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さて、先日から読んでいた『SQ 生きかたの知能指数』という本をまあ、一通り読み終わったんで、それじゃあそのことについてちょっと考えを巡らしてみようじゃないか、という気持ちを抱いてまず思い付くことは、この本の題名が僕の知り合いたちを、どういうわけか少なからず失笑さちゃう効果を持っていた、ということで、ある人なんかはわざわざ僕の鞄を勝手に開けて、「いま、どんな本読んでんだ?」「こんなん読んでんのか! 駄目じゃないか~」と言ったので、おそらくは、「生きかたの知能指数」っていう部分に少し抵抗を感じるんだろうと思うが、実際変な言葉ではあるし、そのようなある種の恥じらいは嫌いじゃない。 非常に興味深く読んだのだけど、それについて何かを説明しようとすると、うまく言葉が見つからないので、まずは、前作の『EQ こころの知能指数』のことを少し思い出してみたい。これは数年前に、鬱的状況に陥っていたときに多分読んだのだと思うが、その本によると、こころの知能指数「EQ」という言葉を、「自分自身を動機づけ、挫折してもしぶとくがんばれる能力」と定義していて、「自分自身の情動を知る」「感情を抑制する」「自分を動機づける」「他人の感情を認識する」「人間関係をうまく処理する」という五つの領域に能力を分類していた。そのころは多分、自分の情動を観察し、上手にコントロールすることを熱望し熱中していたと思うので、随分面白がって読んだに違いない。 「SQ」は、というと、何がSQなんだか広範に渡りすぎていてうまく説明できないが、個々人の情動コントロールの能力だけでなく、著者の言葉を借りると、「二人の心理学、すなわち人と人が心を結び合ったとき何が起こるかを考えようとし」たわけで、そこではより深い「共感」や社会的な場面での情動コントロールが強調されている。 「人間は相互にかかわりあって生きていくように神経回路ができている」とか、「人間の脳はもともと社交的にできている」とか、「脳は否応なしに相手の脳とつながってしまう」といったことが最近の脳神経学の研究などによって発見されてきている、ということだけれど、そりゃあそうでしょう、ともっと前からそんなことは知っていたように思うが、多分そうでもないのだろう。 たとえば、 ●ミラー・ニューロンという神経細胞は、他人が起こそうとしている行動を察知し、即座にそれを模倣しようとする。 ●魅力的な女性からまっすぐ見つめられると、男性の脳内では快感を喚起する化学物質ドーパミンが分泌される。しかし、女性が別のところを見ているときには、ドーパミンの分泌は起こらない。 などと書いてあると、何が面白いのか分からないが、妙にワクワクしてしまう。あえて科学的に説明されなくとも、我々はそのように生きてきたはずなのだけれど、マウスの実験からも「思いやりの本能」が備わっていることが確認されたり、「自分の人生で最も幸福だった瞬間を思い浮かべてみたときと、非常に親しい友人にとって人生で最も幸福だった瞬間を思い浮かべてみたときでは、脳内で活性化する回路はほぼ同一だ」と実験で確認されたと言われると、なぜだかとても興奮してしまう。 もちろんこの他にももっとたくさんの興味深い事例が紹介されているわけだけれど、EQを読んだときからある程度の時間が過ぎ、今、SQを読んで感じるちょっとした理解の違いや、あるいは理解の深まりが、結局は数年間のうちに自分に起きた変化や深まりをそのまま表しているように思えたのが面白かったんではなかろうか? まあ、もちろん、良いときもあれば悪いときもあるわけだけどね。
Jan 17, 2007
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今日、ある会社の面接を受け、その帰りに水道橋で、 名古屋に帰郷する予定の友人と飲んだ。 このところブログを更新することもなく過ごしていたので、 そのうち彼がこれを読んでくれる日を待ちながら、 何かを書いてみようと思う。 彼が今夜紹介してくれた魅力的な女性も、 これを読んだら、そうそう、と頷いてくれると思う。 その人は、頑固でプライドが高い。 潔癖といってもいいくらいに高いプライドのせいで、 彼は自分が本当に感じていることをなかなか口に出すことができない。 それは鬱屈し、変形し、 不気味な形で彼の中で渦巻いているように見える。 「自分はまだまだ駄目だ」と常に言い聞かせることで 自分を保とうとしている。 そういう点で、私と彼はよく似ていると思う。 自己評価が怖ろしく低く、 それでいて、得体の知れないプライドがどこまでも高い。 「俺は駄目だ」と言いつつ心の底ではそうは思っておらず、 同時に周囲を見下す自分のプライドの高さに手を焼いている とでもいう感じだ。 いや、むしろプライドの高さは不動のものだと言うべきだろう。 そこだけは頑なに頑固であり、 あくまで自分というものにこだわり続ける。 自分の体臭がどことなく癖になるように、自分の味覚にこだわり、 自分の感覚にこだわり続ける。 そのバランスの取り方が、彼という人間の最大の魅力なのだ。 自分の美学をどこまでも大切にしつつ、とことん自分を蔑み、 同時にプライドの高みからそのすべてを見下ろしている自分を 扱いかねている。 四方八方に引き裂かれている男だ。 彼と出会ったのは保育園の頃である。 それから20年以上が過ぎた。 かつて私の振る舞いから絶交を言い渡されたこともあるが、 その付き合いは今も続いている。 「不器用な程、頑な」と呼ぶのが一番ふさわしい彼だが、 これから彼は東京を離れ、帰郷しようとしている。 ここまで、彼の長所を書いたのか、短所を書いたのか、 もちろん私は長所を書いたつもりなのだけれど、 彼がなんと思うかはわからない。 彼はこれから小学校の教師になろうとしているのだけれど、 それが彼にとっての長い間の夢だった。 本当に良かったな、と握手を交わしつつ、 自分の不完全さの合わせ鏡のように、愛憎もつれ合いながら 決して完全に喜び合うことのできない存在が 親友というものなのではないか、と私は思っている。 それは私の心が偏狭なせいだけかも知れないが、 喜びつつ、心の最底辺では微妙な気持ちが横たわっていることを表明する方が、 彼もよく分かってくれるのではないかと思っている。 手放しで、「分かったような顔」をすることはできないのだ。 認めつつ、否定しながら、 突き放しつつ、結局手を取り合おうとする、 そんな厄介極まりないものが、私にとっての親友だと言えるだろう。 だから、そんなことが続いていくような気がしている。 きれい事など、白々しいのだ。 君がこれを読んだら、また、会おう。
Jul 14, 2006
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『僕の彼女を紹介します』の公開から一年半以上、チョン・ジヒョンの主演作『デイジー』がやっとこさ公開されるということで、昨日さっそく見てきた。チョン・ジヒョンが出ていれば、個人的な採点は非常に甘くなると思っていたけれど、むしろ拭っても拭いきれない期待感をどこかで持ってしまうらしく、私の場合は今回も大いに不満を感じてしまった。オランダで骨董屋の仕事を手伝いながら、野原に咲くデイジー(ヒナギク)を写生したり、広場で肖像画を描く日々を送るチョン・ジヒョン。まだまだ恋に恋してしまう夢見がちなこの画学生を軸に、オランダで麻薬捜査をするこざっぱりしたインターポールと、内気で童顔の暗殺者が不思議な三角関係を繰り広げる映画、と私は見た。中盤、三者三様の気持ちの極まりを描いたワンシーンが結構素晴らしく、ああ、この場面があればもう満足かな、と一人思い決めたものの、その後の展開は疑問符の連続点灯になってしまった。あまり難癖をつけまくるのは未見の人には不愉快かも知れないけれど、あまりにも説明不足であり、強引に話に決着をつけようとするような雑な展開では、脚本そのものに疑いを持ってしまうのも仕方のないことなんじゃないかな、と思う。荒唐無稽さと人物設定の不思議さが、単に粗雑な描き方にしか見えなくなってしまったのは残念なことじゃ。『ほえる犬は噛まない』でペ・ドゥナと共演していたイ・ソンジェはお気に入りの俳優の一人だが、彼の存在意義が意味不明になる後半の展開といい、あるいは自分の頭が固いだけなのかと、筋を辿り直し、あちらからこちらからためつすがめつ眺めてみたけれど、観客を何だと思ってるんだ! と言いたいような気分は消えなかった。多分、監督や脚本家の頭の中には、こうなってこうなってこうなる、という展開と、基本的な人物の性格設定とか苦悩のテーマなんかだけが決まっていて、それをほいほい転がして撮っただけなんじゃないか、という気がする。映画を撮るのは難しいことだろうということを察する。とにかく、チョン・ジヒョンの次に再び期待だ!!と、実にひさびさに日記を更新しました。
May 28, 2006
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ヴェトナムに行ってきます
Mar 12, 2006
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先日、急にノンフィクションとして書かれたものを読みたくなった。書斎から出掛けていって、その場所、その人、その状況を取材してきて、それからせっせと書かれたものを読みたいと思った。どうして急にそう思ったかは自分なりに追々考えるとして、まず、『ドナウよ静かに流れよ』大崎善生(2003年/文藝春秋)を読む。 大崎善生という人は、将棋の周辺を書くことから出てきた人である。 『将棋の子』という本も怖い本だったが、『ドナウよ静かに流れよ』は圧倒的な力がある。読み終えて二週間ばかり、うまく言葉にすることができなかったほどだ。 〈邦人男女、ドナウで心中 33歳指揮者と19歳女子大生 ウィーン〉 2001年8月15日の朝日新聞朝刊に、こんな見出しで始まる小さな記事が載った。その記事からくる、ある違和感。それをノンフィクション作家は直観的に嗅ぎ取った。何か引っ掛かるもの、惹き付けられるもの、どうしても、もうひとつ見過ごしてしまえない何かがそこにある。 〈ホームレス生活 遺書に「宗教団体に追われている」〉 〈男性は指揮活動をしていなかった〉 〈男性には、精神病院の通院歴があった〉 〈娘は、あの男に殺されたと思っています〉 幾つかの記事、証言を解きほぐし、また新しく一つに束ね、作家は19歳で死ぬこととなった一人の女性を頁の上に浮かび上がらせようとする。繊細や誠実や潔癖が絡まり合って、見えるはずのものが隠され、聞き取れるはずのものを掻き消し、次第に避けがたい最悪の結末に押しやられていく。 ルーマニアの暗く、孤独な街に閉じこめられた女性と、そのようにしか生きられず、振る舞えなかった一人の男が出会うことで、見たくもないこと、聞きたくもないこと、そうであってほしくないことが一つ一つ確実に起こっていく。でも、同時にそこには二人にしか見ることのできなかった小さな世界があったのかも知れない。それは非力な希望である。作家は祈るように結末を書ききっていくけれど、暗く、怖く、冷たく、硬く閉じているものもしっかりと書いた。いや、作家が書く前に、それに近い現実、あるいはもっとむごいことは起きていたのである。二人の遺書は、怖い。 「やるせない」という言葉を使いたくない「やるせなさ」が残る。 「わずか19歳でその生涯を閉じた少女の人生の意味を証明してみたい」という作家の原初の動機が果たされたかどうかは不問である。貴重な本だと私は思う。
Mar 3, 2006
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『ヴェロニカ・ゲリン』(2004年公開)を見る。アイルランドで最大の部数を誇る週刊誌「サンデー・インディペンデント」の記者、ヴェロニカ・ゲリン。麻薬犯罪の暗部を追いかけた彼女は1996年6月26日、凶弾に倒れた。事実に基づいた映画である。 ジャーナリストがたった一人で犯罪、暴力、悪意の巨大なシステムに切り込んでいこうとするといった社会派映画は、必然的にリアリティのしっかりした群像劇になっていくことが多いから、社会状況、個人の生活、人生観、それらの一つ一つをじっくりと見たいと思う。 黒幕の邪悪さが暴かれ、心地よさのなかで物語が終息していくことを愉しめる映画もあるけれど、この映画は事実をもとに描かれているから、パッケージは遺影のように見え、また違った意味合いを帯びている。 家族を危険にさらし、自分の命を賭けてまで事実と正義を掴み取ろうとしたヴェロニカ・ゲリン、という女性は、その日その場所で、あっけなく、と言ってもいいくらいに簡単に命を奪われてしまう。その事実は当時の社会に確かに影響を与えたということだけど、映画の中では彼女が記事を書いているところがほとんど出てこないし、テレビの取材を受けるシーンこそあるけれど、記者としての彼女が、読者や世間にとってどんな存在だったのかはあまり描かれてはいない。 多分、ここが事実に基づいた映画であることと、殉職した彼女の名前が映画のタイトルになっていることの所以だと思うのだけど、この映画は社会の構造や、悪を暴いていく正義に重点が置かれるのではなく、一人の母であり妻である女性が最後の日々に、このように振る舞った、という生きる姿を写し取っている。 だからこそ、ケイト・ブランシェットの淡麗で意志の強そうな顔立ちの中に、いきいきと動き、とどまっては消えていくたくさんの表情がこの上なく美しく見えるのだし、銃撃を受けた直後のあの顔まで描かれなければならなかったのだと思う。 この映画をもう一度見返すとしたら、物語や構造の奥行きではなく、その人の立ち姿の美しさを見るため、ということになるんだろう。
Feb 11, 2006
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もう、ずいぶん以前のことになるけれど、 恵比寿ガーデンプレイスの現代写真美術展に 「ベトナム戦争写真展」を、見に行った。 今回の目玉は北ベトナム側の資料が新しく発掘された点である。 と、いっても現時点でそのありがたみが私にはわからないけれど、 確かに、今まで見たことのある写真に較べ、 北ベトナムのうら若い女性が背中に銃を担いで歩く写真や、 厳しく敬礼の体勢をとったり、射撃訓練をしたりしている 写真は初めて見た。 祝祭男は、ベトナム戦争が何故だか気になっている、 写真展を見に来た人たちに、 「何故あなたはこの写真展を見に来たのか?」 と、いちいち問い質したいような気分になる。 何故、今頃になって、ベトナム戦争の写真を見るのか? 何故、わざわざ寒空の下を出掛けていくのか? 自分の動機が曖昧としていて、その動機が見極められないから、 そのように思うのだ。自分という人間と、ベトナム戦争の接点を なんとかして見つけようとしつつ、その繋がりは、いまだにわからない、 先送りにしているだけかも知れないが、あるいは、繋がりなど何もない、 という場所から、ただ想像力を羽ばたかせるだけなのかも知れない。 村上春樹が「ねじまき鳥クロニクル」でノモンハンの戦場を 描こうとしたように、過去の出来事にコミットすることは難しい。 アメリカに、もし旅行することがあったら、 ベトナム戦争の帰還兵に会ってみたい、とこの頃よく思う。 でも、何を問い掛けたらいいのか。 写真展に行くことの意味もわからないのに、 現代写真美術館の別の階では 「岡本太郎の視線」という展示も行われていた。 太郎が1930年代にかけて、パリで写しとった写真、 それから高度成長時代に日本列島を縦断するように、 地域の風土と人々を撮り続けた写真、そんなものが展示されていた。 でも、太郎の撮った写真よりも、今は、 彼の言葉が私を惹き付ける。 「自分の中に毒を持て」という本の中にこんな記述がある。 危険だ、という道は必ず自分の行きたい道なのだ。 ほんとうはそっちに進みたいんだ。 危険だから生きる意味があるんだ。 迷いの連続の日々にある祝祭男は、 折に触れて、この言葉に勇気づけられている。
Feb 6, 2006
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「田舎に三つか四つの家族が集まれば、それでもう小説にはもってこいの材料」というのは原作者ジェーン・オースティンの言葉である。 何かの雑誌の片隅に、キーラ・ナイトレイの姿を発見して以来、事前準備として原作『高慢と偏見』を読み始めたが、結局読み終わる前に映画が封切られ、映画を見た後になっては、本は読み差しのまま捨てられた。 ヒロイン、エリザベスを演じたのは、ポスト・ウィノナ・ライダーと目されるキーラ・ナイトレイということだが、祝祭男はむしろナタリー・ポートマンを重ねながら見た。去年『クローサー』に撃たれたことの余病だろう。 原作こそ読み切っていないが、恐らく映画はそれをかなり忠実に要約しているようで、恋の行く手を邪魔するイライラ、ハラハラ、モダモダは存分に楽しめる。常に現在進行形ですべてが描かれ、余計な感傷、回想が織り込まれないところに鮮やかさがある。 だが、プライドと偏見という主題と構図からはみ出してくるものこそが、この映画の良さだと私は感じた。 ドナルド・サザーランド扮する、ヒロインの父である。 原作を辿りながら彼の心中を察するという手間を掛けていないので、正確なことは言えないが、原作のほとんど冒頭近くに、父、ベネット氏が、五人姉妹の次女、エリザベスに特に深い愛着を持っていることがほのめかされる。このことが、間の恋愛劇をすっ飛ばして、最後に彼が滲ませる涙と微笑みに直結するのである。そしてそのことよりも、三女だか四女のリディアが軽薄でよこしまな男と駆け落ちする場面では、娘の身持ちの悪さや向こう見ずな若さと通俗を、彼はすべて無責任に放りだしてしまうのだ。日頃は飄々と妻をいなす彼であるのに、娘の頭の中身は、心の動きは理解の範囲を超えているものなのか。彼はエリザベスだけが、自分に近しい知性的な部分、心の傾向をもっていると感じているようにさえ見える。もちろん他の娘を思う気持ちに違いはなかろうが、そこに父としての無力さが一瞬かいま見える。そこにあるのも父としての『プライドと偏見』でもあるのか。 『普通の人々』という映画を思い出すのだ。 ロバート・レッドフォードが初監督にしてアカデミー賞に輝いた名品のなかに登場する父親役、ドナルド・サザーランドは、結末のシーンで息子と二人で夜明けの玄関先に佇んでいる。あのとき、彼の流した涙が、今でもふっと甦ってきて私の胸を撃つ。「父と子」という主題を思い出させる。それを描くためには、確かに「田舎に三つか四つの家族が集まれば」それで充分と言えるのだろう。
Jan 18, 2006
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2 最後の管理人、大沢ミズオは、七月の初めに着任した。しかし、誰も新しい管理人なんて、待ち望んでいなかったに違いない。でも、どんな場合でも、最後は気持ちよく締めくくりたい、と誰もが思っていたのだと思う。だからこそ、初めて大沢ミズオと接した住民が戸惑ったという話も僕にはよく判る。 彼は、いつも心がお留守になっているみたいだ、とある住人は言っていた。前任者とは大違いだ、と苦々しく呟く人もいた。それはどちらも当たっていたと思う。が、彼はあからさまに管理人の仕事を忌み嫌っているわけではなさそうだった。薄いブルーグレーの制服を着て、気がつけばあちこちを動き回っていた。それでも寸暇を惜しむというよりは、時間の有り余った人間の歩き方に似ていた。また、彼は言葉の端々に人を傷つけ、不快にさせるガラス屑を敷き詰めているわけでもなかった。でも、彼の声は僕たちを何となく不安にさせた。もちろんそれは彼の本意ではなさそうだった。彼は前任者のように、花壇に花を絶やさないように努力していたし、少なくともにこやかに挨拶を交わそうと顔を歪めていた。でも季節が悪かったのか、花は根付かなかった。運良く顔を出した芽にも、アブラムシがまとわりついていた。そして彼の笑顔を見たあとでは、僕は少しだけ歳をとったような気分になった。 がらんどうの荒涼。僕はそんな言葉を思い付いた。どうしてそんな言葉が口を衝いて出たのかは判らない。元来管理人は世話好き、のみならず、夫婦で任されるという慣わしだったから、彼を派遣した市の人間も、どうせこの団地をすでに見限っていい加減な人選で済ませたのだろうと僕は踏んでいた。 とはいえ、住民と完全に敵対するとはいかないまでも、ちょっとした日常のやりとりでさえピリピリ不要な空気を漂わせてしまうこの管理人に、僕も無関心な態度で接することに決めた訳ではなかった。むしろ、僕はそもそもの初めから、確信犯的な強い好奇心を大沢ミズオに抱いていたのだ。 というのも、まずはその奇妙な名前に僕はピンと来た。 日本映画監督名鑑(1997年版・チミノ出版)、四一七頁、上段。ここに大沢ミズオという名の監督が収められていることを僕は知っていた。それは電話帳ほどもある分厚い本で、有名無名を問わず、原稿を依頼された映画ライター達が知っている情報を片っ端から詰め込んだような代物だった。僕はそれを暇さえあれば捲っていた。いずれ近い将来自分の名前――別所駿――が、その一頁に連なることを夢想するのが僕の愉しみの一つだった。 大沢ミズオに関するページ、それは簡単な略歴と作品名の羅列で、顔写真もなければ、もちろん作品解説もついていなかった。新しい管理人と結びつく点はただ一つカタカナ表記の耳慣れない名前だけだった。経歴一九四九年、アメリカ生まれ。二歳の頃父の転勤により帰国。その後、東京・長崎・埼玉と各地に移り住む。高校卒業後、早稲田大学で自主制作映画に携わる。作品 監督・脚本…大沢ミズオ・『西瓜男』短編一五分(六八年)・『垂直落下』短編五分(七二年)・『ヴェトナムピンボール』短編三〇分(七三年)・『生きる歓び』長編一〇〇分(七七年) インターネットでその名を検索しても、新たに付け加えるべき情報は、彼が九五年に『空白男と忘却女』という脚本を書いた、ということだけで、それがどんな内容でいつ放映されたのかも判らなかった。それに、もし彼が映画監督である大沢ミズオ本人だと判ったとしても、その後自分がどうしたいのか僕には判らなかった。たとえ彼が僕の求める大沢ミズオだったとしても、そんな人が解体間際の集合住宅で管理人をしているというのはいかにも不自然だった。かなり高い確率で、同姓同名の別人に終わるだろうということは予想できた。それに、いかにも人間嫌いといった風情の管理人に面と向かって聞くことは躊躇われた。何故だろう。僕の中で、大沢ミズオという管理人に惹き付けられる衝動と、そこには近づくべきではない、という胸騒ぎが同時にぶつかり合っていた。 友達から安く譲り受けたビデオカメラが僕の手元にあった。団地の解体が決定されると、僕はそのカメラを持って、建物の周囲を巡り歩き、いろいろな角度から団地を撮影していた。自分が生まれ育った場所が消滅するという事実が僕をそういう感傷的な行為に駆り立てたのかも知れないが、建物の外側を撮っても、何も面白くなかった。 つづく
