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ジェンダーの意味について調べてみたら、「社会的・文化的な性のありよう」と書かれていました。性のありようとは、男性として、女性としての在り方だともいえます。私達は、生まれてきたその時代の社会的、文化的な男性、女性の在り方に従って生きています。私達は自分の生きている時代が要求している男性像、女性象になろうとして悪戦苦闘しているように思えます。時代が要求している男らしさ? 女らしさ?男性は社会的、文化的な男性像に支配されて男性を演じなければならない。そして、女性の都合で見られた男性を演じなければならない。女性は社会的、文化的な女性像に支配されて女性を演じなければならない。そして、男性の都合で見られた女性を演じなければならない。世界という舞台(社会、文化)で演じて生きていることを自覚することが出来れば、ときには舞台から降りることも出来ますが、演じていることを忘れてしまうと男性、女性という性差に振りまわされてしまいます。新しい世界で生きていくためには、舞台から降りて演じていない自分を探しださなくては。新しい自分探しの旅をして自分を見つけ出すことが出来れば社会的、文化的な世界を越えた新しい世界を見つけ出すことが出来るかもしれません。新しい世界で新しい生き方を見つけていく時が来ているようです。
2008年07月06日
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チベットで暴動が起きています。 世界中でいろいろな事が起きています。 人のからだは、空間を越えてつながっているような感じがします。 からだは休むことなく瞬間瞬間、何かを感じているような気がします。 世界で起きている事を。 私たちは、いろいろな自然現象の作用に影響されて生きています。 もう少し広げて見ると太陽、惑星・・・にも。 私たちは、世界で生きている人たちの様々な状態に反応し影響されて。 そして、私たちは世界で生きている人たちに影響を与えています。 チベットで起きている事はわたしとつながっている。 わたしの中で起きていることはチベットで起きていることとつながっている。 私は世界。 世界は私。
2008年03月22日
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つきぬけるような青い空 まぶしいひかりがさしこんでくる静けさ 緑色の植物のあざやかさ アネモネの紫がからだにはいってくる 流れてくるピアノの響き 静かに時が流れていくここちよさ 忘れていた何かがよみがえってくるかのように わたしという存在は いま在る なにものにもかえられないふかいふかい静けさのなかで わたしは生きている 世界とともに 世界とわたしをへだてているものはなにもないかのように 時はなくわたしは ただ在る
2008年03月01日
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静寂空にはひとつの雲もない空からあかるい光が放たれている空気は静寂さで自然を抱き静寂さは人をやさしく観てくれる人の命は静寂のなかで導かれていく静寂に導かれて遠いまなざしに導かれて人は光とともにある
2008年01月19日
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早朝の公園には、張りつめた空気が漂っている。人の気配は少ない。池の水面で小鳥が静かに泳いでいる。木々は何かを伝えている。張りつめた空気は、人によって失われていく。静かに流れていく静寂を人は恐れているのか。自然は、いつも何かを伝えようとしている。命の息吹を。木々に止まっている小鳥は、太陽へと飛んでいった。人も光へ向かって羽ばたくことができたら・・。
2008年01月03日
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「音楽」音楽の持っている力は不思議だ。ひとつひとつの音が世界を創って、創造主(作曲家)の世界へ誘ってくれる。音楽を聴くことによって、いろいろな異次元の世界を楽しむことができる。とても至福のときだ。「ボーッとして」ボーッとしていると気持ちがよい。誰とも会わなくてもよい。世界から離脱したような心地よさ。電車通勤、街中、人々の喧騒から解放される心地よさ。静かに静かに自分を感じる。時間は止まっている!私のまわりでいろいろな出来事が動いている。私は静かに流れている風景を観ている。人々は忙しそうに、どこへ向かっているのだろう?ときには、何もしないでボーッと・・・
2008年01月02日
