1
![]()
『妖精国の騎士Ballad』は、54巻でついに完結した本編の後日談です。9月に発売されていたのに、ちょっと忘れていたら、某ネット本屋さんで在庫が売り切れたらしく、今月初めごろにはプレミア価格(定価の倍以上!)がついていました。 ようやく再入荷したのか価格が定価に戻ったので、購入しました。本編だけでもとっても場所を取るのですが、20年前の連載開始からずっと追いかけてきた物語だけに、外伝1冊たりとも買いのがしてはいかん!というわけです。 本編ではかなり前からヒロインのローゼリイがアーサーとの恋を成就させ、最終巻で悪の大国グラーンを倒して平和をもたらすと、二人して旅に出て終わりました。それはすっかり予測済みの終幕で、長編がようやく終わった時も、ああやっと・・・ という感慨はあったものの、驚くべき結末ではありませんでした。 本編でついに語られず、気になっていたといえば、ローゼリイの兄で新王となるローラントが、いったい誰と結婚するのかということですが、これが後日談でやっと明らかにされます。 といっても、彼を愛する3人の王女たちの中で予想通り、ロリマーのわがまま姫シェンドラでした。シェンドラはずっと足が悪かったし、彼女の父母は主人公たちの“親の敵”だし、性格的にも問題ありでしたが、そういう女性とあえて結婚させることで、物語的には、新しい王ローラントの器の大きさというか、懐の深さを示す効果がある、ともいえます。 そもそも主人公たちが子供だった物語の初めから、彼らの父母たちの、 「門の所で/王子に会ったが/大きくなられたな/美しくすこやかな少年だ 我が娘が/あんなでなければ/ぜひムコどのに/ほしいところだ」 「シェンドラ姫の/足はいかが?」 「立たん!/このままだと/まったく歩けんということだ」 「そうか…」 ――中山星香『妖精国の騎士』1巻というやりとりがあって、これが実は一種の予言(伏線)になっていたのですね。シェンドラの父はやがて親友だったローラントの父を殺すことになりますが、そんな悲劇こんな悲劇の紆余曲折の末に、シェンドラの足は治り、ローラントは彼女を選んでめでたく結婚することになります。 『Ballad』で語られるいちばんの驚きは、何と言ってもローゼリイとローラントの異父弟が登場すること。のちに白魔法使いとなるロビンですが、本編最後の方でちらっとローゼリイの夢(幻視)の中に、登場予告!みたいに出てきます。 中山星香のファンタジーシリーズで、すでにおなじみの魔法使いアーサー・ロビン君と名前が似ているあたり、この二人の血縁関係が想像されたりして(時代からいってロビンの子孫がアーサー・ロビン?)、未来の作品での再登場が楽しみです。 『Ballad』の最終話で、長い長いローゼリイの物語は、ようやく25年前の作者の本格ファンタジー処女作である『はるかなる光の国へ』につながります。玉ねぎ村の少女アルダとローゼリイとの時を越えた出会いのシーンは二つの物語に共通で、セリフもまったく同じです。見比べてみると、新旧の絵のタッチの違いはもとより、その間に横たわる長い年月と長い物語を感じることができて、感慨深いものがありました。
October 28, 2007
閲覧総数 11536
2

図書ボランティアの会合に出ました。今月は2回目。がんばってます! 11月に4年生全クラスを集めて行う「読み聞かせスペシャル」に向けての打ち合わせです。 テーマは「星」ということで、星に関する絵本と、星座のブラックパネルがメイン。(ブラックパネルって私はこのボランティアで初めて知ったんですが、部屋を暗くして黒いパネルに光る素材をのせ、ブラックライトという灯りをあてて見せるもので、とってもファンタジック。プラネタリウムみたいです!) ところで私の担当は、メインの読み聞かせの間にはさむ、ちょっと息抜きタイムに、「あくびがでるほどおもしろい話」(松岡享子)というのを話すこと。絵本ではなくて、ストーリーテリング。東京子ども図書館編集のロングセラー『おはなしのろうそく』シリーズに入っています。 ここから北へ北へとすすんでいったある南の国に、たいへんかしこい、ばかな男がすんでいた。ある朝、夜が明けてあたりが暗くなったので、男は目をさました。外はすばらしくよいお天気で、雨がザアザア降っていた… ――『おはなしのろうそく5』 というふうに、さかさ言葉をわざと連ねてある、おかしなお話なのです。「すまして語ること」と注意書きにあります。ぼーっと聞いていると、おかしなところも聞き流してしまいますから、子どもたちがどこで「あれこの話ヘン!」と気づくかがポイント。 「最後までだれも気づかなかったら、シーン… だね」と、一抹の不安が残るので、一度読んだあと、出だしの部分を紙に大きく書いたものを見せて、どこがヘンか探させることにしよう! と決まりました。 で、間違えずに、わかりやすく、すまして語るのが私の役目です。11月は、ひさしぶりに、緊張しそう! 絵本と違って暗記しないとだめだし。最近、記憶力に自信がないので、少しずつ練習しなくては。
September 26, 2006
閲覧総数 1828
3
![]()
54巻でついに完結。連載20年の大長編ファンタジー『妖精国(アルフヘイム)の騎士』の最終巻が、昨日届きました。 いや~、クライマックス・ラストスパートが何年も続き、かなり息切れしつつ、でも何とか終わりましたね。 ただ、これだけ長い物語の「終わり方」というのはホントに、読者が長年、期待したり予想したりしていますから、なかなかむずかしい。中山星香の物語は、いつも、それまでの盛り上がりに比べると実にあっさりと終わるのですが、今回もそう。最後の大どんでんがえし的なものは、あるにはありますが、驚くほどじゃなくて、いろんな懸案事項がパタパタパタっと片づいて、予想通りの終わり方がハイハイハイッと描かれて。 まあ、くどくどだらだら終わるのも疲れますから、それはそれでいいんですが、いつも思ってしまうのが、最後に来てこんなに大急ぎで終わるのは、もしかして紙幅が足りなかったんじゃない? ってことです。(単行本で少しは加筆しているようですが、それでも圧倒的に足りてないんじゃない?) グラーン王の最期とか、ローゼリイとオディアルの最期の決闘、アーサーとローゼリイの再会、ローラントの戴冠など、そういう山場は、ホントはひとつひとつ、ぶち抜き見開きの画面で見せたかったんじゃないでしょうか? なのに、連載の最終回の枚数に、すべてをつめこめなくて、絵が小さくなってしまったような気がします。 それに、積み残した課題(?)もかなりたくさんあります。 いちばん意外だったのは、ローゼリイVSオディアルが決着をつけずに、水を差された形で終わってしまったこと。宿命の対決ですから、徹底的にやってほしかったですね。 それから、多くの読者が感じたでしょうが、ローラントは誰と結婚するのか?という問題。あっっさり続編へ持ち越されてしまいました。 来年からは後日談が連載されるそうなので、まあ書ききれなかったあれこれのうち、いくらかは消化されるのでしょうが。 次へとつながる終わり方の方が、商業的?には読者をますますひっぱってゆけるのかもしれませんね。 さて、前に53巻を読んで心配した「アーサーは父王を殺せるのか?」の大疑問は、うまく解決されていて、よかった!さすが! という感じです(アーサーは父を殺さずにすみました。グラーン王は土壇場でちがう原因で命を失います)。 そして、人界における悪の親分グラーン王は、権力に倦んだ孤独で気の毒な人として、あの世へ旅立ち、亡くした二人の王妃に迎えられ、ちょっとほろりといたします。でも、星香ワールドの設定によると、死者の魂は地獄の猟犬に追われながら冥府を駆け抜けるんですけど、そしてロリマー王みたいな小心な悪人は猟犬に引き裂かれたりしたんですけど、はたしてグラーン王は猟犬のあぎとを逃れて光の国(ルシリス)に到達したんでしょうか。二人の王妃が導いてくれたのかなあ。気になるところです。
December 18, 2006
閲覧総数 10332
4

英語の朗読CDつきの“The Tale of Peter Rabbit”を買いました。語学学習用で、語句の解説なんかもついています。 私はもともと日本語の朗読CD(右画像)を持っていて、子供と一緒に覚えてしまうぐらい何度も聞いたので、今度は原語で聞いてみよう、と思ったのです。 ところで、ビアトリクス・ポターの絵は、とてもリアルな動物たちが、とてもリアルな人間の服を着ています。これがちっとも違和感のないのが、むかしから私には不思議でした。 『ピーター・ラビットのおはなし』も、うさぎの服装に注目してよく見ていくと、いろいろ面白いところがあると思います。 まず最初の絵では、もみの木の根方にいる母うさぎと4匹の子うさぎが、服なし、四つ足の、野生の姿で描かれています。 ところが、母うさぎがお出かけ前に子うさぎたちに注意する場面では、みんな服を着ています。母うさぎはワンピースにエプロン(このあとでは別のお出かけ着になります)。女の子うさぎたちは赤いマント。そしてピーターは青い上着です。この場面はみんな後足で直立していて、とても人間的。 さらによく見ると、女の子うさぎははだしなのに、ピーターだけが靴をはいています。服だってピーターのはしんちゅうのボタン(「金ボタン」と訳されていますが、原語ではbrass buttons)つきの上着で、何だか一番上等そう。 (ちなみに、A・アトリーの『チム・ラビットのぼうけん』でも、チムの上着には「しんちゅうのボタン」がついていて、確かつかまりそうになった時、そのボタンを犠牲にして逃げのびます) さて女の子うさぎたちは、クロイチゴをつむとき、すでに赤いマントをぬいでいるのに、ピーターはマグレガーさんの庭で色々食べ、見つかって追われて網にからまるまで、ずっと上着を着ています。 この上着を着ている間、ピーターの仕草は人間的です。直立歩行し、ニンジンを手に持って食べ、手でおなかをさすり、逃げる時も両手を前に突き出して二本足。 ところが、ポターはある時点でピーターを四つ足歩行にはっきりと変えます。 くつがなくなったのでピーターは、四つの足でかけだしました。そうするとこのほうがはやくかけられました。――『ピーター・ラビットのおはなし』いしいももこ訳 絵を見ても、このあと上着をも脱ぎ捨てたピーターは、すっかり野生の姿(四つ足)になり、立ち止まった時にもきっちり直立せずに、前足を揃えて少しだけ持ち上げた、うさぎらしいスタイルです。開かない戸口で涙をこぼす時だけちょっと人間ぽいですが、そのあと木戸をくぐり出る時も、入ってきた時(いかにも両手をついて四つんばいでくぐった)とはちがって、完全なけものの姿勢です。 この野生の姿は、巣穴にたどりついて倒れている絵まで続きます。母うさぎは人間らしいかっこうで料理をしているのに、同じ画面のピーターは、体をのばして横寝しており、これは(私はむかし学校の飼育小屋に入り浸っていたのでよく見たものですが)安全な場所で地面にでれっとのびて休息している、いかにもうさぎらしい姿です。 このように、服を着た人間らしいうさぎと、観察眼ゆたかな作者が写実的にとらえた動物としてのうさぎが、自然な感じでミックスしているのです。それも適当に描いているのではなくて、本文にもあるように、ここからは四本足、というふうに意識して描いてあるように思われます。 どんな時に人間ぽくなり、どんな時にうさぎになるか…、他のお話でもそんな点に注目してみるのも、おもしろいかもしれません(残念ながら私はシリーズの他のお話は手元に本がないので今ちょっとわかりませんが)。
January 14, 2006
閲覧総数 1140
5

