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9月21日、元ヤオハン和田一夫会長の葬儀が静岡県伊豆の国市でしめやかに営まれました。私は葬儀には参列できませんでしたが、故和田一夫会長を偲ぶ心を禁じ得ず、本棚に並べてあった「ヤオハン和田一夫 祈る経営と人づくり」を手にとって読み始めました。著者はヤオハングループ人事教育の最高責任者でいらした土屋高徳先生。「夢は必ず実現する」「親孝行」「感謝の心」「チャレンジ精神」など耳に聞き覚えのあるヤオハンの根底を貫く信念について書かれていたのも印象深かったですが、本を読んで、ヤオハンは初期から社員教育を非常に重視していた会社だったのだということに改めて気づかされました。昭和30年代の初期の頃から「和田学校」と称して社員への教育に注力していましたが、その後、海外に活路を求め、ブラジルを皮切りとして世界各国に出店をする中で、苦労に苦労を重ねながら人種や宗教の違いを超えて、世界に通用する独自の人材教育のスタイルが作られていったようです。「ホールド・ユア・ネクスト・パーソン」、後半に紹介されている土屋先生の教育の内容は、まさに私自身が受けた新入社員教育そのもので、読みながら、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。海外で形ができていった教育スタイルを日本に逆輸入して運用されていたようで、土屋先生のお話は、時折英語交じりになりました。最初に行う「シェイク・ハンド・セレモニー」では隣の人と手をつないで、隣の人の体温を感じながら、「隣の人はいい人だ!前の人はいい人だ!後ろの人はいい人だ! みんなみんないい人だ!それは私が素晴らしいからだ!」と、土屋先生の後について大きな声で繰り返すのですが、ワンフレーズ(!の箇所)ごとに、土屋先生が「Really?」と尋ね、私たちが全員声を合わせて「Yes!」と答えるのです。こうして会場が打ち解け、乗ってきたところで、土屋先生は黒板に円を3つ書いて、怒った顔、泣きっ面の顔、ニコニコした顔を書き入れ、私たちに一番好きな円はどれか、と尋ね、全員ニコニコ顔が好きであることを確認し、そのニコニコ顔は、先ほど大きな声で言った前向きな言葉から来ていること、「思念」「表情」「発声音」からなる言葉の影響力は大きく、発する言葉が運命を決する、そしてその言葉はどこから来ているかというと、心から出てきている、だから明るい心でいることが大切だと教わりました。また、人間関係について、自分を5、相手を5として、その間にある符合を心の状態とすると、相手に対してマイナスの心を持つなら、5-5で人間関係はゼロ、相手に対して割り切った考えを持って接すれば、5÷5で1になる、ところが、相手と手をつなげば、5+5で10になる、さらに、「掛ける(×)」は愛であり、他人と自分が一つであると自覚し、相手の立場に立って努力する愛があれば、5×5で25の結果が出る、と教えてくださいました。そして、先祖がいて、両親がいて、その脈々と続くつながりの先っぽに自分が存在し、生かされているということ、植物があって、動物が生かされていること、地球があり、太陽があって、私たちは生かされていること、これらのことはクリエーター(神)が作った法則であり、神によって作られ、生かされているのだから、あなたは神の子であり、無限の力を持っている、だからこれからは、唯一無二の自分の素晴らしさを自覚して、いつも明るい笑顔で、両親に感謝して、元気に頑張ろうじゃないか、と説かれました。「今日も一日、明るく、楽しく、元気よく、力一杯、頑張りましょう!」というフレーズは大変印象深く、20数年たった今も忘れず心に刻まれています。思えば、つばめが今なおヤオハンに特別な思いを抱き続けているのもこれらの人間としてのあり方の教育をはじめとして、和田一夫会長が心に抱くヤオハンの理念とヤオハンスピリッツをいつのまにか共有していたからにほかなりません。