Dec 17, 2005
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1 その夏に、僕の住む猫ヶ洞第三高層集合住宅の新しい管理人として派遣されてきた男は、まだ五十代半ばだという話にしては、あまりにも物静かで年寄り臭く、そして僕に、年齢とのギャップだけではない、奇妙なもどかしさを植え付けた。彼の雰囲気には、何か決定的な食い違いがあった。それを察知したのはどうやら僕だけではなかった。でも、僕には初め、それが何なのか見当もつかなかった。軽い胸騒ぎを覚えただけだった。 それまで管理人をしていた黒柳という姓の夫婦は、この町の更に郊外へ、砂埃が消えるように引っ越していった。それは名前も聞いたことのない町だった。雨の少ない春のことだ。夫婦はよく似た顔をしていた。ほとんど同じ顔をして、その中の僅かな違いが二人を男と女に隔てていた。時折僕は彼らのことを異様に感じた。一人息子が二世帯住宅を建ててくれた、と夫婦は笑いながら話した。笑うとき素早く歯を隠す仕草がどういうわけか気になった。彼らが消えて僕は少しほっとした。 近所では並ぶものがないほど巨大であったこの高層住宅は、N市の外れに位置し、広大な霊園の横たわるなだらかな丘の中腹に聳えていた。分厚い一枚岩と聳えるこの団地より向こうに拡がる世界のことなど、僕にはほとんど興味がなかった。実際閑散としたすき間だらけの町と道路が延びているだけだった。僕の頭の中では、団地の裏側の世界は、そのずっと先に茫漠と広がる空港の敷地とほとんど境界線を持たずに地続きだった。要するに、猫ヶ洞第三高層集合住宅は、僕にとって、街の終わりを示す巨大な壁であった。そしてそう感じていたのは多分僕だけではなかったのだと思う。遠く離れた場所からでも、団地はすぐに目に留まった。そんなとき、僕は少し安堵した。母の百恵も、そう言えばそんなことを思うことがある、と言っていた。でも、同時にそれはどこかしら異様な光景だった。口にこそ出しはしないが、あんなおかしな長方形の中に自分は暮らしている、と思うことがあった。どこからも目に付くということは、四方八方から晒し者にされているということでもある。 しかし団地が街の終わりを示す壁だ、と僕が思うよりもずっと前から、ほとんどの人にとってそれは一つの通過点でしかなかったようだった。市の中心部から、どんどん人口は外へ浸透していった。気が付いたときにはもう、なし崩しのようにして、壁は役割を終えていたのだ。 というわけで、僕がそう感じ始めた頃、初夏の匂い立つ新芽のように、その噂は広まった。住人達は当たり障りのない毎日のお喋りの中にその噂を忍び込ませた。そして動かしがたい現実の鉱脈にカチリと歯の先がぶつかると、不意に顔を見合わせて、倦怠の中で陰気に笑っているようだった。やがて、噂は一月もしないうちに現実のものになってしまった。 一体どこに引っ越せと言うのかしら?母、そう言った。 猫ヶ洞第三高層住宅、来年3月に解体工事、着工。 僕たち別所家の三人は、この団地が取り壊されてしまったら、他に行く当てがなかった。でも、口では文句を垂れていても、別段オロオロするようなこともなかった。母はいつものように近所のスーパーで餃子の実演販売をしていたし、姉の美希も、同じように仕事のミスを繰り返す日々を続けていた。見た目は何もかも今まで通りだった。僕だけが、宙ぶらりんの気持ちでいた。 団地亡き跡には、新しい住宅街の構想が立てられているらしかった。数年後には地下鉄もここまで届くとしばらくしてから耳にした。でもどっちにしろ、もう他人事だった。いっそのこと全部墓にしてしまえばいいのに、と僕は思った。そのあと忍び足で、奇妙に浮き足立った気分がやって来たけれど、その落ち着かない雰囲気は、夏を持ち堪えられそうになく、ユーモアも通じない、運命を知り尽くしているただの退屈という奴だった。 つづく
Dec 10, 2005
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夜更け、ベッドに潜り込み、クスクス笑いの洪水の中で この本を読む。 いつか読みたい、とくり返し挑戦しつつ、なかなか読み進むことの できない『失われた時を求めて』。 20世紀文学の最高峰と謳われ、 「あの本のあとに書けるものなんて、果たして残っているでしょうか?」 とヴァージニア・ウルフの筆さえも折りかねなかった小説の著者、 プルーストの、ユーモラスで、誠実な、愛すべき一面をこんな風に 活き活きと描き出している本を、私は知らない。 『今日、人生を愛するには』 1969年スイス生まれの著者アラン・ド・ボトンは、 プルーストの、その人と作品を通して、我々がいかに 人生をよりよく出来るかを考察する。その足取りは 軽妙で、不敵で、人生が愛するに足ることを実に ユニークに解き明かしてくれる。 『自分のために読む方法』、『時間のかけ方』、『感情の表し方』 『よき友になる方法』、『目の開き方』、『幸福な恋をする方法』 『本をやめる方法』、プルーストの記述するもの、人となりは、 本当に様々なことを我々に教えてくれる。 『上手な苦しみ方』の章では、プルーストの抱えていた、 精神的肉体的苦悩が幾つか紹介される。 ――三十歳での自己評価 「楽しみも目標もなく、活動も野心もなく、この先の人生は すでに終わったも同然で、自分が両親に味わわせている悲しみに 気づいている僕には、わずかな幸福しかない」 ――敏感肌 いかなる石鹸も、クリームも、コロンも使えない。体を洗うときは、 目のつんだタオルを湿らせて用い、洗った後は清潔な理念で体を軽く たたきながら乾かさなければならない(平均的入浴一回につき、 二十枚のタオルが必要。 ――死 他人に自分の健康状態を知らせるとき、プルーストはいつも真っ先に、 自分の死は近いと宣言した。彼は確固たる信念と規則正しさを持って、 人生の最後の十六年間、それを予告しつづけた。 本人の説明によれば、自分の普段の状態は、 「宙づりです。カフェイン、アスピリン、喘息、 狭心症のあいだにつり下げられているのです。 概して七日のうち六日は、生と死のあいだで宙づりになっています」 そんなプルーストは、 あるときアンドレ・ジッド宛の手紙にこう書いている。 自分のためには何も得られず、 最小限の不幸ですら避けて通れない私も、 ある資質を授かっています。 …人をしばしば幸福にする力、人の苦しみを和らげる力です… この本を読み終えたとき、 多分我々は自分の人生をもう一度愛するための、 第一段階に立っている。 そして、多分、『失われた時を求めて』を読みたくて 仕方がなくなっているはずだ。
Nov 30, 2005
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『明るい夜』著/黒川創を読む。 11月21日の読売新聞で紹介されていた記事が目に留まったのだ。 「一人ひとりの中に世界があり、それを耕している。 何で生きているんだろうと考えたり、アルバイトしながら 気持ちがへこんだりするのって、本人には大問題ですよね。 この小説は、答えが出ないことを答が出ないままに生きる根性 についての話だと思う」 という言葉を頼りに書店へ走る。 後半、イランから移住して レストランで働く男の語るエピソードがある。 隣国との戦争に駆り出された兄が、両足と下顎を吹き飛ばされて 帰ってくる。そういう故郷を離れ、男は日本にやって来る。 浮かんでは消え、浮かんでは消えるエピソードを通して ぼんやりと、いろんなものがちょっとずつ見えて、また、隠れる。 自分の故郷が、「5階建ての団地で、ベランダから、自衛隊の 基地と、でっかい自動車工場が見えるだけの場所なんだよ」と 「わたし」は言う。 「そんなもんやで、誰かて」と元友禅職人が言う。 「人間、たまたま居着いただけの土地に、だんだん馴染んでいく」 ということもあるのだと言う。 小説の最初の一行が書き出せない若者が出てくる。 彼はどうなるのか… さらりとした風の中に、ふっと何か気になる香りが混ざっている。 そんな感じの残る小説だった。
Nov 27, 2005
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COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) を立ち読み。村上春樹氏は、夢を見ないことでも知られている。祝祭男は、うっかり小学校の頃好きだった女の子を死に追いやり、『自分のせいじゃない!』と粉々になって怯える夢を見た。けれども幼馴染みの全員が『おまえのせいだ!』と騒ぎ立てるので、私は『これは夢なんだ!』と現実から逃避しようとする。すると夢から覚める。でも、まだ手酷い罪悪感と、生々しい殺人の記憶が濃厚に染みついていて、視界も薄ぼんやりと暗い。そしてもう一度夢から覚める。今度はくっきりとした明るい世界が自分を迎え入れてくれて、夢との接続がちゃんと切れている。心の底からほっとする。テレビを付けると高橋尚子が走っていた。しばらくの間、ゾッとする寒気が去らなかったが、こんな夢を見てしまうような心当たりがちょっとだけあるから嫌だ。さてさて、切り替え切り替え。
Nov 20, 2005
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時々、祖母に電話を掛ける。 もっとマメマメ電話しようと思いながらも、 たまに、掛ける。 祝祭男は俗に言う『おばあちゃん子』として育ったが、 『おばあちゃん子』とは何か?という問いに対しては、 すなわち「おばあちゃんがファースト・レディであること」と答えたい。 実態はそうでなくとも、少なくとも『おばあちゃん子』の精神とは そのようなものである。 そこで、祖母に電話した際に 「大好きだよ」と一言添えてみようか、とふと思い付いても、 実際にはそんなことは照れくさくて到底口にできない。 「愛してる」なら、かなり阿呆な響きがあるので、言えるか?と 考えてみるが、あまりに阿呆な感じで、事実上意味をなさない。 ならば、言わない方がまだましだ。 「不機嫌なジーン」に登場する南原教授は、 よく「愛してる」と発言するわけだが、それは何となく、 自分の人生の姿勢(異様に空疎なスタンス)をオーラのように醸し出す 働きをしていて、あの発語が、彼のアイデンティティを支えている ような気さえする。 祝祭男は「愛してる」なんて、いついかなるときにも言ったことがない けれど、私の友人は「俺、…ある」と答え、「俺は軽い男だな」と 反省していた。しかし、もしこれを言うことで、 それを言われた相手には、全体的には猛烈に空疎な印象を与えるけれど、 結果として、その阿呆のオーラで全面的に肯定しています、という 雰囲気が醸し出されるとしたら、まあ、面白いし、 いいことかな、と思う。
Nov 13, 2005
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昨日、仕事が終わって同僚と北千住で飲んでいたら、 いつものように「ウカウカ」しているもんだから うっかり終電に乗り遅れてしまった。 まあ、祝祭男は山手線に乗りさえすれば、平気なのだが、 相手が途方にくれるので、朝まで上野。 色々と差し迫った事情もあって心がザワザワしている… そういえば、『ざわざわ下北沢』という群像映画があったな。 すごく好きな映画の一つだ。原田芳雄と下北沢のごちゃごちゃ した感じと、スズナリ劇場しか記憶にない。 でも市川準が好きだ。 そういえば村上春樹の短編を映画化した『トニー滝谷』 も監督しているんだっけ。 見なければ。 見なければ。忘れてしまう前に… そういえば、市川準の作品の中では 『東京兄妹』が一番好きだ。あの鬼子母神から雑司ヶ谷にかけての 界隈は、学生の頃に本当によく散歩したものだった。 思い出深い。 もうそういう機会は自分には必要ないような気もするけれど、 もういちど見返そうかな。 そういえば、近所のゲオでもう何年も 『東京夜曲』を探しているけど見つからない。 店員に聞いて確認したかも記憶にない…
Nov 9, 2005
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山本容子さんの『わたしの美術遊園地』という本の中で、 幾つかの映画の思い出が挿絵とともに紹介されている。 未見の作品で目に留まったのが『炎のランナー』。 早速レンタル屋に行って、紹介された映画を 借りることにした。 良い映画だけど、こんなにひりひりと物思いに沈んだ 映画だったっけ?と思った。たしか本の中では 『男の人に生まれたかったなあ』と山本容子さんが 述懐していたはずだったけど… と、もう一度本を開いてよく確かめてみると、 私が借りてきたのは 『長距離走者の孤独』だった。 まあ、なんというかタイトルとしても 『長距離走者の孤独』の方が格調が高いし。 記憶の隅にあった、主演俳優のあの鋭い眼の力で 完全に勘違いしていたわけだった。 これでひとまず、走る人、の映画については満足したので、 もしかしたら当分『炎のランナー』は見ないかも知れない。 巡り合わせというのは、こういうものなのかな。
Nov 6, 2005
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最近、祝祭男が影響を受けた3人を紹介。これは、見るからに松尾スズキなわけだけれど、映画『イン・ザ・プール』のなかで精神科医伊良部を演じていた松尾スズキ。自堕落で傲慢で、患者をいたわる気なんて毛頭なくて、マザコンで傍若無人で雨に濡れると臭くなる男。つまり天衣無縫なのだ。そこが好き。続いて内野聖陽。この人に関しては昔見た『ラブ・ジェネレーション』のときの印象しかなくて、真面目で硬派な二枚目か、と思っていたが、それだけではなかった。もっとも作中の南原教授の話だが、有能だけど節操がなくて、同じく傲慢だけど、さびしんぼう、気がつくと意に反したオチャラケを連発してしまう小さき男。感情表現が巧いのか下手なのか解らない。そこが好き。この人、絵本作家の五味太郎、という人。この人だけ現実の人。まだよく知らない、でも好き。 昔から影響を受けやすい祝祭男は、一年中あまりにも多くの人々に影響を受けすぎているために、いったい自分がもともとどんな人間だったのか解らなくなってしまった……おもしろいことだ。家族や友人や恋人や同僚や、たまたま一目惚れしてしまった相手や、小説家や映画監督や、俳優や作中人物や、草や虫や風や惑星や明け方の月や食卓にならんだ里芋や…限りなくいろんなものについつい影響をうけてしまうけれども、影響力の続く期間は一瞬だったり一週間だったり7年だったり、様々だ、でもいずれにせよ自分が多面的な惑星になったような気にさせてくれる。気が変わったらすぐに惑星の裏側にでも遊びにいけばいいのだ。だから、この頃は、何かに影響を受けるたびに、それは未知なる新しい何かが侵入してくるだけじゃなくて、自分の気がつかなかった一面がその人によってピックアップされ顕微鏡で覗くみたいに拡大されているんだ、と感じる。ということは、影響されすぎて自分を見失うことなんてなくて、実はくり返し自分自身を見出している、ということにでもなるのか。
Nov 3, 2005
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『エッセンシャル・ボブ・ディラン』を聴く。 もうかれこれ十年以上前、桑田佳祐とMr.Chldrenが一緒になって、 Act Against Aidsの一環のライブをやっていて、 その中で、桑田君が ボブ・ディランの『It's all over now, baby blue』を歌っていた。 まだ高校生になったばかりの頃だったんじゃないかと思う。 その曲が何故か忘れられずにビデオテープを巻き戻して その曲のところばかり聴いていた。 でも、いつかボブ・ディランの吹き込んだ原曲を聴こう聴こうと 思っているうちに、結果的には十年も経ってしまったのだ。 英語の歌詞がなんて歌っているのか解らないまま It's all over now, baby blue とだけ口ずさんでるうちに十年も経ってしまうなんておかしな話だ。 この曲の最後の二行はこんな感じ Strike another match, go start anew And it's all over now, baby blue 新しいマッチを擦って、新しく始めるんだ すべては終わってしまったんだよ、ベイビー・ブルー 少しだけ、そういう気分がする。
Nov 1, 2005
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『大正時代の身の上相談』(ちくま文庫)を読む。 この本に掲載されている「身の上相談」は大正三年(1914)から 十一年(1922)までの読売新聞から抜粋されたものだということ だけれど、つくづく、 人の悩むことはいつの時代もそんなに変わらないのか? という思いがする。 もちろん『親の決めた縁談』なんていう問題に頭を悩ませている 手合いはもはや身近にはいないけれど、恋愛、進路、転職、結婚、 更には人生の意義、宇宙の真理、というようなものに至るまで、 人間の悩みはとめどもなく果てしない。 大いに悩むべし。 とはいえ、身の上相談に答えているこの『記者』の冷静、炯眼、潔さ にはしたたかに眼を洗われる心地もする。 祝祭男も近々転職しようなんてことを目論んでいる。 いつだったか数学者のおっちゃんが 「人生は少しずつ色んなものに片が付いていくんだよ」 と教えてくれたけれど、 傍目には何も変わっていないようでいて、 内面では色んなことが新しく組み替えられたり分解したり、 組成を繰り返しているみたいだ。 そう言う意味で、何かが何らかの意味で片付いたのかも知れん… 当時、新聞に投書をした人達で、いまも健在の方もおられるだろうと 思うけれど、『100年後の世界』はどんな風だろう? そういえばこの夏は『ローマ人の物語』を読んで、 カエサルの遠征、歴戦に触れるたびに、 額に涼しい風が吹き渡っていくような気がしたんだった。 聖徳太子よりもはるか彼方の人間たち。 大正の人々の悩み事を読んでいると、 ゴチャゴチャとした彼らのお喋りや、ザワザワとした 足音が身近に聞こえる気がする。 古い、ちょっとした古い小説を読みたくなった。
Oct 31, 2005
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色んなことが自分の中を通り過ぎていくけれど、 すっかり立ち止まったままの姿勢で、 このまま 彫刻みたいに固まってしまいそうな気分であることには 変わりはない。 一体どうなってしまったのだろう、 と自分に対してよく思う。 取るものが何も手につかない気分のまま 知らず知らずやっていたことは 落書きのような絵を夢中になって描いていたことである。 今も、今の今まで絵を描いていた。 なんで、こんな夜更けに絵なんか描いているのか判らないが、 とにかくそういう気分なのだ。 五味太郎さんの『絵本を作る』を読みながらぼんやりこんなことを している。
Oct 30, 2005
