ジュリア


誰の家かわからない一軒家。
日当たりがいい。空が青い。
廊下の床の光沢や室内の翳りや、廊下を中心にした間取りには記憶がある。
玄関から向かって左手には洋室があって、プラスティックのシャンデリアが
ぶら下がっている。8畳程度。
この家はオレの持ち物ではないが、この部屋に住んでいる。
シャワーを浴びることにした。
洗面所からは隣の家が見える。20メートル離れた隣の家は、黒い。
ここと隣の黒い家の間には庭があり、芝や雑草が生えている。
区画を仕切る柵はない。庭として機能しているのかわからない。
洗面所で服を脱ごうとして、一瞬ためらった。
外に人が見えたからだ。
芝生で、見知らぬ女が遊んでいた。
女は、裸だった。
誰だかわからない。
隣の家には、テルとノブという男の兄弟が住んでいる。
彼らの親戚かもしれない。
オレは服を脱ぐのを止め、裸の女を見つめた。
誰もいないと思っているのだろうか。
あるいは、気が痴れているのか。
胸は小さく、陰毛は薄い。
肌が白くて透明だ。日の光に反射して眩しい。
細く幼い体つき。
しかし二重のつり目と、淡い笑顔を湛えた顔は、非常に美しい。
控えめな笑顔。気だるそうでもあるし、欲情的でもある。
洗面所の窓ガラスはマジックミラーになっていて、あちら側から中にいるオレを
見ることはできない。
幼い身体や動作と、エロティックな顔の表情が、アンバランスだ。
オレは服を途中まで脱いだまま、裸の女を見ている。
女は、オレが見ていることを知らずに、裸で日の光を浴びながら、
芝生や動物と戯れている。
オレは性的欲求の対象を見て興奮しているのか、
美しいものを見て心を奪われているのか、どちらかわからない。

テルとノブが遊びに来た。
シャワーを浴びていたから、勝手に2階へ上がっていてくれ、といった。
オレはまだあの、裸の女の映像が頭から離れない。
勃起が、静まらない。
200m2もある2階は、ほとんど物置として使われている。
屋根裏部屋がある。縦に長い10畳ほどの、薄暗い部屋だ。
屋根裏部屋へ入ったとき、オレは息が止まりそうになった。
さっき裏の庭で、裸のまま遊んでいた肌の白い女が、いた。
ちゃんと服を着て、コタツに小さく収まっている。
女はオレに向かって、さっきと同じ気だるく欲情的な表情で、曖昧に首を傾げた。
初対面の挨拶かもしれなかったが、テルもノブも、この女の説明はしなかった。
もう1人女がいた。
オレは再び狼狽した。
オレは、この女を知っている。
カラコだ。
なぜカラコが、ここにいるのかわからない。
テルとノブの親戚だとは、聞いていない。
2人の女は、よく似ている。
姉妹なのかも知れないが、カラコにみせてもらったことのある姉の写真とは、
似ていない。裸だった女のほうが、カラコよりも攻撃的な顔をしている。
やっぱり姉妹なのかもしれない。
カラコは妹。なんとなく、そう確信した。

2階の屋根裏部屋には、コタツとパイが用意されていた。
マージャンをしに来たらしい。
「なんだよこれ雀マット、汚れてるし折れてるし、使えねえよ」
テルが、麻雀用のマットを広げて、汚れを拭いたり折れを伸ばしたりし始めた。
「そんなの気にするなよ、早く始めようぜ」
オレは急かしたが、テルは汚れを気にしてマットを磨きつづけた。
テルとノブ、カラコ姉妹とオレ。全部で5人いる。
しかし麻雀は、4人しかいらない。
裸だった女、つまりカラコの姉は、「わたし誰かと一緒にやる」といって、
ノブの隣に小さく座ったはいいものの、なかなかゲームが始まらず、
テーブルにアゴをつけて、退屈そうに暇をもてあましていた。
オレはカラコと話をした。
「なんで麻雀?」 「さあ」 「はじまんないね」 「そうだね」
テルはまだ、マットを磨いている。10分以上、磨いている。
「退屈だから、キスしようか」 「うん、ちょっとだけね」
カラコへ顔を近づけた。カラコも少し近づいてきて、唇が触れた。
ほんの少し。
「ホントにちょっとだけだな」 「だってちょっとだけっていったじゃん」 「ケチ」
濡れた唇の感触が残っている。
テルはまだ、マットを磨いている。

「ねぇ、わたしもキスしたげよっか」
「え?」
オレが返答に窮しているうちに、姉がコタツから這い出てきて近づき、
オレに絡みついた。
そのままオレは唇を塞がれ、もたれるように覆い被さられて倒された。
押し倒されると今度は、オレの腕を押さえ馬乗りになった。
そのまま唇を吸われ続け、舌や足が絡み合っていて逃れることが出来ない。
もとより、逃れなければならない理由が希薄だから、あまり逃れるほうに
力は使っていない。
オレがずっと下になったまま、彼女のキスはだいぶ長く続いた。

