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しかたのない蜜
1 Abgrund
島にひとつしかない神社の境内で、十一歳の一騎と総士は総士が父親に買ってもらったモーターカーで遊んでいた。
「わあ! やっぱりこのエンジン、すっげー速度で動くよ! いいなあ、総司は。お父さんにこんなすごいおもちゃ買ってもらえて」
一騎は目を輝かせながら、リモコンでモーターカーを操っていた。
総士は微笑みながら、一騎の喜ぶ様を見る。一騎は総士の視線に気づいて、スイカの種のように黒光りする瞳を総士に向けた 。
「悪いな、総士。俺だけで遊んじまって。お前もこれで遊びたいんじゃないか?」
総士はあわてて首を振った。こんなおもちゃなら、家にいくらでも転がっている。総士の父親がよく買ってくるのだ。まるで自分が息子をかまわないのを高価なプレゼントで埋め合わせしているかのようだった。
総士が真に父親に望んでいたのは、母が病死してからたった一人の肉親なのだからもっと自分とふれあってほしいということだけだった。
だが、父親はいつも総士をひとり家に置いて夜更けまで帰ってこない。そして深夜帰宅した父親の背広からは決まって香水の匂いがするのだ。
総士は唇を噛んだ。
一騎は総士が怒っているのではないかと気をもんだらしく、あわてて一騎にリモコンを返そうとした。
「ごめん。これ、お前に返すよ。俺だけで盛り上がっちゃってごめんな」
「い、いいよ」
総士はあわてて首を振った。
一騎はこんなふうに他人の顔色に敏感な部分がある。一騎に男女問わず友人が多いのはこうした気遣いができるからだろう。それは一騎が父子家庭で家事を受け持って、陶芸家の父親の世話をしているせいかもしれない。
父子家庭なのは総士も同じだった。
だが決定的に違うのは、一騎の父親ががらっぱちながらも彼なりに精一杯一騎を愛そうとしているのに対し、総士の父親はほとんど総士を放ったからしにしているところだった。(僕に比べて、一騎はみんなになんて大切にされてるんだろう)
困り顔の一騎を見つめながら総士は思った。
丸い輪郭に、どんぐり眼の大きな目。総士より頭一つ分小さい体には、今着ている半ズボンとTシャツが実に子供らしい溌剌としたかわいらしさを与えている。
総士はよく、周りの大人に「綺麗な子だ」とか「将来はさぞかし美男子になるだろう」と評されている。白い肌に、亜麻色の髪と栗色の切れ上がった大きな双眸はいやがおうでも人目を引いた。
この前、ついに自宅までやってきた父親の愛人は「あなた、お人形さんみたいな子ね」と総士の頭を妙に粘着的な手つきで撫でた。あんな女がもしかして自分の義母になるかもしれないと考えると、総士は吐き気がしそうだった。
運動神経抜群、成績優秀、容姿端麗と三拍子そろった総士を賞賛する人物はたくさんいるが、彼らは総士と親しい交流を持とうとはしなかった。いつも一定の距離を置いて、総士に羨望のまなざしを向けているだけだった。
寡黙な総士を「気取っている」「他人を見下しているような目をしている」と一方的に嫌うクラスメイトもいた。
だが、一騎だけは彼らと違った。
一クラスしかない小学校に入学し、総士と座席が隣り合わせになった時から一騎は人なつっこく総士に話しかけてきては交流を持とうとした。
他人に親しく接せられた経験のとぼしい総士は、最初それにとまどってぎこちない態度を取り続けたが、一騎はそれにもメゲずに総士とつきあい続けた。いつしか総士は一騎の前でだけ、うちとけた笑顔を見せるようになった。
ずっと一騎と一緒にいたい。
それが総士の願いだった。
一騎だけが、総士を受け入れてくれるこの世でただひとつの存在なのだ。
今日、総士が一騎の家にリモコンカーを持って遊びに行ったのも一騎に会いたいだけだった。新しいリモコンカーの性能を客観的に見極めて欲しいなんてただの口実だった。
そんな総士の思いも知らずに、一騎は操縦機を総士に返そうとする。
「なあ、俺もういいから総士がこれで遊んでくれよ。このリモコンカーの性能がすごいってことはとってもよくわかったからさ」
「で、でも……。一騎もまだまだ遊び足りないだろうし」
苦し紛れに総士はそう言って一騎を引き留めようとした。
総士の望みはささやかなものだった。このまま一騎にここにいて、自分と遊んでほしい。 リモコンカーを使ってべつに遊ばなくてもいいから、ただ言葉をかわすだけでもいいから、自分といっしょにいてほしい。
だが総士は自分の思いを相手に伝える術を知らなかった。親にそういった基本的なコミュニケーションを学んでいない子供だったのだ。
「いいよ、俺は」
一騎はにっこりと笑った。空からさしこむ陽光は、一騎の笑顔によく映えた。総士にはその笑顔がまぶしくてたまらない。
「俺、今日はこれから剣司たちに野球に誘われてるんだ」
