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2026年02月04日
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(概要、関連事項ほか)

○ 平成20年(2008)9月26日、「九州・山口の近代化産業遺産群」など5件が新たに世界遺産候補となりました。「九州・山口の近代化産業遺産群」は、日本の近代工業化の原動力となった西洋技術の導入やその後の近代工業化の過程を明確に示す資産として「顕著な普遍的価値を持つ可能性が高い」と評価されたものです。

「九州・山口の近代化産業遺産群」は、南山手町の「旧グラバー住宅」、高島町の「北渓井坑跡」、小菅町の「小菅修船場跡(通称:ソロバンドック)」、そして高島町端島(軍艦島)の「端島炭坑」の長崎県内4件(いずれも長崎市内)を含む九州・山口の近代化産業遺産22件で構成されています。

これから向かう「軍艦島(端島)」は、江戸時代の文化7年(1810)に露出炭が発見され、その後佐賀藩(鍋島藩)の所有下で周辺の高島、香焼島、伊王島などと共に開発が進み、明治23年(1890)三菱社の買収により本格的な採炭が始まりました。明治年間のわずかな独立経営の時期を除けば、その歴史の発展とは北北東へ約2.5km離れた同じ三菱経営の高島炭坑の支山でした。明治から大正にかけての初期開発期、大正から昭和初期にかけての黄金期、戦後の世界最高の人口密度を誇った人口増加期、晩年の新採掘地規模の縮小の時代を経て、閉山、島民は一斉退去し、一瞬にして無人島になったという歴史をもった島です。これから軍艦島に上陸し、残っている建物や当時の生活などについてお話しします。



ここ第1見学広場では、まず、軍艦島の概要とここから見える建物などの施設についてご説明します。

(1)「軍艦島」は、「端島」の俗称ですが、「端島」という名は、県北から西彼杵の大島、崎戸、旧外海町の池島、そして伊王島、今は陸続きになっている香焼島、高島と南北に連なる島の中で、最も南の端に位置することから「端島」と名づけられたといわれています。因みにまだ石炭が発見される以前の江戸時代、天保4年(1647)に佐賀藩が作成した「肥前一国絵図」には、端島を<はしの嶋>として佐賀藩の支藩である深堀の領と記されてい ますが、最も近い対岸にある高浜村も端島を自村の所領と思い、<初島(はしま)>と読んでいたようで、端島をめぐる領土権の確執は石炭発見以前から根深いものがあったというふうにいわれています。長崎港から約18キロの海上に位置する約6.3ヘクタール(東京ドームの約1.3倍の面積)の小さな島です。

(2)当初、この端島は洋上の一岩礁にすぎませんでしたが、1810年頃この島で石炭が発見され、当時の佐賀藩が小規模の採炭を行っていましたが、煙が多かったり臭いがきつかったりで、石炭を燃料として活用するまでには至りませんでしたが、西洋文化の取り入れによる燃料化技術の発達に伴い、人々は改めて石炭を燃料として認識するようになり、明治23年(1890)三菱が島全体と鉱区の権利を買い取ったことから、本格的海底炭坑として操業が開始されました。端島は海底の石炭採掘の拠点として、元来あった岩礁の周りを埋め立てる形で造られた半人工島ですが、もしこの地域の地中に沢山の良質な石炭がなかったとしたら、この島に人の歴史が刻まれることはなかったと思われます。

(3)明治期には、中央の岩盤上に3〜4階建ての木造住宅が数棟建てられ、大正5年(1916)には日本初の鉄筋コンクリート造り高層集合住宅である30号棟が建設されました。また、当時の島の姿が軍艦に似ていることから、大正時代に当時の新聞報道が初めて「軍艦島」という呼び名で世に紹介しました。

 島内にはその他、小中学校、映画館、娯楽場、病院など様々な施設が建てられ、最盛期の昭和30年代には約5,300人もの人々が島内に住み、当時の東京都の9倍という世界最高の人口密度になりました。

(4)昭和20年(1945)6月11日、石炭を積み込むために停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を潜水艦「ティランテ」が魚雷で撃沈しました。この出来事は、「アメリカ潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂になりました。

(5)端島は四方を海に囲まれているため島への出入りは海を渡らなくてはならないため、島の生活にとって船の着岸は最重要課題のひとつであり、島の歴史は長年の海との闘いであったといっても過言ではありません。島民の長年の切なる願いを叶えるために生まれたのが<ドルフィン桟橋>と呼ばれる可動式接岸桟橋でした。波の上下、潮の満ち引きに合わせて桟橋が上下する構造の船着場は画期的な発想でしたが、昭和29年(1954)完成の日 本初のドルフィン桟橋は、昭和31年の台風9号で流出、より強固に改造した昭和33年(1958)完成の2代目も翌年再び台風14号で流出してしまいます。それらの経験を元に護岸から15mの海底岩盤を3m掘り下げ、25m×12m、高さ15mの人工島に桟橋を組み込むことによって、台風の猛威にも耐えうる頑丈な3代目船着場が完成したのは昭和37年(1962)のことでした。

 今、皆さんが通ってこられた桟橋が、3代目そのものです。それでも、波の高いときに上陸する際は、上下左右に揺れる木橋の上をどこからともなく聞こえてくる「走れ!」の号令により一目散に走って渡っていたそうなので、端島がいかに厳しい環境にあったのかがお分かりになると思います。また、長崎と高島、端島を結ぶ船も明治20年(1887)に三菱最初の鉄船「夕顔丸」が就航していることからも、いかに端島の石炭に対する期待が大きかったのかがうかがい知れます。

(6)右側遠方に見えるのが昭和33年(1958)に建設された端島小中学校です。明治26年(1893)設立当初、三菱の社立の尋常小学校が岩礁の上に立っていましたが、大正10年(1921)から町立となり、校舎もほぼ今の位置になりました。現存の建物は7階建てで、1階から4階までが小学校、5階と7階が中学校、6階には講堂、図書館、音楽室が設けられていました。閉山の4年前、昭和45年(1970)には体育館や給食設備なども新設され、給食を運ぶエレベーターもありました。これが島で唯一のエレベーターだったそうです。

学校の左に見える建物は、太平洋戦争まっただ中の昭和20年(1945)に完成した端島で最も大きい集合住宅65号棟(北棟:7階建て、中央棟:9階建て、南棟:10階建て)です。このような巨大な建造物が戦時中に造られた記録は日本中を探しても稀なことであり、当時いかに端島炭鉱が重要視されたかを物語っています。昭和40年代には約340世帯が暮らしていました。建物の構造がコの字型で、その内側には児童公園が設けられていました。また、向かいの家庭の生活がベランダ越しに丸見えでしたが、住人はプライバシーも気にすることなく、おおらかに暮らしていたとのことです。ここからはコの字の背中の部分が見えています。幼稚園を9階建ての屋上に建てていることからもいかに端島に平地が無かったのかを物語っています。

(7)精炭(精選された石炭)は、このベルトコンベアーによって貯炭場に蓄えられ、石炭運搬船に積み込まれました。今では、かろうじて、その支柱が残っているだけです。

 手前の円形の施設は、ドルシックナー(凝縮槽)といって、粉炭回収のための液体を造り出していた直径20m以上もある巨大な凝縮槽の跡ですが、様々な行程を経る選炭作業の中で、その上段に見える浮選機室と併用して浮力の違いを利用して、粉状になった石炭でさえ回収する工夫がなされていました。

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 ここ第2見学広場では、端島の採炭の様子とここから見える建物をご説明します。

(1)冒頭にも説明いたしましたとおり軍艦島は、明治23年(1890)三菱が島全体と鉱区の権利を買い取ったことから本格的海底炭坑として操業が開始されることとなりました。地底の石炭採掘地域は、島の大きさを遥かに上回る広範囲に渡るもので、またその深さも最深部では1000m以上と、気の遠くなるものでした。三菱の経営下になってから閉山までの84年間で約1,570万トンの石炭を産出し、主として北九州の八幡製鉄所に製鉄用原料炭を供給する島として国から手厚い保護を受けました。

(2)端島は海底炭坑で、島内にある竪坑からエレベーターで600メートル下ったところから横に2,500メートル進み、さらにエレベーターで下ったところが採掘する場所で、その現場の状況は、気温30℃以上、湿度95%という苛酷な環境のもとで働くこともありました。

(3)主力坑だった第二竪坑を含め、鉱山施設は、現在ほとんど崩壊していますが、かろうじて第二竪坑へ行くために設けられた桟橋への昇降階段部分が残っています。

(4)このレンガ造りの建物は、鉱山の中枢であった総合事務所です。総合事務所の中には、炭鉱マンのための大きな共同浴場がありますが、浴槽はいつも真っ黒だったと言われています。また、周辺には多くの建物がありましたが、現在はほとんど崩壊しています。