■2
ようやく女がオレの口から離れた。
女の唇は唾液でしっとりと濡れて光っている。
女はオレに馬乗りになったまま、辺りを見回しはじめた。
なにかを探しているようだ。
肘をついて半身を起こそうとしたとき、また硬く押さえ込まれて制止された。
オレは起きるのをあきらめて、この女のしたいようにさせることに決めた。
自分のバッグを見つけた女は、乱雑に中から荷物を取り出して、テーブルの
上に並べていった。
コタツに入っているカラコはテーブルに頬をつけてぼんやりとこちらを眺めている。
マットを拭いていたテルも、一瞬動作を止めこちらを見ていたが、
オレと目が合うとまたマットに視線を落とし、磨く作業へ戻った。
ノブは麻雀パイを転がしたり、積み重ねたりしている。
もともと他人のことには、あまり関心を示さない男だった。
馬乗りの女はあわただしく銀色のステンレスケースを開き、
中から注射器を取り出した。
「ミミミ、さすがにそれはヤバいんじゃない?」
カラコが言った。
この、オレに馬乗りになっている女の名前は、ミミミというらしい。
不思議な名前だ。
ミミミはゴム管を取り出し、片手だけで器用にオレの腕へ巻いた。
本気で注射を打つつもりなのだろうか。
中身は何か気になるが、誰も深刻な顔をしていない。
ヤバいんじゃない?と言ったカラコも、セリフほど、慌てている様子でもない。
抵抗するのも格好悪いし、注射器の中身が何か、少し興味があった。
そのまま、注射を受けることに決めた。
ゴム管により、オレの動脈が浮き出たことを確認したミミミは、
真剣な表情で注射器とオレの腕を見つめ、作業を続けた。
膝を立て、足でオレの掌を押さえ、そして慎重に注射針を腕に差し込んだ。
針が突き刺さる感触がした。痛くはない。奥までスライドして止まった。
真剣な表情のミミミは美しかった。オレは見とれていた。
垂れた髪が顔にかかり視界を邪魔しても、彼女は気にすることなく液体を
注入する作業に集中した。
やがて全ての液体がオレの体内へ収まったらしく、ミミミは針を抜き、
顔にかかった髪をようやく書き上げて、目を細めて少し笑った。
「痛かった?」
オレは小さく首を横に振った。
「なんの注射?」
オレの声は、ガラガラに歪んでいた。
「パラダイム・フロート」
とミミミが答えると、視界に屋根裏部屋の天井が迫ってきた。
どんどん近づいてきてぶつかりそうになり、思わず叫び声を上げてしまった。

強いコントラストの青が目に飛び込んだ。
浮き上がっていた。
落ちる時のような浮揚感がある。
しかし景色はどんどん下へ下へと流れてゆく。
上へ、落ちている。
正確には、落ちていくような加速度とスピードで、上へ上へと浮いている。
下を見ると緑色の地面が、どんどん遠ざかってゆく。
(まずい)
このまま上に落ちてゆくと、寒さと酸欠に耐え切れなくなるかもしれない。
止まるにはどうしたらいいか。
止まり方を考えていると、なぜか減速し、空中で静止した。
下には小さく、家が見える。
オレが住んでいる家、隣の黒い家、他の誰かの家。
もっと広い間隔で並んでいると思っていたが、上空から見ると結構密集している。
地上から、ものすごく高い所へ浮いたままになっているが、不思議と恐怖感はない。
家のない部分の地面はほとんど緑色。
芝生か、草原か、水田なのかは、ここからだと、区別がつかない。
下へ降りるにはどうするんだろう、と思うと同時に、下降が始まった。
どうやら意識が命令するだけで、浮遊をコントロールできるらしい。
もっと速く、少しゆっくり、とまれ、曲がれ、というような、思いつく限りの命令を試した。
しばらくすると、ずいぶん巧く、フライングをコントロールできるようになっていた。
意識が命令すればオレは上にも右にも「落下」することが出来るが、下方向へ
落下するのが最も困難だった。まず上へ落下しながら、引力による減速と静止を
想定し制動する。そして静止から自然落下までの放物線をイメージし、実際の落下
運動を再現できるようになるまで、かなり時間がかかった。
やがて戸惑いを一つずつ克服していったオレは、地面スレスレを100km/hの
スピードで飛べるようにもなった。遠くに山が見えて雪を被っていたから、
雪に触りたくなって山を目指そうとした。ちょっとした旅になるが、このスピードなら
かなりの速さで頂上へ行ける。雪山の頂上を目標にアタマの中でイメージを描き、
「落下」しようとした。
ふと思い出した。
そういえばあいつらはどうしているんだろう。あいつらは飛ばないのだろうか。
少しだけ様子を見てから山を目指そうと思い、家に戻った。
2階の屋根まで飛び、窓を開けて中へ入った。

「ねえ、どうだった?」
ミミミがちょうど、自分の腕にゴム管を巻いているところだった。
「飛べた。ものすごく気持ちよかった」
オレは息を弾ませて答えた。
「ホント?最初から気持ちよく飛べる人ってあんまりいないんだけどね」
といいながらミミミは、自分の左腕に注射針を指した。真剣な表情だった。
「これから向こうの山に飛んで行こうと思うんだけど、一緒に行く?」
オレは、自らパラダイム・フロートを注入しているミミミを誘った。
誰かと一緒に飛んだら、もっと楽しいかも知れないと思った。
「山?行けるかな」
と言ったミミミは、膝を立てて座った格好のままうなだれて、しばらく揺れた。
やがて揺れが止まり、そのまま固まって動かなくなってしまった。

■3
ミミミは固まったまま動かない。
立ったままオレは夢から覚めたような気持ちになった。
どこかで拒絶していたが、オレは、わかってしまった。
「どこ行った?」
テルが、雀マットを拭く作業をやめてオレに問うた。
「このへん、飛んでたよ。」
「このへんかよ、ミミミは今ごろ、香港あたり飛行してるぞ」
口元を歪めただけの笑みを浮かべてテルが言った。
「どういうクスリだよ」
訊きたいことはたくさんあるような気がしたが、漠然とした
質問しか浮かばなかった。
「飛べるんだよ、飛べただろ」
まだ顔を歪めたまま、テルは短く説明した。こいつの笑い顔は、
笑いだか怒りだか、時々わからない。
「ねえ、麻雀まだなの麻雀。」
退屈そうにカラコが、テルに向かって言った。
クスリの説明はもうよせ、という意味に聞こえた。
ノブは、あお向けになって寝ているが、目が開いている。
「おまえの次に、こいつも飛んだ」
ノブに視線を落としたオレに気付いたテルが言った。
「テルおまえは飛ばないのかよ。」
「ああ、オレは酔う。合わないらしい」
そういえばテルの顔色があまりよくない。
何度か試して、疲れているのかもしれない。
「カラコは?ってゆうかこれ、カラコのお姉さん?」
これ、というところでミミミを指して、訊いた。
「ちがう」
「じゃあ誰?ってゆうかなんでカラコここにいるの?」
「わかんない」
こいつらとの会話は全く要領を得ない。
まだクスリが、抜けきれていないのかもしれない。

