灰色猫のはいねの生活

灰色猫のはいねの生活

プロローグ



その日の丸尾くんは、ちょっと違っていました。
「ずばり!そうでしょう!!」
の口癖も冴えわたり、牛乳瓶底の眼鏡もさんさんと降り注ぐ太陽に反射してきらりと輝いています。
放課のチャイムと共にいそいそと帰路に付く丸尾くんを、誰もが春の陽気のせいかな?と深くは追求しませんでした。
「はい、目を瞑って、…開けて。」
丸尾くんは、教育ママに連れられて行きつけの眼科に来たのです。
最近話題のコンタクトレンズを聞きつけた教育ママが、丸尾くんにも、より実眼に近いコンタクトレンズで世界を見て欲しいと思ったのです。
…せつない親心である。子供には迷惑でも。
「…目は痛くない?レンズはずれてない?」
看護師さんに言われて丸尾くんは目の前の鏡を見ました。
「これが、私?」
なんと、そこには見たことのない少年がいたのです。
髪型も深緑のセーターも同じ。
でも、鏡に写る少年は、いつもの丸尾くんではありませんでした。
-コンタクトレンズを入れて見た私は、ずばり!かっこよかったのです-
その日の日記に丸尾くんはそう記しています。
実は、コンタクトレンズ装着による流涙で、ぼやけゆがんだ丸尾くんの姿でした。
るんるん気分で家に帰り、洗面所で早速丸尾くんはコンタクトレンズを入れてみました。
またもや、鏡には輪郭の不確かなかっこいい丸尾くんが写ります。
それだけではありません。
涙を拭いた丸尾くんの目には、洗面所の全て、蛇口も流し台もコップも歯ブラシも歯磨き粉もきらきらと光輝いて見えるのです。
もっと他の物も見てみたいと、丸尾くんは廊下の窓を開けました。
朝日の東、夕焼けの西と違って北側の窓にはお世辞にもきれいとは言えない裏通りが見えます。
集配前のゴミ袋が散らかっているようなその光景も、コンタクトレンズを入れた丸尾くんには、とても美しく見えたのです。
ひそかに感動に浸っていた次の瞬間、路地から一匹の獅子舞が踊り出ました。
しかし、その獅子舞は舞おうともせずに、きょろきょろと辺りを見渡すと裏通りを一目散に駆け出したのです。
丸尾くんは落ち着いていました。
冷静に居間に戻り、受話器を上げます。
110番。
「もしもし、警察ですか?」

「丸尾が泥棒を見付けて警察に通報したんだったてさ。」
次の日学校では、その話で持ち切りでした。
「丸尾くん、昨日はとっても良いことをしましたね。」
HRの時間に先生に言われて、丸尾くんは喜びの絶頂にいました。
「お昼休みに警察の人が表彰しに来るそうですよ。」
その一言に、クラス中が舞い上がりました。
「丸尾くん、警察の人から表彰なんてすごいじゃん。」
「ずばり当然のことをしたまでです。」
丸尾くんは多少上気した笑顔でまるちゃんに言ってのけました。
警察の人が来て、全校生徒の前で表彰され、丸尾くんはこの世の春を横臥していました。
他のクラスの人や上級生までが丸尾くんを見に来たり、廊下で
「あの子が丸尾くんよ。」
何て指さされたり、もう有頂天です。
家に帰ると、近所のおばさんが来ていました。
「あら、末男くん、すごいわねえ。」
挨拶をすると、丸尾くんを誉めてくれました。
教育ママも嬉しそうです。
「これで、次の学級委員長もずばり私に決まりでしょう。」
自分の部屋に入るなり、丸尾くんは人差し指を立てました。
ランドセルを机に置いて、ベッドに腰掛けます。
でも一番嬉しかったのは、丸尾くんの通報のおかげで盗られた物が戻ったと涙ぐみながら
「ありがとう。」
と手を差し出したおばあさんの笑顔でした。
正直、おばあさんの盗られた物と言うのは、古びた着物が大半で盗んでもとてもお金になるとは思えませんでした。
それでも、おばあさんにとっては想い出の詰まった大切な物だったのです。
「そうだ、おばあさんの家に行ってみよう。」
眼鏡からコンタクトレンズに変えた丸尾くんは思いました。
おばあさんは丸尾くんの家から100m位の平家に一人暮らしをしています。
同じ町内会なので顔は顔は知っていましたが、話をするのは昨日が始めてでした。
「子供も、もう寄りつかない。年寄り一人で心細くて。」
そう言っていたのを思い出したのです。
「お年寄りの話相手になるのは、良いことですね。」
丸尾くんは家を出て歩き出しました。5分程でおばあさんの家に着きます。
「こんにちわ。」
ドアごしに話し掛けます。
返事は、ありませんでした。
「丸尾です。こんにちわ。」
5分程玄関の前で待ち応答がないので、出掛けているのかもしれないと丸尾くんは思いました。
そうして、そのまま、家へと引き返しました。
その瞬間の、暮れかけた夕日の紅さを丸尾くんは生涯、忘れることはないでしょう。

