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40回目の神戸まつり穴水キリコは 3年前の能登地震から、ご縁あっての参加です。実は 小生、今回 はじめて知りました。懐かしさもあって見に行きたかったのですが・・(日付間違ってアップしたので 再度掲載です すいませんいつも ややこしくて)
2010.05.16
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穴水から輪島へ地震で崩れた漆蔵この漆蔵は、地震以前は漆蔵としては すでに使用されていなかったそうです。ですが 貴重な蔵と言うことが再認識されて 修復してサロンの様に使いたいとNPOが結成されたとか。漆蔵は湿気などの点で「輪島塗り(漆器)」の最終段階の仕上げに欠かせない空間であるそうです。災害復興の過程で 地域の「宝」が再認識されることがありますが これもその好例かと。この場所に隣接する、お隣の漆器店の漆蔵は震災前にも使っており、損傷して再建中。淡路などから左官職人をよんで壁塗りの最中でした。(写真は その漆蔵ではありません。サロンにする方です)なお穴水から輪島へはバスで。かつてはディーゼルがありましたが バスで30分ほど、快適でした。伺った漆蔵のあるあたり海士町(あままち)には細い道を歩くと 地震の跡と思われる空き地がありました。そこから また輪島駅へ歩くと、周囲をぐるっとベニヤで補強したお店や、建築中の建物が・・・駅に近づくと 町並みを考えて作ったと思われる通りを歩きます。かつて輪島に来たときにはなかったような・・・漆器店とか お土産物屋さんとかでなく 確か理髪店か塗装会社とかも こういう造りになっいましたから、一種の町並み保存というか 町並み創造ですね。(道路は明らかに広くなっていて新しい)これは おまけ。かつて鉄道・能登線?が通っていたときの駅の看板が残っていました。いまはバスターミナルですが 今も名前は「輪島駅」です。時間がなくて震災後に開発された※「能登丼」が味わえませんでした。※たしか地震後に観光振興で出てきたアイデアとお聞きしましたが。前にもあったのかも。飛行場にもあるときいたので(能登しただめ丼)、能登空港で食べればと考えていたのですが・・・レストランでは売り切れのようで。白えびのかき揚げうどん(これは これで美味しかった)をいただきました。能登空港は能登半島の背骨ともいうべき丘陵地を拓いたところにあります。展望台から、遠く内浦から能登島を臨んで(画面 右奥)。再訪できることを望みつつ東京へ・・駆け足の能登行きでした。
2008.09.22
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(震災復興関連で構想された)能登ふるさとモデル住宅は 川沿いに建っています。ヒバでできた美しい木の家が 川面に映っています。ゆっくり流れる川面と のんびりとした~気持ちがほんとうに 伸びやかになる~穏やかな雰囲気は わたしが初めて訪れた30年前から変わらないという印象です。モデル住宅近くでは 橋の建設もあり区画整理での工事中。かつて宿泊した宮森荘さんは 今回の地震のあと廃業されたそうで・・。その跡地近辺の看板です。↓わたしが住む阪神間、神戸では震災復興の区画整理があちこちで行われました。その多くは当初、住民の意思を無視して強行されたものです。被災した住民は行政とも闘い、あるときは譲歩を引き出し、そして妥協し 自分たちで町を作り上げるという もうひとつの復興の戦いを余儀なくされ それは結局10年近くに亘ったのです。自分たちの生活の再建をしながらの10年は結構 しんどかったったです。『自分の生活の復興もままならんのに、町の復興の面倒ごとまで まきこまれてしまうんか』という声も。穴水の復興街作りが 住民優先、住民参加、住民主体のものであることを願い・・「区画整理」の看板を見ていました。なにせ「区画整理」というと さまざまな権利は制限され、(当時の)『親の仇も同然』という気持ちがわいてきます。モデル住宅の対岸にある看板。新たな橋の計画で、この新橋を中心に復興シンボルロードができる計画のようです(2007年9月 1年前の説明会の様子)。