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最近もっとも気になるコミックス『プリンタニア・ニッポン』の第4巻がさきごろ出ました! 以前にも日記に書いたのですが、"さびしいあたたかさ"を心地よく感じるSFです。癒やし系ペット「プリンタニア」と、希薄で繊細な登場人物たち、そして見え隠れする終末後の世界設定が、絶妙に混じりあってじわじわ来ます。 以下ネタバレ! 第4巻では、この世界の子供たちが教育課程で必ず行う「凪の劇」が紹介されます。それは主人公佐藤46(また書きますけど、砂糖・白、というか佐藤四郎くんですね)を始め「現行人類」の、ルーツを物語るいわば神話でした。 神話というと、たとえばキリスト教等の創世記で、原罪(神に服従せず知恵の木の実を食べた等)と楽園喪失が語られますが、これは人間が人間である以上必然的な運命とも思えます。なんとなれば、禁を破っても本質を見極めたいという知への欲求、それこそが人間の特性で、いろんな神話や伝説に語られてきました。 この物語の「現行人類」も、生みの親であるシステム「大きな猫」に服従せず、猫が設定した安全領域の壁を破って外界に出て行ったのです。 自らの目で確かめたい ーー迷子『プリンタニア・ニッポン』4巻 と言って。(何だかトールキン『シルマリルリオン』でノルドールが神々の国から中つ国へ自主的追放となる話を思いだしてしまいました。) そして最後の旧人類マリアは「大きな猫」の制止をきかず彼らを助けに行って「残兵」に連れ去られ、さらにマリアの専属AI?ハリスもマリアを追っていき、破壊されてしまいます。さらに破れ目から「残兵」が侵入し安全領域は危機に瀕しました。 それでも禁を破った彼らを”悪者”とはとらえず、 進むことが/私達の償いです ーー同1巻 共に在るために/進むことが私達の償いなのです ーー同4巻 真理は我らを/自由にする 知ることで/広がることもあるし省みることもできる ーー同4巻 彼らを最初外に出さなかった「大きな猫」は、人類を守るためにプログラムされたシステムであり、しかもシステムなりの感情?でしょうか、 猫は再び失うことが嫌でした ーー同4巻などと動機が語られ、禁を課した判断も”悪”ではないとされています。さらに、破局のあと、猫は彼らへの理解を深め、外に出ることに同意しました。 残された「現行人類」である佐藤たちは、この壮絶な神話を子供の頃から劇として思考基盤にすりこまれています。だからでしょうか、彼らは私たち(というか、昭和な読者であるHANNA)からすると、非常に繊細で臆病でこわれやすい感じがします(ひょっとすると令和の若者たちはみんなこれぐらい繊細なのかもしれませんね)。だから登場人物全員がいとおしい。きっとプリンタニアたちもそんな気持ちで現行人類に寄り添っているのでしょう。 ”悪者”のいない物語。佐藤たちを脅かす「残兵」も、もとは旧人類が自衛のために?創ったロボット兵器のようで、「彼岸」の奥の幻影では、 お帰りなさい/・・・帰還をお待ちしていました ・・・お守りします ーー3巻などと、自国民にとっては心強い警護ロボであったことがうかがえます。 "悪者"はいなくとも、世界は破壊され、旧人類は失われ、その喪失と後悔を抱えて現行人類は未来を切り開かねばならない。劇のあと、塩野1が危険な外地へ知識を得に行く決意をし、皆は心配しつつそれを止めないのが、象徴的でした。 価値観の多様化の叫ばれる今日この頃に即した、せつなくさびしいけれど、よるべなくはかないけれど、まだまだかたよりや不足があるけれど、一生懸命であたたかい、そんな世界の物語。 そうそう、色々と次に来る種明かし(この物語流にいうと、開示される情報)を想像して楽しむこともできます(以下勝手な予測をふくむ); 1,かなり衝撃の「おまけ」つき。はなから怪しかった永淵さんは、ほんとの永淵さんでないことが判明。過去の壮絶な体験ののち、親友永淵の遺志を継いだのですね。劇の時ひとりでさびしがる永淵さん、ぼろぼろの白衣の上半身を大切にする永淵さん、泣けます! 2,プリンタニアたちが「うえがぐるぐる」してる、危険かどうかは「きてみないとわかんない」と言ってるのは、過去の破壊に際して宇宙空間に逃れた旧人類が帰還しようとしているのでは! 劇中の猫の「旅の友」というのは彼らのことかも!
April 2, 2024
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先のブログにあげた『うさぎは正義』の最新連載を見ていますと、主人公たちがたどりついた理想郷「うさぎの国」は、人工知能?による管理社会で、それをつくった人類は滅びた後でした。 メルヘンな物語の終盤になって現れた黙示録的展開に、ちょっとびっくり。 最近はやりの未来像なのでしょうか、AIに管理された平和な理想郷。 昔のあからさまなディストピア(ジョージ・オーウェルの『1984年』に代表される)や、悪夢のような生態系(『風の谷のナウシカ』や椎名誠『アド・バード』など)、暴力世界(『北斗の拳』とか)とは違い、平穏で居心地の良い未来世界(問題はあるにせよ)です。 癒やしの権化のようなモチモチの生物がたくさん出てくる『プリンタニア・ニッポン』迷子作 というコミックスも、そんな理想郷が建設されて間もない(再構築途上の)世界が舞台です。 3Dプリンターの進化形である生体プリンターが生み出したモチモチの生き物プリンタニアが、とにかく愛らしくて、すべてのペット動物の良いところを凝縮したようなかわいさです。キーワードは「癒やし」って感じです。 主人公の佐藤(「砂糖」に通じますね)が飼っているプリンタニアの名は「すあま」(と、「そらまめ」)。佐藤は感情の起伏の少ない、欲もなく覇気も足りない感じの、でもごく普通の人間(と思われた)。唯一の友人塩野(「砂糖」に対して「塩」ですね)は反対にちょっとチャラい陽気な発明家。 彼ら一人一人には「コンサル」と呼ばれるAIがついていて、生活全般をサポートし、評価し、性格改善までやってくれます。けれどがんじがらめに管理しているわけではなく、その名の通り頼りになる相談役という感じ。 近未来のAIとの共存て、こんなふうになるのかなあ、などと思いながら読み進むと、日常を描いた短編の中に、ちょろりちょろりと、この世界の設定が見え隠れしていきます。 彼らは「旧人類」の文化を継承しようとする「回顧祭」を開いたり、汚染領域があったり、「残兵」(旧世界のロボットらしい)の逃亡事件があったり。肉体を手放した(つまり肉体的に死を迎えたってことですよね)あとは「彼岸」に渡って意識が「石」に移される・・・ つまり、佐藤たちは、人類滅亡後、人類のつくったAI(「大きな猫」と呼ばれている)が再生した、新しい人類なのでした。そして、数も少なく、再構築された人工的な都市で、世界を再建しようという目的のために管理されながら育てられているのです。 言うなれば、佐藤たちこそ、プリンタニア(=機械が創った生体)なのです! 教育され、レベルに振り分けられ、仕事やすみかをあてがわれ、今度は癒やしのペット「プリンタニア・ニッポン」をあてがわれ・・・ 今のところ、男性ばかりで、女性は一人もいませんし、家族という概念もないようです。恋愛感情や家族のしがらみなど、濃くてコントロールしにくい感情や状況が、すっかり排除された、希薄な社会。まねごとの祭や宗教。それが、なんとなく心地よい日常として読者に紹介される。 でも、うそ寒いとか怖い感じはせず、ああ、そうなんだなー と自分のストレスも吸い取られていくよう。しいて言えば、さびしいあたたかさ、みたいな読後感です。 環境破壊とか戦争とか、人間関係のストレスとか、もうそういうものには辟易としてしまった現在の私たちが真に求めるもの、それは、こんな終末と再生なのかもしれません。 (そういえば、これに似た雰囲気をまとった物語に、池澤夏樹の『やがてヒトに与えられた時が満ちて…』があります。) 『プリンタニア・ニッポン』はいま3巻まで出ていますが、だんだん明らかになっていくこの世界像(プリンタニアの生みの親の、お調子者のケンチキおじさんは、実はどうも黒幕みたいです)が、知りたくもあり、知らない方がよいかもとも思えたり。 目が離せない作品です!
February 19, 2023
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先日のTVでじつは初めて観ました、宮崎駿を世界に知らしめた?作品「千と千尋の神隠し」。なるほど様々な宮崎作品の縮図みたいで、♪いつも何度でも~、細部まで観たくなる作品ですね! まず最初の場面で「となりのトトロ」と対照的。心を通わせあいながら期待に満ちて楽しく引っ越していく「トトロ」の父と姉妹に対して、千尋は両親はいるけど会話はバラバラで心が通っていない感じ、引っ越しも転校もイヤで無気力です。 どちらの物語でも、新居は異界と隣り合わせなのですが、接し方が違います。神々の領域である異界へ四駆で乱暴に近づき、その先では無断で店のものを食べるなど、敬意の足りない千尋の両親は、「まだ挨拶に行ってなかったね」「メイがお世話になりました」と社や神木を敬う態度を見せるトトロのお父さんとはこれまた対照的。 これは個人的な問題というより、トトロの時代(昭和28年~30年代初め)と千尋の時代(2001年)の、異界に対する日本人の一般的な態度の差でしょう。むかしの日本人は異界や人外のもの(たとえば神々、キツネなど動物、妖怪)を身近な存在として受け入れ、一定の敬意を払っていたのに対し、現代の私たちは、知識はあり(「神さまのおうちよ」と母が千尋に教えている)興味本位で近づくことはあっても、本当は信じていないし礼儀を知らない。 異界の不思議な雰囲気に触れても、お父さんはバブル崩壊でうち捨てられたテーマパークだ、などと解釈するのです・・・そんなわけないことに、気づかないんですね。 お母さんも、妻として母として”日常的に”叱ったり気にしたりするばかり。非日常の世界に来ていることにやはり気づかない。 ただし、非日常の異界といっても千尋が迷い込んだあたりはまだ入り口近くのようです。そこは昭和初期風の店が並んでいたり、サツキやアジサイが咲き乱れる小道をぬけていくとトウモロコシやマメが花をつけた畑があったり・・・、宮崎駿世代にとってはなつかしい、トトロ時代の日本の田園風景が広がっています。 21世紀少女の千尋にとっては新鮮に感じられるであろうこの景色を、宮崎駿は自分の原風景として見せたかったのではないでしょうか。 「トトロ」では家のそばにオタマジャクシなどが居て豊かに流れている小川がありましたが、千尋の迷い込む異界の川はさいしょ涸れていました。そして夜になると水が流れ、海のようになって、その向こうから御座船で神さまたち(コミックス版「ナウシカ」の土鬼みたいに顔を隠していますね)がやってくる・・・宝船でやってくる七福神みたいに。 ユング心理学によると川(水)は無意識(たましい)の領域を表しているそうですが、八百万の神々は無意識の彼方に住まい、現代人の精神生活ではそこへ至る道は涸れているが、夜(夢?)には川や海や沼が現れ、昔の神々や精霊たちとの交流がわずかにある、ということでしょうか。 また、無意識の彼方へは鉄道も通じていて、古風な列車の中の様子や、切符が要るところ、車窓の闇に夢のように光るネオンサインなど、(多くの人が指摘しているように)宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』へのオマージュですね。どちらも、たましいの領域に通じる鉄道で、行きはよいよい、帰りは困難。 釜爺が「昔(40年前)には戻りの電車があった」と言ってますから、トトロの時代に近い頃には、日本人は隣接する異界から無意識の深いところまで行って神々と交流し、また帰ってくることができたのでしょう。現代ではそのたましいの領域との行き来が難しくなっているということですね。 あとで出てくる、銭婆が静かな自然の中で手仕事をしている家のある「沼の底」は、深層心界の底であり、これが宮崎駿のイメージするもう一つの原風景なのでしょう。西欧風ですが、まだ工業化や近代化が進む前の暮らしがそこにあります。 湯婆婆は、アルターエゴ(分身)である銭婆と離れ、意識界と無意識界のはざまにある油屋を経営していますが、広大な無意識の海にくらべ町というにはちっぽけで昼間は廃墟です。そして温泉ランドのような店の従業員もカエルだのナメクジだの、レベル的には下位の精霊たちです。 そして、ハクは、古事記風の名まえを持ち、祀られ敬われてよいはずの川の神さまなのに、現代ではマンション建設で埋め立てられてしまった小川の精霊です。私の思うに、ハクが湯婆婆に弟子入りして魔法を習おうとしたのも、現実のコハク川が失われて霊的存在の危機となったため、何とか力(存在)を取りもどそうと思ったのではないでしょうか。 もう1人の川の神も、ゴミにまみれて腐れ神となってやって来るあたり、現代の危機的環境を表していますね。千尋の時代、人間と交流できる“となりの異界”は、もはやトトロの時代のような生命力と広がりを失い、狭く小さな孤島のような存在になってしまっているのでしょう。 千尋の迷い込む異界は、人間に忘れられた八百万の神々が遊ぶ、意識と無意識とのはざまの小さなワンダーランド。それは、おもちゃでいっぱいの坊の子ども部屋(ハウルの寝室みたいですね)にも似ています。 神々は神威をふるったりするかわりに、無意識の彼方からやってきて昔の夢に遊ぶ。千尋にとっては成長のきっかけになる不思議の国での体験も、宮崎駿世代にとってはノスタルジーのこめられた古いおもちゃ箱をあけて自分の存在確認をしているようです。そして、千尋の両親世代である私HANNAにとっては・・・、カオナシになってうろうろしたり豚になっているしかないんでしょうかねえ。
March 21, 2022
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「もののけ姫」は公開当時(1997年)観ていなくて、先日TVで観ました(2度目です)。 問題作などと言われて、解釈や解説や、宮崎駿さん自身のコメントがすでにあり、どうしても色々考えながら観てしまいますね。 女性から見てすばらしいヒロインを生み出すのが得意な宮崎駿さんですが、今回主人公はアシタカなのに、もののけ姫サンやタタラ場の烏帽子御前などやっぱり女性たちが印象的です。 最初に出てきたエミシの村の娘たちや巫女は、古典的な女性像だけれど、舞台が西国になると、サン、烏帽子御前、タタラ場の女性たち、みんな躍動的で力にあふれ、猛々しく戦っています。 乱世を生き抜く彼女らは、奔放で気兼ねなく言いたいことを言い、やりたいことをやって自立していて、一見とてもすがすがしくカッコいい・・・まるで古典的な男性のように。 もちろん、生け贄として捨てられた赤子だったサンや、過去に訳ありの烏帽子御前と女性たちは(ハンセン氏病の人々も含めて)当時の社会からはじかれた者たちで、カッコ良さの裏にはよほどの苦労があったはず。戦わなければ生きられない、でも乱世=時代の変わり目なので、戦えば居場所を作れる、そんな時代。 ただし彼女たちの生き方は、本来女性が持っている、生み育てる、いたわり看取る、などではなく、男性と同じ仕事をし武器をとって戦うというもの。 自然界との関わり方で言えば、中世までの、大地を耕し作物を育て収穫し、有機的な廃棄物をまた土に還すという地母神的なサイクルの生き方ではなく、大地から資源を収奪し武器にして命を奪うだけで還元しない・・・つまり、今風に言うとサステイナブルでない生き方。 その象徴が、烏帽子御前による、自然神シシ神の首の切断でしょう。 文明史的に見ると、こんな生き方が本格的に始まったのが、この物語の舞台となる室町後期の戦国時代。乱世が終わり江戸幕府がいくら鎖国して農業基盤の社会に戻そうとしてもうまくいかず、明治以降の富国強兵から戦争そして高度成長まで、がむしゃらに生き抜こうと頑張るあまり、思えば私たちは直線的(男性的)に大量の収奪と廃棄と破壊を行ってきたわけです。 そんなことを思うと、子どもも老人もおらず家庭的な生活感のないタタラ場(まったくの「職場」ですね)や、死に絶えていく自然神の怒りと無念を背負ったサンの姿は、何だか張り詰めすぎて痛々しい。 そこへ登場する主人公のアシタカは、古典的な男性ヒーローとは反対に、張り詰めた緊張と一直線な暴走を止めようとします。 故郷ではタタリ神を射殺して村を守るなど古典的男性ですが、呪いを受けたあとは、運命を受け入れて探求者となり、不要な殺生をせず、人々やもののけたちの両方を理解して両方の生命を救おうとする立ち位置。 それは、西国の人々とも、もののけとも、タタラ場の女たちともちがう、よそ者だからこそ立てた立ち位置なのでしょう。エミシの老巫女の言葉: 大和の王の力はなく将軍どもの牙も折れ・・・我が一族の血もまたおとろえたこの時に、一族の長となるべき若者が西へ旅立つのはさだめかもしれぬ ーー「もののけ姫」 追放という形で送り出されたエミシ族代表アシタカの、最後の使命。それは、結局は切断されたシシ神の首を返すこと、すなわち、ナウシカ流に言うと「失われた大地との絆を結び」直すことでした。 そこへ行き着くためには、白黒、生死、敵味方、はっきり決着をつけたい男性原理の追求ではなく、両方を受け入れて包みこむ、いわゆる母性的な立場に立つことが必要だったのでしょう。 女性たちとアシタカと、古典的(生物的)な男性女性の生き方が逆転しているようにもとれ、そのジェンダーレスな感じが、今(近代以降の直線的発展の末にやっと「収奪・廃棄の場」以外の目で自然を見始めた現在)の私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。 大団円で、シシ神(デイダラボッチ)が山野に破壊をもたらしたあと、森が再生の兆しをみせると同時に、サンとアシタカも再出発、烏帽子御前たちも「やり直そう」と言っています。物語全体を包括するとても大きな意味合いで、破壊やボーダーレスな試行錯誤のあと、ゆっくりとではあるが確かに再生への道を歩む、その生死のサイクルこそが生命だ、と思うと、私たちも未来に希望が持てるかもしれません。
September 20, 2021
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コロナによる時代閉塞感のせいか「瞑想(メディテイト)」が流行しつつあるそうです。ホテルや社員研修で、ブースだのポッドだのの中で瞑想するサービスが、売り出されているというニュースを見つけました。アプリで簡単に体験できるプログラムもすでにあるんですって。 おお! まるで『ワン・ゼロ』の瞑想システム「メディック」(メディテイト・マシン)のようではありませんか。メディックは、遊園地のアトラクションにも似た形で、球形のブースに入った瞑想者(お客)たちの心身のデータを採集しつつ、瞑想状態を3D映像にして投影します。瞑想者たちは魂の旅みたいなのを体験してストレスを解消し体も若返ったりするのです。 ニュースを読む限り、今のところ現実の瞑想ブースやポッドはそこまですごくはないようですが、「優しい声のアナウンス」や環境音楽なんかが流れるそうで、そのうち進化して3D映像とかやり出しそう。 佐藤史生のインド哲学的SF『ワン・ゼロ』については、以前かなり熱を込めて語りましたけど、ヒロインの神がかった美少女マユラが世界中の人々を涅槃に導こうとする、その末端ツールがメディックでした。マユラはマハーマウリヤ(孔雀明王)として人々の瞑想を導く役です。 物語ではしかし、メディックを本当に操っていたのはインドの神々で、人々のストレス=欲望を吸い取って人類をおとなしい家畜のようにしてしまおうという、恐るべきワナでした。瞑想ブースを何度も使ううち、人々は菩薩のように柔和になり、子どもたちは言葉をしゃべらなくなり、古くから居た人外の魔性の者たちは消滅していきます。 それを阻止せんと、マユラの兄で遊び人の高校生トキオや、魔性の遺伝子を持つ友人たちが、自意識に目ざめたスーパーコンピューター「マニアック」とともに、風変わりな戦いを始める・・・というストーリー。 1980年代に1999年を舞台とした近未来SFとして描かれたコミックスですが、2020年代になった今、なんだか現実と化して来そうで、ちょっとゾクゾクしてしまいました。
March 16, 2021
