本日は今年最初の囲碁例会の日。梅田まで銀輪で往復。
出席者は平〇氏、福〇氏、竹〇氏と小生の4名。最初の対局は平〇氏と。随所でミスがあって大敗。昨年からの連敗が6となる。次の竹〇氏に勝って漸く連敗を止めたものの、続く福〇氏には一目半負けの惜敗で、1勝2敗と振るわない幕開けとなりました。
そんなことで、囲碁の話はここまでとし、囲碁会場に向かう前に立ち寄った家隆塚の紹介でもして置きましょう。藤原家隆の墓との伝承のある塚が天王寺区夕陽丘地区にある。天王寺七坂の口縄坂と愛染坂との間の一画にそれはある。
藤原家隆と言えば、藤原定家と並ぶ鎌倉時代の歌人。定家の父、藤原俊成に和歌を学んだというから、定家とは兄弟弟子ということになる。後鳥羽上皇(後鳥羽院)も俊成に師事しているから、後鳥羽院とも兄弟弟子である。
後鳥羽院の勅命により編纂された新古今集の撰者の一人であることはよく知られたこと。
(新古今集の撰者は源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経の5名。当初は寂蓮も加わっていたが彼は命を受けた翌年7月に亡くなっている。)
藤原定家は後鳥羽院とは色々と確執があったようにて、晩年は没交渉となるが、家隆の方は、承久の変で後鳥羽院が隠岐に流罪となった後も何くれとなく心遣いをするなど忠誠を尽しているのが好対照である。
その家隆が嘉禎2年(1236年)、病により出家し、「夕陽庵」という庵を結んだのが、この地であるという。翌嘉禎3年4月9日、夕日に向かって端坐合掌して逝ったということらしい。享年80歳。
上の顕彰碑は享保6年(1721年)家隆を慕う秋野坊盛順が建立したもの。風化が著しく現在は判読不能。石碑前にその全文を刻した金属パネルが設置されている。
顕彰碑の左奥の五輪塔は後の首相原敬が大阪毎日新聞の記者であった時に、昵懇にしていた陸奥宗光に頼まれて設置したとかいうもので、家隆の墓石というのではないらしい。
契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入日を 拝みつるかな
上は、家隆がこの地から難波の海に落ちる夕日を見て詠んだという歌。この地を「夕陽丘」と呼ぶようになったのはこの歌によると伝えられている。
さて、顕彰碑全文は上の通りであるが、閑な人はクリックして拡大画面で丹念にお読み戴くとして、塚の前の説明板にその要旨が記載されていますので、面倒な方はこちらでお済ませ下さい(笑)。
では、お正月ということで、後鳥羽院、定家、家隆の百人一首の歌を下に記載して記事の締めと致しましょう。百人一首でもこの3人の歌は並んでいるのであります。
97 こぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに
やくやもしほの 身もこがれつつ (藤原定家)
98 風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは
みそぎぞ夏の しるしなりける (藤原家隆)
99 人もをし 人もうらめし あぢきなく
世をおもふゆゑに ものおもふ身は (後鳥羽院)
後鳥羽さんは、上の歌で、家隆は情のあるいい奴だが、定家は薄情な奴や、とでも言っているのでしょうか。まあ、そんな意味なら、定家がこの歌を採用する筈もありませぬが、そんな風に読めなくもないのが和歌の和歌たる由縁でもあります。
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