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友達とのお喋りの弾みで、 『不機嫌なジーン』は傑作だ、という話になった。 気がついたら自分でそう宣言していた。 どうしてそんなことになったのか。 放送中、一二度途中から見ただけだったのに。 というわけで、近所のレンタル屋の半額セールを狙って 『大人借り』して一日で見た。 本当は一週間掛けて、少しずつ愉しもうか、 いずれにせよこの週末はひたすらドラマ三昧にしよう、 くらいの気分で見始めたのに、 あまりの面白さに寝るのも忘れて見てしまった。 幸せな時間だった。 少しだけ昆虫が嫌いではなくなった。 結末には肩透かしをくらった気分だけど、 大満足。 脚本を書いた大森美香さんに心から敬意を表します。
Oct 29, 2005
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クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『ふたりのベロニカ』を再見。 初めて見たときから、十年が経過している。 あのころ、学校から帰ってくると、毎日一本ずつ、 ひそひそ話をするように映画を見ていた。その中の一本である。 十年後に見返してみても、判らないシーンは判らないまま残っている。 響いてくる場所ははっきりと響いてくる。 隠喩に満ちた映像の断片が、 解き明かされないままに心の中に澱のように溜まっていく。 「魂」について、 「懐かしさ」について、 「死」について、 「交歓」について、 「生の繋がり」について、 「符合に満ちた世界」について、 美しい隠喩を重ね合わせて映画が織り上げられている。 「自分は独りぼっちではないかも知れない」という予感。 「死は哀しいのか」という疑問。 「世界は、その秘密をこっそり垣間見せる」という発見。 そういったものを内省的に奏でている、希有な映画なのだ。 というわけで、これからキェシロフスキの作品を、入手できる限り、 見ていこうと思う。そして、少しずつ言葉にしていこうと思う。 ひそひそ声の暗闇の中で、一人で見る愉しさを。
Sep 17, 2005
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『メゾン・ド・ヒミコ』を見てきた。池袋は今日が初日、ということで、犬童一心監督が、プロデューサー、役者さんを引き連れて舞台挨拶を行った。主演の二人、柴咲コウとオダギリジョー他の撮影があるとかで、来てはいなかった。犬童監督は、大きな栗みたいな頭をされて、割と大柄な感じの人だったが、なんとなく陶器の光沢めいた声で、ポツポツと喋るので、ホワッとした好感を持ったような気がする。『ジョゼと虎と魚たち』を見て胸撃たれていた頃は、てっきり女性の監督に違いないと信じ込んでいた(名前の読み方が判らないし…)が、男性であった。監督は五年前に『メゾン・ド・ヒミコ』の構想を練り始めた。脚本を書き出した頃は、プロデューサーからも、「売り方がワカラナイ」と企画を断られていたらしい。監督も、プロデューサーも口を揃えて「好みの分かれる作品だ」、と言う。柴咲コウとオダギリジョーの魅力に惹かれて足を運んだ観客にとっては、充分に満足のいく作品だったのではないかと思う。柴咲コウ演じる「サオリ」という女性像は、この人どういう女性なんだろう?と思う以上に柴咲コウそのまま、という印象であったし、オダギリジョーは、男の私でももうちょっと見ていたいと思うくらい、かっこいいし、ナイーブだった。『メゾン・ド・ヒミコ』というのは、「サオリ」の父親である元ゲイバーのママ(ヒミコ)が開いたゲイのための老人ホームのこと。オダギリジョーはヒミコの恋人で、「サオリ」は小さな塗装会社の事務をしているんだが、幼い頃母親と自分を捨てた父親(しかもゲイ!)を恨んでいるわけである。その「サオリ」が「メゾン・ド・ヒミコ」にやって来ると、何となく『ガープの世界』とか、『カッコーの巣の上で』を連想する様相を呈する。個人的には柴咲コウの勤めている塗装会社の「しみったれ感」とか、心の隅でバニーガール姿に未練をもってる「サオリ」の「垢抜けなさ具合」に胸撃たれていたし、そこにオダギリ君がやって来るあたりはゾクゾクする感じさえした。どちらかというとそっちメインの話が見たかったように思う。というのも、ちょっと話が逸れるが、ちょうど長嶋有の『泣かない女はいない』という短編をぱらぱら読み出したところで、映画の中でもそういう女性の心象風景が開けてくるかも、と期待したからであった。というわけで、個人的に満足した。が、作品自体がもっているナイーブさにはあまり入り込むことはなかった。監督は、冒頭にでてくるブランチの食卓風景がこの映画の肝だというような発言をされていたが、私としては、中盤のクライマックスでみんなが『また会う日まで』に合わせて輪になって踊るシーンが実に心に染みて、忘れられない。
Sep 10, 2005
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最近、気持ちが『閉じている』ような気がしてならない。 事実まあ、閉じているのであろうが、 その実態というのは曖昧なもので、 一冊の本を読み通す集中力が続かない、とか 特に映画を見る意欲が湧かない、とか ベッドから起きあがる気力が萎えたり、 次の行動へ移る『踏ん切り』と『瞬発力』が衰えている、 といったような怠惰の感覚が散見されるわけであるけれど、 しばらくそんな状態である。 今、『瞬発力』と書いてみて、 その言葉と堅く結びついていつも連想されてくるのは、 マレーネ・デートリッヒの出ていたあの『モロッコ』 という映画である。 砂漠へ進軍していく一兵士(ゲイリー・クーパー)を追って、 ハイヒールを脱ぎ捨て砂漠へ踏み出していく、あの光景である。 『瞬発力』といってもあれは恋愛の『瞬発力』であるけれど、 開高健、『流亡記』の結句「砂漠へ行こう。」とか、『夏の闇』 の末尾「明日の朝、十時だ。」と通じるものを感じないでもない。 ともかく、そのような『瞬発力』(同時にバッタやイナゴの跳躍力を 思う)が、ない。 端的に、これから取りか掛からなければならないことが 山積みになっていて、それを前にしてたじろいでいる 生欠伸状態であるわけだが、そこから脱するべく、 私のしたことは、日記をつける(気乗りしない)ことではなく、 『地獄の黙示録』をレンタルしてきたことであった。 (さっきは映画を見る気がしないといっていたのに… 事実まだ見てないが…) 戦争映画を見ると、特にヴェトナム戦争映画を見ると、 ちょっとだけ自分がリセットされたような気がするのは 何故か? これまではそうでも、今回は違うかも知れないが… 「自分自身に還れる場所」? 違うな。 ともかく、本来向き合う方向へ、ちょっと遠回りしていく 自分なりの試行錯誤か。
Sep 1, 2005
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ちょっと前まで落語になんかほとんど興味はなかったのに、 たまたま桂米朝を聴いているうちに、 気が付くと、一生懸命口まねしていて、 せっせせっせと聞き取りしながらノートに書き写し、 仕事の行き帰りもブツブツブツブツ唱えだし、 いつのまにか、人前でやってみたくなるくらいに 暗記していた。 『天狗裁き』といって、 見てない夢の話を巡って、女房に始まり、 隣家の男、家主からお奉行様、果ては大天狗にまで 喋れ喋れと攻められる男の噺である。 さっそく、夏に帰省した折りに、 友人宅の座敷を借りて、友人相手にやってみた。 「まったく暇な奴…」 と笑っていた友人にも割とウケて、 こっちとしては大いに満足して、気が済んだ。 とはいえ、 ひたすらCDを聴いただけで、 実際の身振り手振りは判らない。 自分なりに工夫してやってみたところ、 100円均一の安物扇子が、噺の後にはへし折れていた。 DVDも手に入るというので早速購入して研究。 しかしまあ、 喋ることの快楽、をはっきり感じた。 歌うことも、そういうもんなのか。 落語を喋る以外にも よく、喋ったなあ、とこの夏は思った。 でも、その饒舌が去っていって、 ようやく、いま沈黙が来たのか。 「出す」ことの「悦」 これは夢中にさせてくれたけれど、 黙りたくなって黙ってみると、 妙な不安がやってきた。
Aug 30, 2005
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いつだったか、どこでだったか、誰かが高見順と開高健の 類似性を指摘していて、例えばそれは、高見順が1940年代、 陸軍の報道班員となり、ビルマへ従軍し、そして、晩年癌を患い、 五十代後半でこの世を去ったという、ただ、その二つの点と点だけで あったけれど、開高は「高見順伝」という短い文章を書いていて、 それは読んだことはなかったが、いつかどこかで、高見順の 『いやな感じ』だけは読んでおこうと、頭の片隅に残っていた。 図書館の書架でたまたま目に留めて、ぱらぱらと捲ってみると、 所々に三角形や、碁盤のような図形の挿絵があるのに心惹かれた。 でも、「転向」という響き、「社会主義運動」というある種の 「におい」が伸ばしかけた手を押し留めていた。 盆休み、実家に帰省すると、前半は、とにかく飲み続け喋り続け、 ひたすらに喋り続けたあとで、自分の中の饒舌がごっそり外へ 抜け落ちた。もう喋り疲れたな、と思っていた夜、本棚の片隅に たまたま、『いやな感じ』がある。新品のまま、古本屋に流れて、 偶然父か母かが買い置いたのか、更に誰も読まないで、注文票まで 入ったままである。 面白くなかったら、途中でやめよう、とゴロンとなって読み始めるや、 なんだろう、これは、途中で本を置くのも惜しいくらいの吸引力が ある。変だな、予想とだいぶ違う。 1920年代末。 将校の暗殺計画に加わって死刑を免れた(死に損なった)アナーキスト でテロリストの「俺」が赤線地帯にやって来るところから小説は始まる。 娼婦に一目惚れする「俺」。 饒舌がある。粘度のある会話体が、湿り気を帯びながら高速回転して 迫ってくる。コミカルなのに、熱度があって、根無し草なのに、何かの 底のような世界をしぶとくキラキラ観察している。 《ビルマル(娼婦)として最低の私娼窟の女に啖呵を切られ、そして 女郎屋でもズドン(拒絶)を食わされた。ましてやそれより格が上の 芸者は、いくらミズテンだって駄目にちがいない。行くだけ無駄だ。 そう思って俺はいやけも刺していたが、あのクララのことを忘れられ なかったせいもある。人目で俺の惚れた女がど淫売であることは俺を 悲しませていた。悲しみは人間を疲れさせる。》 《つまり、なんていうか、新橋赤坂の一流芸者だって、ノイ(玉ノ井)や メイド(亀戸)の安淫売だって、もとをただせば同じなのである。 周旋屋のいいのに会えば、一流地の芸者の置き家に下地っ子として 入れて貰えるが、ひょんなめぐり合わせで、同じその女の子が吉原の 貸座敷(女郎屋)に奉公させられるという場合もあるのだ。 玉のよしあしということだって、もちろんあって、見るからに お酉さまの熊手の売れ残りみたいな子が、一流地の芸者になろうたって、 そりゃ無理だけど、どんなきりょうよしでも、ちょっとした出発点の ちがいから、芸者になりそこなって、おいらんになったりする。》 テロリストとしてのやるかたない殺意を犬にぶつけ、 無意味な殺人を犯し、再び軍人暗殺を企み、朝鮮に渡るが、 当局に眼をつけられたところを、内地から働きに来ていた女中に 救われたりする。二人は連れだって内地へ逃げるが、 このあたりは、さながらスパイ映画の躍動がある。 やがて殺人のほとぼりを冷ましに北へ逃げ、再び、大陸へ渡り、 上海から、奥地へ… 「枝豆くさい指」という章がある。 朝鮮から連れ帰った少女と呼んでもいいくらいの女中の娘が、 東京の濁流に放り込まれ、しかし、活き活きとした生活者として働く けなげな光を切り取っている。軽みがあるのに、核心をつくような 眼の付け所に、唸る。 『高見順伝』の中で、開高健はこう書く。 高見順はことに会話体の駆使で天才的な鋭敏を発揮した。 かすかな匂いのようなもののなかにひそむ人の心の本質を 彼と井伏鱒二ほど含みゆたかに、かつ鋭くとらえた人はなかった。 卑語、俗語、その時代、その時代の流行語の浮沈にぴったり添い寝 して高見順は生きた。 彼はうつろいやすい習俗のかげにある人の顔や心を、 ほとんど天才的な“軽み”をもってしゃくいとっていったのである。 このあと、高見順の他の作品にも少しずつ手を伸ばす。 そうして思うのは、高見順は生まれ持ったる スタイリスト(文体派)ではなかったこと、 その眼も、筆遣いも、長い時間をかけ、大器晩成として、 この『いやな感じ』に到達したのだということ。 遺産である。
Aug 26, 2005
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もう、二週間以上前の話になるが ついに『開高健記念館』へ行ってきた。 その直後にブログに書こうと思ったのだけれど、 何となく言葉が舌の上で続いてくれず、というか、 ヒシヒシと感動の余韻が持続していたから、 それだけで充分に満足していたのであった。 いや、というよりも、 先日、折田裕さんのブログにもあったけれど、 ブログを日々更新するという僅かな奮起さえ 持続できなくなっていたのだと思う。 けれども頭の片隅にそのことはちらついていて、 やっとのことで、今日は書く。 『夏の闇』、冒頭部の直筆原稿を見た。 あの小説がこのようにして、原稿用紙のマス目を埋めていったのだ、 ということに、震える気がした。嬉しいような、もどかしいような、 すうっと背筋を抜けていく感動だった。 開高氏の書く文字は、礼儀正しさと、可愛さを備えている。 フワッと肉感的なところが見えるのに、 鋭くはないがキリッと冴えたものが、すぐに控えている。 その文字をなぞっただけで、来た甲斐があった気がした。 その日はギリギリのところで雨を持ち堪えたような 水気の多い気候だった。 しっとりとしたその空気が、 主をなくした邸宅にはとても似つかわしく感じられた。 そして、これはとても大事なことだと思うけれど、 開高健という作家を、自分なりの肌合いの感覚で、 ぐっと身近に引き寄せたような気がした。 でも、帰路について、自分の部屋で改めて彼の小説を 読み始めると、薄暗い書斎の前で感じた親密さは するするとほどけて、もっとずっと、その言葉の先へ、 よじ登っていくしかないのだと感じた。
Jul 28, 2005
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これから盛夏に登り詰めようというのに、 すでに夏バテの兆しか、食欲が減退している。 先日、数学者の友人と、チクチクジワジワ飲んでいても、 すぐに満腹感がやってきて、 酔いもグルグルすぐ回る。 だから酒量はピタリと減ったのだけど 気が付くと、6時間以上も喋り続けていた。 数学者のオッチャンは生まれが京都だから、 喋っていると、ついついこちらにも京都訛りがうつってくる。 とはいえ、こちらには関西風アクセントの素地がないから、 細やかなアクセントの強弱をことごとく踏み外してしまう。 ニセ関西弁ほど胡散臭いものはないのだけれど、 それでもウットリその気になって、大声で喋っている。 そんな風に思うようになったのは、 落語をちょくちょく聞くようになってからで、 それより以前には、 開高健の『青い月曜日』で使われている 大阪弁表記に、温かみを感じたこともあった。 方言を小説に置き換える苦労というのはいろいろあるのだろうが、 中上健次の紀州訛りの表記が生々しく、 苛立ちと体温がこもっているように感じられるのに較べ、 開高の大阪弁表記にはコミカルさを含んだ切れがある。 私の素地となっている訛りは いわゆる名古屋弁であるが、 この言葉は、東京に来た時点で、ほぼ、封印された。 封印、といっても、意図したわけでなく、 スッと言葉が引っ込んだわけである。 訛りのある人と話していると、割合、すぐ相手の語りが うつってしまう体質であるが、 母方の訛りの基調には長崎やら佐賀があるし、 もともと西の方に訛りの憧れがあるようだ。 数学者のオッチャンにとってみれば 落語といえば、「江戸」ということらしく、 一般的にどうなのかは判らないが、 私の場合は「上方」と連想する。 あんな風に喋れたら、気持ちいいだろうナ、と思う。 桂枝雀が面白かったから、 桂米朝も面白いんだろう、と図書館で借りてきて聴いているのだが、 米朝は、笑かす、というより、聴かせる、という感じだ。 オッチャンによると 枝雀は「インテリ臭を隠そうとする必死さ」が鼻につく、 ということだったが、 そう言われて聞き比べていると、 確かに そんな気がしてくるのである。
Jul 6, 2005
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久しぶりにブログを更新して、 にわかに活気づいたので また、書くのだけれど、 この6月は、ひたすらに下降の日々であったので、 思い出すのはただ、足裏の圧痛(足裏に病を負ったのであった)と アルコールと笑いの向こう岸にいる数学者の友の顔だけである。 その友人も手首、手の甲に病を負い、 同類項の憂鬱を笑い飛ばすためにも 再び一杯やりたいところだが、 今のところ、アルコールは諸悪の根源であろう。 森に腹をえぐられ、草原に額を擦りつけるような 低空飛行からじょじょに持ち直し、 ゆらゆらふらふらしている折りに、気が付いたのは 「笑いが足りない!」ということであった。 さて、そこから「もっと笑いを!」という心がけで、 日々をチョボチョボ綱渡りしつつ、 『笑いの治癒力』(創元社)という本が目にとまり、 『ユーモアの心理学』(サイエンス社) 『お笑い進化論』(青弓社) 『落語DE枝雀』(ちくま文庫) 『いとしこいし漫才の世界』(岩波書店) 『別役実のコント教室』(白水社) なんかを、のたりくたり読み流れ、 『やすきよ』の漫才ビデオを借りてきたり、 『爆笑オンエアバトル』やらその他お笑いのDVDを借りてきて、 ひたすらに笑いを求め、 寝るときには桂枝雀の落語をイヤホンで聴きながら トロトロ繰り返してきたわけであった。 オモロイ漫才、聴きたいナ と、思いつつ、でも今のところ一番オモロイナと思っているのは やっぱり『ラーメンズ』ってことになってしまうのだろうか・・・ (漫才じゃないけどネ) でも、まあ、そんな中、一つの切っ掛けを得て、 戯曲なんかを読むのが愉しくなった。 学生の頃は、別役実の不条理劇が好きでよく読んだけれど、 ちょうど、先月胸に染みた 『クローサー』の戯曲が本屋で平積みになっているのを発見。 台詞とト書きだけで読んでみても、胸をくすぐられた。 と、話が逸れたが、 やっぱり『もっと笑いを!』、だな。 私が今やっている仕事の業務内容は 主に『子供を笑わせる』、ということなのだが、 本を読んだからといって、 ゲラゲラ笑いはしないわナ。
Jun 30, 2005
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『PLAYBOY』8月号は、日本版創刊30周年記念として、 『ノンフィクション 開高健』という特集を組んでいる。 『洋酒天国』を創刊した サントリーのコピーライター時代、 『ずばり東京』、『ベトナム戦記』 『フィッシュ・オン』、『オーパ!』へ連なる ノンフィクションライターとしての歩み。 直接、間接的に開高氏を知る多くの顔ぶれが 畏敬と慕情を込めて、改めてその軌跡を辿っている。 が、私にとって、この特集の最も大きな収穫は、 現在は記念館になっている、茅ヶ崎の自宅、 その書斎の机上に並んでいたベトナム戦争関連の書物が、 写真と共に紹介されていることだった。 先日、鎌倉、極楽寺坂の成就院で 紫陽花が見事に咲いているというので、見に行ったが、 茅ヶ崎までは脚を伸ばすことができなかった。 ちょうど、ヴェトナム戦争終結30周年に合わせて、 開高健記念館でもヴェトナム特集を組んでいるという 話なので、来週あたり、また、出掛けてみるつもりだ。
Jun 29, 2005
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スパイク・リーは、私にとって、 徹底的に『食わず嫌い』の監督の一人であった。 これまでにはスパイク・リー監督作だと意識せずに見た 『マルコムX』(92)が一本あるきりで、確か、これにも 特に意識はそよがず、以後、ノータッチの日々であった。 それが、先日ふとしたことで『25時』(02)を見、 鮮やかな閃きに撃たれ、フィルムの上に 『Spike Lee Joint』の文字を発見。 大いに色めいた。 私は、多分孫の代まで続くと思われるくらいの 『熱しやすく冷めやすい』質なので、 鉄を熱いうちに打つためにも、 ここで、『Spike Lee Joint』を網羅しておかなければ ならんと痛感。 で、この数日、 『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89) 『ジャングル・フィーバー』(91) 『クロッカーズ』(95) 『モ・ベター・ブルース』(90) 『キング・オブ・コメディ』(00)と立て続けに見、 まだ、 『クルックリン』(94) 『スクール・デイズ』(88) 『ゲット・オン・ザ・バス』(96) が後に控え、その他まだいくつかあるわけだが、 すでに、食傷の気配がむくむく背を起こしかけている・・・ 途中でこう言うのもなんだけれど、 ひとまず 『ジャングル・フィーバー』(91) 『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89) 『クロッカーズ』(95) は必見だと言える。 ちなみにこの三作は上から、私的評価の高い順 となっている。 そうすれば『25時』の洗練と深化にも撃たれるだろう。 たぶん『クルックリン』は 『ジャングル・フィーバー』(91) 『ドゥ・ザ・ライト・シング』(89) とよく似たテイストなんだろうな。 ちなみに、『ジャングル・フィーバー』(91) でスパイク・リーの恋人役をやってた ハル・ベリーが気になったんで、 『チョコレート』を見たところ、 女優としての発展と成熟が静かに輝いていた。 が、『ジャングル・フィーバー』より、 『ドゥ・ザ・ライト・シング』の方が 足跡が一段とでかく、深く、苦い。
