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こんにちは、久ぶりの投稿です。今日からまた北海道の話題をお贈りします。 先日(8月27日)、ちょっとした仕事で興部まで行って来ました。午前で仕事も終わり 網走へ向かいました。目的はクジラ、イルカウオッチングです。 こちらが網走のクジラ・イルカウオッチングのクルーズ船です。ちょっと風が強く、途中で引 き返すこともありますとの説明を受けて乗船しました。 いよいよ出港です。左手には網走港湾内の帽子岩が見えます。明治・大正時代にはアイヌ 語で「カムイワタラ」(神の岩)と呼ばれていたそうです。そして網走の語源となったアイヌ語 の「チバシリ」(祭場)はこの帽子岩を指すという説があります。 見えるでしょうか? 中央の草と岩の境にオジロワシがいます。 こちらは港湾内にいたハシボソミズナギドリです。 出港してまもなく、波が大きくなり甲板では手すりに捕まらなければいられない位の揺れ でした。まもなくして船長が沖の方に白波が見えるので、残念ですが引き返しますとの アナウンスがあり中止となってしまいました。無理して転覆なんてことになったら大変な ことになりますのでやむを得ません。 クルーズの船代は8000円でしたが、すぐに引き返したので無料にしますとのことでちょ っと得をした気分になりました。 この日はもう遅かったので網走で1泊して次の日に帰ることにしました。ホテルにチェック インを済ませ、食事に街へ出たのですが、なかなか食べるところがなく、ウロウロしていた 時にパチンコ店があり、そこに食堂がないか覗いて見ましたがありませんでした。 そこでちょっと遊んで行こうかと軽い気持ちで台へ向かいました。すると何とわずか1000円 で大当たりとなり数万円に変身しました。 実はこのことがこの旅の運命を、いや私の運命を大きく変えることになるのです。 それでは今日はこの辺で、次回は果たしてどんな出来事が待っているのでしょうか? どうぞ お楽しみに!!! いつもクリックありがとうございます!またよろしくお願い致します。
2015.08.31
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こんにちは、トルーマン大統領の孫、ダニエルさんが2012年に初めて広島を訪れ、原 爆記念日の式典に出席します。この広島の地で1945年8月6日、トルーマン大統領の 命令により原爆が投下されました。ダニエルさんはこの時、初めて原爆の恐ろしさ、悲惨 さを知ります。 雅弘さんはダニエルさんが広島の地を訪れた時、トルーマンの孫だと知ったら、叩き殺さ れるか、罵声を浴びせられると危惧します。しかしダニエルさんはどんなに非難されようと も構わない、原爆の真実を知りたいと広島を訪れることを決意します。 2012年の広島平和記念式典で黙祷するダニエルさんです。 来日した時に記者達の「日本へ謝罪に来たのですか?」の質問に彼は「公的に謝罪に来た のではありません」の答えます。さらに「謝らないのになぜ来日したのか」と質問されます。 「原爆の真実を知る為に来ました」と答えます。 そして被爆者たちの話を聞きます。ダニエルさんは非難されることを覚悟していましたが 彼らは怒りを表すことなく「ただ原爆のことを理解してほしい、そしてあなたに伝えてほしい」 と話します。 40人の被爆者達と向き合ってその体験した話を聞きました。そして最後には被爆者達と 手を取り合って、核廃絶に向けた平和への取り組みを決意します。 ダニエルさんは今年の5月にアメリカの高校生たちに原爆の真実を、悲惨さを訴える講演 を行いました。 こうしたダニエルさんの活動により、アメリカ人たちも原爆の悲惨さを知り、核廃絶の訴えに 耳を傾けるようになってきています。 現在、世界で核を保有している国は米国(7315)、ロシア(8000)、フランス(300)、中国 (250)、英国(225)、パキスタン(100-120)、インド(90-110)、イスラエル(80)、北朝鮮 (<10?)の9カ国で総計概数で1万6千もの核兵器が存在しています。 