たぬきぶたの日記2

たぬきぶたの日記2

記憶に残る人々



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記憶に残る人々



1年時だけの寮であったが、自分にとっては強烈な印象を与えてくれた。

そうそうたる名物先輩たちがいた。

最年長は8年生。訳あって寮を出ていたが、なんと隣の下宿屋に住んでおり、

寮生と同じ扱いだった。寮内の放送で電話のときには呼び出していた。

聞こえる距離だからまあ、納得ではあるが。

このM先輩には、1年の終わりにほめられた。

自慢にはならないことです。

冬に受験生を宿泊させることになっていた。受験生はアットホームな扱いで、

夜にはお茶の会などを開いて、歓迎していた。

そのときに世話した数人が先輩づらして参加した。もちろん僕もいた。

しょうもないことに、自己紹介なんぞをやって、名前と出身高校ぐらいの挨拶

なのだが、ぼくの時に8年生はお節介にも追加の説明を加えた。

「このたぬきはな、すごいんや。麻雀がとても強い。1年でここまで強いのは

めったにいない。えらい!」

「そんなあ、麻雀が強いなんて自慢にもなりませんよ。1年365日の内の

300日以上はやったかなあ。それだけですやん。」

残りの日数はSL撮影と、サークルの合宿と泊まりのアルバイト、帰省と・・・

うむ、ひょっとすると330日以上かな、やったのは。

たしかに寮内のジャラジャラのするところに必ずいた。

「麻雀しかしなかったというが、それだけ熱中してやるということはたいしたもんや。」

「いやあ、おまえはすごい、えらい。おれは心底おまえに感心しているんやで。」

「おれも、麻雀には自信はあるんやけど、このたぬきにはさんざん痛めつけられた。

 いやあ~、参ったよ。」

ほめられて嬉しいのか、それしかしなかった自分が情けないのか、なんとも言えない

心境ではあった。このM先輩は名古屋で高校の先生になった。もう今年で定年か?

なんせ入寮して2ヶ月で僕は「麻雀小僧」という別名をもらったぐらいなんです。

でも、でも、ですよ、これで幸せになれたかな? 違います。不幸でした。

なんて馬鹿な大学1年生を過ごしたのかと、自己嫌悪でしたね。

まじめに出席して単位は全部取れた。サークルも続けた。アルバイトもいろんな種類を

やった。SL撮影も九州に5回行った。関西本線や参宮線も。

やらなかったこと。勉強とスキー。(大いに反省)

名物の先輩の話の続き。

7年生が3人ほどいたかな。6年生はいっぱいいた。5年生もぞろぞろいた。

4年生が学年では中間です。3年生の寮役員が下働きみたいです。

2年と1年は存在感が薄い。10人ぐらいいた1年の中ではやはり目立っていたかな。

麻雀狂いのお馬鹿さん。

充実した学生生活だったなあ。(爆)

おかげで、卒業してから勉強するはめになった。

まあ、人生はどこかで勉強し、どこかで遊ぶようになっているのでしょう。

収支決算はみなさん、どなたも同じじゃあないでしょうか。

いや、まじめな人はそれなりに出世してますね。

簀巻きの時の T副寮長 は大手のM電機に就職し、地元に帰って系列販売会社の社長です。

もう一人のT先輩も地元の金融機関に就職。留年していた先輩たちもそれぞれに、

高校の先生や中学校の先生になっている。

自分の握り拳を口の中に入れることができた、 T先輩 は京都の高校の先生になった。

バイクで信州まで行ったときに途中で高校に寄っていきました。

まじめに先生をやっていましたよ。たいしたもんです。

今年の3月で校長として定年退職しました。

新任と退職とが同じ高校というのも不思議ですね。

そうだ、思い出した。この人、野球の野村監督と同じ峰山高校出身だった。



文学部と理学部の寮だったので、みなさんの就職は先生が多かった。

あのアホな行動をしていた人たちが先生と呼ばれているんですねえ。

この寮での生活は戦後30年経っても変わりなく行われていた。

その様子は作家の北杜夫さんの 「どくとるマンボウ青春記」 という本に詳しく描かれている。
そのまんまの生活をやってきた。

〔 北杜夫=本名は斉藤宗吉(斉藤茂吉の息子)松高から東北大学の医学部に進学 最近は兄の斉藤茂太が有名かな〕

酒が入ると、パンツ1枚で下駄をならして寮内を踏み歩く。

もちろん寮歌をわめきながら。

今はコンクリートの新寮になっているのが、伝統は今も引き継がれているのだろうか。


当時の皆さんとの同窓会があれば行きたいですね。もちろん酒と麻雀でしょう。




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