炎とのご宣託である。道理で目が痛い訳だ。医者から目はまだ腫れるかも知れないと脅される。

 うっへ~。この歳で結膜炎とは…。

 他人への感染源になるので、手の消毒の励行と手拭きは使い捨てのキッチンペーパーにしなさいと云われる。

 ハイ、ワカリマシタ。

 大人しくするしかないのだが、思わず口蹄疫のことを考えてしまった。ウイルス性の結膜炎のことを流行り目と呼ぶようだが(流行り目は一度罹患すると免疫が出来るそうである)、感染源は一体どこだったのだろう。


 結膜炎顛末記

 5月20日(木)に両目に発症した結膜炎。


ぼろ市サボテン


 左目が特にひどく、当初は目が開かなかったほどだったが、お陰を持ってその週の日曜日にはほとんど腫れが引いた。

 おいらは、左目の大手術を二度経験しているので、大学病院の眼科に今も定期的に(三ヵ月おき)通っているのだが、まさか自分が結膜炎に罹患するとは思わなんだなぁ~。

 しかし、翌週の週末、再度眼底検査をしてもらうと「もう心配ない」と云われたので、一安心である。


 閑話休題。ところで、今回は自宅近くのいわゆる町医者(眼科)にかかったのだが、これが大変混み合っている。

 実は、その患者のほとんどが老人である。それも女性。

 待合室の会話から推察すると、糖尿病の患者が多いようだ。確かに糖尿病で失明する人は多い。

 皆さんも気を付けませう。何のこっちゃ。


内視鏡検査の結果を聞く

 2008年の2月に下血した。その顛末は、このブログの「病気のデパート(下血騒動記ほか)」に書き込んでいるとおりである。


路傍の地蔵


 爾来、09年、10年、11年(今年)と毎年一度、大腸の内視鏡検査を行っている。

 昨年までの検査結果は、ポリープが発見されているものの、悪性ではないということで、様子見となっていた。

 さて、今回も7月末にかかりつけの横浜某病院で内視鏡検査を受けた。前日にエニマクリンという人工食を食べ、お腹を空っぽにして病院へ向かったのである。

 その検査結果を、昨日、聞きに行った次第である。

 結果は、昨年までと同じ良性のポリープであった(グループ3)。しかし、大きさが約7~8ミリと、昨年までよりは少々大きくなっているようである。

 このため、主治医の見立てによれば、「来年同時期に行う検査のときに、必要があれば内視鏡を使ってこのポリープを切除しましょう」ということになった(先生には、来年の検査日の予約までしていただいた)。

 おいらは、今回の検査結果によっては、直ちにポリープの切除をしなくてはならないかと覚悟していたので、ひとまずは安心。

 毎年、内視鏡検査を受けなくてはならない身だが、やはり何とかならないものかと考えてしまう(検査は身体に堪えるからである)。しかし、来年はポリープ切除を覚悟しての検査だと思うと、それも、ま、しょうがないか。


お知らせ

 昨日、大腸ポリープ切除の手術を受けました。


DSC01384.JPG


 もともとは、57歳のときに大量下血し、一時は死ぬかと危ぶまれたため、その後、毎年大腸の検査をしていたものです(フリーぺージ「病気のデパート『下血騒動記』参照」)。

 昨年まで、やや大きめのポリープ(悪性ではない)が数個ありましたので、今年は検査時にそのポリープが大きくなっていれば切除しましょうということになっていたのです。

 おいらは、たかをくくっていて、切らなくても大丈夫だろうと検査に臨んだのですが、先生はやる気満々で、内視鏡から見えるポリープの総勢は4個、その内3個が6~7ミリ程度まで大きくなっていましたので、あっさりと切除しましょうということになりました。

 結局、大きめの3個のポリープが切除されました。

 術後、ポリープの写真をアップで見ますと、ブロッコリーのように先端が突起しており、グロテスクです。こりゃ、確かに切除した方が良さそうじゃわぃ。

 しかし、そのおかげで昨日は日帰り入院、帰宅後も絶対安静となり、万が一、下血するようなことになったら直ちに病院に連絡して下さいということになりました。切除時は出血しないで済んでいたのですが、時間が経つと出血し、鮮血の下血になることがあるそうです。

 その後、幸い、今朝まで何事もなく、術後の経過は良好ですが、今週一杯は安静の継続と、1週間の禁酒を申し渡されております。


 そこで、ちょっとこのブログのお休みをいただきます。来週月曜日から再開しますのでよろしくお願いします。


平成24年7月19日(木)


 謎の不良中年 柚木惇 記す



花粉症はつらいよ

 今年の花粉症はひどい。もうよれよれである。


DSC01589.JPG


 花粉の飛ぶ量が例年の6倍とも云われていたので覚悟はしていたが、先週の半ばから猛烈な花粉症に見舞われた。

 スギ花粉が飛びまくっているのである。おいらの場合は、主として眼に症状が現れる(=涙目の洪水)のだが、今年は鼻への症状もひどい。クシャミと鼻水の連続である。

 よれよれである。覚悟など脆いものである。

 花粉症を退治する方法には聞き慣れない用語で「減感作(げんかんさ)療法」というものがある。花粉症への耐性を少しずつ強めていく方法らしい。

 もともと花粉症は、バスタブ理論によって説明されることが多い。バスタブの中にバスタブの容量以上の水を流し込めば、バスタブから水はこぼれるのである。

 そのこぼれる水が花粉症を引き起こすという考え方なので、バスタブ自体をすこしずつ大きくしていく治療法らしい。

 しかし、おいらももう年である。今更この治療を受けようとは思わない。

 また、抗アレルギー剤や抗ヒスタミン剤を飲むのもどうもその気にならない。

 だから、結局はマスクと対処療法である。

 しかし、マスクも防毒マスクではないから、気休めである。花粉対策用眼鏡もあるらしいが、所詮眼鏡である。

 対処療法としては、眼に点眼薬、鼻に点鼻薬である。だが、これも、一時的にしか効かない。一時的に眼や鼻を麻痺させているようなものだから、根本的な解決方法ではない。

 こうやって、この時期は堪えていくしかないのかのぅ。




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