これは2014年のアメリカの発表です。 2009年4月5日、オバマ大統領はチェコのプラハで、核兵器を使用した唯一の国としての 道義的責任に触れ、核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するというアメリカの約束 を明言しました。 そして当時のメドベージェフ大統領と戦略核削減条約を交渉します。 翌2010年4月8日、同じくプラハで、オバマ大統領とメドベージェフ大統領は戦略核削減 条約に署名し、核廃絶に向けた第1歩を踏み出します。 この条約は戦略核兵器を1550発以内に、核運搬手段(大陸間弾道など)を配備している ものを700以内、未配備のものを含めて800以内に、これを7年以内に削減することとして います。 2009年から2014年までの戦略核兵器の削減数は、アメリカが2126から1920、ロシアが 2668から1600です。アメリカは提唱した国でありながらロシアよりも削減が進んでいません。 2012年にロシア大統領は、任期満了となったメドベージェフの後にプーチン首相が大統領に 就任し、入れ替わる形でメドベージェフが首相に就任します。 2014年のクリミアをめぐるウクライナとの軍事衝突の際に、プーチン大統領はヨーロッパや アメリカの圧力に対し、核兵器を使用する準備を進めていたという衝撃的な発言をしています。 ロシアがクリミアを併合したことにより米ソの対立は決定的となって、その後の核軍縮は進ん でいません。 またオバマ大統領の核兵器廃絶に向けた基本政策の変更に最も抵抗しているのが日本であ るという話があります。オバマ政権では核兵器の先制不使用を検討しているがこれに反対し ているのが日本だというのです。 世界で唯一の被爆国である日本は、先頭に立って核兵器廃絶を訴えなければならない国で あるにも拘らず、核廃絶に積極的ではないのです。それは北朝鮮による生物、化学、通常兵 器による攻撃の可能性、そして中国への不信を理由に反対しているのです。 アメリカの核の傘の下での、平和と安全を守ろうとしているのです。原爆の恐ろしさを悲惨さ をどの国よりも知っているにも拘らずです。 広島、長崎の平和記念式典での知事の平和宣言では、原爆を絶対悪として二度と使用され ることがないように核兵器廃絶を訴えています。 今年5月にニューヨークで5年に一度開かれている、核拡散防止条約を見直す再検討会議 が開かれました。この会議では肝心の今後の5年間の核軍縮の方向性を示す「最終文書」を 採択出来ませんでした. しかし今回の会議では160もの国が「核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同し、この うち100か国以上が、それを根拠に核兵器を法的に規制すべきだいう声明にも賛同してい ます。しかし、しかしです、日本はこの声明に対して署名しないのです。 世界中のどの国よりも真っ先に賛成し、核廃絶に向けて行動しなければならない国である にも拘らずです。 日本が先頭に立って核兵器廃絶を推し進めなければ、世界から信用をなくし、信頼 される国とはなれないでしょう。 1982年6月24日、ニューヨークの国連本部で行われた、第2回国連軍縮特別総会に おいて当時の荒木広島市長が、世界の都市が国境を超えて連帯し、共に核兵器廃絶 の道を切り開こうと「核兵器廃絶に向けての連帯推進計画」を提唱しました。 広島、長崎両市長から世界各国の市長あてにこの計画の賛同を求めました。 こうして、この趣旨に賛同した都市(自治体)で構成された 「平和首長会議」 が誕生し ました。2015年8月1日現在、世界で161ケ国、6779都市が賛同しています。 2020年までに核兵器廃絶を目指し、世界の都市、市民、NGO等と連携しながら、核 兵器廃絶に向けた様々な活動を展開しています。 こうした世界での活動が続き、一国でも一都市で増やしていけば、全世界、全都市が参加 しいつかは核兵器廃絶は成し遂げられるでしょう。 長々と書いてしまいました。いろいろ調べて簡潔にまとめようとしましたが、とりとめの無い 文章になってしましました。でも今回のブログを書くにあたって、知らないことがたくさんあり 勉強になりました。 それでは今日はこの辺で、次回からまた北海道の話題をお贈りしたいと思います。 どうぞ お楽しみに !!! いつもクリックありがとうございます!またよろしくお願い致します。