川を中心にした町の再生には賛成。外から見ていると、やはりそれが穴水の魅力ですから。でも 阪神・淡路の震災でもそうだったのですが 立派な道路は出来たが 個人の住宅再建は 未だで 広い道路ばかり目立つというのでは がっかりですから・・・街並み整備、個人の生活再建も同時に進めてほしいと 切に願います。関連情報 「がんばらんかいね穴水」穴水駅からの橋はシンボルロード 工事中写真看板のあたりを ひいて撮ると下のような感じです。震災で被害のあった岸辺の護岸工事終わっていました。右の柵のあたりが看板の場所。ご覧の通り 川面はまるで静止したように美しく。実際 どこか堰き止めて工事していたのかもしれませんが。でも、以前に訪れたときも どちらが上流かわからないほど ゆったりとした流れで・・。川沿いの散策路が新にできるのでしょうか?写真右側の道を歩きました。 散策路が整備されるかどうかは知らないのですが、そういったプロムナードがあってもいいなあ と 改めて感じました。工事の槌音以外は 騒がしさもない 能登の風景の中を歩いていました。 ですが ふたたび市街地に入れば 1軒建っている横は駐車場、その横は草地・・宿のおかみさんは まち作り協議会?に入っているとかで結構 熱心に話してくださり「(被害が多かったところは)3軒のうち1軒しか たっとらん。次 建てるまで駐車場にしてるとこと、もう次店再開できんから 売りたいが売れなくて 草地になってしまってる」というようなお話し。 区画整理事業では ある程度行政が買い上げるのと 減歩といって基本的には無償で土地を提供する手法の 二本立てで進められます。こういう再建の目処のたたない場合は、区画整理の手法は難しい面が出てくるような気がしました。むしろ再開発の手法のほうがいいのでしょうが、そうなると土地は取り上げられてしまいます。(区画整理事業は 地権者の地権そのものは保護されるのですが、借家・借地の住民が割をくうことになり、阪神・淡路の災害復興でも 結局 借家・借地の住民の多くが もとに戻れませでした) さて10月は まいもん祭り(うまいもん祭り)の牛祭りだったようです。冬のまいもん祭り・牡蠣祭りに行きたいな・・・。牡蠣は30年前も穴水の特産で おいしかったです!観光で穴水・能登が元気になれば!HP「穴水eyes☆よむら」から拝借穴水続編の2 穴水続編の3
2008.09.22
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工事中でしたが、外装はもう出来ていました。そこはかと木のよい香りが。補足画面 川沿いの道詳しくは 穴水続編4へ
2008.09.22
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まとめて掲載したいのですが、うまくいかず。まず写真の向きを正対に修正したモデル住宅です。1年半前(2007年3月25日)の能登半島地震で被害にあった穴水市街。そこで建設中の 震災復興ふるさとモデル住宅です。外壁は能登のヒバ材使用と書いてありました。同じく被害にあった輪島市門前でも、かつての街並みを思わせる新店舗で復興しているようです。なお 10月4日完成予定ですから、すでに完成しているようです。以下は計画図店舗兼住宅、わたしが見たときは花屋さんのイメージでした。なお 看板には「ローエル」~ローエル天文台に名が残る パーシバル・ローエル 明治期に穴水を訪れ紀行文「NOTO」を残しています。能登ふるさとモデル住宅について
2008.09.22
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ずーっと前には 金沢駅構内の屋台でご夫婦でやっていた「白山そば」。職場の先輩は、『入場券買って何杯も食べに行ったがなあ』と。そのころは、たしか列車にお鉢を持ち込むテイクアウトと お鉢を返す場合の二つの料金があったような。 20年前くらい前には屋台でなく 駅の中2階(ホームと改札口の中間)の一画でカウンターの店舗になっていました。ホームにも店舗ができていたようですが、現在は 待合室兼売店兼という一画でした。鉄道雑学研究所北陸支所立ち食いそば部門参照で。まさしく ここのお店 さまざまなトッピングあり。