木炭 0
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ヤッターマンスペシャル版を見た. 視聴者リクエストでかつてのending song 、「頭は冴えてるよ、hey hey hey~」をやったのと、ガッチャマンが出てきたのが妙に懐かしかった. 視聴者リクエストだったところを見ると、この番組を見ているのはやはりオイラと同じようなオッサン世代なんだろうなぁ
2008.05.06
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山崎豊子の「大地の子」を読んだ。中国残留孤児が、さまざまな差別を受けながら、なお中国人として生きていく姿を描いたものだ。NHKでドラマになったこともあったらしい。その姿にも感動するけれど、それより中国という国のすさまじさに圧倒された。作者は事実をもとにして書くことを非常に重視しており、胡主席の特別許可にもとづく取材もしているので、ここにでてくる中国の姿は限りなく、真実に近いのだろう。そう思ってみると、日本人から見たときに中国と言うのはなんと理解しがたい国なんだと思える。個人でも、国家単位でも自分のことばかりを考え、当たり前のように約束をやぶり、自分のミスの言い訳は山のように言い、相手の弱みを見つけることに異常な執念を燃やす。冷凍ギョーザ事件やらこの間のサッカーとかから生まれてくる中国への不信感が歴史的背景をもって裏づけされる気がしたりする。ある意味、民族差別的な小説でもある。「小説だから大げさに描いているんだよ。自分の知っている中国人はいい人だ。僕は昔そう思っていた。でも外国に住んでいて、やはりそういう考えは甘いと思い知った。民族は民族としての背景を必ず持っている。どんな国際人の中にも、そのマナー、価値感等々、他の民族からみたときには理解しがたいものが必ず含まれている。偏見といわれようとなんだろうと、その色眼鏡を使って相手を見ることが、外国で生きるためには大事だと痛感した。中国に関して言えば、ビジネスの相手としてはきわめて危険だ。日本人の感覚で卑怯と思えても勝ち逃げしてしまう勇気がないのなら、いつか必ず痛い目を見るのだと思う。彼らから見たら日本人は我儘で呑気なバカ者ばかりなんだから。
2008.02.21
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「新ヤッターマン」に何か足りないなぁと考えていたら、 それはガッチャマンじゃないか?と思いついた。 昔、ヤッターマンはガッチャマンに引き続いての番組だった。 ガッチャマンでコテコテのヒーローを堪能し、その余韻にひたっていると いつのまにか始まっていたのがこの番組だった。 だから番組の前半部分はまったく記憶になく、「今週のビックリどっきりメカ」が出てくる頃になってようやっと意識が戻っていた。 そういえば大昔の少年ジャンプで、めっちゃクサい「リングにかけろ!!」を読んだ後に「すすめパイレーツ!」を読むと、そのどうしようもなさがいっそう笑えた。 複数の番組の中でみて、いっそう可笑しさが出る作品をリバイバルするときは、その前後の番組も大事なんじゃない?と思ったしだいでした。
2008.01.17
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アガサ・クリスティ原作、「5匹の子豚」をDVDで見た。 原作はクリスティ自ら、もっとも気に入った作品のひとつとして挙げているものであり、 クリスティベスト10にも必ずでてくる作品だ。 エルキュール・ポワロを演じているのはデビット・スーシェ。 彼ほどポアロを演じるシリーズは、映画ではなく、TVドラマなのだけれど、キャスティングが実にいいと思う。 ヘイスティング中尉やジャップ警部もイメージピッタリ。 それから背景に出てくる1930年ぐらいのイギリスの邸宅や車なんかもすごく自然でいい。 ただ全体に、ちょっとコミカルに造り込んであるものが多い。 才気あふれて、放蕩三昧の著名画家アミアス・クレイルが殺害される。 殺害当時、画家は若いモデル、エルサを自宅に招いて、作品を制作中だった。 画家は夫人のキャサリンがいるにもかかわらず、エルサを溺愛し、エルサも彼との結婚を強く望んでいた。 当然、キャサリンが犯人とされ、裁判でも有罪となり死刑になってしまう。 