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欲望〔その所有という概念〕



例えば人間を構成している細胞は誰のものでしょうか。
細胞なら誰かのものでしょうが、もっと細かく、分子や原子、さらには素粒子まで行けば、もう「それはおれのものだ」と言う人はいなくなるでしょう。

これは、不思議なことではないでしょうか。
どんなものでも、誰かの所有物であるのに、その所有物の小さい部分、まさにその物を構成しているものは、誰のものでもないのです。

他人の家の柱や畳を取れば、ただでは済まないかも知れませんが、柱の分子を三個ぐらい取っても誰も文句は言わないでしょう。
他人が持っている山を取るわけにはいかなくても、その部分である土を二グラムぐらい取っても何とも言われないのです。
しかも家は微細な部分を寄せ集めたものであり、山は土を寄せ集めたものなのです。
誰の所有物でもないものを適当に寄せ集めると、いつのまにか所有権が発生するのです。

これは、常識に反しています。
常識的には次の二つの前提は自明であるように思われます。
・ 原子は誰のものでもない(前提一)
・ 誰のものでもないものを集めても、誰かのものにはならない(前提二)
この二つの前提から次の結論を導くことができます。
・ゆえに誰かの所有物になっているものは、原子からできていない

この結論に達して、物理学上の大発見をしたと勘違いする人がいるかも知れません。

あるいは結論を、
・ ゆえに誰も所有していない
に替えて、経済学上の大発見をしたつもりになる人がいるかも知れません。
しかし現実はそれほど甘くありません。
“前提二”が誤っているのです。
だから、そこから導き出された結論も誤りです。

次の推論はどうでしょうか?
・人間の細胞の二、三個はくずである(前提一)
・くずの集まりはくずである(前提二)
・ゆえに人間はくずである(結論)
この推論が正しいかどうかを決めるのは難しいと思う人がいるかも知れませんが、少なくとも“前提一”と“結論”は正しいと言えるでしょう。


さらに人の身体の部分について考えていくと、所有の観念は次第に揺らいできます。
私は確かに自分の身体を持っていますし、手足、心臓、脳といった身体の部分を持っています。

しかし、心臓か脳を失うだけで私そのものが失われてしまうのです。
「心臓」か「脳」を失うといっても、消滅してしまう必要はなく、たんに私から離れた所に移動するか、身体の各パーツがばらばらになるだけで、私は存在しなくなるのです。

普通の所有物なら、移動したぐらいで所有者が消滅するようなことはありません。
私のフェラーリがどこかへ移動しても、ばらばらになって輸出されても、私がそのフェラーリの正当な持ち主であることに変わりないし、まして、それによって持ち主の私が消滅することは有り得ません。
それに対して身体の場合、所有物の身体はばらばらになっても存在していますが、持ち主の方は消滅してしまうのです。

これだけでも充分に不可解ですが、さらに奇妙なのは、身体の持ち主である私の所在が不明だということです。
私は身体ではない。
しかし心でもない。
「私は心を持っている」という言い方が一般的に認知されているように、私は心の持ち主であるかも知れませんが、心と同一ではないように思えます。
心の中にある感情や考えも、「私のもの」ではあっても、私そのものではありません。
心のどこを探しても私というものは見当たらないのです。

デカルトは、「私というものほど確実に存在しているものはない」と言いましたが、よく考えてみると、「私」は身体の中にも心の中にも見当たりません。
所有物だけがあって、持ち主がどこにいるのか見当たらないのです。
持ち主がこんな、あいまいな状態で、私の身体や心が、どうして盗まれないのか不思議です。
(「心」を奪うとか「身体を奪う」ということはありますが、所有権が失われるわけではありません)

たぶん、どうすれば盗んだことになるのかが知られていないからでしょう。
もしかしたら、文明の発達した宇宙人が盗み方をすでに発見していて、私の心も身体も宇宙人の所有物になっているかも知れません。
あるいは、私そのものがすでに盗まれていて、そのためにどこを探しても見つからないのかも知れません。



≪以下続く≫




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