日が昇らないあした ~デトックスver.1

鬱とカットと服薬~鬱~



17日だと思ってた。4日、仕事休んでる。月火、動けませんでした。一日中ぼーっとTVつけてる状態。寝てることも出来やしない。
「徹子の部屋」見てたら高島忠夫サンが出てた・・・・・。鬱で休業か引退してたと思うけど、やっぱまだ<見るからに病人>。この前自立支援の更新で医者が書いたのは<気分障害>。で、鬱・自傷傾向顕著のため通院要す。





アタシが『鬱』というありがたい診断を受けたのは2004/4月のことだった。

生まれて、地元で育って、18で首都圏に逃亡し、20代後半に、また実家に戻り・・・・

逃亡した時と状況が変わらない中でアタシは家族の誰にも打ち解けることなく、只無駄に時間を過していた。
唯一、仕事してる時だけが息抜き。
全てを自分の中に溜め込んで、それで

ちょっとした事だったのだ。

食材は全て自分で購入したものだけを使い、
家に帰ると度数の高いアルコールをグラス一気のみして落ちるように眠る。
家族(と言う名の他人)は私に興味を抱かず、ただ、「金を出せ」それだけの会話だけ。
そういえば私が小学校からこの人たちは私に無関心だったな。
慣れたけれども、慣れてたつもりだったけれども。
私には一回り以上年の離れた妹がいる。
彼女に対する家族の態度を見せ付けられるにつけ、どんどん私の中には溜まっていくものがあった。

何故私以外の兄弟の話を私にするのだろう?
高校時代、離人していて保健室通学で休みまくっていた私に、母は「下の弟がチック症みたいなんだけど、やっぱりストレス溜まってるんだよねぇ」

アタシは彼らにとって何だったのだろう?

アタシが成長することは=お金がかかる

このことだけだったらしい。
今でもアタシは「生まれてこなかった方が周りは幸せだったのだろう」この思いから抜け出せていない。アタシは絶えず家族の顔色を伺う子供だった。相手は関心が全く無かったらしいけれども、さすがに世間体はあって学校には行かせてもらえた・・・・・専門学校だったけれども。
「大学なら公立以外は駄目、浪人も許さない」高校3年の2学期になっていきなり言われた言葉だった。弟と妹は私立四大で、浪人と留年としていたけれども。

まあ、伏線としてこういう事情があったのだけれど。
アルコールも尽きかけた頃、私は精神科に行った。不眠症という名目で。
フルニトラゼパム1mgと朝版デプロメール25mg。それが最初の処方だった。
一応2週間分。でも、フルイトラゼパム1mgで眠れるはずも無く、倍で何とか眠れる日々。一週間後、アタシはまた同じクリニックを訪れた。で、フルニトラゼパムは一日2mgとなり、デプロに代わってルボックスが一日3回50mgの処方となり、一週間の処方で、医師から「来週は家族を連れて来てください」。
迷ったわ~~、話すのメンドイし。でも取りあえず両親は来てくれて、説明は受けて、やっぱり理解はしていなかった。

何故判るって?

子供なめないでよね~~。
親の考え、気分判んなかったら子供なんてやってられないじゃん?


それからアタシは何件かドクターショッピングして、結局元のクリニックに戻り、クスリ行脚が始まるのだ。
クスリ代も相当な額になり、アタシは32条の申請を医師に申し出た。認められるかな?という疑念はあっさり「コレだけ常用してた下ります」との一言で方がついたww


くるくるクスリは変わり、副作用は出たり出なかったり。何とか仕事は行けてたけれど結局その年の9月に1週間、10月には丸々一月休職することになる。
家族の気配に怯え、無言の嫌味のなかで休めていたかどうかは今でもかなり疑問だ。<sh2>というゲームと大量の睡眠薬が無かったら乗り切れなかったろう。

明けて11月。やっぱり仕事は休みがち、遅刻と早退の繰り返し。
会社まであと50mというところで行けなくなったこともある。
そのころ飲んでた薬は10種類以上、脈は100を越えていた。過食と拒食を繰り返し、睡眠薬はどんどん強いものになり。

その年度末を持ってアタシは戻れるはずの無い休職に入ったのだ。


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