彼らには当時7歳の娘がいたが、14年たって、その事件と、冤罪を告げる母の手紙を手にする。 彼女はポアロに依頼するが、14年も前のことなので、当時の証拠は何も残っていない。。。 結構重いストーリーなので、このシリーズでは軽すぎるような気がしていた。 しかしさすがに著名作だけあって、音楽や、映像がふだんよりしっとりと作りこんであり、 かなりいい作品だったと思う。 クリステイの映画というと「そして誰もいなくなった」以外はろくな作品がない、、と思っていたのだが これは凄くいいと思った。 ただ1つ残念だったのは、アミアスが描いたエルサの作品が出てこないことだ。 彼は死の直前まで、すべての情熱を込めてこの絵を描いた。 それだけでなく、この絵には事件を物語る大きな意味が込められており、 原作中では、最後にみんなでこの絵を見つめなおす、、というシーンがあるのに、 ほとんど出てこなかった。 そして、ちらりと出てくるその作品のイメージもちょっと軽かったなぁ。 1930年ぐらいというと、当然ゴッホやピカソも登場していた時代であり、 かなり濃厚な絵をイメージしていたのだけれど、まるで黒田清輝のようなアッサリとした絵に見えた。 もしかしたらそれは予算の限界だったのかもしれない。 まあそんなところを見る人間は少ないだろうから、どうでもいいことかもしれないけどね(笑)
2007.12.22
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斉藤孝氏の「コミュニケーション力」という本を読んだ。 「声に出して読みたい日本語」で有名になった斉藤氏を僕はすごく高く評価している。 凄く頭が良くて、教養もあって、難しい言葉も誰よりも知っているはずなのに、 TVでも本でもそういう素振りを見せない。 論理的だけれど、すごく平易な言葉でわかりやすい。 こういう喋りや文章は、そうそうできるものではないと思う。 この本はなんとセックスのコミュニケーションにまで言及している。 同じ相手と数を重ねるほど良くなるのが、 良いセックスなんだそうだ この本を読んで、自分に足りないものも少し意識できた。 それは何か? ・・・・・内緒です(笑)。 あ、ちなみにセックスのことではないですよ。 できれば日常会話や、blogの中で効果を確かめてみたいな。
2007.10.10
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タイムボカンシリーズが復活するらしいよ。 TVで予告をやっていた。 「あの3人が帰ってくる。」 というナレーションとともに、浮かび上がったのは ヤッターマンではなく、 ドロンジョ・トンズラ・ボヤッキー・・・・・。 あら、彼らは主役だったのね? 気がつかなかったけど、新シリーズが製作されるのはなんと30年ぶりらしい。 どうりで会社で話しても、話が通じるヤツが少なかったわけだ(爆)
2007.10.08
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おもしろかった順。<本>2→1→7→5→3→4→6<映画>1→2→3→4→5映画はどんどんつまらなくなっていっているなぁ。話が複雑になると映画の枠にはまりきれないかも。ちょっと残念。
2007.09.15
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今朝のNHKで、注目の物理学者リサ・ランドール博士の放送を見た。ハーバード大学教授にして、超美人。しかもノーベル賞にも近いと言われる話題の人物。彼女が注目されるのは異次元空間の存在を証明したからだ。理解している範囲で言うと、ランドール教授は素粒子を観察している時に、その一部が消滅してしまうことに気がついた。消えるはずのない素粒子はどこに行ったのか?それはきっと異次元にいったのだろうというのが彼女の理論らしい。3次元のまわりに4次元というものまでは聞いたことがあるけれど、彼女の仮説では4次元の外側に5次元があるんだそうだ。現在スイスで、彼女の仮説を検証するための巨大な素粒子発生装置?が作製されている。「もし運が非常によければ、素粒子の一部が異次元に消えていくだけでなく、新しい素粒子が異次元からくるかもしれません。」美人の言葉は説得力があるんだよなぁ(笑)。BSでの番組は是非見なくっちゃ。ところで全然科学的でないけれど、ときとして女性というものも、異次元空間からきたのではないか思えるときがある。ついこの前まで、自分と同じ次元に立って同じ感覚を共有していたと思った人が、突然、「あたしは変わったの。時代遅れのあなたとは次元が違うのよ。」てな調子のことをノタモウたりするのだ。やはりあれは異次元からきていた幻だったのかもね(爆)。