2015.08.18
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こんにちは、今日は核兵器廃絶に向けて活動している、トルーマン大統領の孫の クリフトン・トルーマン・ダニエルさんを紹介します。 この本はダニエルさんの息子さんが図書館から借りて来た英語に翻訳された本です。 この本が彼の運命を変えるきっかけとなります。 貞子さん(当時2才)は被爆から10年後の1955年に白血病と診断され、余命1年と宣告さ れます。 広島赤十字病院に入院し闘病生活を送っている時、名古屋の高校生から見舞いに折り鶴 が送られて来たのをきっかけに貞子さんは鶴を折り始めました。そして入院患者たちも折り 始めて、千羽の鶴を折れば元気になると信じて病院中で折り続けます。 しかし1000羽以上の鶴を折りましたが、回復せずこの年の10月に亜急性リンパ性白血病 で帰らぬ人となりました。 2001年アメリカニューヨークの同時多発テロの現場となったワールドレーディングセンター のグラウンド・ゼロです。 ここに貞子さんのお兄さんの佐々木雅弘さんが犠牲者になった方達への慰霊のために 千羽鶴を寄贈しました。 そしてこのニューヨークの地でダニエルさんと佐々木雅弘さんが運命的な出会いを果たし ます。 雅弘さんがダニエルさんび貞子さんが最後に折った小さな折り鶴を見せます。ダニエル さんはこの小さな折り鶴を見て大変感銘を受けます。 そしてダニエルと雅弘さんは過去の憎しみを乗り越えて、未来の平和の為に共に行動する ことを約束します。そしてダニエルさんが広島の地を訪れることを決心するのです。 次回はダニエルさんがついに広島を訪れ、原爆投下の真実を知ります。そして核廃絶を 訴える活動を行うことになるのです。
2015.08.17
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こんにちは、今日8月15日は70年目の終戦記念日です。 マンハッタン計画でついに原子爆弾が完成、そして広島、長崎へ投下されてしまいます。 何故悪魔の兵器と呼ばれた原爆が使用されたのか? 何故日本に投下されなければ ならなかったのか?を検証します。(写真及び内容の一部は8月9日に放映されたテレビ 朝日のザ・スクープスペシャル「終戦70年特別企画 原爆 70年目の"真実"」より) 1945年2月 第二次世界大戦が佳境に入る中、クリミア半島のヤルタでアメリカ・ルーズ ヴェルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン共産党書記長 の首脳会談が開かれた。 ヤルタ会談(秘密会談)です。この時、ソ連の日本参戦、国際連合設立、大 戦後のドイツ、中部・東部ヨーロッパの米ソの戦後処理が話し合われた。 ソ連は樺太南部、千島列島などの領有を要求、ルーズヴェルトはこの条件 に応じる形で、日ソ中立条約の破棄、対日本参戦を促した。 1945年4月7日 鈴木貫太郎内閣が発足。この頃、敗色濃厚となった日本はソ連の仲介に よる米英との講和交渉を決定する。 1945年4月12日 ルーズヴェルト大統領が昼食前に脳卒中で急逝。第二次世界大戦集結 目前にした死でした。自動的に副大統領のハリー・S・トルーマンが33代 大統領に就任します。 大統領就任直後のトルーマンに原爆開発の責任者であったスティムソン陸軍長官が4ヶ月 以内に、一発で都市を壊滅出来る人類史上最も恐ろしい武器を手にすると伝えます。 さらにグローブス将軍が7月前半に原爆実験が行われ、8月1日には完成すると伝えます。 1945年4月13日 東京大空襲で理化学研究所がウラン分離筒とともに消失。5月陸軍が研究 継続を断念。 1945年4月30日 ナチスドイツ総統アドルフ・ヒトラーが総統地下壕で自殺。 