「オレは、寝てただけか?」
浮遊体験は、実感として残っている。まだ少しなら、飛べる気もする。
「ああ、何度か寝返り打ってただけだ。ミミミにイタズラされてな」
テルが答えた。オレはミミミを見た。立膝にうなだれたままだ。
たまに、人差し指だけ動く。腰のあたりの地肌が見える。白い。
この女はさっき、庭で裸で遊んでいた。真昼間に。
ミミミを見ているオレをななめから見ているカラコの視線に気付いた。
カラコに視線を移して、「ってゆうか、こいつ誰なんだよ」と声を荒げず言った。
邪まなイメージをカラコに見透かされないようにするためと、
オレはいたって落ち着いているんだということをアピールするために、
努めて声のトーンを下げて言った。
「キレイなコでしょ」
カラコは、オレの質問には答えなかった。オレは言葉に詰まった。
確かに、キレイだ。しかしカラコも非常にキュートであり、オレがここでミミミを
「キレイだ」と言ってしまうと、カラコがキレイじゃないようなニュアンスの表現
になってしまう。ミミミのキレイだが、カラコもキレイだ。これではただのバカな
男になってしまう。それぞれ違う美しさを持っている、ということを伝えたかった
が、上手い言葉が出てこないから、黙っていた。
ふと、ミミミが動いた。首を上げて虚空を見つめていた。
みんな一瞬ミミミに注目したが、ミミミは視線を宙に定めたまま、また固まった。
ノブはあお向けになって寝たまま、目をみひらいてぴくりともしない。

「そういや麻雀はどうしたんだよ」
テルに訊いた。
「麻雀なんかどうでもいんだよ、ミミミにおまえのこと話したら、会いたい、
ってゆうから連れてきたんだよ」
オレの何をもってこの、ミミミという女は会いたいと思ったのだろうか。
オレは自動車の部品を作る工場に勤めている。オレの作っている部品が、
自動車のどこに使われているのかはよく知らない。一度聞いた事があるが、
構造をイメージできなかったから忘れてしまった。自動車にも、部品にも
興味はない。ただ、雇用されているから労働している。
何の取り得もない30男だ。
「・・・行ってきた」
後ろから、それもかなり近い距離から声がしてオレは驚きながら振り向いた。
「シンガポール、行ってきた」
といいながらミミミが、またオレにからみついてきた。
耳に熱い息が容赦なく浴びせられてオレは少し、カラコの視線が気になった。
テルは口を歪めているだろう。
ノブは、まだあお向けのまま動かない。
オレは世界地図をイメージしたが、シンガポールの正確な位置が捕捉できない。
この女の目的がよく、わからない。

■4
首に絡まるミミミを振りほどく方に力を入れながらテルに助けを求める視線を送った。
テルは肩をすくめて首を傾げた。カラコは頬杖をついてオレとミミミを見ている。
オレは困ったような表情を繕って、頭を指した指をくるくると回した。
ミミミに気付かれないように。こいつアタマいかれてるのか?というメッセージだ。
テルは、しょうがないなという風に下を向いて立ち上がり近づいてきた。
そして無言のままミミミの背後に立ち、彼女の肩をポンポン、と叩き振り向かせた。
テルがミミミに目だけで合図を送ると、ほどなくミミミはオレから離れて後ろを向いた。
そこからは、もうオレには興味がなくなったというように、バッグから取り出した荷物を
しまい、代わりにセーラムライトを取り出して火を点け、窓の外を眺めていた。
ミミミのバッグはヴィトンでもプラダでもなく、黒いナイロン製の安物だった。
オレから離れてからミミミは、オレの方を一つも見ようとはしなかった。
オレはミミミに、ブランド物のバッグを買ってやりたくなったが、ミミミがブランド物に、
興味を示すとは到底思えなかった。ミミミの気を惹くために何をしたらいいか、
というようなことを考えた。ミミミはオレに背を向けて、窓の外を眺めながらタバコを
吸っている。

4人が帰った後、オレはパラダイム・フロートによる浮遊体験と、ミミミのことを考えて
いた。テルもカラコも、クスリのことも、ミミミのことも説明してはくれなかった。むしろ
意図して避けていたといっていい。
テルがオレに女を紹介したのは初めてだった。なぜテルたちとカラコが一緒にいるの
かもわからない。カラコはクスリを使わなかった。ミミミが、本当に気が狂っているとは
思えない。
テルに電話をした。
今、いいか。
「ちょっと待て」
電話を持って移動する気配がした。
「いいぞ」
ミミミ、まだいるのか?
「いる。リビングで、メシ食ってる。母親に、気に入られてる。」
いつから?
「5日前から。俺の、彼女ってことになってる。」
彼女ってことになってるってどういうことだよ。
「そういうことだ。最初は、そのつもりだった。ちょっと、状況が変わった」
オレは沈黙し、テルの次の言葉を待った。
「手に負えない」
どういうことだよ。
「おかしいと思ってた。上手く行き過ぎてた。あいつの目的は、俺じゃない」
目的?
「おまえさ、」
なんだ。
「いっちゃ悪いけど、おまえ親、いないだろ」
いない。
「広い家に、その歳で一人暮らししてるって、おまえのことを紹介したら、
 ミミミ、ハンパじゃなくおまえに興味を示した。だから連れていった」
あのさ、ノブ、大丈夫か。
オレは話題を切り替えた。ノブは、目を開けたまま気を失い、テルに担がれて帰った。
「まだ口開けてヨダレ垂らしてるが、大丈夫だ。ノブはいつもああなんだ」
電話を切った。