2007.08.07
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どうでもいいことだけど、魔女の宅急便に出てくる街はどうもマルタに似ている。マルタはご存知、イタリアの南、地中海に浮かぶ国だ。イタリア人が英語をしゃべっていて、車が左側を走るというヨーロッパでは異質だ。似ていると思ったのは街の形もあるけれど、もうひとつはバスの形だ。このバスはマルタでは特に印象的だった。バレッタという最大の街から出るこのバスには、なんと扉がない。結構なスピードで走っているので、振り落とされないか???という心境にさせてくれる。しかも車掌が走っている最中に飛び乗ってくる少年、、、というところがさらにびっくり。今思うとコナンのようないでたちだったかもしれない(笑)。
2007.07.15
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今さらだけど魔女の宅急便を見た。実はちゃんと見たことがなかった。キキが傷ついていくシーンが結構痛かった。トンボと仲良くなっても、トンボの友達には馴染めない。純粋だった自分は何処?と落ち込む。そのうち魔法すらつかえなくなって、箒に乗れなくなりあげくに箒を折ってしまうシーン。唯一の仲間の黒猫の言葉もわからなくなり、おまけに彼には恋人ができてしまって、ひとり取り残されるシーン。なんかありがち、うんうんと頷いてしまう自分がアブナイ。まあ映画だからそこからあっさり立ち直るわけだけれど。立ち直った理由はよく考えると「残された友人の優しさにふれたから」なのかな。それはちょっと納得いかない部分もあり。
2007.07.15
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必殺仕事人を見た。 藤田まことの中村主水から東山紀之の渡邊小五郎に主役が代わるという設定だ。 初回だから無理ないけれど、なんかすごく不自然だった。 無理に藤田まことをださなくてもよかったんじゃないかなぁ。 東山くんはカッコいいけれど、食事のシーンが妙に「喰いタン」と重なる。「シャキーン」と刀のかわりに箸を出しそうだ。 松岡昌弘は全然駄目。いつも思うのだけれど、彼は表情が全然動かない。怒っても笑っても同じ顔。 和久井映見はいいねぇ。 久しぶりに見たけれど、声だけでムードを出せるし、老けてないのに大人のムードもでている。 若いころからいい役者だったもんなぁ。アホな男と結婚さえしなければ、今頃もっと有名だったのに。 まあ、そういうことは良く見るけれどね。
2007.07.07
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オーヘンリーの短編が大好きだ。 シニカルだったり、ユーモラスだったり 心温まったりする。 節目節目でそんなことがあったなぁとか そうなってたまるか、と思ったりする。 「最後の一葉」があまりにも美しいドラマであるのに対し 「賢者の贈り物」は愛の行き違いを示しているようで、 ちょっと哀しい。 それでも自分の恋愛はこんなもんだったなあと思わなくもない。 最低な気分になるときに思い出す話がある。 O.ヘンリーにしてはダラダラとした長編で名作とは言いがたい。 タイトルははっきりおぼえていないが「3つの道」というような話だった。 ある男がいた。 田舎で農家を幸せに営んでいたが、ある夜突然「オレはこんな田舎で埋もれる男じゃない」 と思い立ち、1丁の銃を携えて村を出る。 村の出口で道は3本に別れていた。 男は右側の道を選んだ。 その夜男は最初に立ち寄った酒場で酔っ払いから自分の銃で撃ち殺された。 男は左側の道を選んだ。 理由は忘れたけれど、一週間後ぐらいに男は軍人の怒りに触れ、同じ銃で撃ち殺された。 男は真ん中の道を選んだ。 完全に忘れたけれど、男は数年間、生きながらえた後同じ銃で撃ち殺された。 男は思いなおし、もと来た道を戻った。 銃はタンスの中にしまわれた。男は結婚し、平和な人生を送った。 年老いてから、男は詩にめざめる。 