(5)背後は、天川(あまかわ)の護岸です。波浪から島を守るために、島の周囲に擁壁造りには石積みの工法がとられ、砂岩である天草石を天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤で接合して行われていましたが、明治期にはこれが盛んに作られ、現在でも島内の至る所に残存しており、この擁壁がこの島ならではの独特な景観を生み出しています。

端島の拡張とそれに伴う護岸造りは、天川による石積みの工法で明治以降たえまなく続けられ、明治の晩年にほぼ現在の島の形に近づきました。一般的に島を埋め立てて拡張する場合には、以前の護岸は解体してから新しい護岸が作られると思われがちですが、端島の場合は古い護岸をそのまま残しつつ新しい護岸が造られたようです。

(6)島内のトイレ事情については、明治時代・大正初期の時代は、毎日のように百姓が野母半島から汲み取りに来ていたそうですが、大正5年(1916)に日本最初の高層鉄筋アパートといわれる30号棟が建設されてからは、非水洗式、または半水洗式(海水を手桶で流す方式)の共同便所が主流になりました。しかし、便をほぼそのままの状態で海に放流するものであったことから、不衛生で、悪臭もひどく、伝染病の原因にもなったため、昭和30年頃からは浄化槽が設けられました。閉山前には、比較的新しい建物(70、71、59、2、3、13号棟など22棟)には現代的下水方式の完全な水洗便所が設けられました。その他約20棟の建物は従来どおり半水洗でしたが、66号棟は悪臭対策として、各階の便器を上に行くほどオーバーハング(海側に張り出す構造に)して、各階からの排便管、臭気抜き管を階ごとに分離・独立させています。

(7)島内には病院もありました。鉄筋コンクリート造り4階建てで、昭和33年(1958)に完成しました。命がけで採鉱に励む鉱員やその家族を守る大きな病院の存在は、絶海の孤島に住む人々にとって、さぞ心強かったことと思います。

(8)端島の人々は、アパートが立ち並ぶ中に木々を植栽する場所がなかったため、PTAなどが協力して、アパートの屋上に土を運び、花や野菜を育てました。これがおそらく日本初の屋上菜園だったといわれており、花も野菜もいつでも買うことができたでしょうが、「緑なき島」に少しでも緑を増やし、安らげる空間がほしかったのでしょう。端島ならではの工夫と光景です。

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ここ第3見学広場では、端島に住まれていた人々の暮らしぶりを主にご紹介しますが、まず、ここから見える建物をご説明します。

(1)大正5年(1916)に建てられた30号アパートは、かつて「グラバーハウス」とも呼ばれ、日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造の高層アパートといわれています。鉱員社宅として建設され、内庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店もありました。左側の31号棟鉱員社宅には、地階に一般用の共同浴場があり、1階には郵便局や理髪店が設置されていました。

(2) 背後に見えるプールは、昭和33年(1958)完成。それまでは、小中学校の前にありましたが、台風のため大破したため現在地に建設されました。25メートルプールと幼児用プールが併設され、閉山の1〜2年前までは海水プールでした。第1見学場所でご説明いたしました65号棟屋上の幼稚園にもプールがありましたが、完成した昭和27年(1952)当初から水道水を使っていました。島の水事情については後ほど詳しく説明いたします。

(3) 閉山後の昭和51年(1976)完成。閉山前は、夜間も灯が消えることがなかったため、島全体が灯台の役割を果たしていました。

(4) 戦後、端島に住む人々は、長崎や福岡に住む人々より裕福で先進的でした。国策によって石炭増産に重点が置かれ、石炭産業が活況を取り戻したため、家計は潤い、家電ブームのときの端島の三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)の普及率はほぼ100%だったそうです(当時の全国平均は10〜20%)。

