ソウル生活〜

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私は1998年6月に韓国へ日本語教師として初めて来ました。

日本で日本語教師として働いた経験はありませんでした。



神戸の大震災のあと、それまでの仕事を辞め、日本語教師養成学科(900時間、全日制)へ1年間通いました。その学校は2年制で、2年目は実習があったのですが、日本語教育能力試験にも合格したので、わざわざお金を払って教壇実習をするよりは、お金をもらって経験を積んだ方がよかろう、それに、2年目の授業料も貯金を使い果たし、学校に支払う授業料も無かったし。



日本語教育関係の本を扱う本屋で偶然、チュンチョン(春川)にある学院が日本語教師を募集している張り紙を見ました。


「湖と川に囲まれた美しい街、チュンチョンであなたも日本語教師をしませんか」


見たとき、「美しい街、チュンチョン」どんなところだろう??

とても美しい、いいイメージがひろがりました。


それまで韓国に興味も関心もなかったので、養成学校で韓国語の授業もありましたが、受講してなかったのです。儒教と男女差別の国、韓国だと勝手にイメージを作っていたし、日本語を韓国で教えると、歴史問題も絡むので、面倒くさいから私は韓国には行かない!と決めていたのです。



ちなみに、その時の同級生は全員韓国語の授業を受講しました。たった一人受講しなかったのが、わたし です。


その時間はボランティアをしました。震災の翌年だったので、一人暮らしのお年寄り、仮設住宅で暮らしているお年寄りに、お弁当を配達するボランティアです。


もちろん、お弁当作りはできないし、時間もなかったので、できあがったお弁当を車で配達するのです。ひとつ500円だったかな?


1週間に一度、時間は3時半頃、学校を出発。6軒くらい配達します。
お年寄りは500円硬貨を握り締めて、玄関先で待っています。
いつも、その500円硬貨がぬくーーーかったので、ずっと待っていたんだ、
と胸があつくなったもんです。


仮設住宅で一人暮らしをしていた、目の不自由なおじいさんは、お弁当を持っていくと、いつもあがってお茶を飲んでいけと、勧めました。二人で回っているときは、運転手が待っているからすみません。と断りましたが


一人で回ったときには、少し一緒にお茶を飲んだこともありました。
そんなときは、帰るのが申し訳なくて、なかなか立てませんでしたが、
次のお弁当を待っている人がいるので、心を鬼!にして帰りました。


仮設住宅の中は人気がなくて、暗くて、じめじめしていて暮らすには寂しいところでした。



おっと、話しがそれました。


そのチュンチョンの募集を見て、履歴書を学院にファックスで送りました。
当時はインターネットなんて、一般的じゃなかったからね。


学院長から国際電話があり、急募なのですぐ来てほしい、と言われました。


面接もしないで決めるの?

向こうはいいかもしれないけど、私はそんなに簡単に決められないわ。

養成講座の同級生、先生に相談してみたら、一度見にいったらどうかといわれ、5月の連休を利用して、初韓国訪問を果たしました。

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