“お笑い”哲学論のページにようこそ!

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◆現実に則した自己分析◆



よって、今回からは私の事、男一般の事を取り上げたいと思っています。
(決して、女性の美点を思い付かなかった訳ではありません!)


取りあえず、私の不幸な境遇から、私の実像にご理解を頂きたいと思います。


一般に容貌や外見を言葉で表現するのは困難です。
(だから私の写真を、恥かしながら、臆面もなく、厚顔無恥にも、ページに俎上しているのですが、これにも若干の注釈が必要でしょう)

人は使える言葉が限られているため、私の印象を述べようにも「美しい」「かっこいい」「魅力的」「男前」「若々しい」「神々しい」「ブラピに似ている」といった、大まかな言葉しかありません。

私の場合も、このような大雑把な分類によって捉えられるほど単純ではありません。

ただ私はしばしば、周りから「たくましい」と言われる事があります。
(もちろん実際の言葉づかいは違い「太っている」である)
さらに、「社長にしておくには、もったいない」と言われます。
(もちろん実際の言葉づかいは違い「社長にしておくのは、とんでもない」である)

なお、逆三角形のボディをしているといって喜んでいる(人間の外面を重視している)人がいますが、私のボディは逆四角形です。
(本当は真球です)

動作は牛のように機敏です。
造作は虫のように不憫です。


容貌については、私ほど不幸な者はいないでしょう。

不幸なことに、私は写真うつりが異常に悪いのです。
通常、「写真というものはウソをつかない」、と考えられています。
にも関わらず、私は自分の写真を見て、よく撮れているとか、或いはせめて忠実に撮れていると思ったことは一度もありません。
似ても似つかない、ひどい顔に写ってしまうのです。

残念なことに、これはカメラのせいでも、撮影者の腕のせいでもありません。
その証拠に一緒に写っている友人などは例外なく、これ以上望めないほど良く撮れているのです。

写真だけならまだ良いのです。
私の場合、鏡でさえ実際よりも遥かに悪くしか映さないのです。

「写真うつりが悪い」という言い方はありますが、「鏡うつりが悪い」という言い方はありません。
このことが示しているように、写真うつりの悪い人はいても、私のように鏡うつりまで悪いという恵まれない者はいないでしょう。

鏡にまで不当に扱われるぐらいですから、他人の眼(水晶体・網膜・視神経・脳など)が、私の容貌をひどく損なって映しているとしても不思議ではありません。
私の周りのみんなが口を揃えて「お前は写真うつりがいい」と言うのをみても、他人の眼に私の容貌がいかに悪く映っているか想像できるでしょう。

こんな事なら、私は「あまり男前に見えないが、実は男前である」よりも「実は男前ではなく、単に男前に見えるだけ」の方がずっと良かったのに、と思っています。

私は、このように不幸な境遇に産まれついているのです。





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