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12月22日の夕方頃の太陽はとてもまぶしく神々しい光を放っていました。翌日の12月23日の夕方の月は、とても近くで大きな光を放っていました。今回の太陽と月の光は、初めての体験です。新しいときが訪れる気配を感じました。あたらしい時代が始まりそうです。あたらしい時代?どんな時代なのか?不安もありますが、期待もあります。今までの古いときを終わりにして、あたらしい風に乗って生きていることを楽しみたいです。新しい風は、吹いています。新しい風を感じてみたいと思えば、いつも風は吹いています。あたらしい風を感じ、あたらしい明日へ向かっていきていきましょう。ポピーの詩さん、ミズキの花さん・・・。いろいろなコメントを頂きまして、有難うございました。いっしょに新しい風を感じ、幸せが訪れますように。感謝。
2007年12月31日
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ドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴きました。夭折の天才と言われているチェリストのジャクリーヌ・デュ・プレの演奏でした。とても、よく聴こえました。聴こえたというよりも、とてもよく感じられました。音の繊細な結晶が、からだの細胞の中に入ってくるような感じでした。チュロはからだに響いてきます。とても繊細で女性的な美しい演奏でした。(デュ・プレは女性です)ドヴォルザークとチェロとチェリストとわたし。時間を超えて、いつもとは違う空間で出会っているような感じです。わたしたちは、時間と空間を超えて、いろいろなコトと出会えるのでは。音楽を聴いていると、そんな感じがします。音楽の捧げものに感謝。
2007年11月17日
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バッハの「音楽の捧げ物」という曲を聴いていると、静かにゆっくりと音楽の捧げ物が贈られてくるようです。捧げものは、静寂であり、時を止めてくれて、今、ここにいることを許してくれる心地良さがあります。日々の喧騒の中で大切な事を見失ってしまいそうです。静寂は、わたしをとても大切な時に戻してくれます。「音楽の捧げ物」を聴いていると、静かに心の中へ中へと深まっていく心地良さがあります。静かに、わたしを導いてくれる音楽の捧げ物に感謝。
2007年09月29日
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生きていると、いろいろな思いが出てきます。その思いは止まることなく無秩序に出てきます。この思いは、どこから出てくるのでしょうか?思い・・私は優れている、私は劣っている、私は美しい、私は汚い、思い・・私は正しい、私は悪い、私は魅力的、私は魅力がない、思い・・私は幸せ、私は不幸せ・・・私は、いろいろな思いに翻弄されているようです。まるで、あたまの中で思いの言葉がCDで止まることなく流れ続いているようです。うるさいCDを止めることは出来ないようです。でも、CDから流れている思い(言葉)は捉えることは出来そうです。最初は、うまく思いを捉えることが出来ませんが少しずつ思いの中がわかってきます。思いの主旋律(中心)は比較のようです。比較することは、良い、悪いということではないと思います。必要に応じて比較しなくては生きていけません。しかし、生きていることを苦痛に思わせる比較は止めなくては・・・なぜ比較するのでしょうか。自分から聴こえてくる比較のメロディーを感じていると心地良いとは思われません。比較のメロディーは、自分で望んで創ったとは思えません。もし、比較のメロディーが聴こえたら、自分が望んでいるの?心地が良いの?自分に話しかけて見ると。いままでとは少し違ったメロディーが聴こえてくるようです。
2007年09月02日
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先日、詩人の谷川俊太郎の朗読を初めて聞きました。谷川さんは75才になりますが、とても生き生きとしていました。谷川さんが朗読する前に、詩を読んでみましたが、あまり何も感じない詩もありましたが、谷川さんが朗読すると、とても詩が魅力的な世界へと変わりました。谷川さんが朗読すると言葉に息(魂)が吹き込まれたように、詩の世界が開かれていきます。とても不思議な、楽しい体験でした。谷川さんは、詩は隠語だと言っていました。隠語の意味は、特定の者同士しか通用しないということですが、谷川さんがどのような意味で表現されたのか?私は言葉について時々考えます。人と会話をしていて分かり合っているのか?私の表現していることを人はどのように捉えているのか?人の表現していることを私は理解しているのか?何よりも、言葉は人にとって何なのか?言葉?言葉?・・。言葉が通じ合えると思える人の関係は、特殊な関係なのかもしれません。特殊な関係、谷川さんが言っていた隠語が通じる関係なのかもしれません。私たちは、日々人と言葉を交わしますが、なんとなくどの程度通じ会っているのか分かっているのではないでしょうか。そして、より分かり合っていると思われる人同士は関係が続いていくような気がします。谷川さんは、詩は隠語と言っていましたが、詩の世界に限らず私たちの言葉の世界は隠語なのかもしれません。