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先日の「ブレンダンとケルズの秘密」に続く、トム・ムーア監督の2作目。 今度は、セルキー(アザラシの妖精。アザラシの毛皮を脱ぐと人間になる!)のお話です。 アイルランド映画でセルキーが出てくるというと、以前紹介した「フィオナの海」(原作はスコットランドが舞台ですが)がありますーー実写で、海面から顔を出したり、岩場に寝ころんだりしながらジッと見つめてくるアザラシたちが、かわいい中にも野性味あふれていました。いっぽう、「ソング・オブ・ザ・シー(The Song of the Sea)」はアニメなので、アザラシも人間もデフォルメされています。でもそのデフォルメのされ方が、まるでケルト独特の複雑な紋様になって広がっていくようで、やっぱり魔術的。 また、「フィオナの海」では離島生まれの姉フィオナが普通の人間で弟がアザラシと友だちでしたが、「ソング・オブ・ザ・シー」は灯台の島の兄ベンが普通で、妹シアーシャがセルキーです。ベンたちの母はアザラシになって海へ去ってしまいました。それでお父さんは気力を失い、パブでお酒を飲んでいます。アイルランドの田舎のパブは暗くお客もまばらで、ただ孤独にお酒を飲むばかりの寂しい隠れ家のような場所に描かれています(実際、そんな感じのパブを昔、スライゴーで見かけました!)。 シアーシャは6歳の誕生日に、しまいこまれていた羽衣ならぬアザラシの毛皮のコートを発見します。6歳というと、物心つく頃、つまり幼年時代から子ども時代への過渡期ですね。個人としてのシアーシャは、人間になるかアザラシの妖精になるか、選ばねばならないのでしょう。 この夜、たくさんのアザラシが海岸まで迎えに来て、コートを着たシアーシャは小さなアザラシの姿になり、真夜中の海に飛び込んで、解き放たれてのびのびと泳ぐのです。 「♪ありの~ままの~自分になるの~」と歌いたくなりますが、この物語のテーマソングは、お母さんであるセルキーが歌って聞かせた「海のうた」; ♪いざなう 波間 / 命の 静寂(しじま)・・・ (アマゾンプライムでは吹き替え版しか観られなかったので、歌詞も日本語で。) シンプルながら心の底にひびくメロディーで、以前お母さんはこの歌が聞こえる大きな巻き貝をベンにくれました。 巻き貝の口に耳をあてると波の音が聞こえるというのは、よく言われますね。コクトーの詩に「私の耳は貝の耳 海の響きをなつかしむ」っていうのがありましたっけ。 トム・ムーア監督は宮崎駿をリスペクトしているそうですが、そう思うと、シアーシャは水界と地上のはざまに生まれ、野性的で、そう、ポニョのようでもあります。そして彼女の面倒を見る常識人の男の子ベンは、宗介のよう。 都会(ダブリン)からおばあちゃんが乗り込んできて、「こんな寂しい所で育てるなんて!」と言って子どもたちを引き取るところは、ベンたちの目線で、何だかひどいおばあちゃんだなあ、と思います。でも本当は、おばあちゃんは子どもだけでなく、自分の息子であるお父さんの心配をしているのです。 兄妹はおばあちゃん宅を脱走しますが、旅の途中、心を奪われ石像にされる妖精たちや、おそろしいフクロウ、地下の流れの果てにいる語り部の老人などに出会いますーーアイルランドならではの伝説をめぐりながらファンタジックな旅。 その中で、フクロウの老婆マカ(=アイルランド・ケルト神話の恐ろしい女神マッハです!)が妖精たちから心を奪うのは、そもそも、恋人を失った息子マクリル(海神マナナン・マック・リールです!)の悲しみを取り除こうとしたためだった、と分かります。心を失ったマクリルは石(岩の島)になり、その岩山はベンの故郷の灯台島のすぐそばにあります。 つまり、マカ=おばあちゃん、マクリル=お父さん (ついでに語り部=本土のおじさん)なんですね。デフォルメされた顔がそっくり、声も同じ声優さんです。マカの住まいは人里離れた家ですが、中の音楽やお茶の様子は、おばあちゃん宅を彷彿とさせます。してみると、この世の現実は、くりかえしよみがえる神話なのですね。 ハラハラドキドキの果てに、ベンの真心が妹に力を与え、マカの悲しみを解きます。そして家への爽快な疾走。ベンの勇気が父と妹とを再生させると、マクリルとアイルランド中の妖精たちも再生します。伝説の具現と家族の愛のきずながぴったり寄り添ったエンディング。これぞ、ケルト・ファンタジー。 第3作「ウルフウォーカー」がちょうど今、日本各地で上映中なんですけど・・・、昨今の情勢では観に行けそうにない! 残念です。
February 6, 2021
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以前から気になっていたアイルランドのトム・ムーア監督のアニメを、ついにアマゾンプライムで観ました。 世界で最も美しい本と言われる「ケルズの書」ができるまでの伝説を描いた「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells)」です(「ケルズの書」は聖書の装飾写本。私も昔、ダブリンのトリニティ・カレッジ図書館で展示を見たことがあります!)。 この物語を観ると、ヴァイキングに国土が蹂躙された苦難の時代に、美しいものを希望の光として作ろうと、修道士たちが心血を注いだその心意気が分かります。さらに、連続する渦巻き模様やデザイン化された生き物が聖書の装飾として描かれているのは、古代ケルト文化の自然崇拝が、キリスト教に融合されたのだなあ、というのも分かります。 といっても、小難しい物語ではなく、主人公の少年修道士ブレンダン(彼岸=北米大陸への航海をした聖ブレンダンとは別人)の冒険を、息をのむほど美しいケルト的な映像とともに楽しめます(以下ネタバレ) もともとケルズの書の装飾絵は、細密で迷路のように複雑で、生き物もデフォルメされてこの世のものとは思えない形態になっており、つまり魔術的です。その文様のような絵のイメージが生まれる過程を、幻想的なアニメーションで堪能すると、本当に幻術にかかったみたいにクラクラします。 何しろ細かいし聖なる書物に描く絵ですから、まず特別なインクが必要です。映像では木の実からインクを取るのですが、その木はどうも葉っぱの形から、オーク(西洋樫)らしい。オークはケルトの神官ドルイドのあがめた聖なる木でもあります。妖精の手助けで、手に入れます。 次に、クロム・クルアクの目と呼ばれる水晶のレンズを通して見ながら描くというのですが、おお、出た! アイリッシュ・ケルト最強の蛇神クロム・クルアク! セント・パトリックが倒した「蛇」です。 このクロム・クルアクの描かれ方が圧巻なのです。リアルに恐ろしげな毒蛇が暴れ回るとかではなく、半透明の水中のような世界でうごめく微生物や細胞を顕微鏡で見たような、平面的で幾何学的で、何というか、混沌の夢の中の儀式の踊りみたいなのです(ここで私は荻原規子『あまねく神竜住まう国』のクライマックス、2匹の竜の恐ろしくも美しい舞を思いだしました)。 まるでケルト文様が命を持ってうごめいているようで、ブレンダンも同じ儀式の中に取りこまれ、漂いながら戦わなければならない。その、人外魔境の混沌の恐ろしさ。けれどブレンダンは白墨で円く線を引いて蛇を閉じこめます。そう、そのようにしてケルトの神々や幻獣は秩序だった枠にはめこまれ、円い渦巻きに囲まれて、聖書を飾ることになったのですね。 日本のアニメとは別種の、神秘の霧に包まれた幻影のような世界。平らにデフォルメされ一見コメディタッチな顔や動きの登場人物たち。それがなぜかマッチして、豊かなストーリーを紡ぎ出しています。 久しぶりにケルトを堪能してしまいました。
October 10, 2020
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前回のつづき:旧人類(=私たち?)の文明が「火の七日間」で自滅し地球環境を破滅へ追いこんだとき、彼らは浄化する生態系を作り出し、①「墓所」での自己保存と浄化後の再生、②汚染環境に適応した新人類を作り浄化の生態系に放つ という2つの生存策を同時に実行して未来への賭けとしました。 どちらの人類が生き延びるか。または、どちらも滅ぶか。どちらも生き延びて共存社会を作るか(作るとしたらどんな共存か)。これは壮大な実験のようでもあります。 ここでは私は、いつも引き合いに出す『ワン・ゼロ』や光瀬龍『百億の昼と千億の夜』などに出てくる、宇宙規模の神々の実験という考え方を思いだすのです。 竹宮恵子『地球(テラ)へ』でもいいです。ラスボス、グランドマザー・コンピューターは、破壊された地球環境を再生するにあたり、コンピューターに管理される人類のほかに、管理の枠外の超能力者(突然変異=ミュー)の誕生因子をわざと排除しなかった、という筋立てがありました。再生した地球に住むにはどちらがふさわしいか、賭けであり実験だったのです。 そして、管理され自立できない人類ではなく、新たに生まれ自力で生き抜くミューたちの勝ちだ、と管理社会の代表キースは最後に悟るのでした。 ナウシカ世界でも、ナウシカ(そして作者)は、新たに作られ汚染された地球で必死に生き延びようとあがく自分たちこそ、生命のあるべき姿だ、と叫び、「墓所」に保存されている旧世界の人類と文明をはっきりと拒んで破壊するのです。 蟲や蟲使い、粘菌、そして旧世界の最強兵器「巨神兵」さえも愛おしむナウシカが、自分たちの生みの親である旧世界の文明人(の幻影)に対してだけは、容赦しません。 清浄な環境で再生することを面と向かって拒み、巨神兵に天の火(=核兵器のようです)を放たせ、みずから血(旧世界文明の精髄である青い体液)まみれになって、旧世界とのつながりを断ち切ります。 わたしは /世界を亡ぼした /火を /再び使ったのです 自分の /罪深さに /おののきます わたしたちのように /凶暴ではなく /おだやかでかしこい /人間となるはずの /卵〔を死なせて〕 ーー宮崎駿『風の谷のナウシカ』第7巻 ナウシカが自分の罪深さを自覚してなお、前へ進むのは、親を乗りこえて自立していくすべての生物の本質を尊重しているからです。 古代の王権の「父殺し」や、精神的な発達段階としての「親殺し」=親離れ。 私たちも親世代から古い秩序を押しつけられ、それに反発し、そのうち前を向いて「誰から生まれたかは選べないけど、これからどう生きるかは自分で選び取るんだ!」と叫びながら自立していく。 「親」は拒まれ殺されることによって、生き延びる次世代の糧になり、そうやって次々と生命は受け継がれ、環境にもまれながら変化し続けて(=適応)、続いていく・・・ 突然変異で生まれたミューが、「危険」思想を「浄化」=洗脳されることを拒み、たくましく自分たちで未来を切りひらこうと戦い続けるように。 けれどもちろん、それは修羅の道であるわけで、(映画版『ガンダム めぐりあい宇宙』の)セイラの、 でもオールドタイプがニュータイプを生む土壌になっているのではなくて? 古きものの全てが悪しきものではないでしょう?という叫びも、真実の声ですね。 ナウシカも、旧人類が1人でも生きていたら、その人を殺すことはできなかったと思います。実際、浄化の庭のあるじ(ヒドラだけど)を、拒みはしても殺そうとはしなかったし、巨神兵オーマを意図せずして手なづけ結果的に死に追いやったことには、自責の念というか、非常に心をいためています。 ナウシカにとってぎりぎりラッキーだったことに、浄化はまだ完成しておらず、「墓所」にいたのは旧人類の「影」と「卵」でした。 ・・・というふうにいろいろイメージ・サーフィンしながら、『風の谷のナウシカ』コミックス版を楽しむことができます。良質なファンタジーは、この世の真理を垣間見させてくれるのですね(トールキンの受け売り)。 このような、「浄化」や造物主的存在の意図を拒み、自由意志で生きていく人間の本質は、ほかにオールディズ『地球の長い午後』のラストシーンなどでも印象的です。
September 19, 2020
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映画館に行けず、家でDVDを観て、コミックスも読み返しました。思えば公開の年も確か受験生で映画館に行けなかったので、今回こそ観たかったなあ。 『風の谷のナウシカ』を今年改めて観る/読むことには、深い考察以前に、すごく意味がありました。なぜって、マスクです! 突然、現実生活に欠かせなくなったマスク(もちろん以前からアレルギー等でマスク生活の人も居ると思いますが)。ナウシカたちが、腐海の出す瘴気のため防毒マスクをつけているのが、人ごととは思えないのです。 マスクがないと生活できない。いつも空気のことを気にしなければならない。 マスクの顔は(慣れないと)異様である。マスクをしていると相手がどんな人だか分からない。マスクの下で相手が何を感じているか、たくらんでいるか、わからない。 マスクとは周囲と距離をとって分断するもの。人々は互いによそよそしく、疎外しあい、対立しあいます。 服装と同じかそれ以上に、マスクによってどんな集団に属するか分かる--あなたは蟲使い? 3層不織布? 軍装一体型? ブランドロゴ入り? あるいはチククみたいな目出し帽形? それとも手作りガーゼ? ひとことで言うと、油断できない警戒の日々です。ふだんマスクの要らない風の谷でさえ、不用意に持ちこまれる小さな胞子(腐海の菌類)によって滅びる危険があります。私たちの行動域に不用意に持ちこまれる小さなウイルスの脅威と、なんと似ていることでしょう。 鼻と口をおおう円形のフィルターを装着する医療用マスクが新しく開発された、と先日ニュースで見かけました。写真を見て、アスベルのマスクだ!と思いました。ナウシカとアスベルは1つのマスクのフィルター部分を半分に切って分け合います(コミックス版)が、2人とも息苦しくて危険でした。分断と対立の世界で、分け合うことの難しさと大切さを痛感させられるシーンです。 映画版(全7巻のコミックス版の、第2巻半分まで)だけ観ていると、文明が衰退した世界のあんなマスクで瘴気を防げるって、設定に無理があるかも?と思います。作者も同じ疑問を持ったのでしょう、コミックス7巻で 瘴気に肌を /さらしながら /わずかなマスクだけで /平気なのを /おかしいと感じ /なかったのかな? ーー宮崎駿『風の谷のナウシカ』第7巻という疑問とその答えを提示しています。それによると(ネタバレ→)ナウシカたちは現代の人類とは違い、汚染物質にある程度耐えられるよう作りかえられた未来人類であり、 自然に生まれた /耐性ではなく /人間が自分の意志で /変えたのですね? つまり作り変えたのは、大破局(「火の七日間」)を引き起こした文明最盛期の旧人類(=私たち?)でした。ナウシカが描かれた80年代はバイオテクノロジーが大流行、その功罪を考えるSFとしてナウシカを読むこともできます。 ナウシカ世界の旧人類は、自ら汚染した地球を浄化するために、バイオ技術を駆使して、腐海の菌類やその番人たる巨大昆虫(とくに王蟲)を作り、浄化が完了するまでのつなぎに、汚染に強い人類をも作った・・・ ところが、バイテク人達は、そうやって作り上げた生物たちに後を託しただけではありませんでした。浄化後の地球に住むために、自分たち旧人類の生命装置と文明の記録を「墓所」に眠らせ、復活の時を待つような仕組みを作ったのです。自身の変化を拒み、今あるままの自己を保存しようとする試み・・・これはある種の「永遠の生命」に他なりません。 永遠の生命を望む者、それはファンタジーでは悪役(ラスボス)に決まっています。「不死身のの族長に跡継ぎは無用であろうが」(あしべゆうほ『クリスタル・ドラゴン』の邪眼のバラー)。トールキン『指輪物語』では、呪われた指輪は持ち主を不死にします。めぐる季節のような死と再生という生命の受け渡しを拒む者は、どんなに善人ぶっても悪なのです(興味のある方は私のつたない古い卒論をご覧ください)。 ところで、旧人類は、「墓所」に凍結保存した自分たちと、環境に順応するよう作り変えた子孫たちと、いったいどちらに未来を託すつもりだったのでしょう? 同情的に推察するなら、自滅のふちで旧人類は、片方が失敗しても他方がうまくいけば良いというふうに、生存確率を少しでも上げようとして2つの方法を実行したのでしょう。 けれど腹の底では彼らは、ナウシカ(=作者)が「墓所」で旧人類の影たちに向かって叫んでいるように、浄化後によみがえってナウシカたちを滅ぼすか奴隷にするつもりだったのかもしれません。 ナウシカたちからすれば、そんなことはごめんで、誰に作り変えられたものにしろ、自分の力と意志だけで生き抜いていきたいと望みます。ぶざまでも、間違いをくり返しても、それがワタシなのよ! ということです。佐藤史生『ワン・ゼロ』で、自意識に目ざめたコンピューターの「マニアック」が言明するとおりです; 覚醒シタ”ワタシ”ハ /モハヤ創造主ノ /ツクッタボクデハ /ナイ(中略) ”ワタシ”ハ /”ワタシ”ノ目的ヲ /モチマス〔それは〕 ワタシ自身ヲ /守ルコトデス 果てしなく長くなってきたので、続きはまた次回。
September 18, 2020
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コロナの閉塞感から気分転換するには、やはり異世界ファンタジー。ということで、予約していた『妖精国の騎士Ballad 金緑の谷に眠る竜』4巻目が先日、届きました。(ところで「時代閉塞」はたしか石川啄木の言葉です) 主人公のおっとり天然わりとガンコなメリロット姫が、とうとう男の子に変装して、魔法使いとともに見知らぬ土地へ向かいます。定番だけどいいですね、この開放感。 男装の顔が、ちょっとメリロットとは分かりにくいですけど(もともと顔立ちに特徴がない主人公なのでした…)。 (以下ネタバレ) それから、ハリストークの起源にふれる昔語り(歌)が出てきて、物語に時間的厚みがぐっと増したんですが、 永生に倦んだ者達が仙境を出て…というくだりで、以前だらだら書いた「サフィールの呪いの正体(前・後)」とわたし的にリンクして、嬉しかったです。常世の国から人界へエルフたちがすすんでやって来るという設定は、トールキンの神話体系のノルドールたちの流謫を思いださせてくれました。 さらに、本編『妖精国の騎士』の謎の回収もあります。ついに出ました、オルゲニーさん。大急ぎの最終盤で、グラーン国王の遺体とともに消え失せたまま、どーしてみんな放っておくんだろう? と思っていましたが。 だって現世の民から見たらラスボスの国王とその側近の占術師ですよ、新王国をうちたてるに当たって、葬儀もせず、行方を捜すふうもなく、人民にどう説明したんでしょう? とにかく、オルゲニーは国王を湖の国の島に葬ったらしいと分かりました。まさかですが、島守りのおじいさん、オルゲニー本人じゃないでしょうね?? メリロットと水の妖精王との異種族ラブの行方も気になりますが、新たな謎解きが出てきて、次巻がいっそう楽しみです。ドラゴンがたくさん出ると私ごのみで嬉しいのですが。
May 20, 2020
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東北大震災と阪神大震災のあと、佐藤史生『夢見る惑星』が無性に頭の中でグルグルして、読みふけっていましたけど(地下鉄サリン事件の時は『ワン・ゼロ』を読み返したものです)、このところの非日常的な日常的不安の日々に、やはり佐藤史生の「羅陵王」(手元にあるのは『天界の城』収録)を読み返してしまいました。 それほど今の状況と似通っているわけでもないのですが、なぜか思いだされるのですね。 羅陵王はもともと中国の伝説で、雅楽「蘭陵王」などで日本にも知られているそうです。戦のとき優しげな美形の顔を恐ろしい仮面で覆ったというのですが、それを佐藤史生はSFに登場させ、双面の神とし、恐ろしい顔を「翠妖」、優しい顔を「黒尉」(翁の能面に黒式尉というのがあります)と呼んでいます。 (以下ネタバレ)そして、その正体は、緑斑病という恐ろしい伝染病を引き起こす微生物。 雅楽や能の知識もすごいですけど、それを、人類の1/7を滅ぼした伝染病に結びつけるという発想がすごい。 で、この微生物の優しい面は何かというと、猛威をふるった伝染病の毒性はやがて弱まって、かかったのに死なずにすんだ人間が不老長寿となり、そこから不老薬が作られるようになったということ。この薬を産する都市では、伝染病の微生物を双面の神と呼び、不老長寿の神女の長は、次のように説明します。 あの小さな生き物たちは 異星からきて 長い試練のあとに ようやく安住の方法を 見つけたのよ だから うまくおりあうと すばらしい共生関係になる その霊妙さに 心うたれて (中略) 神格化した ーー佐藤史生「羅陵王」 「共生」という言葉が、印象に残ります。今般の新型コロナウイルスについても(風邪のウイルスの変異体ですし)、いずれ共生しかないと発言する学者もいるそうです。 もちろん目下のところ、新型ウイルスとの「戦争」のまっただ中で「勝利」せねばならない、と一生懸命思っている大多数の人、私もその1人です。 けれど、次々と変異する新しいウイルスや、環境の激変の脅威が問題になる今日この頃。 他者との共生、自然との共生。このことを忘れてはいけないと思います。 うまくおりあって、すばらしいとまではいかなくとも、無難な共生関係を築けたら。 そこから学ぶものも、あるのではないかと、ふと思うのです。
April 15, 2020
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電子版タダ読みでだいぶ楽しんでいた『空挺ドラゴンズ』(栗原太矩)がアニメ化されて今、放映中ですが、最近はこれを観るのがとっても楽しみ。 ドラゴン(龍)を追って旅暮らしをする空の漂泊民とでもいうべき人々が描かれます。 以前ちょっと触れた"愚者の船"のモチーフと似ていて、『クジラの子らは砂上に歌う』や『カルトローレ』などと同根の物語かなという気がしますが、それらよりぐっと明るくて生き生きと物語中の「今」を生きているのが特徴ですね。 原作は、一目見て宮崎駿だなあと思っちゃう絵と舞台と人物つまり設定全部。龍(おろち)捕りは昔の捕鯨船みたいだし、嵐の龍のエピソードとか「ラピュタ」を彷彿とさせるし・・・ でも、いいんです! 宮崎駿の絵と空が、好きなので! なつかしいアナログ感だし! ストーリー展開のスローさも乗組員の人間味も、前世紀的で、ノスタルジーを感じてホッとします。いまどきこんなアニメあるんですねえ。最近の、神経とぎすまされた錯綜するCG世界と、それに不似合いな思春期的悩みでぐるぐるしたり励まし合ったりする学芸会調のキャラたちのお話とはちがって・・・。 (実は「FGO絶対魔獣戦線バビロニア」も観ていたりするので、つい比べてしまいます。いやこれはこれで面白い?んだけど) 登場人物がみんな(精神的に)大人で、ヒロインの新米娘タキタも素直で、安心して冒険を楽しめます。そして何より、アニメでは空と龍がスペクタクルなすばらしさで、見とれます。特に龍は、いろんな種類があって、幻獣だけどわりと自然体で、美しく、ダイナミックで、生き物ラブな私は毎回うっとり。私的には、こういうのこそアニメ化に向いた作品といいたいですね。 龍の料理の紹介も、このシリーズの特徴ですが、料理そのものより、調理過程やおいしそうに味わう場面があることで、(空を飛んでるんですけど)地に足ついたリアル感が増し、架空世界が充実してますね。 人類滅亡の危機とか、宇宙の覇権争いとか、人間関係ドロドロの復讐劇でなくても、面白い冒険アクションができるんだと思えて嬉しいです。 そんな日常の中で、野生児のミカさんの生き方が非常にかっこいい! こういうふうにシンプルに力強く生きている人って、(リアルにもフィクションにも)最近なかなかいない気がします。 というわけで、先の読めるエピソード(王道ともいう)にもかかわらず、いやだからこそ、どんどん読みたい/美しい映像で観たいと思うHANNAでした。