私のようなほんの1年しか在籍しなかった一介の社員が20数年たった今もヤオハンに深く心を寄せ続けているという事実は、ヤオハンの社員教育が非常に成功していた証拠だと思います。土屋先生は、自分は教育を通じて和田一夫代表の理念を社員に伝える伝達者であったというようなことをおっしゃっています。ヤオハンの社員が共有するヤオハンスピリッツの源であった和田一夫会長のご逝去には、寂しさを禁じ得ません。もうあのような教育が行われることは二度とないのでしょう。倒産とともに失われた企業の精神・文化が惜しまれてなりません。全世界の人々に貢献することを本気で目指した流通企業としてのヤオハンもさることながら、その独自の教育システムには、お金に代えることのできない価値があったのではないかと改めて思うつばめです。和田会長、どうか、安らかにお眠りください。
2019/09/21
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ヤオハンを国際的な流通グループに育て上げた和田一夫会長が先月19日、亡くなられました。↓ヤフージャパン記事:和田一夫氏死去 元ヤオハングループ代表、90歳 昭和から平成、国内外に総合スーパー展開↓静岡新聞記事:「流通王」和田一夫さん死去 波乱の90年、絶頂とどん底ヤオハンはつばめが大学卒業後に初めて就職した企業。しかし入社1年後、ヤオハンジャパンは負債額1600億円を抱えて倒産しました。それから20数年を経て、昨年、和田一夫会長の娘さんから、「感謝とお詫びの会」の案内が届きました。熱海のホテルで開催された会には数百名もの元社員や関係者が招待され、すでに車椅子に乗り、言葉を発することができなくなっていた和田一夫会長に代わって、奥様と娘さんがそれぞれ感謝とお詫びの言葉を述べられました。私も社員の一人として壇上に上がらせていただき、ヤオハンに入社した時の気持ち、倒産直前にダイエー子会社に売却予定となっていた店舗への異動辞令が出て、自分はヤオハンにとって不要な人間だったのかと大きなショックを受けたこと、ブルネイ大使館のテレビでヤオハンジャパンの倒産を知ったこと、しかしヤオハンに入社したことを後悔したことは一度もなく、ヤオハンに入ってかけがえのない経験と仲間とのつながりを得られたことに心から感謝していることなどをお伝えさせていただきました。思えばこのとき、和田会長にお会いし、一社員としての思いをお伝えする機会をいただいたことは本当に幸せなことでした。後からこの「感謝とお詫びの会」は、和田一夫代表の生前葬の意味もあったとお聞きしましたが、まさかそれから一年余りで旅立たれるとは思いもしませんでした。和田代表と握手したときの暖かい手のぬくもりを今もありありと覚えています。和田会長の逝去は、かつて和田会長が描いた流通業の壮大な夢が消えてしまったようで寂しい限りですが、ヤオハンに入社したことで得られた仲間や先輩方とのつながりをこれからも大切にしていきたいと思います。和田会長のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。熱海 posted by (C)つばめ
2019/09/06
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さて、お詫びと感謝の会終了後、96年入社のヤオハン同期のみんなと駅前の居酒屋に集合しました。「お詫びと感謝の会」に参加した同期14人のうち、用事があった4人を除いて、10人がテーブルを囲みました。ほとんどが20数年ぶりに会う顔、新入社員研修だけ一緒に受けて、各店舗に配属されたので、ほとんどしゃべったことのない人もいましたが、みんな旧知の仲のように打ち解けた雰囲気で、楽しく飲み、食べ、話に花が咲きました。10人のうち、自分で会社を立ち上げたり、事業を起こした人が4人。家族企業経営の1人を合わせれば、実に50%の割合です。(さすがに女性はいませんでしたが)つばめの右から、女性陣4人は外務省勤務、外資系ベンチャー企業勤務、大手商社勤務。そしてつばめは日本語教師。