根本寺を後にして再び走り出したのは午後4時25分頃。宿は相川の先の上小川であるから、これでは明るいうちに辿り着くのはとても無理。真野御陵や国分寺などは翌日に延ばすこととし、佐和田バスセンターまでともかく走ることに。
20分位走った処で「史蹟安寿塚」の標識。道脇の坂を入ってみると。
(安寿塚)
塚の傍らの碑文の説明文は次の通り。
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安寿姫は弟の厨子王と共に、丹後国で山椒大夫に酷使されていたが、厨子王を京へ逃がした後、付近の池に入水したと言われているが、発見されてその後も凡ゆる迫害に耐えている中、厨子王が丹後守になった時、救い出され、風説をたよりに母を探す為、姉弟して佐渡へ渡った。
手分けして方々探す中、安寿姫と姥竹の子の宮城の小八(後の胎空法印)の一団が、海府の鹿之浦で母を探し出し、茲に安寿姫、厨子王は母との再会を果し、親子喜び乍ら帰途についた。しかし、安寿姫は長い間の労苦から衰弱甚しく、畑野で息を引き取ったと言われている。
その辞世の歌に
陸奥に住みもはてなで菫咲く
畑野の里に果てなんとする
その時一行に親切を盡した村人の願を容れて、安寿姫の櫛と笄を残して行ったので、その火葬場跡に村人により塚が作られ、塚の中には之等の遺品が埋められていると伝えられている。
この塚に生える木は安寿姫の霊がこもって真直に育たず、二股に分かれている。
古くよりこの塚は豊作祈願、縁結び、眼病早癒の霊験ありとして尊崇を受けたということが佐渡の古文書にも見えています。
安寿奉賛会
佐渡市観光協会
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安寿塚から更に10分程走ると、「順徳上皇第一皇女墓」の標識。右脇道に入って行くと。
(順徳天皇皇女、慶子女王墓)
承久の変で父の後鳥羽上皇は隠岐に流され、息子の順徳上皇は佐渡に流される。慶子女王は順徳にとっては3番目の娘になるが、佐渡に流されてから生まれた最初の娘ということで、佐渡では「第一皇女」と表示されているのでしょう。この方の歌としては、
松あれば 佐渡ヶ島なる から崎も
しかすがにこそ 見まくほしけれ
(イナゴの夫婦)
人も無き 国もあらぬか 吾妹子と
たづさひ行きて たぐひてをらむ
(巻4-728 大伴家持)
家持卿のこの歌を思い出しつつ、蝗の恋路、邪魔するは無粋なりとて早々に退散する。
(橋の欄干の「家持蛙」・・何処へカエル?)
何故か橋の欄干の「玉葱」が「蛙」になっていましたが、何故?
(大佐渡の山並。
中央、山頂に自衛隊レーダーの見えるのが金北山
)
(小佐渡の山並)
真野に向かう道中、右を見やると大佐渡の山々、左には小佐渡の山々。やがて、やや大きい川に。国府川とある。橋の上から眺めると既に日は日没近しの金色に輝いて低い位置に。あちらこちらと寄り道していると知らず時間が経過していて、もう5時半を回っている。急げ、メロス。
(国府川、下流方面)
(国府川、上流方面)
真野新町交差点で右折して佐和田バスセンターへ。薄暮の中到着。バスの時刻表を見ていると、おばさんが声を掛けて来て、行きたい先を告げると、親切にこれこれのバスに乗れと教えて下さる。佐渡のお方は大阪の人みたいに親切ですな。6時24分発のバスで宿へと向かう。バス停に降り立つと真っ暗。ホテルへ電話をして、道を尋ね、ライトを点灯させて海辺のホテルへ。
本ページはここまで。ひとまず休憩です。続きはページを改めることとします。それにしても、はかどりませんな(笑)。
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