こんなものですが

こんなものですが

夢のカリフォルニア

絶望だとか失望はいつか希望に変わる、いや、変えられるんだと僕は思う。
ちょっと前に調子崩してみて知る、僕の個人的な思いです。

「この先生きていて、何かいいことがあるんだろうか」

この問いがこの作品のテーマ。

これを同窓会の後でクラスメイトから衝撃的な形で問いかけられた大学4年生シュウ、モデルの卵コトミ、中小企業の事務員ケイコという3人の男女が主人公である。

その問いの重さに3人の若者は苦悶する。

問いからは、全てを投げ出したい、嫌になったという厭世的な表現と読めるのであるが、「いいこと」とは何だろう。仕事で成功を収めることか。富を得ることか。偉い地位を得ることか。幸せな結婚か。
生きる目的、希望を見失ったということかも知れないが、その「何かいいこと」というのは、人生のいつの時期を設定している問いであるのだろう?まさに人生全体というのであれば、それは「死」しかないことは分かっていることである。
そうした問いを発する状況、なぜ今、そう思うのかを掘り下げることが必要なのであろう。

人生のビジョンはと就職の面接で聞かれ、「分かりません」と答えるしかなかった
シュウ。母からもつまらない人間と言われ、通知票もオール3で、有名でない大学の学生である。

仕事。自分はこんなところにいる人間ではないとか、「もうこんな仕事したくない」、ここにいてはいけない存在だという風に思ったことが、僕にある。ある意味、「おごり」だよね。

堂々と自分の思うようにしたらいいんだ。
満足感が得られなくても、それを求め続ける情熱、意欲は必要だろう。
でも、大方の人は妥協して生きている。

彼ら3人はその意味では、不器用な人間なのかも知れない。

誰しも、社会人として、ぶつかり、疑問を感じながらも仕事をしているんだろう。

さて、繊細でナイーブな人間というものは、社会では通用しないのだろうか?生きていけない甘ったれな存在なのだろうか?

シュウが再面接でこんなことを企業の人間からいわれる。

「いいことって何だよ!人が何かを成すのには犠牲が必要なんだ。
どれだけ何を我慢してきたか、その量で人生は決まるんだ。

自分の意志はどこにあるんだ。生きてるっていえるのか、それで。」

人間、強さだけでは生きられない。弱い部分も抱えながら生きている。
その弱さを消すことはできないんだと思う。
がむしゃらに打ち込む(例えば仕事)ことだけが人生なんだろうか?
愚直に繊細さを秘めて生きることを、弱い人間と誰が否定できるだろうか?

シュウが企業の人間から、生き方を全否定されるようなことを言われた後、
彼は衝撃的な経験を受けた現場に足を向け、そこで怪我をしてしまい病院に
運ばれるのだが、その時、家族でなく、彼が会いたかったのは辛い経験を共有した
2人にであった。

彼ら3人によって癒される、お互いが必要とされる人間であることを確認し合う
のである。シュウが病院で「2人に会いたかった」とつぶやき、泣き出してしまうシーン、感動した。
「キミは必要な人間だよ」って言ってもらえるのは、当然嬉しいことだけども、何より、他者に認められたと感じて、すごく安心するというか、自信になる一言である。

その後の「バカなことをしたい」という話から、思い立って夜中に車とばして千葉まで「しらす」を食べに行くシーン。すごくいいなって思う。『彼女たちの時代』にも海まで車飛ばして花火をするシーン、あったなあ。2つのドラマは、岡田恵和脚本だしね。そんな無謀な「やっちゃえ~!」っていう経験、皆さんもあるのではないだろうか。時にはバカなことすること、人生には必要。特に若いときにはね。息苦しい状況から少しの時間でも逃れ、脱出したいということなのかなあ。

あと、母がシュウに言う「つまらない人間だけど、ダメじゃない」っていう言葉。平凡、地味、取り柄がないからってダメ人間なんかじゃないんだよね。

傷つき、疲れ果てたケイコ、コトミ。彼女らを前にシュウは海のある楽園を求めようと言い、現実の苦しさ辛さから逃れるように旅に出る。仕事からも、家族からも離れて。

人の人生を踏みにじってしまったと自責の念にかられるケイコ。うっとうしい、出て行けと彼氏に言われたコトミ。

見知らぬ土地で働き始めた3人は充実した生を求める。

しかし、ケイコもコトミも仕事を気にかけてみるが、それぞれ戻る場所がない、自分の居場所がなくなってしまったと自覚する。。

「現実からは逃げられない。その時逃げても、必ずツケがまわってくる。」と土地で世話になっている未婚の母がつぶやく。打ちのめされる3人。自分の存在が社会からおいてかれている、忘れられているのではないかという疎外感、焦燥感を味わってしまうのである。

東京から遠く離れた土地で、自分自身を見つめる時間を得たのであろう。

少女がイヤリングをなくし、既に少女が帰ってしまってもそれを探そうと必死になる3人。まるで自分の人生は何かを求め、探すかのように。とにかく、あきらめたくない、何かに一生懸命になりたいという気持ちからであったのだろう、イヤリングに仮託して。探し回るシーンで、3人の過去に受けた辛い回想が流れる。生きることに自信を持つために、逃げないために3人はイヤリングを探す。

東京に戻るとき、シュウが「一歩踏み出せるまで、会わないでおこう」と提案する。何に一歩を踏み出すか、その目標を旅の中で見出し、踏み出せるという勇気を得たのである。

シュウはかつて自己を全否定された会社の人間を訪ねる。
そこでこんなことを言われる。
「仕事は人生にとって大きい。だけど、全てじゃない。
就職試験というのは、いい兵隊になれるかどうかで、人間の優劣とは違う」

コトミはモデルの道を改めて選択する。ケイコは行けなかった大学をめざす予備校生。

人生にやり直しは十分できる、そう思った時には年齢なんか関係なくできるものなのだろうか。思い悩み、逡巡し、人に頼り助け合い、それはできるんだろうと僕は思う。

ケイコが英語の勉強をしているシーンで、 「get over」 という単語が出てくる。「~を乗り越える。困難に打ち勝つ」という意味である。彼らも乗り越えようとしているのである。いい単語だなって思った。「get over」。

そして、コトミが彼氏から言われた言葉。
「幸せかどうかは、どれだけ思い出し笑いできるかだ」。元気に前向きに頑張っていける言葉だよね。

シュウは、履歴書の自己PRに「自分はスポンジ」と書く。吸収できる人間、発信できないけど、人の気持ちを受け止めることができる人間だと。

今いる自分の場所。安住してしまわずに安穏としないで、忙しい中でも自分の人生のビジョンというものを考えていたい、そう感じさせられた。

この作品は、最後にシュウのこの言葉で終わる。
「この先いいことなんてないんだという問いかけに、答えは出せてはいないのかも知れない。でも、僕は最近こう思う。 この先、確かにいいことなんてないのかも知れない。でも、僕はそれを確かめたい。自分の目で最後までそれを確かめたい。痛い思いをたくさん、これからするのかも知れないけど、痛いのは生きてる証拠な訳だし、それに、それにやっぱり僕は信じたい。きっと、きっと、世界は愛に満ちているはずだと。

痛いこと、辛く苦しく悲しいこと、いっぱいある。でも、それは生きてこそ、生きているからこそな訳で、人を信じること、自分を信じること。
僕は、この作品、こんな風に見てきました。





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