何年も詩を書きとめた後、どうしても出版したくなって さる有名な詩人のもとを訪れる。 彼の詩を見た詩人はいう。 「空を見てご覧。春の歌を歌う資格のあるのはひばりだけだ。カラスはひばりはになれないんだよ。」 「わかりました。」 帰った男はつぶやく。 「カラスの唄か」 男はタンスでずっと眠っていた銃をとりだし、自らのこめかみに同じ銃をあて、引き金をひいたのだった・・・。 「さまざまな選択をし、表面的な人生を変えてみても最後は同じだ。」という印象が悪い意味で強烈に残った。気持ちが弱くなった時、なぜかこの話を思い出す。 いろいろ手を打っていたのに、どんどん環境が悪くなった時。 仲がいいと思っていた友達が、一人ずついなくなる時。 騒いでもダメだ、静観しようとじっとしていたら、さらに事態が悪くなった時など、 僕はこの3本の道の話を思い出す。 思い出したからといって、解決にもなぐさめにもならない。 でもいつも、自分が3本の道の分岐点で選択しあぐねている気分になっている。
2007.05.30
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藤原正彦の「この国のけじめ」を読んだ。 べストセラー「国家の品格」の著者である。 この本は2003年~2006年にかけて藤原氏が新聞や雑誌に書いた評論をまとめたものだ。 したがってまとまりにはややかけるものの、氏の考えや生い立ち等を多面的に知る事が出来る。 国家の品格の感想を書いたときも思ったけれど、氏の説の魅力のひとつは現代的資本主義に対する批判である。 現代の誰もが正しいと信じている、実力主義、勝者はすべてを得る権利がある、という論理を彼はけなす。 過当競争が自由をもたらすような考えは欧米が生んだ幻想にすぎないと彼は言う。 完全な実力主義はたった数パーセントの富裕層と90数パーセントの貧困層を生み出すからだ。 現在の勝ち組と称する連中の傍若無人ぶりを見ていると、彼の説は実に頷けるものがある。 資本主義や実力主義というのは、もともと身分制度によって制限されていた人間の行動を解放するためのものであったはずだ。 しかし、この制度も圧倒的な金持ちが出現すると途端に破綻する。つまり競馬でJRAがいつももうけ続けるように、金持ちはどんどん金持ちになりつづけるのだ。その結果として多くの人間はいくら働いてもけっして幸せとはいえない社会になる。 派遣とか短期採用とかの不平等な雇用形態が横行する。 また資本力のみからなるような業種が増え、本来の生産的企業文化も単調化していく。 これは決していい社会とはいえないだろう。 いろんな人がいろんなスタイルで、自分の生活レベルを高めてゆける社会が失われつつあるのだ。 本書はまた藤原氏の両親、すなわち新田次郎と藤原てい氏の話がでてきて興味深い。 とくに満州からのひきあげの際の苦労話については、氏のタカ派的発想にはこのあたりからも来ているのだろうなぁと思う。 戦争被害者はけっして中国や韓国だけではない。多くの日本人も被害者であった。 戦争が正しいのではない。 しかし欧米こそが正しいというような卑屈な発想を捨て、日本人的発想を大切にしてこそ、世界と対等にわたりあえる日本社会ができる ということを言いたいのだと思う。
2007.05.02
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映画の第一作だけは見ていた (といってもDVD)。 マンガと映画の第二作、どちらを先に見るか迷ってたんだけど、 友人が貸してくれたのでマンガになった。 思ったよりずーーーっと長くて、込み入っていてかなりおもしろかった。 エルがあんなに早く死んじゃうとは思わなかったし、彼のキャラが好きだったので そのあとしばらく読む気がしなくなったりしたけど、それでも後半きっちりまとめてあったと思う。 ただ、全体を通じて女性が愛情一筋のバカモノとして描かれているのが気になるなぁ。 女ってもっとずるがしこくて、嫉妬深くて裏切りやすいだろ。 最後はそこから破綻するみたいなのが現実的かもと思ったんだけど。 映画の第一作はマンガの1/3程度だったにもかかわらず、第二作で完結しているらしい。 ということは、かなり違う構成になっているんだろうな。 もう公開は終わっちゃってるからDVD待つしかないけれど、見るのが楽しみだ^^
2007.02.11