Jun 9, 2005
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開高健がこの世を去って、16年が経つ。 とはいえ、16年前には私はまだ小学生で 新聞の見出しを目に留めた記憶が あるばかり。 作品を読み始めたのは 大学生になってからで、 それ以来、いわゆる『闇三部作』の 『輝ける闇』と『夏の闇』の文庫本は ボロボロになるまで持ち歩いている。 炯眼の小説家、卓抜のコピーライター 豪放磊落の旅人、魑魅魍魎の食通 縦横無尽な読書家、大胆不敵な釣り師、 鬱の哲人…いくらでも名の付く巨人である。 が、文章は形容詞から腐る... 開高健はそのことをよく知っていた。 昨年、同じ写真家高橋昇によって『男、が、いた、開高健』が 出版された。今回の内容も写真としては重複するものも多いが、 紙質も上等になり、『オーパ!』シリーズの取材に同行した 思い出のエッセイも愉しめる。 しかし、開高健の人柄や思い出を偲ぶ書物は数多いのに、 文学作品を論じたものが少ないのはどういうことか? 今になって、書店の店頭で開高健の本が平積みにされているのも 驚くが、出版されればついつい飛びついてしまうのも不思議だ。 エッセイの中にもあったが、 要は、『騙される』ではなく、完全に『誑し込まれ』ているのである。 いつだったか、村上春樹の談話で、 『文章の力で読者を誑し込ませる』ことをジョン・アーヴィングから 学んだ、というようなことを喋っていたが、 いま多くの読者が村上春樹を求めるみたいに、 私は今もって、開高健に誑し込まれている。 昨日から『青い月曜日』を読み返している。
Jun 3, 2005
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17「これは映画ではない。現実です」とテレビの中でその犬瀬が言った。 「――何言っちゃってんのかしら、この人、昔から変な奴だと思ってたけどさ」不意に背後から慶子の声が聞こえた。振り返ると戸口に慶子が立っていて、疲れたように口元に小さな笑いを浮かべていた。そして円卓のところまでやって来て「ただいま」と小さく鼻で笑った。「――ねえ」と皐がフォークをかたんとテーブルに置いて言った。「そういうことは、テレビ見て言うんじゃなくて、本人に面と向かって言うべきなんじゃないの」(皐は慶子の顔を見もしなかった)そして、その口調ははさっきよりもずっと、なんというか、毒のある言い方だった。(よく聞こえてんじゃん、と樫村さんが子どもじみた変な口調で呟いた)「――それより、皐ちゃん、そのヘッドホン取ったら?今更だけどさ」と、僕は言った。「みんなで食事してるんだし」皐は明らかにうざったそうな顔をして、ヘッドホンに右手をかけた。そしてこう言った。「どうでもいいけど、――あたし、あんたのことあんまり好きじゃないのよね」「あ、――そうなんだ」とちょっと間が開いてから僕は言った。どうして突然そういう話になるのだろうか。他に何と言えばいいのかわからなかった。他人が僕のことをどう考えるかということは、僕にはどうすることも出来ない他人の領分のことなのだ。「ねえ、あなたちょっと失礼なんじゃない?」と慶子がむっとした口調で立ったまま言った。(こういうのはよくあることだ)「そうかしら」「そう思ってても、わざわざ口に出すことじゃないわ」「いや、いいんだよ、何か判る気もするよ」と僕は曖昧に笑いながら言った。「やっぱりさ、あんた馬鹿なんじゃないの?」と皐が言った。「ほらね、そうやって、自分を責めれば済んじゃうのよ」「いい加減にしなさいよ」と慶子が言った。(飛躍してるねえ、と僕)「好き嫌いで人を判断したらつまらんぞおっ」顔を赤くした樫村さんが口を挟んだ。「いい?そんなこと言ってるから」と皐はやれやれっといった顔で言った。「――誰か一人しか救えないって状況になっても、あんた達はみんなにいい顔して誰も救わなかったりするのよ」「うーん、そんな極限の話されちゃなあ」と樫村さんは陽気に笑った。「考えなさいよ」と皐は言った。「この際だから言わせて貰うけど――私、昔から感じてたのよね。あんたたち物分かりのいい顔して、――他人に甘いのよ」「それがどうしていけない?」と僕は言った。それぐらいの批判なら僕は切り返すことができそうだった。「どうして?」とうんざりした声と表情で皐は言った。「じゃあ、あんたはどう思うのよ?」できることならすぐにでも答えようと思ったが、なかなか言葉が出てこなかった。我々は確かにどこかへ踏み出したいと思っているのだけれど、まだそれが出来ずにいるのかも知れなかった。向こう側に行きたいとでもいうのだろうか。でも、向こう側ってなんだ?僕は考えた。もし、みんながみんな、何かを迷っているとしたら、僕は何となくその気持ちがくみ取れるような気がした。誰もが様々なトラブルを抱えていたり、上手く言葉で説明できないことをたくさん抱えているのだ。我々はいつも本当に理解することの手前にいる。僕は言った。「答えが出るようなもんじゃないだろ」「ふん――」と皐は言った。彼女は少し考えているようだった。そして言った。「確かにあんたたちは顔に似合わず真面目だわ、真面目すぎるくらいよ、こうやって黙って人の話を聞いてるのもイイ子ちゃんって感じだし、真面目で、しかも信じられないくらい聞き上手だわ」「よっ、優等生!たまには反抗しろよ!」と樫村さんが叫んだ。が、皐ににらまれて黙ってしまった。「そういうあなたも真面目じゃないかしら?」そのとき玉がぽつりと言った。なんだかその優しい言い方が、一瞬僕の神経を逆なでるような気がした。「あんたたちの真面目にはルールってものがないのよ」と皐は言った。「――自分の中にルールのない人間は、自分にとって何が大事なのか全然判っていない人間なのよ、だから奇妙に優しくて、究極の選択が出来ない」「究極の選択って何だ?」と僕は訊いた。「そんなもん、何だっていいのよ」「何か甘いもの食べたくない?――ケーキとか」と玉が的はずれなことを言った。(アップルパイがあるよ、と僕は皿を押し出した)そして僕は何かが奇妙だと感じた。「――それはそうと、ねえ、健」と慶子がゆっくりとした口調で言った。我々は一瞬口を閉ざし、緊張して慶子の次の言葉を待った。「あのね――さっきのことなら、気にしなくていいの」と慶子は言った。そして少し考えてから、こう言った。「私たちだってね、多分、多かれ少なかれ犬瀬を車で轢いちゃいたいってことくらい、一度は思ったことあるのよ」慶子のその言葉に、しばらく誰も上手い返答が見つからないみたいに黙り込んでしまった。そして、堪えかねたかのように、「フッフフフ――」と玉が笑った。「まいったねえ」と樫村さんが苦笑いしながら言った。ふと見ると、驚いたことに、森田までが口を押さえ、声を殺して笑っていた。「すごい」と僕は言った。「馬鹿じゃないの」とうんざりしたようにぐるりと黒目を動かし、頭を振りながら皐が席を立ち、玄関から歩き去っていくのが見えた。でも、誰も彼女を呼び止めなかった。「――私は、町のはずれの廃屋の中で、」とテレビの中の犬瀬が言った。「一人の聖人に会うことができました。――彼は、ぼろぼろの布きれにくるまって、屋根のない住居の片隅にうずくまっていました。年齢は七十歳、いや、それ以上かも知れません。ろくに食事もとれず、ガリガリに痩せていました。そして私は、その彼の皮膚に、体中、銃弾の痕のような傷ができているのを見ました。町の住民が一人、また一人と虐殺されるたびに、彼の体の内側から皮膚を食い破って、悲しみが吹き出してくるのだといいます。どんな治療をしても意味はない、誰かが堪えるしかないのだといいます。そして毎日彼を慕う町の住民が、今日も数多く彼のもとを訪れているといいます。私は思います。痛みを引き受けなければ何も語る資格はない!――」犬瀬の感情がだんだんと高ぶっていくのがわかった。「今日、彼の身の回りの世話をしている少年から、ある興味深い話を聞くことができました。――彼が昨夜、ある予言をしたというのです。私はこの国、この破壊された町にやってきて、感じています。もちろん皆さんは迷信だと思われるかもしれません、彼は一言、こう言ったといいます。――それはやってくる、と――」――不意にテレビの画面が大きく振動した。真っ白な砂埃が犬瀬の頭上から落ちてきて、カメラが揺れ動き、一瞬犬瀬が画面から消えた。 次の瞬間、犬瀬は崩れかけた壁に手をついて、体を屈めながら叫んでいた。「――揺れています!じ、地震です!もの凄く大きな縦揺れを感じています!こ、これは――」と犬瀬が頭を手で覆いながら舗装されていない街路の真ん中まで歩き、立ち止まった。犬瀬の背後の廃墟から出てきた女たちがうろたえながら門の前を行ったり来たりしているのが映った。画像が大きくぶれて、何度が画面が真っ黒になって通信が途絶えた。犬瀬の怒鳴り声だけが聞こえていた。 我々は息をのんでテレビの画面を見つめていた。僕は鳥肌が立つのを感じた。「うっそー?――もう、なんなのこれ?」と慶子が怒ったように言った。「地震?」と僕は言った。「本当にそれがやってきた」「まさか」と玉が言った。 慶子はテレビから目を離さずに皿の上に残っていたローストチキンを取ろうとして、見当はずれの場所を探っていた。「すごすぎる、ああ、びっくりしてお腹すいたわ」「なんというか――」と僕は言った。「どうします?」と塩野健が不安げに言った。「どうしようもないわよ」と慶子が答えた。「どうするってどうするのよ?」 我々は円卓に座ったまま、テレビを見つめていたが、通信は途絶えたまま映像はスタジオのアナウンサーを映す画面に切り替わってしまった。僕は想像力の導火線が音を立てて消えていくのを感じた。 そして、「やれやれ」と僕は言った。「もう食べ物残ってないの?」とほとんど片づいてしまった皿を見ながら慶子が言った。パーティーが終わったような物寂しさが何となく部屋全体に漂っていた。「さて」と僕は言った。「さてってどういう意味?」と玉が訊いた。「我々はどうしてここにいるんだっけ?」(ハハハ、と慶子が笑った)(――皐におめでとうも言わなかった、と僕は思った) 気がつくと、我々は再び、本当に何をするために生まれてきたのか記憶を失ってしまったマネキン人形のように円卓に座り、無言でのままで向き合っていた。(わけもなく、と僕は思った)誰も観察者のいないミニチュアの街のミニチュアのアパートのミニチュアの部屋に閉じこめられた精巧な生きている人形のように、僕らはそれから長い間じっとしていた。まるでそうしなくてはいけないと固く信じ込んでいるみたいに。あるいは何かの罰でそうさせられているみたいに。あるいは、まるで目に見えない危機をじっと息を潜めることで切り抜けようとしているみたいに。誰もが必死で、しかし互いにそう悟られないように耳を澄ましているみたいに見えた。そして、部屋の中はテレビの音を除けば、とても静かだった。 僕はもう一度、みんなで屋上に上がってみようかと考えた。そして、鳩ヶ谷ののんびりとした街並みを眺めてみるのはどうだろうか、と。 その時、「――どうして?」と玉が言った。「ねえ、どうしてそんなこと訊くの?」 その言葉にはほんの少しだけ、見えないトゲがあるようだった。「言っちゃえよお」と慶子が冗談めかして言ったけれど、その台詞はその場の雰囲気にそぐわなかった。「どうしてって――」と僕は言った。そして考えた。今日一日のことを。しかし、何も言葉が出てこなかった。そして、玉の寛容さを試すみたいに、言った。「――やっぱり、理解の手前で踏みとどまっちゃうんだ」 でも、玉は表情を変えなかった。(何が起きたっていうんだ?と僕は思った)そして、そう言ってから、こう付け足した。「――それを嘘くさいとも自分で思うんだけどね」 しばらくしてから玉が言った。「それは必要な言葉じゃなかったの?――あなたにとって」「・・・・・」「――ごめんね、でも、理解の前で踏みとどまる、なんて、言ったそばから突き放してるみたいで、何か後は知りませんって感じで、私、なんだか気分がムカムカしちゃったの、いったい私どうしたのかしら?」 玉がそう言ったあと、我々は再び黙り込んだ。さっきと同じように。まだそこから一歩も前進していなかったみたいに。――そして、それは遅れてきた何かのように、しばらくしてから突然やって来た。 まず、森田の部屋で何かが崩れ落ちる音がした。からっぽの皿がかすかな音を立ててぶつかり始めた。円卓が、椅子が、テレビが、壁が、床が、空が、一斉にガタガタと揺れ始めた。 <了>
May 30, 2005
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16 その犬瀬がその時、「俺は死ぬのは怖くない」と言ったのだった。 学生の頃、犬瀬は戦場で活躍するジャーナリストに憧れていた。確かに小学校の頃の落書き帳は戦場を駆け回る兵士の絵や、戦車、対空砲、機関銃、爆撃機、軍艦、廃墟になった街並みで溢れていたし、校庭の端にほんの少しの盛り土でも見つけると、銃に撃たれて転がり落ちる兵士の真似をせずには気が済まないような少年だった。ノルマンディー上陸作戦の話や、ベルリン陥落の話を放課後に飽きるほど聞かされたり、彼の家ですり切れたビデオテープに録画された「地獄の黙示録」や「史上最大の作戦」、「ディア・アメリカ」といった戦争物の映画やドキュメンタリーを無理矢理見せられたりしたものだった。一緒に名古屋から上京してきてからも、街の映画館で「ディア・ハンター」が上映されることがあると、彼は必ず見に行ったし、そのせいで僕も「ディア・ハンター」だけは今までに五回くらい付き合わされて見ていた。彼はロシアン・ルーレットや動乱のサイゴン市街など、の場面がお気に入りだったけれど、僕も僕なりにこの映画を気に入っていた。例えば僕は結婚式のシーンが最高だと思うし、ロバート・デ・ニーロがメリル・ストリープにふざけてキスをしようとするところや、帰還パーティーで彼を待っている取り巻きがいなくなって、メリル一人きりになるのを立て看板の後ろから伺っているシーンなどは、否応なしに胸を打たれる。メリルはデ・ニーロの親友の恋人なのだ。その親友はサイゴンで死んだ。そして、ペンシルヴェニア州クレアトンというひなびた鉄鋼の街を見るたびに、僕は郷愁に駆られ、訳もなく懐かしさに胸が満たされるのだった。 いつだったかこの映画を、丸山慶子と犬瀬と三人で見にいったこともある。慶子は「どこがいいのか全然わかんないわよ、暗いし、残酷だし、ねえ、ちょっとどこがいいんだか私に説明してくれない?」と言った。「私だって馬鹿じゃないのよ。風景も人物もものすごく丁寧に念入りに描かれてるのは解るわよ。お金だってすごい掛かってるでしょうし、こういう映画が毎年毎年ぽんぽん作られるもんじゃないことだって知ってる。でもなんであんな風に人が死ぬ映画を観てあんたたちは楽しいの?」「これは男の友情の物語なんだ」とすぐに犬瀬が答えた。「あァ?」と慶子は突っぱねるような声を出してから言った。「そういうことね、女の私には判らないってわけね、ああそう」「いや、そうじゃない、そうじゃなくて、これは俺に関係のある物語なんだ」 映画を見終わった後、我々は大学通りにある小さなバーで食事をしながら酒を飲んでいた。薄暗く、黒い壁に黒いソファー、小さなテーブルの上の蝋燭の明かりがぽつぽつと仄白く燃えていた。大学の近くにありながら、学生よりも、教授連やインテリ風のサラリーマンなどでいつも店は繁盛していた。壁には古い外国映画のポスターや、ポストカードが所狭しと貼ってあったが、どれも薄汚れ、煙草の煙で黄ばんでいた。単館上映の通好みの映画の広告や前衛演劇のチラシなどが入り口脇にぶら下がっていた。入り口の扉に貼ってあるのは「オブローモフの生涯より」というロシア映画のポスターだった(僕はこれを森田と二人で見たことがある)。安っぽいラジカセからはシャンソンやジャスやカントリーミュージック、大時代的なゆっくりとしたバラードや、聞き覚えのある古いロックが無節操な気まぐれで選曲されていた。けれども僕はこの店が好きだった。いつまでも奇妙なよそよそしさが抜けきらなかったが大体においてリラックスすることができた。犬瀬も口に出しては言わないがその店を気に入っているようだった。犬瀬は青島ビールを飲み、慶子はカルーアミルクを飲んでいた。僕はそのとき親知らずが痛み始め、酒が飲めなかったのでコーヒーを飲んでいた。テーブルの上には椎茸のバターソテーとサラダスティック、梅唐辛子のパスタとポップコーンが並んでいた。「つまりね」と犬瀬が続けた。「俺という存在と、ヴェトナム戦争なんていうものは実際何の関係もないかも知れない。俺はアメリカじゃなく日本に生まれたし、生まれたときには戦争は終結していた。でもね、何故か知らないが俺は小さい頃から戦争のことが気になって仕方がなかった。まあ、単純な少年の憧れってものもあっただろうよ、それから、俺の親父がもしアメリカに生まれていたら、世が世ならヴェトナムに行ってておかしくない世代だっていうのも強引すぎるし、何の説得力もないかも知れない。でもだからこそ、俺は偶然の力だけじゃなくて自分の意志で本を読み漁ったりビデオを見たりしたんだ。自分をそこに関係付けようとしたんだ」 犬瀬は少し酔いが回っているようだった。(――ふん、と慶子が鼻から息を出した)そこで一端話を切ると、青島ビールの空き瓶を振り上げて新しいものを注文した。僕が覚えている限りでも五本以上を彼は飲んでいた。(どうしてこんなに細かいことを僕は覚えているのだろう?)そして向き直ると話を続けた。「いいかい?慶子、それから準」「父親みたいな言い方しないでよ!」不潔なものを振り払うように慶子が言った。でも、犬瀬はそれには取り合わなかった。「こんな時代に生まれた俺たちにはね、自分の存在とか魂とか、(タマシイ、と慶子がゆっくり繰り返した)そういうものと本当に関わりのある何かなんてこれっぽっちもないんだよ。いや、いつの時代でも大半の人間には本当に関わるべき切実な問題なんてないんだ。俺たちは人生の傍らを通り過ぎていく風みたいなもんだ。すっと通過しちゃうんだ。そして俺たちの次には新しい連中がいくらでも控えている。わかるかい?俺は別に悲観的な考え方をしてるわけじゃない。お前らがそう思わないのは端的に言って、眼を背けてるだけだ」犬瀬はそこまで一気に話すと蝋燭の火をじっと見つめた。興奮しすぎた自分をテーブルの上に置いてじっくり観察でもしているようだった。そしてふっと小さく笑った。そしてこう言った。「でもそんな人生は嫌だ」 慶子はグラスを握りしめて何も言わなかった。「可哀想な人ね」といういつもの口癖も言わなかった。僕も黙ってコーヒーをすすり、しばらくしてから「話題を変えようか」と言ってみた。しかし誰も反応しなかった。更にひとしきり沈黙が続いた後に慶子が口を開いた。「だからあんたは戦争を見に行きたいのね?」「ああ、それが小学生の頃からの夢だよ。そういえば、準の小学生の頃の夢は映画監督だったよな?」「そうだったかも知れない」と僕は言った。それはごまかしではなかった。本当に自分の記憶に自信が持てなかったのだ。誰かの言ったことや、料理の献立などはよく覚えているのに、自分のことになるといろいろなことがぼやけてしまっていた。「犬瀬と一緒にたくさん戦争映画を見て、入り口は同じなのに出口を出てみたら全然違う場所にいたんだよ、いろんなことがあったんだ、多分。でも僕は戦争映画は撮らないだろうね」 慶子が初めてくすくすと笑った。「もういいわ、映画のことは森田に任せておけばいいのよ。昔から犬瀬は『戦争の人』ってクラスで呼ばれてたわ。そして準は『記憶の人』。森田はそもそもの始まりから『映画マニア』だったし。ねえ、どうして私東京まで来てこんな変人たちに囲まれて暮らしているのかしら?」「森田に電話してみようか?この店だった来るかも知れない」と僕は言った。それは思いつきだった。鳩ヶ谷から池袋までこんな時間にどうやって来る?「無理だよ、あいつは対人恐怖症だから」と犬瀬が言った。(ウッソー?慶子が叫んだ)「――でも、俺が『戦争の人』と呼ばれるのはわかる。森田も確かに変人だ。でもなんで準が『記憶の人』なんだ?」「さあね、玉がそう呼んでたのよ確か、どうしてかなんて知らないわ」 ★ つづく
May 29, 2005