February 25, 2020
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某少年誌無料電子版で『エンペラーといっしょ』をみています。以前載っていたときも好きで、今回2度目なのにまた読みたくなる作品。最近は本屋さんで立ち読みできなくなったかわりに、スマホやネットで試し読みを時々しますが、続きを(買ってまで)読みたい、とか、繰り返し読みたい作品に巡り合うのは私的には珍しいです。 ペットのネタはあふれているけど、この漫画は単に皇帝ペンギンを飼うというのとは、ちょっと違って、とてもいい。どこが違うんだろうと考えてみたら、・ペンギンの出現が素敵ーー(ネタバレ)ある日、冷蔵庫に入っていた。・ペンギンの風貌が素敵ーー絵では目がない。しゃべらない。・ペンギンを秘密にしておくところが素敵ーー見せびらかさない。他人に言わない。 で、これって、座敷童とかブラウニーとかの家付き妖精、またはコウモリやヤモリなど家につくと縁起のいい生き物(どちらも妖怪または神様ともいう)みたいな感じがしてきます。 そう思ってみると、冷蔵庫から突然出てきたのも不思議ではありません。もちろん皇帝ペンギン=寒い南極だから冷蔵庫なんでしょうが、冷蔵庫はナマモノ(生き物に近い)が入っている密室(外から覗けない)であり、しかも現代の家庭の真ん中に位置する重要なもの(頻度は違えど家族全員がやってきて糧を得る)。そこに神様が宿っている、と。 けれど不思議ではあるわけで、突如出現した皇帝ペンギンのエンペラーにどう反応するか、家族それぞれです。しかしこの物語ではペンギン自身に名前を選ばせ、しかもそれが尊敬に値する名(エンペラー)で、彼を並みのペットのように閉じ込めたりつないだりせず自由な居候のように扱います。 それに対しエンペラーはエンペラーらしく尊大な感じなんですが、顔部分が真っ黒なので表情がないどころか、目も描かれていません。とがったクチバシであらわされる顔の向きで感情がうっすらわかります。しかし、概してデンと立っているだけで、一種置物や人形のようでもあります。これもまた、妖怪っぽいですね。 主人公の女子高生香帆ちゃんは、エンペラーが人目に触れないように気を使っています。けれど別にみられるのが禁忌ではなく、友人や限られた人には目撃されたり紹介されたりします。見える人には見える、会える人は会える、そんなところも妖怪です。 エンペラーは遠く(南極、海)からやってきたマレビト神のようにも思えます。家族はぬいぐるみみたいなエンペラーを自転車の荷台に乗せ、車に乗せして、海に連れて行って泳がせてやります。「放鳥だろ」と兄は言いますが、香帆ちゃんにはエンペラーが戻ってきてくれる自信がありました。我が家ならば居てくれる、と思ったのでしょう。 いちばん印象に残る場面は、夏休みに行った父の実家のおばあちゃんです。エンペラーをすんなり受け入れたおばあちゃんは夜、二人きりのとき、置物のような彼に語り掛けるのです; あんた田舎は? 家族はおらんが? --mato『エンペラーといっしょ』 エンペラーには目もなく表情もないのですが、彼はじっと聞いて何らかのジェスチャーをしています。それが何という答えなのか、読者にもわからないのですが、このマレビトガミをなにげに思いやるおばあちゃん、すばらしいですね。 というわけで、今日も無料連載を楽しむHANNAでした。
May 28, 2019
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予約していたコミックス版が届きました。電子版が先に出て少し見ていましたが、やっぱり実体ある1冊の方がなじみます。 長大な『妖精国の騎士』の数年後の設定『ロビン』の、そのまた数年後の設定、新しい物語『金緑の谷に眠る竜』。しかし「妖精国の騎士Ballad」と冠していますから、作者の中では後日譚の一つなんでしょうね。 以前、『ロビン』の最終巻で勝手に予測しておいた、新たな王子誕生&アリストとディアン結ばれる が当たっていたので、嬉しい私。 (ついでに、3巻だった『ロビン』は秋田書店に引き取られて2巻にまとめられたようですね。星香さんによくある加筆や修正はあったのかしら?) 『妖精国の騎士』の登場人物も同窓会的にたくさん出てきて(大好きなレオン王再登場が嬉しいv)、ファンサービス満点。 ですが、やっぱりその分、主人公であるメリロットがいまいちぱっとしません。父母に似た容貌なのにやや地味系、みたいな説明もあるけれど、それならよけい、一目でメリロット!と分かるような特徴がほしいですね。背が低い、というところが特徴らしいけれど、星香さんの頭の中の映像はともかく、コマ割りの中で見ると、一目ではわかりにくい。 ともあれ、星香さんの作品はストーリー展開が楽しみですから、次の巻を期待します! (動物系が好きな私には、竜のウロコが素敵でした。私も1枚ほしい)
April 16, 2019
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運命の星石サフィールの「永生の毒」の呪いは、緑の妖精王と闇の長子オディアル、そしてグラーン王に対して効く、という前回の続きです。 この三者に共通なのは、ずばり、人間=死すべきさだめ(mortal)と不死(immortal)の両方の世界を知っている、という点だと思います。 緑の妖精王エルフェルムは、不老不死であるものの、祖父が人間であるため人間の性質(mortality)も持っています。人間であるローゼリィを養女とするのはその現れだと思われます。彼はローゼリィを風にたとえ、 最愛の者であるからといって 森を渡る風をとめる者は いないでしょう とどめれば風は 命を失います --中山星香『妖精国の騎士』第3巻これは、妖精の姫アンフィリアンの「私なら腕の中に抱きしめて」どこへも行かせずともに滅ぶ、という愛し方とは、まったく異なります。永遠不変ではなく、移ろいゆく命を愛するのが mortality なのです。 また、闇の神皇子オディアルは人間として生まれ出ることで、封じられていた獄から脱出。ローゼリィが光の剣で「殺す」まで人間として生きたため、後に魔神として復活してもなおいくらか mortality を持っています。 反対に、グラーン王は人間ですが、亡き第1王妃と占術師が配した「守りの玉」によってほぼ不死であり、心臓を刺されても死にませんでした(第48巻)。彼はローゼリィを3番目の王妃にしようとしますが、守りの玉を壊され、最後は息子アーサーとの戦いの最中に死にます。 mortal/immortal についてさらに… この物語ではヒロインのローゼリイが人間でありながら妖精国で育ちます。不老不死ゆえに、人間の人生観・世界観とは異なる考え方を持つ妖精や魔族を登場させることで、たとえば 多分不死の一族である妖精たちにとって私は 夏の初めにとらえた珍しい蝶のようなものなのだ --第2巻 ローゼリィのせりふというふうに、人外の目線から人間の一生のはかなさを描き出しています(これはトールキンの手法でもあります。彼はときに不死のエルフの視点から、人間(ホビットをふくむ)や現世(中つ国)の諸行無常を語ります)。 星香ワールドでは特に、mortality をはかないと感じるのは、当の人間ではなく不死の種族のようです。人間たちは日々年月の移り変わり(変化)を営々と生きながらえ寿命を全うするのに一生懸命で、それこそが充実した幸せであると、作者は繰り返し語ります; アルトディアスの 朝と昼と夜 あの毎日毎日の 繰りかえしが 私には 私自身よりも 大切だったんです --第2巻 ローゼリィのせりふ 一方、不死の種族たちは自らの永遠性(不変)を当たり前と考え、仙境は「常春」であり冥府は闇の神王の絶対的な魔力に支えられています。 しかし、仙境にも冥府にも、ローゼリィや運命を変えるサフィールと関わり合うことで、様々な変化が生じてきます。たとえば火の妖精王は彼女を排除しようとしますが、試みるほどに、ローゼリィの影響を受けて彼自身が変わっていきます; 限りある生命の人の子が… 自らの生を捨てて 無私に 運命の荒れ地を 切り拓かんと しているのだ かかる美の前には 我々不死の民は 黙して 首をたれるしかあるまい --第9巻 火の妖精王のせりふ このとき彼はローゼリィを殺そうとして殺せませんでした。不変の妖精が考えを変えたのです。 このようにして、ローゼリイとサフィールは、関わる不死の種族たちを変えていきます。それは不変の仙境や冥府に変化をもたらし、不変という運命を変えてゆくわけです。 ここで問題なのは、エルフェルムとオディアルは人間性を持つゆえに、もともと不変性に倦怠感を抱いており、純粋な不死者よりサフィールの影響を受けやすいということです。 オディアルは復活後、さまざまな魔族が自分を慕って集まって来るのに対し、 冥府が かくも退屈な所であったとはな… --第27巻と、以前とは違った感情、つまり倦怠感を持ちます。この種の感慨は、彼に不動の忠誠を尽くす部下の魔物ジャディーンなどには理解し得ないようです。純粋に不死の者は、自分や相手の不変の本性に飽くことはありません。 移ろう生を愛すエルフェルムと、不変の冥府に倦むオディアル。しまいにエルフェルムは人間に関わってはならぬという妖精の禁を犯して、ローゼリィとオディアルの戦いに介入し、オディアルもまた、ローゼリィを殺そうとする考えを変えます。 何となれば、ローゼリィを闇に殺しサフィールの魔力を得て完全な優位を確立してしまうと、あとに続くのは永遠の不変だけだと彼には分かってしまったからです。他の魔神なら永遠に満足し続けるでしょうが、人間性を持ってしまったオディアルには永遠の倦怠が待っているのです。 グラーン王は、もっとはっきりと倦怠を感じています。自らを不死にしている「守りの玉」を「邪魔な配慮」(第54巻)と言い切る彼は、いくさに勝って領土は広がれど愛する王妃も亡く、二人の王子も彼自身の子ではなく、安泰で孤独な日々に倦んでいます。第2王妃のアストリッドはそれを「永劫の闇」と表現しました(第28巻)。 彼の唯一の息子アーサーは父の真実を見抜いています; 平和の中で辟易する/それが貴方の 正体だ 幸せそうに 見えないな/楽しく なさそうだよ グラーン国王 --第53巻 玉がくだかれ実の息子アーサーと戦って倒れたとき初めて王は、「久々に面白くて…な」(第54巻)と嬉しげに笑い、死んでゆきます。彼はついに永生の呪いから解き放たれたのです。 このように、有為転変 mortality を知ってなお immortal(不変)であることは、倦怠を生むのです。不死者にとって、世界に倦むことほど恐ろしいことがあるでしょうか。倦怠感は永久に続く業苦となるでしょう。これこそ、サフィールの持つもう一つの呪いなのです。 それはトールキンの『指輪物語』では、“weary of the world”「世界に倦んで」と表現されています。中つ国に移住した長命なエルフたちは、その時の移ろいの中で「世界に倦み」、ついには次々と西方の楽園へ旅立って行きます。 また、指輪の力で寿命が延びたビルボが、その幸せな日々にさえ倦んで、 そう、何というか、薄っぺらになったという感じ、わかるでしょう、『引っ張って引き延ばされた』っていう感じなんですよ。〔中略〕こいつはとてもまともなこっちゃない。わたしには、変化というか、何かが必要なんです。 --J.R.R.トールキン『旅の仲間』瀬田貞二訳と言っているのも思い出されます。 以上、星香さんがなかなか続編?で「永生の呪い」の種明かしをなさらないのを良いことに、私なりの謎解きをしてみました。
November 28, 2017
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光の剣に埋めこまれた星石サフィールの魔力は、光(善)であれ闇(悪)であれ運命を動かす人間独自の力である という前々回の続きです。 精霊の世界、とくに冥府では、サフィールの力は魔神たちの権力争いの的になります。トップである闇の神王は 今後 呪われし宝石に 手を出す者は 我が治世下に 意図して災いを 持ち込む者と判断し 何神であろうと 極刑に処す --中山星香『妖精国の騎士』第26巻と定めますが、後には神王自らサフィールを手に入れようとして結局は我が身を滅ぼします。 しかし、サフィールにはそれ以上の「呪い」があるのです。サフィールによって復活を遂げた闇の長子オディアルは、魔神たちの権力争いには勝利しますが、それでも 宝石の呪縛は確かに存在します 我が身にも… --第25巻と言っています。この時は、オディアルが脱獄・復活の見返りに契約した「グラーン王(人間)が世界(人間界)を統べること」が足かせになっているのかと思われました。けれど最強の魔神として復活を遂げた彼にとって、人間関連の契約など「児戯に等しい」と言われてもいます。 実際、最終盤でグラーン王が西方を征服できぬまま、命の守りの玉を砕かれ死んだにもかかわらず、オディアルはローゼリィを追いつめとどめをさそうとします。ところが、土壇場で この娘を殺さば そなたこそ 永遠の毒を 呑み込むことに なるだろう --第54巻 緑の妖精王のせりふと言われて手を控え、とうとうローゼリィを殺すことも、サフィールを手にすることもやめるのです。 「永生の毒」と呼ばれたこの呪いとは何なのか、後日譚『妖精国の騎士Ballad』でも言及されていますが、実ははっきりと明かされていません。光の剣の主であるローゼリィも知らない様子ですが、しかしこれこそが、最後の最後に彼女を救ったキイであることは確かです。 謎解きのヒントは、人間の祖父を持つ妖精王の言葉にあると思われます; 四分の一 人の血を持つ者として 話している 不死者には 解らず 死すべき者にも 解らぬ毒… --第54巻 緑の妖精王のせりふ つまり、この呪いは不死である純粋な精霊・魔神にも、死すべき人間にも効かないのに、緑の妖精王とオディアルには効く。さらに注目すべきは、オディアルの心の声、 あるいは…死せし人の王〔=グラーン王〕は 理解(わか)っていたのかも知れぬ… --第54巻 ということは、死すべき人間でありながら長らく守りの玉によって不死であったグラーン王には、サフィールと直接かかわっていないのにその呪いが働いていたようなのです。 それは、どんな呪いなのかーー(つづく)
November 24, 2017
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『妖精国の騎士』は完結までに何度かこのブログでも取り上げましたが、(娘に薦めたのがきっかけで)再読し、思うことを少し書き留めることにします。 この長編異世界ファンタジーは、3つの魔剣とその使い手「剣の主人」たちの物語です。主人公ローゼリイが持つ光の剣は、光と闇の両方の魔力を引き出すことのできる最強の剣ですが、「破滅の剣」でもあり、人間界ではこれに関わると国が滅びることになります。 いっぽう精霊界では、剣の柄に埋めこまれた「運命の星石(サフィール)」の魔力が注目の的で、その絶大な力を欲して冥府の魔神たちが争います。 ではサフィールの持つとされる「運命をも変える力」とは、具体的に何なのでしょう。 魔力の宝石は運命をも変えるといわれております それは善であれ悪であれ人の力にあまることで 持ち主に破滅をもたらします --中山星香『妖精国の騎士』第1巻エドストレームのせりふ 永遠の獄に封じられた魔神にとってこの力は脱出し再生する力であり、永遠の春を楽しむ仙境の妖精たちにとっては、衰退や滅びをもたらすと忌避される力です。 それゆえ、物語前半、ローゼリイにとってサフィールは、人外の存在たちの争いやの排斥の源であるためやっかいな代物でしかありません。 しかし、冷静に見渡すと、この物語世界には現実世界と同様「運命」を決める絶対神や掟などは見あたりません。たまに「運命の神」という表現が出てきますが、具体的な神さまは出てこないのです。従って運命とは確定したものではないようです。 サフィールの説明をしたエドストレームも、こうも言っています; 人の運命を決めるのは人自身です --第2巻 決められた未来などない、人生は自分で決めて歩むもの。これは実は当たり前のことのように思えます! その証拠に、人間たちは光の剣の禍々しい噂をするわりに、サフィールについてはほとんど言及せず、その魔力も欲しがらない様子です。 してみると、サフィールは人間の心=意志の象徴とみることができます。そしてこれは、人外の精霊や魔神にはない人間独自の力であり、精霊や魔神もふくめて世界の運命をも変えることが出来る最強のパワー、ということになります。 もちろん、実際には自分の運命=生きる道を自分で決めて進むのは、いつだってむずかしいもの。だからこそ、人間独自の力でありながら「人の力にあまる」力なのでしょう。ローゼリイ自身、 私は光の剣を抱きとめ凶運を幸運に変えてゆく初めての者になろう!! --第3巻と強く誓うものの、次々に降りかかる試練に翻弄され、ようやく第38巻になって、 私が用い方さえ間違えなければ お前〔=光の剣〕は破滅の魔力をもたらさないで 〔中略〕祝福された存在になれるの……?と再確認するのです。 光の魔剣は運命を切り開くツール(道具)であり、魔石サフィールは、自らの運命を自力で決しようとする主人を生かし続ける原動力のようです。 だからこそ、 もしも今ローゼリィ姫が心の暗黒に抱かれて死ねば 運命の宝石は闇にくだります --第2巻というふうに、善にも悪にもなり得る存在なのです。何となれば、人間は光と闇の両方でできている、というのが星香ワールドの大前提なのですから。 冥府の魔神もうらやみ、妖精たちの住む仙境をも滅ぼしかねない、最強の力の持ち主こそは人間。そのように解釈すると、数あるファンタジーのお宝の中でも、なかなかに味のある逸品ですね、サフィール。 (もちろん、ファンタジーはさまざまな読み方が可能なので、これはその一つに過ぎません。いろいろな読み方を楽しめるのが、良いファンタジーだと思います。)
November 15, 2017
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私をアイリッシュ・ケルトの世界へ引きこんだファンタジー・コミックス『クリスタル・ドラゴン』、長らく休載していてもう続きは読めないかと思いきや、実は去年から続きが出ていました! 25巻が出たのが8年も前。さすがの某アマゾンさんも私が当時購入たのを忘れた(笑)らしく、新巻のお知らせメールも来ませんでした。けれど旧友Nさんが先日、書店で見かけたよ!と知らせてくれたので、このたび26・27巻いっぺんに入手することができました。 再開した物語はようやく終盤へ向かって動き出した感じで、水晶の竜の眠るアルペス(アルプス)を離れ、故郷エリン(アイルランド)に戻ろうとするようです。相変わらず時空が定まらない、めまいのする展開ですが、 「…助け手を求めて…」 「ならばお前は手に入れておろう/バイキングの地で/ローマで/死者の国と生ける者の地で」 --あしべゆうほ『クリスタル・ドラゴン26巻』と、今までの旅の足跡を復習し(なつかしい「病持ちのギルス」や「取り替え子のキア」の姿もありました!)、召還の魔法で彼らを結集してバラーに挑むという具体的な見通しが語られました。 さらに、力ある登場人物たちが退場していくらしく、それぞれの後継者、次の世代が育ってきています。 邪眼のバラーさえ息子が出来ました。その名もフィンヴァラ(輝く頭髪、みたいな意味)。これはアイルランドの妖精王の名ですね。意味的にはよくある名前で『クリスタル・ドラゴン』の最初の方に出てきた海神マナナン・マク・リールの別名「バル・フィンド(輝ける頭)」と同じです。 メリング『妖精王の月』や、むかし『フィオナヴァール・タペストリー』(フィオナヴァールも同根の名)なんて本もありましたっけ。アーサー王の妃ギネヴィア(ウェールズ語だとグウェニファールとかそんなの)もそうです。とにかくケルトの定番で、なんだかわくわくする名前です。 で、次代の大地の王座をめぐる天下分け目の合戦は、25巻の出たとき書いたように、善なる魔法が邪悪な魔法を打ち消して(佐藤史生『ワン・ゼロ』で神と魔が打ち消し合ったように)どちらも消滅し、地上から魔法が絶えて、現在のような世が訪れる--という結末になると予想されます。 ヨーロッパ古代史でいうと、この物語は西暦61年か62年ごろで、ローマ編でちらと出たように、キリスト教がローマで信者を増やしつつあった頃です(皇帝ネロの大迫害が64年)。やがてキリスト教はヨーロッパ全土に広まり、ケルトや北欧の土着の神々は廃れたりキリスト教に組み込まれたりして消えていくのですが、その大転換の始まりを、この物語は描こうとしているのだと思います。 ページ数が昔より少ない?うえ、コマ割りが大きくて(1ページまたは見開きブチ抜きばっかり!)2巻合わせても昔の1巻分もストーリーが進まないのが不満ですが、とにかく最後まで読ませてほしいです、作者さま。