総士は胸がずきりと痛んだ。周りの緑の木々もすべてくすんだ色に見える。一騎は自分を置いて行ってしまうのだ。
総士が青ざめたのに気づいた一騎は、怪訝そうに言った。
「総士、気分が悪いのか?」
「い、いや……」
「そうか? 総士がいいんなら、俺と一緒に剣司たちと野球しないか? お前がいたらきっと俺らのチームは優勝できるからみんなも喜ぶと思うよ」
嘘だ。総士は思った。剣司は、クラスでも総司を嫌っている人間だった。授業中、総士が先生に指されて答えるとものすごい目でにらんでくるし、何かというと「俺は皆城が気にくわねえ」とつっかかってくる。剣司は一騎を慕っているから、剣司と総士の仲はなおさら悪かった。
正確に言うと、総士は剣司を嫌ってなどいない。というより無関心で、自分になにかと張り合ってくる剣司をわずらわしいと思っているだけだった。総士を一方的にライバル視している剣司には、総士のそういった態度が腹立たしくて仕方がないのだ。
総士にそうした人間心理の機微などわかろうはずもない。
総士の沈黙を、一騎は拒絶と受け取ったようだった。
少し気まずい表情をして、総士の手に押しつけるようにしてリモコンを渡した。
「じゃあ俺、今日はもう行くから。またな、総士」
一騎は総士に背を向けた。
総士は一騎の背中をつかんだ。勝手に体がそう動いていた。
「な、何だよ、総士」
一騎が驚いた目をして振り返る。
「行くな、一騎」
総士は言った。
いつも冷静沈着で大人びている総士が、すがるように自分を見ているのに一騎は面食らった。
一騎は頭が良くてカッコいいこの同級生が好きなのに、これでは総士ではないような気がした。
総士の切れ上がった双眸は涙ぐんでいるのか潤んでいた。 赤い唇が散りかけの桜花のごとくわなないている。
普段から綺麗な顔をしていると、一騎は総士のことを思っていたが、ここまで美しいと思ったことはなかった。クラスの女子よりも、島中の女性よりも、テレビや雑誌で見た女優やタレントよりも今の総士はなまめかしく、あでやかだった。
一騎は自分の鼓動が早くなるのを感じた。友人の男相手にこんな気分になっている自分はおかしい、と一騎は思った。
「離せよ!」
一騎は総士の手を振り払った。
次の瞬間、一騎の唇は総士に奪われていた。総士はひとおもいに一騎を抱きしめて、覚悟を決めたように一騎にくちづけていた。
一騎は総士の唇のやわらかさとあたたかさに目を見開いたまま、まぶたを閉じた総士のまつげの長さに驚嘆していた。
やがて総士は一騎からゆっくり唇を離した。一騎は魅入られたように直立不動していた。「ねえ、一騎。僕たちひとつにならないか?」
総士がゆっくりとささやいた。一騎は総士のひたむきなまなざしに捕らえられながらその言葉を聞いている。頭の芯がぼうっとして、何も考えられない。
総士は一騎に両手を差し出した。一騎は夢遊病患者のようにその手を握った。
総士の手は唇と同じくあたたかかった。
だが、一騎は固くて冷たいものが自分の手に突き刺さってこようとしているのを感じた。 その痛みに一騎は悲鳴をあげて、総士の手を振り払った。一騎はとっさにあとじさった。
総士の手からは、一騎が今まで見たことのない青白い水晶のような物体が突き出ていた。「一騎……僕とひとつになるのはいやなの?」
総士は悲しげな目をして、一騎に歩み寄る。
「うわあああ!」
一騎はおびえて叫んだ。じりじりと後じさる。が、総士も一騎と距離を詰めていく。一騎は背中に衝撃を感じた。ふりかえると、背後は木によって封じられていた。
「僕とひとつになろうよ、一騎。ひとつになれば寂しいことも嫌なこともみんな忘れられるよ」
一騎をいざなう総士は優しく、はかなげで、清らかさに満ちていた。誰しもが今の総士を愛さずにはいられないだろう。
一騎はふっと父親が以前たわむれに言っていた言葉を思い出した。
”なあ、一騎。悪魔ってきっと本当はものすごく綺麗だと思わないか? でないとたくさんの人間が誘惑されたりしないだろうよ”
今の総士はまちがいなく悪魔だった。
総士の手のひらの青い物体が光を強く放ち、一騎に向かって伸びてくる。
一騎はとっさにかがんで身をかわして、地面に落ちていたとがった石を総士に投げつけた。
総士は倒れた。青白い光は消えた。
一騎は荒い呼吸で、おそるおそる総士に近づいた。
総士は石が命中した右目から大量に出血しながら、死んだように横たわっていた。
「うわあああああっ!」
友人を殺してしまったかもしれない罪の意識と恐怖にさいなまれて一騎は絶叫した。
一騎は視界の端に、青空にきらりと光る真昼の流れ星を見た。
それは、総士の手のひらに生じていたあの忌まわしい結晶に似ていた。
”あなたはそこにいますか?”
その日、竜宮島のラジオからそのメッセージは流れた。
こうして竜宮島の住人たちと地球外生命体の戦いの火ぶたは切って落とされた。
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