めかぶにしました。 (すいません 鉄道雑学研究所様へ 勝手に参照としました) どなたかが、北陸特有の昆布だしの効いたおつゆ・・と書かれていましたが、あらためて そうか 昆布かあ この味はと。しみじみ。 多分 うどんでもおいしいのでしょうが、今まで ずっと蕎麦を頼んでます。 しかし、不思議なのは 同じように うすい出汁(関東の醤油汁と違うという意味。あの 醤油汁はどう考えても だし・出汁というより・・汁・しる)、旨くちのおつゆですが 関西ではうどんはおいしいが 蕎麦はやはり濃い味の方がいいと思えるのに この白山そばは 薄味でもOK。水によるのかなあ。
2008.09.21
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神戸から5時間かけて穴水へ入りました。 午前中 須磨で震災モニュメントウォーク。かみさんの実家がこっち(神戸)の会社の同僚も子ども連れで参加。思わず仕事の話しになる。 大阪からサンダーバード。かみさんの実家に娘たちが小さい頃連れて帰ったときは雷鳥と言ってたかな。金沢で目当ての白山そば。いつもの味。ほんと30年変わってないのでは。昆布だしのきいたおつゆに ほどよく柔らかい蕎麦。 金沢駅前が すっかり再開発されていて・・・バスで穴水へ。内灘を過ぎたころ夕方から夜に。内灘の道路を走るのは20年以上ぶり。バンに自転車積んでいき、サイクリングロードを一部ですが走ったことも。実に爽快でした。やっぱり若かったなと。それにしても バンは道路のどこに停めていたのだ?あのころは走っている車も少なかったとはいえ。 19時過ぎに穴水駅前。先回は能登半島地震から一月半の5月の連休でしたから、1年4ヶ月経っています。駅前の旅館へ。ここは 基礎まで鉄骨を打っていて倒壊をまぬかれたよし。ですが よくみると 壁やタイルに亀裂が。「1年半経って なんだか疲れが出て」と おかみさん。 目指すは能登前幸寿し さん。なーぜか、旅館のおかみさんに頼まれ ばらんを持参。幸寿しさんは 能登半島 食旬旬のブログで拝見していたお店このブログ作者の娘さんは家のご用事で会えませんでしたが 名物の?有名な大将にたっぷりと能登寿しを握ってもらう。「このわた」も。お酒が進む。 きけば、神戸の知り合いも 幸寿しへ来ていると。震災でお店やられたけれど新店舗での営業、がんばってください。また 足を運びます。(すぐに、たびたび という訳にいきませんが)
2008.09.21
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被災地の情報が、全国規模では ほとんど報道されないようになりましたが・・。輪島・朝市のにぎわいは戻った由。ただ震源地の門前と、こちらもかなり被害のあった穴水はどうなのだろうか。そもそも 門前と輪島は20キロくらい離れていて※、言ってみれば 神戸の東灘と大阪の梅田くらいの距離がある。あの阪神淡路の地震の時は直下型ということもあり、武庫川越えたら 何の異常もなく 「昨日のような」風景が広がっていた。輪島でも輪島塗の貴重な蔵が倒壊したり被害が出たが、やはり激震地との差があるのではと推察。※門前町と輪島市は 前は別の行政単位。いまは輪島市門前と表記されています。今回の被災地は高齢者が多く、お金の支援があっても自宅再建に踏み切れないお年寄りが多いようだ。そうなれば過疎が進行し村・地区という共同体は機能できず、存続できなくなる。前には、「仮設(住宅)で『お迎え』をむかえるのか」ということをつぶやいた方もいた。23日には 今日を前にいくつか行事があったのですが参加できず。輪島門前の雪割祭り。穴水では いさざ(白魚の一種)の季節で まいもん祭りというのも開催中ながら残念。4月の末、5月連休に足が運べればいいがなあと思う。 被災地では、1年経ってようやく これから復興の第1歩が踏み出せるようになるという段階だと思います。ほんとうに「がんばらんかいね能登」です・・。そうだ 1年経ったし 森川さんの<くちこ>も季節ではないか・・。もちろん<このわた>も。地震のお陰で?というといけないが、1年前に 実に15年以上ぶりに仁久郎さんにお会いできました。 あれこれと、心の内で 何も出来ないことが どうにも という気持ちで 能登半島地震から1年・・。
