クリスマス・イヴの奇跡
平成５年１２月の暮れも押し迫ったある日、私は下腹部に少し異変を感じた。
何かかたまりのようなものがある。ごろごろとした感じのいやな手触り。
通院のサイクルがまた元日を含めたものになりそうだったので、
次の診察日にひと月治療を休む旨を医師に伝えるつもりだった。
担当のＴ医師は年末２４日と２８日が年内最後の診察日。
基礎体温は高温期が続いていた。
半年ほど前にも高温期が続き、かなりの期待をもって診察を受けたが、妊娠反応はなかった。医師は「長くホルモン剤を投与しているのでその影響で妊娠していないのに高温期が続いているのでしょう」との説明だった。
だから今回も「期待するな」と夫には釘をさされていたし、「２８日の年内最終日の診察にしたら？この間のこともあるし、ぎりぎりまで待った方が確実と違う？」と言われていた。
でもこの下腹部の変なかたまりが気になるし、『もしも』の気持ちが私にあって２８日を待てなかった。１２月２４日、クリスマス・イヴの奇跡に力を貸して欲しかったのだ。
年末が近いとあって産科外来はいつにも増して混んでいた。待っている間も
『またダメなんだから期待せんとこ』
『でも高温期が２２日目なんだよ。朝、空ゲップだって出たし。』
『半年前だって高温期続いていたけど、違ったじゃん。』
『じゃ、この下腹部の違和感は何？』
『悪い病気かも…』
と、私の心は交錯していた。長い１時間半だった。
名前が呼ばれて診察室に入り、Ｔ医師の前に着席した。
「ずいぶん長くかかりましたけど、おめでたです。」
と医師が言った。尿検査（診察前に尿を提出していた）で妊娠反応があったのだ。
『えーっ。ほんとぉー？やったー！！』
「ありがとうございます。」と言おうとした瞬間、
「不妊治療を長期間続けていて高齢出産ということになると、流産率が高いんです。」とＴ医師はニコリともせず、冷静な声で言った。
「絶対安静を守れますか？トイレと洗面以外は寝ていられますか？家事もできませんよ。できればすぐ入院してはいかがですか。ベッドはすぐ用意します。」
と、一気に話された。
「ありがとう」の「あ」の字を私はグッと飲み込んでしまった。
そうか、手放しで喜んでいる場合じゃないのか。
妊娠が確認できたということは、そこから流産との闘いが始まるのだ。
『入院』どうしよう。夫はまだ妊娠の事実すら知らない。
できれば入院せずに自宅で安静にしていたい。
でも年末年始で外来は休診になる。そんなときに何かおきたら…
内診中も返事を迷った。
診察の結果、下腹部のかたまりは卵巣が腫れているというものだった。妊娠によって分泌されるホルモンと不妊治療で投与されたホルモンとが重複したため、異常に腫れているのだ。ホルモン治療をしていない人がこんなに腫れていた場合は、即手術しなければならないらしい。私の場合は３ヶ月もすれば腫れがひくそうだ。
赤ちゃんの超音波影像（いわゆる心臓の拍動の確認）はまだ確認できなかった。
残念だった。実感がまだわかないままだった。
今日までいろいろ力づけてくれた看護婦さんが「よかったねぇ、いいクリスマス・プレゼントやねぇ。」と声をかけてくれた。
やっぱり今日は自宅で夫と喜びを分かち合いたい。
私は入院か自宅安静か、夫と相談させて欲しいと医師に伝えた。
Ｔ医師は渋い顔で「いつでもベッドをあけておきますから、何かあったらすぐ入院して下さい。」と念を押すように言った。
私は診察室を出ると公衆電話に走った。（当時は携帯電話を持っている人はまだまだ少なかったのです。）夫には、職場には緊急以外は電話するなと日頃言われていたが、今がその緊急時だと思った。
電話口に出た夫は事情を聞くなり開口一番、
「なんで今すぐ入院せえへんのや！！先生がそれほど心配してくれてはるのに。年末年始に何かあっても俺はどうもしてやられへんで。」と、叱られてしまった。
とりあえず帰宅する旨を伝えて、電話を切った。
Ｔ医師から処方された薬を、薬局部で待った。薬番号はジャスト６００番だった。１２０人分待って帰宅した。
仕事から帰宅した夫の考えは決まっていた。入院、即安静。
私もだんだん不安になってきていた。
トイレ、洗面以外寝ているというのは主婦にとってなかなかできることではない。現にその日だけでも、お米をといだり、洗い物をしたり、乾いた洗濯物をたたんだりと雑事をしていた。『これぐらい…』とは思うものの、何が流産の原因になるのかが分からない以上、その行為が命取りになりかねない。
流産が回避できるまでなら、辛抱しよう。
そう考えて、翌日、クリスマスの朝、私は入院した。
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