男性陣は、菓子メーカー経営、スーパー店長、華僑などへ日本の不動産をあっせんする家族企業経営、会計・コンサルティング会社経営、日本の優れた工芸品の販売・コンサルティング会社経営、ベトナム人材あっせん事業運営など。小売流通業で働き続けているのは、10人のうちわずか1人だけでした。(男性6人のうち、スーパー店長を除く全員が自らの事業を持つ経営者!)集まった人たちにたまたまそういう人が固まっていたのかもしれませんが、それにしても経営者率が高いです。ヤオハン時代に経理部に所属し、倒産にまつわる会計処理を行ったという同期は、「あの時の体験が今コンサルティングに非常に役立っている」と笑いながら話していました。「そんな経験、したいと思ってできるもんじゃないからな!笑」と横から合の手。同じ倒産を体験した同期なのですが、人によって全く違った角度から倒産を体験したようで、皆の話をとても興味深く聞きました。新入社員当時の写真つき名簿を見ながら、誰が誰を好きだったなんて話で盛り上がりました。あれから時は流れたけど、みんなそれぞれの場所で活躍しているのを見て、私も自分の場所で頑張ろうと、みんなから元気をもらって帰途につきました。ヤオハンお詫びと感謝の会16 posted by (C)つばめ
2018/08/02
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そしていよいよ翌日、「お詫びと感謝の会」の会場に向かいました。入り口では数十年ぶりに同期や同じ職場で働いた先輩たちに会い、懐かしさでいっぱいでした。そして、会が始まる少し前、和田一夫会長が姿を現しました。すぐに会長を囲んで人の輪ができました。一人ひとりと握手をしたいとの和田会長の希望が伝えられるとすぐに前に長蛇の列ができました。私も並んで握手していただきました。私が北京から来たこと、趣意書を読んでメールを差し上げたことをお伝えし、感謝の言葉を伝えると、和田会長はかつてと変わらぬ穏やかで温かい表情で、握手の手にぐっと力を込めて握り返してくださいました。経営者としての立場で考えれば、また取引先様、銀行などの立場から考えれば、物事はまた違って見えるのかもしれませんが、私個人は、ヤオハンには感謝の思いしかありません。(入社1年というまだ若くてやり直しがきく時期だったからかもしれません。新入社員だったので、教えていただくことばかりでした。)私は趣意書を読んでメールを書いたことから、壇上でスピーチをすることになりました。スピーチはうまくできたとはいえませんが、数十年ぶりに和田会長、そして新入社員研修でお世話になった当時人事最高責任者でいらした土屋先生にお会いすることができ、私としては心の区切りがついた気がしました。土屋先生は90を超えてもマイクを持って力強い声で話され、まるで太陽のように明るく輝いていらっしゃいました。ヤオハンの倒産はかえすがえすも残念です。言っても仕方のないことだから誰も言わないけれども、多くの人の心の中にある気持ちだと思います。もちろんその思いは私たち社員よりも誰よりも和田会長が一番強いはずです。しかし過去を振り返って後悔するのではなく、前を向いて歩んでいくしかありませんし、実際、和田会長自身はそのようにして前向きに歩んでこられました。「もしヤオハンが倒産していなかったら、どうなっていたでしょうね」と話を振ると、Tさんは、「間違いなく世界ナンバーワンの小売流通企業になっていただろう」と確信を持って答えられました。かつて和田一夫会長の夢と理念に共感した一人として、和田会長にはいつまでもお元気で、幸せに暮らしてほしいと願うつばめなのでした。ヤオハン1 posted by (C)つばめ↑熱海の老舗ホテルで。シャンデリアがきらめく大広間で 乾杯とともに、オールガラス張りの窓にかかっていたカーテンが 一斉に開いた瞬間、素晴らしい海の景色が広がり、 大きな歓声が上がりました。
2018/07/30