それから一週間程経った頃でした。
そろそろ学校にもコンタクトレンズで行ってみようかと丸尾くんは思っていました。
一日中出掛けていた教育ママが帰って来たので、丸尾くんは階下に降りて行きました。
「それが、殺されたらしいの。」
居間から聞こえてきた教育ママの声に、丸尾くんはドアを開けることが出来ませんでした。
立ち聞きするつもりはありません。
けれど、その話の内容に、丸尾くんは動けなくなってしまいました。
「そう、あのおばあさん。亡くなっただんなさんの残したアパートとか、かなりの不動産があったんですって。お金目当てで実の娘が夫と共謀して。末男の通報した泥棒は不動産の権利書を盗むように頼まれていたんですって。」
丸尾くんは、はっと我に返ったように自分の部屋へと引き返しました。
「最も、その時は、権利書は盗めなかったそうだけど。」
最後の声は、丸尾くんの耳には届きませんでした。
部屋へ入るなり丸尾くんはベッドに倒れ込みました。
自分が通報しなければ、あの泥棒が捕まらなければ、おばあさんはお金は失っても、命までは失うことはなかったのではないか。
あの時、コンタクトレンズさえしていなかったら、もし北窓を開けていたとしても、視力の落ちる眼鏡では、あるいは泥棒だと思わなかったかもしれない。
事実、唐草模様の風呂敷を抱えた泥棒を、獅子舞だと一瞬思ったではないか。
恐怖と後悔が混ざり合うなか、泣きながら丸尾くんは眠りにつきました。

夢の中で、丸尾くんは歩いていました。
おばあさんの家の前に立ち、当然のように戸口を開けます。
家の中には誰もいません。
玄関から居間に上がり、台所に床の間。
さして広くもない家の中をきょろきょろと丸尾くんは見回しました。
何かを探しているようです。
コンタクトレンズを入れた丸尾くんの目に写ったもの。
奥の床の間の押入から微かに覗く薄いグレー。
おばあさんが来ていた着物と同じ色です。
恐る々押入を開けるその時のいやに重い手応え。
次の瞬間、ごろりと転がり出た毛布。
それは、丁度膝を抱えた人間の、おばあさんの大きさでした。
丸尾くんは驚きもせず、まるでそうしていなくてはならないとでも言うように、ただ立ちつくしていました。

おばあさんを殺害した犯人は全国指名手配され、1ヶ月後に捕まりました。
丸尾くんはようやく、自分のしたことは間違いではなかったと思えるようになりました。泥棒を見付けてしまった以上、通報するのが当たり前です。
それが常識です。
ただ、本当の善し悪しは、当たり前の常識や真実では決められないところにあるのだと、丸尾くんは気付いたのです。
コンタクトレンズで見れば、全ての物ははっきりときれいに見える。
でも、その中から本当にきれいなものを見付けるのは難しい。
でも、いつか見付けられる人になりたい。
コンタクトレンズを入れた眼で。
丸尾くんはそう思いました。
「ずばり!そうでしょう。」
の口癖は、今日も冴えています。



【あとがき】~羽衣音~
これは羽衣音の家の近くで実際にあったお話です。
と言っても、はるか昔のコトなので、後から聞きかじった話をまとめてみました。
本当はおばあさんを殺したのは実の孫夫婦だったそうです。
父親は時々「今でも刑務所にいるのかな…」なんて思い出したりしています。
ちょっと哀しいお話でした。


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