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欲望〔その所有という蓋然〕


(所有のために、命の所有を放棄してもいいと思っているのです)

しかも、そもそも所有者が自分であろうと他人であろうと、そこにどんな違いがあるのでしょうか。

自分が持ち主なら、税金を払ったり、管理したりしなければならないし、人に盗られないように用心しなければなりません。
場合によっては、管理と防犯に追われる生活を強いられることもあります。
広大な庭園などを持っていたら維持するだけで、お金も時間も労力も消耗します。
つくづく、そんなものを持っていなくて良かったと思います。

どうしても所有したいのなら、美術館の絵画や公共の庭園や大自然を自分のものだと思ってみてはどうでしょう。
管理は他人にやらせていると考えればいいでしょう。
このように、簡単な思い違いをするだけで、所有欲は充分に満たされるはずです。

自動車にしてもそうです。
高価な自動車を見たら、面倒な管理を無料でやってもらい、税金を払ってもらい、燃料を入れてもらい、そのうえ、無料で使ってもらっていると考えればいいのです。
あるいは、その持ち主に車をプレゼントしたのだと思ってもよいでしょう。
自分の身内や恋人にならプレゼントすることができるのですから、心を広く持てば、赤の他人にプレゼントした、と思い込むことも不可能ではないはずです。

しかし、このような方法で所有欲を満たすことは不可能ではないにしても、かなり無理があります。
所有の厄介なところは、一度所有欲に取りつかれると、どこまでも欲望が肥大して、そこから抜け出すのが容易でなくなるということです。
だから、姑息なごまかしで所有欲を満たそうとするよりは、いっそのこと、所有を断念する、という方向に転じるべきだという考えも成り立ちます。

たいていの場合、生き物から教えられることが多いものですが、所有については特にそうです。

たとえば、ニワトリは人間に卵を盗まれ、牛は乳や子を盗まれています。
それも人間なら目を閉じていても気付くような、あからさまなやり方で盗まれています。
しかしそれでも彼らは恬淡としています。
リンゴとかミカンに至っては文句を言う可能性すらありません。
どんなに盗まれるのが嫌でも、拒否できないまま、毎年実を結んでいるのです。
なんと、いさぎよく、すがすがしい態度でしょうか。

これに比べて、人間の物欲のなんと強いことか。
一般に物欲というものは、甘やかすと、どこまでもつけあがるものです。
ふだん我々の物欲は、ある程度満たされています。
そのため物欲は細かいところにまで及び、新品の車や洋服のわずかな汚れを気にし、本を買うときは少しでもきれいなものを求めて、上から二冊目を取るようなこだわりの毎日を送っています。

しかし、物欲を断念せざるを得ないような状況(戦争になって全てが空襲で失われたような場合)では、そんなこだわりは吹き飛んでしまうでしょう。
そうなったら、当然ショックを受けるに違いありませんが、所有に起因する様々な心配から開放されて、少しは晴々とした気分を味わえるのかも知れません。
現に、生活に必要な最小限と思えるような財産しか持たない人々のほうが、あらゆる余分なものを持つ日本人より、自殺者が圧倒的に少ないではないですか。
それは、悩みが少ないということの裏付けです。

このような場合、とくに望ましいのは、戦争や天災のように、誰にも破壊の責任をとってもらえない、という状況です。
責任者や加害者がいたら、損害賠償を請求しなければいけませんし、未練を振り切ることは難しいでしょうが、責任者や加害者が解からなければ、諦めるしかなく、執着心から開放されて、かえってせいせいするのではないでしょうか。

逆に、所有を求めていくと、所有の憂鬱がつきまとい、喪失の不安にかられて、果てしない欲望の奴隷として、不幸な人生を送ることになります。

このことに気が付いて、所有欲を断ち切るという考えを実践した先覚者もいます。
(モノへの執着を断ち切ることに執着した、とも言えます)

彼らは、物欲や性欲、生存に最低限必要と思われる欲望すらも、捨てようとしました。

キリストや仏陀もそうですが、他にも一遍上人やディオゲネスなどの人物がいます。
我々もこういう先人にならって、いさぎよく捨てる喜びを味わいたいものです。

なお、貴重なものを捨てるときは、是非、私に一報して下さい。





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