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脚本家インタビュー(1)



長かった。昨年9月から放映された「不滅の李舜臣」が104話を最後に、1年間の長丁場を終えた。「民族の英雄」としてだけ存在してきた李舜臣はその1年間、一人の人間として生き生きと私たちに近づき、それは視聴者にも彼を再考察する新しい機会を与えた。しかし長かったからに論戦も激しかった。宣祖や元均に対する視点、亀甲船沈没、戦術描写などは歴史歪曲ではないかとの批判を受けた。今でも目を閉じれば李舜臣の死が胸を熱くさせるが、もっと知りたい事が残っている「不滅の李舜臣」。脚本家のユン・ソンジュさんに会い、もう一度作品を振り返る時間を持った。



作品の企画/準備段階
-剥製の李舜臣ではなく、人間李舜臣を描きたかった

<どんな部分を一番念頭に置いて準備しましたか?>

実は当初「不滅の李舜臣(以下李舜臣)」は、放送局でも多少懐疑的な反応でした。一般的に李舜臣は一つの固定されたイメージに固まっているということでしょう。放送界では「世宗大王と李舜臣はタブーだ。ドラマでは成功できない」という考えが蔓延していました。
「李舜臣」の準備に取り組みながら色々な人に会いました。「李舜臣マニア」と呼ばれる人も多かったです。海戦が行われた場所にも行って、地方を回りながら李舜臣縁の地に住む住民達や郷土研究家達と話をしましたが、多くの人たちの心の中に李舜臣は一つの指標として残っているんですよ。
私個人としては80年代に大学を卒業して、ですから李舜臣の姿は大部分歪曲したものであると思っていました。長く続いた軍事政権、そしてその残骸と李舜臣がオーバーラップしていたのでしょう。
個人的には「果たしてこれは正しいのか?」と思いながら非常に知りたくなりました。「30~40代の男性にとって、李舜臣に向かう熱望はどういう欲求からか。多くの人が李舜臣に熱狂するのはどうしてか?」そんな疑問を持っていたんです。



<この仕事を請けたい気持ちが強烈でしたか?>

実際私は李舜臣に対する偏見がありました。これ、できるのだろうか・・・?そんな考えに囚われました。
一旦、李舜臣に対する作家個人の考えを書いて欲しいと言われました。それで、私の考えを思い切り書きました。李舜臣を単純に美しい軍人として扱えば全体的に歪曲したものになると思いました。
それでも長い間躊躇しました。「果たして李舜臣を通して私ができる話があるだろうか」
世間に李舜臣は欠点のない人物として認識されてきて、私自身もそうだと思ってきました。
ドラマというものは、欠点だらけの人間がどのように素晴らしい人間に成長したかがキーポイントなのに、李舜臣を主人公にそのような成長を描けるかと心配しました。
けれども李舜臣の人生をよく見て見ると、本当に平坦な道ではなかったんです。鹿屯島の戦闘や、白衣従軍を2度もしたし、免職を3回経験したという事実があり、それから総司令官になったんです。この余白をよく見れば、この人物が持つ個人的な苦悩が十分に有り得ると思い執筆を申し受けました。




<刀の歌と不滅の李舜臣の2作品を原作にした理由は?>

大河ドラマは韓国と日本くらいしか制作していませんが、韓国の場合、著名作家の作品を扱う方ではありませんでした。
日本の大河ドラマは山岡宗八や司馬遼太郎などの作品を原作にして、十分吸収して検討してから脚本家が受け入れられる部分を扱う方式で作られます。もちろん作家達の観点にかなり影響されますが。
韓国でも「壬辰倭乱」「聖雄李舜臣」「不滅の李舜臣」「刀の歌」などの歴史小説がたくさんあります。私だけではなく歴史ドラマを書く脚本家は、多彩な解釈と見解をまとめてみたいという欲求があります。1次テキストである「実録」と「乱中日記」、学術的に記録したチェ・ソンナム、チェ・ドゥハン先生の本と共に、李舜臣を扱う文学は全て原作であるという観点を持っています。彼等を先輩だとする時、その小説的、文学的な成果を吸収することは大きな問題ではないでしょう。ドラマも広い意味で文学と言えるのですから。
小説「不滅の李舜臣」について言えば解釈上の問題があると指摘されていますが、とても詳細な小説です。もちろん私とも立場上、解釈上の差はありますが、この時代を詳細に記録し、特に将校達について詳細に扱っています。一方「刀の歌」は小説の情緒をドラマに選択的に取り入れる必要を感じました。


<女性として男性的な戦争ドラマを扱うのが大変だったとか?>

一番の問題は軍隊に行かなかったということですね。女性という事実が明かされて、掲示板も熱くなったようです。少しでも軍事文化を扱う場面になると「軍隊に行かなかったから分かっていない」という意見が上がるんです。
けれども男性が沢山登場するから男性脚本家が書き、女性に比重が多いから女性脚本家が書くならば、メロドラマは男性が書いてはいけないのでしょうか?そうじゃないと思うんです。「李舜臣」というドラマは「李舜臣」を一番愛する人が書くべきだと思うんです。男性でも女性でも李舜臣を愛する勇気のある者が書くべきです。私には機会が与えられ、一生懸命努力しました。李舜臣も男性である前に人間で、私もそうですし、そこに接点があったのですから。一般的に戦争や軍隊は男性の仕事という認識がありますが、その男性を産むのは女性で、特に男性女性を区別する必要はないと思います。


<むしろ女性だから李舜臣の人間的な姿が強調された長所もあるようです。狙っていたのですか?>

そうでしょう。
けれどもそれは私だけが意図したものではなくて・・・元々イ・ソンジュ監督が持っていた意図が、銅像のイメージのような李舜臣を描こうとするものではなかったんです。レオナルド・ダヴィンチの絵を見ると、重ね塗りを繰り返しながら本来の形態が分からなくなっている作品があるでしょう。李舜臣もそうだという思いがします。李舜臣を慕う人は多かったけれど、実際その中には危険な考えを持つ人もいて、そのような人が李舜臣に重ね塗りして仮面を被せたのではないかという疑問も湧きました。
ならば、果たして李舜臣とはどのような人物だったのか。23戦23勝という記録を持ち、戦乱を終わらせた偉大な人物が一体どんな考えで生き、長い時間を耐えてきたのか、一度行き着く所まで掘り進んでみよう、というのが企画意図でした。(つづく)


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