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ホテルでの宴会後は、タクシーで駅前のカラオケへ。ホテル前に次々とタクシーが横付けされ、タクシー代まで渡され、幹事の先輩方の手際の良いこと。同じ部屋だった同期は「やっぱり仕事ができる人たちは違うね」と感心しきり。その同期だって、ニュージーランドの大学で中国語を専門に学び、英語と中国語ができる才女です。当時ヤオハンは海外戦略を打ち出していたので、そういう人たちがゴロゴロいて、つばめは全く目立たず埋もれていました。その同期には、「つばめ、そんなおっとりのマイペースで よく中国で暮らしてるわね。とてもそんな風には見えないわ。 だいたいつばめ、中国語なんてできたっけ?」と言われました。(ハイ、できませんでした笑)つばめはジャパン採用でしたが、その同期は1年以内に海外に派遣される海外社員枠で採用されており、そもそもヤオハンに入ったルートが違います。つばめは当時、そんな海外枠社員を憧れの目で見ていましたが、改めて同期や先輩方を見ると、語学ができるだけでなく、仕事もバリバリできる人たちだったのだなぁ、と改めて実感しました。そんな中になぜつばめが混ざっていたのか不思議なのですが、唯一考えられるのは、海外(中国)への興味ということ以外につばめは流通業界への志望が強かったからかもしれません。(就職活動で受けた会社はオール流通小売り業界でした。)さて、カラオケルームでは歌もそこそこにテーブルごとにおしゃべりが始まりました。しばらく経った時、つばめたちが採用試験を受けた時に人事の責任者だったTさんと近くでお話するチャンスがありました。「ここに集まっている人たちは皆前向きで明るく、 共通したものを持っている気がしますが、 当時のヤオハンの採用基準はどんなものだったのですか。 上司から、あるいは和田会長から何か具体的な採用基準などが 示されていたのですか」つばめがずっと聞いてみたいと思っていたことを聞いてみると、Tさんは自分の胸を指さし、「ここだよ、ハートだよ」と答えられました。心が愛で満たされているかどうか。小さい頃から愛情をかけて育てられ、心が愛で満たされている人は人の成功をうらやんだり、人を蹴落とそうとしたりはせず、自ら前向きに物事に取り組んでいけるらしいです。特に上から指示などはなかったそうですが、ヤオハンは生長の家の教義を企業理念に取り入れている会社だったので、生長の家の教えを突き詰めればそういった人材基準にたどりついたというところもあったのかもしれません。Tさんはヤオハンを辞した後、自らコンサルティング会社を立ち上げ、心理学などを専門的に学んだそうですが、理論を知ったのちに改めてヤオハンの採用基準を思い返してみると非常に腑に落ちるところがあったそうです。そんな話をお聞きしながら、なるほど、簡単にいえば、ヤオハンは明るくて心の基礎体力がある人、いわゆるEQ(心の知能指数)の高い人を採用していたのかもしれないな、と盛り上がるカラオケルームの端でひとり妙に納得していたつばめだったのでした。→「和田一夫会長と握手」につづく。
2018/07/28
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6日の研究会が大雨警報で中止となったため早めに熱海に向かい、運営委員の先輩方が企画してくださったヤオハン前夜祭に参加することができました。ホテルの座敷に入ると、お膳が整然と並べられており、その前には先輩方がずらりと座っています。同期の知った顔がほとんどおらず、やや緊張した面持ちで席につきました。しかし、すぐに左右、向かいの先輩方が色々と話しかけてくださり、打ち解けることができました。ヤオハンスピリッツを見たのは、全員が立ち上がって乾杯したすぐその後です。乾杯の発声の後、一斉にいくつものグループができ、あちこちで話しはじめました。つばめも知らないうちにグループの中に入っていて先輩と混じって話の輪に入っていました。乾杯直後から夢中で立ち話を続けるグループ、畳の空いたところに輪になって座っているグループなど色々でしたが、スタートから座って静かに食事をしている人はおらず、食べる人のないお膳の鍋の火が寂しげに燃え続けていました。