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生き方の哲学ー23 ulalan@ 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」1月号より人生における出来事の密度と「自己分析能力」について思うこと。いうまでもなく、人間生きている間には、種々雑多なあらゆる事柄や事象が起こり得る。一見そ知らぬ顔をして歩いている道行く人々も、心の中には何かしら考え事や悩み事を抱えている。歌の歌詞ではないが、水上で優雅に浮かぶ水鳥が、水中では、必死に足をかいて、移動しているのと同じである。さて、昔は「人生50年」と言われたが、今は「人生80年」といわれて久しい。ご存じのとおり、衣食住やインフラ事情など社会的基盤の向上に加えて、医療・科学分野などの飛躍的な進歩により、人間の寿命はこの500年ぐらいの間に、30年も延びたことになる。とりわけ女性の寿命は、さらにいっそう延びていて、夫が亡くなって、人生を謳歌している未亡人をよく見かけるのもそう珍しいことではない。そういう意味でも、現代は人生を生き抜くということさえも困難な時代にあることを認識しなければならない。では、どのように生きるべきか。幸せを掴むにはどうしたらよいのか。人の一生は、この世に生まれ出て「オギャー」と産声をあげたその瞬間から始まるが、本人にはまだ記憶とか思考という所作ができないので(三島由紀夫は自分が生まれて産湯につかった時の記憶があると言っているが)、今はいわゆる「物心ついた」頃を人生の始まりとしよう。それは多くの場合、記憶の原風景をかたちづくる幼少~幼年期(4~5才位から)である。大人からみれば他愛もない事柄であるが、それだけみても、彼らが成長していく過程で直面する様々な「事件」はそれなりに深刻である。例えば、友達とのおもちゃの取り合いに始まり、近所の女の子を好きになって、同じくその子を好きになった「ライバル」との間に、とてもストレートで壮絶な争奪戦が始まる。彼らは純粋であるがゆえに必死であり、お互いに手加減することを知らない。こうした形で彼らはまず他人との摩擦の味を経験する。その後、こうした「事件」はさまざまな過程を経ながら進行していくか、あるいは、完結も延長もせずに、突然終結を迎えることもある。そして、それら一連の「事件」をどのように考え、記憶し、どう捉えていくかは各人の性格や思考などに左右されていく。つまり、知識や思想的基盤なども稚拙で未完成な幼い彼らにも、このような類いの「経験という名の洗礼」が待ち受けているのである。その内容や規模がどのようなものであろうとも。このように考えていくと人の一生において、どれだけ多くの「事件」が起こり、それらがどのように人生に影響していくかについて、あらためて認識させられるであろう。そしてそうした「事件」がどのぐらいのスパンの間にどれだけ起こるか、ということも、大きな影響の一つといえる。それらがとても短期間に起こった事柄であるのか、長期的なスパンの間に少しずつ発生していった事象であるのかを振り返りながら見極め、自己分析する能力を持ち合わせているかどうかも大切である。人は、いろいろな経験、特に苦い経験や苦しかったこと、嫌なことの類を結構覚えていて、二度とそんな目に合わないように、と気をつけながら生活していくようになる。つまり、これが「学習」ということである。一方で、楽しいことや、幸せと感じたことを、さらにもう一度、というように繰り返していこうとすることも、ある意味では「学習」の一つといえる。このように考えてみると、自分や自分の周囲において起こったさまざまな事柄について、「自己分析」して、「学習」に結び付けていけるかどうか、ということを客観的にできるか否か、ということが、自分の人生において、結果的に「幸せをつかめるかどうか」、の分岐点になるといえる。
2008年12月31日
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生き方の哲学ー22 ulalan@ 浦蘭 嶋多朗「みおつくし」12月号より女性は、どう生きるべきか?という問題は、同じく、「男性はどう生きるか?」という問題に容易に置き換えることができるのだが、まずは、既婚の「妻」と いう女性の立場からそのとりまく環境について考えてみたい。現在の日本の「男性社会」がいつから始まったか、ということをひもといてみると、江戸時代中期に大陸から儒教の思想が入ってきたことの影響を除外して考 えることはできない。儒教は、権力者が人民を統制し、その体制を維持するためにとても都合がよい思想で、特に女性に関しては、「仕事はせず、家にいて家を守り、子供を生み育 て主人や家人に仕える」ことが女性の使命であり、最も正しい生き方、とされている。先日、世界の先進国の中で、子育てや家事について、妻から見て夫(パートナー)がどのくらいヘルプしてくれるか、というようなデータをみる機会があっ た。ざっと見てみると、ヨーロッパ諸国ではどの国も概して夫が家事や子育てを「分担」することは何ら不思議もないことで、夫婦が協力し合って子育てや家 事をこなすことは「あたりまえ」という意識が浸透している、ということが見てとれたが、アジア諸国、特に韓国と日本においては、女性(妻)の仕事、とい う意識がまだまだ根強く残っているという興味深い結果であった。女性は、体の構造から考えても、男性には物理的にできない、「子供を産む」という機能があり、(先般、某大臣が、女性は子供を産む機械、と発言し、物議 をかもしたことは記憶に新しい)、結婚して子供を産み育てるということを排除することはある角度から考えるとナンセンスであるかもしれない。または一方で、アメリカ発の「プロダクト・ライツ」という思想が、日本や世界各国に少しずつではあるが広まってきており、「子供を産むか産まないかを判 断するのはあくまでも女性でその権利は女性にある」という考え方もある。子供を産むということは、某大臣がのたまうほど簡単なことではなく、自らの命の 危険もさらされる、とんでもなく大変なリスクを背負うことである。男性なら、お産の苦しみに耐えられず、気を失うか、はたまた死んでしまうのではないか、といわれているくらいである。(実際の結果は永遠に得られないの であるが)その苦しみに耐えて、女性は子供を産む。産んだら育てなくてはいけない。だが子供は女性が一人で授かるものではない。これも人体の、そしてある意味宇宙の摂理の不思議の一つであるが、妊娠するには必ず男性が関与していて、受精し、子宮内に着床し、はじめて妊娠というこ とになる。ただ、現状は、少なくともこの日本においては、まだまだ前述したような状況が今も相変わらず続いている。抗うことのできないこのような社会状況の中で、仕事、結婚、妊娠、お産、家事…などと考えていると、男性に比べてどのくらい女性の方が大変かということ は、言うまでもない。女性の読者はこれを読んで絶望的になるかもしれないが、このある種の「絶望」のなかで、状況の中で、現代の、そしてこれからの女性はどのように生きてい けばいいのか、という問題に直面するのだが、私はあえて、その「いずれかを選択」するのではなく、そのすべてを「順番」でいいから、やっていけばいいと 思う。一つずつ、少しずつ、やっていけばいい。こうして言葉で書いたり、口で言うのはたやすいことだが、実際実行するのはとても難しいことであるのは重々承知 の上である。しかし、世の中の女性たちよ、あえて背中で逆風を受けて、「前に進む生き方」をしてみればどうだろう?そうしてその姿を社会に見せていくという方法は、どうだろう?男性たちはその姿を見た時、いったいどう思うだろうか?それこそが、女性にとって絶望的なこの社会を変えていく、第一歩になるのではないだろうか。
2008年12月03日
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