November 15, 2016
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以前、このブログでもとりあげた折口信夫『死者の書』の、漫画版です。 近藤ようこのやわらかな線の描きだすヒロインの表情がとってもステキなので、なかみも見ないで即買いしましたが、期待を上回るすばらしさです。 コミカライズというより、「再話」的な感じ。 原作の古風な文体を絵で示すというだけでなく、エピソードや解説の順序を入れ替えることによって、よりわかりやすくなっています。それでいて、ネーム(せりふ+説明つまり活字部分)はほとんどが、きっちりと原作通り。たぶん、原作の一文一文をしっかり吟味した上でバラバラにし、作者なりに並べ直し組みたてなおしたのでしょうが、その作業の丁寧さがにじみでています。 原作を横に置いて読み比べてみると、どちらもさらに理解が深まります。 ヒロイン郎女だけでなく、周囲の乳母や女官たちの一人一人まで、シンプルなのに豊かな顔つきで、どの場面でも、そうそうこんな顔こんな顔、と思えます。そのほか、特に夢などの幻視的な場面で、余白を非常に効果的に使っているのが印象的。トーンもシンプルなもののみで、すっきりとした白と黒の世界。それでいて、日本特有の山の濃密さや、空間の奥行きも感じさせるから、すごい。 ところで、原作を読んだ時にも思ったのですが、郎女の見た「おもかげびと」は、空の澄んだ春秋の日没後に見える「黄道光」という天体現象なんじゃないかしら。わざわざ科学的に解釈することでもないけれど、私は若い頃いちど「黄道光」ではないか?という光を見たことがあり、なんだか気になったのです。今回、コミックス版を読んでまたそんな気がしてしまいました。 それはともかく、コミックス版でもう一つ気づいたことは、大伴家持の存在感です。原作でももちろん出てきますが、郎女や滋賀津彦の放つ圧倒的なオーラにくらべると、どうも茫洋として存在意義がはっきりせず、単に物語背景である平城京とその社会を解説するナレーター?みたいに思えました。 しかし、今になって思ったのですが、家持もまた、別なタイプの芸術家であったのです。 別な、というのは、私には当麻曼陀羅を作り上げた郎女が、すごい集中力・追求心・純粋さを持った芸術家だったと思えるのです。自らの神秘的な精神体験を(本人は神秘とか精神とか自覚していなかったにせよ)一つの傑作に注ぎ込むことで自己完結した人。良い意味で自己中心的な天才タイプ。 そのピュアなパワーが強烈なので、周りの人々は真の彼女を理解できないまま、引き寄せられ感動します。ずっと間近で世話をしてきた乳母が、郎女の言葉に思わず涙を流したりするわけです。 対照的に、家持は覇気が無くぱっとしませんが、実は鋭い観察眼で周囲を見つめ、人の話を聞き、客観的にあれこれ考えているのです。都に新しい家が建ちゆくさまを見て、若草の生い初める野を詠んだ「東歌」を思い出したり、恐ろしい顔つきの「多聞天」に似ているという噂の藤原仲麻呂と語り合いながら、むしろ大仏の顔にそっくりだと思ったり。 彼は自分の心持ちさえ一歩引いて自己分析しています; おれはどうもあきらめがよすぎる・・・ ・・・これはおれのあきらめがさせるのどけさなのだ/家の行く末を悩んでいても(中略)/歌を作ったりすると/すがすがしい心になってしまうおれだ --近藤ようこ/折口信夫『死者の書』 こういう冷静で大局的な考え方は、ほとばしる感情のままに生きたおおらかな古代の人というより、たくさんの情報に翻弄され多面的な物の見方を強いられる現代人に、通じるところがあるように思われます。だから、周囲の人は本当の彼を理解せず、ふだんはテンポのずれたぼーっとした人に見えてしまう。時々、意見を言っても通じなかったりするし、彼自身も通じない自分をあらかじめ自覚している感じ。 理知的でしかも繊細な感傷も漂う彼の歌は、万葉集の中では異色だと習ったことがありますが、さまざまな政争を経るなかで単に職人的・技巧的に詠まれたのではなく、彼の卓越した観察・批評眼と分析精神の結晶なのでしょう。 とすると、家持は郎女とは反対の極に位置する芸術家として、この物語に登場しているのかもしれない、と思うのでした。
May 26, 2016
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昨今の集団的自衛権うんぬんのニュースを見ていたら、“世界で唯一、戦わない軍隊”のお話を思い出しました。 自衛隊ではありません。それは架空の国オネアミスの、王立宇宙軍。軍隊とはいうけれど、初の有人宇宙飛行の実現をめざす組織で、NASAとか現在のJAXAとかに近い(ずっと小規模で貧乏ですが)。主人公シロツグ・ラーダットは無為徒食の青年から一念発起、初の宇宙飛行士となります。 バブルでモラトリアムで無気力で、冷戦と核の恐怖を未来に描きつつ、科学技術がまだレトロなバラ色だった昭和の終わり、1987年のアニメ映画です。 20代の制作スタッフが職人技で細部にこだわったというパラレル・ワールドには、現実と似て非なる、ノスタルジックな風景が描きこまれています。見慣れない文字、無国籍な人名、でもどこかとてもニッポン。 森本レオのやさしい声で、自分も世界も軽く茶化してしまうシロツグの不真面目な穏やかさとか、そもそも宇宙へのチャレンジという華々しいできごとを担う組織が“戦わない軍隊”だったなんていう発想そのものが、戦わない自衛隊のいるニッポンならではだと思うのです。 シロツグは空を飛ぶという夢を持ち、パイロットになりたかったけれど、成績が悪くて空軍に入れなかったと自己紹介しています。あとで、空軍の飛行機で訓練飛行をしたとき、その夢はかなったとも言えるでしょう。地上の喧噪を離れた空は広く美しく、宮崎アニメにもよくありますが、飛ぶことの爽快さがよく分かります(私自身は高所恐怖なのであまり飛びたくないけれど)。 しかし、空軍のパイロットたちは、穀潰しで何の役にも立たない「宇宙軍」のシロツグたちをあからさまに軽蔑し、「撃ち落としてやる」みたいな発言をします。今や、こんな俗っぽい連中が撃ち合う空は、もうあこがれの聖域ではなくなっているようです。 かわって、宇宙が聖域として描かれています。技術も予算もなく宇宙服の実験では死者まで出してしまう、名ばかりの「宇宙軍」。しかし、そんな実態を知らないヒロインのリイクニが、「戦わない兵隊さん」や「けがれた下界から離れ星の世界をめざすこと」をすばらしいと褒めるのを聞いて、シロツグは俄然目覚め、初のアストロノートを志願するのでした。 リイクニは街角で「神の裁きの日は近づいています」とビラを配る宗教少女ですが、押しつけがましさは感じられません。彼女の語る宗教は、黙示録的ですが、何か行動を強いるものではないようです。「聖典」とされる書物に記されているのも、現実の特定の宗教ではなく人類共通の古代の神話(火がもたらされたことによる原罪、みたいな)を思わせます。 そして、それには何の興味もない様子だったシロツグが、やがて悩んだとき、つらいときに、ふとその聖典をひもとくのです。やがて、ついに宇宙という聖域へ飛び出したとき、その感動は地上への祈りとなって彼の口をついて出ます。宇宙へ行くことは、つねに人をしばる重力をいわば「解脱」して、この世を外から眺める視点を得ることであり、その視野拡大の体験は超越的で、宗教的な何かと通じるものがあるのでしょうね。 で、ふと振り返ると、最初の場面、宇宙服実験の事故の犠牲となった同僚の墓前でシロツグたちが歌う、なんだか滑稽な「宇宙軍軍歌」の歌詞には「裁きの時は近づかん」とあり、実は宇宙軍はリイクニの説いていた黙示録と同じ予言をしているのでした。 こんなふうに、宗教という日本人にはちょっときわどく難しいモノを扱いつつ、このお話は日常俗世の次元を超えた宇宙的視野を描きます。おもしろさと同時に、こういう感動をも提示してくれる作品って、いまあるのかしら。 戦わず、宇宙的思索の獲得を目指す軍隊、王立宇宙軍。パラレル・ワールドでこその存在なのかもしれませんが、憲法9条を持つニッポンが誇るお話だと思うのです。
July 5, 2014
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きのう『闇の国々1』の日記(後編)を書いたら、今日付の夕刊に、BD(バンドデシネ)の代表作品として『闇の国々4』のページが画像で紹介されていました。 記事は、フランスでは国産のBDも読まれているが、若者はニッポンのマンガを好んで読むという内容。その大きな理由の一つは、読みやすさ。中味も形状も刊行ペースもコンパクトな「マンガ」の方が、いろいろと融通が利いて簡単に読めるためだとか。 なるほどね。エンタテイメント小説に従来の長大なものと、新顔のラノベ(ライトノベル)とがあるように、コミックスにもBDとニッポン的マンガがある、ということ。音楽にクラシックとポップスあり、絵画しかり、演劇しかり。幅が広がったことは良いことかもしれません。 私は小説だとラノベはダメなんですが、マンガはかなり「軽く」てもOKです。もちろん、ひとくちにマンガといっても、たとえば「ベルばら」は字で読むところが結構あり時間をくいますが、あだち充の『タッチ』などは学生時代10分で1巻読めてしまうと評判でした。 しかし、10分で読めるから中味がないかというと、字は少なく絵もシンプルだけど、シンプルな中に微妙な表情や気持ちのヒダが読みとれる、あなどりがたい作品だと思いましたっけ。 ラノベも、そういう洗練された作品がひょっとしたら、あるのかしら、私が知らないだけかもしれません。 とりあえず、『闇の国々』の3巻以降は私のところの図書館にはないのです。リクエストしてみようかと思っていますが・・・何とかして読んでみたいですね。
February 28, 2014
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『闇の国々1』の「塔」の主人公が、さえないおじさんから貫禄たっぷりの権力者へと変わってゆくと先日書きましたが、「狂騒のユルビカンド」の主人公、また2巻の「ブリュゼル」の主人公なども、どちらかというと“変なおじさん”です。 しかし、物語の中で偶然・ゆきずり系の出会いをした女性とあっというまにラブラブに。しかも、どのお話でも女性の方から一方的で強引なアタックがあり、次の瞬間ベッドインしている、というありさま(「ユルビカンド」では女性に見捨てられていますが)。恋の成就までの過程をだらだら楽しむことの多い日本読者はビックリです。 さすがフランス人、恋愛感覚がまるでちがう・・・と思いますが、何というか、やっていることの割に女性たちはあまり色っぽくないんですね。本能の赴くままに行動している、という感じ。 それでいて、彼女たちのなんと力強く、生き生きとエネルギッシュで、物事を鋭く見抜いていることでしょう。「ユルビカンド」のソフィは人々に呼びかけて学究肌の主人公を牢から解放させ、権力を握らせようとします。「ブリュゼル」のティナも、主人公を救出し、力づけ、崩壊する都市を一緒に脱出して未来へ向かっています。「塔」のミレナもしかり。 このシリーズがどこまでも描き続ける、砂上の楼閣のような大都市の中で、ともすると論理的袋小路にはまって生命力を失ってしまいそうな男たちの、ほっぺたをひっぱたいて目を覚まさせ、人間性を回復させ、前へ進む原動力を与えているのは、たくましいヒロインたちなのでした。 1巻最後の「傾いた少女」は、主人公が少女なので、他の作品とは趣を異にしています。 メリーは町の有力者の娘ですが、11歳のとき、とつぜん体がまっすぐ立たなくなります。母からは顔をそむけられ、寄宿学校ではいじめられ、居所のないメリーはさまよったあげくサーカスで我が身を見せ物にする羽目に。 このあたり、ありがちな展開ですが、つまりメリーは“他人とは違った自分”であるがゆえに、苦しむのです。体が傾くというのは奇抜な現象ですが、よく考えると、考え方や趣味や感性が“傾いている”つまり他の人と違うことで、いじめられたり悩んだりするのは、社会生活を送る人間(とくに思春期の若い世代)にはよくあるできごとです。 傾かず受け入れられる場所を求めて彼女はある天文学者のもとへ行き、 「メリーは別の惑星の引力の影響を受けているのです。・・・(中略)・・・いわばメリーは場違いな存在…それこそが・・・別の世界の存在をはっきりと表しているのです。あなたが結びついている世界をね、メリー」 「不思議ね。ねえ先生、私もずっとそんなふうに感じていたの。」 ――ブノワ・ペータース作、フランソワ・スクイテン画『闇の国々2』「傾いた少女」古永真一訳 思春期の強烈な自己疎外感。それを、このように表現すると、がぜんファンタジックなにおいがしてきます。天文学者の助力でメリーはロケットに乗って異世界へ旅立ちます。 そして、彼女と魂が引かれあっていたのは、現実世界の孤独な画家でした。写真で構成される、この物語の別の半分は、画家が何かに突き動かされたように荒野へ赴き、廃屋で絵を描き、描くことによってついに世界の壁を越え、メリーに出会います。まさに運命の相手とのめぐりあいです。 おもしろいのは、メリーがその世界の科学の力で到達した場所に、画家は芸術的インスピレーションで到達するところ。そしてそこでは彼女の体はもう傾いていませんでした。 二人の出会いはしかし、すぐに終わってしまいます。二人で何かを成すわけでなく、出会うことだけがお互いの自己確認にとって大切だったようです。 元の世界に還ったメリーは、もう傾きません。一人前の大人となり、父の後をついで大事業を成し遂げた彼女の顔にはまったき自己を得た力と自信と安定感があふれています。 このお話はここで終わっていますが、あとについている「年表」によると、彼女は社会でやるべきことをやって、それから再び世界を超えて旅をするようです。すばらしい生き方、といえるでしょう。(それに比べて画家の方はちょっと情けない感じで、やはり彼も“さえないおじさん”の域を出なかったのかもしれません。)
February 27, 2014
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フランス語圏のコミックス“バンド・デシネ”『闇の国々1』、ついに(古本で)買ってしまいました。図書館で予約したのが去年夏でしたが、どうも本が行方不明になったらしく、年末になって隣市の図書館から回してもらい、ようやく読みました。先に読んだ『闇の国々2』と同様、隅々まで何度も見たくなる本なので、味わい尽くせぬまま返し、改めて予約しようとしたら、もう借りられませんでした。 そんなこんなで、やっと入手した重厚な大冊。「狂騒のユルビカンド」「塔」「傾いた少女」の3話がメインです。 「狂騒の・・・」は、2巻と似て、架空の大都市の物語。都市が舞台というより、都市そのものの話です。 直線的道路や巨大建築による“再開発”が頓挫し分裂ぎみのユルビカンドに、増殖する謎の立方体が出現。人知を超えてどんどん育ち広がり、都市はジャングルジムに覆われたようになります。この天変地異に住民や都市計画家や権力者はどう反応したかという本筋もおもしろいですが、あとについている、後世の学者のいろいろな解釈(架空の)も楽しいです。この育つジャングルジムを「神」とみなす解釈があれば「悪魔」とみなすもの、果ては「電話網だ」というものまであって・・・。 しかし、私ごのみなのは、「塔」です。2巻や「狂騒の・・・」にも世界を俯瞰したり仰ぎ見たりする場面がいくつか出てきますが、「塔」はまさに上下の階層移動の物語なのです。 以前、エレベーターについて話題にしましたが、人間はふつう平面的な移動をするので、エレベーターのような鉛直方向への移動は階層をつきやぶり別世界へ到達するファンタジー的手段なのでした。エレベーターに限らず、たとえば井戸を落ちてゆくアリスとか、階段や急斜面をのぼって行く、翼や気球で舞い上がる、などなど。 「塔」の主人公は頂上も基部も把握できないほど巨大な塔の、ある階層で、見回りと補修を仕事に何十年も孤独に暮らす男(モデルはなんとオーソン・ウェルズ!)。彼は下方からの連絡が途絶えているのにたえかね、ある日塔を下り始めます。途中でグライダーのようなものを自作し、一気に下りるかと思えば風にあおられて上昇したり。最後にロープで吊した箱に乗って下降するところは、まさにエレベーター。ついに出た!とうれしくなりました。 塔の別の階層にたどり着くと、そこは見知らぬ社会が展開しています。どうも上下移動には、タイムマシン的な意味もあるようで、「塔」とは時代が地層のごとく積み重なってできているとも思えます。 そしてまた、人々にとって違う階層(時代)のことを知る手段として「絵」が出てきますが、その一つを見ると、この「塔」は明らかに、ブリューゲルの描いたような「バベルの塔」です。 主人公は最初さえないおじさんですが、冒険をして違う世界を見、出会った人々や書物などから見聞を広げ、塔の頂上や下層部をも見ることによって、次第に人間的にレベルアップしていくようです。最後に塔が崩れた世界において、大出世を遂げた彼の姿が掲げられているのも、うなずけます。世界をいろいろな視点から知ることこそ、大切だったのですね。 やや長くなってきたので、続きは次回。
February 23, 2014
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このごろひそかに人気が出てきている(らしい)、ベーデー(BD=bande dessinée、フランス語の漫画)の代表的作品(らしい)、『闇の国々2』を読みました。 もちろん「1」から読みたかったんですが、図書館で予約をかけてもなぜだか全然借りられないので…。といっても、これは1巻から連続した話ではなく、パラレル・ワールド的なヨーロッパのいろいろな都市を舞台にした、独立したいくつかの作品集です。 表紙は、エッシャーのだまし絵みたいな建築群に、大きすぎる人間。 中を読むと分かりますが、実はこの建築群は「模型」なのでサイズが合わないのです。 このように都市や巨大建築を描く物語では、必ずそれをいろんな視点から見るシーンがありますね。上から眺め渡したり、下から仰ぎ見たり、この表紙のようにサイズちがいで眺めてみたり。それは、ファンタジーの効用である、“ふだんと異なる視点で現実を見る”とか“世界の意匠をかいま見ること”などにつながると思われます。 また、巨大な都市や建物は、現代では人間の卑小さを知らしめる手近なモノとしても有効です: 外灘に立ち並ぶ/高層ビルが/俺たちの戦いを/嘲笑ってるぜ… ――森川久美『南京路に花吹雪2』 それはともかく、この表紙をめくると、まず古地図風の「闇の国々」マップがあり、ファンタジー魂がわくわくしてきます。地名や都市名はどこかで聞いたようなものもあれば、聞いたこともない奇妙なもの、また、明らかに実在の都市を思わせるもの(パーリ、ブリュゼルなど)があります。 「2」には4つの話が載っていますが、レトロ感にあふれた、緻密なイラストがぎっしりです。イラストレーターは、たった一人でキャラクターから背景から全部描いているそうで、きっとものすごいエネルギーが必要だと思われます。 私は日本のコミックスでも、上に挙げた森川久美のように、背景の都市を細部まで描きこむタイプの絵が大好きなのですが、いや、このフランス版コミックスには圧倒されます。1コマ1コマが細密画か設計図のようで、完全にマニアックの域です。モノクロで描かれた光と影の世界もすごいですが、何ともシブい色づかいのオールカラーの作品もあります。 キャラクターも、表情豊かで真に迫り、質感たっぷり。登場人物の外見や表情を単純化することで絵に語らせる、日本のコミックスやアニメの典型的な描き方とはまた違った魅力ですね。 話し手と描き手のコンビで別世界を描き出すというと、ロード・ダンセイニと画家シームを思い出します。彼らが中世風の大人びたおとぎ話をつむいだのに対し、こちらは前世紀の近未来SF、といった趣です。実際、本国で発表されたのは1980年代~です。 ストーリーは、理知的に良くできた悪夢、またはグリム童話的な残酷さを思わせるもので(作者はグリム童話が大好きだったそうです)、これがヨーロッパ的な“人間の根底にある不安や恐怖”なのかなと思います。 たとえば第1話。辺境都市サマリスでは、主人公が出会う住民も建物もみな幻やハリボテで、都市そのものが食虫植物のごとく周りを侵食しながら幻影を生み出しています。主人公と同様、読者も、現実と思ったモノがつくりもの(幻想)だったという驚愕と恐怖にじわじわと侵食されていき、しまいには自分は何者で今はいつでここはどこなのか、という、自己の存在の根源をゆるがされてしまいます。 これはたとえば、自分は夢でチョウチョになったのか今の自分がチョウチョの夢なのか、と思った荘周が、「どちらにせよ私は私だから大丈夫」と納得する東洋の考え方とは、だいぶ違います。 第2話でもヨーロッパ的不安は続きますが、都市の地下に巨大な電気回路?が埋まっているという幻想?がでてきたときには、井辻明美の描く「風街」の広場の地下でみずから脈打つ水道管(地震を起こしたりする)を思い出しました(『風街物語』)。 ここでも、風街の水道管が不気味ながらもどこか愛嬌があり住民に親しまれているのに対し、闇のパーリ(パリ)の地下にある電線は、主人公に頭痛と恐怖を与えます。 第3話と第4話は、途中はかなり不気味ですが、結末に救いがあるというか、希望のある終わり方をしているので、ファンタジー的にはほっとします。私はやはり、落ち着くところに落ち着く話が好きですね。 ともあれ、何度も見返して絵の細部まで堪能したい作品なのですが、大きく分厚いうえにお値段も張り、購入するのは勇気が要りそう。でもって、もう4巻まで出ているらしいのです!