夕方のこと。いつも近所の電線で、♪ツツピ、ジャラジャラジャラ♪ とかわいく鳴いているシジュウカラたちが、何やらうちの庭先で大騒ぎをやっています。シジュウカラがこんな近くに来るって珍しいな~と思っていたら。 何かがパサパサと斜めに飛び下りて来て、ガラス戸のすぐ側にパサッと落ちました。見ると、小鳥です。まともに飛べないみたいで、着地もヘタクソ。かごから逃げ出した小鳥かしらと思って、近づいてみると、パサパサ・・・と飛んで逃げました。 でも、高くとべずにお隣の一軒家にある低木にしがみつくように止まった様子。シジュウカラたちはその周りをやかましく飛び回っています。 逃げちゃったと思って、私はいったん部屋にひっこみました。ところが、いよいよシジュウカラたちが騒ぐんですね。洗濯物をとりいれるついでに、もう一度庭に出てみました。すると、また、パサパサとよろめくように飛んできて、うちのコンクリの壁のでこぼこにしがみつこうとします。 手を伸ばすと、また逃げていく。で、シジュウカラがめまぐるしく飛び回る。私は洗濯物を部屋に放りこんで三たび庭に出ました。何だかほっておけない雰囲気なんですもの。 すると三たびその小鳥はこちらへ飛んできて、やっぱりうまく着地できずにパサッと網戸と柱のかげの隅っこに落ちました。そこで私は両手ですくうようにその鳥をつかまえました。「何だろう。飼い鳥かなあ。文鳥じゃないしカナリアじゃないしジュウシマツでもないし」と私。「飼おうよ、飼おうよ、かわいい~v」と子供たち。 からっぽの飼育ケースに入れて、写真をとろうとしたら、鳥ちゃんは首をぐいっと真上にあげて、つぶらな目でじーっとこっちを見上げるじゃありませんか。そのくちばし、周りが黄色くて、まだ平たいんですね。「これ、チビよ~~~。飛べないのは、ヒナだからよ! てことはもしかして野鳥?」「えー、飼おうよ飼おうよ、手乗りにしようよv」と子供たち。 「飼い鳥図鑑」を調べても何の鳥だか分からなかったので、近所のペット屋さんへ自転車をとばして、店の人に携帯の写真を見せました。「あ、これカワラヒワだよ。逃がしてやらなきゃね」と、さすがペット屋さん、一目でわかったみたい。ヒナみたいなんです、と説明すると、手乗りインコを飼育するケースで面倒みてあげよう、と言ってくれました。 で、また自転車とばして家に帰り、オリーブグリーン&イエローの超かわいいヒワちゃんを古い昆虫観察ケースに入れて、ペット屋さんへ連れてゆきました。このペット屋さんはレジ台横で常時、手乗りインコの赤ちゃんを育てていますから、安心して預けられます。「飛べるようになったら離してあげるよ」と、約束してくれました。 よかったね、チビヒワちゃん。「飼いたかったのに、飼いたかったのにぃ」と、子供たち。 それにしても、シジュウカラたち。迷子のチビヒワが心配であんなに騒いでいたのかしら。庭を見回しても、嘘のように静まりかえって、彼らはもうどこにもいませんでした! 何てメルヘンなできごとでしょう。
June 12, 2008
閲覧総数 293
6
![]()
難解だから理系、と決めつけてはいけないんですが、一度はちゃんと読まなきゃと長年思っていたボルヘスの『伝奇集』、1度ではわけがわからず、続けて2度読んでみました(個人的に、同じ本を続けて2度読み返すことはとても稀)。 ボルヘスが選んだ「バベルの図書館」という幻想文学選集がありまして(日本では国書刊行会から出版)、その1冊ロード・ダンセイニの短編集『ヤン川の舟唄』を持っているので、以前から選集の名の由来であるボルヘスの有名な短編「バベルの図書館」を読みたかったのです。 この話では、蜂の巣状に無限に広がる図書館に、すべての事象についてのすべての本が無限に?あり、そこで暮らす主人公が、この無限図書館=世界・宇宙のさまざまな解説や解釈について紹介しています。つまり、じつは図書館自体の話ではなく、我々ニンゲンが図書館=世界・宇宙をどう解釈するか、についての話。 哲学的というより、何だか人(読者)を食った感じがするのは、蜂の巣1つ(1部屋)の壁に書棚5つ、書棚1つに本33冊、本1冊に410ページ、ページ1つに40行、行1つに活字80…という、数字の苦手な私には無意味にしか見えない記述です。世界は無意味なモノの無限の集合体で、ニンゲンは意味を見いだそうとむなしく右往左往しているだけ、と、突き放された感じ。 作者が、自分で語る物語を自分で冷酷に突き放す感じは、他の短編でもそう。 架空世界の百科事典についての「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」でも、架空世界の設定資料集みたいな部分をファンタジー気分で読んでいると、“ほらね、この百科事典を作り、現実の世に出し、それについて調べる者が現れることで、現実が少しずつ変容していくでしょ。もうトレーンを知らなかった世界とは違う世界になったでしょ!”という、うすら怖い(でもよく考えると無意味にも思える)オチがついてきます。 物語を包みこむ、世界の枠組みに込められた、もう一つのより大きな物語が、そこにはあるのです。 この構造が『伝奇集』すべての短編にあるようですが、あるものは仕掛けがちゃち、というか俗物的でそれほど怖くない(し、面白くない)ように思えます。ミステリ仕立ての「死とコンパス」「刀の傷」「八岐の園」は、よくある話っぽい。ただし、これは以後の作家がボルヘスの影響をすごく受けているせいかもしれません(それこそ、ボルヘスを知らなかった世界とは違う世界になったわけだ!)。 異国情緒の楽しめる「アル・ムターシムを求めて」や、「円環の廃墟」(ミヒャエル・エンデっぽい。というか、エンデもボルヘスの影響を受けているのかしら? またはボルヘスと同じことに着目しているのかしら? ーーなどと思わせるところが、ボルヘスの真の狙いかも)は、結構わかったし、楽しめました。 宗教問答的な「ユダについての三つの解釈」「フェニックス宗」は、宗教心の薄い典型的日本人の私には、ヘリクツみたいに思えました。「『ドン・キホーテ』著者、ピエール・メナール」も、宗教じゃないけど、同類? あとは、数学が苦手だと頭がごちゃごちゃしてしまう「バビロニアのくじ」、これも結局、人生そのものの人を食ったたとえ話のようです。なんか元も子もないなあ、と思わせられちゃう。 とにかくさらりと読んだ表面とは別の、もっと大きな仕掛けが背後にあって、実はこういうことだったんだよと、言わせたいけど、その「実は」が何だか感動を呼ぶというより、むなしさを呼ぶ感じ。読者はボルヘスというお釈迦様の手のひらで踊らされていたっていうか。 唯一、南米的叙情があふれる「南部」が、素直に気に入りましたが(ガウチョ・パンツのもとになった南米のカウボーイ「ガウチョ」がいい味出しています)、なんとこの話も、古き良き南部だましいが描かれる後半は、都会にいる主人公が死ぬ間際の夢だった、という解説がありまして、エーッそういう解釈もありかもしれないけど、何かだまされた気分だなあ、と思ってしまって、再読しても伏線とか特に気づかなかったです。 どうも、理系脳でない私が鈍感すぎる方面に展開されている話らしい、ということが、分かったような、分からないような。
May 23, 2020
閲覧総数 592
7

『冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間』の斎藤惇夫氏の新作、という新聞広告を見てびっくり、慌てて購入しました。処女作『グリックの冒険』が1970年、次の『冒険者たち』からかなりの年月を経て『ガンバとカワウソの冒険』が出たのが1982年でした。3作でガンバや個性的な彼の仲間たちはかなり描きこまれた感があり、しかも最後のテーマが相当重いものだったので、読者の私としても“完結した”気持ちがしていました。 でも、作家は(いや人間はみな)新しい分野にチャレンジしていくものなのでしょう。ロフティングが「ドリトル先生」シリーズをいったん終わらせ(るつもりになっ)たあと、ジャンルのちがう『ささやき貝の秘密』を書いたように、斎藤さんもまた別の物語を語りはじめようとしていたのだそうです。 それが28年後の今年ようやく出版された、というのです。 ところで、『冒険者たち』の冒頭には、「哲夫と竜太に贈る」という著者の献辞があります。だから私は新作のタイトル『哲夫の春休み』を見た時も、知らない人でありながらなつかしい「哲夫」くんに、数十年ぶりに再会したような気がしました。 物語は小学校を卒業し中学になる前の春休み、哲夫くんが父の故郷へ一人旅をするというもの。子供時代を終えたけれど、大人世界の住人にはまだなっていない、若者の旅。彼の目の前に開ける広い時空。それは、以前私がこのブログでとめどなく垂れ流していた『冒険者たち』シリーズに共通するイメージと重なっていて、ガンバの物語でなくてもこれはやはり斎藤さんのお話なんだなあと思いました。 折しもちょうど今年の夏、『児童文芸』誌上に、私がブログをまとめたものがひっそりと掲載されたもんですから、何てタイムリー!と個人的に盛り上がってしまいました。 哲夫くんの旅は、ガンバというよりは、「ぼくのほんとうのうち」である北の森を目指すシマリスの旅(『グリックの冒険』)により近いものがあります。哲夫くんは列車の中や長岡の町で、父の子供時代、若者時代にタイムスリップを繰り返します。それもそのはず、哲夫くんは作者の息子さんであり、作者は息子の姿や心を借りて、この物語の中で自分のふるさとと人生とをたどりなおしているのです。 だから、哲夫くんが歩いている道の風景がいつの間にかふっと過去のものにだぶったり、昔の人物がそのまま自然に現在の人物につながったりします。 そのオーバーラップの容易さは、典型的なタイムスリップもの(たとえば『トムは真夜中の庭で』)のように、現在と過去がはっきり分かれていて境目を超えるのに何か儀式(時計が13時を打つとか)が必要な物語とは、夢の本質が違うことをも示していると思います。 つまり、哲夫の行き来する過去の世界は、まだ完結していないのです。過去は、現在の登場人物ひとりひとりに何かしら影響を及ぼし、封印してきた思いを解き放つようにと働きかけています。過去をもう一度体験するというタイム・ファンタジーを通して、その解放が為されると、最後には癒しが訪れます。 つらい思い、未消化な思いがそうやって解き放たれ癒されて、はじめて人は前へ進むことができる。逆に言うと、将来へ向かっていくためには、過去をときほぐす必要があるというわけです。 『グリックの冒険』でも、吹雪の中で立ち往生した時、ヒロインののんのんが死んだ母の思い出を語ります。グリックはそれを聞いて、夢うつつにその話を反芻し、やがて再び立ち上がって旅を続けるのです。 同じように、哲夫くんも彼と知り合った人々も、過去の再体験によって未来へと踏み出す力を得、物語は前へ向いて終わります。 と、こんなふうにこの物語を一気に読み終えて、あとがきを読んだ時、私は初めて、斎藤惇夫氏の息子の哲夫さんが2年前に亡くなったことを知りました。私とほぼ同世代で、『冒険者たち』の献辞でその名を見て以来、まるで知っている人のように私が感じてきた哲夫くんは、お父さんを残して先に旅立ってしまっていたのです。 現実の哲夫さんが逝ってしまった後、作者の心の中で20年以上も眠っていた12歳の哲夫くんがようやくふるさとへ、時をさかのぼる旅に出たのです。それを知ると、今度は、この物語はお父さん自身の心の旅であると同時に、やはり哲夫くんの旅――父惇夫氏の心の中の哲夫くんの旅でもあるということが、わかりました。 そしておそらく、時をさかのぼる旅をやりとげる=この物語を書きあげるということで、作者の心も癒されたのだろうと思います。 この物語の舞台であり斎藤惇夫氏のふるさとである長岡市は、私の母方の祖母の故郷でもあります。子供のころ疎開していたという母と一緒に、私も若い頃、見知らぬふるさとである長岡を訪ねたことがありました。哲夫くんのように、タイムスリップはできなかったですが・・・
December 3, 2010
閲覧総数 2717
8
![]()
今日は小学校の図書ボランティアの会合に出ました。来月の図書の時間(4年生)に読む本を選ぶのです。 メンバーのある人が、大好きな『100万回生きたねこ』(佐野洋子)をぜひ読みたい、ということで、その場でまずメンバーの前で読んでみました。 以前の日記でもとりあげましたが、この物語の前半は、主人公のねこが100万回死んで100万回生き返るという話です。何度生まれ変わっても、ねこは飼い主が大嫌いで、死ぬのなんかへっちゃら、というのです。 ここで、いくつか問題点が出ました。・リアルな死ぬ(殺される)場面が何度も出てきて、子どもの前で読むのに抵抗がある。真似をしてねこを殺そうとしたりしないだろうか。・親戚など身近な人の死を体験した子どもや、ねこを飼っている子どもには、ショックが強いのではないか。 それから、・死んでも平気、何度でもリセット、というと、人生がまるでゲームのように安易で、命が軽んじられている誤解を招く。 なるほど、そうですね。この物語が世に出た頃(1977年)には、ゲームなどのバーチャルな世界はまだほとんどなくて、子どもたちにも「死んだらリセット」なんて発想はなかったのだと思います。だから100万回生き返るねこって、すごくインパクトがあった。でも、今ではキャラクターが死んだり負けたり失敗したら、リセットボタンでまた始めよう、というのがゲームの世界では当たり前。100万回生きたねこなんて、珍しくもないのかも。 いや、だからこそ、物語の後半に意味があるのだ、と、大人は言いたいところです。誰のものでもない自立したのらねことなり、人生の伴侶を得、家族を愛して生ききった時、ねこは自分で死んで、二度と生き返りませんでした。 100万回リセットしても、他人に飼われるような人生はほんとの人生じゃない。自分で自分の人生を生きて、自分を愛し他人を愛してこそ、ホンモノの人生なのです。 でも、そこのところが、4年生にどこまで伝わるでしょうか・・・。 「生と死」や「人生」についてどう感じ考えるかは、個人差がありすぎて、大勢の前で読み聞かせるのは、ちょっと無理なんじゃないか、という結論でした。 それより我が子と向き合って、子どもの受けとめ方をみながら、個人的に読み聞かせる方が、よいのではないか。・・・なるほど。 メンバーの中にも、この本(の後半)が好きという人もいれば、どうもこの本(の前半)はいただけない、という人もいました。うーむ、問題作なのですね。
June 21, 2006
閲覧総数 2509
9

姫路文学館から、松谷みよ子さんのサイン入り『ちいさいモモちゃん』が送られてきました。奥付を見ると、なんと第90刷!! さすが大ロングセラーですね。 ところで、私が持っていたのは昭和49年の第2刷なんですが、じつは絵が違うんです。 どちらも画家さんは菊池貞雄という人です。だから絵の雰囲気や構図は似ているのに、モモちゃんやママなど人物の顔が少し違うんです。何でもないことのようですが、三十余年親しんできたモモちゃんの顔と、似て非なる顔のモモちゃんを見ると、ちょっと違和感。 さらによく見ると、表紙の、モモちゃんのお人形の写真も、少し違うのです。どちらも赤い傘をさし緑の服を着たモモちゃんなのに、顔がちょっと違うし、新しい版では傘に模様が入っていたりします。 これほどのロングセラーともなると、挿絵やお人形も描き直されたりしているんですね。すごいなあ。 ところで、モモちゃんの挿絵を描く画家さんは他にもいて、私の持っていない第五巻・第六巻は伊勢英子さんという人です(菊池貞雄さんはすでに亡くなっています)。また、私の手元にある昭和48年版『モモちゃんとプー』(松谷みよ子全集13)の挿絵は西巻茅子という人で、この本で最初にモモちゃんを知ったせいか、私の中のモモちゃんはつねにこの人の描くモモちゃんでした。 挿絵って時には文章以上に読者に大きなイメージを与えますよね。いろんなモモちゃんを眺めて、あらためてそう思いました。*菊池貞雄さんのモモちゃんの顔の違いを画像でご紹介しようかと思ったのですが、本文中の挿絵だと著作権とか問題あるといけないので、私の好きな西巻茅子さんのモモちゃんの表紙にしました。
April 17, 2006
閲覧総数 818
10
![]()
有名作家の有名作品なのになぜ? 本っ当に期待外れだったのが、『かがみの孤城』。アニメを観たのですが、ファンタジー的にお粗末すぎでは? 原作は違うのかと少し調べてみたのですが、やっぱり読む気になれませんでした。 ツッコミどころ満載なのですが、(以下ネタバレ)たとえば、なぜミオはオオカミの面をかぶって「赤ずきん」に言及し皆を威圧するような言葉遣いをするのでしょう。きっと定刻をすぎると皆を食い殺しに来るというオオカミとの関連性があるのね、もしかしてミオ=オオカミで、リオンの妹のやさしいミオと、恐ろしいオオカミとの二面性があって、それが物語のカギになるのか? と期待したら、そんなのなかった。 そもそも定刻を超えて居残ると食われるというのが、なぜ「七匹の子ヤギ」なのか? 七匹の子ヤギはそういう話ではないけど、深いところで何かつながりがあるのか? と期待していたら、なかった… 皆が通ってくる鏡にはどんな意味があるのか? 自分の映像の中に入るわけだから、やはり自分自身の真の姿を見つめ直すとかそういう意味が…と期待したけど、別に鏡ならではの特性とかなかったし。 タイムラグのある異世界ものはありふれているのに、みなが全然気づかないのも不自然(パラレルワールドと言うあたりで、服装や言動からすぐ分かると思うのですが)。私なら鏡をくぐり抜けたら、ドールハウスのお人形の服装になっちゃう、という設定にするだろうな…とか。 原作は連載しながら創っていったらしいのですが、なんか圧倒的に練りたりない感じがするのはひょっとしてそのせいなんでしょうか。 あと、登場人物の中で腹立たしかったのが、こころの親友もえちゃんです。絶対に見捨ててはいけないところで、こころを見捨てましたね! いじめグループが怖かったのなら、帰宅してからこころに電話するとか手紙出すとか、いくらでもフォローできたはずなのに、それもしませんでした。最低です。こういうことはタイミングが大事なので、最後に手紙出したり和解していますが遅すぎますね。もえちゃんはそこんとこ、全然わからないまま去って行きますね。 もえちゃんにも精神的葛藤があってなかなかこころを助けられなかったのなら、そこをもっと描いてほしかったです。もえちゃんこそ、いちばん反省して乗り越えて、友人を見捨てず助けられるよう、変わるべき人物だと思うのですが! (もし、私の推測に反して原作はもっと完成度が高いのなら、読まないでけなしてごめんなさい。)
August 8, 2024
閲覧総数 286
11