(少し話が落ち着いたところで、つばめも座って 食事させていただきましたが笑)人の成功にエールを送り、楽しいことには素直に反応して拍手喝采したり、気分を盛り上げる合の手を入れ、相手の話に共感すれば自ら握手を求めに行く、(これは海外生活をされた方が多いからでしょうか、不思議です)そういう皆さんの姿にヤオハンスピリッツの源流を見た思いがしました。先輩後輩関係なく、初めて会ったつばめにも全く分け隔てなく接してくださり、フレンドリーなのに、すごく気遣いがある、その辺りが諸先輩方に共通しているところでした。色々お話をして、後で名刺をいただいたら、創業して社長をされていたり、大手企業の役員だったり、専門分野の第一人者になっていらしたりとかして、改めてヤオハンはすごいな、と感心しました。ヤオハン出身者に共通していると思ったのは、皆さん後ろ向きの言葉や愚痴を吐かないということ。これはほとんどびっくりするぐらい徹底して共通していているのが印象的でした。これはヤオハンの教育の賜物なのか、それともそのような素質を持った人たちを採用で選抜していたのかは分かりませんが、皆さんに共通して持っている特性のように思いました。そして、そういう雰囲気の中にいると自分も感化されて前向きの言葉を発したくなるのが不思議です。このような明るいパワーを持った人たちは普段の生活で出会うことはあってもそんな人たちばかりがこんなにも結集していることはなかなかないので、そのパワーに圧倒されるとともに、久しぶりにその独特の雰囲気に浸り、それをとても心地よく感じている自分がいました。そういえば、チャレンジに直面したとき、できるかどうか分からなくても「やります!」と言い切って、精いっぱいの努力をする、それがヤオハンの社風だった、新入社員研修で「明るいことが何よりも大切」と教えられたことを思い出しました。そして、近くに座ってお話を伺った数人の先輩方はいずれも「行動の人」という印象を持ちました。つばめは宗教の信者でも何でもありませんが、どの方も明るく前向きなオーラを発しているのが目に見えるようで、会場はエネルギーに満ちていました。→「カラオケでヤオハンの採用基準を聞く」につづく。ヤオハン3 posted by (C)つばめ
2018/07/20
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ヤオハンが倒産して20年あまりの時が流れ、一通のメールが届きました。それは今回の「お詫びと感謝の会」開催の趣意書でした。私はその趣意書に大きく心打たれ、私のヤオハンへの思いをどうしてもお伝えしたいという思いにかられました。・・・・・・私は1996年にヤオハンジャパンに入社しました。河口湖のほとりで行われた新入社員研修はとても印象的で、今でもよく覚えています。ヤオハンに入社した人は皆明るく、前向きで、話していて気持ちのよい人たちばかりでした。入社して1年ほどネクステージ知立店で働きましたが、その後、当時ダイエー子会社に売却予定となっていたヤオハン櫛形店への転勤辞令が出ました。ヤオハンが好きで入社したのに、ダイエーに身売りされることになるとは、「自分はヤオハンにとって不要な人間だったのか」とショックを受け、心は悲しみでいっぱいでした。それと前後して、ヤオハンブルネイ駐在の社員の方が一時帰国された際にお話しする機会があり、ヤオハンブルネイで教育担当の日本人のポジションがあるという話を聞きました。私はもともと海外で働きたいという希望を持っていたので、当時のネクステージ知立店支配人にブルネイ派遣をお願いしましたが許可されず、ヤオハンジャパンを退職し、現地社員としてブルネイヤオハンに入社することにしました。退職等諸手続きを済ませ、1997年9月にブルネイに降り立ち、シンガポールで労働ビザの手続きを行ってブルネイに戻ったその翌日、ブルネイ日本大使館のテレビで、ヤオハンジャパンの倒産を知りました。こんなことが本当に起こるのかと、テレビのテロップを見ているのがまるで夢のように思えました。その後、ブルネイに残る道もありましたが、日本に帰国し、いくつかの会社での就業を経て、日本語教師になりました。