(6) 島内のトイレ事情については、明治時代・大正初期の時代は、毎日のように百姓が野母半島から汲み取りに来ていたそうですが、大正5年(1916)に日本最初の高層鉄筋アパートといわれる30号棟が建設されてからは、非水洗式、または半水洗式(海水を手桶で流す方式)の共同便所が主流になりました。しかし、便をほぼそのままの状態で海に放流するものであったことから、不衛生で、悪臭もひどく、伝染病の原因にもなったため、昭和30年頃からは浄化槽が設けられました。閉山前には、比較的新しい建物(70、71、59、2、3、13号棟など22棟)には現代的下水方式の完全な水洗便所が設けられました。その他約20棟の建物は従来どおり半水洗でしたが、66号棟は悪臭対策として、各階の便器を上に行くほどオーバーハング(海側に張り出す構造に)して、各階からの排便管、臭気抜き管を階ごとに分離・独立させています。

(7) 島内には病院もありました。鉄筋コンクリート造り4階建てで、昭和33年(1958)に完成しました。命がけで採鉱に励む鉱員やその家族を守る大きな病院の存在は、絶海の孤島に住む人々にとって、さぞ心強かったことと思います。

(8) 端島の人々は、アパートが立ち並ぶ中に木々を植栽する場所がなかったため、PTAなどが協力して、アパートの屋上に土を運び、花や野菜を育てました。これがおそらく日本初の屋上菜園だったといわれており、花も野菜もいつでも買うことができたでしょうが、「緑なき島」に少しでも緑を増やし、安らげる空間がほしかったのでしょう。端島ならではの工夫と光景です。

(9) 50号棟は、昭和2年(1927)に建設された映画館「昭和館」です。映画は、島で唯一の娯楽であるため、大時化の中でも映画フィルムだけは陸揚げされました。映画館といいながら、本来の機能に加え、山神祭の後のカラオケ大会や余興の場など、集会場としての機能も果たしました。

(10) 39号棟の公民館では、生け花や料理教室、カルタの実践教室、ボーイスカウトや老人会の集会などが開かれ、文化施設としても利用されていました。また、選挙の投票所なども公民館内に開設されました。

(11) 48号棟は鉱員社宅でしたが、地下には娯楽施設としてパチンコ屋があり、多くの人々が楽しんでいました。

(12) 島内には明治時代から神社もありました。危険と隣り合わせの鉱員たちにとっての拠り所であり、毎年4月3日の山神祭は全島を挙げて盛大に行われました。神殿の下に拝殿もありましたが、倒壊してしまい、祠のみが残っています。

(13) 島内には食堂や床屋もあり、端島にないものは火葬場と墓地くらいでした。島民が亡くなられたら、隣の中ノ島で火葬して、禅宗のお寺「泉福寺」に宗派を問わず納骨していました。お寺の本堂は、集会場や幼稚園としても利用されていました。今では本堂も崩壊してしまい、唯一本堂の前に安置されていたお地蔵様だけが残っています。

(14) 端島は地理的に天候と海からの災害を非常に被りやすい島でした。特に台風時に襲いかかる波の猛威は想像を絶するものでした。台風対策として、島の護岸を強固な造りにしたり、進水した海水を流すための排水口を各所に設けたりと、様々な工夫がなされ、他に類を見ない独特の景観を創り出しました。また、鉱山施設への被害を最小限にするため、防波堤の役割を外海に面した住宅群に課すという、今では考えられない島の構造になっています。

本日は、「軍艦島」に実際に上陸して見ていただきましたが、皆様方におかれましては、この島での島民の仕事ぶりや暮らしぶりを想像することができましたでしょうか。

端島は、明治・大正・昭和を通じて燃料用の石炭や製鉄用の石炭を供給し続け、我が国の近代化を支えてきました。また、端島はその地理的な条件から、生活するためには様々な過酷な自然条件との闘いを強いられましたが、そのための工夫が他に例を見ない島の独特な景観や生活環境を創り出しました。

本日、つたない説明ではございましたが、端島を見学いただいたことで、現在の自分たちの豊かさがどこから来たのかを改めて考えていただいたり、昭和30年代の最盛期に、5千人を超える人々が住み、子供たちの声が響き、洗濯物がはためいていた様子に、古きよき昭和の時代に想いを至らせていただいたりしていただけたのなら、うれしい限りに思います。

また、「九州・山口の近代化産業遺産群」を構成する「旧グラバー住宅」や「小菅修船場跡」、高島の「北渓井坑跡」など、日本の近代化を支えた史跡も長崎市内に多くありますので、機会がありましたらお立ち寄りください。

本日は、大変お疲れ様でした。





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最終更新日  2026年02月04日 07時54分48秒
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