先日ミス・ビアンカ・シリーズをとりあげましたが、ネズミが主人公の冒険アニメで主題歌がすばらしいといえば、スピルバーグの作った「アメリカ物語」(監督はドン・ブルース)を思い出します。全体のノリはディズニーアニメに似ていますが、もっとマニアックに映像美を追求しているようで、背景は緻密、動きはなめらか。 タイトル画面での原題は「AN AMERICAN TALE」。なぜか日本語版のパンフレットやビデオの表紙には「AN AMERICAN STORY」となってるのが不思議なんですけど。 スピルバーグがロシア系移民だった自分の祖父の名をつけたという、子ネズミのファイベルが主人公。コサック・ネコの襲撃で家を焼かれたファイベル一家が、移民船に乗りこんでアメリカをめざします。船から落ちて家族とはぐれ、やっとたどりついたニューヨークで悪者にだまされ、いろいろと苦労を重ねながらも、明るく希望を持って生き抜いて最後に家族と再会を果たす。そんな、“文部省特選”的なストーリー。アニメでネズミだからこそ、気恥ずかしくなくこんなストーリーが楽しめるのでしょう。 けれども、きっと、いわゆるアメリカ人はみんな、アメリカがまだ夢と希望の国であったころの、前向きで明るい楽天性を根っこの所で持っていて、だからこそこの物語に感動するのでしょう。 移民船のせまく暗い船底で、ロシア、イタリア、イギリスなど各国のまずしい移民ネズミたちがお国なまりで今までの苦労を嘆きながら、最後に 「だけど、アメリカにはネコがいない! だから私たちは海を渡るんだ」と大合唱をする場面。(実はアメリカにネコがいないというのはまったくのデマでしたが。) また、ネコ対策を話し合う集会でネズミたちが叫ぶ、 「アメリカには自由がある! わたしたちは自由を求めてアメリカに来た! ネコからの自由を!」というスローガン。 そして、最後のシーンではるかにかすむ西の地平線を眺めるファイベルたちに、 「あっちも、ずーっと向こうまでアメリカだ。きっと行けるさ、いつか!」と力強くくり返すハトのアンリ(彼はフランスなまりでしゃべる)。 こんないくつかの場面で、とても単純明快なアメリカ魂みたいなのが、けっこう感動的なんですね。 そして、忘れられない主題歌「Somewhere Out There」は、リンダ・ロンシュタットとジェームズ・イングラムのデュエットももちろんよいけれど、作中でファイベル役と姉のタニア役の二人の子役が、子どもっぽい高いほそい声で一生懸命歌うのが、背景の美しい月夜の映像とともに、心にしみます。 続編に「ファイベル西へゆく」があり、これも楽しいです。第3作もあったらしい(マンハッタンで宝探し。日本では未公開)。
May 20, 2006
閲覧総数 2193
12
![]()
復刊ドットコムでリクエスト投票していたら先だって再版。ですが、専門書って高価ですしね。待ちきれず安い古本で入手しちゃいました。現在、すでに復刊ドットコムでは在庫切れです。お高くてもあっという間に売れたということかしら。 何しろ、副題(原題)でわくわくします。スキタイといえば、紀元前の中央アジア(黒海あたり)のナゾの遊牧民。 一方、キャメロットは英国の伝説の英雄アーサー王の宮廷のあった場所です。が、どこだか特定されていません。アーサー王じたいが存在したかどうか議論される人物で、膨大な伝説や物語が彼のまわりに集まっており、今でもアーサー王ものといえば、西洋ファンタジーの一大ジャンルを形成しています。 アーサー王伝説の多くはケルト起源とされているので、私も以前から興味があったわけですが、この本ではなんと、遠くスキタイの末裔?アラン人の文化・神話がアーサー王伝説の根底にかなりある、という新説を主張しています。 アラン人は黒海沿岸からフン族におされて西ヨーロッパに入り、1世紀にはローマ帝国の傭兵としてブルターニュ半島やイギリスに派遣され、そこに入植・定住してアーサー王伝説のもとを作ったというのです。ロングアゴー&ファーラウェイ、ですねえ。 円卓の騎士ランスロットの名前は「ロット(フランスの川)のアラン人」が起源だとか! そういえば、1世紀が舞台の『クリスタル・ドラゴン』に出てくる世界樹の精霊アラン(アラヌス)は、分割されて剣の柄や眼帯の留め具などになり、アイルランドやアイスランドにまで散らばっていたという設定でした。人々の移動や交流にともなって、モノも名前もそして伝説も、驚くほど遠くまで到達する可能性があるわけです。 話を『スキタイからキャメロットへ』に戻しますと、この本には吉田敦彦の解説でナルト叙事詩(スキタイ人の末裔オセット人の英雄神話)が紹介されていて、独立したお話としてもおもしろいです。 本文では、この神話に出てくる神宝の杯が、アーサー王伝説の聖杯である、と主張されているんですね。どれくらい説得力があるのかは、専門家でない私には判断できませんが、とにかく、民族大移動の時代に多くの人々が黒海沿岸あたりからヨーロッパへ流れ込んできたのですから、ヨーロッパ文化の基層を成す伝説に、多少なりとも中央アジア起源の要素が入っているのは、当たり前、かもしれません。 そして吉田敦彦さんといえば『日本神話の源流』という本を持っているのですけど、ここに日本神話とスキタイとの関係が記されているんです! 日本人はアルタイ語族とか言われますけど、中央アジアのアルタイ語族は、スキタイの影響を受けているから、日本神話の一部には、スキタイとの共通点がある。そして、同じくスキタイの影響を受けたヨーロッパのギリシャ神話とも共通性がある(その一例が、亡き妻を訪ねて黄泉の国に行くイザナギとオルフェウス)。これまた、ロングアゴー&ファーラウェイです。 さらに私は思うのですが、ケルトの物語と日本の民話だって、そっくりなのがあったりするんですけど…浦島太郎とオシアンとか、こぶとりじいさんそっくりの民話とか。これも実はスキタイつながり? ユーラシア大陸の東と西とをつなぐ、まんなかのスキタイ。気宇壮大なヴィジョンです。
May 25, 2017
閲覧総数 741
13

アップするのをさぼっていましたが、1週間ほど前、わが家のイモムシ&ケムシは順次、脱皮をしてサナギになりました。 ヨトウムシ(ほんとにヨトウムシかどうか分かりません)の方がまず、エサを食べないし何だか緑色になったと思っていたら、脱皮。黄緑色のサナギでしたが、数時間で茶色になりました。 数日遅れて、ツマグロヒョウモンの幼虫もバカ食いをやめて、せっせと歩き回り始め、飼育容器(実は小さな、電子レンジ用のプラスチック製蒸し器)のフタにさかさまに糸を張って体を固定しました。ところが娘がフタを取った時、糸が切れて幼虫は落下。別にケガはなかったようですが、もう糸を張らずに、よいしょと脱皮して、ベージュのサナギになりました。 右画像で右端に見えるのは脱いだ幼虫の皮です。(下はフンです。)脱皮のとき、オシッコをしたようでちょっと敷いた紙が汚れています。 半日ほどたつと、キラキラした点が現れ、翌日にはすっかり枯葉色のサナギになりました。 数年前に家の外壁で見つけたツマグロのさなぎは真っ黒に金の点々があったのに、このさなぎ君は枯葉色です。 さて、すっかり秋めいてきた今日この頃、羽化はまだかと娘は毎日、容器をのぞいていますが、二つのさなぎはコロンと転がったままです。そろそろチョウチョ(またはガ)にならないと、寒くなってしまうのに・・・。ちょっと心配な日々です。
October 24, 2010
閲覧総数 733
14

クリスチャン・ダンチェッカー先生。私でも読めたハードSF『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』に出てくる、生物学の権威の学者先生。 最初、登場したとき、エラソーに伝統的進化論とやらをふりかざしてしゃべりまくって、何てヤなやつ、と思いました。 でも、作者のホーガンという人は、悪役をつくらない主義なんでしょうか、ダンチェッカー先生は読み進むにつれて、鋭い洞察力と案外おちゃめな性格で、私を魅了したのでした。 だいたい名前が「クリスチャン」なんて、いかにも正統派、って感じですよね。 で、主人公の新進気鋭っぽいヴィクター・ハント博士(こっちの名前はいかにも真理を追い求めて勝利する!みたいな若さとパワーが感じられます)と、ことごとに反発しあっていたダンチェッカー先生ですが、謎の宇宙人や太古の宇宙船の探索を進めるうちに、正反対な性格の二人がだんだん協力しあって知恵をしぼって謎解きをしていくところが、まことにほほえましい。 世の中にはマッド・サイエンティストという頭でっかちで非常に危険な科学者たちがいますが、ダンチェッカー先生はまるで違います。太古の宇宙船で発見された太古の生物を調査しにゆくとき、彼は「遠足前の子どものように」わくわくしちゃうのです。 そして、そこで見つけた太古のサイを標本にして、研究室の戸口に据えつけ、「これはわたしのお気に入り」と呼んで、なでなでしちゃったりする。 そして、『星を継ぐもの』でも『ガニメデの優しい巨人』でも、最後の最後に、すばらしい推理をビシッと決めて、ハント博士や読者たちをあっと言わせる、その頭脳の切れのよさ。 かっこいいですねえ。 頭が切れて育ちが良く、しかもおちゃめで情にあつい。これこそ、理想の男性!
June 2, 2006
閲覧総数 2033
15