2008.03.25
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北陸中日新聞の記事から復興半ば“助っ人”を GW明け 減少に拍車?2007年5月6日輪島のボランティアセンター 住民要請 再び増加 能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市門前町のボランティアセンターが、大型連休後の人手不足を懸念している。ボランティア数はピーク時の四月一日から減りつつある一方、被災者のニーズは増加。センターは「人手はまだ必要」と呼び掛けている。 (能登通信部・上野実輝彦) 市災害ボランティアセンター門前によると、地震発生後初の日曜となった四月一日に集まったボランティアは門前地区だけで計二千人以上。その後は減少が続き、今月五日に応募したのは約八十人にとどまった。 これに対し、発生一カ月ほどでいったん収まりかけた被災者からの要請は、仮設住宅への入居をきっかけに再び増加。人員に加え、廃材を運ぶトラックなども足らず、要請があってもただちに出動できない状況も出ている。 同センターは「仮設住宅へ入居して落ち着き、自宅を片付け始める被災者が増えたが、観光客の誘客のため『能登は大丈夫』とPRしていることで、手助けが不要になったと思う人が多くなっているのでは」と分析。「連休後はさらにボランティアの人数が減るかもしれない」と頭を抱える。 夫とともに仮設住宅に入居している女性(70)が「自分でできることはやらなくちゃと思って」として引っ越しを家族で済ませたように、高齢者が遠慮しボランティアを控えたケースも少なくないとみられ、センターは「もう一カ月くらいは人がほしい」と話している。※観光復興も必要ですし、もちろん被災者の生活復興も必要。連休後半のボランティアが門前で80人というのは・・。たしかに 仮設住宅に落ち着いて、家のものを引き出したり、これからの生活設計を具体的に考えたり ようやくできる時期でしょうから。これからが、人の手が必要という時期でもあり。報道も減少気味ですし・・。かといって観光地ゆえ「大丈夫、泊まりにきてください!」とアピールもせないかんでしょうし。正しく的確にな情報を どう届けるか ということでしょうが※
2007.05.07
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朝、穴水で「足湯隊」と合流。門前へ。被害が一番多かった道下(とうげ)地区(文字通り峠)。まったく屋根だけが残り全壊の民家。「立ち入り禁止」の赤札。阪神淡路の既視感しばし。 本堂が傾いたお寺のご住職。ご高齢である。「『がんばれ能登』というが、マラソンの最後にがんばれ、がんばれ いわれても もう足があがらんという時でね・・しかし若い人が(私でなく学生さんたちのこと)が来てくれると 年寄りも元気が出るでますから」 門前での高齢化率は47%とか。 一村が避難中の深見地区から山ひとつ隔てた鹿磯地区。日本海の波、外浦の波が常に打ち寄せ 内浦と対照的に 常に潮波の底鳴りがする。 「立ち入り禁止」と判定されたが、補修すれば住めると強気なお父さん。笑いながら「そこに広場が出来たから、土蔵崩れて ちょうど うまいぐあいに広場出来たから、夏は みんなでバーベキューやりましょう。ちゃんと来なくちゃいかんよ。」笑いながら・・。 午後は穴水の仮設住宅へ。以下は後述へ。
2007.05.05
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朝かみさんの実家(加賀地方です)を立ち、口能登(能登の入り口の意味)・羽咋へ。今回気がついたが 金沢-羽咋はちょうど大阪-京都。小松-金沢が大阪-神戸。気多大社へお参りして、すぐ近くの知り合い宅へ。あれこれ20年以上・・。再会を約して、ふたたび駅へ。和倉で乗り換え、のと鉄道で終点・穴水。20年前は能登線は奥能登・輪島と珠洲まで通じていたが・・。 駅から旅館へ歩く。旅館は、鉄筋なので倒壊はしなかったが地盤が落ちて玄関の板の間がべこべこ、配管をすべてやりかえるという。旅館の前の家は取り壊し中。