1945年5月8日 ドイツ国防相のヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印してドイツ の無条件降伏となった。 これで連合国と戦争をしている国は日本のみとなり、原爆投下目標が日本 に向けられるに至ったのです。 1945年5月28日 シラードは原爆の日本への使用に反対し、阻止しようと再びアインシュタイン の署名した手紙を大統領へ送った。しかしその効果はなかった。シラードは この後も最後まで「反対請願」を展開したがトルーマン大統領の心を変える ことは出来ませんでした。 1945年6月 人類史上初の原爆が完成。 1945年6月12日 アメリカの「原子力の社会的・政治的意義に関する委員会」の委員長である ジェームズ・ブランク博士ら7人の科学者がスチムソン長官あてに、原爆投下 に反対する報告書を提出。 1945年7月16日 アメリカ・ニューメキシコ州アラモゴード近くの砂漠で史上初の核実験が行わ れ、これに成功。 実験の時の「きのこ雲」です。悪魔の兵器誕生の瞬間です。 1945年7月17日 シカゴ大学冶金研究所のアーサー・コンプトン所長がシラードら研究所の学者 68人が署名した、日本への原爆使用に反対する嘆願書をジョージ・ハリソン 陸軍長官特別顧問に提出。 1945年7月17日~8月2日 ポツダム会談 ドイツ降伏後、ベルリン郊外のポツダムでアメリカ・トルーマン、イギリス・ チャーチル、ソ連・スターリンの3ケ国の首脳が集まり、戦後処理を決定 する話し合いが行われた。しかしこの時、ソ連の8月15日以降の日本参 戦が確認されたが日本の無条件降伏については話されなかった。 1945年7月26日 アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席(蒋介石)の署名で日 本の無条件降伏を条件にしたポツダム宣言が日本へ発せられる。 しかしこの宣言文の大部分はアメリカが作成したもので、イギリスが多少手 を加えがが中国を始め他の連合国はその内容には関与していない。 蒋介石はこの会談には出席しておらず、無線での承諾により、トルーマン自 身が3人分の署名している。そしてこの宣言には会談に出席していたソ連の スタ-リンの署名がありませんでした。 当時の日本は鈴木貫太郎首相がソ連を仲介して米英に対し講和交渉を行っ ていました。そんな中、このポツダム宣言にソ連の署名があれば日本がすぐ にでも降伏してしまうという危惧を抱いていました。 つまり日本が降伏してしまえば、原爆の使用機会が失われてしまう。 20億ドルをかけたマンハッタン計画が無駄ではなかったということをアメリカ 国民に示したかった。ということでチャーチルには知らせないでこのポツダム 宣言を日本へ通告したのです。 またこの宣言の中には日本が譲れないとしていた、天皇制存続の文言はなく、 あくまでも日本の無条件降伏でした。 トルーマンはこの条件(天皇制存続)をいれなければ日本は降伏しないであろう と思っていました。つまり日本には原爆投下前には降伏しては欲しくなかった訳 です。 1945年7月26日 鈴木貫太郎内閣はソ連・チャーチルの署名がないことでまだソ連の仲介による 講和の可能性があるとして、この宣言にはノーコメントでした。 トルーマンはこのノーコメントは拒否であると決めつけ、原爆投下を決定します。 いや天皇存続を宣言に盛り込まなければ日本は降伏しないだろうと助言されていたトル ーマンは受諾しないと読んでいました。つまりどうしても原爆を日本へ投下しようとして いたのです。 1945年8月6日午前1時45分 原爆を積んだエノラ・ゲイがテニアン基地を発進。 1945年8月6日午前8時15分 広島に原爆投下..... 1945年8月6日 ソ連が一方的に日ソ中立条約を破り、満州国において日本へ参戦。 ソ連による講和交渉は結局行われなかった。 1945年8月9日午前11時2分 長崎に原爆投下..... 日本は本土決戦か無条件降伏か? 1945年8月14日 日本はポツダム宣言を受諾することを連合国へ通告。 