村上春樹に関してはシロウトなんですが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は設定がとってもファンタジーなので、なかなか興味深いです。ちなみに、私が初めて読んだ村上春樹で、そのあと『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』を読んで、それっきりです。 この物語は「世界の終り」という話と「ハードボイルド・ワンダーランド」という話が交互に1章ずつ語られて進んでいきます。 読んだ方はご存じのように、「世界の終り」では主人公が壁に囲まれ一角獣の居るさびしい町に来て住むことになりますが、これは実は主人公の脳の中にあるイメージであり、つまりファンタジー世界。一方、「ハードボイルド・ワンダーランド」は主人公が実際に生活している現実社会。それが交互に出てきて互いに微妙な影響を及ぼしながら同時進行していきます。 この手法は、ファンタジー的第二世界と現実とを行き来するミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を思い起こさせます。じつは、ファンタジー小説では珍しくもない構成。というより、ファンタジーを読むという行為じたいが、こんなふうに第二世界と現実を行きつ戻りつしているのです。 「世界の終り」の方は、本に囲まれた町の地図がついているうえ、一角獣とか夢を読むとか、ファンタジー的アイテムがいっぱい。特に、主人公が自分の影と引き離され、その「影」が一個の人格を持つあたりは、河合隼雄の『影の現象学』にたくさん紹介されている、古今東西の影をテーマにした物語と共通点がありそう。 たとえば、主人公は影を失ったために、「心」を次第に失う危険にさらされます。壁に囲まれた町にはそうやって心を失った人ばかりが住んでいるのですが、心がないといっても彼らは一見、ふつうに物事を感じたり考えたりはします。ここでいう「心」とは、河合隼雄が「たましい」と表現したもののようです。 さて「ハードボイルド・ワンダーランド」の方も、主人公にとっての現実世界とはいえ、なんだかのっけからあやしい展開です。 この舞台設定を「近未来社会」だと解説しているのをネットのどこかで見かけたのですが、通り過ぎる車からデュランデュラン(80年代のポップスグループ)の歌が聞こえるのですから、これはその当時の「現在の現実社会」の一種なのだと思います。「一種」と言いたいのは、この世界が主人公から見たものすごく主観的な世界で、しかもあとになるほど微妙にゆがんできているので、実はこれもまたファンタジー世界だったのではないかと思われるからです。 じつは私自身は、このような架空世界に、現実の固有名詞を持ちこむのはキライなんですけど、しかもそれが私の好きだったデュランデュランで、そのうえ主人公(村上春樹氏)がそれを思い切りけなしていたりするので、ますますムッときちゃうのですが・・・ 閑話休題。「ハードボイルド・ワンダーランド」は、そのタイトルがすでに『不思議の国のアリス』(アリス・イン・ワンダーランド)を示唆しており、物語冒頭に出てくるエレベーターは、アリスがうさぎ穴を地下へとゆっくり落ちていくシーンを暗示しています。『アリス』の原題は「アリス・イン・アンダーグラウンド」ですが、村上春樹の主人公もさらに地下の不思議の国へと下降していきます。 その地下への入り口がクロゼット(衣装だんす)の奥に隠されているというのも、『ライオンと魔女』(ナルニア国ものがたり)の設定を彷彿とさせます。 つまり、「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界もファンタジー(架空)であるというしるしが、あちこちに散らばっているのです。 途中をとばしますけれど、結局「世界の終り」の主人公は「影」と一緒に町からの脱出を計画しますが、土壇場で思いとどまり、「影」だけが深い淵にとびこんで、地下水路を使って外界へ脱出することになります。そのとき、「鳥」(ユング心理学ではたましいの象徴)が壁を越えていくのが見えることからも、「影」はやはり「たましい」なのですね。 一方、「ハードボイルド・ワンダーランド」の方では、主人公は知らぬうちに組みこまれた脳内回路「世界の終り」に意識が閉じこめられる羽目に陥って終わります。それは「死」に似ていますが、彼の脳を手術した老博士はそれを「永遠の生命」であると言います。 そこで私は思ったのですが、「ハードボイルド・ワンダーランド」の最後で「現実世界」の意識を失った主人公は、その後「世界の終り」の町に行き着く、つまり物語冒頭につながっていくのではないでしょうか。 そして、「世界の終り」の最後で町を脱出した「影」こそが、「ハードボイルド・ワンダーランド」の現実世界の主人公だったような気もします。 つまり、2つの物語は最後と最初がつながって、ウロボロスの蛇の輪のように永遠にぐるぐるめぐり続ける、一種の「はてしない物語(ネバーエンディング・ストーリー)」に思えます。これもまた、ファンタジーではよくとりあげられるテーマであり、深く掘り下げるとまだまだいろんなことが言えそうです。
January 14, 2011
閲覧総数 926
16

「バムケロ」シリーズの中で私の一番のお気に入りです。他の3冊がバムとケロの家やその周辺のできごとなのに対し、『そらのたび』は組み立て飛行機に乗っておじいちゃんちを目ざす、冒険ファンタジーなのです。 げつようびのあさ…パンケーキを たべていたら やまのような こづつみが とどいた おくってくれたのは おじいちゃん ――島田ゆか『バムとケロのそらのたび』 大小さまざまな形の小包みは、飛行機の組み立て部品でした。二人は、土曜日までかかって組み立てます。 絵がとても凝っていて、初めの方のページと、組み立てる場面のページを比べると、どの形の小包みに何が入っていたかわかります。たとえば、三つでっぱりのある箱に入っていたのはプロペラ。三角柱の形の箱に入っていたのは、飛行機のタイヤのストッパー。最後尾の配達人が人差し指の先っちょにのせていた小さな箱は、ただのビックリ箱でした。 組み立てて、ペンキを塗って、こんなふうに飛行機が作れるなんてうそみたーい、と思っていましたが、CRALAさんみたいな模型の達人だったら、きっとできちゃうんでしょうね! 自分で作った飛行機に乗って、おじいちゃんの手紙を手がかりに、いざ冒険旅行へ出発。 すべりだいも すなばも しばらく バイバイ ――『バムとケロのそらのたび』 小さくなってゆく家と庭の絵があります。日常生活よ、さようなら! という感じで、旅に出かけるときのワクワク感が伝わってきます。 それからは、一つ一つ難所を越えていきます。涙の出るたまねぎさんみゃく、むしだらけのりんごやまのほらあな、ふんかするかぼちゃかざん、そして、二人の飛行機は海に至ります。 冒険旅行も後半のヤマ場になって、旅人たちは海を見る…そんな一つのパターンがあるような気がします。ぱあっと開ける海を前に、ついにここまでやって来たか…と感慨を深めるのでしょう。 うみではおおうみへびが出て、いよいよ最後の難所、きゅうけつこうもりのトンネル。ケチャップをまいて切り抜ける! なんてすてきな方法でしょう。 そして、海辺のすてきなおじいちゃんちへ到着。お祝いとご馳走のあと、『ふしぎなひこうきじいさん』の本を読んでもらおうとしたところで…またもや眠ってしまう二人。最後のシーンは『にちようび』とだぶっていて、すごくおさまりがつく感じ。 こんな冒険旅行の本筋を追うほかにも、島田ゆかの絵には注目すべきところがいっぱい。たとえば…・表紙絵の二人の荷物。どれに何が入っているか、わかりますか? かぼちゃ火山でケロちゃんがさしていた傘もあります。おじいちゃんへのプレゼントは青いチェックの包み紙。お弁当のホットドッグが入っているランチボックスもあります。・飛行機の組み立て中をのぞきに来て、ケロちゃんに背中に何やら描いてもらったモグラ。彼が自分で組み立てた赤い飛行機でバムたちの後からおじいちゃんちにやって来たのを知っていますか?・りんごやまのトンネル内の虫に、数字の1から9までの形のものをさがそう!…などなど。 こんな楽しみは、以前ご紹介した『ミッケ!』シリーズとも共通する、1ぺージ1ページをすみずみまで眺めるという、たっぷり時間をかけたぜいたくな絵本の楽しみだと思います。
April 13, 2006
閲覧総数 871
17
![]()
タイトルがなかなかすごいのですが、私はどうも「西の魔女」というと『オズの魔法使い』に出てくる西の魔女(悪役)を思い出してしまいます。でも、この物語の「魔女」はよい魔女で――というか、主人公まいのおばあちゃん(イギリス人)なのです。 ファンタジーというよりは、感受性の強い少女まいの心の目を通して見た日常、という感じです。でも思春期の少女は、自分は大人や他人とは異なるいう「強烈な「異種」感覚」(河合隼雄『猫だましい』より)を持っているので、そういう異種の目から見た現実社会は、ほとんどファンタジーなのかもしれません。 登校拒否になったまいは田舎のおばあちゃんの家でしばらく暮らすことになりますが、このおばあちゃんが「本物の魔女」だというのです。けれど、それはおばあちゃん自身が説明するように、 「身体を癒す草木に対する知識や、荒々しい自然と共存する知恵。予想される困難をかわしたり、耐え抜く力。…そういう知識に詳しい人たち…人々はそういう人たちのところへ、医者を頼る患者のように、教祖の元へ集う信者のように、師の元へ教わりに行く生徒のように、訪ねて行ったのです…そういうある特殊な人たち」 ――梨木香歩『西の魔女が死んだ』つまり、魔性の妖女ではなくて、はるか昔から共同体に存在した賢女とかまじない女とかそういう女性のことでした。 このような女性は結構いろんな物語に出てきます。たとえばポール・ギャリコ『トマシーナ』に出てくる「赤毛の魔女」ローリ。彼女は、無神論者で合理主義者の獣医と、思春期の彼の娘の心をつなぐ役目をします。 それからメリング『妖精王の月』に出てくるインチ島のおばば(「妖精のお医者」)は、妖精の呪いを受けた少女グウェンを介抱します。 学校で心が傷ついたまいも、おばあちゃんの所へ癒しを求めて滞在するのです。まいは感受性が強く繊細で潔癖で神経質ですが、これは多かれ少なかれこの年頃の女の子にはありがちな傾向だと思います。 そんなまいが、おばあちゃんから魔女のトレーニングと称して、精神力をきたえるように、それにはまず規則正しい健康な生活をするように、などと教わり、戸外で野いちごをつんだりニワトリの世話をしたりします。 そんなことが魔女の修行につながるのかしら、と思うまい。けれど、私は同じような場面をコミックスで知っていました。めるへんめーかー『夢狩人』に出てくる夢使い(これも一種の魔法使い)の修行です。 「野良仕事、トリの世話…! おれの修行ってやつはいつになったら始まる?」「これも修行のひとつよ…死や夢を扱うにはまず生を知らなくては」――『夢狩人』 そうなのです。『西の魔女が死んだ』でも、次に出てくるのは、まいが「死」を恐れ悩み、おばあちゃんが「死」について語ってくれる場面です。自分の体を動かして生をはぐくむ日々を送ってこそ、「死」についての理解も深まるのかもしれません。 おばあちゃんは死を否定的にとらえません。また、飼っていたニワトリが殺され、それとかかわってまいの生活に影を広げていく近所の「ゲンジさん」についても、否定的にとらえません。 おばあちゃんの家に出入りするゲンジさんを、まいは最初から直感的に、黒い影、不吉なもの、自分とおばあちゃんの世界から疎外し忌むべきものとしてとらえていますが、結局、ゲンジさん(の犬)がニワトリ殺しの犯人がどうかは、物語の結末になっても明らかにされません。 ここが、キリスト教的二元論ぽい欧米の物語とはちがって、何とも日本的、というか多神教的な感じがするのですが、おばあちゃん(そして最後にはまい)は、影の部分の多いゲンジさんをも、最初から最後まで受け入れています。そして、まい自身もかんぺきな存在ではなく、自分でもそれがわかっていて、 わたしの全体を知って、おばあちゃんはがっかりしないだろうか。――『西の魔女が死んだ』などと心配したりしているのです。 まいにとっては得体の知れない恐怖と影の人物だったゲンジさんも、「魔女」としてのおばあちゃんにとっては、カウンセラーの所へ相談に来るクライアント(来談者、患者)の一人だった、のだと思います。 最後におばあちゃんは死んで、それをまいは否定的でなくとらえることができ、ゲンジさんも急に良いイメージをまとって出てきます。この一件落着ぶりがちょっとできすぎというか、現実社会としては割り切れすぎているような気がしたのですが、要はまいが一歩大人になった、ということなのかもしれません。
April 30, 2006
閲覧総数 1417
18