商店街を歩くと傾いて「立ち入り禁止」の赤札貼られた家屋散見す。旅館のおかみさんに神戸からというと「阪神の地震に比べたら比較になりませんけどね」と言われて、かえって恐縮。 海の近く、中居の知り合いを訪ねる。地元での、中居鋳物師の研究が実り鋳物館ができていた。平成8年設置。内浦は波が穏やかにして湖の如し。 知り合い宅は木造、壁が少しすきま開いただけで、被害はなし。名産のクチコをおやつにお茶を飲むという贅沢。知り合いの運転で市街地を廻る。駐車場や空き地かというところが、じつは家屋跡。正面は大丈夫そうに見えても、後ろに回ると崩れていたり・・。阪神・淡路のときと同じ。地名でいうと川島町、大町など川筋の土地が集中的に被害。 再びお宅へ。話はやはり、地震と12年前の震災が中心。ご主人「日本ではどこでも地震にあうということやな」と。 知り合い宅にもお孫さんがGWを利用して来ていた。みんなで、コノワタ(なまこの内蔵の塩辛)をあえたもので、細く切ったクチコ(なまこの内蔵の乾燥品。味は絶品)を炊き込んだご飯を食べる。「もうこんな・・贅沢な」と恐縮するが、おかみさんは「いえ、上等ものではないですから」と。しかし、相当おいしい。 早めに辞去し宿へ。 宿近くの寿司屋へすこし寄る・・。お客は、みなさん震災の話。仮設へ入居したばかりらしいお父さん、寿司を持ち帰るのか大きな桶を置いて一杯・・。じっと話をきく。「いやあ、能登なんかに地震がくるとは」「地震なんて、一生あわんて思とったがに」12年前の阪神淡路での会話・・を思い出す。「死ぬまでになんかあるな。しかしィ(能登弁です)、みなケガのうてよかった」「火が出らんでんでェ」「火事のうてな」「火事あったら、こうはいかんよ。阪神大震災のように・・」等々。 「いま、人の身になって働くもんは立派なもんや。そが、ほんまのもんやぞ」「がんばらなんかいね、『がんばれ能登』や!」(新聞やテレビでもこれが標語です) そして「いやあ、ほんでも しびと(死人)が でんで よかったわいね」としみじみと・・。みなさん無言で肯く。 それを聞いた途端、なぜか涙が出そうになり(こりゃいかん!と)席を立ち お勘定を頼む。おかみさんが「さわがしゅうて、ごめんね」という感じで気をつかわれ、どちらからですか というので、「神戸からです・・(相手があら?という顔で、ききそうになったので)、先に思い切ってゆうときます・・震災に会いまして・・・」「それでお身内は?」「家族みな無事でしたが、まわりは・・」(あかん、涙出てきた!)「いやあ(←能登風に、やさしい感情を抑揚こめて)ごめんなさいね、(話きいてて)つらかったでない?」「とんでもない、がんばって下さい」と言って店を出る。 宿の部屋で、仮設住宅の家族に持ち帰るらしい寿司を横に置いて お父さんが しみじみと言った「しびとが 出んでよかったわいね」という言葉を思いだし 何度も反芻して ほんまやなあ と 繰り返し思い なんでか 涙が止まりまらない。いささかあんまりに自分でも どうにかなりそうだったので 風呂へ入り・・ようやく落ち着く。寿司は 地元で「にし」と呼ばれるばい貝と 「能登にきたらこれくわにゃ」と勧められた さざえ が美味しかった。穴水では「まいもん(うまいもん の能登言葉)祭り」あり 冬は牡蠣、春はいさざ(透明な小魚)、夏は さざえ。この地の復興のためにも 夏に再訪できるといいがと思う。宿のテレビで 被災地を元気づける七尾のだんじり祭り(青柏祭)等。
2007.05.04
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5月3日、ガンバ戦参戦できませんでしたが・・。惜しい?ドローというか、相手1名減にもかかわらず・・というか。帰ってきて新聞で知りました。 3日は かみさんの実家で。義父母はひさしぶりに揃った孫達と楽しく・・いつもながら、婿さん(私)は別にやることないし、女房はそこの「娘」にもどってまうし。ですが、ま、なかなかできん親孝行ですから。ローカルテレビで 能登の避難所がすべて閉鎖し 仮設住宅へみなさん引っ越しと。阪神・淡路はむろん、中越に比しても早い。
2007.05.03