もしヤオハンが倒産していなかったら、私はずっとヤオハンで仲間と楽しく働いていたことでしょう。しかしヤオハンが倒産したことで、私は日本語教師となり、中国に赴き、優しい中国人の夫と結婚して北京に定住し、一男一女に恵まれることになりました。ヤオハンが倒産したことは大変残念ですが、これも神様が決めた運命なのだと私は思っています。ブルネイで、また日本で新しく就職した会社で、機会があるとヤオハンの新入社員研修で体験した内容を取り入れて実践するといつも盛り上がることに驚き、また日本語教師として授業をする際にも新入社員時に受けた研修が役に立っています。ヤオハンの研修には世界の全ての人たちに共通する真理が含まれていたと感じています。私はヤオハンで1年あまりしか働きませんでしたが、ヤオハンに入社したことを後悔したことは一度もありません。ヤオハンに入社し、独特の教育を受けたこと、そしてたくさんの素晴らしい仲間ができ、様々な経験をさせていただいたことに心から感謝しています。今回の趣意書を読ませていただき、涙を抑えることができませんでした。私は若さゆえの短絡さから、なにかヤオハンに見捨てられたというような思いを勝手に持っていましたが、和田一夫代表とそのご夫人、ご家族の皆様方がこれほど私たち社員のことを大切に思ってくださっていたことに心打たれました。和田一夫代表は私たち社員の父で、私たちはその子供です。子供たちは父の元を離れても、あちこちで芽を出し、活躍しています。父の志の元に集まるヤオハンファミリーの一員になれたことを誇りに思っています。今回の集まりを機に、さらに絆を深めることができることをうれしく思います。父と、かつて同じ志を分けた兄弟の皆さんにお会いできるのを楽しみにしております。そして、これからもこのヤオハンファミリーの絆が末永く続いていきますことを心より希望しています。→「ヤオハン前夜祭に参加」へつづく。ヤオハン4 posted by (C)つばめ
2018/07/16
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夏休み前の7月6日、つばめは単身日本に一時帰国しました。7日に神戸方面で開催予定の「中国語話者のための日本語教育研究会」に参加し、翌8日に熱海で元ヤオハン和田一夫会長の娘さん主催の「お詫びと感謝の会」に参加する予定で、子供2人を北京に置いて、単身日本に戻ってきたのです。結局、研究会のほうは記録的大雨で中止となったため、前日から熱海入りし、ヤオハン「お詫びと感謝の会」の前夜祭から参加しました。つばめは1996年、「ヤオハンジャパン」という会社に入社しました。創業者はおしんのモデルとも言われる和田カツ夫妻、熱海を中心とした野菜の行商から始まり、伊豆半島から富士山を囲むようにスーパーマーケットをチェーン展開、その後、国内の小売業界間の競争が激しさを増すなか、1970年代からブラジル、アメリカ、コスタリカ、シンガポールなど海外に打って出る戦略を掲げ、1990年にグループ本部を香港に移転し、中国への本格進出を計画していました。中国が好きで、将来中国で仕事をしたいという希望を持ち、また大学時代からイオンの前身ジャスコで3年間アルバイトを続け、小売流通業界への就職を希望していたつばめにとって当時その他日系小売企業に先駆けて海外15ヵ国に店舗を構え、中国100店舗構想を打ち上げていたヤオハンという会社はとても魅力的な企業でした。しかし入社1年後、ヤオハンは1,600億円という負債を抱え、倒産したのです。当時、戦後最大級の小売業の倒産ということで、新聞やテレビニュースで大きく取り上げられました。(その後、山一證券はじめ、北海道拓殖銀行、長銀など 大手銀行、小売企業などが相次いで倒産しましたが、 ヤオハンはその先駆けでした。)→「ヤオハンへの思い」へつづく。ヤオハン2 posted by (C)つばめ
2018/07/13
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