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15 ★ 八年前、犬瀬と僕は池袋の穏健な私立大学に一緒に進学した。彼は穏健な、つまり退屈な大学に進学してしまったことをよく憂いていたものだが、別の大学に再入学することは考えていなかったようだった。ただ、我々は長い時間をかけて様々なことを語り合った。それは互いの間にとても小さな石ころを一つ一つ置いていくような作業だった。酒を飲みながらピーナッツをつまむように、一つ、そしてまた一つ。長いこと、僕と彼が全くの別の人間であることに僕は気づいていなかったように思う。やがて、日々の集積――石ころ――はようやく何かの形を取るようになった。気がついたとき、それは彼と僕が異なるものであるための一つの壁になっていた。そして僕の話に耳を傾けたあといつも、「それは甘い感傷に過ぎない」と犬瀬は言った。「お前は昔からノスタルジーという言葉が好きだろう。でもね、いいかい?それは単なる郷愁、気分的な病に過ぎないんだよ。俺がこんな風に言うと、何でも単なるという言葉を付けて片づけられる問題じゃない、とお前は思うかも知れない。けどね、ノスタルジーなんてものはどこまで行っても単なるノスタルジーなんだよ、どこへも行き着きはしない」 それは一つの真実かも知れなかった。しかし、僕はその考えに納得することができなかった。とはいえ、言い返す言葉もなかった。 犬瀬と僕は小学校の頃からの付き合いだった。そして同じ高校に進み、どういう因縁か、同じ大学にまで進学した。犬瀬と僕は同じ根から生えた枝先に咲いた、全く色も形も香りも違う別の花というような気がする。もちろんその根っこが共通であるという感覚さえ非常に気分的なものかも知れない。しかし一つだけ確実なことは、犬瀬の口から発せられる言葉はいつも、彼の感情や思考の単純な反応で終わらないということだった。彼が僕に向ける言葉は、常にどこか啓蒙的で、僕を感化し、啓発し、隙があれば自分の中に取り込んでしまおうというような勢いがあった。友人同士の腹を割った会話というものは常にそういうものかも知れないけれど、これまで彼に導かれて歩いた道のりというものも少なからずある。しかしながら、それは全てが意図的なものというよりは、彼の野心的で磊落な性格に拠るところが大きいのだろうと思う。彼の言葉は一行のアフォリズムのように僕の心に刻印されていった。我々の語る言葉は実のところ自分自身に向けて語られるものに過ぎないと思うたびに、犬瀬の言葉を通して僕はもう一人の自分を見るような気がした。それくらい彼の言葉は僕を撃った。「お前はその気分的な世界から抜け出さなくちゃいけないよ。確かにお前の語る世界は淡くて美しい。俺にはとてもそんな風には世界を語れない。でもね、濃厚に気配が漂っていても、饒舌すぎるだけだ。それは実在ではない」 犬瀬の言う意味は僕にはよく解る気がした。けれども僕は確かに生きている。僕が遠巻きに眺める世界、心の上澄みの部分で受け止める淡い世界は、確かに僕の目の前に存在していた。(単に僕の目が白くかすんでいるという理由だけではないのだ) 秋が来れば、街路樹は美しく木の葉を染めたし、特に我々の通う私立大学のキャンパスは晩秋の深い色彩の中で生き生きと僕に何かを語り、僕はその何かを誰よりも深く受け止めているつもりで木立の中のベンチに長い間腰を下ろしていた。しかし、その何かとは本当のところ何だったのだろう?今という時間まで引き連れてきたつもりでも、もう跡形も残っていない。その頃からそうだった。濃厚な気配はそこにある。けれども言葉にすることはできない。言葉にしようとした瞬間、すでに忘れ去ってしまった何かだ。「お前がその場所を心地よいと思っている限り、お前はどこへも行けないだろう。でもね、いつかは順番が巡ってくる。そこに留まりたくても追い出される、出て行かなきゃならない。だって、新しくそこへやってくる誰かに場所を空けてやらなきゃいけないんだからね。その時になってからじゃ遅いんだよ、放り出されたところはもっとひどい、ただの空白なんだ」 犬瀬自身は僕にそう語ることで、一体何を乗り越えようとしていたのだろうか。我々はいつも自分たちが赴く次の場所、今度こそはもっと確かな言葉で語ることのできる、実在もする、しっかりと構築された場所を求めて足場を探していたのだと言うこともできる。それは言い換えれば、東京の私立大学に通っている自分自身に対する後ろめたさについて素朴に告白していたと言うことかも知れない。そして、犬瀬は僕に、もっと外側の世界を見つめろ、誰も身代わりになることのできない想像を超えた嘆きや悲しみや、苦痛がある実在の世界に入って行けと言っていたのかも知れない。 つづく
May 28, 2005
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14 テレビの中では、日に焼けて少し頬のこけた犬瀬が、険しい顔つきをして何かを話していた。画面の右隅に生中継を表す文字が映っていた。そこに立っているのは紛れもなく犬瀬駿だ。見間違いようがない。「すごい」と塩野健が言った。「本当に行ったのね、この人」と僕を見て玉が呟いた。「――ああ」と僕は言った。 去年の秋に起きた事故の後、彼はしばらく休養した後に意を決して局の報道部へ転属願いを出した。それは初めのうち――犬瀬の話によれば――上層部の反対により受理されなかったのだけれど、そういうことならば退職するつもりでいたので、最終的に犬瀬はその局の海外特派員としてゴワスという国の紛争地帯を取材しに派遣されることになった。 何度か入院中の犬瀬を見舞ったとき、彼はこんなことを言った。「――死ぬのが怖くないって、前に言っただろ?」僕は、うん、と頷いた。「今回の事故も怖くなかった」――そうか、と僕は答えた。「でもね、慶子に言われたよ。死ぬ時の感覚を感じたことないのかってね――あいつは子どもの頃からあるんだって、玉もそう言ってたらしい(僕はまた、うん、と言った)――腹の下の方がね、すぅっと冷たくなって、心じゃない、頭じゃない、この体がなくなるんだ、って思うんだってさ」と犬瀬は言った。「わかるか?」と訊かれ、僕は首を横に振った。そして犬瀬は笑いながら、「女は知っている」と呟き、「――ゴワスに行くんだ」と言った。――ゴワス?と、その話を聞いたとき僕はそう思ったのだった。そんな国の名前を聞いたことはそれまでになかった。もちろん僕の知らない国は無数にあるのだろうけれど、一応気になって世界地図を広げてみた。それはイオニア海の端、アルバニアの沖に浮かぶちぎれ雲のような小国だった。人口は五十万に満たず、オリーブと銅が幾らか採れるあまり目立たない国だ(国旗の柄もオリーブと銅を模した大ざっぱなデザインで描かれているだけで別に深い意味合いも無さそうだった)。とはいえ、ここ数年の間に、多数派住民の支持する政権が行った民族分断政策をきっかけに、大小様々な小競り合い、内戦が断続的に続いている危険地帯ということだった。けれども僕は何も知らなかった。それに犬瀬の話以外にはテレビで見かけるのもこれが初めてだった。 ここ数週間で、少数派住民の三分の一もの人々が虐殺された模様だとテレビの中の犬瀬は告げた。「へえ」と塩野健が言った。(ちょっとこれはすごいことなんじゃない?とパンを喉に詰まらせながら玉が言った) 犬瀬は、弾痕が無数に残る壁――それは激しい銃撃戦のあとを示していた――を背景にして立ち、決裂した和平交渉の再開の見込みはない、と話した。カメラがゆっくりと移動すると、目が大きく、肌の浅黒い子どもたちが数人連れだって歩いていくのが見えた。埃っぽい通りの両側の建物は崩れかかっているものもあれば、男たちが頻繁に出入りしているものもあり、通りの奧には岩がむき出しになり、丈が短く色の薄い草が所々に生えている丘が見えた。 そこがゴワスではなく、どこかもっと別の場所だと説明されても僕は納得するだろうと思った。今この同じ瞬間に犬瀬がその街のその場所に立っているということが実感としてあまり感じられなかった。そこは池袋の交差点ではない。僕が駆け足をしても五分では辿り着けないのだ。 テレビを見ながら、「――たいしたもんだよお」と少し酒の回った樫村さんが言った。「――俺もあと二十年若かったらな」 誰もそのあとに言葉を継がなかった。「なんか、すごいわね」としばらくしてから玉が言った。「うん、すごい」と僕も言った。「まあ、はっきり言って――」と塩野健が咳払いをしながら言い、宙を見たまま結局何も言わなかった。誰も何も言わなかった。「ついに――」と僕は言った。「ついに?」玉が頬杖をついて僕の方を見た。塩野健と樫村さんも僕を見ていた。何か重要なことが口にされるべき瞬間のように、僕は少し息が詰まった。でも、まあ、僕も別に言うべきことがなかった。 で、僕は言った。「向こう側に行ったんだ」「向こう側?」「そう、そうなんだよ」と樫村さんが言った。(それが言いたかったんだよ、と額を撫でた) そして、「ねえ、それってどっち側?」と皐がパンをかじりながら呟いた。 つづく
May 27, 2005
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13「なに?なんで黙ってつっ立ってんの?」と皐が森田に言った。彼女は緑色のタンクトップを着て膝の上で切れているぴったりとしたハーフパンツをはいていた。とても色が白い。透きとおるような、というのとは一味違い、彼女はありありとそこに存在しているのだけれど、目がチカチカするように眩しい。何年か前に見かけたときには、もっとずんぐりむっくりとした印象があって、僕は春先のミツバチを連想したのだけれど、今ではそんな面影は跡形もなくなっていた。(なにジロジロみてるわけ?と彼女の目が僕に言った)「あんたら暇ね」と皐は言った。(――どうしようもなく、と付け立つように彼女は首をコキコキ鳴らした)我々と彼女は十程歳が離れていたけれども、いつもこんなしゃべり方をした。僕が推測する限りでは、恐らく彼女はこの部屋を自分のものにしたかった――のではなかろうか。彼女は一七歳という微妙な年頃だし、そういう年頃は家族から隔離された自分だけの部屋が欲しいのだ。森田に対していつも攻撃的な態度にでるのも、少しばかり愛嬌が足りないのもそのせいなんじゃないか。「あら、皐ちゃん」とその時、玉の声がした。(パーマを掛けて頭の上に掻き上げている皐の茶色い髪の毛を見て、玉は、まあ可愛いのね、と言い)「――そうそう、今日駅でおじさんにばったり会ったのよ、びっくりしたわ――羊を連れてて」と愛想良く微笑んだ。「そうそう羊、俺も見た」と僕は言った。(それは可愛いと思う我々の感覚の範疇を少しだけ超えていて、あまりに動物だった)「最近飼い始めたんだってね」「ホント、面白い人だよね、君のお父さんって」と僕は皐に言った。(フフフ、と玉は笑ったが、もちろん皐は笑わなかった) 僕は、玉が奧で樫村さんと戯れている塩野健に目配せしたことに気づいた。(慶子のことなら気にしなくてもいい、とでもいうような寛容な優しい目だった)「どうでもいいけど早くその食べ物運んでくれない?」と皐は森田に言った。(森田は道に迷った熊のようにおろおろした。そして――これもどうでもいいことではあるけれど、森田自身は昔も今もずんぐりむっくりしたまま変わっていないのだ) それにしても――何故、この娘はいつもちょっとだけ気に障るもののしゃべり方をするのだろうか?僕はそのことがまた気になり始めた。「これ全部皐ちゃんが作ったの?――すごい」玉の素直な感想の通り、料理はまったく驚くべきものだった。バスケットは重箱のように二層になっていて、にわかに活気づいた皐が花から花へと飛び移る蝶のような手つきで中から皿に盛られた美しい料理を次々とテーブルの上に並べていった。――ブロッコリとセロリとレタスのサラダにイカの切り身和えもの、甘い匂いのする味噌とニンニクと豆板醤を絡めた中華風のローストチキン、四種類のパスタ――トマトと春菊には白ごまを振りかけ、バジルソースにアスパラを絡めたものにはちりめんじゃこをかけ、かりかりのベーコンに椎茸とエノキをバターソテーにしたものには粉チーズをまぶし、ほうれん草とクレソンとニンニクで焼いた鶏肉のペンネに梅をすり潰したソースを添えた。それからガーリックトーストに熟した冷たいトマトを載せたブルスケッタ、白身魚と赤タマネギをチーズに包んでホイルで焼いたものが続いて、さやいんげんとれんこんのごま和えと、山芋(?)をベースにしたポテトサラダのあと、最後にバニラエッセンスで風味付けされた生クリームをペーストしたアップルパイが登場し、皐がそれにレモンの絞り汁をかけた。その脇には籠に盛られたフランスパンとイングリッシュマフィンが置かれ、ワインの赤とロゼが一本ずつ、そして一ダースのアルテンミュンスターがどすんと置かれた。これは確かドイツのビールだ。「すごい」と僕も言った。テレビを見ていた樫村さんと塩野健もテーブルを囲んで、手際のいい皐の動きを文字通り子どものように口を開けてぼんやりと眺めていた。「――ホントにどうしたの?これ」と玉がうっとりとした声で言った。「作ったのよ――私が」料理を並べるときの表情とはうって変わって、ひどく面倒臭そうに皐は答えた。「まあ、ありがとう、でも何か悪いわ」「父親が見栄張って材料を買ってきただけ――いいの、あの人にはそういうプライドしかないの」と皐は感情の籠もっていない声で言った。「私は素材が目の前にあれば、作るの。そう自分に決めてるの。どれだけ時間が掛かっても、そう決めてるから、そうするの」 皐のその言い方には何か人を寄せ付けないものがあった。そして少しだけトゲがあった。僕は心の中で皐が放っている雰囲気全体を小さな箱にしまい、「十七歳」とラベルを貼って手際よく棚に並べようとしていることに気がついた。「食べちゃってくれない?どうせすることないんでしょ?」皐はそういうと玄関に向かって歩きかけた。「一緒に食べていかないの?」と玉が驚いて聞いた。皐は玄関の柱に手をついて、ちょっとの間迷っているようだった。そして振り返るとテーブルまで戻ってきて、ヘッドホンを付けたままローストチキンを自分の皿に取り分けた。(その時森田が僕の耳元で、誕生日だからね、とぼそっと囁いた) 慶子はまだ戻ってきていなかったけれど、六人で円卓に向かい合って座ると、僕はなにか昔よく感じたことのある穏やかな気持ちが蘇ってくるのを感じた。テーブルの上には充分すぎるくらいの料理があった。そして五月の午後はまだ始まったばかりで、まだまだそれが終わりを迎えるまでにはゆったりとした長い時間が控えていた。時計の針はゆっくりと進んでいる。窓の外には日に焼けて黒っぽくなったすだれがぶら下がっていて、平穏な五月の風にゆらゆらと揺れていた。 僕は最初にワインを少しだけ飲み、ローストチキンを丁寧に切り分けて口に運び、パンをちぎって一緒に放り込んだ。味も香りも絶品だった。最初に誰もが口々に料理を褒め称えたあとは、もう誰も何も言わなくなった。時々フォークが皿にぶつかったり、ビールの瓶がグラスの縁で音を立てたりする以外は、みな黙々と料理を口に運んでいるだけで、我々は語り合う必要がなかった。開け放たれた窓の外から、上空を飛んでいるヘリコプターのプロペラの音が聞こえた。それは近づいたり遠ざかったりを繰り返して、次第に僕の耳につき始めた。けれどもそんなことはまあ、僕には関係のないことだった。僕はテーブル全体を見渡し、次に何を口に運び、いつビールの栓を抜き、どのようにして飲むか、そんなことを考えた。僕が積み上げてきた生活のシステムというものは実際そういう細部で作動しているだけだった。そう考えると少しだけうんざりしたけれど、すぐに制御作用が働いて気持ちは再び落ち着いた。僕は六人それぞれの顔を眺めやり、玉の肩越しにテレビへ目を移した。 それまで放送されていたホームドラマのようなものが終わり、テレビ画面にはスポンサーの企業CMが立て続けに流されていた。塩野健が出演する○○ソースのコマーシャルも二回ほど流された。我々はそれを見て笑った。皐だけは興味がなさそうにサラダを食べていた。CMは、火星探索編、無人島漂着編、古代エジプト編の三種類があるのだけれど、今流れているものは古代エジプト編だった。クレオパトラが毎晩毎晩同じ味のコロッケに飽きて機嫌を損ねてしまい、為す術なくおろおろしている料理人のもとに突然○○ソースを持った塩野健が登場するという陳腐な設定なのだが、彼の少し日本人離れした表情や身軽な身のこなしはCMのイメージにぴったりだった。他の二編も同じくらい馬鹿げたものだったけれど、そのCMは塩野健の知名度を飛躍的に高めることになった。彼は恥ずかしそうに笑い、ちらちらと玄関の方に目をやっていた。多分慶子のことを気に掛けているのだろうと思い、僕は彼のグラスにビールをついでやった。 慶子と塩野健。それは悪い取り合わせではなかった。(塩野健の方が一つか二つ年下のはずだ)トマトと春菊のパスタのように意外ではあるけれど、それは間違った選択ではない。そうやって誰もが人生の決断を積み重ねていくのだ。けれども僕は、そこに犬瀬駿をトッピングしたくなる気持ちを抑えることができなかった。無意識のうちに彼が顔を出してくるのを塗りつぶすことはそう簡単にはできないのだ。すると、何もかもが曖昧の、全てが未決定で、決済をことごとく先送りにされている穏やかな午後が、少しだけ張りつめた雰囲気を帯びた。「あっ」とその時玉が叫んだ。 テレビ画面にまさに今僕が考えていた、犬瀬の姿が映っていた。僕は一瞬ガツンという打撃をうけたように固まってしまった。彼はいつだってこんな風に心の隙間に入り込むのだ。
May 26, 2005
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映画を見て味わうことのできる感動の種類にはいろいろあるけれど、 なかでも、作品の持つ何かの力が、 自分の過去の記憶と結びついたり響き合うことによって、 不思議と至福に似た感覚を持続させてくれることがある。 そのときには、映画自体から受ける感動や後味に浸るというよりも、 むしろ久々に呼び起こされた自分の原風景みたいなものに 酔いしれているのだと思う。 そして、その感覚は本当に魔法にかけられた、 としかいいようがないものである気がする。 というのも、やがてその感覚は消えうせてしまうからであって、 魔法とは、いずれは必ず解けてしまうものなのだ。 映画を見たり本を読んだり、 まれに同じ種類の魔法に掛けられることがあるけれど、 年をとるに連れて、その効力の期間が短くなってはいないか。 今、映画『クローサー』の挿入歌になっていた 『ブロウワーズ・ドーター』という曲をくり返し聴きながら そんな風に思う。 歌っているのは、ダブリン生まれのダミアン・ライスという シンガー・ソングライター、2002年にアイルランドでリリースされた デビュー・アルバム『O(オー)』に収録されている。 この曲が始まるたび、 ロンドンの人混みをこちらに向かって歩いてくる、 スクリーンの中のナタリー・ポートマンを思い出す。 と、同時に、映画とは関係のない自分の中の何かが 確実に刺激される。 魔法とは、そういうものだ。 『ブロウワーズ・ドーター』とは「ほら吹き男の娘」ということに なるみたいだけれど、 CDの歌詞カードに載っている訳よりも、 映画の中で使われていた、 戸田奈津子の訳の方が断然味わいがある。 とても不思議… すべての物事が 動いている 君の言ったように 人生は何事もなく 過ぎ去っていく 1日―― また1日… とても不思議… 物語はとても短くて― 愛もなく 心ときめく輝きもない 彼女が見上げる空に 英雄はいない なのに 僕の目は君に釘付け 僕の目は君に釘付け 僕の目は君に釘付け とても不思議… 物事は動いている 君の言ったように 僕らは優しい微風を 感じなくなる 1日―― また1日… とても不思議… 彼女の父親は いつも娘自慢 冷たい視線にも 今は慣れっこ 同じ魔法に掛けられた人を、映画の中で見ることもできる。 私の心に残っているのは、『ニューシネマパラダイス』や 『みつばちのささやき』の中で「フランケンシュタイン」のスクリーンを 見上げるアナ、それから『ボギー俺も男だ』で ハンフリー・ボガードにうっとりしているウディ・アレン。 あんな風にスクリーンを見上げる人達は、 みんな同じ魔法にかかっていると思う。 私もそうだ。
May 25, 2005