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放送されます。「学生ボランティア 能登半島地震支援に 奮闘」ということでNHKローカル(関西地方) 夕方5時15分から(もっともっと関西)学生さんたちが スタジオ出演。また 神戸ローカルで毎週「震災メッセージ」が放送されていて、きょうは足湯隊創設者。夕方6時10分から昼の2時 元気列島では 震災で障害を負った神戸の少女 入学式新聞のテレビ欄ひらいて 昼から夜まで(夜は兵庫県のみですが)震災関連・・そういえば17日 震災で亡くなった方にとっては月命日・・。神戸新聞では JR尼崎事故2年の企画記事。少し前に 東京の知り合いが 「震災があって、その10年後に列車事故があって・・。10年間に これだけの厄災があるところって 他にはちょっとないのでは・・」と言ってました。それだけ 考えることが多い土地になったのかもしれません。
2007.04.17
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昨日、「中越・KOBE足湯隊」の能登半島派遣 報告会。大阪の職場を早めに出て阪神電車で高速神戸で下車し参加。定員50名の会場に60人集まった。足湯隊創設メンバーである吉椿氏に会う。最初分からなかったが、小生の隣に座っていた。阪神淡路大震災当時27歳、兵庫区で足湯を始めたのがきかけと知る。 後で、長田から今回の能登半島足湯隊に参加された(若い者に負けずマイクロバスをがんがん運転した)Hさんが勤め帰りにかけつけて・・、今回わが職場から参加した若者のことをきくと、行きしなは運転席のすぐ横に座って ずっと話していたらしく「いやあ、おもしろいですなあ。わたしの服の柄をさかんに質問していましたよ」・・役にたったんやろか。 穴水と門前に別れ、うちの者は穴水へ。穴水駅前がかなりの被害・・これもあまり報道されていなかった。以下は報告からの抜粋:深見集落に住む50代のお母さん。エプロンをつけて、眉間にしわを寄せながら、忙しく市から配食される食事の用意をしている。廊下を走りながら、「私も足湯して」と言い残して、また厨房へ。深見集落も高齢化が著しく、50代の女性もなかなかいない。数少ない「若手」の女性たちが、食事の用意など避難所のさまざまな仕事をこなしている。 仕事が一段落され、「どうぞ、どうぞ」と足湯にきていただく。「はい」と足を突き出し、私が「なかなかお忙しそうですね」「食事の用意も大変ですね」と、話しかけても「そうですね」と短い受け答え。あまり口数の多い方ではないのかな、と思いながらゆっくりと足湯をする。 何をお話しても、あまり反応がなく、特に何も考えずに「いやぁ、ほんでも海沿いのまちはいいですね」と言うと、「何で!?」と、さらに眉間にしわを寄せる。「いやぁ、だって海のもん、おいしいでしょ。」「そらそうよ、ここらはね、ワカメとか岩海苔がとれるんよ」「へぇ、岩海苔ですか、どないして食べるんですか?」「いや、あんた、どないしてって、味噌汁に入れてもいいし、乾燥させて海苔にしてもいいし、何でも食べれるやんか」「へぇ、味噌汁にか、うまそうやなぁ。海苔干すって、自分でやるんですか?」「当たり前やないの、こうやってちゃんと木の枠があって、海苔をこうやってしくねん」(中略) そんな具合に、海苔の干し方から食べ方まで、「あんた、そんなわけないやろ」と言われながら、いろいろと習った。最後に、お母さんが、「いやぁ、地震で大変なんだけど、あんたとしゃべって、なんていうか変な感じだけど楽しかったよ。家に戻れたら、冷凍してる岩海苔があるんだけれど。また食べさせてやるから」と。このお母さん、一時帰宅でなく はやくほんまに家に戻れるといいですね。(多分幸い、家は大丈夫なのでしょう。とすれば、よかった・・)なお、石川県に住んでいるとき冬の岩のり採りを見たことがありましたが・・・高い波が押し寄せる岩場に 沢山のおかあさんたちが 岩にへばりつくようにして 黙々と岩のりをとるのです。ところで、こうして報告会をきいている間、ホムスタの方も気になっていましたが・・みなさんのブログ拝見して・・えらいことになっていたと後で知りました・・。
2007.04.12
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