December 9, 2013
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やっと続刊が出たと思ったら、完結ですって。星香版「魔法使いの弟子」、『ロビン 風の都の師弟 3巻』です。 前の巻までで、戦の予兆とか、実は悪者らしい竪琴弾きとか、シェンドラ女王(王妃)をめぐるあれこれとか、いろいろ展開しそうなネタがあって期待していたのですが、何だかパタパタっと主線だけ進んで物語が終わっちゃいました。 中山星香の作品にはよくあるんですが、結末の収束がとてもスピーディー。それまでは割と日常を描きこんだり、いろいろエピソードが出てきたりするのに、最後になると余分な説明とかタメとかなしに、急転直下にパッと終わるのです。 もちろん、だらだら長い結末部というのはインパクトが弱まるときもあるので、「決め」が出たらあとのあれこれは読者の想像に任せてさっと幕を下ろす、というのは星香さんの特徴なのでしょう。 ・・・なのでしょうが、「足りない! もしかして、連載やページ数の都合では?」といつも感じるのは私だけでしょうか。 今回の場合、アルトディアスの王城をおびやかす陰謀・呪いを、ロビンが師匠の魔法使いとともに見事に阻止するのが主線のストーリーで、彼が物語の最初からずっとかかえていた魔法の課題「空(くう)から水(をよび出す)」を「決め」として使うのがクライマックスといえましょう。 しかし、その後、悪のおおもとをローラント王が瞬殺し、その同じ見開きページでジ・エンドとなりました。 辺境からの使者の姫が殺されて戦が起こりかけたのは、どうおさまったのでしょう。 王妃はロビンの素性を調査していたのか、どこまで知っていたのか、彼を義弟としてどう迎えたのか。 悪を城内に持ちこんだ竪琴弾きの正体はどんなだったのか(怪物の蛇が出てきましたが、彼は蛇そのものだったのか?)、などなどいろいろなことが解明されないままです。 もちろん、推察できるものもあります。ニセの世継ぎアリスト少年は、年長の王女とケンカばかりしていますが、根っこは悪人ではなく、終わりのページの アリストは・・・ロリマーの城で育つことになったの一文によって、将来王女と結婚するのではないかと予想することができます。 にしても、アリスト少年は結局だれだったのでしょう。素性はまったく分からずじまい。悪い竪琴弾きに利用されたただの少年なら、もし王女と結婚しても、少なくともアルトディアスの世継にはなれませんね。 ではアルトディアスの世継ぎは誰になるのでしょう。ここで「シェンドラ王妃は多産」という悪者のセリフなどから私が希望的に推測するに、王妃と王はようやく仲直りしたのですから、そのうち王子が誕生するんじゃないでしょうか。 もちろん、王女が二人いますからそれぞれ将来アルトディアスとロリマーの女王になってもいいんですが。 ・・・などと、読者は勝手にいろいろ考えてしまいます。もしかして、そういう楽しみを読者に提供してくれるのも、星香作品の良いところ!?
June 16, 2013
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先日、最新刊(38巻)が出ました。「聖ヨハネの帰還」がまだまだ続いているので、どんどん出ます。 最近のシリーズは一つがかなり長くてストーリーも複雑。でも、少佐も伯爵も、いいえ脇役のみなさん全員、タフでくじけません。読み手としても、満載された知識やウンチクを頑張って頭に入れつつ、彼らの変わらぬ行動パターンに笑ったりなごんだり大いそがしで、それはそれは読み応え十分ですね。 そのほか、私がこのシリーズを愛読し続けている理由には、殺伐とした軍事機密やテロリストなんかもよく出てくるのに、“殺人”がほとんどないこともあります。むかしは少佐も負傷したり(トルコでほらガレキに埋もれかけていましたよね)しましたが、最近はけが人もほとんど出ません。人殺しのキライな私(なんと言っても恐がりなので)でも、安心して読めます。 まずコロシから始まるミステリーやスパイ物も多いでしょうに、やはり「エロイカ」は◎です
September 25, 2011
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放射能で汚れた土にヒマワリや菜の花を植えて土壌を改良しようという「実験」のことが、近頃よく報道されています。ヒマワリを育てる活動もいろいろ始まっているらしいのですが、そこでやっぱり思い出すのが「風の谷のナウシカ」ですよねえ。 ちょっと検索してみただけで、すでにたくさんの人が、ナウシカの世界を連想したというコメントを発しているのが分かります。私も、今回の事故による土壌汚染のニュースを見るたびに、島本須美のナウシカの声で 汚れているのは土なんです。なぜ、誰が世界をこんなふうにしてしまったのでしょう --宮崎駿「風の谷のナウシカ」劇場アニメ版というセリフが聞こえてくる気がしています。 ちなみに、コミックス版(原作)では後半のセリフはありません(別のセリフになっています)。 米ソ冷戦のあの頃(ナウシカの映画当時)、SF界では“核戦争後の地球”が多く語られていました。ナウシカ世界の設定にある「火の七日間」という戦争もそんな感じです。しかし、冷戦構造が崩壊した今世紀となっても、フクシマの事故は“核の冬”の可能性が薄れたわけではないことを示しているようです。 そして、一度汚された自然が回復するのが、どんなに困難かということも。 ナウシカ世界では、「火の七日間」で「有害物質」が地上に蔓延したのち、腐海の菌類が汚染された土を「浄化」してくれるのですが、それだって百年、千年単位の時間がかかっています。 それでもナウシカの菌類は「有害物質」を無毒化しますが、現実のヒマワリや菜の花は放射性物質を吸収はするのかもしれませんが、なくしてくれるわけではないのですよね。育てたヒマワリがやがて枯れたら、その放射能を含んだヒマワリの残骸をどうするのでしょうか。その処理方法や保管方法は考えてあるのかしら。 などと、どこまでも不安はつきません。 ナウシカの原作では、結局のところ「火の七日間」で文明を破壊した「巨神兵」を創ったのは文明の主である人類だったし、土を浄化する菌類を創ったのも汚染した本人である人類だった、ということになっています。 当時はまた、バイオテクノロジーという言葉がはやって、遺伝子操作などにより人類があらたな生物を創り出すことをテーマにした作品が多く出た時代でもありました(以前コメントした『アド・バード』とか)。 個人的には、腐海の菌類が人工物だったという種明かしはあまり好きではないのですが、それより気になるのは、ナウシカが世に出てから30年たった今、放射能汚染土の浄化にヒマワリだの菜の花だのに頼らなければならない科学技術の貧弱さです。 破壊兵器や経済効果ばかり追求してきた結果、地震・津波という“自然”にやられた原発に水をかけて冷やし、汚れた土はけずりとるだのヒマワリ畑を作るだの、そんな原始的な対処法しかないなんて、科学の発展って何だったんでしょうかねえ。ナウシカ世界の人類の方がまだマシな気もします。 ナウシカ(原作)については、哲学的な読み方がいろいろでき、深みにはまるとキリがないようです。 今はただ、ナウシカ的すなおで直感的な心を回復したいものだと思います。
June 21, 2011
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震災からもう2ヶ月近くになるのですが、相変わらずニュースはそればかりだし(ビン・ラディン殺害とか、他のニュースも穏やかでなくて)、何となく気が晴れぬまま新学期のばたばたした日々を送っていました。 関西の日常はほぼ例年どおりなんですが、「こんなに平穏でいいのか?」とか「この日常も一瞬で崩れ去る可能性があるんだなあ」とか、つい感じてしまいがちな私です。 たしか震災直前まで、西行法師の本を読んでいたんですが、なんだか気分がのらなくなってやめてしまいました。その本によると西行ってひたすら自分の心の問題にとりくんでいて、周りの騒ぎ(戦乱)なんかどうでもいい感があるんですよね。 霧島の噴火による大災害をシュミレートした『死都日本』も、ようやく図書館で予約がとれたのに、事実は小説よりもナントヤラなので、今はちょっと読む気がしないです。 で、やっぱりこういう時にはなじみの本。佐藤史生の二つの長編『ワン・ゼロ』と『夢見る惑星』です。もうこのブログにも何度も登場させていますが、コンピュータとインド神話がらみの宗教的近未来SFと、地殻変動による大災害を前にした太古の人類のファンタジーです。 どちらの話も、世間がこのように騒がしく恐ろしい時、それに対してどんな心持ちで居ればよいかを教えてくれるような気がするんですね。 たとえば、大災害を暗示するエル・ライジアの言葉; 人びとが救いを求めて神殿の階段をかけのぼってくる… その時 百万の美も千万の富ももはやチリにひとしい そういう時がこないとはだれにも言えない ということです わたしは恐ろしい その時すがるものを持たぬ魂が どれほど悲痛な叫びをあげるかと ――佐藤史生『夢見る惑星』 このセリフはなぜか、物語最後で実際に起こる大災害の描写よりも、ずっと強烈に私の中に記憶されていて、3月11日以来なんども頭の中に浮かんできます。 それから、人知を越える「自然」の力のすさまじさについては、“神”と戦い敗れつづける“魔”たちに向かっての都祈雄のセリフ; 「“神”の力は無限だからな 遍在する万物の因(みなもと)に由来するのさ」 「無尽の力の前に何ができよう?」 「人間は雨風を防ぐ家を建て 子どもを育てるじゃないか」 「雨風もまた無尽…か よかろう 我々は力の残っている限り御身らの招請に応えよう」 ――佐藤史生『ワン・ゼロ』 これも、最近よく思い出される言葉なんです。生きるということに必死になっている避難所の方々のニュースをみたり読んだりするときなんかに。 コミックスですから絵もすばらしいんですが、限られたスペースにこめられた言葉のひとつひとつが、金言のように心に残っています。余震のニュースに落ち着かない夜なんかに、本棚から引っ張り出して読んでいました。 そういえば、阪神淡路大震災の時にも『夢見る惑星』を、オウム真理教の事件の時には『ワン・ゼロ』を、何度も読み返したものでした。 世間が不穏なときに読みたい本。自分の中にそんなジャンルもあるんだなと、再認識したこの2月間でした。
May 5, 2011
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巷で人気のコミック&超訳百人一首『うた恋い。』を買ってしまいました。 以前、ちびまる子ちゃんの俳句や短歌の本を娘に買ったので、百人一首もそのうち買おうかなあなんて思っていましたが、私のシュミで断然こちらを買ってしまいました。 表紙は在原業平なんですが、装束はともかくとっても現代風にアレンジされたお姿で、生粋の古典ファンなら眉をひそめそうです。おまけに、歌にまつわるエピソードは「えっホント?」みたいなものも。 でも、歴史上の人物って自力ではなかなかイメージしにくいものがあって、現代風の小説やコミック、あるいは時代劇なんかで親しむ方が親近感をもちやすいのも事実。 たとえば私は中学生ぐらいのころ「つくばねのみねよりおつるみなのがわ~ こひぞつもりてふちとなりぬる」という陽成天皇の歌が好きでした(意味が分かりやすいからデス)。が、陽成天皇のことをちょっと調べると、何だか奇矯なふるまい多しで若くして退位させられた人、ということで、その人がなぜこんな素直で分かりやすい歌を詠んだのか、ずーっと不思議でした。 このコミックを読むと、それなりの心温まるストーリーがついていて、なるほど!と初めて納得。あらためてこの歌が好きになりました。 と、そんなふうに、どのエピソードもすごくツボをついていて、読んでいるだけで心がオトメに若返ります。 続刊も買うと思います、たぶん。 小5の娘にすすめるには、ちょっと早いかなあ・・・と思いつつ。
April 18, 2011
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某コミック専門書店の平台に積んであった画集『竜の夢その他の夢』の表紙絵(『夢見る惑星』の主人公イリス)に一目惚れしたのがきっかけで、佐藤史生のファンになった私です。 ただ…、『夢見る惑星』は古代が舞台だからまだいいとして、『ワン・ゼロ』は近未来が舞台だからまだいいとして、「阿呆船」は酔いそうだったし、「羅陵王」に至っては分かりそうで分からない消化不良な感じで、どうも私の手に余る難解さ(どちらも『天界の城』に収録されています)。 訃報を知って(『夢見る惑星』と『ワン・ゼロ』については以前語ったので)、何か短編についてでも感想を書こうと思っていたのですが、読み返してもいまだに私にはつかみがたい作品ばかりです。 何と言っても、ちりばめられた言葉が、ハイレベルですね。SF用語だけでなく、読んでいてポンポンと出てくる古風で新鮮な言葉、たとえば「カーゴ・カルト」とか「祈年(としごい)祭」、「(緑斑病が)しょうけつした」とか、「錯綜したタピスリ」、「一種の高等禁治産者」なんていうのが、物語に重層的なイメージを加えています。 で、そんな言葉にいちいちうっとりしたり、深~い奥を知りたくなったりします。 たとえば、「ムーン・チャイルド」にちらっと出てくる「タピスリ」というのは何、「タペストリー」じゃないのか? と思って調べると、「タピスリ」はフランス語なんですね。じゃ何でフランス語なのか? この話の舞台はえーと、未来の東京と月世界だった、でもヒロインの名前はイネスってスペイン語系なんだけど。確かに、「タベストリー」は使い古された感があるのに対して、「タピスリ」はちょっと新鮮な感じがするかも。で、もう一度調べると、英語の「タペストリー」はもともとフランス語の「タピスリ」から出来た言葉で、実は「タピスリ」の方が新鮮どころか、古いのだった・・・ さらに、「タピスリ」(つづれ織り)という言葉は『ワン・ゼロ』に出てくる「曼陀羅」と共通するイメージを持っていて、ああこれは作者の好きなイメージだ、と気づきます。 佐藤史生の使う言葉は、一つ一つどうもこんなふうに何かを主張しるように私には思え、とっても気になってしまうのです。 が、そんなことをしていると物語全体が何だか混沌としてきて、結局、どんな話なんだっけ?とぼんやりしてしまう私でした。 そんな不可思議で魅力的な言葉&洗練された絵で構築された佐藤史生ワールドがもう生まれてこないというのは、寂しい限りです。 遅ればせながら、ご冥福をお祈りします。
June 15, 2010
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超(長)大作『妖精国の騎士』に続く時代のファンタジー、やっと第2巻です。作者のメモに「あり得ないほど仕上がらない」とありましたが、本当に、中山星香さんにしてはとってもスローペースな『ロビン』なのでした。 70年代からすでにおなじみの魔法使い、7代目アーサー・ロビン(『ロビン』の主人公とは別人)以来、星香さんの描くピカ一な魔法使いは、性格がとても謙虚で無欲。優等生というよりテンネンで、自分の才能のすごさを自覚していません。それで、自身の魔力をコントロールできなくていつも困るのですが、それは他人に迷惑をかけるというより、自分が力尽きてバッタリ倒れちゃう系なので、憎めません。 『ロビン』の主人公ロビン・プアルは、そんなオーソドックスな星香流の性格に、出生の暗い秘密としいたげられた幼年時代というのが、(アーサー・ロビンにはない)影を落としてます。おまけに周囲をかためているのが、キラ星のように輝かしい『妖精国の騎士』時代のキャラクターなので、何だかとても肩身がせまそうで、気の毒です。それでも卑屈にならないけなげさが、これまた星香さん流。 それはそうと、キラ星に囲まれて、卑屈にならないかわりにつっぱってしまっているのが、“性格の悪い”王妃シェンドラです。『妖精国』時代から、星香キャラには珍しく、最後までつっぱっていましたが、そのひねくれぶりは幸せな結婚をして王妃となった今も健在で、善人ずくめのキラ星たちの中で異彩を放っています。 私は自己憐憫と妬みに縛られた鼻持ちならない王女だったわ ――中山星香『ロビン』と自分で言い切る彼女は、愛らしい王女たちやその世話係をいつもしかりつける母親でもあります: 子供たちに時間は守らせなさいと何回言えば分かるの あなたが甘やかすからいくら叱ってもあの子は変わらなかった “みんないい人”であるアルトディアス側の人々の中で、こんなセリフは目立って悪く聞こえるのですが、実は、世の母親(私も含めて)がふだんよく言いそうな、きわめて自然なセリフなんですね。 だから私はむかしからシェンドラがかなり大好きなのですが、今回、主人公のロビンに負けず劣らずヘヴィーな試練にあうみたいで、とても気がかりです。といって、もちろん星香さんだからハッピー・エンドなんでしょうけど。
