河島悦子著「唐津街道」




大里から博多へ そして唐津へ


唐津街道




1999年12月8日発行








定価2300円のこの本が、唐津街道愛好者のバイブルになっている。赤間宿を散策している人、街道を連れ立って歩いている人たちは、河島悦子(66歳)が師匠。実際に20年間歩いているらしい、すごいおばさまだ。

河島のおばさまに、3点、間違いと思う点を指摘した。

1)1ページ「はじめに」の部分。

 宗像道・赤間宿周辺は、江戸期の建物が多く、土地の人に「よく残ってますね」と話し掛けると「いえ、もうたった27軒になりました。あとは明治期ばかり・・・」だそうです。

⇒27軒もあるはずない。詳細は明日。


2)42頁、赤間宿の町茶屋の位置。

 ⇒神山書店のはずだから、直方線でなくなっている。隣の松尾三津屋があるのだから、その家に隣り合わせでないと、不自然。

 図面では、今の渡辺さんの位置になっている。誤り。


3)44頁、一番上の写真の説明で、赤間 勝屋酒造 馬駅新屋跡 と書いてある。

 ⇒勝屋酒造の前の持ち主は、滝口家(屋号は新屋)。山本勝屋は創業は1790年代だろうけど、それは三郎丸からの計算、赤間に来たのは明治になってから。

 馬駅は、伊豆家。ここは今でいう宅急便取扱所。後、郵便局となる。だから、馬駅と新屋は全く違う。


以上が赤間関連で、私が著者に指摘した点だ。

2003年10月25日 13時31分49秒

河島悦子女史あての6月19日レター

大勢の引率、ご苦労様です。小雨の中、素晴らしいですね、畦町まで4里を歩こうという気概にびっくりしました。


赤間のメインストリートで何故27軒もの江戸期の建物が残っているか? それは、しったかぶり殿が、宗像市民俗調査報告集第3集の「旧宿場町・赤間」(平成2年3月発行BY宗像市教育委員会)の知識を基に答えたからでしょう。推測ですが、河島さんが21軒を27軒と聞き間違えたと考えられます。なぜなら、資料は、江戸前期3軒、江戸中期2軒、江戸後期16軒と記しているから。そのうち、8軒は解体。


江戸前期とされている我が家(5-1-18の出光トキ、5-1-17の出光文武)は、2軒に数えてある。もう少し、聞き取りをすれば1軒とすべき物件だ。昔の図面もある。それでも、21-9=12となり、まだ江戸期の建物は12軒もありますとなる。しかし、調査者(福岡教育大学の住居学専攻・秋山晴子教授およびその学生)の力量不足の為に、間違いだらけの報告書となった。良いところは、昭和50年代の赤間の母屋の図面が残ったという点だ。離れや、新築部分は入っていない。


我が家なぞは、えびすやの分家(6代目の時点での分かれ)だから、築360年ということはあり得ない。また、舛屋も江戸中期になっている。舛屋は、町並み案内板で、明治5年の築と訂正された。赤間の町の古さ加減は、秋山晴子教授によって、間違った伝説が作られたのです。一度、作られた伝説は元に戻すのに、ものすごいエネルギーを要します。みんな、伝説を信じていますからね。

2003年10月28日 14時12分19秒


河島悦子著「唐津街道」の使用文献

河島悦子著「唐津街道」は、近来稀にみる本格派の街道案内(昔の道筋確認)だ。それは、現代に惑わされないで、著者が真摯に資料と向き合っていることが、読むものに伝わる。次に、使用文献を記す。


筑紫道記     飯尾宗祇  1502年 

江戸参府旅行日記 ケンペル  1692年

筑前国続風土記  貝原益軒  1709年

長崎行役日記   長久保赤水 1767年

江戸参府随行記  ツンベルグ 1775年

西遊雑記     古河古松軒 1783年

江漢西遊日記   司馬江漢  1789年

筑紫道草     林 英在  1804年

筑紫紀行     吉田重房  1805年

伊能忠敬測量日記 伊能忠敬  1813年

続風土記拾遺   青柳種信  1829年

江戸参府紀行   シーボルト 1826年

薩陽往返記事   高木善助  1838年

佐久間庸軒旅日記 佐久間庸軒 1858年

塵壺       河合継之助 1859年

筑前名所図絵   奥村玉蘭  1821年

                以上



2003年11月01日 09時09分14秒



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