2007年08月18日
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シュバイツァーのオルガンの演奏を久しぶりに聞きました。シュバイツァーは、アフリカで生涯医療に捧げた医師であり、また、オルガニストでした。バッハの音楽は上(天)から降りてくるよう感じですが、シュバイツァーの演奏は上(天)からではなく下(地下)から聞こえてくるように感じます。何かゆっくりと地響きしながら近づいてくる感じです。その地響きを感じていると深すぎて少し怖さを感じます。シュバイツァーがオルガンの音をとおして何かを語っているように感じました。私は何かを信仰しているわけではありませんが、オルガンの響きをとおして、祈りということを感じました。とても深く静かに、呼びかけているように。シュバイツァーの祈り?何を祈っているのか。人間という存在を賛美、畏敬しそして静かにどこかへ導いてくれようとしているかのような祈りを感じました。1965年に亡くなりましたが今も静かに私たちを見守っていてくれるような気がします。
2007年07月29日
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数年前までは、ほとんど絵を鑑賞しませんでしたが最近、絵を鑑賞することが増えてきました。絵を見る機会が増えていることにもよるのでしょうが私の感性に変化が出てきました。以前は絵を見ても、ほとんど何も感じませんでしたが最近は不思議な感じがあります。先日モネの絵を見た時も妙な感じでした。風景画を見ていると、そこに描かれている土の感触雪の冷たさ、空気が感じられます。その描かれている場所に、私がいるという感覚です。もしかしたら、画家が感じていることを少し疑似体験しているのかもしれません。私は、妙な感じと思っていますが、妙なことではないのかもしれません。絵は不思議な力を持っていると思います。私が魅せられる絵には画家の命が吹き込まれています。絵をとおして画家の生の力を感じます。画家は絵を描くことによって、何かを求めています。その探求心は凄まじい力です。その力はどこから出てくるのか、とても不思議です。その力に圧倒されてしまいます。絵は鑑賞するのではなく画家と出会いそして画家の生と共感することなかのもしれません。出会いに感謝。
2007年07月04日
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グレン・グールドのピアノを最初に聴いてから、20年以上が過ぎました。ふっと歩いていると、ゴールドベルク変奏曲を思い出しました。そして今、ゴールドベルク変奏曲を聴きながらブログを書いています。ゴールドベルク変奏曲は、いつ聴いてもいいです。グールドは、ゴールドベルク変奏曲でデビューして、最後の録音がゴールドベルク変奏曲でした。グールドの生は、ゴールドベルク変奏曲そのものであったと思います。ゴールドベルク変奏曲はアリアから始まり、30曲の変奏の後に最初の同じアリアで終わる。私は曲を聴いていると、人生という螺旋階段を静かに昇っていくイメージが浮かびます。そして、人の生そのものであると感じます。グールドのピアノの音には、生の誕生、喜び、悲しみ、終わり・・生の中で感じること、経験することの全てが表現されているように感じます。まるで、私が生きて感じること全てがピアノの音に含まれているかのように。ピアノの音は不思議です。一音一音は単なる音ですが、弾いている人の生をそのまま音をとおして感じているのだと思います。ピアノの音をとおしてグールドの生を感じているのだと思います。音をとおしてグールドと出会っている。そして生について共感しているのだと思います。音楽に限らず、絵、詩・・・というものをとおして、過去の共感出来る人と出会うことが出来ます。それは、私の生にとって大きな喜びです。そして生きる力です。今、振り返ってみると生の様々な時に音楽がありました。そして、音楽が私の生を支えてくれていたと思います。音楽をとおして、いろいろ人たちが生きる力を与えてくれていたのだと思います。そして今、ゴールドベルク変奏曲が終わりました。今は亡き友へ感謝