1945年8月15日 天皇陛下の玉音放送により日本は無条件降伏したことを国民に知らせ 終戦を迎えます。 原爆開発に関わった多くの科学者たちが原爆使用に反対したにも拘らず、トルーマン 大統領は警告なしで日本への原爆投下を命じます。 トルーマンは「この原爆投下により100万のアメリカ兵の命が救われた」と正当化して います。そして広島、長崎の悲惨な惨状についての報道を一切禁止しました。 従って一般のアメリカ国民はこの原爆の事実を知らされず、多くのアメリカ人は原爆に よって戦争が終結してアメリカ兵が救われたと信じて疑いませんでした。 もしナチス・ドイツがアメリカより早く原爆を完成していたら、どうなっていたでしょうか? 敗戦が濃くなった状況では間違いなく原爆使用を躊躇わなかったでしょう。 もし日本だったらどうでしょうか? もちろん一億総玉砕を考えていた日本です。間違いなく使用したでしょう。 もし追い詰められた国が核を保有したらどうなるでしょう? 今世界には数万発の核兵器が存在します。地球を何回も破壊出来る量です。 次回は核兵器廃絶を訴えるトルーマン大統領の孫のクリフトン・トルーマン・ ダニエルさんを紹介します。彼は原爆被災地を訪れ、その悲惨さを世界へ 発信し核兵器廃絶を訴えています。
2015.08.14
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こんにちは、今日は原爆が完成するまでの各国の動きを辿ってみたいと思います。 マンハッタン計画がスタートするきっかけとなった「フィリッシュ=パイエルス・メモ」が イギリス政府に報告されたのは1940年。その頃、ドイツではどこまで原爆研究が進 んでいたのでしょうか? 1940年 ヒトラーを始め、ナチス・ドイツ指導者達は原爆研究を悪魔科学とみなし 積極的に取り組まず、資金援助を行ないませんでした。 その頃、ドイツの理論物理学者ヴェルナー・カール・ハイゼンベルクは 原子破壊とウランとサイクロトロンの開発に関しての報告をしています。 アルベルト・シュペーア軍需大臣はアメリカの核開発が政府からの資金 提供が豊富であり、ドイツよりもリードしていることを政府に訴えた。 シュペーアはハイゼンベルクに原子爆弾の開発は何年後に可能になる かの問い、ハイゼンベルクは原爆製造の理論には何の障害もなく、生産 技術への援助があれば2年以内に可能であると答えています。 1940年6月23日 シュペーアはこのことをヒトラー総統に報告したが。「ユダヤ的物理学」と して、ヒトラーは関心を示さなかった。 1940年6月27日 アメリカではバネバー・ブッシュ氏を委員長に米国防調査委員会(NDRC) が発足した。 1941年4月 日本陸軍空港技術研究所長の安田武雄中将が理化学研究所所長の大河 内正敏博士に原爆の研究を依頼する。 1941年10月11日 ルーズベルト大統領が原爆開発の英米協力を英チャーチル首相に提案。 1941年11月28日 米政府は原子力研究をNDRCから科学研究開発局(OSRD)に移し、原爆 課を創設。 1942年1月 コロンビアとプリンストン大学の核研究グループをシカゴ大学に移し、「冶金 研究所」を開設。プルトニウム研究と実験用原子炉建設に着手。 1942年8月3日 マンハッタン計画が始まり、本部はワシントンの陸軍省に置かれる。 1942年9月 マンハッタン計画の総責任者にレスリー・グローブス少将を任命。これより 莫大な費用と科学・技術者を総動員した原爆開発計画、マンハッタン・プロ ジェクトが正式に発足。 1942年11月 ニューメキシコ州ロスアラモスに原子兵器研究所の敷地を購入。この研究 所の所長に物理学者ロバート・オッペンハイマーが任命された。 1942年12月2日 エンリコ・フェルミ博士がシカゴ大学で世界初の原子炉「シカゴパイル1号」 を完成させ、核分裂連鎖反応実験に成功。世界で初めての「原子の火」 1943年1月 日本では理化学研究所の大河内正敏博士からの「原爆の研究」依頼に対し て、仁科芳雄博士の研究室が「可能」とする報告書を提出。研究が始まる。 アメリカではテネシー州オークリッジでウラン分離工場(クリントン工場)の 建設が始まる。 