オレには親どころか、家族も親戚もいなかった。
物心ついたときには、施設にいた。18の時、施設に弁護士を名乗る男がやってきた。
オレを、引き取るのだといった。神奈川の施設から、長野のこの家に移された。
自動車の部品を作る仕事をあてがわれた。贅沢をしなければ、生活に困ることはない。
親や家族が必要だと思ったことはなかった。
テルとノブとは、酒場で知り合った。ノブが酔って前後不覚になったとき、テルと一緒に
担いで帰った。家が隣同士だと知り、付き合いが始まった。この2人以外、男友達は
いない。
オレはテレビを見ながら焼酎を飲んでいたが、テレビが何を言っているかほとんど
わからない。いつもテレビは流れているだけだが、点けていないと視点をどこへ
やったらいいか迷う。
今日オレの周辺で起こったことがあまりにも強烈で、そのイメージに囚われて眠れな
くなることを怖れたオレは、いつもより酔うため一晩で焼酎のボトルを2本空けていた。
音がした。
玄関のチャイムでもなく部屋の扉でもなく、窓ガラスがコツコツと鈍く鳴った。
窓に近づいてカーテンを開け、目を細めた。
ミミミがいた。
首には毛皮が巻かれていたが、口に手をあて寒そうにしていた。
オレと目が合うと、小さく左手を振って顔をほころばせた。

■5
オレは慌てた。慌てたが、無表情を装った。
窓の下にいるミミミへ向かって、どうしたの?と訊いた。
訊いたがミミミは、「寒い」と言っただけだった。
右を指して、玄関へ回れという合図を送った。
玄関へ行き照明を点けた。扉を開けるとミミミが立っていて、
軽く笑いながら白い息を吐いた。
家の中へ招き入れた。
どうしたの?
ミミミはオレの質問には答えずに、家の内装を見渡した。
また急に抱きつかれるかと思い、一瞬身構えたが杞憂だった。
「一人で住んでるんだって?」
オレも、彼女の質問には答えなかった。
香水だかシャンプーだかの匂いが鼻を刺激した。
それほど強い匂いではないが、女がすぐ傍にいることを本能へ伝達するには、
十分すぎるほどの匂いだった。
ミミミは、首のところだけ毛皮になっている白いブルゾンを脱いだ。
もともと熱がりなタチだから、部屋はそれほど暖かくはしていない。
長そでの黒いTシャツとブルージーンズ姿になったミミミは、ベッドにもたれる
位置に、ぺたりと座った。そこはオレの場所だ、と言いたかったが、止めた。
なにか飲む?
「ミルクココア」
牛乳も、ココアの粉もない。
ココアないから、コーヒーでいい?
「いいよ」
マグカップにインスタントの粉を入れて、ストーブで沸かしていたやかんから
お湯を注いだ。砂糖とかは?
「たっぷり」
彼女にとってのたっぷりが、どれほどの量をいうのかわからなかったが、適当に
入れて差し出した。
おいしいとも、まずいとも言わなかった。

どうしたの?
「どうしたの、って?」
そういわれると、ゆるいTシャツの襟元や細長い手足に目を奪われていたことに
気付いた。抱くために口説くには、不安な要素が多い。しかし不安を一つずつ
解消していったら朝になってしまう。はたしてこの女は、オレに抱かれるために
ここへ来たのだろうか。少なくとも今は、日中裸で遊ぶような女には見えない。
オレは酔っているが、最優先事項を特定するのは得意だ。最低でも2つ、質問に
答えてもらわない限り、ミミミとは先へ進めない。
あのクスリ、どうしたの?
「え、ああ、あれ?気持ちよかったでしょ」
どうしたの、って聞いてるんだけど。
「わたしが、作った」
作った?
「そう、わたしが開発した」
2度同じことを聞き返すな、というような表情をミミミは一瞬見せた。
で、オレらはその実験台はわけ?
見下されたような気がして、とっさに皮肉で返した。
「そういうわけじゃないよ。4年もかけて作ったし、安全性は立証されてる」
誰が?なんのために?という質問をするつもりだったがオレはあてずっぽうで、
山之内製薬?
と、適当な製薬会社の名前を言った。
「ぶぶー、ジョンソンアンドジョンソン」
あっさり、答えが出た。
勝手に新しいクスリ、持ち出していいの?
「いいの、もう辞めたから」
いいはずがない、とオレは思ったが、どっちでもいい話のようにも思えた。
ミミミを、抱きたくなってきたからだ。

焼酎に入れる氷を持ってくるため席を離れた。
戻ってきて座った位置は、さっきよりもミミミに近い位置だ。
それでもまだ、間合いには入っていない。抱き寄せるには、不自然に近寄る
ステップが必要で、その動作の時に逃げられる可能性もあるし、よしんば
拒まれなかったとしても、慌てて体勢を崩すかもしれないという不安もある。
昼、テルたちと来たときとは違い、積極的に向かってくる気配もない。
ミミミを抱くまでには、もう少し自然な距離と時間が必要だった。
昼、なんで裸だったの?
「え、見てたの?」
初めてミミミが、狼狽した態度を見せた。
狼狽に、つけこむつもりで、
見てた。いつもすること?
といった。しかしミミミは、
「いつもはしない。新薬の実験。新薬っていっても、モルヒネカクテル。
 モルヒネをジンとコークで割っただけなんだけどね。カラコはあれ、好きみたい」
そんなに、ハイになっちゃうの?
「ハイにはならない。どちらかというと、ダウナー系。モルヒネはもともと麻酔用だし、
 あのね、犬に噛まれても痛くないかね、身体にブルーベリージャム塗って噛ませ
 ようとしたんだけどね、舐めてるだけで全然噛んでくれなかったの。実験失敗。」
喉がカラカラに渇いてきた。
鼓動が強くなってきていた。
オレは犬のように這ってミミミへ近づいたが、ワニのように見えたかもしれない。
両手でコーヒーカップを握っていたが、かまわずオレは唇を目指した。
じっとして動かなかったから、難なく口づけを交わすことができた。
ミミミは落ち着いていてコーヒーカップを傍に置いてから、舌を入れてきた。
オレもそれに応えた。
Tシャツの背中を探ったとき、ブラの固い紐の感触が指を伝った。
そのときオレは、サディスティックな気持ちになった。