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12 森田はいつも泣きそうな話し方をした。それは、羽の折れた鳩がぎこちなく、細かい雨に降り込められた低い空をしかし懸命に飛んでいく姿を僕に連想させた。彼は一見どこか危なげで、見ているこちらがひやひやするくらいに不安定な綱をおそるおそる渡っているように見えた。そんな様子じゃ途中で真っ逆さまに落っこちるか、諦めてすぐ引き返すしかないだろう、いずれにしても向こう岸まで辿り着くことはとうてい無理な話だ、と彼を見る人間は誰もがそう考えていたものなのだけれど、しかし、最後には、彼は誰も予想していなかった全く別の場所に辿り着いていた。そこが誰しもにとっての楽園であるか否かは別として、とにかく彼は我々の予想を越えて一つの到達点にいつのまにか立っているのだった。高校生の頃から、彼は人見知りが激しかったし、何を考えているのかよく解らないところがあった。森田はいつも自分の席で静かに本を読んでいた。僕が初めて彼に気が付いたとき――それは高校一年の秋の初めだったけれど――彼はプルーストを読んでいた。そして冬が終わる頃には、彼はチェーホフの戯曲を読んでいた。そしてそれはチャップリンの自伝やフェリーニの自伝に変わったり、ユングの自伝だったりした。とにかく彼はいつも本の中に閉じこもっていた。最後まで彼が自分から外へ出てくるということはなかった。彼にとっては自分の内側という世界がどこよりも住みよい場所だったのだ。その点では、人間は大きく二種類に分類できるかも知れない。すなわち、自分にとって最良の魂の部屋を見つけられた人間と、自分の内側の居心地が悪いために外へ逃げ出さずにはいられない人間、とである。森田は圧倒的に前者だろうと僕は思う。そして彼を見ていると、この世界にはその分類しかあり得ないのだという気さえする。 森田の部屋にはすでに樫村さんが来ていて、ソファーに寝そべってテレビを見ながら、一人で缶ビールを飲んでいた。その部屋は一人暮らしをするには少し広すぎるくらいで、十畳ほどあろうかと思われるリビングに森田の姿があることはほとんどなくて、森田はいつもその隣の窓のない部屋で映画を見たり、その映画に関する原稿を書いたりしていた。「あ、ソースの人」と樫村さんが塩野健を見て言った。 樫村さんは五十を過ぎてもずっと独身生活を続けていて、真面目に仕事をしているのも見たことがなければ、シラフでいるところも見かけたことがない。一応市役所の都市整備課というところに籍を置いているということらしいのだけれど、それはまあ、嘘かも知れなかった。でも、僕はこの樫村という男に対して初めから漠然とした好感を抱いていて、それは多分森田も同じ気持ちなのだろうけど、樫村さんはどんな質問を投げかけても――もちろんイエス、で、質問は何だっけ?――と答えるのではないかと思わせる人だった。それでよくこの歳まで独身でいられたものだとは思うけれど、我々が集まるといつも決まって顔を出すからには、何か吹っ切ることのできないもやもやでも抱えているのかも知れない、などと考えてみることもあった。が、もし仮に学生の頃の我々が持っていただろう「若さのようなもの」に惹き付けられて近づいて来たのだとしても、むしろ樫村さんの方が我々よりずっとその役立たずな「若さのようなもの」を持っていると思う。それが良かったのか悪かったのかは別にして、樫村さんは、これまでの生活の途上で空から偶然垂れ下がってくる幾つもの梯子段に、多分興味さえ持たず、自分の足を掛けてみようなどと思いもしなかったのだろう。――でも、そんなことってあるだろうか?「おい、兄ちゃんサインくれよ」と樫村さんが身を起こしながら言った。「あ、いいスよ」と愛想良く塩野健が答えた。「紙とペンありますかね」「ん、紙がねえなあ――あ、足の裏でいいや」 僕は塩野健が単に切り替えが早いだけなのか、それとも愛想が信じられないくらいにいいだけなのか判らなかった。まだ慶子も玉も戻ってくる気配がなかった。塩野健が面白半分に足の裏にサインをし、きゃあきゃあ奇声を発しているのを横目に、僕は森田の部屋の扉をノックした。 そのとき呼び鈴が鳴ったので玄関を見ると、森田の従姉妹の皐が両手にバスケットを提げて立っていた。僕は森田の名を呼ぶと、まもなくして扉が開き、森田が冬眠明けの動物のようにのろのろと動き、上がりかまちの柱に身を擦りつけながら応対しようとした。「これ、うちの父親があんたたちにって」森田は何も言わずにそれを受け取った。多分何かを言おうとしたのだがどんな言葉も出てこなかったのだ。一瞬皐は目を大きく見開いて黒目をぐるりと動かし、すぐまたもとの表情に戻った。束の間のうちに、我々の人格的価値があたかも水爆実験に使われた羊のように突如ぷつんと消滅してしまうか、あるいは使い物にならないほどに痛めつけられてしまうかのような黒目の動かし方だった。でも、森田が何か当たり前のお礼の返事を返すことができたとしても、皐の耳には届かなかっただろう。彼女はウォークマンのヘッドホンを両耳に当てたままだったし、恐らくそこからは大音量で音楽が流れ出ているに違いなかったからだ。 つづく
May 24, 2005
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11 しかし――――何故、塩野健は犬瀬を車ではねてしまおうなんて思いついたんだろうか? 屋上での塩野健の告白は、じょじょに核心に近づいていた。「――俺、あの人を見てて、心底自分が嫌になったんスよ。なんか俺ってスッゲエつまんねえ人間だなって思って。俳優になりたいって言ってんのに何か努力してるわけじゃないし、慶子さんのことも、俺、犬みたいに付いて回ってるだけだったし、でも、そのくせ自分だけは他の奴らとは違うんだとか、テキトーな感じでいっつもそう思ってて、でも、物足りなくて――あの人は一言で言って、なんつうか、マジで有意義そうだったんスよ。そっくりそのまま意味があるって感じだったんスよね。それが妬ましいんじゃない、悔しいんじゃない、別にあの人自体は悪くないんスよね、あの人はあの人を生きてるだけだし、でも、俺、あの存在が何か無性に怖かったんスよ、もう、それは今まで感じたことがない恐怖だった、腹の底がすぅって冷たくなっていくみたいに感じて、――それで、あの朝車で家を出て、俺、あの人が池袋に来るってことは知ってたから――」「――ねえ、ちょっと待って」と慶子が突然口を開いた。「いや、俺はあの人を轢いちまおうと思った――」「違う――」と僕は言った。「轢いちまえって思ったんだ!」「――でも、君はそんなことはしなかったはずだよ」 「ハハ、別のトラックがあの人を先に轢いたんで――できなかっただけッスよ」「嘘でしょ?」と慶子が言った。かすれ声だった。「君はだって、ちゃんと正気に返ったんだよ」と僕は言った。「ええ、もちろん――でも、それは事故を目の前で見てから正気になったんです」その時、慶子がさっと立ち上がった。一瞬もっと大きな影が動き、その場の空間をかき乱したように感じた。「どこへいくの?」僕は訊いた。僕の声もかすれていた。しかし、慶子は何も答えずに、屋上から降りようとしていた。ここで慶子が何も言わなければ、僕は手に余る、と思った。その時、「混乱してるのよ!」と慶子は叫んだ。そして、振り返らずに足音を響かせながら階段を下りていった。振り返ると、玉が何故か泣きそうな顔をしていた。一瞬のことだったが、不意にその表情がひどく気に障った。そのことに自分でも驚いているうちに、嫌な感情はすぐさま消えていった。玉は立ち上がり、「私行く」と言って、慶子の後を追った。 塩野健はひょろ長い何かの柱のようにその場所に立っていて、太陽がやけに熱かった。そしてゆっくり日時計が動くみたいにベンチまでやって来て、僕の隣に座った。僕は何度も右目を閉じたり開いたりして、世界が白っぽく濁るのを見つめていた。そしてたぶん、自分でも何かを考えるのが面倒になったからなのだろうけど、いつの間にか、赤羽から鳩ヶ谷までのバス停を一つ一つ頭の中で思い出していた。 それは地下鉄が走るようになって以来、随分と乗っていないバスの路線だった。そしてそれはひどく遠い世界の出来事のように思えた。僕の脳裏で、バスは東京都と埼玉県の境界をこえ、ゆっくりと加速しながら荒川大橋を渡っていこうとしていた。橋の下をたくさんの水が流れた、と僕は思った。物事がどんなふうに変化したとしても、それを押し留めようなんていう気はない、と心の中で呟き、しかし、僕は誰にも邪魔されることのない場所で、ゆっくりと時間を掛けて、もはや変更不可能な過去を再現したいという欲求の中に沈んでいった。荒川大橋、それから何だっけ、――そうだ、川口中央公民館、それから――坂口、樋の爪、それから、中居、変電所、昭和橋・・・しかし、全てを正確に思い出すことはできなかった。当たり前のことだけれど、記憶は薄れ、やがて消えてしまう。 塩野健が隣で鼻をすすり上げた。僕は我に返り、しばらくしてからこう訊いた。「君が育った街の話だけど――なんだってあの時君はそんな話を僕にしたんだい?」 しかし長い間、塩野健は黙っていた。そしてうっすらとした雲が太陽を隠し、再び太陽が姿を現したときに、「あの朝、池袋の交差点にいたとき、フロントグラスの向こうにね――」と彼はゆっくりと、僕との間に横たわる五月の穏やかな空気の上に言葉を置いていった。「――何故だかずっと、その風景だけが見えてたんスよね」――塩野健がそう呟くのを聞きながら、僕は、それは本当に風景だったのか?それはただの白い背景に浮かぶ黒い文字だったんじゃないか?あるいは、もっと他の何かだったんじゃないのか?と彼に聞き返そうかと思った。でもそうはしなかった。かわりに僕が考えていたのは、名古屋の街並みのことだった。でも、それが今殊更重要なことなのかどうか、僕にはよく解らなかった。もっと何か他に考えるべき大切な事柄があるような気がした。だいいち、それは現実に存在する街すらなかった。 僕はさっき目にしたばかりの、小さな閉じた街のことを思い出していのだ。 それは森田が自分一人で作り上げた架空の街だった。彼の部屋には、我々がかつて暮らしていた街が再現されていた。 今日の午前、僕が森田の部屋を訪ねたとき、彼は指先ほどの小さな細工人形をピンセットを使って配置しているところだった。 彼は僕に気づくと音もなく手招きした―― 僕の実家の最寄り駅――神宮前駅――の北口を出て、踏切を挟んだ参道から脇道を入って行くと、そこには僕の実家が、とても小さいけれど精密な設計で見事に再現されていた。屋根瓦、ガラス窓、板塀、庭のタタキに至るまで、模型にはしっかりと彩色が施され、道を歩いている小さな人の姿までが、そこには配置されていた。さほど深くないその箱の中には、我々が学校帰りにぶらぶらした市街地の一角や、玉の実家である神社の境内(ここには何故か雪を模した白い綿が敷き詰められていた)、森田の暮らしていた坂の上の高層マンションもあった。競技場の模型のなかにはぽつりぽつりと人が立っていて、その脇を流れる川にそって街路樹のミニチュアまでもが何本も配置されていた。通りにはミニカーや、通行人がそれらしく立っていたし、一際高いビルの中には上下運動を繰り返すエレベーターまでもがあった。ブリューゲルの描いた絵のように、そこには様々な人間がいて、様々な生活をしていた。「すごい」と僕は言った。ほとんど地理的には無秩序な感じで、場所と季節が混合し、まるで森田の頭の中身をぶちまけたようなミニチュアだったけれど、好きか嫌いかと聞かれれば僕は多分好きだと答えるだろうと思い――こういうの好きだな、とふと胸が痛んだ。奇妙に拡大された夢のような街だった。ある部分は異常なほど精密に再現されていたし、ある箇所はすっかり忘れ去られ退化していたように、まったく存在していなかった。まさしく森田の中だけにある、森田のためだけの架空の街といってよかった。「よく、見てご覧よ」と森田が言った。――建物や路地だけではなかった。そこにはちゃんと、我々をかたどった小さな人物までもが配置されていた。僕とおぼしき人間がそこにいた。それを見つけたとき、僕の胸に不思議と暖かい安堵のようなものがこみ上げた。が、同時に僕は得体の知れない気分の悪さも感じたのだった。それは何だったのだろう。僕は何かムカムカする感情を覚えた。何のためにこんなことをする必要があるのだろう?何のために?僕は森田に訊いた。「だって、これを見ていると心が落ち着くんだ」と森田はぼそりと答えた。 つづく
May 23, 2005
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『クローサー』を見た。 以前劇場で予告編を見て以来、愉しみにしていた。 それはただ単にストリッパー役で出演している ナタリー・ポートマンが見たい、という、その思いだけだったのだけれど、 とても味わいのある映画だったように思う。 小説家志望のジャーナリスト(ジュード・ロウ) NYから流れて来た元ストリッパー(ナタリー・ポートマン) 成功を収めたフォトグラファー(ジュリア・ロバーツ) SEXサイト好きの皮膚科の専門医(クライブ・オーウェン) この四人が、ロンドンを舞台に いわゆる四角関係を繰り広げる、 というストーリーである。 細かい描写をすっ飛ばして、一瞬で一年が経過したり、 あるいは半年が過ぎたり、と展開が少し急に感じられたり、 登場する二人の男が いかにも見苦しい感じで肉欲と嫉妬に駆られていたり、 という点で、色々と好みの別れる映画かも知れない。 が、四人一人一人の心の有りようはしっかり描き出されているし、 もとは世界的にヒットを飛ばした舞台作品であるせいか、 台詞の掛け合いにも妙味が感じられる。 見ているうちに、新潮の六月号に掲載されていた 車谷長吉の『阿呆物語』という短編を思い出したのだけれど、 この作品、目次に『嫉妬、憎悪、肉欲、自殺。凄まじき「阿呆達」が 蠢く、この世界』というもの凄い紹介文句が添えられていて、 まあ、そこまでではないけれども、『クローサー』の愛欲の妄執に 悶える男達もかなりの阿呆ではあった。 だが、この映画の結末には、一つの破れ目のように風が吹き抜けていく 一瞬があったような気がする。 その結末のあっけなさ、途方もなさ、頼りなさ、それでいてとても爽快、 という流れには、 ジョン・カサヴェテスが脚本を書き、 ショーン・ペンが主演した映画『シーズ・ソー・ラブリー』にも似た 味わいがあったように思う。 この映画によってナタリー・ポートマンとクライブ・オーウェンは、 ともにゴールデン・グローブ賞を受賞している。 これまでぱっとしない役どころが多かった (んじゃないの、と私は思っている)ナタリー・ポートマンにとっては、 今までで一番の役どころと演技だったのではないだろうか。 映画の冒頭シーンから、吸い込まれるような美しさだが、 その裏には、今回ジュリア・ロバーツが臭みを感じさせない、 地味な演技を通していたから、ということもあるかも知れない。
May 22, 2005
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10「この街が好きか?」と犬瀬が聞いた。その前の週のことだ。「わからないな」と僕は答えた。僕の住む街を取材する数日前、犬瀬は僕に電話を掛けてきた。一度会って話をしないか、と犬瀬は言った。――取材のことでいろいろ相談もあるし。けれども何かもっと重大な話があるような口振りだった。我々は大学の近くのバーに入って何年振りかで酒をのんだ。もちろん僕はコーヒー、彼はボロ雑巾のようになるまで酔い潰れた。「名古屋に帰りたいとは思わないか?」と犬瀬が言った。「わからない。いずれはそうなるかも知れないけれど、――今のところは帰る気はないね」「じゃあどうして、ここにいる?」「君こそどうしてここにいる?」と僕は聞き返した。「都会暮らしはすべからく先延ばしの生活さ、街は変わっていく、お前はそれを見て、変わったな、と思う。それだけだ。どこへも行かない」「我々はどこから来て、そしてどこへ行くのか」と僕は言った。「なあ、いいかい?最近のお前はいつ見てもまるで生きてないみたいだ、そして街を歩く。幻を見て生きてるんだ」「いや、違う。ちゃんと仕事をして、そして街を歩く」「そう、仕事はしている。誰にだってできる仕事をな。そして電車の中で考える。一日八時間働いて一万五千円だ、時給にすると千八百円か、塾の講師も悪くないやってな」「おい、ちょっと飲み過ぎだぜ」「何故街を歩くのか、それは、いつでもどこにでも誰かがいるからだ。いつでもどこにでもお前の座る場所があって、すっと飲み物がでてくるからだ。そしてお前は眺めている。眺めているだけだ。でもね、それじゃ生きているうちには入らないよ」「君の言いたいことはわかるよ。でも、僕も君もそうやって街の中で生きている。一つの都市にすっぽり飲み込まれている。いろんな人間がいる。好きなやつもいれば嫌いなやつもいるし、いろんなことが起こる。喜びも悲しみも含めてね、何だって起こるよ。都会だから田舎だからって違いなんかないかも知れない。でも、いや、何だろうな、うまく言えないよ、とにかく、街は幻じゃないってことだよ」と僕は言った。犬瀬は僕の言葉に頷くでもなく首を横に振るでもなく、黙って僕の目を見ていた。そして言った。「いいかい?俺はいなくなるよ」 塩野健の告白に耳を澄ましている慶子と玉をよそに、僕はその夜の会話を一つ一つ思い出していった。そしていろんなことをうまく説明できなかったことを知った。いつだってそうだ。うまく説明できた試しがない。僕はいつも、自分が今吐いた言葉でさえも、自分が理解の一歩手前で立ち止まっているような感覚を覚える。犬瀬はいなくなると言った。そのとき、一体それがどういう意味なのか僕にはよく解らなかった。 ★ ――去年の秋に話を戻そう。「僕ね、灰になりたいんです」僕は塩野健のその言葉で不意に病院の待合室という現実に引き戻された。灰になりたい?僕はもう一度聞き返した。「いやね、恥ずかしいんですけど、僕ね、俳優になりたいんですよ」塩野健は俳優になりたいと言ったのだ。ウェルウェル、オールライト。なればいい。「まあ、慶子さんは無理だとは言わないんスけどね」オーケー。慶子という名前の人間だって東京には数え切れないくらいいる。僕は何も答えなかった。「僕、慶子さんと付き合ってます」と塩野健は言った。それでも、僕は何も答えなかった。「あれ、驚かないんですね、もしかして知ってました?」僕は首を振った。そんなこと知るわけがなかった。むしろ、慶子――丸山慶子は、東京を離れたとばっかり考えていたのだ。といってもこれといった理由を知っているわけではなかった。とにかく、僕と慶子は一年以上音信不通だった。僕は自分が何か面倒な出来事に巻き込まれているような気がした。僕は、犬瀬と慶子が時々二人だけで会っていることを何となくだが知っていた。もちろん、僕だって玉と二人だけで会うことはある。犬瀬とだって二人だけで会う。けれども、犬瀬が玉と二人だけで会うことはなかったし、僕が慶子と二人だけで会うということはなかった。だからといって、何か一般的な法則が導き出せるわけではないけれど、それが長い時間を掛けて我々が作り上げてきた、互いの距離感というものだった。それは恐らく更に長い時間が経過しても変わることのない距離感のように思えたし、出来ればそっとしておいて、長い時間が過ぎ去ったあとで一つの達成のようにして振り返るべきものだとさえ考えていたのだった。「腹減りませんか?どこかで食事しましょう、ね?ちょっと打ち明けたいことがあるんです。大丈夫、記者会見が始まる前には戻って来ることにしましょうよ。僕だって気になる、ね?そうしましょ」 人気のない廊下を歩き、食堂という矢印に従って薄暗い階段を降りていくと、「本日休業」という立て札にぶつかった。日曜日の朝八時には病院の食堂なんて開いているわけがないのだ。我々は誰もいない廊下を引き返し、病院の向かい側にある二十四時間営業のファミリーレストランへ行った。僕は病院から離れたくなかった。しかし、日曜日の病院食堂は鬱病を抱えた真っ白な廃墟のように抜け殻だった。 塩野健はガーリックを擦り込んだ500グラムの子牛のフィレステーキと、グリーンアスパラとベーコンのフェトチーネ、それからボウル一杯のシーザーサラダを注文し、ハーフサイズのハートランドビールを付け足した。(どうしてこんなことを僕はよく覚えているのだろう?)それは秋の朝に似合わないもの凄い食欲に見えた。そして何か悪戯を企んでいる好奇心旺盛な子山羊のような細い眼をして、笑った。僕はカマンベールとクレソンのクロワッサンサンドと、一番濃いキリマンジャロコーヒーを注文した。それが喉を通るぎりぎりのメニューだった。店内にはあまり客の姿がなく、静かだった。厨房との仕切になっている壁には大型のスクリーンがあり、どこか南欧のサッカーチームの試合を放送していた。僕は時計を見た。八時半だ。この大型スクリーンでテレビを見ることもできるのだろうか。「僕の家の近くにもこの系列のファミレスができたんスよ、たった一軒国道沿いにぽつんとね。他には何もありゃしません、駅前にはコンビニもないんです。駅の前後は一面枯れ草の生えた湿地帯でね、海が近いんスけどそのあたりまでずうっとセメント工場と大きな円筒形の発電所が並んでるんです。廃墟というにはあんまりあっけらかんとしてるというか、無人の荒廃地帯っていうか、小学校三年生の時に親父の仕事の関係でその地区に越して来たんスけどね。まあ八歳か九歳の頃からそんな風景を見て育ってきたんだから悪く言う気はないっスよ、でもねえ、僕はほんとびっくりしましたよ、僕がそれまで生まれ育ったのは長崎でしたからね、まだまだ、子どもでも潜れるような海が近所にあったもんスよ。(すごい、と僕は言った)でもその地区ときたら、確かに東京の周縁都市として幾らか首都が身近になった気はしましたけどね、どう考えても人間が暮らすような場所じゃなかった。転校してきた当時は毎晩布団の中で、それこそ文字通りぶるぶる震えてましたよ。戦没者の名前を刻んだ慰霊碑みたいに味気なくて馬鹿でっかい団地に住んでましてね、こうっと七階の窓からその地区が見渡せるんスよ、そりゃあもう酷いもんで。焼け焦げたような陸橋が多すぎるくらいにあって、夏は嫌な臭いのするタイヤのスクラップの山が湿地帯の中にぽつんぽつんとね。そして遠くの方にぼうっとセメントで固められた港が見えるんです。もの凄い皮膚病で瀕死状態に陥った灰色の犬って感じっスね、まともな樹なんて一本も生えちゃいませんよ。表面だけじゃない、地下の奥底がいかれちまってるんです。でも、それから小中高とその地区から出ることができなかった。カモメの死体と身元不明の浮浪者の死体がやたらに多い嫌なところからね。そういうところで少年時代を送った人間がそのあとどんな人間になるか、川本さん、あなた想像が付きますか?」 その時僕は何も思いつかなかった。どうして見知らぬ人間にいきなりこんな話をされなければならないのか。僕は急に味のしなくなったサンドイッチを途中で皿に戻し、口の中にある分はコーヒーで流し込み、あとは味のない煙草を吸いながら、窓の外に見える病院の窓の数を数えていた。 つづく