シモ月二十日のウシミツにゃァ、 モチモチの木に ひがともる。 おきてて 見てみろ、 そりゃァ キレイだ。 ――『モチモチの木』 明日、長男の小学校で図書の時間に「読み聞かせスペシャル」がありまして、私は大型絵本『モチモチの木』を読むことになっています。 斎藤隆介の作品は、今や純和風の絵本の代表みたいで評価が高いようですけど、私は子供のころ、滝平二郎さんの切り絵の人物が、なんとなく怖かったです。その目が、特に。 おまけに、私の感性でいうと重い(ヘヴィーな)話があるんですね。ニッポン特有の(とあえて言い切りたい)、清く正しい自己犠牲精神をテーマにしたもの。 たとえば『ひさの星』(これは岩崎ちひろの絵)などは、自分の命を犠牲にした主人公のあまりの尊さが、はねかえって、主人公に自己犠牲を強いたように思われる周りの者たちを、厳しく断罪しているとも感じられます。 すると、読者もいっしょに断罪されたみたいで、いたたまれないような読後感を残します。 その点、『モチモチの木』は自己犠牲がなくて、安心して読めます。臆病な豆太が祖父(じさま)の急病に、夜中に一人で医者を呼びに泣き泣き走っていく、その心からの勇気がまっすぐに発揮された晩、モチモチの木にひがともります。クリスマスツリーのように輝く、モチモチの木は、豆太の勇気をほめたたえて、凍てついた夜を美しく彩ります。 ファンタジーとしては、そこで終わってしまってじゅうぶんだという気がしますが、作者は病の癒えたじさまに語らせています、 じぶんで じぶんを よわむしだなんて おもうな。 にんげん、やさしささえあれば、 やらなきゃならねえことは、 きっと やるもんだ。 ――『モチモチの木』 言わずもがなの言葉ですが、作者はキッチリ念を押したかったのでしょう。
November 23, 2005
閲覧総数 103
19

最近の一押し・荻原規子『風神秘抄』の中で、今日は一つだけ気になってしまったことを。 この物語は平安時代末期を舞台にしたファンタジーですが、1カ所だけ、登場人物の目を通して“現代”が描かれています。 舞姫・糸世が忽然と消えて異界へ行ってしまい、最後に草十郎によって呼び戻された時、 「…わたし、まるっきり別の世界にいたの…」 「そこには想像もつかない楼閣があって、わたしは自分の部屋をもらって『診察』とか『入院』とかをしたのよ。…いやだったのは、住む場所のほとんどが、なめらかな石や金物でできていることよ…灯さえもが透ける石なの」 ――『風神秘抄』 と話します。糸世はこの世界を「とう利天」と呼びますが、これは実は現代の世界であり、彼女はおそらく心の病気とみなされて病院に入れられていたのだろうと思われます。 基本的に現実世界と切り離された世界を扱うハイ・ファンタジーで、このように、突然、現代の世界がヒョッと顔を覗かせると、かなりインパクトがあります。というか、私には違和感がぬぐえません。 最初から現実世界との交流があったり、物語の外枠として現実世界があるようなファンタジーなら、構わないのです。ただ、『風神秘抄』のように、ずっと一貫して第二世界だけで物語が展開してきて、大団円という所で突然、「診察」だの「入院」だの、透ける石だのが出てくると、何だかそこだけ、奇妙にういているように感じます。 糸世が飛ばされた別世界が、現代である必然性はあったのでしょうか? 何ならほんとの「とう利天」であった方が、しっくりしたように、私は感じます。 理由の一つは、ハイ・ファンタジーにはめこまれた「現代」には、どうしても作者のあからさまな現代文明批判みたいなものが見えてしまうところ。糸世の目から見た現代を描く、という試み自体は面白いとしても、“石や金物ばかりの生気ない世界だった”では、ちょっと陳腐というか、とってつけたみたいな現代の描写です。 私の感覚では、そのような真っ向からの現代文明批判は、SFの領域であるように思うのです。 紀元前三万年の原始時代を描いたジーン・アウルの『大地の子エイラ』にも、最後の方でクロマニヨン人の少女が、幻視の中で現代文明をかいま見ます。これは人類の進化の流れを見通す中で示されるので、無意味とは思いませんが、しかし、一足飛びに現代の景色が見えてしまうと、かえって人類や文明の歴史の長さを感じにくくなるような気がします。 B・エヴスリンによるアイルランド英雄伝説の再話『フィン・マックールの冒険』でも、最終章で収穫の女神アマラに身をゆだねたフィンが、幻視の中で、 「…焼き尽くされた低い山々と、海がちらりと見えました。それと、あたり一面に群がっている金属のトカゲどもの姿が。そいつらは大地を切り裂き…大気を茶色の油臭い臭気で汚しているのです」 ――『フィン・マックールの冒険』喜多元子訳 フィンが、鉱物の怪物ヴィルマークや宿敵ゴルに立ち向かうのに、緑の大地の加護を得るのは分かります。でも、わざわざ未来である現代を持ち出して批判すると、どうもせっかくの英雄伝説がお説教くさくなるような、私はそんな気がしてなりません。 糸世ちゃんの楽しいおしゃべりに、現代文明批判は似合いません。彼女のすばらしい舞の方がずっとずっと、あからさまに何も言わずとも、読者である現代文明人に訴えかけるものを持っていると思います。
November 9, 2005
閲覧総数 346
20

明日から数日、ネット落ちです。 PC宛メールにもお返事できません。あしからず。
June 1, 2013
閲覧総数 55
21
![]()
今、下の子に、おやすみ前に読んでいる本がこれ。彼女はおばけが好きで、『ねないこだれだ』『おばけのかんづめ』『おばけバーティ』「バーバパパ」シリーズなど絵本はたくさん読んだので、よし! とばかりにちょっと長めのお話に挑戦です。 調べたらオバケちゃんのシリーズは今ではたくさん出ていて、挿絵も昔とは変わっているのですが、私が小学校のころ、学級文庫で読んだのはこの小薗江圭子のちょっとハイカラな(←当時としては)挿絵でした。 何より私は、ママおばけの作るという、おばけジュースが大好きで、くもの糸で編んで冷たい息をふきかけてつくるコップに入っているというジュースが、飲んでみたくてたまりませんでした。 コップの中には、おばけジュースがはいっていました。外からすかすと、虹のように赤や緑、白、すみれ色に色が重なりあって見える、ふしぎなジュースで、ひと口飲むたびに、色も味も変わるのです。 ――松谷みよ子『オバケちゃん』 おばけたちにとって、現代は住みにくい世になっていっています。私が勝手にメロディーをつけて歌った歌にもあるとおり、町には灯りがつき、おばけたちのひそむ暗がりがなくなっています: いまは さびしいおばけの暮らし おばけ友だち ぜんぜんいない いばっているのは人間だけだ いばっているのは人間だけだ ――『オバケちゃん』 オバケちゃんの住む森も開発されようとしています。森を守るため、人間を追いはらおうと一生懸命化けて出るオバケちゃん家族。でも、それを逆手にとられておばけのテーマパークみたいにされてしまい、化けすぎてひょろひょろに疲れ果てます。 子どものころ読んだ時には、単におもしろく読んだのですが、今、読み返してみると、なんだか笑えないものがあります。人間だって生活のためといいながら能力や人格を安売りしすぎてストレスをため、同じような事態に陥っていないでしょうか。 そこへ、天啓のように、パパおばけへ「宇宙おばけセンター」からのメッセージが送られて来、おばけたちは原点にたちかえって、大事なことに気づくのです。「思いをこらせ」。 この本ができたころ、物質主義全盛の世の中に、パパおばけは一人とじこもって、「思いをこらし」ます。そして・・・、スピリチュアル・パワーの勝利です。幸せな結末が待っています。 私の手元にある続編「ねこによろしく」でも、オバケちゃんが最後に「思いをこらし」て人助けをします。それでこそおばけ。ユーモアたっぷりの幼年童話だけれど、さすがにしっかりツボをおさえているなあ、と改めて感心します。
November 15, 2006
閲覧総数 2674
22