June 3, 2010
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娘の小学校が卒業式でお休みだったので、先日、播州赤穂に1泊して来ました。 赤穂といえば赤穂浪士、そして塩。むかしの塩田あとが広大な公園になっていて、遊園地や池や広場、パターゴルフに動物ふれあいランドなどがあります。平日に行ったら、お客はほぼ私たちだけでした(経営は大丈夫だろうか)。 娘は赤穂浪士とか忠臣蔵とかもちろんちっとも知らないので、あらすじを教えたところ、「ふーん、みんな死んじゃうんだね。何でそんなに死んじゃうんだろう?」・・・確かに。 それでふと思い出したのが、 武士道とは死ぬ事と見つけたり! たとえ何がどーあろーと斬ると言えば斬る! そーゆーものです サムライは ――川原泉『美貌の果実』より「架空の森」 剣道の道場の娘・苑生(そのお)さんと武士道ごっこに明け暮れる、日米ハーフの少年織人(おりと)くんが、殺し屋に今にも刺されそうになった時の名セリフです。 この2人は「赤穂浪士ごっこ」も定番のチャンバラ遊びとしてやっていて、じゃんけんで負けた方が吉良になるのでした。 サムライ魂を持ち、古風でいさぎよい苑生さんのりりしいこと。しかし、彼女が殺し屋から救った織人がアメリカに去ると、やがて養い親の祖父母も他界し、苑生さんはたった一人、道場と家に残されます。殺し屋が出てきてもコミカルな前半とうってかわって、シビアな後半。親戚に勧められてお見合いをすることになりますが、ここで一度だけ、苑生さんはプツンと“切れ”ます。お見合いの場に、ゴジラ(?)の着ぐるみで現れるのです。もちろんお見合いは台無し、親戚のおじさんは激怒します。 私の一世一代のユーモアだったのだが・・・とつぶやく苑生さんですが、その実、ユーモアというより、俗な世間に対する彼女の一世一代の“抵抗”のようにも思えます。 最後にはすっかりアメリカ人顔の大人になった織人くんが戻ってきて、ゴジラの苑生さんと仲良く歩く「架空の世界のような」場面で終わります。お定まりのハッピーエンドなんですが、この物語を読んだ若い頃の私には、自分の恋愛観とか人生観とかを考え直させられたりして、涙のこぼれる結末でした。 赤穂からの連想でふと読み返して、やっぱりじーんと来るのは、さすが川原教授の傑作といえましょう。
March 21, 2010
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新刊が出ていたのに気づかず、友人の指摘でやっと買いました。いつもながら美しい伯爵とりりしい少佐の元気なストーリー、読むと若返って元気が出ます。長年の連載ともなると、どうしてもキャラクターの顔なんか変化しちゃったりしますが、最近の『エロイカより愛をこめて』はむかしのタッチに戻ってきているみたいで、新しいのに懐かしい。 36巻の舞台はイタリア。ローマ、(マルタ島)、フィレンツェ、ベネチアなど、海外旅行気分で楽しめます。相変わらず各地の名所案内から美術・宗教史、最新のヨーロッパ事情まで、知識満載。 特に今回私の興味をひいたのは、少佐がマルタ島の飛行場で乗りこむ飛行機です。 「RYANAIR」というロゴとハープのマークが描かれています。 部下A:マルタからはこれだけがベネチア直行便です ・・・ バックパッカーだらけですけど我慢して下さい 少佐:・・・徹底した経費削減でサービス最低の格安航空会社でも構わんぞ 部下A:・・・数十ユーロの激安ですよ さすが旧来の大手に張る経営規模の格安トップです 少佐:フランクフルト路線と称して120キロも離れたマイナー空港を拠点(ハブ)にするなどこの会社はよく問題を起こすぞ 英国系だ 部下A:アイルランドです ――青池保子『エロイカより愛をこめて』36巻 なんと私はこのRYANAIRの飛行機を、かれこれ15年近く前にダブリンで見かけて写真(右)にとったことがあったのです。 アイルランドのシンボルマーク(ギネスビールの缶にもついている)、アイリッシュハープを尾翼につけた飛行機がめずらしくて、(私が乗ったのは別の航空会社でしたが)写真に撮ったのでした。 アイルランド旅行に興味のある方はこちら そのRYANAIRに、『エロイカ』で再会しようとは、ちょっと感動です。36巻ではこのあと少佐は格安航空談義を始めて、どうもRYANAIRはバカにされている感じではありますが、ヨーロッパ統合と経済危機を経て、まだハープのマークの小さな飛行機が頑張って飛んでいるんだなあ、と思いました。 同じ旅行の帰路、関空で写真に納めた超音速旅客機コンコルドは、もう亡いのですから・・・ ところで『エロイカ』の舞台はヨーロッパ各地に及んでいますが、作者のお気に入りがあるらしく、アイルランドは未踏です。一度行ってみてほしいな、などとさらに思い入れを深めつつ、楽しく読み終えたのでした。ストーリーの方はビザンチンの宗教美術を求めてなお続いているようです。
February 26, 2010
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長い長い連載の末やっと終わった『妖精国の騎士』ですが、その続編『ロビン風の都の師弟』が早くも登場。さすがに「プリンセス」ではなく、新進のコミック雑誌の連載(最近雑誌は読まないのでよく知りませんが)。 中山星香の“三剣”物語群は作者が若い頃からあたためてきたものだけあって、異世界の舞台設定がしっかりしているので、ドンドン続編が作れちゃうんですね。 2月発売だったのを見落としていて、先日やっと入手したら、すでに第2刷でした。すごーい! で、『妖精国』終了の数年後の設定で物語が再スタート。ローゼリィとアーサーは出てこないけれど、その他の登場人物たちは健在らしく、またあの世界が楽しめるのが嬉しいです。ですが、どうかあれほど長い連載にはなりませんように。もう若くない私のような読者は気力が続かないし、買いそろえるのが大変! さて、『妖精国』後日談『Ballad』で結婚したローラントとシェンドラは、予想通り喧嘩していました。前にも書きましたが、シェンドラはロリマーの女王でローラントと対等の立場ですし、性格が気むずかしいですから、そういう相手すらも愛してゆけるローラントの純粋さ、器の大きさが改めて示されていると思います。単なる幸せなカップルにしないところが、面白いですね。 再登場した他の登場人物たちはあまり変わっていないのですが、シリルだけはびっくり仰天。丸顔の子供だったのがすっかり美青年になっていて・・・ さて、主人公のロビンは、後に白の塔の長を継ぐ魔法使いになるんだと思いますが、今のところ控えめなだけで性格がいまいちはっきりしません。周囲の強烈なキャラクターにおされてかすんでいる感じ。次巻以降の活躍を期待します。
March 28, 2009
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話題の映画「おくりびと」の紹介やあらすじを見ていたら、昔のコミックスを思い出して再読してみました。と言っても全3巻のうち2巻までしか持っていないのですが、めるへんめーかー『夢狩人』です。 めるへんめーかーは、中山星香のお友達らしく、彼女のコミックスに付録として載っている旅行記などにも登場します。とても繊細でアースカラーで、英国調の絵は、私ごのみなんですが、ストーリーが簡単で短いものが多く、中山星香のような豪華絢爛・波瀾万丈のファンタジーとはだいぶ趣が違います。 ところが『夢狩人』は珍しく長編の異世界ファンタジーで、しかもコミカルさや可愛らしさが少ないのです。時にはかなりシビアで残酷で大人っぽいところも、この作者にしては異色。 タイトルの“夢狩人”(夢使い)は、生命の尽きようとする人を安らかに死出の旅へたたせるために、美しい夢や懐かしい光景をつむぎだしてその人を送り出す、一種の魔法使いです。主人公はその夢使いのタマゴである若者レヴィン。ヒロインは「谷の魔女」の生き残りとして常人より長い年月を生きる夢使い。 人間はそんなに/強くない 少しくらい/ささえになるものが/あってもよかろう せめて/死ぬ時ぐらい/安らかに笑って/向こう側へ/送ってやりたい… ――『夢狩人』 主人公の仕事がそんな「おくりびと」ですから、各章しょっちゅう、死の場面が描かれます。老いて死んでゆく人、毒蛇にかまれた姫君、森の老木の精・・・ 繊細でメルヘンな少女漫画(しかもファンタジー)に、こんなに死の場面が次々出てくるのは、なかなかヘヴィーだと思うのですが、あくまでも繊細でメルヘンに、しかし真っ向から死出の旅路を描いています。 やがてレヴィンは魔法を学びにエルカヴァラートへ旅立って、陽気な歌人シスキンと道連れになり、ようやく明るいストーリー展開かな、と思うと、エルカヴァラートが滅びていたり、シスキンがその領主の息子の生き残りだったりして、やっぱりどこまでも影のある物語が続きます。 もう絶版になっているようですが、今さらのように3巻が読みたい私でした。
February 24, 2009
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観てきました~! 今年の大晦日映画鑑賞は、今さらの「ポニョ」です。 すでにいろいろとレビューを読んでいましたが、ひとくちで言って、「そんなに色々言わなくても、いつもの宮崎駿さん。ナゾだらけだけど、これでいいんじゃない?」と思える、素直に楽しい映画でした。 ポニョは思っていたよりずっといい子で可愛かったです。魚のポニョも、人面魚(これがちょっとグロテスクということでしたが)のポニョも、女の子になったポニョも、幼児としてとても自然体で愛らしいです。宗介が好きになるのも、うなずけます。 5歳だから、「トトロ」に出てくる「めい」とほぼ同類。この年齢の子供の表情、言動をよくとらえていると思います。手加減無しの元気いっぱいの動作や、気に入らない人にはぴゅーっと水をぶっかけちゃうところ、時々見せるヘンな顔、糸が切れたように眠りこんじゃったりするさまに、ちょっと退いてしまう人は、たぶん幼児と接したことが余りない人じゃないかしら。 過激、とか、気味の悪いイメージ(古代魚や地球滅亡などなど)という感想も聞いたので、コワイ展開だったらどうしようと思いましたが、ワタシ的には全然大丈夫でした。子供の物語だからこそ、原初的なイメージはむきだしのまま描かれているのです。それは昔話や民話に恐ろしいもの・気味悪いものという要素が入っているのと同じ。必要以上に奇をてらったようなところはなかったと思います。 子供のころ初めて海へ行って、寄せひく波を見たとき、寄せては返すその力強さがどこからくるのか、不思議に思ったり怖がったりしたことがある・・・、そんな人は、宗介を追いかけ襲いかかる、目のある無気味な黒い波の、人知を超えたエネルギーをすでに知っていると思います。 嵐の晩の自然の暴威も、町が(世界が)水に覆いつくされる、あの恐怖と背中合わせになった圧倒的な解放感のようなものも、人はどこかですでに知っているはずです・・・たとえば、大洪水とノアの方舟。たとえば、海にのまれたアトランティスの伝説。 あるいはまた、不老不死の竜宮城(映画の中でも言及されていました)とか、わだつみの神の宮のような、海にある別世界のことも、日本人はよく知っているはずでした。 この映画は、忘れかけていたそんなこんなを思い出させてくれます。 現代の身近な海は、ポニョの映画に描かれるように、ゴミだらけでひっきりなしに船が行き交い、かなり危機的状況にあります。エネルギーの権化のように元気のよいポニョが、空き瓶にはまって動けず失神しかけている、まさにその状態。 ポニョは宗介によって瓶から救出された後も、たびたびあっけなく仮死状態?に陥ります。魚が無理して陸にあがっているから当然なのかもしれませんが、そのたびに宗介は青くなって、いっしょうけんめいポニョを介抱するのです(水道水につけたりするんですけどね)。 それは、海(自然=地球環境)そのものが、そんなにももろく、危なっかしい状態にあり、何とかしなきゃいけない人間(宗介)は無謀で無知すぎる、ということを暗示しているかのようです。 けれど、それでも海は、人知を超えた太初のエネルギーを秘めています。皮肉なことに、それを集めているのは人間をやめた魔法使い?フジモト(ポニョの父)ですが。 ところで、このフジモトの役回りがちょっと練り足りないというか、三枚目なダメおやじに創り切れていないと感じられました。それに、海の女神様も、あまりにもありがちな絶世の美女すぎて、三文芝居のハリボテみたいに、他から乖離しています。キレイだけど、神秘的で畏怖すべき、あるいは超越した感じが出ていません。 そんな風に思って見ると、登場人物すべてが、つっこみ足りないような気がします。宗介の母は、無謀運転をしたり息子を放って職場である老人ホームに行っちゃったり、破天荒な行動をとる割には、最後はいいお母さんになって女神様と語り合っているし。お父さんはまったく印象が薄いです。たとえどんなに少ない出番でも、一発、印象に残る言動をしてほしかったかも。 ・・・これらのことを、熟練した宮崎監督が分かっていないはずはないと思うので、多分、全部わざと、そこまで描かずに筆を止めているような気がします。説明不足の部分も、イメージとして描き足りない部分も、すべてそのままに。いつも、そうなんですよねー。 そこで観る方も、そんな部分はそのまま放っておいて、宮崎氏が思いっきり描いている部分を思いっきり楽しむのがよいと思います。 ポニョが生命の水?のある扉を開け放ったことで、津波が押し寄せ、町は水面下に沈んでしまいます。その迫力のすさまじさは、一種爽快で、血の沸き立つような解放感にあふれ、そりゃあ現実に起こったら文明社会には大災害でしょうけれど、だからこそ、アニメの世界で思いっきりやってくれて、嬉しいですね。 実在感を持って盛りあがり、迫り来る黒い波(恩田陸の小説や天沢退二郎『光車よまわれ!』に似たようなのありました)。宗介を追い、生きた波の上を奔馬のように駆けるポニョ。このシーンが私にはいちばん圧巻でした。 あるいは、家のきわまで海が押し寄せ、自分が船長になって出帆する夢(「リトル・ニモ」という映画で寝ていたベッドが海に浮き、船になって出帆するシーンがありました)。 そして、水没した道路を奇怪な古代魚が悠々と泳ぎ回る、その生き生きとしたすばらしさ。人間たちも、大漁旗をおしたて、手こぎボートで力を合わせてちゃんと生き延びています。 今回、珍しく空を飛ばなかった宮崎監督の、海への思いを、十分に感じさせてくれる作品でした。
December 31, 2008
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ちょっと忙しくて、重い本が読めない今日この頃。上巻読んで下巻買う暇がなかったりー、図書館で借りたのに期限切れになったりー・・・ ところが先日、久しぶりに、コミックスに於ける私の師匠ともいうべき旧友Nさんに会った折り、ふと「のだめ読みたいんだけど」とつぶやいたら、2日後には段ボール詰めされた21冊の『のだめカンタービレ』がどーん!と配達されて来ました。ありがとうNさん で、さっそく毎晩、のだめです。いや~、楽しい 久しぶりに笑えるコミックスと出会えました(世間より何年遅れ?)。 このブログの守備範囲であるファンタジーとはちょっと違うかもだけれど、のだめちゃんの天才的才能自体がすでにファンタジーな域かもしれないです。ちなみに私はのだめと同じ5歳からピアノ習って高3まで割と真剣に習っていましたが、どうにも才能ナッシングで結局やめちゃったという経験があります だから、のだめがますますファンタジーに思えるのかもしれません。 のだめと千秋くんのコンビは、性格がまったく正反対で、だから最初全然恋愛ぽくなくて、でもお互い補完しあうというか、相手を必要とし合っているみたいなところが、以前書きました『トッペンカムデンへようこそ』の破天荒王女&有能魔法使いのペアに似ている気がして、面白いです。 いつもキッチリ理性的な千秋くんが、酔っぱらったりしてコワレた時だけ、ふだんコワレているのだめが食事(おニギリ)やお風呂の世話をしたりしてマトモさを発揮するのも、何だか『トッペンカムデン』(魔法使いが魔法を使えなくなる時だけ、王女が魔法を使う!)を思い出させます。 恋愛から始まったんじゃなくて、光と影、プラスとマイナスみたいに互いになくてはならない存在・・・ってところから始まった結びつきは、強いですね。その強さが最初から感じられるから、安心して読めます(そのかわり恋愛関係はなかなか発展しなくてもどかしいけど)。 次はDVDを観てみたいから、誰か貸してくれないかな~
November 20, 2008
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どこにも出かけない夏休み後半、暇なのでなつかしのアニメを子どもと一緒に観ることにしました。まず、こんな時でないとお蔵から出さない「銀河鉄道の夜」(ますむらひろし)を観ましたら、「暗い~ コワイ~」と、(特に下の子は)かなり後味が悪かった様子。 実は宮沢賢治を先に観たのは、意図的でして、数日後、「よーしそれなら次はコレ!」とばかりに、最近入手したDVD、『銀河鉄道999(劇場版)』を観ました。 いや、ホントになつかしい。私は小学生の頃、TVのチャンネル権がまったくなかったので、TV版の「999」は観られなかったのです。映画も行かせてもらえず、こっそり劇場版の本を買って、そこに載っているセリフはほとんど暗記していたかも(今はだいぶ忘れてます)。それほど、松本零士の描く星空と“男のロマン”が大好きでした。 今回、SFやヒーローアニメを全然うけつけない長男でも、「999」はちゃんとストーリーが分かったみたいで、ホッとしました。 SFアニメ入門編としての「999」の良さは、まず難しいメカが出ないところ。SLが高架の線路から空へ昇ってゆくのが、幼い子どもの夢そのものですよね。 それから、登場人物が少ない。その少ないキャラが、主義主張を簡潔にきちんと語り、テーマがはっきりわかる。テンポのよいストーリー展開が楽しいので、主義主張ばかりが目立つこともなく、押しつけがましくない。 私はキカイには弱いし、こわがりな子どもだったので、戦闘シーンが少なく、叙情的なところが気に入っていました。「ヤマト」にしろ「ガンダム」にしろ、戦闘シーンが長く続くと、飽きるか、怖くなるかだったんです。今、親の立場になっても、やはり戦闘・破壊ばっかりのアニメや映画はあまり見せたくないですね。 でも、もちろん「999」にも要所要所には戦う場面もある。男のロマンにはどうしても戦いが必要なんでしょうし、人生においてもたぶん象徴的な“戦い”は避けて通れない。 ただ「999」の場合、それがカッコよく短時間でキマるところが良いんですね。戦いそのものを追求するのではなく、あくまで手段としての戦い。だから劇場版の鉄郎は、修業も練習もせず、「戦士の銃」を手にした時からいきなりヒーローになってしまうけど、それでいい、と私は思います。 そして、破壊を上回る美しさ?があるところも◎。たとえば惑星メーテル破壊のあと、ぱあっと広がった静かな星の海の映像に、「キレイ・・・」とわが家の子どもたちは思わず声をあげておりました。松本零士の宇宙は、写真よりもCGよりもなぜかとってもキレイですね。 さらに、あらためて感動したのは、ナレーションです。さすが城達也さま!(彼がDJだったFM大阪の深夜ラジオ番組「クロス・オーバー・イレブン」も好きでした)。 単に物語の説明ではなく、大人である作者が過ぎ去った少年の日をかえりみてノスタルジックにコメントするというかたちのナレーションは、子ども時代には「ふーん、そんなものかな」でしたけど、いい年になった今、「さらば、少年の日よ・・・」なんて耳にすると、じーんとします。 そして、子どもの頃は単に「鉄郎の初恋の人」だと理解していたメーテルが、母親的なまなざしで鉄郎を見ている場面やセリフが結構あるのに今回、気づきました。「男の子が一生に一度むかえる旅立ちの日ね」などと、何だかすごく共感してしまいます。 「999」にはコミック版や最近でもまだまだいろんなストーリーがいっぱいあって、もうとても全部を把握しきれませんが、それだけ広がりつづける物語世界って楽しいですね。
August 26, 2008
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森川久美の最新刊(といっても昨年末に出ていて、私が作者のサイトを見てそれに気づいたのが最近だというだけ)『ざくろの木の下で』(1巻)を読みました。 お得意のヨーロッパ歴史物。主人公は流れ者の傭兵と錬金術師、舞台は(1巻では)「北の海に面した港町」「自由都市」とありますから、ハンザ同盟都市をモデルにした架空の?町、時代は16世紀ぐらいでしょうか。 お得意の“故郷を追われた男”“なまぐさ坊主”“開き直った美女”なんかが出てきて、そういうキャラクターはみんな最初ナゾめいていて、やがてだんだん正体が分かってくるにつれ、読者をぎゅーっと惹きつけていきます。 最近のこの作者の傾向なのかかなりコメディータッチ。もう少し前に出た『危険な席』もそうでした。むかしのあの、若いからこそこんなに悩むのか、みたいな圧倒的な暗さから、年とともに脱皮して、気楽になったという感じ。 読者としても楽しんで読めます。コメディーしているキャラたちもみんな可愛いし。 ただ、 むかし『南京路に花吹雪』や「ヴァレンチノ・シリーズ」あるいは現代モノ『ウエスト・エンド物語』なんかで私を魅了したあるものが足りない!と思うのでした。 先月のブログに確か書いたのですが、それはつまり、“都市”そのものです。カッコいいヒーローたちが喧嘩や陰謀に走り回る舞台となる、とてもリアルな幻想都市としてのヴェネチアや上海、ロンドン。 光より影、つまりほとんどベタで塗られた背景に、「手書き」というタッチでこれでもかーこれでもかーと細かく描き込まれた、古い石造りの建物、建物、建物。路地、運河の霧、うっそうと茂る庭園の木立、そんな重た~い風景が、私にとっての森川久美なのでした。 『危険な席』や『ざくろの木の下で』は、コメディーもアクションもキャラクターのカッコよさも◎なのに、背景が足りないのです。いくつかはシブい背景や風景があるのですが、架空の都市であるせいか、どうも重みが足りない。その都市の歴史にしみついた独特の重みが・・・ これも作者が特定の都市にこだわり続けた時代から「脱皮」したのかなあ、とも思うのですが、私はやはり森川久美の描く異国の町が好きです。 『ざくろの木の下で』の主人公たちは旅に出た模様なので、もしかするといい味の出た町に行き着くかもしれません。とりあえず続巻に期待。
April 15, 2008
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“謝肉祭”ネタ第二弾です。前回の『ブランビラ王女』がお祭の明るい“光”の半面だとすると(ただしちょっと無気味なモノも含んでいますが)、こちらは“影”。 森川久美の古~いコミック、「ヴェネチア風琴」です。彼女の初期の作品の中では、ヴェニスという町と、その謝肉祭の“影”の部分を描いた詩的なこの短編が私はいちばん好きです。 18世紀末~19世紀初頭でしょうか、ヴェニス(ヴェネチア)はルネッサンス時代の繁栄も過去のものとなり、祭に集まる観光客の虚栄の都となりはてています。そんな町を舞台に、衰微するかつての名家の一人息子ジェンティーレと、祭につきものの野外劇の道化役者マルコとの、心の交流が描かれています。 ジェンティーレは名家のあととりといっても母は孤児で、そのため親戚からも縁を切られ、家業は傾き、おまけに心臓に病をかかえています。マルコも実は、聖職者の私生児で、大学で学友を殺して故郷を出奔し、道化となって自分の心をさいなむような暮らしをしています。 滅びに向かうヴェニスそのものを象徴するような境遇の二人が出会う、謝肉祭(カーニヴァル)。華やかでにぎやかなその祭も、二人(=ヴェニス)にとっては滅亡前の最後の饗宴なのです。 街にも人間にも生命がある/滅びの運命に逆らえはしないとジェンティーレが言えば、すかさずマルコがギリシャ古典「アエネイス」を引用し、 われわれトロヤ人は在りたり/われわれの光栄はすでになし ――森川久美「ヴェネチア風琴」と応える、こんなやりとりが、古くさくてお耽美な舞台ゼリフのようにとってもよく似合う街ヴェニス。森川久美の描く、光と影の入り交じった古い都市ってほんとにすばらしい。作者もHPで、この物語の主人公は実はヴェネチアという町そのものだ、と言い切っています。 祭の終わりが近づき、ジェンティーレの父の乗った商船が難破したという知らせが来ます。彼の家は没落してしまったのです。屈辱より名誉ある死を選ぶというジェンティーレは冗談めかした芝居ゼリフとともに毒ワインをあおり、マルディグラ(謝肉祭の最後の日)を仮面舞踏会で祝います。 そして、祭の夜があけると、マルコの腕の中でジェンティーレは逝き、傷心のマルコの頭上で教会の鐘の音が鳴り響く・・・ なんと夢のようにはかなく、悲しく、やるせないカーニヴァルだったことでしょう。 「謝肉祭」ではなく、あえて「カーニヴァル」と読みたい・・・というのも私はこんな歌を思い出すからです。 ♪注がれる酒に毒でもあれば 今ごろ消えているものを なぜここにいるのだろう カーニヴァルだったね ――中島みゆき「カーニヴァルだったね」 冬が逝き、春を招くカーニヴァル。そこには光と影、生と死が紙一重のところで隣り合っています。 死神を/寂しいものだと/誰が決めた 花とリボンで飾りたてた/あの祭りの行列こそ 逝ってしまったものたちの/野辺送りの葬列かもしれないのに ――森川久美「ヴェネチア風琴」 このくだりが若いころ読んだとき、とても印象的でした。そんな目で祭を見たことはありませんでしたから。でもそういえば日本の盆踊りにも、死者を供養する意味合いがあるとか、聞いたことがあります。 一度行ってみたい幻想都市ヴェニス。ほんとうに地盤沈下で海に沈みつつあるんだそうです。(画像はむか~しの白泉社のコミクス。今は角川から出ています)
February 29, 2008
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何やらオドロオトロしい表紙ですが、以前ちょこっと書きましたケルト・ファンタジーなコミックス『クリスタル・ドラゴン』の最新巻です。絵の人物は、1巻以来ずーっと敵役の「邪眼のバラー」。名の由来はケルト神話に出てくる怪異な神で、ふだん閉じられている片目を開くと、最強最悪の破壊の権化と化すのでした。 最初のころは片目がしっかりと眼帯で封印されていましたが、最近封印が破れつつあり、すさまじい魔物になってきました。 ・・・何しろ、長い長い連載です。中山星香の『妖精国の騎士』が完結した今、20年以上続いているファンタジー漫画って、これぐらいじゃないかしら。 とはいえ、ここ数年、物語はアルペス(アルプス)山中の夢幻郷「水晶宮」周辺をうねうねぐるぐる経巡っていて、なかなか前に進みません。ケルト特有の渦巻き模様みたいに、現在(紀元1世紀ごろ)から過去へまた現在へ、地下の小人の国から常世の国へ、そして眠る竜の夢の中へ、あるいは宿敵バラーのいるアイルランドの魔の谷へと、行きつ戻りつしています。 この巻も一冊まるごと、時空がゆがんでだまし絵のようにつながる迷宮みたいで、正直とっても分かりにくい。作者は手書き+CGで凝った描き方をしていて、それなりにすごいのですが、夢幻世界があまりにも夢幻的すぎて、読んでいるとめまいのような感覚に襲われます。 まあ、作者はそういう効果をわざと狙って描いているのでしょうが・・・ 物語の筋としては、ヒロインの魔法使いアリアンが、最強の魔法アイテムであるらしい「竜の杖」を手に入れて、邪眼のバラーを倒すはずなんですが、なかなか結末にたどりつきません。最初私がアリアンの助っ人かと思った水晶の竜は、どうやら眠っていて魔法と夢幻世界を夢につむいでいます。この巻でようやく目覚めかけたところ。 で、次に強力な助っ人候補として出てきたのが「常世の国の世界樹の一枝」。この小枝は人格(神格?)を持っていて、それがなぜかイケメンで口の悪い兄ちゃんという外見・性格で、あちこちに顔を出すのです。ところが、これも前の巻あたりから文字通り木っ端みじんにされちゃったりして、ええーっと思っていたら、とうとう最新巻では消えちゃって、その名残が水晶宮で夢をつむぐのみとなってしまいました。 竜と、竜の夢(水晶)の中で眠り続けていた戦士レギオンとが、早くちゃんと目を覚まして戦闘態勢を取ってほしいものです。 ファンタジーのお定まりのパターンから想像すると、どうやら物語の結末では、バラーの邪悪な魔法と水晶宮の魔法とが互いを打ち消し合って、地上から魔力が消え去り、夢幻も魔法に満ちた時代が終わりを告げて、歴史時代が幕をあける・・・のではないかと思うのですが。 いつになったらそこまでたどり着くのやら。 いや、読者としては、連載が続けばこそ、ファンタジーの夢にひたっていられるのですけれどね。
January 16, 2008
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ここ数日、大阪もさすがに寒くなってきました。でも今日は晴れていたので、午後はガラスごしに日光が部屋にさしこみます。背中にお日様をあびながら、こたつに入って、本を読んだりお茶したり・・・そんな冬ごもり生活が私の理想なんですが。 今年はどうもばたばたと忙しく、静かな午後が過ごせません。 それでも寒くなるとなぜか読みたくなるのが、タカムラさんご推薦のファンタジーコミック、『トッペンカムデンへようこそ』。別に冬限定の話じゃないんですけど、舞台の「トッペンカムデン」という国が、アルプスを思わせる山国で、冬には雪に閉ざされます。おまけにヒロインの王女様の住む城は、空へ向かって突きだした崖の突端にあり、下界と隔絶されている。 そんなお城の王女の窓辺へ、雪の中、長身で黒ずくめ、大きな杖を抱えた魔法使いがお茶をしに訪ねてきます・・・ この物語でまず面白いと思ったのは、一国を預かる王女ローラの性格が破天荒の世間知らずなのに対し、魔法使いレジーはクソマジメな常識派、というところ。普通なら現実的であるべき執政者が夢見る乙女で、非現実な領域をつかさどるはずの魔法使いが逆に世間のしがらみにしばられている感じがします。 その結果、腕の立つ魔法使いレジーが、10歳も年下のローラ姫に振り回されてしまいます。 「困るわ! 今までずっとツケで仕事してくれたじゃない どうして今回はダメなの!?」 「組合からクレームがついた トッペンカムデンに対しツケが多すぎる・・・」 ――征矢友花『トッペンカムデンへようこそ』 でもローラはただのテンネンなお姫様では終わらず、その純粋さと許容範囲の広さには、王たる者の本質があります。 私がいちばんスゴイと思うのは、敵をも味方にしてしまうローラのふところの深さ。それは冒頭の話で思いっきり悪役だった大臣シャイデック(顔つきもいかにも腹黒そう!)を、第3話で牢から出し、国一番の英雄にまでしてしまうという筋書きです。 隣国に戦争をしかけられたローラは、 「あなたと取引したいの この国を救うことができたら 一年前私を暗殺しようとした罪は帳消しにする。 どう?」と言って、その暗殺をそそのかした黒幕である隣国との戦争に、悪役だったシャイデックを参謀役にと担ぎ出すのです。 さまざまな危機をこえて勝利したトッペンカムデンで、元・悪徳大臣のシャイデックがヒゲぼうぼうの囚人顔のまま、宰相としてローラを支えていくところが、何というか日本的、いや東洋的だと思うのです。 西洋のファンタジーなら、善悪がはっきりしていて、悪はどこまでも滅ぼされるか、たとえ改心しても悪役がここまで主人公にとって大事な人物になることは考えられません。 でも、『トッペンカムデン』では、善と悪は割と簡単に入れ替わるのです。というか、人間には善の部分と悪の部分がともにあって、悪の部分が出てくるのも当然、というふうに描かれます。 ローラと思い合う魔法使いレジーでさえ、後半の物語では悪の魔導師に体をのっとられて地上最悪の存在になってしまいます(「のっとられた」ので仕方ないんですが)。また、ローラのいとこ、魔女マドレーンが悪役として登場しますが、この恐るべきライバルをも、最後にはローラは受け入れて、自分の味方にしてしまうのです。 「一緒にトッペンカムデンをささえて」 「正気? 敵対していた人間を仲間に迎え入れられるわけ・・・」 「うちの大臣たち、そういうの慣れてるから平気。いい考えでしょ?」 こうして、ダイヤモンド姫とたたえられる通り、純粋で悪をも取り込むローラ姫は、ついに魔法使いレジーと結ばれて王座につき、めでたく物語は終わるのです。この時、禁忌であるはずの王女と魔法使いの結婚を、いわば力業で承認したのが、冒頭の悪役シャイデックであるのが、何ともスゴイのでした。 『トッペンカムデンへようこそ』についてもっともっと→HP内「王女様と魔法使いの結婚」をどうぞ!
December 16, 2007
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『妖精国の騎士Ballad』は、54巻でついに完結した本編の後日談です。9月に発売されていたのに、ちょっと忘れていたら、某ネット本屋さんで在庫が売り切れたらしく、今月初めごろにはプレミア価格(定価の倍以上!)がついていました。 ようやく再入荷したのか価格が定価に戻ったので、購入しました。本編だけでもとっても場所を取るのですが、20年前の連載開始からずっと追いかけてきた物語だけに、外伝1冊たりとも買いのがしてはいかん!というわけです。 本編ではかなり前からヒロインのローゼリイがアーサーとの恋を成就させ、最終巻で悪の大国グラーンを倒して平和をもたらすと、二人して旅に出て終わりました。それはすっかり予測済みの終幕で、長編がようやく終わった時も、ああやっと・・・ という感慨はあったものの、驚くべき結末ではありませんでした。 本編でついに語られず、気になっていたといえば、ローゼリイの兄で新王となるローラントが、いったい誰と結婚するのかということですが、これが後日談でやっと明らかにされます。 といっても、彼を愛する3人の王女たちの中で予想通り、ロリマーのわがまま姫シェンドラでした。シェンドラはずっと足が悪かったし、彼女の父母は主人公たちの“親の敵”だし、性格的にも問題ありでしたが、そういう女性とあえて結婚させることで、物語的には、新しい王ローラントの器の大きさというか、懐の深さを示す効果がある、ともいえます。 そもそも主人公たちが子供だった物語の初めから、彼らの父母たちの、 「門の所で/王子に会ったが/大きくなられたな/美しくすこやかな少年だ 我が娘が/あんなでなければ/ぜひムコどのに/ほしいところだ」 「シェンドラ姫の/足はいかが?」 「立たん!/このままだと/まったく歩けんということだ」 「そうか…」 ――中山星香『妖精国の騎士』1巻というやりとりがあって、これが実は一種の予言(伏線)になっていたのですね。シェンドラの父はやがて親友だったローラントの父を殺すことになりますが、そんな悲劇こんな悲劇の紆余曲折の末に、シェンドラの足は治り、ローラントは彼女を選んでめでたく結婚することになります。 『Ballad』で語られるいちばんの驚きは、何と言ってもローゼリイとローラントの異父弟が登場すること。のちに白魔法使いとなるロビンですが、本編最後の方でちらっとローゼリイの夢(幻視)の中に、登場予告!みたいに出てきます。 中山星香のファンタジーシリーズで、すでにおなじみの魔法使いアーサー・ロビン君と名前が似ているあたり、この二人の血縁関係が想像されたりして(時代からいってロビンの子孫がアーサー・ロビン?)、未来の作品での再登場が楽しみです。 『Ballad』の最終話で、長い長いローゼリイの物語は、ようやく25年前の作者の本格ファンタジー処女作である『はるかなる光の国へ』につながります。玉ねぎ村の少女アルダとローゼリイとの時を越えた出会いのシーンは二つの物語に共通で、セリフもまったく同じです。見比べてみると、新旧の絵のタッチの違いはもとより、その間に横たわる長い年月と長い物語を感じることができて、感慨深いものがありました。
October 28, 2007
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コミックス版第2巻が出たので買いました。 この巻は、王の妃になったヒロイン秀麗を暗殺?しようとするたくらみが明らかになる、なかなかハラハラドキドキのストーリー展開。 1巻でも思ったのですが、読者の好みを良く理解している(というより読者とほぼ同じ視点で楽しみながら創作してる?)作者が、とてもツボを押さえたキャラクターとストーリーを簡潔に展開していってますね。私の苦手な漢字の人名にだけは、今回も泣かされましたけど、話は分かりやすく、面白い。 いや、分かりやすくしすぎ? 1巻で紹介された典型的な主要キャラが、2巻では、ぱっと上の衣をぬぎすてるとあら不思議、第一印象とは異なる別の顔をのぞかせます。バカ殿に見えた王は文武両道に秀でたスーパーヒーロー、影の従者だった静蘭は実は王の兄、きわめつけは地味な窓際だったヒロインの父が、最強?の暗殺者だったこと。 こういう、「実はこの人の正体は・・・」みたいな仕掛けが、ちょっと多すぎ? ていうか、登場人物のほぼ全員が、裏の顔を持っているような・・・。そんなことってあるんでしょうか。まるで将棋盤の上で次々と“駒が成る”(私の夫談)みたいです。 面白いんだけど、何だかちょっとついていけない気もします(ゼイゼイ)。 唯一、見たとおりの人物であるらしい藍楸瑛と李絳攸を見ると安心しますが、絳攸くんには何か過去があるらしい・・・、いたるところに仕掛けがいっぱいです。 ともあれ、ヒロインはどんな状況に追い込まれようとも、常に常識的一般人でありつづけるのが、頼もしく、嬉しい限りです。次はどんな仕掛けが待ち受けているのか、3巻が楽しみです。
August 3, 2007
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久しぶりに川原泉を買って、最初、他の本の合間にざーっと読んだのですが、「ふんふん、相変わらずのいいお味」と思ってそれでしばらく置いておきました。 ところが、GWが開けて子供たちの学校も、授業参観、PTAの委員会、家庭訪問の希望日調査、など行事がいろいろ出てきて、なんとなく新学期疲れの雰囲気が漂ってきた先週末、ふと、読みたくなるんですね、川原泉。 タイトルにある「レナード現象」というのは、マイナス・イオン発生現象のことだそうですが、まさに川原泉のコミックスは、日常生活のお疲れをいやすマイナス・イオン! じんわり効きます。なごみます。 この本には4つのお話が載っているのですが、どれも共通して秀才学校の生徒たちが主人公であるにもかかわらず、すべてなごみ系のお話ばかり。 とにかくヒロインが全員なごみ系。地味で素朴でトロくて平凡。ただしそのうち二人は、他人をなごますという、非凡な才能を持っています。背中をなでるだけでストレスを癒すよもぎさん、登場するだけで肩の力のぬける亘理さん。 でも、他の二人――小6のはるかちゃんや、円滑な人間関係を大事にする日夏さんなんて、まったくの凡人。どこにでもいそうな女の子で、特になごみの才能があるとも思えません。 対して、彼女たちの相手役である秀才高校の男の子たちは、かなりクセのある人ばかり。いちばん普通な柔道青年も、 昔から筆マメな人でさー、 自分の座席の前後左右斜めの人達には 必ず お便りくれるのね ――川原泉『レナード現象には理由がある』これってじゅうぶん変わってると、私は思います。 他の3人は、挫折知らずの超秀才や、ひそかにベストセラー小説を書いている高校生作家(私はやっぱりこの人がとっても好みvでした)、やたら女の子とつきあいまくる一見軽薄なじつはマジメくん。面白いけど、そのへんにはいそうにないキャラクター。 この、凡人な女の子と非凡な男の子の、すごく落差のある組み合わせが、ありそうでなさそうな、楽観的で前向きな感動を生むんですね。不思議な魅力です。なんてことないストーリーなのに、再読したくなるし、一、二度読んだらセリフが頭にやきついちゃう。 川原泉って、相変わらずすごいです。
May 13, 2007
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前輪が出なくなっちゃった飛行機が、それでも見事に胴体着陸! というニュースをTVで見ました。高所恐怖症で飛行機の苦手な私には、ハラハラする映像。 ・・・タイヤが出なくなった飛行機といえば、思い出すのは川原泉『空の食欲魔人』です。もう大昔の作品で、絵もシロウトっぽいのですが、そこがまたベタな味があるというか、親しみ深い感じがします(画像は最近の文庫本で、装丁などちょっと洗練されてます)。 恋は川原泉のコミックスの場合、いつもかなり変則的な始まり方をします。「空の食欲魔人」も、パイロットとイラストレーターの恋物語、なんですけど、いきなり般若心経とお数珠の絵から始まったりして・・・ 幼なじみの二人はおやつを食べながら、 「そろそろ結婚しない?」 「な・・・なんで?」 「それがさー/ある日ふとまわりを見わたしたら/おまえしかいなかったのなー」 ――川原泉『空の食欲魔人』なんてプロポーズしたりされたりしているのですが、あきれたり(なぜか)悔しがったりしている彼女を尻目に、 「見よ! ムーミンのようにやすらかなこの寝顔」 ――『空の食欲魔人』 おおらかで大食らいで、そのくせ優秀なパイロットである彼。 しかしある日、彼の操縦する飛行機のラインディング・ギアが故障して車輪が降りなくなり、「現在、成田上空を旋回中・・・胴体着陸の可能性が高く・・・」などと、ニュースで聞いた彼女は、だまってオニギリを作り、空港へ急ぐのでした。 結局、彼が計器を叩いたら車輪が降りたというウソみたいな話で事なきを得ますが、今日の事故機も、タッチアンドゴーをしてその衝撃で前輪を降ろそうとしたというのですから、「食欲魔人」のパイロットさんと似たようなレベルですよね。 ・・・ともあれ、無事に着陸した彼がまず求めたのは、オニギリでした。 世間からはピントのずれた、でも二人の間ではぴったり息のあったこのカップルのような人々は、実は世の中にいっぱいいるんだろうな、と思いたくなるような、心のいやされるお話でした。 川原泉は去年、新刊『レナード現象には理由がある 』が出たそうで、読んでみたいと思っています。 それから、もう一つ。今日のニュースのタッチアンドゴーの映像を観ていて、『エロイカより愛をこめて』(青池保子)のなつかしい「九月の七日間」(8巻あたり)を思い出しました。確か、ハイジャック機を操縦する羽目になったエーベルバッハ少佐が、犯人達を無力化するためにシャルルドゴール空港でタッチアンドゴーをするのでした。 「戦闘機とまちがえてる・・・」とつぶやく伯爵、「しゃらくさい」と怒る子熊のミーシャなど、いろんな名セリフがよみがえりました。 ニュースを見て古いコミックスにこれだけひたれる私ってどうよ?と、自分にツッコミを入れてしまいそうでしたけれども。
March 13, 2007
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先日、『ワン・ゼロ』を読み返してインド神話な気分になった勢いで、本棚奥からひっぱりだしてみました、シルクロード関係の作品が多い神坂智子の『風の輪・時の和・砂の環』。 悩んだり落ちこんだり空虚だったり、心が荒廃して不眠症になりそうなどろどろの深夜などに、おすすめ(!?)の一冊。といっても、元気の出るたぐいの本ではありません。自分も世界も「無」に帰そうという話なのです。どろどろな悩みを捨てて解脱して、カラカラの骨になってホトケになれそうな、そういうお話です。 主人公は暁(あきら)という、いかにも物事の始まりのような名ですが、この話は彼が時空を超えた感覚をもてあましつつ、自分(と世界)を消し去るという、終末の物語です。神坂智子的には、終末は始まりにつながってぐるぐると流転している・・・のでしょうか。 子どものころの暁は言葉をまったくしゃべらず、自閉症と診断されます。けれど彼は天才的な頭脳を持っていて、哲学書を読んだり、思索にふけったりします。そんな時、幻のような人物が近くにいるのが見え、恐怖にふるえます。 あとで分かりますが、この幻影は、ヒンズー教の「最終神」カランキ・ラプで、彼を連れ去って世界を「無」に帰そうと、待ちかまえていたのです。ところが10歳の時、高熱で倒れた暁は、カランキ・ラプが襲いかかってくるので思わず「助けて!」と叫びます。この瞬間、呪縛が解かれたように幻影は消え、彼は普通にしゃべれるようになりますが、天才の頭脳はなくなってすっかり普通人になりました。 10歳という年齢で彼は多分、現実と幻が地続きの子供時代を終えたのでしょう。それとともに、幻視の力も消え失せた・・・しかし、17歳で暁はふたたびカランキ・ラプに出会います。そして、家族で渡欧する途中、飛行機の給油地インドで、突然(幻想空間的にはカランキ・ラプに拉致されて)消息を絶ちます。 彼はインド奥地をさまよいながら、子どものころの思索にたちかえります。この世の不条理、地球の危機的状況、そんな暗~い終末感にとらわれて、彼は神々の集うさまを幻視するのです。 マンダーラーヴァ花 マンジューシャカ花 アーブロカ花 アーカーシャ花 彼岸に咲くのは 十万那由多(なゆた)の仏花草 蓮華の下の 沼地の現世 妙音鳥(カラビンカ)鳴くよ 若空無我常楽我浄・・・ ――『風の輪・時の和・砂の環』 こんな呪歌を聞きながら、彼はさまざまな神々に出会いますが、その場所は、インド奥地でもあり、また、彼自身の体内でもあったりします。この世は「こわれた機械」であり「狂った歯車」であると嘆く神々は、彼自身をこの世の「欠けた部品」そして「こわれた部品」と呼び、無限小(ミクロ=個)から無限大(マクロ=宇宙)までを包みこむ、幻の遍歴によって彼を「なおし」、ジグソーパズルの最後の1ピースのように「この世」にはめこみます。それは、世界を「無」に帰するスイッチでした。 現実界では、暁はインドで発見され、半死半生のありさまで両親のもとへ送り返されます。 ところが、やっと意識を取り戻して目を開き、両親を見た瞬間が、「無」へのスイッチがONになった瞬間でした。個人的には多分、彼が自分の「死」であるカランキ・ラプを受け入れた瞬間なのでしょう。 そうやって 消えて行く 森羅万象を オレは感じながら・・・ ――『風の輪・時の和・砂の環』 これで終わりです。そう、世界も暁も、端っこから消えていって、物語は終わりなんです。何も残らない。新たな誕生もない。真っ白の無。 最初読むと何だかわからないうちに終わってしまって、???となるんですが、何度か読み返して私がやみつきになってしまったのは、ちょうど受験勉強中の煮詰まったころだったからかもしれません。 ところで、谷川俊太郎の詩に「祈り」というのがあるのを後年、偶然知ったのですが、この詩の内容が、『風の輪・・・』に妙にぴったりくるんですよね; (ああ傲慢すぎる ホモ・サピエンス 傲慢すぎる) ・・・稚(おさな)い僕の心に (こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ) 今は祈りのみが信じられる (宇宙の中の無限小から 宇宙の中の無限大への) ――谷川俊太郎「祈り」より 『風の輪・・・』には、私の持っている新書館版のあと出た角川版があって、そちらには「完全版」と銘打ってあるのでもしかしたら続編か加筆があるのかもしれませんが、残念ながらどちらもすでに絶版です。
February 9, 2007
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今日は節分、鬼を追いはらう日なんですが、『ワン・ゼロ』の主要キャラクターたちはその「鬼」の側なんです。 はるか昔、インドで神々との戦いに敗れた魔族の最後の一人、ビローチャナ(アスラの王)は、3人の魔族の骨灰に再生の呪文をかけ、日本へと送り出しました。それが1500年後、3人の高校生として転生し、ビローチャナ自身も復活します。 この鬼たち復活のきっかけをつくるのが、やはり高校生のトキ(都祈雄)です。落第寸前なのにのんきに遊び歩いているお気楽な彼は、名前の示すように、トキオ=「東京」、繁栄を享受する日本の首都そのものを表しているようです。 一方、誕生日も同じ彼の異母妹マユラは「覚醒」し、迷妄や欲望による奪い合いから人類を救い、涅槃(ねはん)へ導く救世主になろうとします。 もともと、トキとマユラは一人の人間として生まれるはずでした。 おれたちは二人で一人前のアートマン(真我)になるはずだったんだ それをぼうず おまえがこの島を呪ったんで日本は汚れ―― おれは生まれそこなったんだと まあそいつはおまえに感謝してもいいよ おれ アートマンなんかやだもん ――佐藤史生『ワン・ゼロ』 この現代の神vs魔の対立にかかわってくるのが、スーバーコンピューター「マニアック」です。マユラはこのコンピューターに操作させる瞑想機械を使って人々の迷妄・欲望を取り去り、「涅槃」に導こうとしますが、「涅槃」とは、 ・・・共通しているのは異様なまでの柔和さである。 ・・・元気のいいツッパリおばさんのママが・・・別人のようなスマイルぼさつ(菩薩)。 ・・・子供達は言語を放棄した。 ――『ワン・ゼロ』というような、個性や自意識を薄め、人間の「意」を中和した状態です。 一方、トキと魔族の側は、迷妄も欲望もふくめた「意」こそ人間の存在意義だとして、自意識に目ざめたコンピューター「マニアック」を応援します。 この対決は、存在vs無の対決でもあります。トキは妹のマユラを大切に思いつつも、自分の存在をかけて彼女と対決しなければなりません。マユラは、思春期の少女だけが持つ、例の無敵の純粋さとパワーを持っていて、へたをすると自分がマユラに取りこまれて消滅しかねません。それは、自分自身の内なる半身との宿命の対決。 やがてマユラはだんだん個性や自意識を失い、神の力の代行者になってしまいます。そんなマユラを最後にトキはやむにやまれず“吸収”し、彼女の肉体はただの「死体」になってしまいます。 トキは自分が一人前の人間(=まったき自我=アートマン)になるために、妹を失うのです。しかもトキ自身、マユラを吸収したためにもう以前のトキとはどこか違う人間になりました。 このあたり、二元対立がうまく合一の大団円を迎えてめでたしめでたし、というわけにはいかず、最後の“合一”が、喪失の痛みをともなっていて、せつないです。 読者が既視感を覚えるのは、そのせつなさが、大人になるときに味わう、子供時代の喪失の痛みだからなのでしょうか。 トキ個人だけでなく「東京」においても、最後には、神と魔、宗教と欲望が互いを打ち消し「中和」しあって、対立は終わり、あとには適当にバランスのとれた「人間」が残ります。神々は消え、地上最後の魔族ビローチャナ(ずっと幼児体型でしたが、真の姿は実はりりしい青年王でしたv)も消えてしまいます。コンピューターの自意識も消えてしまいます。 そして、人々は何が起こったのか気づかぬまま、もとの日常が戻ります。 神と魔が対消滅し そのエネルギーは再びニュートラルにもどったかに見える しかし――人類大量死もなく文明も滅びず 戦は何をその供物としたのか ――『ワン・ゼロ』 これは、ファンタジーの終わり方の一つのパターンでもあります;『指輪物語』で最後に力の指輪が失われると、邪悪の権化サウロンが滅び、同時に、善なる指輪も力を失ってエルフたちが去り、あとには人間だけが残されるところ・・・。 また、おとぎ話や昔話の終わり方にも“そしてすべてはもとにもどった”“すべては夢だったのかしら”的なものがありますよね。 そんな、ホーッとため息をついて我に返り、日常にリセットをかける一瞬。それが『ワン・ゼロ』の最後にもおとずれます。 ただ、すべてもと通りということは、また最初から始まる可能性を秘めてもいます。悪は再びよみがえるだろう、と『指輪物語』のガンダルフは言いますし、『ワン・ゼロ』では「鬼」サイドの感想として、 魔というのは周知のように根絶しがたいから いずれまたなんらかの音沙汰が・・・あるだろう 当分こちらも目が離せない おもしろい時代に生まれあわせたものさと、余裕と期待を持って物語をしめくくっています。
February 3, 2007
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私はコミックスは絵から入るタチで、内容以前に絵の第一印象で好き嫌いをしてしまうんですが、佐藤史生とも、『夢みる惑星』の画集の表紙(銀髪の神官イリス)に一目惚れしたのが出会いでした。 が、それとは別ルートでこの『ワン・ゼロ』に出会って、なんというかすごーく衝撃を受けました。以前とりあげたあのSFの名作『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍)の解説で、中島梓(=栗本薫)が「(この本を)読んで、私はSFの哲学に目ざめた。」と書いていますが、私も真似をして言うなら、『ワン・ゼロ』で私はSFの哲学に行きついた、という感じ。 それは1985年のこと(何て昔でしょう)。すでにトールキン・マニアだった私は、トールキンに関する特集が載っていた「幻想文学」(今は亡き季刊誌)を買いましたが、その巻頭にある“耽奇漫画館”というページで、小鬼のような顔でニヤリと笑うビローチャナと出会ったのでした。まさかその妖気漂う魔性の顔を描いたのが、うるわしいイリスを描いたのと同じ作者だとは思えませんでした。 で、とにかく『ワン・ゼロ』を読んだら一気にはまってしまったんですが、それというのも、私を惹きつけた面妖なビローチャナが、インド神話のアスラ(魔族)の王で、つまり『百億』に出てくる「あしゅらおう」と同一人物(神物というべきか)だったからなんですね。 少し前に『百億』を読んで、「おおっ」とうなって、岩波文庫のインド神話『リグ・ヴェータ』なんかを酔ったように読んでいた私には、『ワン・ゼロ』のアスラ王ビローチャナはトドメの一撃でした。 『百億』では絶対者(=神、ミロク)と永劫にわたって戦うのが「あしゅらおう」を筆頭に、幾度も生まれ変わる「プラトンのおりおなえ」「シッタータ(=釈迦国の太子)」ですが、『ワン・ゼロ』では、絶対者(者というよりその力=全宇宙に偏在する神通力)と戦い続けてきた「ビローチャナ」とディーバ(魔)族の生き残り3人が、近未来(1999年)に生まれ変わります。 そして、絶対者の力の代行者として『百億』に「ナザレのイエス」が登場するのに対し、『ワン・ゼロ』では一人の美少女が「覚醒した者」として女神のように人々を導こうとします。 佐藤史生もSFな漫画家ですから、『百億』を知らないはずはありません。とすると、ひょっとして『ワン・ゼロ』は佐藤版『百億』なのかなあ、などと思えてきます。 どちらも、欧米型ファンタジーでは善なるものであることの多い“絶対者=神”を、人類をコントロールしようとする恐るべき力として描き、主人公たちはそれに抗う側(阿修羅とは、帝釈天(インドラ)に刃向かう魔族)です。 そして、その戦いの主人公たちは、『百億』ではプラトンやシッダルタ、イエスなど哲学史上の偉人であるのに対し、『ワン・ゼロ』では、一見ごく普通の十代の若者たちと、彼らが神木の根本から掘り起こした幼児の姿のビローチャナなのでした。 『ワン・ゼロ』ではその永劫の戦いの図式に、ジョーカーというべき少年都祈雄(トキオ)と、自ら思考するコンピュータ「マニアック」が加わります。そして、読み進むにつれ二元対立的な戦いからだんだんもつれて錯綜してゆき、そのごちゃまぜ具合が何とも現在現実そのままな混沌で、『百億』のような透明でもがく余地もない未来像とはちがい、可能性(再現性)を残した未来へつなげて終息します。 次回へつづく。
January 31, 2007
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54巻でついに完結。連載20年の大長編ファンタジー『妖精国(アルフヘイム)の騎士』の最終巻が、昨日届きました。 いや~、クライマックス・ラストスパートが何年も続き、かなり息切れしつつ、でも何とか終わりましたね。 ただ、これだけ長い物語の「終わり方」というのはホントに、読者が長年、期待したり予想したりしていますから、なかなかむずかしい。中山星香の物語は、いつも、それまでの盛り上がりに比べると実にあっさりと終わるのですが、今回もそう。最後の大どんでんがえし的なものは、あるにはありますが、驚くほどじゃなくて、いろんな懸案事項がパタパタパタっと片づいて、予想通りの終わり方がハイハイハイッと描かれて。 まあ、くどくどだらだら終わるのも疲れますから、それはそれでいいんですが、いつも思ってしまうのが、最後に来てこんなに大急ぎで終わるのは、もしかして紙幅が足りなかったんじゃない? ってことです。(単行本で少しは加筆しているようですが、それでも圧倒的に足りてないんじゃない?) グラーン王の最期とか、ローゼリイとオディアルの最期の決闘、アーサーとローゼリイの再会、ローラントの戴冠など、そういう山場は、ホントはひとつひとつ、ぶち抜き見開きの画面で見せたかったんじゃないでしょうか? なのに、連載の最終回の枚数に、すべてをつめこめなくて、絵が小さくなってしまったような気がします。 それに、積み残した課題(?)もかなりたくさんあります。 いちばん意外だったのは、ローゼリイVSオディアルが決着をつけずに、水を差された形で終わってしまったこと。宿命の対決ですから、徹底的にやってほしかったですね。 それから、多くの読者が感じたでしょうが、ローラントは誰と結婚するのか?という問題。あっっさり続編へ持ち越されてしまいました。 来年からは後日談が連載されるそうなので、まあ書ききれなかったあれこれのうち、いくらかは消化されるのでしょうが。 次へとつながる終わり方の方が、商業的?には読者をますますひっぱってゆけるのかもしれませんね。 さて、前に53巻を読んで心配した「アーサーは父王を殺せるのか?」の大疑問は、うまく解決されていて、よかった!さすが! という感じです(アーサーは父を殺さずにすみました。グラーン王は土壇場でちがう原因で命を失います)。 そして、人界における悪の親分グラーン王は、権力に倦んだ孤独で気の毒な人として、あの世へ旅立ち、亡くした二人の王妃に迎えられ、ちょっとほろりといたします。でも、星香ワールドの設定によると、死者の魂は地獄の猟犬に追われながら冥府を駆け抜けるんですけど、そしてロリマー王みたいな小心な悪人は猟犬に引き裂かれたりしたんですけど、はたしてグラーン王は猟犬のあぎとを逃れて光の国(ルシリス)に到達したんでしょうか。二人の王妃が導いてくれたのかなあ。気になるところです。
December 18, 2006
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