May 22, 2005
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9 広場の入り口までやってくると、眼鏡を掛け長靴を履いた中年の男と、水色の制服を着た警察官が綿毛の上で雪遊びでもするように駆け回っていた。彼らは網を持って大慌てで鳩を追い回していた。鳩は一直線に飛び上がり、劇場の庇の先や、信号機の上に止まった。「犬瀬さん、しっかりして!」と女が叫ぶ声がした。人だかりを掻き分けて声の方に近づくと、ヘルメットをかぶった救急隊が犬瀬を担架に乗せて運ぼうとしていた。ぐったりとして顔中を血だらけにしている犬瀬を見るまで、僕は彼が死ぬかも知れないということを全く考えなかったことに気がついた。すっかりそういった可能性を忘れていたのだ。救急車の扉が閉まり、サイレンを鳴らして走り去っていくと、不意にざわめきが耳の奧に蘇り、鳩たちの胸を膨らます息遣いが聞こえた。トラックの運転席から引きずり出された男はぐったりとはしていたが、外傷はないようだった。彼も救急隊に肩を抱えられて救急車で運ばれていった。 いつの間にか交差点は渋滞する車で一杯になっていた。束の間、街は僕の知らない顔を見せたような気がしたが、すぐさまもとの静かな表情に戻ろうとしていた。僕は広場の入り口で人だかりに紛れて立っていた。数人の男たちが砕け散ったガラスと血痕を写真に写し、警察官が広場の入り口に黄色いテープを張って誰も入ってこられないようにした。トラックが暴走してきた交差点も白い衝立が置かれて封鎖された。横倒しになっていたトラックがクレーンで起こされると、コンテナの腹には「レース鳩専門」という赤い文字が読み取れた。鳩はまだその辺りを飛び交っていたが、おおかたどこか遠くの空へ逃げ去ってしまったのだろう。 僕は、犬瀬の運ばれていった先の病院を突き止める必要があった。しかし、粉砕された電話ボックスの脇でメモを取っている男に歩み寄ろうとしたとき、「川本さん」と不意に後ろから呼び止められ、腕を捕まれた。振り返ると見たこともない長身の男が立っていて、僕ににっこりと笑いかけた。男は色が白く、イタリア人の好青年のように鼻が高かった。襟元を爽やかに刈り上げた頭髪は黒々と輝いてくるくると波打ち、少しすねたような口元と、訳もなく潤んだ瞳が印象的だったが、全くの見知らぬ人間であることに変わりはなかった。どうして僕の名前を知っているのか。返す言葉を失っていた僕に「塩野健といいます」と早口で告げ、体を開いて循環バスの通り道である横道に並ぶ車列を僕に示した。そこには塩野健が乗ってきた赤いカローラが止まっていた。 屋上から天窓のついた家々のカラフルな屋根を眺めながら、僕がこれだけのことを思い出すのに掛かった時間は、三分か四分ほどだったと思う。その間、塩野健は少し話しては、黙り込み、また少し話しては黙り込みで、ほとんど話は進展しておらず、事故現場で彼が僕と会ったこところまでを彼は前置きのように話した。同じ三分という時間でも、こうやって黙られて過ごすと、恐ろしく長い。「そう、確かに僕らは会ったよ」と僕は言った。「初耳だわ」と慶子が言った。 塩野健と名乗った男は、無線で何かを話している警察官に手際よく語りかけ、すぐに犬瀬の収容された病院を突き止めてしまった。そして、すらりとした長い足で黄色いテープを軽々と跨ぎ越すと、「一緒に来てくれませんか 、K病院に」と言った。僕は彼を犬瀬の知り合いの一人なんだろうと考えた。 K病院は僕のアパートのある界隈からも近い、割と大きな病院だった。まだ学生の頃は大学の契約医療機関に指定されていたこともあって、ほんのちょっと頭痛がするとか咳が出るとかといった些細なことで足繁く通い、無料で薬を貰って帰ったものだった。しかし、大学を卒業して以来一度も行ったことはなかった。最後に通院したのはそれまでの内科ではなく、眼科だった。その頃から僕の左眼は急にガラス細工を砕いて掻き混ぜたように白く濁り始めたのだった。太陽を向かいにして右目を瞑ると、世界は急に光量が強すぎて事物の輪郭が飛んでしまった風景写真のように儚くなった。別段僕は困らなかった。むしろ、街がそんな風に光の中に隠れていく様を楽しんだくらいだ。それでも病院に行かなければならなくなったのは、運転免許の検診で診断書が必要になったからだった。医者は僕の右目にペンライトを当てて覗き込み、「これは白内障ですな」と言った。それはもっぱら老人特有のもので、二十歳をいくつか超えたばかりの若者の眼に起こるような代物ではなかった。医者は「まあ、人間何が起きたっておかしくないですからね」と言って自分の言葉に口をすぼめて笑った。白髪で剛毛の歳をとった医者だった。今のところ原因は不明だが、あまり進行の度合いが強ければ右目にも波及する恐れがあると言って進行を緩める目薬を処方してくれた。月に一度は検診にくるようにと言われたが、もちろん僕はそれっきり病院に行かなかったし、目薬も差さず、どこかになくしてしまった。 眼科は真っ白なカモメが翼を広げたような病棟のちょうど右の翼の先にあったが、犬瀬の収容された救急外来は、カモメの左の肩に位置していた。ロビーから外科病棟に続く廊下にはすでに何人かの報道関係者が待機していたので、受付で聞く手間は省けたのだが、病室の扉の前には真っ黒なスーツを着た男二人が直立不動の姿勢で関係者以外の立ち入りを塞いでいた。恐らくテレビ局の人間だろう。僕は壁にもたれて座り込んでいる記者たちを横目に、黒服の男に近寄り話しかけた。頭一つ分背の高い塩野健は僕の後ろにぴったりと張り付いていて、振り返ると相変わらず爽やかな表情をして二三度頷いた。けれども黒服の男たちから有力な情報を得ることはできなかった。彼らのうち色の白い方がぽつりと「後ほど局で記者会見を行いますから」と言っただけだった。それだけでは犬瀬が無事なのかどうかさえわからなかった。しかしひとまずは記者会見を待つしかない。僕と塩野健は愛犬を散歩するみたいにぴったりとくっついたまま、テレビの置いてある待合室へ行って腰を下ろした。 他に見ている人間もいなかったので、僕はチャンネルを犬瀬の会社に合わせた。ちょうど八時のニュースが始まったところで、平日とは違うメンバーのアナウンサーが平凡なニュースを読み上げていた。しかし、僕はそのニュースに熱心に耳を傾けるようにテレビ画面を凝視していた。何故だろうか。もしかしたら塩野健と名乗る男と話をすることに気が進まなかったのかも知れない。塩野健はチノズにシルクのジャケットを羽織り、素足のままでローファーを履いていた。とても似合っている。彼は長い足を組み、ゆっくりと呼吸を数えるようにしていた。そして、何というか、もの凄く僕と話がしたそうだった。病院までの道のりを歩く間、我々は一言も口を聞かなかったのだ。 前屈みの姿勢から力を抜いて、僕はソファーにもたれた。そしてポケットから煙草を取り出して、「吸ってもいいかな」と塩野健に聞いた。「どうぞ、どうぞ、僕は全く気にしないッスよ。うん、こういうときはやっぱり吸いたくなるもんスからね。ええ、僕も学生の頃は吸っちゃあいたんスけど、いや、どうして禁煙なんかしちまったのかな、なんてね、ええ、でも僕は全然気にしないッスから、ささ、どうぞ吸って下さい、ほんとに、うん、これっぽっちも気にするこたァありませんよ!」もの凄く早口で、しかも二センチくらい床から浮いたようにして塩野健が答えたので、僕は思わず吹き出してしまった。すると、塩野健も口をとがらせ困ったように笑った。 渋谷駅のお天気カメラから、テレビ画面が犬瀬の事故映像に切り替わった。劇場広場の入り口の映像だ。それは僕が今朝見たものと全く同じだった。取材カメラの眼が見たもの以外は映りはしないのだからそれは当たり前のことだ。これは映画ではない。アナウンサーの話によれば、暴走したトラックはレース鳩を都内各所のペットショップや注文客に配送する途中、運転手の居眠りによって交差点を曲がりきれずに、広場の入り口に突っ込んだ。そしてちょうどそこに犬瀬がマイクを持って立っていたというわけだった。取材カメラは僕よりも、ずっと近くで運ばれていく犬瀬を写していた。髪の毛の中から大量に出血し、犬瀬の顔面の右半分は真っ赤に染まっていた。それは連日起こる外国のテロ事件の映像とよく似ていた。救急車の扉が閉められ走り去る後ろ姿をカメラは撮していた。そして真っ白な鳩が飛び交う。犬瀬駿は重体の模様。その後画面はニュースのスタジオに切り替わり、平ぺったい顔のアナウンサーが、「九時からご覧のチャンネルで記者会見をお送りします、お見逃しなく」と言った。 待合室の窓の外からは中庭の枯れた芝生と、薄い水色の高い空が見えた。とても空気が澄んでいる秋の空だ。芝生の端には、ここにも銀杏の木が植えられていた。薄いガラス窓の向こうからは、少しだけ都市のざわめきが聞こえた。クラクションの音や、トラックやバスが通り過ぎるエンジン音のようなものだ。それから芝生の上をゴミをいれたワゴンを押して、一人の痩せた老人が通り過ぎていった。そして、やはりまだいつもと同じ日曜の朝だ、と心の中で呟いたときだった。不意に僕は言いしれぬ不安に襲われた。今、足を付いている待合室の床が、絞首刑に使われる死刑台のように急に二つに割れ、そのまま真下へ落下するように。もう犬瀬は死んでしまっているのではないか?僕はそう思ったのだった。すでに犬瀬は死に、病院の人間もテレビ局の人間も、とにかくそれを隠そうと必死になっている。九時という記者会見は十時に延び、更に午後まで延期され、日本中の人間がテレビの前で犬瀬の死の報告を待つことになる。死の境界線、それは静かな秋の朝のように曖昧だ。しかし、それは確実に過ぎ去った。僕の体の奧で、小さな死の固まりのようなものが目に見えないかすかな膨張を始めているような気がした。もの凄く凝縮された無のような一つの黒点だ。やがてそれは僕よりも巨大になり、僕を飲み込むかも知れない。しかし僕は死に飲み込まれはしない。なぜならそれは僕の死ではないからだ。僕には自分が死ぬという想像がうまくできない。しかし、僕は誰か他人の死を体の奧に育てている。今それを感じることができた。僕は文字通りシリアスな感情の中にいるつもりだった。犬瀬の死の悲しみに対する振る舞いをさえ想像した。だが、体の中のどこか知らない場所でおかしなことが起きていた――それは痒いのでもなく、熱いのでもなく――どうも、内蔵の一つがひとりでに笑っているような感覚だった。普段意識にも上らない――脾臓とか虫垂というような場所が、まるで何かが可笑しくてたまらないとでもいうように、クスクスゲラゲラと、僕がかつてやったことのない笑い方で笑っているみたいだった。 つづく
May 21, 2005
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ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』が岩波文庫から出ていたので 読み始めたのだけれど、 一人の人間が頭の中でひっきりなしに考え続けている 思考の洪水、切れ目なく続いていく物思いの流れがあちらへ飛び、 こちらへ飛んでいく方へ追いかけるようにして付いていくことに、 少し疲れてしまうような気がした。 しばらく本を閉じて、また、読み始める。 すると人が『考える』ということの喧噪が 次第に殺伐としたものに感じられさえした。 ちょうどスリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ という僧の書いた本を並行して読んでいたところで、 むしろそこに書いてあった『考えない』ということの方に、惹かれた。 いまから一年程前に、ヴィパッサナー瞑想法について書かれた本を読んで、 いまではその内容をほとんど失念してしまったのだけれど、 それは確か、釈迦の言った『十二支縁起』 (種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理) をありのままに観察する、というようなことだったと思う。 『比丘らよ、縁起とは何であるか、 比丘らよ無明の縁から行があり、 行の縁から識があり、識の縁から名色があり……』 というように、物事に実体があるという、 物事が永遠不変だという誤った考え(無明)から行為が生まれ、 意識が生まれ、名称と色形、感覚、接触、感受作用、 欲求、執着、生存、誕生、そして老衰と死、が生まれる、 ということであるらしく、 それが生滅流転の苦しみの世界ということなので、 そのカラクリを見破ったからとて、どうなるものかは判らないが、 ひとまず自分のしている行為を意識しながら、 物事が絶えず移り変わっていく様を観察する、というようなことであった。 歩いているときは、右足を上げます、右足を上げます、前に出します、 左足を出します、左足を出します、というように、自分の行為を ひたすらに実況中継するように行ったりするわけである。 それでも人の心は(少なくとも私の心)は 全く別の遙か遠方に飛び去っていて、 様々な物思いを繰り返している。 例えば、体のどこかに一カ所鋭い痒みを覚える場所があって、 その場所を掻くときのあの瞬間というのは、喩えようもなく 気持ちのいいものだが、それが度を超すと、 その場所が一つの傷となり、思いがけず痛むときがある。 それは些細なたとえ話に過ぎないが、 何故、私は、こともあろうに自分の体を傷つける、 という矛盾した行為をするのだろうか。 これほどまでに快楽と幸福を願っていたりするのに。 そこには端的に『度を超す』という紛れもない原因があるのだけれど、 ついつい『度を超』してしまう瞬間というのは、 いつも、自分の今まさにしている 行為を忘れてしまっているときなのだろう。 ということで、その解決策としては、 やはり『気づく』ということしかない。 それも一秒一秒、常にそのことに『気づく』ということである。 自分自身の心と体を労る、ということに『気づく』。 この頃、立っているときには『立っています』と心の中で唱え ながら立ち、食事をするときには噛む回数を数えながら、 ただひたすらに咀嚼する行為に没入し咀嚼する。 そんなことをしてどうする、と考えながら、 そんなことをしてどうする、と考えている、 という自分と、自分の『思考』を 観察する。 このあと、どうなっていくのかは、判らない。 でも、再び『灯台へ』の中に流れる思考の喧噪に還っていくとき、 それが少し、違ったものに見えてくるような気もする。
May 20, 2005
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8 去年の秋――その朝、僕は劇場通りで起きた交通事故を見に出掛けた。街の中では毎日どこかで、必ずと言っていいくらい、小さなもめ事が起きていた。細かくて断片的で、それはとりとめがなさ過ぎて、新聞の記事にも世間話にも顔を出さずに消えていくようなものがほとんどだった。ただ、街のどこかしらに立っていれば、ひっきりなしに出来事が瞳の中を通り過ぎていく。街とはそういう場所であった。今更交通事故など珍しくない。池袋に越してきた初日に暴力団の発砲事件に出くわしたこともあったし、すぐ近くのアパートで殺人事件だって起きた。でも、その日の事故は、僕だけでなく、我々にとってちょっと特別なものだった。僕はわざわざ部屋を出て、駅前広場を挟んで劇場と隣接する交差点まで走っていった。毎週日曜日の朝に、街巡りの番組を放送している取材カメラが、放送中に偶然事故の現場に遭遇したのだ。リポーターは実際に事故に巻き込まれ、カメラはその映像をリアルタイムで平板なブラウン管に配信していた。僕はそれをテレビで見ていた。同行していたリポーターが古い友人だったせいもあって、僕は毎週日曜日の朝、欠かさずにその番組を見るようにしていたのだ。 空の低い場所から、不意に大きな綿雪が舞い落ちてきたとでもいうように、21インチに切り取られた交差点は白い羽毛で一杯になった。横転したトラックのコンテナから、夥しい数の真っ白な鳩が羽をばたつかせて舞い上がっていた。一瞬何が起きたのか判らなかった。 リポーターは交差点の信号を渡り、劇場脇の広場へ向かって歩いていた。カメラは向かいの歩道から彼の姿を捉えていた。秋の初めのある日、広場のゴミ箱に手作り爆弾が仕掛けられて爆発するという事件があった。彼はその経緯を手短に語りながら信号を渡り、広場の入り口で振り返ったところだった。彼の肩越しには円形の広場が見え、聖書の中の聖人たちが天使のように宙に浮かんでいるオブジェが噴水の脇に立っていた。ケヤキやサクラが枯葉を少しずつ落としていく中で、イチョウの葉がひときわ美しく、秋の朝日を受けて輝いていた。円筒形の銀色のベンチに囲まれた池袋の西口広場では日曜朝市の設営をする人々が、緩慢な動作でテントを建てていて、広場の奧の喫茶店が建ち並ぶ駅前通もまだ、店を開ける前の静けさの中に眠っていた。いつもと変わらぬ日曜日の朝だ。前日には僕の眠っている間に雨が降ったのかも知れない。所々に夜露が濡らした暗い紋様が裸の樹木に残り、隈取り濃く、紅葉した落ち葉がこれもまた朝日の下で眠っていた。肌理の粗いもやもやとした雲が、今にも立ち上がろうとする巨人のような姿勢で太陽を向いていた。朝日はまだずっと遠く、街の外で輝いていた。 車通りの少ない朝の交差点を猛スピードで滑り込んできたトラックは、初め片輪を浮かせて曲芸のようにカーブし、中央分離帯で一回弾みをつけ、広場の入り口でなぎ倒された巨象さながらアスファルトに擦れる悲鳴を上げつつ横転し、歩道に乗り上げ、ガードレールをへし曲げて街灯の支柱を叩き折り、そこに立っていた犬瀬をはね飛ばした。犬瀬の体は意志のない人形のようにぽうんと宙に浮き、すごくゆっくりとした弧を描いて電話ボックスのガラスをぶち破って着地した。「ああ!」と叫ぶカメラマンの声が聞こえ、テレビの画面が交差点を駆けていくカメラマンの荒い息遣いと一緒に揺れた。扉の開いたトラックのコンテナから真っ白な鳩が飛び上がり、ホバリングして着地した。鳩は何匹もいた。どれも美しい白い羽をまとった力強い鳩だった。僕は驚きのあまり、しばらく鳩に気を取られるにまかせていた。そして我に返り、部屋を飛び出し、劇場通りまで走り出した。走って行けば十分も掛からない距離だった。近所の商店街を抜け、駅へと続く目抜き通りへでた。枯葉だけになったハナミズキの並木に沿って風を受けて走ると、朝の冷たい空気に顔がピリピリとした。こんな風にして走るのは何年振りだろうと僕は思った。青白く日陰になっているビルの隙間を抜け、大学通りに入り、信号を避けて落ち葉の降り積もったテニスコートの脇を走った。最後の信号の前まで来ると左手に劇場通りの交差点が見えた。二台の救急車が僕の横を通り過ぎていった。何台もの車が迂回路を探して歩道に乗り上げ、のろのろとバックを繰り返していた。交差点の向こう側からパトカーと事故処理車が入ってきて広場の入り口に止まった。数人の警察官が、増え始めた通行人と野次馬を掻き分けて救急車の道を開けた。 つづく
May 13, 2005