『空色勾玉(そらいろまがたま)』など日本古代を舞台にした作品で今や和製ファンタジー作家の代表となった感のある荻原規子。先日も朝日新聞の古事記についての記事に登場していました。 私がひそやかに勝手に先輩!とあおぐ作家さんでもあります。 その荻原規子さんの未収録モノを集めたみたいな『〈勾玉〉の世界』を入手しました。「守り人」シリーズの上橋菜穂子との対談や、『これは王国のかぎ』の主人公上田ひろみのブラスバンド部物語の短編3つ、そして何より『空色勾玉』の番外短編「潮もかなひぬ」が載っていて、わりとお得な一冊だと思います。 さてこの「潮もかなひぬ」なんですが、輝(かぐ)の支配に対して反旗を翻す闇(くら)の一族がいよいよ戦さへ出発するその前夜の物語。一族の巫女になったヒロイン狭也(さや)、侍女奈津女(なつめ)とその夫柾(まさき)などの心境を細やかに描いています。 特に、奈津女と柾の愛情は現代風でういういしく、古代の物語なのにその雰囲気をこわさぬままこんなに今風にかけるのだなあというところが、さすがだと思いました。 「大好きよ、あたしの柾。・・・あなたがいるから、あたしがいるのよ。闇の氏族の命運を、あたしたちの代が決することに、いっしょに立ち向かいましょう。こんな時代に生まれたことも、あなたがいるから喜べるのよ」 --「潮もかなひぬ」 な~んて、少女漫画顔負けのセリフもすなおに書かれています。作者、気持ちがとっても純粋で若いです。 読者として親近感を持てるのは、『空色勾玉』本編でもそうですが、冒頭に引用されている和歌が、学校で習うようなとても有名なものであること。あ、これ知ってる!と思うとなんだか嬉しいです。 この番外編のタイトル「潮もかなひぬ」も、万葉集の代表的女性歌人、額田王の代表作「熱田津(にきたつ)に 船乗せむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」です。 ただし、ここにちょっとうがって見てしまう私がいるんです。あまりに有名なこの歌は、朝鮮半島へ出兵する軍勢を鼓舞するために詠んだとはっきり分かっているもので、背景的にも気持ち的にも、物語とはちょっと違うような気がするんですね。 それをこの物語の冒頭に掲げちゃって、そのうえ結末にあたる鳥彦のセリフにも入れちゃって、いいのかなあ。 『空色勾玉』では時系列的にこの番外編に続く「第四章 乱」の冒頭に、「海ゆかば 水漬く屍(かばね)・・・」という歌が掲げられており、作者はこれが戦時中の海軍の軍歌として有名だったことを、出版の後まで知らなかった、とどこかのインタビューで語っています。 イヤ、知らなかったのは仕方ないとして、でも、私でも知っていたんですけど、この軍歌。もちろん、元の歌は古代に作られ続日本紀におさめられた歌で、それを軍国主義の歌にしたてたのが勝手といえば勝手なんでしょうが、それを、天皇家誕生前夜を舞台にした『空色勾玉』に引用されると、読者としては受け取るイメージが複雑です。 初めて読んだ時には、軍国主義を払拭して原点の古代の歌に立ち戻るべきという思想?をここに見るべきなのか、とか、よけいなことを考えてしまいました。 有名な文学作品の引用って、むずかしいです。有名な史実や歴史上の人物を創作で扱うことも、ほんとにむずかしいと思います。 私もずーっと前、『海鳴りの石』を出したころ、出版社の方に、「架空の人でなく、たとえば卑弥呼を主人公にした歴史ファンタジーとか書いてみれば?」などと言われたことがあるのです。とても魅力的な提案でしたが、よく考えると卑弥呼だなんて、トンデモナイ。日本古代史上もっとも人気のあるヒロインともいえる人物を、我流で勝手に創作するなんて、そんな大それたことはとてもできませんという気がします。 話がそれました。とりあえず、久しぶりに荻原規子の日本史ワールドに触れて、とても楽しかったです。今は現代学園モノ(『RDGレッドデータガール』シリーズ)が進行中のようですが、私はどうもこの学園モノというのが苦手なため、読んでいないのです。
June 14, 2011
閲覧総数 1225
23

昨年ご紹介した『ねこガム』にも通じるような、現実とファンタジー世界が交錯するちょっとこわい絵本、『ヘリオさんとふしぎななべ』。 不思議なお鍋(または、釜)の昔話って、よくありますね。命じるとおかゆがわき出つづけて大洪水になる鍋(グリム童話)が有名ですが、他にもしゃべる鍋とか、少しの物を入れるとたくさんに増える鍋、死人を入れると生き返る鍋など。 鍋は豊かさのシンボルなので、死んだものを受け入れ生を生み出す「大地」とか「実り」とかにも関係があるのでしょう(ケルト神話、ダグデの大鍋)。 そんな不思議な鍋の一種と思われる、穴の空いた鍋が描かれた絵を、貧乏で空腹な絵描き(名前が何だか西欧風にハラ・ヘリオというのが良い)が買います。禁を破って絵に手を加え、穴をふさいだら・・・。 魔法が作動してしまい、絵の鍋の中においしそうな料理がわき出して、ヘリオさんを誘います。またしても禁を破って絵の中にドアを描き加えることで、異世界への通路を自らつくりだしてしまうヘリオさん。インスパイアされた芸術家の宿命というか、普通でない精神状態です。 いちばんゾッとする瞬間は、ヘリオさんが絵の中に閉じこめられ、もといた世界を覗くと、自分が腰掛けているべき椅子の上に、絵の中にあったはずの鍋が居る(ある)というところ。現実とファンタジー、人間(生きたもの)と道具(死んだもの)、自分(絵描き)と対象物(絵)との、逆転。 ヘリオさんはどうやって再び元の世界へ戻ることができるのか。 禁を破ったつぐないをしたり、反省したり、後戻りするのではありません。反対に、ヘリオさんは絵描き(創造者)としての自分をとことん追求して、さらに描き続けることで脱出を図ります。 もちろん、最後には何とか成功するのですが、鍋は消えてしまいます(あとのページをよく探すと、素知らぬ顔?でよその人のもとへ行っていることがわかります)。絵の中には、彼が必死で描いた脱出用のはしごが。 結局、おいしそうにぐつぐつと煮立つ豊穣の鍋のある世界(=芸術)を創りだしていたのは、いつも空腹な、ヘリオさん自身なんですよね。無から芸術を生み出すときの、苦労やパワー、現実との遊離性などが、ストーリーにだぶって感じられます。
January 26, 2013
閲覧総数 690
24

時の記念日に、こんな絵本はいかが。といっても、すでに絶版で私の手もとにもありません。 長男が幼稚園のころ、園で読んでおもしろかったと言って、あらすじを話してくれました。 …時計を拾ったとかげのとっぺんは、時計に合わせた日課表をつくって、毎日、決めた通りに行動しようとします。とっぺんの日課表は、 6時-7時 あさごはん 7時-8時 せんたく 8時-9時 じゆう 9時-11時 はたけしごと … ――井上よう子『とっぺんのとけい』 などというもので、たとえば友だちのちっぺんが遊びに来ても、1分おそかったからもう自由時間は終わり、と断る始末。気を悪くしたちっぺんは、時計のねじをいじって、針の進み方を速くします。すると時計はどんどん進むので、それに合わせてとっぺんも大忙しのきりきりまい。 ほんとうはまだ真夜中なのに、時計が6時なのであわてて起きて、ごはんをかきこんだりして走り回り、くるったように日課をこなします。 …私があらすじを聞いてこの絵本をぜひほしいと思ったのは、この次。「そのうち、とうとう、とっぺんのしっぽの先に火がついちゃうんだ」という長男のことばでした。 よく「おしりに火がつく」という言い方がありますが、とっぺんは文字通りしっぽに火がついてしまうのです。 さてネット書店で調べても品切れ絶版、それではと市内の図書館を検索して1冊だけあるのを見つけ、ようやく手にした絵本で見ると、予想以上にメルヘンタッチの絵です。 でも、かわいらしいとっぺんがてんてこまいをしている絵を見て、笑ってばかりはいられません。われわれ現代人も、たいてい、こんなふうに時計と日課に追われているんですから。 ちゃんと読んでみると、火がつくわけは、時計に追われて走り回るとっぺんのしっぽが、地面にこすれて発火してしまうのでした。 友だちのちっぺんが、時計をこわし、しっぽに水をかけてくれ、とっぺんはやっと我に返ります。そして、止まった時計のもと、しっぽに包帯をしたとっぺんが昼寝する場面で、読者もほっとします。 よかったね、とっぺん。私たちも時々、時計を止めて昼寝したいものです(…って、毎日、昼寝している私・・・)。
June 10, 2006
閲覧総数 1475
25

4Kリマスター版が期間限定上映!と、友人Nさんから誘われて、先日初めて観ました「サウンド・オブ・ミュージック」。約3時間の大作ですが、圧倒的な山岳美と圧倒的な歌の魅力で、長さを感じません。さすが往年の傑作。 じつは私の母が映画公開当時(1965年)にアメリカで観て、サウンド・トラックLP(画像)まで購入しているのです。ニューヨークの映画館では、ヒロインたちがナチスを逃れてスイスへと山越えする最後の場面で、観客から喝采と激励の叫びが沸き起こり、びっくりしたとか。当時の人気がうかがえます。 私はサウンド・トラックは何度も聞いて歌は知っていましたが、映像とストーリーをようやく堪能することができました。 まず、アルプスの雄大な景色とそのふところにいだかれたザルツブルグの町がすばらしいです。60年も前の映像とは思えませんでした(「4Kリマスターの威力だよ」と友人)。その中で文字通り跳んだりはねたり走り回るヒロインや子どもたちの、のびのびと豊かな様子が、もうまるで異世界です。 そう思ってみると、ザルツブルグという舞台そのものが都会を離れ、巨大なサイズ感でそびえる山を間近にして、異世界のようですし、その中でヒロインのマリアの居る修道院は、俗世と隔絶されてやはり異世界です。そして二重の異世界の中、ハイジのように、山々を愛し一人歌うマリアは、ほとんど人間離れして天然。 このテンネンなヒロインが、絵に描いたような軍人(ツンデレのスパダリ!)のところへ、子どもたちの家庭教師として行く。そして持ち前のピュアなパワーと歌の力で道をきりひらき、恋の苦悩をのりこえて幸せをつかむ。令和でも人気の玉の輿系王道恋愛漫画の、ルーツをみる思いです。 7人の子どもたちもテンネンで、妖精のようです。実母の死後、父の軍隊式教育にもめげず健やかなのは、兄弟が多いおかげでしょう。一人っ子だったら絶対心を病んでいそうですが、彼らは助け合って父に対抗してきました。マリアという味方を得て、とうとう父の頑なな心を癒やすことに成功します。 そこへお定まりのライバル女性登場。ウィーンの富裕な未亡人です。彼女もいい味を出しています。洗練されたファッションと物腰で、決して嫌がらせやえげつない嫌みなんか言いません。それでいてしっかりライバルしています。脇に配された、楽団をプロデュースする叔父さんも素敵なディレッタント(好事家、趣味人)で、最後にはきちんとヒロインたちを助けてくれます。 ナチスや愛国心がからんだストーリーの後半は、当時のオーストリアの史実とは異なるそうですが、それにしても、政治や戦争が人々の心を分断し困難と悲劇を生むという構図は、遠くのこと・過去のこととは思えない一面もありました。 歌に関しては言わずもがなでしたが、一つ一つの歌がそれぞれ違う場面で複数回歌われたり言及されるのが良かったです。たとえば「私のお気にいり」は最初、雷雨の恐怖を忘れるために歌われますが、ナチスから隠れてちぢこまる時に「歌ではどうにもならない時もある」と説明されます。「すべての山を登れ」は、恋の悩みを克服する激励として歌われた後、最後に本当に山越に向かう時に歌われます。 そして、このラスト・シーンで、青空と雪峰の美しさが印象的でした。それまでは、町なかの場面では特に、美しい景色でも背後の空は曇っていることが多かったですが、これはもしかして時代の暗雲を示していたのかもしれません。そしてスイスへ向かう最後の空が青く晴れ渡っているのが、ゆくての希望と自由を表しているように思えました。 エンディングでは、満員の観客から拍手が沸き起こっていました。おお、日本の映画館でも(インド映画鑑賞時は別として?)感動の拍手が。そのことにさらに感動してしまいました。
November 25, 2025
閲覧総数 63
26