1343年2月23日 1940年に占領したノルウエーの重水製造工場が6人のノルウエー人の 決死隊により爆破された。これによりドイツは重水素の入手が困難となり シュペーアは第二次世界大戦中に製造が間に合わないと判断、原子爆弾 の開発中止を決定した。 1943年3月15日 ロバート・オッペンハイマー博士がロスアラモス原子兵器研究所長に着任。 1943年4月6日 ワシントン州ハンフォード工場建設が始まる。 1943年11月4日 クリントン工場の原子炉操作開始。 1943年末 アメリカのグローブス将軍が指揮するアルソス科学情報調査団はドイツが 原爆の開発に関する調査検討を行った後に開発を放棄したと思われるとい う報告書を将軍に提出。 1944年2月 ドイツが原爆開発を断念 1944年3月 仁科研究室でウラン235の分離筒が完成。 こうしてナチスドイツが原爆製造の可能性から始められたマンハッタン計画ですが、ドイツが 開発を断念してからも研究が続けられました。 5万人にのぼる科学者、技術者が投入され、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入され ました。 そしてついに1945年6月、人類史上初の原爆が完成してしまうのです。 次回は原爆完成そして日本への投下までの経緯を検証したいと思います。
2015.08.12
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こんにちは、今日は原爆がいかにして作られることになったかを検証したいと思います。 以下の内容はフリー百科辞典ウイキペディアによるものです。 1938年1月 ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが原子核分裂を発見。 彼らはウラン235に衝撃を与えて分裂させることに成功した。 1939年1月 デンマークの物理学者ニール・ボーアがワシントンの学会で核分裂発見を発表。 1939年3月 米コロンビア大学でエンリコフェルメ(イタリアから亡命)、レオ・シラード(ハンガ リー生まれでアメリカに亡命したユダヤ人物理学者)、ウオルター・ジン(ハンガ リー物理学者)たちが核分裂実証実験に成功。 1939年頃 ドイツ国防軍は、ドイツと占領地区から非ユダヤ人系の物理学者を一人残らず 召集、原爆製造の可能性について討論した。この頃アメリカよりも核分裂理論 は進んでいた。 1939年8月 シラードはドイツがウランを使って新エネルギーを開発する恐れがあるとの指摘 した書簡を当時のアメリカ、ルーズベルト大統領に提出し、ウラン研究推進を勧告 します。その書簡にはアルベルト・アイシュタイン(ドイツ生まれのユダヤ系物理 学者で1940年にアメリカ国籍取得)の署名がありました。 1939年9月 ドイツ・ナチス政権下のドイツ国防軍兵器局の下で原爆開発の為の実験が試み られるようになった。この時、ユダヤ系物理学者は追放または亡命しており、残 ったドイツ人学者で開発が進められた。(この時は大きな原子炉の製造は可能 でも爆撃機に搭載出来るような爆弾の開発は不可能だと見ていた) 1939年 ルーズベルト大統領は「シラード=アインシュタイン」の書簡に応えて「ウラン諮問 委員会」を設けたが、その報告は具体性に欠けており、大統領の注意を惹かなか った. 1940年春 ナチスドイツは科学者達の要請により、ノルウエイにある世界最大の重水製造 工場を占領。これにより、中性子を減速させる為の重水素を製造可能となった。 1940年 デンマークの理論物理学者ニールス・ボーア(後にマンハッタン計画に携わった ユダヤ人物理学者)によってドイツの核兵器開発の様子がアメリカに伝えられ、 各地の大学で核分裂の研究が一斉に始まった。 同年 ヒトラーのユダヤ人迫害から逃れた物理学者、オットー・フィリッシュ(オーストリア 出身のユダヤ系物理学者)とルドルフ・パイエルス(ドイツ生まれのイギリスのユダ ヤ系物理学者)の二人は、ウラン235の核分裂連鎖反応の臨界量がわずか450 グラムほどでしかないことを計算で導き出した。