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7「なんでだよ?」「ナンデダヨ」と慶子がオウム返しに言った。「――じゃないでしょうが、ほらほら」慶子は僕と玉をかわるがわる見やりながら、遣り手婆のようにほくそ笑んだ。「今日はみんながちょっとずつ俺を誤解してるんだな」と僕が玉をちらりと見て言うと、「アハハ」と玉は笑った。玉の目は猫のように大きい。「アハハじゃないのよ、あんた」と慶子は玉の肩を軽く小突いた。「いっつもそうなんだから」「いっつもってなんだ?」と僕は訊いた。「だから――」と慶子は玉の腕と僕の腕を掴んで振った。「――誤解ってなによ?」「だから――」と僕はため息を付きながら言った。「おまえ、顔が怖いぞ――(失礼ね!)」「フフフ」僕は言った。「そりゃ会いたかったよ」「ね?――ほら」「慶子ちゃん、僕は君が大きくなるのを待ってたんだよ、だのに――」「おじさま、よくってよ、知らないわ――って、あほ」「それより、プロポーズの言葉が知りたいわ」と突然玉が言い出した。「そうだ」と僕も同調した。「塩野君もここにいることだし、式は来月だし」「ずるいのねえ」と慶子は笑いながら額を押さえた。「ねえ、何て言ったの?」と玉が塩野健に向かって訊いた。「俺は――えっと、なにも言ってないっス」と塩野健はペコリと頭を下げた。「かっこいい!」と僕は叫んだ。「言わないのよ」と慶子は椅子にもたれて首を振った。「じゃあ、どうしたのよ?」玉がやけに興奮していた。「ねえ、ねえ?」「あァ?――だから、訊いたのよ」と慶子。「なにを?」と玉。「だから――“科白”って書けるかよ」「セリフ?」「だいし(台詞)じゃないのよ、かはく(科白)の方よ」「で?」と僕は訊いた。「で、書けたの」と慶子が答えた。「それだけ?」玉は驚いて言った。「そうよ、悪い?」「俺だって書けるぜ」「あら、そう?すごいじゃない――で、あとは手よ」「手」と玉がぽつりと繰り返した。「――そう、この人の手を見て、こういう手の人となら、一緒になってもいいかなあって」「ふうん」と僕は言った。変に納得してしまったのだ。人が時間を掛けて生きるということは、それがどんなものであるにせよ一つのれっきとした価値観を作り上げるものなのだ。「すごい」「あんた、しあわせねえ」と玉が言った。「ほら――私が言ったんだから、あんたも言いなさいよ」と慶子が僕に言った。「だから、なにを?」とあまりにもしつこいので僕がとぼけるのにもうんざりしていたところで、「あの、俺話してもいいッスか?」と塩野健がみんなの声の二倍くらいの音量で言った。「おおっ、もちろん」と僕は言った。 塩野健はさっきからずっと立ったままだったけれど、更に少し足を開いて直立不動の体勢を取った。そして、「実は、慶子さんにずっと言おう言おうと思ってたことがあるんです」と塩野健は改まった口調で始めた。その場にいる三人の気配が急に強ばるのが僕にはわかった。僕たちはしんと黙りこくり、すると、急に向かいの群道を走っていく車の音が聞こえてきた。「なに?」と慶子が口を開いた。少し、緊張しているようだった。僕は一瞬、まさか、と思ったのだった。「去年の秋の――犬瀬さんの事故のこと」僕の予感は的中した。僕は一瞬耳を覆いたくなる気持ちをこらえた。暖かい五月の風が今更ながら暖かすぎるように感じられた。 つづく
May 11, 2005
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6 丸山慶子と塩野健はこの四月に婚約をしたのだけれど、まさか慶子がこんなに早く結婚するとは思わなかったと一番驚いたのが深津玉で、それより僕が驚いたのが、塩野健がその四月から○○ソースのイメージキャラクターに選ばれてその会社のCMに出演するようになったことだった。「○○ソースの工場、鳩ヶ谷にあるよね」と僕は塩野健に言った。彼は、去年ある偶然から初めて出会ったときと全く同じ服装をしていた。この男には、季節感というものがない。「――そうなんスよ、だから俺、一回そこの社員の人に連れられて工場見学したことあるんスよね」と塩野健は屋上の端に立って、「ほら、確かあっちの方だったと思うんスけど」と指さした。さっきトラックが走っていった方向だ。「馬鹿、落っこちるよ」と玉とお喋りをしていた慶子が言った。 慶子は黒のノースリーブのニットに、とても足が長く見える細身のジーパンを履いていた。高いヒールの足首にはガーネットをちりばめたアンクレットが光っていて、胸元にはたぶんオパールだと思うネックレスが揺れていた。でも、僕はあまり宝石に詳しい方ではない。豪華な感じでパーマを掛けた髪の毛については、慶子自身が先週掛けたばかりだと玉に向かって説明していたが、明るくて気の強い割にはすぐ疲れを感じる彼女は玉の隣に寝そべるように座り込み、ハンドバックからバージニアスリムを出して火を付けていた。「なんかここ、すごい久しぶり」と煙を空に吐き出しながら言った。彼女の煙草の吸い方は様々な業種を転々とするうちによくあるみたいにくたびれてくるのではなく、逆にどんどん洗練されていくようだった。百貨店の家具売り場で働いてみたり、翻訳事務所に勤めてみたり、司法試験を目指してみたり、僕は競馬に興味はないけれど、慶子のような馬が走るレースなら一度くらい見てみたいと思う。青い空を背景にした煙の見えない煙草は、傍目にも美味しそうには見えなかったけれど、僕は禁煙してまだ一月しかたっていないから、急に煙草を吸いたくなった。「森田は?」と慶子が訊いた。「下で原稿書いてる、会わなかった?」と僕は言った。「っていうか、会っちゃまずいかなって思って」と慶子は言った。「だって、森田、対人恐怖症なんでしょ?」「えっ、本当?」と玉が眠りから覚めたように反応した。さっき玉は、僕と森田が二人で話し込んでいるのを見ていた。「そういう根も葉もない――」と僕が言いかけると、慶子が、「根も葉もあるってば、――だって、私、一対一で森田と話したことないかも」と言って身を起こした。「うそ」と玉が笑った。「まじまじ」と慶子は僕と玉の顔を交互に見た。「だって私、映画とか、ハリウッドの有名なのしか見ないじゃん?それか逆にすっごい超マイナーなやつ。B級、C級っていうのとか(そんなのあるっけ?)あとはなんかアジアの映画とか、っていうか香港?っていうかラブコメ?って感じじゃない、ってかそうなのよ実際、だから森田にはもう小馬鹿にされてる感じだし、それはなかったとしても、まあ話は噛み合わないじゃん?」「うーん」と玉は言い、「あんた変わんないねえ」と笑った。「や、あれはだから犬瀬が勝手に言っただけ――」と僕は言いかけて、咄嗟に口をつぐんだ。自分でも一体何を言い出しているのだろうと思ったのだった。 僕は慶子と塩野健の表情を気づかれぬようにうかがった。けれども、二人とも特に変わった様子は見うけられなかった。僕はひとまず胸をなで下ろし、後ろに伸びをするようにして背中を反らし、右目を瞑って太陽を見上げた。そうすると、世界は光で真っ白に溶けてしまう。「あァーあ、何年振りだあ、こんなの?」と僕は少しわざとらしく欠伸をして、大声で言った。「なにがあ?」と慶子が新しい煙草をくわえながら訊いた。「だから、みんなで鳩ヶ谷に集まるの」「へへぇん、あんた玉に会いたかったでしょ?」と慶子が悪戯っぽく言った。 つづく
May 10, 2005
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5 僕は、久しぶりに会った玉に対して、もっと何か別のことを話すべきだったんじゃないだろうかと考えていた。少なくとも、同じ時間を生きている人間として、もっと我々が分かり合うことの出来る何かについて。何事かを語り終えた今、我々は何一つ変わっていないようだった。「さあ、よくわからないよ」と僕は言った。「ということは、どちらでもいいことなのよ」と玉は言った。「あ、誤解しないでね、それはどうでもいいってことじゃないのよ」僕は頷いた。「私が住んでる街ね、知ってるでしょ?」(僕はまた頷いた、駅名は不意に忘れてしまったけれど、何度か遊びに行ったことがあった)「すごく、新しく出来た街らしくってね、なんて言うのかしら、人の温かみってものがないのね、だから、名古屋から出てきてすぐは、すっごく嫌だったの。ね、わかるでしょ?」(僕は彼女の言うことがよく解った。彼女の実家はそのあたり近隣では割と名の知れた神社をやっていて、大晦日や正月の頃の賑わいはちょっとしたものだった。そして、僕はその人と人が寄り集まって一年の労苦をねぎらうホカホカした雰囲気が、なんというか、ものすごく好きだった)「でもね、もうなんだかんだ言って八年も暮らしてるじゃない?(そう、八年、それは決して短い時間ではない)そうすると不思議なことにこんな街にも愛着が湧いてくるもんなのよね」(ここで、玉はすごく可愛らしく、というか、深く微笑んだ)「――もちろん街の景色は全然変わってないのよ、でも最初の頃とは何かが違うの。――銀色にオレンジのラインが入った小さなバスに乗ってね、私の停留所に帰ってくるでしょ。するとそこは完全に誰かの手で設計された人工都市みたいに白いマンションが並んでる。人気がなくって、等間隔に同じ背丈のポプラの街路樹が整列してて、小さな区画にある公園にはキリンの形をした滑り台とか、象のモニュメントがある砂場とか――あ、でも子どもは一人も遊んでないのよ――そしてほんとに迷路みたいに歩行者用の陸橋が入り組んでいて、いろんなところにA区画B区画C区画って矢印が出てて、階段やスロープが続いてるの。で、時計塔のある広場があって、昼間には誰も歩いてないこともあるのよ。ほんと、味気ないわ。でもね、その無人の巨大住居都市(玉はそれを強調して言った)っていうもの、ううん、その言葉の響きね、それがなんだかすうっと心に染みこんできて、なんかおかしいけど、癒してくれるってことがあるの。でね、なんだかいろいろあってすごく疲れちゃったっていうときにね(女が二十六になるっていうのはいろいろあるんだからね、と玉は悪戯っぽく笑った)今言ったいろんなものを見てね、なんだかほっとするの、ううん、正確にはそのものを見てるんじゃなくて、コトバに変換してね、その字面っていうか字体で心の隙間を一杯にするっていうのかな」「ふうん、そうなのか」と僕は言った。僕は玉の言葉通りの風景を思い浮かべようとした。でも、それはうまくいかなかった。そして玉が言うように彼女の話し声が文字に変換されて浮かんでいた。「そうかあ」と僕は言った。なんだかすごく納得してしまったのだ。「でもね、そういうのってやっぱり中身はなんにもないっていうか、からっぽっていうか、タマネギの皮をむいてなんにもないみたいに、別に意味なんてないのよ(あ、タマネギには芯があるわね、まあ、それはそれとして、と玉はとても早口で言った)だからね、どっちでもいいって言ったの。もちろん、準ちゃんと私とでは違うのかも知れないけど、からっぽのことでも、そうしてるってことは、ちゃんと、そうする必要があるからなのよ」僕はしばらく考えてから、「ありがとう」と言った。「なにいってんの」と玉はまぶしそうに顔をしかめて笑っていた。「やっぱり玉は――」と僕が何かを言いかけたとき、外階段を上ってくる足音が聞こえ、僕が振り返って見ると、屋上の入り口に丸山慶子が顔を出したところだった。「や、おふたりさん、ごめんごめん」と慶子はかかとの高いサンダルで音を立てながら三段くらいのステップを下り、すらりとした格好で屋上の上に立った。「ひーさーしーぶーりー」と玉と慶子が子どものように声を合わせて叫び合いながら、小刻みに体を震わせつつ手を取り合ってはしゃぎだし、慶子の後に階段を上がってきた塩野健は、困ったように僕と顔を見合わせていた。 つづく
May 9, 2005
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日曜日、数学者の友人と池袋で飲む。 まずは鰻屋で一杯。 人間の視覚について話をする。 日常生活における遠近感が当てにならないとか、 そういう話。 彼は鰻丼のご飯を何故か一口分だけ残していて、 女将さんが訝しげに丼をさげていった。 それから雑居ビルの中にある、 個室居酒屋でダラダラ飲む。 暴飲暴食に飽きたので、 酔わない程度に焼酎ばっかりジワジワやっていると、 本当に全然酔わなかった。 で、その彼とこのたび一緒にフランス語を勉強することになった。 理由はバートランド・ラッセルの原書の読み合わせをするより、 幾らか気軽に楽しめそうだから。 ということで、 久々にフランス語の辞書を本棚から引っ張りだして、 風呂に浸かりながら、『星の王子様』をちょっと読んでみたところ。 そういえば 私の知っている人は(中学生を除いて)活き活き勉強しているみたいだ。
May 9, 2005
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4 玉は黙って僕の話を聞いていた。しばらくの間感想めいたことも言わなかった。僕は玉に、気取っている、なんていう風に考えて欲しくなかった。でも、もしそう思うんであれば、それは仕方のないことだとも思った。 その時アパートの前の坂道を赤いスポーツカーが駆け上がってきて、ぴかぴかに磨き上げられた車体に光を跳ね返した。助手席の窓からは少し太りすぎたラブラドールレトリバーが気怠そうに長い舌を出して、風に顔をなぶられているのが見えた。そして、アパートの前で車は右に曲がり、緩やかにうねる群道を走り去っていった。おおかたピクニックにでも行くんだろう。世の中にはいろんな人間がいる。――それにしても僕は何故街の写真なんか撮る?「どうしてだろう?」と僕は言った。「さあ、どうしてなんでしょう?」玉は自分の膝の頭に頬杖をつきながら答えた。まるで子どもの出すナゾナゾを一緒に考えている母親のようだった。「たぶん――」「たぶん?」 もう少し素直に、そして正確に話そう。洗いざらいに、とはいかないまでも。 それはここ二、三年のうちに知らず知らず始まっていた習慣であった。この街に暮らして八年という時間が流れている。八年。一人の人間が一つの変化を遂げるには充分すぎる時間だ。おそらく変化は他にも数え切れないくらいにある。街の写真を撮るようになったのもその一つなのか。郷里の名古屋から東京の大学に進学して以来、様々な習慣を一時的に使い分けてきたし、一人で生きるということは、自分なりのやり方を一つ一つ揺るぎなく確立していくことに他ならなかったのだ。(そうね、と玉はぽつりと相槌を打った) 無数の試作品の日々、あり合わせの部品で辛うじて一日の間休まず動く時計を作り続けていたようなものだ。そして使い物にならない部品はその都度変えていかなければならない。それもまた日々の寄せ集めであった。そしてそれはとてつもない細部にまで渡った。朝何時に起きて夜何時に寝るかということから始まり、何をどれだけ食べるか、どんな本をどんな風に読むか、掃除の順番はどこから始めるか、新聞は何面から読むか、アイロンはどのようにして掛けるか、スーパーの順路をどのように巡るか、どんな酒をどの順番で飲むか、そういった誰もが選択する日常的なことはもちろん、笑うときどれだけ顔に皺をつくるか、手を振るときはどんな角度まで持ち上げるか、右手か左手か、眠りに落ちる瞬間はどんな姿勢をしているか、並べ立てればきりがないそういった一つ一つも決してなおざりにすることはできなかった。少なくとも五つか六つの候補を比較対照し、検討し、実践し、そして修正していかなければならなかった。僕は必ずしも几帳面な人間というわけではない。(ここで玉は、フフフと笑った) ただ、そうしなければ生きていけなかっただけのことだし、選んだとおりにいつもうまくやれたわけではない。そんな風にして八年もの間思考システムと感情反応のパターンを作り上げようとしてきたのだ。そして今、僕は知らず知らず秋がやってくると街の真ん中へ歩いていって誰に見せるわけでもない写真を撮るようになった。一体僕はどのように成長したのだろう。ただ、一つだけ言えることは、僕はそういった一つ一つのことを、何かのためにやって来たのではないということだ。だから、写真を撮るということは、僕が確立したわずかな体系に従って起こる当然のこと、遙か海を渡ってきた鳩が街の入り口で静かに翼を休めるようなものだ。(――わけもなく、と玉が言った)(そう、と僕は言った) 仕事が休みの日は、間違いなく僕は池袋の街を歩いていた。都内にはここと似たような街が他にもいくつかある。鋭敏で洗練された商業都市。けれども、僕はこの街からほとんど外に出ることはない。ビルとビルの間にぽっかりと現れる高い木立に囲まれた公園、通りと隔てられた静かなテニスコート、大衆向けの騒がしい映画館、閲覧の乏しい図書館、穏健な私立大学、似通った大規模な書店、傘下に無数の企業に野球チームそれから鉄道路線を抱える幾つもの百貨店、歌劇とバレエのための劇場、古い馴染みのための神社、企業が集まるハイクラスのホテル、抜け道としてしか使わない水道局の駐車場、鯨もイルカもいない水族館、人影のない競技場、巨大すぎる共同墓地、外国人の多い歓楽街、無機的なオフィス街、その向こうにそびえる白いゴミ消却施設、低い屋根の続く住宅街、などなど、ここにはあらゆるものがちりばめられている。他にどこへも行く必要がない。他に行く場所なんてない。 しかし、当然そんな賑やかな街も一歩道を踏み誤れば閑散とした味気ない雑居ビルと高架線に挟まれた、空き地ばかりの地区に出ることになる。そこにはいつだって当たり前の暮らしがある。そうなったら黙って街の中心へ引き返すだけだ。街の中心は成熟し切れないものたちが寄せ集められている。(成熟しきれないものたち、と玉は小さな声で繰り返した) 現像した写真を食卓テーブルの上に一枚一枚並べてみる。街の中空はビルの群に乱反射する光のせいで、白い粉の飽和した水溶液のようにぼんやりと濁り、丸味を帯びて端の方が歪んで見える。四方向に枝分かれした交差点の真ん中から、駅の中央口へ突き当たるメインストリートには渦巻きのオブジェを中心に据えたロータリーが見え、時計塔にもなっている銀行のビルを挟んで駅の地下道へ飲み込まれていく通りの奧は、線路に沿って劇場公開映画の立て看板がずらりと並んでいる。交差点から左を向けば、やがて古い街道に合流して県境を越えていく道が、まっすぐ街灯と白樺の街路樹の隊列の奧に消えていく。右を向けば劇場と警察署を過ぎたあたりでふっと通りが途絶え、静かな高級住宅街の中へ誘い込まれて足音が掻き消される細い路地となる。「それから――」と僕は言った。「それから?」玉はまた、僕の言葉を優しくなぞるように訊いた。あせらなくてもいい、なにも心配することはないんだ、とでも言うみたいに。 そう、駅のプラットホームだ。僕は列車に乗るという目的を持たずに駅へ行く。そしてホームの端に立って向かい側のホームで列車を待つ人達を眺める。彼らの声は聞こえない。人々はじょじょに冬支度を調え、立ちながら黙想でもするみたいに時計を見たり空を眺めやったりする。携帯電話からメールを送信しようと夢中になっているサラリーマン、百貨店の買い物袋を三つも四つも下げて緑の公衆電話に何度もテレホンカードを入れ直す女、向かい合っておしゃべりをしながらマフラーの形を直しあっている恋人たち、立ち話をしている飼い犬のような子どもたち、何度も足を組み替えて映画のパンフレットを読んでいる若い女。彼らの声を聞くことはできない。ただ彼らの居佇まいや身振り仕草を僕はじっと眺めるだけだ。ホームの前後は高い駅ビルに挟まれている。外壁に沿って並ぶ広告塔の文字を丹念に読んでいる老人がいる。頭上では百貨店の巨大なパーキングが、隣のビルに渡してある橋の上に何台もの車を規則正しく吐き出している。トヨタの赤い軽自動車、ステーションワゴン、スズキのライトバン、フォルクスワーゲンの水色のミニ。隙間の開いた窓から万能ネギが飛び出して風に揺れている。列車がホームに入ってくると、僕は階段脇の、通行の邪魔にならない場所に寄って降車する人々を眺め始める。赤いコートを着て派手な化粧をした女、ぴったりとしたジーンズをはいて弓道の道具を抱えた若い女、葬式帰りの数人連れ、人波の中に鞄を引き取られてよろめく男、僕の顔を見て知人と間違えたのかぱっと表情を輝かせ手を振る紳士然とした男。しかし、やはり彼は人違いをしていた。ホームの連絡橋に昇り、駅を発車していく列車を見下ろす。束の間の引き潮のようにホームには人影が途絶え、そしてまもなく第二波がそろりそろりとやってくる。 そして、再び交差点。僕は街の真ん中にいて、街を遠くから眺める。八年目の到達点。街は忍耐強く、優しく、偶然を装って、ありとあらゆる物語の糸口を配置し、コラージュし、ビンゴゲームのくじのように忙しなく回転させる。「いいねえ、懐かしいスウィートシックスティーン、16番だよ」、「いつも地下鉄のこの番号の出口で彼女は待っていたっけ、3番」、「こいつも過ぎ去りし時代だ、何もかも過ぎ去ったね、清々する?90番」、さあ、そろそろ幸運を引き寄せる人はいないかな?と年老いたディーラーが言う。彼はミッキーマウスの耳をつけて笑っている。いつか見た映画の中で、保養地の老人や傷痍軍人たちが無気力に遊んでいたのを思い出す。彼らの目は遠くを見るように焦点がぼやけている。別に何番が揃おうとどうでもいい、それは記憶の羅列に過ぎない。僕は交差点でもう一度シャッターを切る。瞑目。一瞬の闇に風景は切断されて、夕闇に沈んだピントのぼけた写真には街の光がぐしゃぐしゃと入り乱れている。本当の街はずっと遠くにあるのだ。(本当の街?と玉が呟いた)――何故僕は街を写す?秋、街が美しいから、と僕は答える。いや、それは違う。もしどうしても目的が必要だとすれば、いわばそれは自己救済の一つの手段であった。でも、そんな言い方は大袈裟で、空疎だ。取り立てて救わなければならないものがあったわけではない。それは手近なところから選び取った一つのライフスタイルだったのだ。――傍観者的生活。 僕は言った。「傍観者的生活」と玉はゆっくり繰り返した。「そう」僕は言った。ゆっくりと流れていた雲が、さっと一瞬太陽を隠した。屋上全体を照らし出していた陽光が翳り、青く静かな色調に、全てが一瞬の間だけ包まれていた。頭の上には空しかなかった。なのに、その時だけ窓のない部屋にいるような気分だった。そして、切れかけた蛍光灯が明滅するようにして不意に明るい世界が蘇った。 玉は黙ったままゆっくり視線を鳩ヶ谷の町の眺めへ移していった。日差しがきらきらと輝いていた。近くにあるソース工場のトラックが三台ほど並んで坂を下っていった。坂の向こうに広がっている家並みの奧に、変電所の灰色の敷地が少しだけ見えた。「ねえ、それは、いいことなの?それともよくないこと?」しばらくして、玉は一つ一つ何かを確認するように訊いた。 つづく
May 8, 2005
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