■6
ミミミの腕はオレの首にかかっていたから、彼女のジッパーに手をかけるのは
容易かった。舌を絡ませながらジーンズを脱がす作業は困難を極めるかと思っ
たが、荒く下ろそうとしたとき、ミミミが腰を上げてくれたから助かった。
ジーンズは太もものところで止めたまま、パンツの上から濡れているかどうか
探ったがよくわからなかった。まだ舌を絡ませたたままミミミの太ももに視線を
やった。蛍光灯の灯りが反射して、昼よりも白く見えた。想像していたよりも
筋肉質だということを知ったのは、オレが愛撫するたびに、太ももの筋肉の形
が曲線的に浮かび上がったからだ。
Tシャツの下から手を入れて胸を探った。胸へ行き着くまでのわき腹の体温は
低かった。ブラジャーは外さずにそのまま上へ押し上げた。ミミミの口から声が
漏れたが、演技かもしれないと思った。
演技かどうかはどうでもよかった。
中途半端に服を脱がせたまま、ミミミを裏返しにした。逆手を取って、取った手
を背中に押し付けた。
「痛い!」
ミミミは叫んだが、後ろからアタマを押さえて布団に押し付けた。
んー、んーというようなこもった声を出し、膝のジーンズで拘束された足を
ばたばたさせている。
大人しくしてろ。
といった。ここまでは、オレの演技。
ミミミは、オレの命令通り大人しくなった。
オレは少し、興ざめしてしまった。
後ろからだから表情は見えないが、ミミミが、薄ら笑いを浮かべているような
気がした。
取った逆手に再び力を入れ、パンツに手をかけて剥ぎ取ろうとした。
その瞬間、オレの身体が浮き上がった。
ミミミが素早く、視界から消えた。
背後にミミミの気配を感じ、振り向こうとしたが、背中に鋭い痛みが走った。
「動くなよ、針折れてカラダの中に入っちゃうよ」
オレはまた注射を打たれたらしい。
針が抜かれる感触を感じて振り向こうとした。
振り向けなかった。カラダが、動かなかった。
なに?
「動けないクスリ」
ミミミはおそらく、笑いながら言った。
ミミミの表情を見られないから、わからない。

■7
「大人しくする?」
ミミミに言われたオレは、うん、とか、ああとか承諾の言葉を言いたかったが、口の周りの
筋肉まで思うように動かず、うーとか、あーとかしか言えなかった。オレは言葉を失った
ことに混乱して、話すために全身の筋肉を振り絞るつもりでチカラをこめたがカラダは
動かず、口から出てくるのは涎だけだった。
オレが2本目の注射を打たれたかもしれないと思ったのは、ミミミがオレの背中に乗った
気配を影で感じ取ったからだった。アタマは怪しいが、視界は良好だった。ミミミがオレ
に乗った感触も、注射針の痛みも感じなかった。
次第に、カラダが動くようになっていった。しかしまだ、自分の身体を動かしているという
実感が無い。オレの意志通り、なんとなく手や足は動いてくれるが、動いているのは他人
の手足なような気がする。オレの身体から生えているものが動いているから、オレの手足
だと認めざるを得ない、というような不思議な感じだ。
何のクスリだ。
オレはミミミに振り向き、座った格好のまま聞きたいことを口に出してみた。ちゃんと言葉
にはなってるような気がするが、オレが発しているのではないかもしれないとも思った。
ミミミのジーンズはまだ膝まで下りたままだった。白い足よりも肌色に近いミミミのパンツ
は、黒いTシャツにより隠されている。オレは口を開けたまま、ようやく自分の涎が冷たい
と思える感覚が戻ってきた。首を動かして肩で口を拭った。
このとき、ミミミを荒く犯そうとしてしまったことを、後悔した。

「ちょっとわたしの話をきいて欲しいんだけど、きく気ある?」
オレはただアタマを縦に振って、Yesの意思を表した。
ミミミは膝にあったジーンズを上げて元の位置に戻した。
「今のもモルヒネ。筋収縮剤も少し入ってる。筋肉注射すると、一発で動けなくなる。
2本目は、筋弛緩剤。硬直をほぐしただけ。モルヒネの麻酔は、あと30分もしたら
なくなるから心配しないで。今ならナイフでどこ切っても、痛くないよ?試してみる?」
オレの意思に反して、身体が硬直した。身に危険を感じ、防衛機能が働いた。
「冗談だよ」
ミミミは笑っていたが、身体の硬直はほどけなかった。
「あのね、わたしは2つ、クスリを開発したの。一つはパラダイムフロート。試したでしょ?
もう一つは、ジュリア。可愛い名前でしょ?ジュリアはもう18歳。でもまだ、製品には
なっていない。本当はわたしが完成させたんだけど、内緒にしてた。」
オレはミミミが飲みかけていたコーヒーを口に運んだ。
痺れた手で不器用に流し込んだが、冷めてるのかどうか、温度まではわからなかった。
「パラダイムフロートは、誰にも知られないで作ったの。ジュリアの技術を応用したの。
パラダイムフロートにも、ジュリアにも共通して言えるのは、意識に働きかけるということ。
麻薬じゃなく意識を操作するクスリは、世界的に例がないわけ。」
ミミミは熱のこもった口調になった。オレは足を揉み解したりして、感覚を取り戻そうと努めた。