これはすでに開発されているウラン 濃縮技術で原爆製造が可能だということを意味していた 1940年 フィリッシュとパイエルスはドイツが既にこのことを知っているのではないかと 考え、事態の緊急性をメモにしてイギリス政府に通報した。 第一メモ・・・「適当量のウラン235で非常に効果的な爆弾が構成出来るだろうという 結論に達した」 第2メモ・・・「もしかりにドイツ人がこの兵器を現在所持しているか、将来所持すると 仮定した場合、最も効果的な応戦は、同種の爆弾による対抗的脅威で あろう。攻撃の為に爆弾を使用するつもりはなくても、出来る限り早く、 迅速に生産を始めることが重要だと私達には思える」 同年 イギリス政府はこのメモを重視して、物理学者を中心に原爆の詳細を検討する 「モード委員会」を作った。しかしイギリス政府は、戦費を賄うのに手いっぱいで あり、またドイツの爆撃も激しくなったこともあって、アメリカにこの情報を提供し 共同で原爆開発を進めることになる。 同年 ルーズベルト大統領はこのモード委員会の報告書と先の「シラード=アインシュ タインの書簡」により、原爆開発を決定した。 こうしてアメリカの原爆開発は始まりました。マンハッタン計画のスタートです。 次回は原爆完成に至るまでのの過程とそれに携わった物理学者達の苦悩を検証したい と思います。 いつもクリックありがとうございます!またよろしくお願い致します。
2015.08.08
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こんにちは、昨日(8月6日)は広島に原爆が投下されてから70年目の原爆の日です。 そして8月9日には長崎が70年目の原爆の日を迎えます。 1945年8月6日午前8時15分、広島市に人類史上初の原子爆弾が投下されました。 当時の人口は約35万人、そのうちの9万~16万6千人の人達が4ヶ月以内に亡くな たとされています。 被爆当時の原爆ドームです。このドームは大正4年(1915年)に広島物産陳列館として 竣工しました。この館の業務は県内の物産や他府県からの収集、陳列などを行い、また 博物館や美術館などの役割を果たし、広島の文化振興の場となっていました。 しかし戦争が激化した昭和19年には、内務省中国四国土木出張所などの官公庁の出張 所として使用されていました。 原爆の爆心地から北西約160mという至近距離にあったこのドームは、天井から火を噴 いて全焼しましたが、ほぼ真上からの爆風で中心部の建物は全壊を免れました。しかし 中にいた職員たちは全員即死でした。 広島原爆投下から3日後の8月9日、午前11時2分、長崎県長崎市に再び原爆が落とさ れます。当時の長崎市の人口約25万人の内、約7万5千人の方達が亡くなられています。 原爆被爆者の平均年齢が80歳を越えました。当時6歳から20歳代の方達でその悲惨な 経験を語る「語りべ」として、年間数十回にわたり全国で講演している人達がいます。 原爆の悲惨さを風化させてはならない、こんなことが二度とあってはならないという思いが 「語りべ」としての活動を続けさせています。 この「語りべ」の意志を継いで、体験を語り繋いでいる人達もいます。 私も本やネットで知った程度の情報しか知りませんが、私に何が出来るかを考えたとき、 とにかく実際に起きたことを知ること、そして二度と同じ過ちを繰り返さないように後世に 伝えていくことだと思います。 こうしている今も世界で紛争が後を絶ちません。貧困、飢餓、差別、宗教、教育、さまざま な問題があると思います。日本がそんな世界に貢献できることは、軍事力以外にたくさん あると思います。 人が人を思いやることが出来れば争いごとなど起こるはずがないのです。ぜひ日本には 世界が平和となるよう「思いやりの心」を世界に発信して欲しい、そう願います。 それでは今日はこの辺で、次回は原爆が開発された経緯、そしてそれが実際に使用され ることになったことについて検証したいと思います。 