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大評判の本をようやっと読んだ。骨子は以下のようだ。*******************************************************現在は論理、論理の時代である。しかし論理優先で考えた社会はけっして良い社会にならない。共産主義の崩壊はその典型例であるし、また実力主義という論理によって作られた社会は非常にギスギスした社会を作り上げている。論理をもとに欧米がつくりあげられた楽園のフイクションにごまかされてはいけない。実は論理というものはかならず出発点、すなわち公理が必要である。ところが公理とは証明できないものである。公理に理屈はいらない。押し付けられるべきものなのだ。したがって本当に大事なのはその公理をどう決めるかであるが、社会における公理を決める大事な要素は道徳や愛国心である。日本には武士道精神というすぐれた道徳があり、これをきちっと身につけた人間を育てなければ、よい社会はできない。また教養や情緒(をめでる心)というものも、公理を判断するためには非常に重要なので、これも身につけなければならない。*******************************************************「論理だけでは成り立たない」ということを非常に「論理」的に説明する。なんかゲーデルの不完全性定理みたいな本だなと思っていたら、ちゃんと引用されていた。著者は数学者なので、実に明快な展開だ。あまりに明快なので「すべてが正しい」気にさせるところがこの本が非常にヒットした理由なのだろう。でも忘れちゃいけない。著者自身の説もひとつの論理なのだ。たとえば著者がたっとぶ武士道の精神とか、封建制度という差別や男尊女卑を生んだことを、この本は説明してくれない。イギリス人の「伝統をたっとぶ気持ち」というのもやはり、「新参者を意味なく差別、排除」するものと同一だということも忘れてはいけない。この本はアメリカの差別主義を厳しく批判しているけれど、ヨーロッパにも深刻な差別があることを忘れている本でもある。そして差別をなくすために、実力主義というものが生まれてきていることを無視しているとも思う。それから「文学」とか「数学」とかの教養ばかりを重んじて、実学を軽くみすぎている。人間は地球の一生物種なので、すべての生きる糧を回りの環境に依存している。また人間同士のコミュニケーションにおいても、概念だけなく言語や礼儀というスキルが必要とされているのだ。著者が「女性にもてない」と繰り返すところがおかしい。これって実学を軽くみている反動なんじゃないかな?女性というのは、美しい概念や理論ではぜーーーーーったい口説けないからねぇ。。。。。。。まあでも、とても面白い本です。まだ読んでいない方がいたら、一度ごらんあれ。
2007.01.26
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あやしげな番組は多いけれど、「あるある」だけはわりと科学的と思っていた。それはなんといっても、健康食品「エコナ」を出している花王がスポンサーだったから。スポンサーを裏切る番組作ったら、やばいでしょ、と思ったんだ。でも今回のは内容も相当悪質。捏造、捏造のオンパレード。 納豆食べても痩せないよ???放送を見てないわからないけれど、納豆がうりきれるほどだったから、よほどひどい捏造だったのだろう。 「納豆食べたらご飯食べるから太るんじゃない?」とか、 「体重が変るなら、関西人と関東人で体型が違うんじゃないか???」なぁんて思っていたのだけれど。 この番組が終わると健康食品ブームもある程度過ぎ去るかも。 「あるある」も含めてマスコミがいかにインチキかは、ここを見ましょう。 ポチは見た。「恋から」、「キスいや」も結構好きだったんだけどなぁ。もうマスコミは信じない(怒) なーーーんて、騙されているほうが幸せだから、 あまり気にしてないんだけど。 それにしても細木数子についても誰か「オカシイ!!!」といってくれる人はいないのだろうか(笑)
2007.01.21