本当かどうかは疑わしいが、ミミミがとんでもないクスリを作ったらしいことは解った。
しかしその話を、オレにしていることの意味が、さっぱりわからなかった。
で、オレにどうして欲しいわけ?
「聞いてよ、でね、私は設計図なわけ。新薬の。このクスリを構成する化学記号は、
私のアタマの中にしかないの。」
ジュリアって、なに?
ようやく手足の感覚が戻ってきていた。掌を握ったり開いたりしながら聞いた。
「ジュリアはね、本気。パラダイムフロートが遊びだとしたら、
ジュリアは、生きるために、必要なこと。」

座ったままミミミに、手を伸ばした。掌は、上に向けている。
かすかに微笑んだミミミは立ったまま、手を重ねた。
もともと、誰かのいいなりになりながら今まで生きてきた。
ミミミを引き寄せた。
ミミミに振り回されてみるのも、悪くないと思った。
キスした。
唇の感覚は、戻っている。舌とか、指や肌も。
「明日、東京へ行こう?」
切実そうに、ミミミは言った。
オレはうなずくかわりに、ブラのホックを外した。

■8
裸のミミミがうつ伏せになって寝ている。オレはベッドから降りてパンツを履き
ストーブに火を入れた。灯油式のストーブだ。これが一番暖まる。
昨日ミミミが、東京へ行こう、と言っていた。オレの意識が焼酎と麻酔により
朦朧としていたこともあり、その言葉の意味を理解できず、しかも目の前には
ミミミの細い身体があって、ここで拒絶を表す意思表示をしたら、一生オレには
身体を開いてはくれない不安を感じた。そして全てを承諾するという表現方法
として、ミミミを抱いた。
ミミミの小柄で細い手足がオレの肩や腰に絡まったとき、今まで経験したこと
のない適合性を感じた。背中に手を廻しきつく抱いたときも、うまく腕の中に
おさまった。オレは興奮した。ミミミを初めて抱くことの攻撃性よりも、一体感に
よる高揚のほうがはるかに快楽的だと思った。ずっとこのままの状態をキープ
していたかったが、オレはすぐに射精したくなった。今度はミミミが上になり、
サディスティックな表情でオレを見下ろしながら、ゆっくりと腰を振った。
射精したい旨を告げるとミミミは腰の動きを止めた。
オレはかろうじて踏みとどまったが、耳を愛撫されたとき、ぴちゃぴちゃ、という
唾液の音が聞こえ、直接的に脳内へ伝わった。ミミミの腰が止まっているのに
もかかわらず、オレは音に刺激を受けて、彼女の中へ射精してしまった。
オレから離れたミミミは、体液で汚れた身体を気にすることもなく、寝てしまった。
裸のミミミがうつ伏せになって寝ている。パンツを履いたオレはタバコに火を点け、
テレビのスイッチを入れた。

「長野県松本市の派出所に日本刀を持った男が押し入り、警官1名を殺害し、
拳銃を奪って逃走した事件の続報です。
今日午後2時ごろ、男は同市内の銃砲店に車ごと突っ込み、散弾銃数丁、
弾薬数千発を強奪しました。
男は現在も逃走中で、長野県警は、強盗殺人容疑で男の身元の確認を
急ぐとともに、付近に緊急警戒体制を布き、捜査を進めています。
たった今入ったニュースによりますと、男は身長175センチ、痩せ型。
黒のコートに黒いズボン、現在、白いカローラワゴンで市内を北上中です。
繰り返します・・」

「よし、東京いくよ?」
振り向くと、ミミミが下着を着けながら言った。もう一度抱きたいとも思ったが、
少し頭痛がするのと、寝起きで身体がうまく動かなかった。しかし、またミミミを
抱けるという保証がなにもないことに気付き、不安に駆られた。
「何しに、行くんだっけ?」
突然言われてオレは、冗談とも本気とも判断がつかなかった。正確には、理解す
ることを意識的に拒絶した。東京へ行こうと、今朝になってミミミは繰り返した。
彼女の言動はいつも突発的だが、必ず理由があった。
オレは彼女が省略しているかもしれない何かを、サーチした。
オレをパートナーとして選んだことは確かなようだ。オレの、ミミミに対する属性は、
恋人なのだろうか、それとも何かに利用するためだけなのだろうか。
いずれにしてもオレはミミミ側に引き入れられようとしている。
これは喜ぶべきことだ。オレがミミミを好きになっているかどうかはわからないが、
ミミミのカラダは、手放したくないと思った。
飽きるまで、ミミミのカラダをむさぼりたい。
その為に、ミミミと行動を共にし、なにか協力して恩を売れば、抱けるチャンスは
また、めぐってくる筈だ。
「とりあえず運転してもらおうかな、東京まで。クルマも貸してね?」

18の時にオレをひきとりに来てくれた弁護士は松本で法律事務所を開業している。
家をしばらく空けることを伝えた。弁護士は、戸締りと火の用心を気にしただけで、
オレがどこへ行くかは問わなかった。この家に住む条件として、定期的な部屋の
掃除と、庭の手入れを命じられていた。なるべく掃除しなくて良いよう、必要のない
部屋は極力使わないようにしていた。
オレの荷物はボストンバッグ一つで間に合った。替えのシャツと、下着が何枚か。
ジーンズとコートは、一つあればいい。
仕事は、休職扱いにしてもらった。オレがいなくても、ラインが滞ることはない。
どれだけ休職できるか知らないが、最悪クビになったとしても、かまわない。

