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まず弁当箱はアルミ合金製の底の深いドカベンタイプのものに限る。まずゴハンを1,5センチの厚さに敷く。しゃもじでせわしなくつっついて厚さが平均になるように整地しておく必要がある。 ここにすばやく第一段の海苔を敷くわけである。これもまんべんなく白いゴハンの敷地の全体にかぶせて、全部がまっくろになるようにするのが理想的だ。 それが終わったら、ショー油をかける。ここで注意すべきはあまり沢山ドバドバというふうにかけてはならぬということ。 この場合は弁当のハジの方から日光いろは坂ふうのくねくね道かけのぼり型に素早くショー油を振りかけていく、という方法をとるのである。 それが終わったら、その上に再び厚さ1,5センチのゴハンを敷く。 さて勝負は第三層目である。ここではすぐに三段目の海苔を敷いてしまってはいけない。必殺弁当作り人は、ここで小鉢にカツオブシを入れ、さらにネギを細かく切ったものを入れる。分量はカツオブシ7に対してネギ3といったあんばいだ。 この小鉢にショー油を注ぎ、素早くかきまぜる。こいつを第三層の上に薄くまいていくのである。これがすんだら、また海苔を敷いていく。この時はもう上からショー油はかけない。 『全日本食えばわかる図鑑』椎名誠 集英社文庫 「正調・三段式海苔弁当の作り方」 これは、『ビッグ・コミック・スピリッツ』に連載されたコラムをまとめたもの。この「正調・三段式海苔弁当の作り方」は、つばを飲み込みながら読んだ。 実際に作ってみた。もう20年前のことだから、まだ三段弁当が食べられた時期でした。今はとても無理。でも、食べたいなぁ。
2005.12.13
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『毎日新聞』日曜日の書評欄(10月9日)のは、「林達夫」。選者は谷川健一で、選んだ三冊は、『歴史の暮方』『林達夫セレクション2 文芸復興』『笑い』(ベルクソン)。 『笑い』を選んだ意図は分かるけれど、『思想のドラマトゥルギー』(平凡社ライブラリー)を入れてほしいよな・・等と勝手に考える。 一時、林達夫と藤田省三に「凝った」時期があって、よく読んだ。藤田省三についてはまた改めて書きたい。 さて、とりあえず、林達夫だが、私が彼を「発見」したのは、選者も紹介している『歴史の暮方』の中に収録されていた「鶏を飼う」を読んだ時だった。中公文庫だった。 著作集の解題を見ると、「鶏を飼う」は、1940年3月号の『思想』(岩波書店)に掲載され、1946年に『歴史の暮方』筑摩書房 に収録されている。 1940年といえば、太平洋戦争が始まる一年前である。その年に林は、「鶏を飼う」を書いた。以下に内容を簡単に紹介する。 私は他人からは札つきのディレッタントのように見られているが、趣味や娯楽に身を入れたことはない。ただ、生活的雑事を大切にし、凝り性なので良く調べて自分でやってしまう。私は最近鶏を飼い始めている。 以下、林は、鶏の「飼料」、つまり「エサ」の問題に話を絞り込む。そして、彼が気に入っている「横斑プリマス・ロック」という品種についても。 たかが「鶏のエサ」から何が見えてくるか。 「満州からはとうもろこしも高粱も大豆粕もろくろく来ない。・・・仏領インドシナやジャワや南米のとうもろこし、カナダの小麦屑がほとんど輸入できなくなった故にこその飼料難だから、そこから何かを期待することも出来ない」 「もっとも『不経済』だったはずの。わがプリマス・ロックが、・・早くも『斯界の花形』として登場しているのだ。たった三ヶ月前に、横斑ロックはおよしなさいと言われていたのに! 私は唖然として『日本的テンポ』のジグザグの激しさと素早さとに又しても驚き入っている次第である。 これで見ても、発展という言葉はわが国には全然不用であるらしいことがわかる。変転という言葉でたいていの移り変わりは片付くからである。 文化の水準をどこまでも守り通そうとする熱意のない国民は、実は文化の何たるかをろくにも知らない国民であろう。」 こう書いてきた林は、「新聞や、何々公論などと言う気の抜けた印刷物に目を通す暇があるなら、名もない産業団体の機関誌でも読むほうが、日本の現実についてよほど深い認識が得られる」と書き、最後の言葉を書き付ける。 「馬鹿につける薬はない。馬鹿は結局馬鹿なことしかしでかさない。迷惑するのは良識ある人々である。ここに言う馬鹿が誰のことを指しているかは、諸君の判断にお任せして、私からは言わないでおく。」 「鶏のエサ」という一見して小さな窓から何が見えるか。 