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以前「バカの壁」についてだいぶ悪く書いたのだけれど、養老先生の話の中にはいくつか興味深いものがあったので、続編の「死の壁」「超バカの壁」を読んだ。(どっちも古本屋にあったからなんだけど・・・)その中で結構共感したのは「あいまいなものを無理に明確しない」という考えだ。たとえば「脳死」の話。人間の死はどこから始まると定義できるのか?もともと人間というのは生まれた時から必ず死ぬのだから、生まれた瞬間から死に向かっており、それは不可逆なのだ。それを定義するのは何のためか?移植のためでしかない。脳死はまだよい。安楽死になると、どこから認めてよいのか、ということを定義することに何の意味があるのか?下手に明文化した定義をつくってしまい、個々の事情を判断せずに犯罪か否かを律儀に守ることは正しくないのではないだろうか。同じように日本国憲法は9条をはじめとして自衛権があるかないかが極めてあいまいだ。しかし、明文化させることは、ある程度の軍事力を容認する事である。つまり世界の事情が今後どんな風に変ったとしても明文化された軍事力は、何のうしろめたさもなく、維持される事になる。それは本当にいいことだろうか?そのあいまいさ、あいまいなうしろめたさが平和維持に役立っているとはいえないだろうか?養老氏はまた「たてまえと本音」という言葉でも説明する。「人命尊重」という医療の基本ですら、時にはたてまえであり、それによって本質が阻害されることがある。たてまえが不必要だとは言わないけれど、それが本質ではないということをわかっていないといけない。それがわかっていない典型がお役所仕事。たてまえである書類の数が増えていき、本質はなかなか改善されない。なるほど。たしかに、日本人はやたらルールを作りたがって、しかも一度ルール化してしまうと、その運用法方にも柔軟性がない気がする。守らないルールをどんどん作っても、本質はちっとも改善されないのに。実は僕は「たてまえ」というのが大嫌いだ。上司でも同僚でも「それがルールだから」とかいう、たてまえ重視の話にはまったくついていくことができない。だからといって、世の中に背を向けて反発しているわけでもないし、ルールを破りたいわけではない。養老氏の「たてまえ」を「たてまえ」として認識するという意見には大いにうなづいたのであった。
2007.01.14
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TSUTAYAに行ったらDVDが半額だったので、 白い巨塔・田宮次郎シリーズ(フジTV.1977年)を借りた。 白い巨塔は唐沢寿明主演で見て、かなり大好きだった。 有名な田宮でも是非見たかったけど、きっかけがなかったんだ。 実は白い巨塔は4回もTV、1回映画化されている。 1966年 映画 田宮二郎/田村高廣 1967年、NETテレビ(現テレビ朝日) 佐藤慶/根上淳 1978年、フジテレビ 田宮二郎/山本学 1990年、テレビ朝日 村上弘明/平田 満 2003年、フジテレビ 唐沢寿明/江口洋介 中でもこの田宮シリーズは有名だ。 その最大の理由は田宮二郎が最終放映をまたずして、猟銃自殺してしまったことにある。 もともと田宮二郎は激しい躁鬱病で、躁状態のときはウラン採掘に外国にでかけると称して撮影現場からすがたを消したり、鬱状態のときは泣きじゃくってばかりで撮影にならなかったそうだ。 そういった意味からこのシリーズは是非見てみたかった。 まだ1巻しかみていないけれど、簡単な感想。 原作の財前五郎は大男のはずなので、その意味では田宮はとてもよく合っている。 唐沢くんよりイメージぴったり。 あとの役者はちょっと地味だったかな。 でも実際の医師や病院のイメージにはこちらのほうが近いと思う。 島田洋子とか太地喜和子とかの往年の俳優がでている。 (そういえば太地喜和子も事故死?している) 女性の多くが着物姿というところもちょっと驚いた。 一番びっくりしたのは、第一話の手術シーンが本物だったこと。 腹部を触診したあと、サッとメスをいれると 黄色い脂肪がごそっと出てきてびっくり。 うわぁーー、本物かよと思った。 切除した肉塊を田宮が持ち上げるシーン。 そしてその重さを看護婦が測定するシーン。 縫合シーンも糸がくもの巣のようにいっぱいあって生生しかった。 いずれもほんの一瞬だったけど、 下手なホラー映画よりキモいかも。 昔Black Jackに憧れていたけど オレに外科医は無理だと再認識したのだった(笑)
2006.12.03