簡単な荷物をトランクに入れて運転席のドアを開けようとしたときにミミミが、
「ちょっと待っててくれる?」
といった。そして20メートル離れたテルの家へ行った。テルと、別れの挨拶でも
してくるのかもしれないと思った。テルは「手に負えない」といってオレにミミミを
引き渡す格好になった。ミミミが、テルのことをどう思ってるかはあまり気になら
なかった。オレが、ミミミのことをどう思っているのか、よくわからなかったからだ。
ファミリアの運転席に座りタバコに火を点けた。左手でタバコを持つ癖がついたの
は、クルマの灰皿が、左側にあったからだ。
「おまたせ」
息を弾ませてミミミは言ったが、オレはミミミの後ろに気をとられた。
カラコが、やや真剣な面持ちで、オレに向かって、敬礼していた。


■9
カラコは、施設で一緒だった。
5つだか6つだか歳が離れていたが、妹のようにかわいがっていたわけでも
なかった。ただ、同じ施設内で暮らしていたから、顔や名前は覚えていた。
カラコというのは本名ではなく、あだ名か何かだ。彼女の本名は、忘れた。
最後にカラコを見たのは、確か彼女が中学の頃だ。施設にいた女の中では、
一番可愛いと思っていた。ただ、思っていただけだ。
「よろしくっス」
敬礼のポーズを作って、カラコは言った。何をよろしくしたらいいのかわから
なかったが、どうやらこのツアーにカラコも同行するらしいことはわかった。
敬礼は彼女の得意ポーズだった。「隊長」とか、「軍曹」とか呼び合う「兵隊
ごっこ」が流行っていたから、その名残かもしれない。
中学の頃と、あまり変わっていなかった。ただ今のほうが少し痩せている。
オレが30だからカラコは24,5ぐらいになったのだろうか。
髪型や化粧も、洗練されている。当然といえば当然のことだ。

「なんで?」
まともな答えが返ってくるとは思えなかったから、オレは短く訊いた。
カラコとはどういう関係で、なぜカラコがここにいるのか、という意味だった。
キーを差し込んでエンジンを回した。クルマにはラジオしか付いていない。
誰かがやかましくしゃべる音が流れてきたから、ラジオを消した。
「カラコちゃんは会社の元後輩。わたしは辞めちゃったけど、彼女はまだ現役
バリバリ。いい男紹介してーんって頼んだら、キミの名前が出てきたの、に。」
最後の「に」というところで、口を横に広げていたずらそうにアゴを突き出した。
「いい男」を真にうけるなよ、というサインだろうか。
「いい男ねえ」
苦笑いを浮かべながら、ギアをドライブに入れた。
「しゅっぱーつ」
カラコが後部座席から、こぶしを突き出して合図した。バックミラーでその姿
を確認したとき、カラコと目が合った。
クルマが、走り出した。

市内にはパトカーなどの警察車両が多くいて走り辛かった。
「そういえば強盗事件あったって、テレビで言ってたな。このすぐ近くらしいよ」
ミミミはへえ、と言っただけであまり事件に関心を示さなかった。
「もし検問で、注射器とか見つかったらヤバいんじゃないの?どうみても
怪しいよあのセットは」
「大丈夫、バッグの中に入ってるから。警察が捜してるのは盗まれたライフル
とかでしょ?いくらなんでも、このバッグにライフルは入んないよ」
今朝のニュースはミミミも聞いていたようだ。
検問による渋滞の情報を仕入れるために、オレはラジオを点けた。

『・・市内東部で発見された犯人の車と思われる白いライトバンは盗難車で
あることが判明。依然として男の足取りは掴めず、捜査は難航している模様
です。長野県警は検問の範囲を市内から県内全域へと拡大し、引き続き
捜査を進めていく方針です。身元特定も難航しており、複数犯による組織的
犯行という見方も強まっています。犯行に使われた車が乗り捨てられた以上、
犯人の足取りを示す手がかりがなくなったことを受けて、マスコミからは、
初動捜査の遅れを指摘する批判の声も高まっており、皮肉にも県警の、
凶悪犯罪に対応するノウハウと危機感の無さが浮き彫りになった今回の事件
であるといえます。さて次のニュースです。梅の開花・・』

インターチェンジへ入ったところで大掛かりな検問が行われていて、我々が
乗ったファミリアも停車を命じられて自動的に止まった。
「失礼します。運転免許証を拝見させてください」
最近の警察官は口調が丁寧だ。イメージとしては「はい、免許証」と無愛想
に言う横暴な警官が浮かぶが、そういった類の連中はほとんどいなくなった。
免許証を提示した。
「どちらまで行かれますか?」
と警官は丁寧な口調で聞いたが、目は獰猛に車内をくまなく見渡していた。
「ちょっと、東京まで」
オレは答えた。
カラコが警官の顔をじっと見ていることはバックミラーで確認したが、助手席
のミミミは外を向いていて、一度も警官の顔を見ようとはしなかった。
そのことを不審に思った警官は「はあ、東京ですか」と無理矢理話を繋げながら
ミミミの横顔を凝視した。警官の視線を感じ取ったミミミは一瞬だけ警官の顔を
見た。そのときの目はミミズでも見るようなときの無機的な軽蔑に満ちた目だった。
どんな性質の視線であれミミミにようやく認識された警官は安堵の色を浮かべた。
が、次の瞬間またミミミは視線を外し、警官など最初からいなかったというような
表情で「ガム、食べていい?」と独り言のようにつぶやいてまた窓の外を見た。
警官はまだミミミを凝視していたが、尋問したいという職業的な表情ではなく、
どちらかというと媚びた情けない表情になっていた。ミミミは警官を徹底的に
無視した。無視したというより、最初から認識していないという状況を、表情や
ちょっとした仕草だけで作りあげた。警官はこの屈辱的な状況を受け入れられず
混乱した。結果、ミミミに媚びて再び存在を認識してもらうという方法を警官は
選んだが、ミミミは2度と警官を見ることは無かった。
「あの、いっすか?」
あまりにも長く沈黙が流れていたからオレはわざと呆れたような口調で言った。
「え、あ、あ、はい。お気をつけて」
東京へ向けて出発した。