林が語っているのは、鶏のエサの不足である。しかし、「飼料」という言葉を、「食料」と置き換えたらどうなるか?ことは鶏のことに止まらないという事は、読み手が丁寧に読めば了解できることではないか。 この時期、すでに心ある人たちは、「奴隷の言葉」で語らねばならなかった。 林は、『歴史の暮方』の序(1946年)で、「この書に集められた文章が書かれた時代、すなわち1940年から42年にかけて、わが国は世を挙げて一大癲狂院と化しつつあるの感があった」と書いている。(「癲狂院」とは、キチガイ病院、「キチガイ」という言葉は、最近は使用が控えられているようだが、ここではこう言うしかない) そして、序の末尾にこう書いた。 「人はこの書の中から、今となっては何の甲斐もなき予見や洞察や風刺などという、つまらぬ知性の火花のはかない名残を捜しださない様に望む。」 選者・谷川は、以下のように書き始めている。 「林達夫の『歴史の暮方』に収められた文章の多くは、太平洋戦争前夜の日本に生きる知識人の絶望感を、低い声で、イロニーをまじえて、つまり反語的に述べたもので、時代を越えて、今なお読まれるべき名著である。」 「今なお読まれるべき」なのはなぜなのか?「わが国は世を挙げて一大癲狂院と化しつつある感が」あるからか? 「馬鹿につける薬はない」という言葉が、「時代を越えて」現実味を帯びてきたからか? 私は、林に倣いたいと思う。それは、「生活の雑事を大切にすること」だ。そこから見えてくることを大切にしたい。 著作集の読み直しはもちろんのこととして。
2005.10.10
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1999年4月19日 桂枝雀亡くなる。59歳。 この人の高座を二度ほど見たことがある。その可笑しさは類がなかった。こんなタイプの面白さを持っている落語家を知らない。 CDで聞いたことがあるが、あの面白さは味わえなかった。生で見るか、DVDで見ないとあの面白さは伝わらない。その点は師匠の米朝とは大きく異なる。米朝の場合は、その噺の面白さはCD、テープでも十分に伝わってくる。しかし、枝雀はそうではない。 高座で「次の御用日」を見たとき、「外へと出ていきますと、お日いさまが、ぴかー」と喋りながら、自分のつるつるの頭に手のひらを当て、それから腕をぴーんと伸ばす、その仕草がなんともおかしい。 口をひょっとこのようにすぼめたり、ある場合は、床に額を打ち付けたりと、座布団からはみ出しての大熱演である。 とにかく、「落語におけるおかしさとは何か」について徹底的にこだわった人である。 そのこだわり方、熱の入れようは尋常ではなかった。 「その頃、東京のNHKに出演していて、定期的に東京に行くんです。師匠は飛行機の中、空港を出てからの電車内、道路を歩きながらと,NHKに行くまでの道中、ところかまわずネタを繰るんです。繰り出すと声が大きくなってくる。ネタには女性も登場するから、変な声を出す。まだ、東京ではそんなに知られてない頃でしょ。ハンチングをかぶった変わったおっさんが歩いてると周りからは変な目で見られるし、とはいえ、師匠から離れて歩くわけにはいかないし・・。」米朝事務所で枝雀を担当していた小林敏眞(としまさ)氏。『笑わせて笑わせて 桂枝雀』上田文世 淡交社 p63 その結果。 「歌舞伎座での枝雀は、噺を盛り上げ盛り上げて途中で切らず、一時間二十五分を一気に演じきった。緞帳が下りても拍手が鳴りやまない。客は総立ちだ。『師匠、カーテン・コールです。舞台に戻ってください。』楽屋に戻る途中の枝雀のところへ劇場の係員が飛んで来て叫ぶ。舞台裏が大騒ぎになった。『えっ、どうしたらいいのです?』枝雀は戸惑っていたが、緞帳が動き出すと再び舞台に出て、深々と頭を下げた。三百年の落語史上で、カーテン・コールが起きたのは恐らく初めての事だった。」1984年3月24日 歌舞伎座で「地獄八景亡者の戯れ」を演じたときのこと。p96から98 独演会だけではなく、NHKの朝ドラに出演したり、「なにわの源蔵事件帳」に主演、また映画「ドグラ・マグラ」にも主演している。英語落語にも挑戦し、海外公演も行っている。 しかし、鬱を患うに至る。 「私は落語に一生懸命で夜中にも、ふとこのやり方でどうかと思ったら、起きてネタを繰るんです。繰って,繰って、繰って・・・なんでこんなにまでせんといかんのかと思って、涙が出てくることがあるのです。」 彼は最後に自死を選んでしまう。 枝雀(本名は前田達(とおる))の父は、「ケ・セラ・セラの人」だったという。父は、こんなことを彼に語っていたと姉は証言している。 