今回は週刊ロビが完成し、起動したロビ君を紹介する予定でしたが、残念ながら一度の 起動は出来、サッカーゲームやバランスゲーム、ミュージックなどの動作はしてくれたの ですが、バッテリーを充電して再度スイッチを入れた所、正常に動かなくなってしまいまし た。 早速サポートセンターに連絡して症状を話しましたが、基盤に接続しているサーボケーブル の接続が外れている可能性があるとのこと、分解してみないと駄目ですねということでした。 正直この接続については組立している時から、なかなか一度では接続出来ず不安に感じて いました。 ということで自分では分解してまた組み立てる自信が無く、メンテナンスに出すことになり ました。もちろん有料で約1万8千円かかるとのこと、メンテナンス終了まで約1ケ月かかる とのことでした。今までの購入代金は約15万円、無駄にするわけにはいかず、なくなくメンテ に出すことになったのです。 バランスゲームをするロビ君です。ここまでは順調に動いていました。 ということでロビ君の紹介はメンテ終了後。約1ケ月後となる予定です。 それでは それまでお楽しみに !!! いつもクリックありがとうございます!またよろしくお願い致します。
2015.08.07
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こんにちは、今日は2015ふかがわ夏まつりの最終日の7月26日に行われた花火 大会の模様をお贈りします。当日は朝から雨模様で今日は中止かなと思わせる空 模様でしたが、夕方近くになって雨はやみ風も収まってきて無事花火大会が始まり ました。毎年準備が足りず失敗の多い花火撮影です。今年は失敗しないようにとYOU TUBEで花火撮影の動画を見て備えました。 準備万端、今年はもう失敗しないだろうと思っていましたが早くも失敗してしまいました。 動画では4つのポイントを教わりました。まずはピントを無限遠に合わせること。2つ目は ISO感度を100に合わせること、3つ目は絞りを10前後に合わせること。4つ目はバルブ 撮影でレリーズを使用し、打ち上げてからシャッターを押し、花火が終わるとシャッターを 離すというものでした。 さてどこに失敗の原因があったでしょうか? ピントを無限遠ということでフーカスリングを目1杯回してしまったことが失敗でした。 AFレンズではフォーカスリング(∞マークがない)をいっぱいに回すと無限遠を行き過ぎると いうことでした。 ということで途中でどうもピントが合ってないことに気づきましたがすでに多くの写真を撮った 後でした。(撮影写真の確認が出来ていませんでした) ピントを合わせる為に何発かの花火を撮さず、ファインダーを覗き手動でピントをあわせま した。バルブ撮影ではファインダーは見えなくなり、シャッターを切り終わるまで液晶画面も まっくらとなりピントの確認は出来ませんでした。 どうでしょう。少しづつピントが合ってきたでしょうか? 打ち上げからシャッターを押して終わるまで、どう写っているのか分からない為、どうしても ぴったりの構図にはなりません。 どうでしょうか? 構図的にもうちょっとというところですが、まあ私の技術ではこんなもの でしょう。 こちらが私の今年のベストショット?です。(まだまだですね) やっと花火の撮り方に慣れた頃、終了の時間となってしまいました。毎年、来年こそはと 望む花火大会でしたが、今年も失敗してしまいました。 来年こそ、今年の失敗を教訓に完璧な撮影を目指したいと思います。(無理かな) 今年の教訓・・・「ピントはバルブ撮影の前にしっかり手動で確認してから撮影しよう」です、 それでは今日はこの辺で、次回の予定はまだ決まっていません。何がアップされるか どうぞ お楽しみに !!! そうそう週刊「ロビ」の最終70号が届き、ついに完成します。実はまだ最後の組み立て をやっていません。次回は完成して命を吹きこまれた「ロビ」君を紹介したいと思います。 どうか無事に完成するように祈っていて下さい。 それでは また !!! いつもクリックありがとうございます!またよろしくお願い致します。
2015.08.02
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