私見ベトナムの歴史46



主な物を紹介しましょう。
ディン朝時代の980年、十二使君の一人ゴ・ニャット・カイン(呉日慶)がチャンパの船団100隻と共に首都に迫ろうとしたが暴風雨で船がことごとく沈む事件。

1370年チャン朝、王位を奪おうとして皇太后を暗殺したズオン・ニャット・レ(楊日礼)。結果的には皇帝チャン・ゲ・トンに処刑されるが彼の母がチャンパに逃げ込み翌年(1371年)復讐のためにチャンパ軍を率いて首都を蹂躙します。宮殿、書物が灰に、多くの婦女子がさらわれました。

1377年、チャンパを攻めたチャン・ゲ・トンが逆に敗戦して殺され。
1378年、チャンパは首都を攻撃したが占領せず1日で退去しています。前年の懲罰的行動だったのでしょう。

ベトナムもチャンパに対して侵攻しています。
982年、レ・ホアン(黎桓)が宋の攻撃を破ると反転してチャンパに攻め込み金銀を奪い城を徹底的に破壊した。
1044年リ・タイ・トン(李太宗)がチャンパを攻撃。チャンパは象軍を押し立てて戦ったがリ軍が太鼓をたたいて進軍したために象が驚きチャンパ軍は壊滅してしまった。リ軍は3万人を殺し、馴らした象30頭を捕獲。首都ヴィジャヤに侵攻チャンパ王ジャヤシンハヴァルマン二世を殺し5000余人を捕虜として連行。
1104年、リ・トン・キエト(李常傑)が現在のQuangTri省に侵攻住民を移住させます。

チャンパの国力を決定的に削いだのがレ・タイン・トンの時代です。
ジワリジワリと南進していたベトナムですが明との間の争乱中チャンパも元のの国土を徐々に回復していきます。明から独立した後もLe朝は国内整備に重点を置き以前のまでの歴史にあった、軍を反転させてチャンパを攻める事はありませんでした。ここがベトナムのインドシナ半島における転機になったとも言えます。ベトナムは「村の垣根の中には皇帝の支配は及ばない」ということをベトナム人の自立心の現れのようにアピールしますが果たしてそうでしょうか?
別の見方をすれば小勢力が割拠している状態とは言えないでしょうか?

これは経済活動、法整備、兵の召集において著しい阻害要因といえます。世界に同情を喚起したベトナム人のけなげな戦い後の世界史に残るであろう大量のボートピープルの存在はなぜか?
ベトナム人は一過性の熱狂で団結はするが長続きしないと言えるのではないでしょうか。
インド文化は中央集権的な要素が少なく、中華文明は中央主権的な要素が強い文化です。Le朝はインド的文化の一掃をまず自分の朝廷確立の主目標に置いたのでしょう。それがほぼ完成したレ・タイン・トンの時代にチャンパが攻撃を仕掛けてきます。

1470年8月、チャンパのチャ・トアン(茶全)王が陸、海路から10万の軍勢で現在のフエ当たりに侵攻を開始します。明の了承のもとレ軍は15万の地上軍、10万の水軍を11月に整え、翌1471年1月2日に総攻撃を開始します。2月にはQuangNam港に達しチャンパ軍を陸海から挟み撃ちにします。

チャンパ軍はBinhDinhに向け敗走しますが、QuangNgaiのも既にレ軍が集結を完了しておりチャンパ軍はことごとく殲滅されます。
チャ・トアンは降伏しようとしますが、この受け入れをレ軍は無視し本城であるチャバン(闍槃)城を2月29日に包囲します。
3月1日総攻撃を開始。戦意がなきに等しい城に突入し4万を殺戮し3万の捕虜とします。
チャ・トアン王は生け捕りにされ首都に護送される途中恐怖のあまり病死してしまいます。レ軍はその首を証拠として切り、胴体は海に捨てたそうです。

この戦いでベトナムとチャンパの国境はNhaThangから80㌔ほど国道を北上したDaiLanhの峠が境界となりました。

1479年、今度は8月諸将に命じて哀牢、盆蛮、老過(手辺に過)へ18万の軍で侵攻し現在のラオスの北側に接する領土を確保します。

中央集権の強さは軍を中央が掌握することでその大兵力を集中できる組織力が周辺諸国を圧倒したというのが大勝の要因と思われます。この近代戦に通じる兵の活用はモンゴルに始まると思うのは私だけでしょうか。
(2002.9.27)




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