第20回は旅の5日め、1986年1月4日(土)お買い物つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 南京東路では、ばかでかい新華書店にも行った。これはあちこちにある国営本屋さんの南京路店である。一角にレコードやカセットの音楽を売るコーナーがあり、山口百恵のポスターがやたらと貼ってある。私たちは、前年(1985年)、外国ミュージシャンとして初めて中国公演を行ったWHAM!(ワム)のカセットを発見した!(右画像) ジョージ・マイケルファンのNは大興奮。カセットの表書きには大きく「英国威猛」と書いてある。この漢字でワムと読ませるようだ。ところが、このカセットは売り切れたのか、見本として置いてあるだけらしく、注文しようとしたら「没有(メイヨ)」とお決まりの応答をされてしまった。 間口の広い瀬戸物屋さん(国華磁器商店?)も物色した。冬景色の描かれた、少し蓋がいびつな中国茶を飲むカップを入手(左上画像、2.3元)。Nが底を見て「景徳鎮だ!」と言ったし、『南京ロード』で本郷さんが「支那茶は飲みにくい(ぺっぺっ)」とやっていたのを思ったのだ。中国の人々はみなこのようなカップに茶葉とお湯を入れて飲んでいる。 にぎわう南京路をうろつくうちに、暮れてきた。左写真は福建中路との交差点で、トラック禁止・警笛禁止の標識がある。右手前が「老大房」(食品店)、その向こう(西)が新新美发厅(美容院)。現在でも老大房は同じ場所にある。左の高層ビルは人民広場(旧競馬場)近くの旧上海レースクラブハウス(今は図書館)?あるいは国際飯店?。右写真は浙江中路との交差点。バスの架線と街灯が交差して見える。遠く右の塔はおそらく東亜飯店、左の塔は第十百貨店。右一番手前から南洋衫袜商店(衫袜はシャツと靴下。清代からある老舗で、現在は大型商業ビルとして健在)、協大祥綢布商店(これも老舗で現在もあるブランド)、絨毯商店、第一医薬商店などが並ぶ。 私たちは南下して「紅燈の巷、四馬路(スマロ)」へ向かった。今の名は福州路である。しかし、歓楽街だった往時とは違い、街灯もまばらで真っ暗である。 血の色の夕焼けが美しかったが、街路そのものは闇に埋もれていた。写真も何枚か撮ったが、建物は判別しがたいほど真っ黒。右写真は福州路の鉄橋から人民公園・広場の方を見たところ。テレビ塔と、右にはたぶんレースクラブハウスが夕空にそびえている。 仕方なく西へ戻り、人民広場にたどり着いた。ふり返ると一つだけ、桃の花と赤青緑のにぎやかなネオンが見え、「汗衫」の字が読めるので下着屋さんの広告板のようだった。 広大な人民公園は戦前の競馬場。「南京ロード」で黄と紅雪美(ホンシユメイ)が待ち合わせをしていたっけ、と入り口からのぞくと、今もなんとなく競馬場ぽく、見物をする斜面のような芝生(冬枯れているが)がある。はるか向こうに国際飯店(パーク・ホテル)の高層建築の上部が見えた(写真は例によって失敗)。 私たちは南京路(南京西路)に戻って帰路につくべく西進し、成都北路*の看板のところで、諸葛孔明ファンのMの記念撮影などをした(成都は蜀の都である)。この頃にはすっかり夜で、晴れていたせいかしんしんと冷え、我々はまたどこかからバスかタクシーで帰った。夕食はホテルで食べたのだろうか、焼き飯とスープ、とメモにある。 *成都北路 現在では南北に高速道路の高架が通っている。 ところで、ホテルの部屋にはテレビがあった。中国語が分からないのだが、私の印象に残ったのは何度か観た「済公」*というドラマである。勧善懲悪の時代物で、日本でいうと「水戸黄門」のような番組か。といっても、主人公の「済公」はぼろを着たひょうきんな老人で、破れうちわにひょうたんに入った酒などを持ち、放浪している。術を使って悪者をやっつけたりするが、へらりと笑って立ち去る。「巷間の聖人」という言葉がぴったりで、気に入ってしまった。 主題歌(リンクから聞けます)がまた、耳に残る。リフレインのところが、「♪なむあみホウホ、なむあみホウホ」と聞こえる。あまりに脳内でリピートされるので、カセットを見つけて買った。のだが、今さがしても見当たらない。仕方なく百度百科の画像を借りてきた(左画像、あまりよいカットではない)。このドラマは数年後に日本でも放映されたことがあり、私はVHSに録画した。実際、当時の中国ではものすごい人気ドラマだったそうだ。 ところで、百度百科やWikipediaなどを読むと分かるが、済公は実在の道済というお坊さんで、私たちが旅の初めに行った杭州・霊隠寺ゆかりの人であったと最近知った。つづく、次回から最終日!
March 28, 2026
閲覧総数 57
27

トラはインドや朝鮮・中国にいる動物なので、物語もそんな地域を舞台にしたものがあるはず・・・なんですが、動物の物語が大好きな私の蔵書の中に、意外にトラは少ないです。西洋にいないからでしょうね。 まず思い浮かぶのがぬいぐるみのトラー(ティガー)、おなじみ『くまのプーさん』のキャラクター。プーさんの世界は、ウサギやブタ、フクロウ、ロバといったイギリスで身近な動物のほか、動物園にしかいないカンガルーとトラも仲間です。 面白いのは、カンガとルーそれにトラーは後から仲間に加わっていて、彼らが皆にとけこむには、ちょっとごたごたがあるということ。特にトラーは子トラながらいちおう猛獣ですから、暴れん坊で皆は困ってしまいます。そういえばプーさん自身だってクマだから猛獣といえなくもないんですが、ぬいぐるみになってしまうと、クマ(テディ・ベア)は野生のパワーをほとんどなくしてしまいますね。 それにくらべてトラーは、麦芽エキスが主食とはいえ、ウォラウォラウォラ・・・といううなり声なんか、わりと野性をとどめているようです。 もっと猛々しいトラをさがしてみます。インドのトラは植民地時代にイギリス人がハンティングしたりして時々小説に出てきます。でも、恐ろしいイメージ、悪者のイメージが強い感じ。キプリングの『ジャングル・ブック』では、主人公の狼少年モーグリの敵役、シアカンが印象的です。群をつくるオオカミの側から見ると、獲物が重なるトラは凶暴だし単独行動をするので厄介者なのでしょう。 しかし同じ単独行動のネコ科である黒ヒョウのバギーラが、モーグリの恩人で親友であるのに対し、シアカンは赤ん坊のモーグリをさらって食おうとした極悪者という設定で、ついには成長したモーグリによって殺され、皮をはがれてしまいます。 トラはほんとうに人間を襲って食べることがあったようで、そういう個体はマンイーター(人食い)と呼ばれたそうです。シアカンもマンイーターですが、『ジャングル・ブック』の動物たちに語られる昔話によると、そもそも人間を殺すという行為を初めてやったのがトラであり、その呪われた行為の印としてキヅタのような縞模様ができたのだとのことです。とことん、嫌われているのですね。 インドのマンイーターの神秘的なまでの恐ろしさを描いた短編に、タニス・リー『タマスターラー』中の「炎の虎」というのがあって、これは狩人と狩られるトラとの究極の結びつき――転生が語られます。ここでのマンイーターは神秘的な霊獣のようです。 最後に、トラは全然出てきませんが、私は宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」で、ゴーシュが「印度の虎狩り」弾く場面がとても好きです。訪ねてきた澄まし猫がトロイメライを弾いてくれと言ったのに、ゴーシュは、 …まずはんけちを引きさいてじぶんの耳の穴へぎっしりつめました。 それからまるで嵐のような勢で、「印度の虎狩り」という譜を弾きはじめました。すると猫は…眼や額からぱちぱち火花を出しました。すると、こんどは口のひげからも、鼻からも出ましたから、猫はくすぐったがって、しばらくくしゃみをするような顔をして… 猫が火花を出したり、青く光ったり、ぐるぐる回り歩いたりするほどすごい曲、「印度の虎狩り」。最後にゴーシュは演奏会のアンコールでこの曲を弾き、聴衆を魅了するのでした。 これはいったいどんな曲なのかずっと気になっていましたが、当時のジャズにHunting Tigers Out in Indiahというのがあるんだそうです。You Tubeで試聴してみますと、おどけた軽い曲なんですが、テンポがよくて、もしかしてこれをものすごく激しく弾きまくったら猫がぱちぱちなるんじゃないかという気もします。
January 6, 2010
閲覧総数 125
28

久しぶりに、創作に関するお知らせです。 私の書いた詩に、ステキな絵がつきました! 明日から東京・池袋で開かれる「詩のサロン」展(日本児童文芸家協会主催)に、短い詩を一つ、出品します。そして、イメージイラストを描いてくださったのは、小早川ひとみさんですv とても繊細でロマンティックな絵で、私にはもったいないほどみずみずしい透明感!なのですv ご覧になりたい方は、ぜひ会場である画廊喫茶「アーティスト・ガーデン」へお越しいただきたいのですが、じつは小早川さんのブログでもちょっとだけ見ることができます。 また、彼女のホームページには、フレッシュジュースのようにキレイで元気の出る作品が、他にもたくさん紹介されています。今回、トップ絵をお借りしてきました(→)。この絵の超かわいい夢見るようなフクロウちゃんは、私ひとめぼれしてしまいました(フクロウちゃんの絵本もホームページで見ることができます)。 注)画像には著作権があります。無断転載しないでくださいね。 私が書いたのはほんの数行の詩というか、心の中のつぶやきというか、祈りみたいなモノなんですが、そこから小早川さんが絵の世界へとイメージを広げてもらえたのが、とても嬉しいです。 「詩のサロン」開催日程は次のとおりです:日時 2007年9月13日(木)~25日(火) 水曜お休み AM11:00~PM6:30 最終日PM5:00まで場所 gallery&cafe アーティスト・ガーデン 東京都豊島区西池袋1-16-10 第2三笠ビル8F(地下出口8前) TEL 03-3971-3880 もしお近くにお越しで時間のある方は、ぜひお立ち寄りくださいませ。
September 12, 2007
閲覧総数 26

![]()
![]()