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バカの壁を読んだ。話題作だったのでいつかはと思っていたが、たまたま古本屋で見かけた。話せばわかるというけれど、同じ事を聞いても理解できる人と、理解できない人がいる。それは数学が理解できる人とできない人がいるのに似ている。経験をしている人としていない人では、理解できる分野にちがいがあるのだ。理解できないところをバカの壁という。・・・・とまあこんな感じに理解した。バカの壁ができるのは一元論に立っているからだという。一元論とはたとえば「自分は絶対に正しい」とか「人間は常に不変である」とかそういったいくつかの誤った思い込みによって作られる。思い込みというよりも、その裏側をちゃんと検証していないことによって生じている。たとえば「意識」と「無意識」。人生は意識だけで成り立っているように思うけれど、寝ている間は「無意識」。そして「無意識」はとても重要。たとえば「合理化」。「合理化」すれば人間が余る。余る人間をどうするのか誰も考えていない。たとえば「頭」と「体」「体」を忘れているので、頭だけで考えると知識にふりまわされ、理解できないことがある。オウム真理教とか。その他「人間」と「言葉(情報)」とかいくつか例があげられていて、それはそれで楽しい。でも。はっきり言うと出来の悪い本だと思う。それは文章が難解なのではない。あまりにもまとまりがない。実はこの本、筆者の口述を編集者が適当にまとめたものらしい。そのせいで全体にまとまりがない。部分的におもしろいのだけれど、いかにも寄せ集め的だ。最終章は一元論を超えるにはどうしたらよいか。しかしあまり何も提唱していない。きっと筆者自身はそんなことを言うつもりは全然なかったのかもしれない。編集者が適当にしめくくりの章のタイトル化したのかもしれない。大体本のタイトル自体が受け狙いだ。なんかなぁ。なぜこんな本が話題になるのかよくわからん。偉い人だからこそ、科学者だからこそこんな本を出して欲しくない。科学では他人の説を批判するのに非常に慎重だ。はっきりした根拠が示せない場合、それは大変失礼な行為とされる。この本もある意味人を批判している本だと思う。そんな本が編集者まかせではあまりにも情けないと思った。
2006.11.22
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NHKのプロフェッショナルを見た。 もと400メートルランナーでオリンピックのファイナリストであり、現在末續慎吾選手を初めとする東海大学のコーチである高野進さんが出ていた。 彼の指導方針。 「教えない」 「鼓舞しない」 「見捨てない」 スランプにいる選手がいても手を差し伸べない。 自分で考えさせる。 それは21歳の頃から日本でNO.1でありながら、世界の壁に阻まれ、体格差に泣き、たったひとりで自分の走法を見つけてきた彼の理論だ。 人に教えられても自分が実感できないうちは、それを実行することはできない。 結局壁を乗り越えるのは、個人なのだ。 それをあらためて思った。 もうひとつ印象的だったのは 「人間としての幅が出来ると、記録ももう一度伸びる」 という言葉だった。 彼自身肉体的なピークは25,6歳だったそうだが、オリンピックの決勝進出を果たしたのは31歳の時だ。 肉体と精神のピークというのは一致しないのだな、と思った。 肉体は落ちていっても、精神はまだ伸びる。 自分もそれを信じたいと思う。
2006.11.17
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慶応大学教授でマルクス経済学者、金子勝氏がNHKに出ているのを見た。一見蛭子さんに似ているなぁと思ったが、 「一生懸命努力して、腕を磨いている人が報われる社会構造が失われつつつある」 「機械化と合理化だけでは、世の中は2割の人で動かす事が出来る。」 「僕は職人を尊敬しています。」 等々、意外と心に刺さる言葉が多かった。 経済学者にもこんな人がいるんだぁと思った。 痛い頭でつらつら考えるに ニートとかいう言葉で若者を片付けてしまう前に、 人間が機械と資本だけに支配されない社会構造を考える時代が来ているのかもしれない。 「松浦亜弥がいつ演歌を歌うのか」とかは全く理解不能であったが。 それにしても最近慶応には優れた学者が多いと思う。
2006.11.17
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