「達、世の中はなあ、その日が済んだら、また明日が来るんや。明日はまた、明日の生活があるんや」。 姉は言っている。 「父の生き方、そして父が達に話した言葉を思い出してほしかった。」 最後に、著者が紹介している枝雀の噺のマクラを引く。 「我々はここで、実に他愛のないことを話すのですが、と申しますのは、実生活というものは、他愛というものに満ち溢れておりますのでね。ですからもう、皆様方の頭の中には、あの他愛というものがある程度たまっているわけでございます。ここで私がまた他愛のあることを申しますと、在来からある他愛と、私が新規に申します他愛とが、皆様方の頭でぶつかってグチャグチャになります。私の方は他愛のないところでええのではと思います。ですから、ここでは、アハハッ、アハハッと笑って帰っていただけたら・・・」 これでおしまいでございます。こんな話に付き合っていただいてホントにスビマセンネ。
2012.04.19
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『司馬遼太郎の歴史観』中塚明 高文研 を読みました。副題は、「その『朝鮮観』と『明治栄光論』を問う」です。 著者の中塚さんは、朝鮮の近代史を専門とされている方です。 著者はいくつかの問いを立てています。 ○なぜいま、『坂の上の雲』なのか? ○日本陸軍がおかしくなったのは日露戦争後のことなのか? ○敗戦前の昭和は、それまでの日本の歴史と非連続なのか? ○司馬遼太郎は、朝鮮の近代史をどう見ていたのか? 『坂の上の雲』は、生前の司馬さんが映像化を禁止していた作品です。遺族の方たちがなぜNHKに許可を出されたのかという事情についても特に調べてみてわけでもありませんが、釈然としないものがあります。 これは想像ですが、「新しい教科書を作る会」という今では四分五裂した団体が、司馬さんの作品、とくに『坂の上の雲』を集中的に利用したことはまだ記憶に新しいところですが、司馬さんはそれを不本意に感じておられたのではないでしょうか。映像化されると「ミリタリズムを鼓吹する作品」として受け取られかねない、ということが司馬さんの危惧でした。 以下の三点については、中塚さんの論証は実証的に資料を挙げて司馬さんの論点を論破しています。これは、お読みいただければ納得していただけると思います。 私は、司馬さんが明治という時代、幕末という時代に共感を寄せたのは、やはり、司馬さんが戦車兵として生きた昭和前期への憎しみと言っていい感情から、明治に対してすがるような思いを持っておられた結果からではないかと推測しています。 司馬さんは、『明治という国家』の中で、「私たちはこんな国を作るために苦労をしてきたのではない」という木戸孝允の言葉を紹介しているのですが、木戸のいうところの「こんな国」については筆を進めていません。司馬さんの明治は、司馬さんにとって「あらまほしき明治」であったのでしょう。 『坂の上の雲』が連載されていたのは、1968年から1972年にかけての産経新聞紙上ですが、1972年に日本海海戦を描いた『海の史劇』を吉村昭さんが書き上げています。両作品を読み比べてみると、二人の作家の資質の違いが分かります。司馬さんは、人生の成功者を多く主人公とし、吉村さんは敗者、悲劇の人、埋もれた人を多く書いています。幕末をテーマとした小説においても、吉村さんは敗者であった徳川幕府への共感を強く作品ににじませています。第一回の司馬遼太郎賞(1998年)を吉村さんが辞退(立花隆氏受賞)しているのは謙遜でもなんでもないのです。不勉強のために吉村さんが辞退の理由をどのように公表されているかは知らないのですが、吉村さんは、明治という時代についての幻想と夢とを微塵も持っていなかったと思います。 私は司馬さんの作品も好きでよく読んでいます。しかし、『坂の上の雲』については、読み進みつつ強い違和感を覚えました。それは、中塚さんが指摘している如く、日清・日露戦争に対する司馬さんの見方に対する違和感でもありました。書かれなければならないことが省かれ、朝鮮半島を「日本の生命線」とした明治政府の考え方をそのまま踏襲していると思ったからです。 今年の年末に放映される「坂の上の雲」第三部、すべて見終わってのちにまた思うことを書いてみたいと思っています。 諸般の事情によって、私は大半の本を処分せざるを得ませんでしたが、吉村さんの歴史小説は箱に詰め込んですべて今のマンションに持ってきました。私にとって、吉村さんという人はそういう作家です。
2011.01.09
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