“お笑い”哲学論のページにようこそ!

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◆信じられる根拠◆


私の言葉は信じてもらえない傾向がありますが、信じられることもあります。
不幸なことに、信じて欲しくないときに限って、信じられてしまうのです。

例えば「私は人に尊敬されたことがありません」と言うと、まず抵抗なく信じられてしまいます。
むろん、私だって人から尊敬されたことはあります。
以前、「アンパンマンと友達だ」と言って幼稚園児に尊敬されました。


信じて欲しくないつもりで言ったことが、信じられてしまうのは困ったことです。
どうして、こうなるのか、よく解りませんが、私に対する悪い先入観が根底にあるような気がします。

例えば私が「ギターが下手です」と言うと、私のギターを聞いたことがない人は、謙遜だろうと思って、私の言葉を信じようとしませんが、一度でも私がギターを弾くのを聞いたことがある人は、先入観を持っているため、例外なく、私の言葉をそのまま信じてしまうのです。

「信じる」、「信じない」を人はどうやって決めているのでしょうか。
私を信じないという例からも解るように、人々は合理的な根拠に基づいて信じているわけではありません。
科学よりも占いを信じるように、医学より民間療法を信じる人がいますし、宗教家の中には「何の根拠もないから信じる」と考える人さえいます。

しかし、科学的信念なら合理的と言えるでしょうか。
人は納得できる事しか信じませんが、その「納得」そのものがいい加減です。
例えば、地球の裏側にいる人が落下しないという事実は、小学生でも納得し、信じていますが考えてみれば、どうして納得できるのか不可解です。
裏側にいる人が、磁石も接着剤も無いのに、なぜ、地球とくっついていられるのか。

ニュートンの万有引力の法則によって説明できる、と言われるかもしれませんが、ニュートンの説明は結局のところ、「磁石や接着剤がなくても、物体は引っ張り合う。りんごも天体もみなそうだ」と主張しているだけです。
引力というものが納得できないのに、それが何の理由もなくあらゆる所で成り立っていると言われても、ますます納得できなくなるだけではないでしょうか。

一匹のゴキブリが気持ち悪いなら、ゴキブリを全部集めても余計に気持ち悪くなるだけです。

これだけ信じられない材料が揃っているのに、人々はなぜ科学を簡単に信じているのでしょう。
ニュートンを信じられるのなら、私の言葉がどうして信じられないのでしょうか。
人の信じ方はいい加減です。

それどころか、人は、信じているくせに「信じられない」と言うことがありますから、ますます信用できません。
宝くじが当たったなど、都合の良すぎることが起こったとき、我々は「とても信じられない」と驚き「夢ではないか」と疑いますが、むろん、内心では信じています。
信じられないから賞金を受け取らない、という人はいないのです。

もしかしたら、「自分は宝くじを当てるような何十万人に一人という特別な人間ではない」と謙虚に考えているのかも知れませんが、そもそも何十万人に一人になってもおかしくないと思うから宝くじを買っているのです。

「信じる」という言葉と同じように「信じられない」という言葉も安易に信じてはいけません。
「マッケンジーの言うことは信じられない」と誰かが言っても信じてはいけません。





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