2007年06月23日
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美は世界を救う 美とは・・。音楽を聞いていると、音をとおして美の世界を感じます。絵を見ていると、色彩をとおして美の世界を感じます。美は私に生きる力を与えてくれます。美は生命を再生させてくれる力です。美は、日常世界から解放させてくれます。美は、時間と空間を超えています。美を感じる力により、私たちは太古の命を呼び戻すことか出来るのでしょう。私たちの生きている世界は、肉体と精神を閉じようとしています。そして、光を遮ろうとしています。いつも押し込められるような不快と不自由を感じます。この世界を超える大いなる力は、美を感じる力です。しかし、私たちの感性も閉されています。何かによって・・・。それでも、美は私たちを開かれた世界へといざなってくれます。美は、命そのものだからです。美は、私たちを超えた世界だからです。
2007年06月16日
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私は、ときどき押田成人さんの著作の題名「祈りの姿に無の風が吹く」を思い出します。とても好きな言葉です。とてもこころが惹きつけられる言葉です。押田さんは数年前に亡くなられました。押田さんは神父として、海外の世界宗教会議に参加されたり、海外で様々な精神的指導者と交流をされて人間の存在について問われていた方でした。押田さんは神父でしたが、作務衣を着て活動をしていました。見た目は神父には見えませでした。押田さんはキリスト教徒でしたが、仏教徒であったのでないかと思える程、仏教についてもとても造詣が深い方でした。私が押田さんと初めて出会ってから10数年が経ちますが、時間の経過を感じません。いつも私の中に存在しています。そして、いつも私に何かを問いかけているように感じます。押田さんは、とても不思議な人でした。一緒にいても存在しない感じ、でも存在が深くて広い。まさしく、「祈りの姿に無の風が吹く」という存在なのかもしれません。押田さんの存在が祈りの姿でした。存在することは祈りなのかもしれません押田さんが言われている「無の風」ということは、私にはまだよく理解できませんが、生の息吹を感じること、存在と出会うことなのでないかと思います。無の風を感じことが出来たら、生とのあたらしい出会いそして、あたらしい世界を見つけることが出来るのかもしれません。存在は、本来、瞬間瞬間、生とあたらしく出会っていると思えます。瞬間瞬間、あたらしい世界と出会っていると思えます。今日、「無の風」と出会うことが出来れば、明日は、あたらしい出会いが訪れるのでしょう。押田さんに感謝。
2007年06月02日
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言葉に命があった。命は人の光であったとヨハネは説いています。命に光をもたらす言葉をみつけて表現できたら、私たちの生き方は、変わっていくのでしょう。現代人は、記号コトバ(私の造語)に慣れすぎて、命の言葉を忘れてしまったのでしょうか。記号コトバとは、モノをあらわすコトバ・・・パソコン、写真、カメラetc。記号コトバの氾濫によって、私たちは大切な命の言葉を見失ってしまっています。赤ん坊は、全身で懸命に何かを表現しようとして叫びます。まさしく命そのものから発せられている何か。やがて、それが言葉となります。本来、言葉とは命そのもの、存在そのものなのではないでしょうか。命の言葉・・うれしい、悲しい、楽しい、愛して・・を表現出来たら、何かが変わっていくのではないでしょうか。言葉、言葉、命の言葉を見つけられたら。
2007年05月26日
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最近、花、植物をとてもきれいに感じます。今までにこんな感じの記憶はありませんでした。とても不思議な感じです。何気なく歩いていると、赤い花、ピンクの花・・・いろいろな植物が私の中に飛び込んでくるような感じがします。とてもリアルに鮮やかにいろいろな色が私の中に入ってきます。子供の頃に、感じた記憶は消えてしまっていますが、たぶん今感じていることを感じていたのでしょう。そして、不思議な感じがいろいろとあったのでしょう。生きていることをとても神秘に感じていたのでしょう。花、植物と出会って感覚が開かれていくような気がします。
2007年05月26日
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