■10
「ジュリアのね、抗体を探してるの。」
ミミミは、話しはじめた。

「ジュリアはもともと、ウイルス性の生物兵器用の、ワクチンとして開発されたもの
なの。80年台、マサチューセッツの生物化学研究所で、エボラウイルスを培養し
遺伝子組替を繰り返した結果、ミシシッピというウイルスが完成した。
ミシシッピは、エボラよりも強力で即効性があるんだけど、それ用のワクチンが
ないと、生物兵器としては危険すぎて使えなかった。
ミシシッピ用のワクチンとして開発されてきたのが、ジュリアってわけ。」
ミミミは、ジュリアの話になると、熱のこもったものすごい早口になる。

「本来ワクチンは宿主の抗体から血清を作ってその成分を応用するんだけど、
科学的に作られたミシシッピには最初から宿主なんかいなくて、ワクチンは
一から作らなきゃいけなかった。そのプロジェクトが始まったのが、18年前。
あらゆるパターンで遺伝子を繋ぎ替えてはテストして、なんていう、気の遠く
なるような作業で開発が進められてきたの。
わたしは4年前からそのプロジェクトに参加して、すぐにこの作業のバカバカ
しさに気づいた。で、発想を転換してみることにした。
宿主のいないウイルスの血清を得るには、どうしたらいいと思う?
作っちゃえばいんだよ。ミシシッピウイルスに適合する宿主がいないなら、
作っちゃえばいいんじゃないと思ったの。」
ミミミははしゃいで言った。話は続いている。

「まずウイルスの核酸からDNAのパターンを読み込んで、次にヒトのDNAを、
限りなくウイルスのDNAパターンに近いモデルに組替えたの。もちろん、図面
でだけど。理論上では完璧だった。組替えたモデルとウイルスの培養実験も
成功して、わたしは確信した。これならいける、って。
でね、DNA組替えトリガーとしての開発の成果が、この、ジュリア。
プロジェクトジュリアではいくつものクスリが開発されてきて、これは2030
番目のジュリアだけれども、本当に使えるのはこれ一つしかないから、
これが、本物のジュリアなの。」

中央道は比較的空いていた。ミミミはジュリアについて、オレに理解できる
言葉を使って、丁寧に説明してくれていたが、半分も理解できたかどうか
わからない。ミミミの話は続いた。オレのアタマの中に入ってきた情報だと、
トリガーであるジュリアを投与して遺伝子操作を行い、宿主を作る。
その宿主の抗体から血清をつくり、それを応用してワクチンを完成させる
はずだったらしい。しかし一つ、問題があり、マウスを使って動物実験しよう
にも、人間とマウスは染色体のパターンそのものが違う。だからミミミは、
会社に隠れて、人体実験を行った。会社の許可が下りるわけがないからだ。

池袋で、1人の若い男にジュリアを渡し、そして別の人間に監視させた。
投与直後ジュリアには、浮遊しているような幻覚を見せるという効果が
あることを発見した。幻覚剤としての機能にも優れていることが判った。
ある日男が、ギャングの抗争に巻き込まれた。10数名のギャングが殺傷
された。男が、やったのだ。男も腕や足を骨折し、腹を刺されて腸がこぼれ
ていた。普通なら瀕死の状態だったが男は、いたって健康そうに歩いて、
病院へ行った。病院は、腸がはみ出た男を見て慌てた。男はそのまま
緊急手術を施され、一命をとりとめた。
ミミミはプロパーを名乗り、病院で男と接触した。
男の遺伝子は、ミミミが投与したジュリアによって組み替えられているから
だ。ミミミは男に話を聞いた。そこでジュリアが男にどう作用したか、知った。
結論からいえばジュリアは、欠陥商品だった。
「細胞が、イメージできるんだよ」と男は言った。
「自分がものすごい小さくなって、身体の中の細胞のもっと中の、線とか筋
とかぶよぶよとか、あと模様とか、バッチり見える。そんで、その模様の中の
どれが、何のためなのか、何でだか知らないけどわかるんだよ。すげくね?
だから刺されても殴られても、細胞がオレのカラダを治してくれるのがわか
るわけよ?すげくね?だからさ、こわくねんだよ、細胞がさ、治しに行くんだ
よ、傷口をよ?すんげーよめちゃめちゃすんげーよ!」
男は非常に頭が悪く、ミミミは会話するのに苦労したが、なんとか話を聞き、
ジュリアの欠陥を漠然とだが掴んだ。
それは、意識の中の「死の恐怖」という概念が抜け落ちるという欠陥だ。
死の恐怖が無くなるということはどういうことかというと、痛みを感じない
ということで、ナイフで刺されても、足を折られても、痛くはない。
麻酔と違うところは、脳を麻痺させて痛みを感じさせないようにするのでは
なくて、死の恐怖という概念を失って、痛みが気にならなくなるというところ
だった。だからこれは動物には効かない。死を宗教的なこととして考えて
いる人間にしか効かない。

「でもね、ジュリアに適合する人間は、必ずいるはずなの。」
ミミミは言った。オレはなぜそれほど自信を持って言えるのかわからなかった。
「だって最初の組み替えモデルの、元になったのは、カラコの細胞だから。」
「いえい」
といってカラコは、後部座席から身を乗り出した。
「でもカラコには投与したくないの。ちょっと危険だし、もしおかしくなったら、
可愛そうだから。でも、カラコと同じDNAを持つ人間が、必ずいるはずなの。
それは、カラコを捨てた、父親か母親。
カラコを捨てた親には、罪滅ぼしをしてもらう。これにはカラコも同意してる。
わたしは、宿主としてジュリアに適合してるかもしれないカラコの親を探してる。
カラコは、復讐のために、お父さんとお母さんを探すの。」
彼女らの利害は一致している。
じゃあ、オレはなんなわけ?
「運転手」
ミミミとカラコは、口をそろえていった。そして、笑った。



© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: