4月30日 私が泊まることになった。
どうしても父が明日日帰りででも大阪に帰らなければならない用事があった。
朝一番に出てお昼過ぎには帰ってくる予定だった。
父がいる間は父が泊まっていたので、この日の夜は看護婦さんに「あれ?お父さんは?」と聞かれた。
「明日日帰りで大阪に帰るので今日は私が泊まります。」
言いにくそうに「明日・・・うん・・・出来ればお父さんいてて欲しい・・・」と言った。
私はその時点で既に心臓がバクバクしていた。
「お母さんの手、握ってごらん」
そう言われて母の手を握った。
「汗、出てるでしょ?これは尿が出てこない分体中に毒素が回り始めてるのよ・・・」
私にも分かっていた。尿が出ないのはいけない事だって。
何度も何度も導尿の管を触っては少しでも溜まれと思った。
でも私は信じたくなかった。信じなかった。
寝ている母の口からゆっくりタヒボ茶をスポイドで流した。
諦められなかった。諦められるはずがない。
何度も語りかけた。
息をしているかじーっと母を眺めていた。
日が変わった5月1日。
夜中3時過ぎ、私は究極の睡魔に襲われ少しソファーに横になった。
どれぐらい目をつむったのだろう。眠りに落ちていたのであろう。
気付けば看護婦さん2人が病室で慌ただしくしていた。
目を開けたと同時に私に飛び込んできたモニターの数字。
「お父さん呼ぶ?」と言われ、携帯電話を持っていたのにもかかわらず、私は2階の公衆電話まで走った。
「パパ!看護婦さんがお父さん呼ぶ?って言うてる」
「すぐ行く」
私はまだこの時も母がこんなにスグに息を引き取るなんて思ってなかった。
走って病室へ戻り、母の手を握りながら何度も叫んだ。
「お母さん!!!お母さん!!!」
肩で息をしていた母の呼吸がだんだん遅くなってきた。
「お母さん!!!!!!!」
呼びかけ虚しく、母の肩はもう動かなくなった。
私の目の前で母は息を引き取った。
父も祖母も間に合わなかった。
病室に飛び込んできた父は母の手を取り「ごめん。ごめん。一緒におったればよかった。」と泣き崩れた。
「よく頑張ったよ。し~ちゃん☆はよく頑張った。今からお母さん綺麗にしてあげようね。」と看護婦さん連れられ廊下に出た。
父は最後に担当医から今までの病状・経過を聞かされた。
もう私は父と一緒に話しを聞きに行く事は出来なかった。
平成13年5月1日 午前3時59分 享年50歳 永眠